2011年12月31日土曜日

よいお年を!


1931年のことである。リンドバーグ夫妻は空路東洋へとむかい、遭難し、
千島列島の海辺の葦の中から救出された。
当時チャールズ・リンドバーグは、世界初の大西洋横断、単独無着陸飛行(1927)
の達成による、世界的ヒーローであった。
リンドバーグ夫妻は、東京で熱烈な歓迎を受ける・・・。

須賀敦子著。「遠い朝の本たち」 ちくま文庫刊。
須賀さんの精神と文章は、めったにないような感動を読む人に運ぶが、
いまの私には、13才の少女だった須賀さんが手にとった『小国民全集』の、
アン・リンドバーグの遭難に関するエッセイが印象ぶかい。
以下、「遠い朝の本たち」から、ほんの一部を引用してみよう。


(前略) 横浜から出発するというとき、アン・リンドバーグは横浜の埠頭をぎっしり
埋める見送りの人たちが口々に甲高く叫ぶ、さようなら、という言葉の意味を知って、
あたらしい感動につつまれる。

《 サヨウナラ、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、
もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教え
られた。「そうならねばならにのなら」なんという美しいあきらめの表現
だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺に
いて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ
だろうし、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。
それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬの
なら、とあきらめの言葉を口にするのだ。 》
(後略) 」    


一生という感覚は、
たとえそれが子どもの考えることであっても、
重みがあり長く感じられるものだと思うけれど、
われにもあらず、
さようならと、一生こう繰り返したということに、
いま、私は衝撃のようなものを感じている。
生れたときから自分は、呪文のようにくりかえしたのか・・・・・。
「そうならねばならぬのなら」
「そうならねばならぬのなら」

さわやからしく言うなら、べつの表現で、
花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ。
あーあ、ずっとこれでやっちゃったさ、なにも自分のせいじゃないと思うけど。
左様なら。
ああ、この日本人である私の、自分でもナットクできない傾向、感覚、感情は、
いまや、永遠の苦労をまねく呪文のようなものだ。
言語は人間の代理をする。
さようならという言葉は、ほんとうはもう、私たちの言葉じゃないにちがいない。

元気でね。
モトになる自分自身の勇気、激しい気性、陽気、粘り気、「気」こそがだいじ。
これならどうかなーと思うまに、時が2011年を越えはじめる。
こんなに、いろいろあったのに。
よいお年を!
健康でね。気をつけて。またちかくお会いできますように。



2011年12月30日金曜日

仕事おさめ


おーい、Tくん
海へいこうよ
仕事はきのうでおわりでしょ。
お休みは一週間
もうこんな時間
海につくのは午後おそく
いいじゃん、いいじゃん
いそぐ旅でもあるまいし
海のじゃぶんじゃぶんという音をきこうよ

どこかで乾杯しよう
お祝いをしよう
みじめな一年間が
きのうおわったのよ
新年をはさんで
おやすみは一週間
いいじゃんいいじゃん
オンボロぐるまはあるし
レストランでおかねつかっちゃおう

おーい、Tくん
見てよ
地球はきれいよ
あたたかい古着をきて
よもやま話もあって
一年がやっとおわり
海は鏡みたいに光っている
なみは凪いでる
夕陽がみるまに沈んでいく
息をすって吐いているだけでもしあわせよ





2011年12月28日水曜日

映画 未来を生きる君たちへ


「未来を生きる君たちへ」
スサンネ・ビア監督  デンマーク、スウェーデン
本年度アカデミー賞 最優秀外国映画賞、ゴールデン・グローブ賞 最優秀外国賞。

小田急新百合ヶ丘駅のKawasaki/ART/Center アルテリオ。
どうかアルテリオがつぶされませんようにと、私は願う。
企画がいい。居心地がいい。内装が文化的。北欧風というか。
むかし新宿伊勢丹ヨコにあったアート・シアターのモダン川崎版。
川崎えらいぞという感じ。

「Biutiful」と「未来を生きる君たちへ」と。
この二作品の共通点と比較。

MEMO
二作ともに、人間性の根本に迫る大作。
おまえだ、おまえが戦え、おまえがなんとかしろと
ひとりひとりの観客に語りかけるような大画面は、
さわやかにして、すがすがしい後味のものである。

監督は、一方は男であり、もう一方は女である。
それなのに両作品とも、ヒーローは、男性で父親である。
母親、女はただの脇役である。
父親が、素手で人類の絶望の手当てをしている。
しかも、ふたりとも基本が非暴力、暴力ナシの人だ。
私たちがフツウ使えもしない暴力に、ユメを託したりしない映画。

主役それぞれのヒロイズムは、
革命とか改革とか民主国家の与えうる治療方針とか、年金とか保険とかの、
日本人のこの私が未練たらしくこだわっている20世紀的希望の、
みるも無残な崩壊のもとで、発揮される。

良心的で、愛情ぶかく、正確なドキュメント。
しかし、である。
いくら手当てしようが、映画の画面に解決は、ない。
地球と人類は、ストーリイの枠の外側で、沈没の度合いを深めている。
二作品とも。

希望がなければ表現の必要はないものだ。
私たちの小さな身の回りのなんでもがそうではないか。
私のブログ、オランダでくらす娘の仕事、息子たちの演奏する音楽。
膨大な資金調達なしにはできない映画でさえ。

したがって、
二本の映画では、希望 がとにかく描かれる。
家族の存続再生というテーマを通して。
うん? 家族の再生が人類救済に繋がるという結論? 
どうしてだろう? それが現実的な回答なんだろうか?
真実はどこにある。
いっときの癒やしではなく、
確固たる希望に至る「作品の答え」というものは。

スペインとブラジルの「Biutiful」では、
人類が滅びないという希望(子どもの命)は、世にもひ弱な者に託された。
漂泊する移民の若い女と赤ん坊に。
大都会の隅で、もうすぐ死ぬ主人公に拾われた若い母親に。
デンマーク、スウェーデンの「未来を生きる君たちへ」では、
主人公たちが、家族再生という枠組みだけは、自力で取りかえす。
当然といえば当然だ。
教育と国家の保護を獲得している北欧の親子が、主人公だからである。

勇気は、愛から。
愛は絆から。
絆はもともと血から。
できる努力はまずそれ。
そこに未来が見えてくる。
そういうことなんでしょうね・・・・・・。


でもヨオ、なんどでもなんどでも おいらに言ってくれよ
地球が破滅するなんて 嘘ダロオ、ウッソ、ダロオ!?
-RC covers-






2011年12月26日月曜日

自己肯定感について


A さんへ。

年の暮れは忙しいのでしょうに、お手紙をありがとう。
ブログを読んでくださって、とてもうれしくて。
あなたはむかし、「しゃべらない男の子」だったのですって?
そんな感じはいまも残っていて、その女の子がお母さんになって
赤ちゃんを抱っこしているなんてと、微笑ましいです。
リソースルームであの子とすごした一時間ちょっと。
「ぼくの家、難しいパズルがいっぱいあるよ」
ポツリと彼が言いましたっけ。子どもらしい高い声でした。
でも彼はつぎつぎパズルをこなしながら、黙ってもいたのです。
だから、私も、思うことをあの子に言えました。
「あなたは本当にかしこいヒトなのね」
それが、ちゃんと伝えたかった、私の思うことでした。
機会もなくて、あの子と私はそれ以上親しくなることはなかったけれど、
自分は本当は賢い人間であると、苦しいとき彼が考えるかもしれない、
だってそれはホントウなんだから。時々そう思います。
よい思い出です。

似たようなことでお話しをしたいのは「自己肯定感」についてです。
お手紙に、そのことを考えたらドキッとして、急に不安になったとありました。
自分らしさや自信は、家庭ではぐまれた「自己肯定感」の上に育つという、
なにかこう理路整然みたいなホラ話に、あなたみたいな人まで
ヒョロヒョロひっかかってしまうなんて、どうしたのでしょうか。
「自分らしさ」「自信」「自己肯定感」。
一生かかってもつかまえられないウナギみたいなシロモノだと思いませんか?
それともですよ。
自己肯定感って、常時手ごたえあって当然の、人間建築の土台ですか?
それで、親とか教師だとかが建造責任をとるのですか?
本人の許可なしに? 工期を指定して? 
人間は、どこどこまでも人間で、コンクリートじゃないのです。
あなたは私がシッカリ教えたら、一年間でシッカリ自己肯定感をもてますか?
そんなばかな。

むかし、あなたはずーっと黙っていた。小さかったのに。
それは、幼いあなたが自己を肯定し、周囲を否定したからです。
そういうことができる子ども、強くて賢い子どもだったからです。
あなたの子どもは、黙りこくるかわりに、あなたに言いました。
「おかあさんになりたくないな。だって いそがしくて こどもとあそべないでしょ」
子どもと遊ぶことがヒトの最大の希望だと信じて疑わない、幸福なことば。
ひらがなで書いてみると、のーんびりしたひびきの。
あなたのお子さんは、子どもである自分を100パーセント肯定している。
あなたの子育てがとてもよかったので、はっきり不満をことばにできるのです。

「自己肯定感」という単語と、「環境不備」「児童不満」という単語をごっちゃにして、
ありもしない罪を引き受けてはいけません。
混乱をさけ、論理的にべつべつの道筋で考えてもらわなくては。
自己を肯定している子どもは、泣いたりわめいたり、自己表現もいろいろです。
自分がダメだと思いこんでいる子は、とりつくろってばっかりです。
身におぼえがあるでしょう?
ですから、自己肯定感という見たこともないシロモノに関するかぎり、
子どもからいろいろ文句を言われるあなたは、とりあえず安心してよいでしょう。
しかし文句の内容については、まあ謙虚に検討吟味して・・・・・。
きける話と、がまんしてもらう話があるのは当然です。

この人生は、3・11以後とくに、子どもが考えるほど簡単なものじゃないのです。
お母さんが小さいあなたのために戦うならば、子どものがまんだってだいじです。
いただいたお手紙みたいに私の手紙も長くなりました。
そう、冬休みをつかって、こころゆくまでいっしょに外を歩いてあげてください。
よいお年をね。


2011年12月25日日曜日

映画 BIUTIFUL


「BIUTIFUL」
2010年 イニャリトゥ監督。メキシコ、スペイン。

映画を観て何日かが過ぎた。
映画館では感想というものを持つことができなかった。
宗教に無縁なせいか私などはただもう、
画面からあたえられる「世界」をウ呑みにしてしまう。
あふれんばかりの悲惨、苦悩、無力、汚濁、孤独、無能力に見入って逃げられない。
やりきれないのに途中放棄など考えられない。
緊迫感のある映像とキャスティングによって、興味がかきたてられ、
大都会に生きる人々の餓えの恐怖、瀕死の生活にわが身を重ね、
これからいったいどうなるのか、主人公とともに苦しんで絶望するしか。

貧富の差は警察の出現であきらかになる。
警察が介入する時、
貧しい方は必死の動作で逃げまどい、
富めるほうはよけながら見物してしまう、旅行者のように。

スペインのバルセロナ。末期癌で余命二ヶ月と宣告された男。
彼には別れた妻がいる。躁鬱病に呑みこまれた女。
二人の子どもをこの妻からムリに引き離して、彼がくらす大都会。
死者のことばをききとる霊能者ウスバルの生業(なりわい)は、
移民の職業斡旋、まご請けの口入屋である。
彼のみょうな優しさ、彼の枯れることのない愛、彼の手遅れな後悔、
彼の際限のない受容。ちぐはぐな苦しみに満ちた怒り。そして無力の果ての死。

映画は若い、清潔な印象の若い男と、
すばらしく美しい微笑を見せる中年の主人公ウスバルの出会いからスタート、
長時間をかけて現代バルセロナをめぐり、最初の出会いに還っておわる。
男はウスバルが現実では逢わなかった、20歳で死んだ父であり、
父と子は、死の瞬間、いわば精霊の世界でしか交差できはしないので、
したがってこの映画は、
父とはなにか命とはなにか、という人間存在を問うことになる。

しかもウスバルという瀕死の、半端そのものの男を、
驚くべき容貌の俳優が演じているので、
観客はこの映画から二重の暗示を与えられることになる。
ハビエル・バルデムはこの作品で、
カンヌ映画祭主演男優賞、アカデミー主演男優賞に輝いたというが、
最初のワンシーンで、これからその全容を知ることになる悲惨な現代世界へと、
観客を、引きずり込んでしまった。
このキャスティングには驚嘆すべきものがある。

バルデムという俳優は美貌だろうか。
なみならぬ人間そのものの美貌である。
ハビエル・バルデムはルオーのキリスト像のような容貌をしている。

お定まりの垢じみた上下のスポーツ着で、このキリストの顔をもったバルデムは、
大都市バルセロナを右往左往、アフリカ人を強制送還させ中国人を大量死させ、
無力にもそういう破目になってしまう男の、複雑きわまりない悲嘆を演じる。
もしもバルデムという俳優の、仮面といいたいほどの容貌を盾にしなかったならば、
この映画は単なる記録でしかなくなったろう。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の力量を讃えたい。
ただもうそれだけしか、映画館の椅子の上では。
自分は旅行者のように、よけながら見物、という人生を送ってしまったのだと
それが本当に恥ずかしく思われた。


2011年12月21日水曜日

ア・ページ・オブ・パンク 12/17


真っ暗になった。
「ほら、ヨコ」
シェルターは満員。総立ちである。
入り口ちかくの階段でつつかれてヨコを見たら、
なんとすぐそこの壁に黒いクモ男みたいなものが張り付いているのだ。
「ア・ページ・オブ・パンクのボーカル」
ステージではもう派手な演奏が始まっている。
ここからマイクの前までどうやって行くのか満員なのに。
蜘蛛男は壁にかたまったままガンコにポーズをくずさない。
私があいた口がふさがらないでいると、
目のまわりマッ黒の白い幽霊じみた細身白ひげのサンタクロースが、
パッと振り向き、こっちによってきて階段の手摺をくぐり抜ける。
天井の鉄パイプにぶら下がり、空中を、おどろく喚声にあおられて、
マイク前へ、ステージへとすすんでいく。

たいした気晴らしではないか。思い出すとみょうにおかしくって。

フジロッキュウ、北海道のバンド、ア・ページ・オブ・パンク、GOROGORO、
そしてThe SENSATIONS。
12月17日のシェルターは、The SENSATIONSの主催ライブであり、
彼らのファンで会場がいっぱいだと聞いた。
その通りの光景だった。
混雑密集、立錐の余地もない。スゴイ人気。

「ロックンロールの基本理念は、イヤなことはイヤ ということだ。
思ってることが形を変えずに表現できる。
3分間に言いたいことを詰め込める。複雑なことは言わない。
たまらなく良いわけではないが、他のものよりはいい。
文章は与えられた環境がよければ有効性をもつけど。
だけどロックはパワーがあるから。
わあっと盛り上がれる、共通の基盤で。今の社会で、
目にみえる形でそうやっているのはロックンロールだけではないか。」
質問した私に長男が説明したことだ。まだ二〇世紀というとおかしいが、
初期のア・ページ・オブ・パンクをはじめるよりもっと前、
なんだか鋲だらけのカッコウをし、長靴、頭髪モヒカン風だったころ。
何年たとうが生活がどう変化しようが、この考えは彼の一部なのだろう。

この日のア・ページ・オブ・パンクの、とにかくの陽気。
場内の、いえばコンクリートみたいにかたまった数々の無表情、
まとまらないというかたちに沈殿した熱気。
The SENSATIONSにしか期待しないのだろう圧倒的満員の相手を、
ア・ページはゆさぶり、自分らの空気で、攪拌した。
まがりなりにも「イヤなことはイヤ」を共通基盤にするべく言語化、
ひるんだ場内は一度ばらけて解体するが、それを再度たてなおした。
パンク。参加者との強引な駆け引き。
そんなことができるなんて、どんなにかみんな楽しいだろうね。
終始おかしがらせて正体をくらまし、さっさと切上げてしまう奏法なり。

ついつい笑っってしまった。



2011年12月15日木曜日

しゃべらない男の子


遠く、近寄りがたい子ども。
まるで別の星に住んでいるような彼の寡黙。
しゃべれないわけではなく、しゃべらないのだときいた、ほとんど誰とも。
賢そうな大きな目。冷淡にみえる頬の線。ふっくらした唇をかたく結んで。
病気をしたので入院生活がながく、一年おくれて幼稚園にもどってきたのだ。
知的な人間になる、そういう約束がもう見えるような内省的な表情に、
なにか普通とはちがうものがうかがわれ、私はその子が好きだった。

ある日、クラスのみんなと遠足にいくことを絶対拒否したとかで
「だれもいないので、一時間ぐらい相手をしていただいていいですか」
あの子をよく知るチャンスなので嬉しかったが、不安であった。
私は社交的、相手は極端に非社交的。私は65才、あっちは5才。
ベテランの職員はこの子どもを相手に、いったいどんな時間をすごすのだろう。

・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・。
むろん、部屋のなかには沈黙がたちこめているわけで。
「本を読む?」・・・・・・「じゃ自分で遊ぶ?」・・・・・・・「ええと」・・・・・・・
・・・・・・・・・・。
私はしまいにヤケをおこし、子ども用トランポリンに腹ばいになってしまった。
長い時間がたっていく。
「向こうのパズルのほうがいいと思うわよ」 
「だってさあ、それ、あなたにはカンタンすぎると思うのよ」 
子どもは、かたかた動きまわっている。背の高い子だ。
あれで遊びこれで遊び、あれを出してこれを出して、それをしまってこれもしまって、
私を無視したまま、彼はだんだんに黒板に近づいていく。
ただ見ているのに飽きてきた私は、テーブルのほうへ歩いた。
あーあ、どうしたらよいんでしょ。
彼は絵を描いている。何本もの電信柱だ。上手である。
「ふうん、じょうずだね、電信柱?」
そうしたら不機嫌な声ではじめて口をきいた。
「木だよ!」

われながらいやになっちゃったけど、でも子どもが私のそばにきた。
だまって、大きな瞳をすえて私が難しいほうのパズルをやる手元を見ている。
なんでこうもだまっているのか。
この子は、一日中だまっている。
そんなにだまっているんだから、物音を私より何百倍も聴いているのだろう。
参加せず、聴いているだけの世界って、どんなものだろう?
私は、彼といっしょに黙ることにした。
幼稚園に就職してはじめて、「聴く」という作業に専念したのである。

詩人にして作家である人々、たとえばウィリアム・サロイヤンのような人は、
しばしば沈黙についてものがたる。彼らは、レストランで、病院で,
人生のつらい局面で、騒音が奏でる音楽に注目するのである。
そういえば、この子は、入院していたのだった。
幼い身で、病院がたてるたくさんの複雑怪奇な物音を、
ただもう聴いているしかない長い時間に耐えたのだ。

私の耳と子どもの耳が、おなじ音をきく。
・・・・幼稚園がたてる音は、いろいろだ。
風、砂、お鍋が落ちる音。ブランコの金具の軋み。あしおと。時間を告げるチャイム。
「あーっ、だめー、ごめんそれやめてーっ」
まるでテレビタレントみたいな、安手なさけび声。
こういう音をたてているのだと、ろくに考えないでつい集めてしまったモノの集積。
「幼稚園って、ヘンな音ばっかりする場所なんだね・・・」
だまってとなりで息をしている鋭い目の少年に私は言った。
どう改革することもできないし、今のままを受け入れよということばも持てないで。


2011年12月11日日曜日

滑稽な祈り


滑稽な思い出。

すこしむかし。
団地の集まりから、家にもどる途中のことだった。
無神経、失礼、ナニ様なのかアンタは、等々、等々!
カンカンに怒った私は、路上でバッタリ出会った知りあいの奥様に、
いま、こんな侮辱をうけたウンヌンカンヌンと言いつけ、
「もう頭にきた。あんな人、死んでほしい。ガンかなんかになればいいんだわ!」
この言い回しは、私のふたりの息子の、より激しやすい方が、
時々会話の途中にはさむ捨てゼリフで、彼からの借用である。
奥様は親切な方で、
ふーん、ふーんと大真面目に話を聞いて下さり、
「そうですね、それは本当に失礼だわ、あなたのおっしゃる通りです。
あなたが腹をお立てになるのはホントごもっともですよ。」
この方は私とちがって終始年下の私にも敬語の文体。
問題の解説までしてくださり、最後はにっこり、
しっかりと温かな声音で、次のようにおっしゃったわけである。

「あのですね」
ええ、と私。
「ではね、あなた。わたくしがお祈りをしてさしあげましょうか?」
お祈りって? と私はたずねた。
そういえばこの奥様は熱心なクリスチャンなのであった。
「ですからイエスさまに、あなたのお願いを叶えていただけますようにって。」
私の? お願いをですか?
「そうですよ」
なんておっしゃるの、イエス様に?
「ええ、ですからね、その方がガンになって、死にますようにって」
「!」
「お祈りしてさしあげましょうか?!」

「だって」と私は言った・・・私って無神論なのである。
そんなこと。そんなお祈りをして大丈夫なんですか?
神様やイエス様に、そんなこと頼んじゃってもいいんですか?
第一、きいてくださるかしら?
・・・・・会話はウソみたいに進行、奥様は目をくりくりさせてニッコリし、
「それは、わかりません、お祈りをきいていただけるかどうかは。
なにしろですね、右の頬を打たれたら左の頬を差し出すようにって、
そうおっしゃっるような方々ですからね。なんともわかりません。
でもね、こちらからお願いするのは自由でしょ、ね?」

ユメみたいなことが起こった。
そんな自由が、お祈りにあるなんて知らなかった。
「赤毛のアン」だとか「足ながおじさん」の世界ならともかく、
ここは、夢も希望もないうちの団地の灰色の路上だ、北風が吹いているのだ。
こんなおかしな会話ってあるもんだろうか。
なんだか傑作、笑えてきちゃって、私はこの冗談にノルことにした。
フンガイしていたからである。
「おねがいします!じゃ、お祈りしてください、ガンになって死んでほしい!」
「わかりましたよ!」
奥様は力づよい声でうけあい、私たちは左右に別れた。

「つぎこさーん、つぎこさーん」
家に向かう私を、うしろから誰かが呼ぶ。振り返ると、奥様が走ってくるのである。
彼女は息せき切って私に追いつくと、両腕にあまるほどの量の花束を持たせた。
大輪、深紅色のみごとな薔薇の花束である。
「いい?、これはね、深紅でしょ。あなたの怒りの深紅ですよ。ねっ!」
娘夫婦のために昨日、家の薔薇を伐ったのですけれどと奥様はおっしゃり、
「もう子ども達も帰りましたから。あなたの怒りの記念にさしあげますわね」
にこにこ!

こんなお話をしたところで、誰が信じてくださるものかしらん。
あれから何年もが経過し、ときに、私はお祈りの対象のダンナとすれちがう。
健康!



2011年12月6日火曜日

美術教育粗悪版 東京


家族新聞への投稿記事を読む。

ある日の一年生の図工の授業で。
各々が育てたあさがおを描こうという時、
先生はこう皆に呼びかけます。

「はい、まず画用紙を縦にして三等分に折りましょう。
そしたら、一番下の場所に植木鉢を描きます。
青のクレパスで描きます。
植木鉢から画用紙の上から2センチくらいまで支柱を4本描きます。
支柱ってシチューじゃないのよ。わかるわね?
黄色で描きます。
それが描けたら次はあさがおの花を描きます。
どう描いていいか分からない人は観てください。
黙って描きます。はい、どうぞ。」

出来上がった作品は似たようなもの。
個性が出ちゃった(!)子は、
「先生の話をちゃんと聞いてなかったでしょっ」
と、おこられます。ああ、気の毒。


どこの小学校だかしらないが、子どもにこんなこと。
あーあ・・・・。


2011年12月4日日曜日

わたしが見た美術教育 甲府


最初、甲府へでかけたのは、石部紀子さんにお会いするためだった。
大学時代の友人が、とてもよい美術教育をする人がいる、と案内してくれたのである。
甲府の、歴史のふるいその幼稚園をたずねると、
職員用多目的ホールみたいな場所に、石部さんの大きな絵が懸けられてあった。
やわらかなタッチの、あかるくて、心のひろそうな、自然な・・・・。
美術を担当する専門家として、石部さんは大事にされ、ところを得ているのだ。
それはとても印象的で、気持ちのよい光景であった。

二度目、私は職員をつれて石部さんの美術教育を見学しに出かけた。
進徳幼稚園では、私たちのために、石部さんの美術の全体がよくわかるように、
年少、年中、年長の時間割りを一日に組んでくれていた。
思い出すと、そのたびにうれしい。
教育にかける情熱が、まっすぐ鮮やかに表現されて、けちなところが微塵もないのだ。

さて。
進徳幼稚園の美術の時間のどんなことも、私には新鮮だったけれど、
5才児のクラスで見たことを、伝えたい。
石部さんは小柄で、疲れたような、いかにも主婦らしい人だけれど、
なんだかとても、すばらしかった。
彼女はまずはじめに、子どもたちに、これからなにをするのか説明する。
「みんなはもうじき小学生になるので、今日は筆の使い方をおぼえましょう」
つかう道具もはっきり、道具のつかい方もはっきり。
学校に行ってもこまらないように。
ごたごたしない。複雑にしない。単純なことだと、子どもに思わせるのだ。

子どもの道具の準備がおわると、そこからが芸術である。
そこからが、石部紀子、だ。
「今日、先生は、みんなに地球の色を描いてもらおうと思います」
地球ですって!
地球という私たちが住む惑星のかたち、それは地球儀でわかる。
そこに人間は住んでる。私たち日本人はここに、そしてみんなはいま甲府にいる。
石部さんが保育の小道具として用意した地球儀であるが・・・・。、
それは、めったにないほど繊細で美しかった。文房具であって芸術のような。
しかし、それも単純明快な説明で終わり、いよいよ本題の地球の色である。

「あのね、幼稚園にくる道でね、先生も地球の色を集めてきました。」
石部先生が子どもに見せた最初の地球の色は、あざやかな深紅の落ち葉であり、
「みんなも 《地球の色》 をたくさん知っているでしょう?」と石部さんは言うのだ。
このあいだ描いたけど大根、畑で掘ってきたでしょうさつまいも。
ピーマン、ねぎ、きゃべつ、みかん、犬、牛、トマト、人間も。
それみんな、地球の色なのかー。私は、おどろいちゃった。。
子ども達は、せっかちな子はせっかちに、ゆっくりな子はゆっくり、
《地球の色》を、自分が歩いた世界を振り返りながら、見つけていく。
子どもが、注意ぶかく幼い足どりで歩いてゆく世界は、
そうしてみると、なんて可愛らしく、いきいきとして美しいのだろう。

「さあ、それじゃ、これから自分が見つけた《地球の色》を描いてみて!」

紙は子どもが描きやすいような大きさ。
筆はきまっている。
水は必要に応じて自由に汲みに行っていい。
ポスターカラーが前の方に何色も並んでいる。
自分の地球の色にするには、色をまぜてもいいのだ。
深みにおいて万物を知り、そこに踏み込んでいく。
地球の色って、描けちゃうでしょうね。みんなの数だけいろいろと?


2011年12月2日金曜日

映画「かすかな光へ」 ー大田 堯


幼児教育でカンジンなのは、「きらいにしない」ことである。

たとえば美術、たとえば音楽、たとえば体操。
こういうものがだいっきらい、という子どもの心のなかには、
ニンジンやピーマンがきらいというのとは、ちがうものがある。
劣等感覚、おびえ、消えない心の痛み。
そこからはじまるだいっきらいは、けっこう一生もので、ガンコだ。

おとなになって、独立したとき、
苦手やだいっきらいがたくさんあったら、どうなる?
あとずさりばっかりする若者になっていたら?

そんな結果をまねくなら、可愛がるだけのほうがずっといい。

「かすかな光へ」は、
教育学者の大田 堯(おおた たかし)先生を描いた映画だけれど、
学者という職業のもつすばらしさを、ひさしぶりに思い出した。
先生は、今では93歳になられたのだという。
しかし、こういう方は学問が、
もうなんだか「大田 堯」という人間のかたちになっちゃっているので、
由緒正しいのにユーモラス、
教育学だって、先生の人生そのものなんだから、とてもわかりやすい。
製作者たちが、大田先生の素晴らしさをよく知っているからこその映画である。

人間は、みんなちがう。
人間は、変化する。
人間は、他者と関わることでのびる。
教育という仕事は、それをお手伝いするだけだ。
この原則を現場でどう具体化させるか、という教育学。

先生は立派な人だけど、べつにだれとも似ていない。
先生は、たぶん勉強が大好きだったから、勉強を中心に変化した。
先生は自分とはちがう土壌で生活する人たちに、たえず集まってもらって、
そういう人たちから、人間について学んだことを、学問にもどした。
教育学に。

学問的態度としての心のひろさと探究心。
人をこうだなんてきめつけない好奇心。
講演をきくたび、びっくりさせられたことを思い出す。
幸福そう。90歳をすぎても一生のユメを追って。
映画を見ると、つい自分にもできそうだとサッカクしてしまう・・・・。
でもね、だれにも真似ができないとなると、教育学にならないでしょ?




2011年11月30日水曜日

メタセコイア

いそがしい。
ちらっと空をながめると、メタセコイア通りでメタセコイアが、
赤毛のアンの頭の色みたいに(と私は思うんだけど)なってきた。
並木の道のあかるく派手な紅葉って、すばらしい。
あとで歩道橋の上に、走っていって、見てみよう。

あの大樹のしたで、ぼーっと本を読み、だれかが熱い紅茶をわたしてくれて、
すると、どこかの学者が彼方から幻影のように現われ、
ちょっと読んでる本の解説を・・・・・。
なーんて考えても、ダメのダメなのよ。
こういうのを、見果てぬ夢、というのだろう。

2011年11月28日月曜日

ごちゃまぜな集まり


土曜日、
15・6人のパーティーをひらく。
息子のバンド仲間とその知り合い、私の友人も参加のごちゃまぜな集まりである。
まあ、一日やってる。
時間がきまっているのは、一日のうち夜の8時だけ。
被爆体験をしたご近所さんにきていただき、放射能の内部被爆の話をきき、
具体的かつ有効な「対策」「考え方」「生きるということ」を、教わろうと。
あとは、ブラジル料理とヴェトナム、タイ風料理をたのしむ。
帰れなくなった人たちもいた。
ここの終電車にまにあっても、乗り換えにまにあわない。

それから、朝がきて、午前5時30分。
遥とリック・ヘンドリック・ミヒール・エンセリングがオランダへ。
娘たちがたっていったあと、しばらくしてやっと、
小鳥が二羽、夜明けの空の下で、きりもなく囀るのが耳にとどいた。
・・・・・あわただしいわかれ。
うまれてからずっと、ついさっきまでいっしょにいたような。
そんな気のする優しい娘だけれど。

パーティーにきた人たちは、
79才になるご近所さんに会えて良かったと、言った。
それはホントウにうれしいことだった。
みごとな老人には、後世にのこる本みたいなところがあって、
直接ながめたり話したりできると、こっちがピリッとして幸せだ。

今年の大仕事を終えた・・・という感じ。
息子の仲間が集めた会だから、知らない人もいたけど、
そこがめずらしいし、おもしろいし、楽しいのよね。




2011年11月25日金曜日

冬がくる

柿の葉っぱが全部おちた。
見ると、メタセコイヤ通りが、釘のサビみたいな色になっている。
秋名菊の花びらも、みんな落ちた。
いまごろになって、チョコレート・コスモスが、咲くのだ。
コスモスなのに、秋というより、冬の色。

日本の冬は暖かいらしく、
家のまえの藤棚の下のベンチがお気に入りらしいリックさんは、
JAPAN とかいう本を、冬だというのに半そでしゃつで読んでいる。



2011年11月23日水曜日

大爆笑

家のなかに、私ひとりだけしかいないのに笑った。
ひとりっきりだというのに大爆笑するなんて、
どうかと思うけど。

このあいだ読んだ「笑うふたり」の続きに、高田文夫著という雑誌を、
つい図書館で、
借りたら。

「銀幕同窓会」ー白夜書房 2001年9月初版発行

またしても高田さんの対談もの。
大瀧詠一さんがゲストで 『 あぁマイトガイ!』。
ほかのゲストが登場する日もある ー池袋文芸座復活ー 公開対談。
しかし、大瀧・高田コンビはゼッタイ無敵である。むちゃくちゃにおかしい。
ほかの人物の時だって(爆笑)と書いてあるから、
きいている人はおかしかったのだろう。
だけど『 あぁマイトガイ!』にはかなわない。

話のなかみのマイトガイ、小林 旭。
この、「最後の銀幕大スター」一世風靡の粗雑モーレツ。
小林 旭はひとりじゃおかしくない、こわいぐらいのもん。
だから大瀧・高田コンビの奇天烈な解説話芸あっての話なんだけど、
私だって小林 旭の映画をなんとなく二、三本観ちゃてたあの頃だ。
あぁマイトガイ。
これって、なにがなんだか知らなくても笑えるものかしら、話芸だけで?

30代以下の人に読んでみてほしいなーと思う。




2011年11月22日火曜日

一軒家のライブ


千歳船橋と桜上水のまん中あたり。
古色蒼然でもない、ごく中古の住宅地に、
しっかりした車庫つき木造の家をスイッと借りて、四人の、
なんというのでしょう、
ロックバンドのメンバーが住んでいる。

「生活の柄」ということばがタカダワタルさんの歌にあるけれど、
彼らの働く生活のガラが、いかにも感じられる雑然として!いい「家の中」だ。
道路をはさんで、夏だと幽霊でる?みたいな向かいの家屋。
その敷地の樹木が、こっちにはみだすように茫々と茂っているのも、
彼らの生活の柄をものがたるよう、そんなもんなんだなーまったく。

どういう幸運か、防音でもないのに音が外に漏れない幸福な家。
そこで、
同居ロッカー四人は、家の中で、練習だけじゃなくてライブをと。
この企画は人数限定らしい、大勢だと畳の上でも座れなくなるから。
演奏したのは五グループだった。
私なんかよく、そんなところに招待してもらえたと思って。
なんという贅沢。
音楽をきかせてもらいながら、イッパイのんで、息をすったり吐いたり、だ。

たのしい夕暮れで、わくわくとした一夜だった。
いつか、私の家にも、この人たちがきて、
よく知っている子どもの親たちにあってもらえたら、と思った。
彼らこそは、幼い子どもたちの、すぐその先をあるく人たちだからである。


現代の表現には、
いったいなにが重要なのだろう。
むかしはいつも、よくわからなかった。
どーでもいいじゃんか、と思ったことは一度もないんだけど。

けっきょく、
表現というのは、あそびがないと息ぐるしいから、
いろいろあってよいのだろう、
それでも、人の心をうつ作品が必ずもっている何か、というのはある。
わるいけど、やっぱりあるのだ。
いったいどの分岐点を通過することで、共感できる作品ができるのかしら。

あの日は、そういうことを、考えさせられた夕べでも、あった。

3・11以後、わが国の不幸は、とくに誰の眼にもあきらかだ。
しらない、わかんない、かんじない、たのしい、と言ったって、
厚く塗ったファンデーションの下の、日本のわが胸の底の此処に、
おわらない原発 がある。
歌だろうと説教だろうと、「カンケーねえ」ことを表現する場合にだって。

表現の原点は、いまや整理されてしまった。
対抗も、反対も、ぎゃく表現も、無視だってありだけど、
おわらない原点にドン感だと、自分がおもしろいだけ、になってしまう。
どうしてかって、
音楽をきくだけの、楽しみたいだけの (Tシャツのロゴを失敬すれば、
looser とでもいうんですか) 私たち観客が、
例外なく、悲しみとともに、おわらない原発の上に立っているからだ。

「抗議」しないなら「生活の柄」をとらえて語る。
どっちかを、まず。
そういうことかも、と演奏をききながら、自分も考えるのが楽しい。
生活の柄というワナのような枠にはまった自分を、
いろんな自由さで、のびのび語れたらなー。

タカダワタルは酔っ払いだったけど、ガンコだった。
自分ひとりで哲学をさがした。芸術人だから本もたくさん読んだろうけど、
吉祥寺の「伊瀬や」で酔眼朦朧・・・・・、
彼は偶然あつまった人々をながめ、タカダワタル的な表現で、世界を説明した。
ま、そういう時代。そういう生活の柄。ワタルさんだと。
哲学って、いかに生きるべきか、を表現にこだわってさがすことだと思う。


2011年11月21日月曜日

リソースルーム


2009年の5月といえば思いがけなく幼稚園の園長になって一ヶ月がすぎたころ。
園内通信に、私は「自分にもどる場所」として、リソースルームのことを書いた。
プレイルームと呼んでいたその部屋の説明はこうである。
「幼稚園では、職員室と調理室の間に、この部屋があります。クラスという多人数の中で、
ストレスをかかえすぎ、不安な気持ちになったり、安定を失ったりする子どもが、保護者と
担任の話し合いのもと、利用します。」

一ヶ月のあいだ勤務して、ざっと園内をのみこんだ時つくった通信だ。
園内の問題は、この部屋が安定することで落ち着くという判断を、私はしていた。

人間には、どんなヒトにだって、弱みがある。
会社でも役所でも学校でも幼稚園でも、団地の管理組合でもそうだけれど、
弱い者をそまつにしていると、いつのまにか自分の権利だって減ってしまう。
保育の現場のことでいうなら、
「クラスという多人数」にたえきれない子どもの心の痛みっていうのは、
いまでは会社勤めの一家の父親にまで蔓延した痛みだ。
まっ先に手をつけるべき社会問題として、保証し対処するのが当然だ。


さて、園内通信だけど。
左ページはリソースルーム担当保母の話
幼稚園は子どもの『社会性』をそだてようとしていますよね。
集団で、みんなで、遊ぶし、話し合うし、ね?

だから、支援の必要な子ども達は、
とても つらいんだと 思います。
集団が 苦手で。

だけれど
たとえ苦手でも、ここの保育のなかで、できるだけゆっくり、
たのしい園の生活を送ってほしい。
その方法のひとつが
ぷれいるーむ」です。

子どもによって、それぞれ
「プレイルーム」の使い方はちがいます、もちろん。
リラックスするために来る子もいれば、
クラスの中で 先生から話しをきくだけじゃ難しい場合、
かみくだいて、ゆっくり、時間をかけて 伝える。

保育を ていねいに 補う、そういうつもりです・・・・・。 


≪註≫   
ベテランらしい、やさしく考え深い表現である。                
幼稚園ぜんぶの子どもをこういう心がまえで保育できたら、
子どもたちはどんなに開放されるだろうか。
必要なことをぜんぶ言ってくれている、という声が
卒園していった子どものお母さんから、とどいたものである。


右ページは園長の気持ち。
さいしょ 幼稚園にきた頃 
おぼえなければならないことが多すぎて
頭痛 と言いますか
まー ガックリきまして おとななのに。
ヒヨコちゃんたちも、こうなのかな、とか 思ったりして。

それで くたびれると、

どこへ行ったかというと
 ぷれいるーむ
ちょっとステキな アコーディオンカーテンのむこうに
小さな机と 椅子があり、
誰も来なくて 静か。
しばらく ひとりでいると 落ち着く。 

プレイルームにはふたりの先生がいて それも、たのしいし。

そこは、あたたか味のあるお部屋です。
てづくりのウォルドルフ人形たちは
てづくりの人形の家にいて。 
この人形の家も、ふたつのテーブルも、バスの運転手さんが制作。
小型のトランポリンもあったりして・・・・・・。 


≪註≫) 
子どもとおとなの心の痛みはそんなにちがわないのだ。
それを癒やす生存に欠かせない安定した環境を、
おとなであれば自分がどこにいても、ていねいに整えるべきだと思う。
たぶん幼児たちのすがたから、直接学ぶのだろう、
リソースルームには、
人間の苦しさや悲しさをよく知るやさしい保育者が多く、
見ならいたいと思うことが多かった。


2011年11月18日金曜日

高田 渡的

タカダワタル的ゼロ、というタイトルのDVDがある。
企画は東京乾電池。俳優・柄本 明が、高田 渡(故)という老いたる歌手のファンで、
劇団を総動員、高田 渡のライブを主催もしたし、ドキュメント撮影もした。
楽しい。泉谷しげるも参加共演しているがダイナミックな名演奏。

高田さんはシンガーソングライターで、若いときの逆説揶揄ソング「自衛隊に入ろう」が
大ヒット、放送禁止になったりして有名になった。一生を通じいろいろな歌をつくったが、
マリー・ローランサンや山之口 獏の詩に曲をつけて、つまり他人の詩に曲をつけて
歌いもした。

私の家で朗読の稽古をして遊ぶ人のなかに、山之口 獏の詩をすごく上手に語る、
佐賀育ちの武蔵野幼稚園のお母さんがいるが、今となっては、
山之口 獏の詩は、タカダワタル同様に、知る人ぞ知る、というようなものなのである。

このDVDでは、獏さんの「鮪と鰯」を高田さんは歌っている。マグロとイワシである。

    鮪と鰯      山之口 獏       

鮪(まぐろ)の刺身を食いたくなったと
人間みたいなことを女房が言った        
言われてみるとついぼくも人間めいて
鮪の刺身を夢みかけるのだが
死んでもよければ勝手に食えと
ぼくは腹立ちまぎれに言ったのだ
女房はぷいと横むいてしまったのだが
亭主も女房も互に鮪なのだ
地球の上はみんな鮪なのだ
鮪は原爆を憎み
水爆にはまた脅(おびやか)かされて
腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
ある日ぼくは食膳をのぞいて
ビキニの灰をかぶっていると言った
女房は箸を逆さに持ちかえると
焦げた鰯(いわし)のその頭をこづいて     
火鉢の灰だとつぶやいたのだ

(1954年3月太平洋ビキニ環礁で
第五福竜丸が水爆実験により被爆)



人は、さまざまな繋がりのなかで暮らすものだ。
その繋がりが、まとまりをもって浮かび上がるのが、今現在である。

広島、長崎への、アメリカによる原爆投下の被害者は、三多摩にも住んでいる。
私のご近所さんに、
たび重なる米ソ核実験の影響下、仕事さきで(日本)内部被爆した方がいらっしゃる。
1958年以来、現在にいたるまでの、闘病。くらし。考え方。
その方の経験こそ、現在私たちが、教えてほしい、切実に知りたいことだと思う。

もうすぐ80歳になるというこの方の、
明るくて真っ正直、自分勝手なところのない人柄が、私はなんて好きだろう。
わが団地の植栽委員をずっと引き受け、年中作業着すがたでいる人で、
おはようございます、と会えば私は言い、
いつもお世話になってありがとうございます、と言う。
近所でいちばんご迷惑をかけ、お世話になっているのが自分かなーと。
私は、いまその方とわが居住区の、高齢化対策ボランティア相談会で同席。
高齢化ゆえの特権。お人柄と一体化した東北なまりがじつに気持ちよく、
ごいっしょできて光栄である。





2011年11月17日木曜日

外人その2

「おかあさん、わるいけどナイフとフォークとスプーンをかしてね」
あとで返すから、と遥がいう。
「日本のレストランって、箸ばっかりなのね。リックは練習してきたんだけど、
やっぱりムリみたい」
そうかなーと思いながら、持ち歩き用にワンセットもたせて、
「どんなとこに行ったの、レストランって?」
そうしたら牛丼屋だって。ナイフとフォークがあるわけないじゃないの。
うちでも、ひき肉ハスのはさみ揚げみたいなものをつくって、
うっかりと中皿と生姜醤油用に小皿しか用意しなかったら、
リックさんはナイフとフォークをせまい中皿の上で苦労してあやつっている。
「みないでくださいねって言ってる」
とおかしがって遥が。
血も涙もないやつで、すぐヨコの食器戸棚にお皿ぐらいあるのに、
そのまんま、メンドウはみないのだ。

リックは正確なところ身長193センチ、うっかりすると100キロを越えてしまう
のだそうだ。日本的サイズの室内を警戒して、椅子から立ち上がるとき、もう
首をすくめて、ねこ背になっている。そうしてみると、おなじタイプでも、リックの
両親の家はオランダサイズで、我が家よりタテが大きかったにちがいない。
物静かで、はずかしがりやで、とても礼儀ただしい。
見事な体格だから目が楽しい、いても気にならない。

食事中、遥がリックと私をふたりきりにする。
黙っているのもなんだかなので、内気なリックさんはタイヘンである。
私はエイゴがダメのダメだし、内気じゃなくても短気だから、しまいに、、
わたし日本語、リックオランダ語で、それぞれが自国語で話したらどうでしょう、
そっちのほうがスッキリわかるかも、なーんて非科学的なことを考えはじめる。
やっと戻ってきたから遥にそう言ったら、
「いや、ちゃんと英語で話をしてたよって、リックが」

やさしい人で、これなら娘は安心である。

2011年11月16日水曜日

外人用プチトマト


遥がリックとオランダから到着。
霧のため飛行機が飛ばずドイツの飛行場で六時間待たされたという話。
午後九時に着いたのでもうお腹はいっぱい。
ふたりとも元気で、にこにこしている。

そして朝がきた。今朝である。
娘によると、リックの朝食は冷たいままのほうがいい。
外人って、そうなのかー。
温めちゃいけないの? ときいたら、まあかまわないんだけど、と言う。
かまわなくても、冷たいほうがいいんだとして、冷たいものはあるから。
パン、胡瓜、ハム、そして昨夜三人で会話した時のプチトマト。

会話は、オランダ語と英語と日本語で行われる。
リックがいい人だから、これは愉しい。娘が通訳するのでラクチンだ。
さて、パンは長男の店のカンパ-ニュ。胡瓜とかボンレスハムはそのまんま。
そして冷やしたプチトマトである。友達が入院中の友人に携帯でききだして、
レシピを置いていってくれた、私にもできるはずの未知の食品。
オレンジジュース、ワイン、塩、ハーブなんでも、のミックスジュースをつくる、
そのなかにプチトマトを入れ一日以上まえから冷蔵庫で冷やす。
それだけの手間でよくて、すばらしくおいしいという評判の一品。

どういうことか、昨夜ビールをのんだ時は、
まだ、まったく、味がただのプチトマトと変わらなかった。
でも、一晩たった今朝はどうか。
「外人用のプチトマトなのよと、私が強調しているって話して」
遥はオランダ語でリックに説明し、自分もプチトマトを食べリックにも食べさせ、
「お母さん、あのさあ、これさあ、ふつうのプチトマトとおんなじ味じゃない?」
リックは、そうは言わなかった。
ヨーロッパ調で、礼儀正しく椅子にゆったり、しかもまっすぐに腰かけ、
「いや、ぼくにはハーブのかおりもワインもよくわかって、やはりおいしいです。」
と言っているわよ・・・と遥が言うから、
「あなたはとても親切な人なのね、感心したと私が言ってると伝えてちょうだい」

リックは、腕組みをして、わっはははとしばらく笑った。そして、
「ぼくはゲストなので失言したくないのです、まあ、よい人でいようとしています」
そう言ってると遥が言うので、私たちはみんな、プチトマトの前でふきだした。

そういうわけで旨みはこれからだろうに、プチトマトを全部食べてしまいました。


2011年11月15日火曜日

クリスマス・リース


上北沢に行くと、ついついそこの花屋さんをのぞく。
買うときも買わないときもあるけれど、とても楽しい。
店内の空気がシンと冷たくて。
たくさん用意された異国の花や木の枝の、種類や置きぐあいがよく、
花瓶もそうだがふつうのブリキのバケツまで素敵に見えてしまう。
水がなみなみと行き渡って、呼吸がラクになるという感じ。
クリスマス・リースをさがすと、大輪の薔薇で作ったリースが、
今日はひとつだけコンクリートの壁にかかっている。
値段が、ものすごそうだと思う。
「リースは、ここにあるものだけですか?」
臙脂色のカラーを3本とユーカリの枝を買ったあとでたずねたら、
奥の作業場のほうにありますと若い人が言った。

なんともいいのは、鶏頭の花のみ、のリースだった。
中原淳一的な、色合いもどっしりしてあやうく野暮になりかねないような。
臙脂、黄色、牡丹色。なるほど、これだってもすごい値段である。
「鶏頭が思いのほか、たくさんいるものですから、あれは」
初老のご主人が言う。この人が作業場でリースを作っているのである。

椅子をだしてもらったので、ゆっくりと腰掛け、
自分の家の壁によいような、簡素なリースを私は作ってもらった。
一時間ほどくださればお作りしますと言われて、嬉しくなって。
私が気に入ったリースは、樹の枝葉ばかりで出来ていて、台座は、
オリーブの枝を編み上げて作った、地味めなものだ。
そこに小さな茶色の実をつけたスギの大枝をななめに取り付け、
私はリボンが好きじゃないので、
その代わりに枯葉や松ぼっくりを多めに飾ってもらって、出来上がり。
可愛らしいけど野趣があり、野山の冬が家の中に引っ越してきたような。
どうです、ちょっと素敵でしょう?

2011年11月14日月曜日

一生のピーク


おばさんが言った。
「いま思えばさあ、子どもを育ててたころが、一番幸せだったよ」
「ほんと!? ウソだぁ!」
私が言う。
「なにがウソなもんかいアコちゃん、本当だに。あのころはさ、めた幸せだったよ」

学生時代、信州信濃追分の民宿に、毎年、夏だけお世話になっていた。
おばさんはその家の主婦だったから、18の私が38とか48とかになっても、
私をアコちゃんとよぶのだ。
追分村で夏を過ごすことがなくなってからも、親の手元からはなれた私に、
おばさんは林檎や手作りの味噌や畑の野菜なんかを箱につめて送ってくれた。
糠漬け絶品という、なにをやっても人一倍できる日本の主婦である。
子どもが大きくなると、私はボロ車を運転し、むかし沓掛いま中軽井沢の
街道沿いにおばさんを訪ねた。おばさんが始めたカフェ一らしき飲み屋で、
むかし楽しんだ料理をつくってもらい、裏の小部屋に泊めてもらったりする。
私はおばさんの料理上手、子どもへの献身、生活力にいつもおどろいていた。

小諸の方角だかに新しい養老院が建ち、そこにおじさんが入っているというので、
お見舞いに行ったこともあった。
おじさんは鉄道工事の人で畑と兼業、頑健寡黙な男だった。
おじさんが畑に行く時、泥んこの小型トラックに乗せてもらってついて行ったっけ。
たずねれば質問にこたえてはくれるが、たいがい黙ってなにかの作業をしている。
おじさんの泥のあとびっしりの地下足袋のしたで、地面や小粒の砂利の音がする。
黙ったまま、彼の日は経ち、彼の日が暮れる。そんな武骨で重たいような人が、
酒やけした声で、おばさんのいうとおりに、私をアコちゃんとよぶから、
みょうにちぐはぐな気がして気の毒のようであった。

おじさんとおばさんは一生すごく仲がわるかった。
こどもたちとも、心がかよう風でもなかった。

おばさんは未婚の若い私からみれば不幸な人であり、結婚して私自身が苦しくなって
からも、幸福とは言いがたい人生をおくっていた。
・・・多少わかるところがあっても何もわからなくても、所詮どうしようもないが、
ただ途方もなくこわい疑問を、おばさんからもらったように思う。
子どもを育てている時が一番幸せ、というのが真実ならば。
もしかして今の今が、私の一生のピークだとしたら。
いったいどうしようというのだろう、自分は?
考えに考えても、立ち往生するしかなかったが・・・・・・。
子どもとくらす時間のなかに、幸福というものの元素のキレハシでも見つけて喜ぼう、
そういう態度にはなったのである。



2011年11月13日日曜日

ききじょうず・付録


高田  谷さんちが火事で焼けたあと、庭で麻雀してたっていうのはなんなんですか
     (笑)     
谷   そのころ麻雀をよくやってたんで。
高田  なんだかわかんない人だね(笑)
谷   もうすることがなくなっちゃったんですよ。見舞いの人がやたら来るし、ここでうろ
     たえてもしょうがないし、町内会の人がテント張ってくれたんで、麻雀引っ張りだし
     て。    
高田  普通やらないよな(笑)
谷   冬だったんですよ。1月19日だったかな。で、焼け跡におまわりさんがずっといる
     んですよ。だから、テントのなかで小声で。
高田  小声でポン(笑)
   今日は俺、家焼いちゃったから、ツイてないからレート半分に下げて。
高田  俺ツイてないからって(笑)
   そしたらツイちゃったんですよ。ああ、倍にしときゃよかったと思って(笑)
高田  何考えてんだか、この人は(笑)
谷   でもお見舞いに来た人が「よかった」って。
高田  谷さん、元気なんだと。
谷   うん。
高田  ポンなんつってるから(笑)   
谷   でも、なべおさみが駆けつけてきたとき、相談したんですよ。麻雀は不謹慎だろう
     かって。
高田  相談しなくたって普通思いますよ。不謹慎だって(笑)
谷   「今日はやめといたほうがいいかね」って。そしたらなべが「何言ってるんですか、
     今日やらなくて、いつやるんですか」って(爆笑)



ききじょうずになりたかったら、環境も必要みたい。

2011年11月12日土曜日

ききじょうず


『笑うふたり』(中央公論社)という本を、古本屋で買った。
副題を ー語る名人、聞く達人ー という。
100円である。もとは1500円もしたのに。
語り手が、
伊東四朗、三木のり平、イッセー尾形、萩本欽一、
谷 啓、春風亭小朝、青島幸男、三宅祐司、立川談志。
この人たちと高田文夫さんの対談。
用心したのか、カバー絵・装丁がビートたけし。1500円でも不思議はないけれど、
あっというまに読了というのが、料金設定上の弱みだろうかしら。

なるほど高田文夫という人は、非常によい聞き手である。
間がよくてスピーディーでカンがいい。
語る相手との間に、自分の時間を使って創った歴史をもっている。
相手の専門分野を、高田的好奇心でよく調べ、よく知っている。
相手のどこが傑作なのかひと一倍心得ていて、待ちかまえるのである。

つまり、あいづちがいい。人とはちゃんとつきあう。つきあう相手は選ぶ、の三拍子。

「笑うふたり」の組み合わせがヒットした場合、対談に相互間の敬意がうかがわれ、
話術の妙が冴えわたる。ふたりも笑っているが、読んでるほうだって笑うわけだ。
語り手と聞き手が同格ということは、気持ちよくさわやかで、
組み合わせのもっとも成功した例が、聞き手高田文夫に対して、
谷 啓、青島幸男(当時都知事)、伊東四朗、そして三木のり平だと思う。

それなりにやっぱり、たいへんなことである。

2011年11月10日木曜日

amazing story


ーamazing story   または surprising story を話しなさい。
英会話の宿題。
まー、不思議な話があったら、ということでしょうか? 


2004年、私はひとりで飛行機に乗って、モスクワ経由でペテルブルグへ。
夏のことで手荷物のみの一ヶ月の旅である。
疲れきっていて、ロシア大使館にヴィザをもらいに行くのさえ苦しく、
出発するだけで大変。だからなんの準備もしないのだ。

何時だかわすれたが、ペテルブルグの到着ロビーは薄闇のなかにあり、
迎えにきた娘に連れられて扉の外にでると白夜であった。
・・・・・白夜。
考えてもいなかったのに、白夜というものがそこにある。

エレベーターで地下鉄の駅へ降りていく。大きくロシアらしい地下鉄である。
ここで降りるのよ、と言われて電車を降りた。
「ネフスキー大通り」と、遥が教えてくれる。
様々な時代の素晴らしい建築や運河に架かる古典的で豪華な橋。
そしてネヴァ河。
「さくらんぼ、買いたい、お母さん?」
ぼーっとしている私に、遥がきく。
もちろん買いたいというと、大粒のさくらんぼを二種類一キロづつも買うのである。
重たくないの? ときくと 「へいきだよ、うん」。
娘はロシア人みたいになったんだなあと思う。
私の荷物を持ってくれて、さくらんぼも持って、自分のバッグは肩にかけている。
遥の住居はスウェーデン人街とかにあるので、見物しながら歩いて行くのだが、
私はおかしな気になって、気分がどうもヘンだった。

橋を渡る。遥が話す。またべつの橋を渡る。遥が説明する。
ゴーゴリだとか、トルストイだとか、ドストエフスキーだとか、ツルゲーネフだとか、
それからもちろんピョートル大帝・・・・。いろいろな話。
私はヘンな気分だった、どうしてなのかわからないのだがおかしい。
なぜだか、ネフスキー大通りが隣人だったような気がしはじめて。
はじめて遠いロシアという国に来たのに、
自分はこの大通りを知っているのだ。
ネフスキー大通りのことを。

デジャ・ビュ。 既視感というもの。

遥について、霧のなかを歩いて行くような感じで歩き続ける。
通りは人でいっぱい、ロシア人で。ジプシーで。
突然、記憶がよみがえってくる。
そうだ・・・・、私の人生の最初の夢なんて、「ロシア文学者になる」ことだった。
中学校で将来を問われた時、そう書いた子どもの私。
高校生のころ濫読した数々の本、大学でとった第一外国語。
それらのページの中に、遥のネフスキー大通りが、あった。
どうしてこんなに完全にすべてを忘れてしまったのだろう。
信じられないことだと思った。
私は忘れてしまったのに、夢のほうが私をおぼえていてくれたなんて、
それがもっとわけがわからないことであった。

人生のどこかで、ねじ伏せ、沈黙し、諦めてしまった夢。
ああ、あの夢が私の本気というものだったのだろうか。
それが、いま都市のすがたをして悠然と片膝をついたのだ、という気がした。
amazing だった。




2011年11月8日火曜日

エイゴ

ちかごろ楽しかったのは英会話のクラスのポスターを作ったこと。

このエイゴというのが私には苦の種で、クラスは中級、ムリの無理で。
出席したところでほとんどチンプンカンプン。
たとえ話がわかることがあっても、「英会語」で会話、なんかできない。
じゃあ、なぜ初級じゃないんだと人はきくかもしれないけれど、
空席が中級にしかなかったのだ、そのときは。
いやーこまるな。
今のうちに、なにかムリなことをしないと記憶力が、という危機感。
まあいいか。
英語エイゴといったって先生だけが外国人、あとの出席者は、
どんなに英語がペラペラだろうと日本人なんだ。

大丈夫です、とみんなが言うから、そうなんだろう、と私は一応思った。
それはしかし、アバウトかつ超楽天的認識、つまり無考えというもので。
とにかく毎週教室に通っていますが、
月謝を半年分、先に払っちゃってよかった。
そんなことでもしなかったら、とてもつづかない。
だって私は、2時間、ほとんど日本語でたたかっているのである。
現象としては我ながらおかしいけれど、抜本的解決を神に祈りたい。

このあいだ市の文化祭に、わが中級英会話のクラスも参加。
さいわい先約があったので、うれしく欠席したのだが、
文化祭用にポスターをつくってもらえませんか、とたのまれたから、
「いいですとも」
日本語でうけあって、つくっちゃった。
できることが、ある、というのが楽しいところだ。
英会話のポスターだって、まあエイゴのうちというかんじ。

2011年11月7日月曜日

映画 人生ここにあり!

休日だから、下高井戸シネマでイタリア映画を観てきたと二男が言った。
「人生ここにあり」である。どうだったときいたら、
素晴らしかったそりゃあ、と言い、
あのね、感動のあまり涙がおれの目のふちまでせり上がって、
画面がうるんでなんにも見えなくなったから。
思わずタオルをだして涙を拭いたんだよ、その展開のたくみさに、だって。
うそばっかり。
私はげらげら笑ってしまった。
くたびれはてたぶかぶかの衣装で髪がのび放題、映画の登場人物とそっくりに
頬のそそげたルンペンプロレタリアートみたいな彼が、
タオルをリュックからだして涙を拭いたりしたら。
映画の登場人物たちが、観客席にいる息子に、こっちへおいでよと言いそうだ。
そっちへ行けたら、どんなにいいかと思う。
行ったり来たりする自由があったら。

2011年11月6日日曜日

小鳥が飛んで行って

コゲラが柿の木の幹を、つついている。
セッセ、セッセ、セッセ、・・・・・
らせんにまわりながら、忙しそうで忙しそうで、
早朝の朝ごはん いちいちシンケン
そうおもってたら
メジロがめずらしく大勢あつまってきて ひとやすみ
あわい抹茶のようなその色あいが
遅くはじまった柿の葉のらくよう(落葉)に
なんと似合っていることだろう
木の枝の上の
いかにも冬らしいたちすがた
いまごろこんなところにいるなんて、
小さなすがたが何羽となく、枝にとまり、
枝にとまりして
そしてふわり、そしてふわり
一羽 また一羽と飛んで、飛んで、いってしまう
ああ、小さくて あんなに軽いなんて

いいんだなあ



2011年11月5日土曜日

チラシを読んだ


八王子に市民による市民のための
食品放射能測定室を作りましょう!

きのう若いお母さんからこういうチラシを手渡された。

今朝になって、ゆっくり読んでみたけれど、とてもよい考えだと思う。
質問にこたえるかたちのチラシ。
食品放射能測定室を作るための、寄付金も、つのっている。
500円である。
500円の寄付をおねがい、というのはすごくいい。
ウンドーみたいなことはできないというヒトは、500円、ためしに出せばいい。
測定室がその無言の力で、沈黙の気持ちで、できちゃう。
できてしまえば、たとえ今は気乗りしなくても、いつでも使える。

ただし詐欺だとこまるから、よく知ってる人あるいは振込み先に振り込む。
よく知っている人のなかに、そんなことを一生懸命やってくれる人がいるなんて
プレゼントみたいなものだと思う。
わけを話せば、
祖父だとか祖母にだって、500円ならもらいやすい。
私はオランダから来る娘に500円玉をリックの分とふたつもらうつもり。
それぐらい、もらったっていい話でしょ。

500円玉が好きなヒトは多い。
大きくて、安っぽくなくて、500円玉限定だと貯金しやすい。
アストリッド・リンドグレーンの物語のなかでも
「さすらいの孤児ラスムス」が私は大の大の大好きなんだけど、
ラスムスは5ヨーレ玉が大好きだ。5ヨーレって5円かな50円かな。
こども心って、こんなものである。
ええと。この話はここでは関係がない。

チラシに書かれた質問は五つあったけれど、

どうして市民が測るの?

答え①②③のなかで (あのう、私は③に賛成なんだけれど)
福島第一原発の事故以降、
自分や家族の食事の安全は自分で管理して守る社会になってしまったから。


同じような機関はあるの?

答え。
小金井市ではチェルノブイリ事故直後から市と市民の手で食品放射能測定室を
運営しています現在は市民からの測定依頼が絶えないそうです。
全国各地で続々と市民測定室が誕生しています。

これはすごい!
チェルノブィリ直後からというなら、25年間持ちこたえたということでしょ。
市民税を使えばつぶれない、つくるのにさほどお金もかからない。

手に負えない混乱国家。
食品を自分で管理して自分で守るなんて、いったいどういう見通しで?
見通しもまた、わが貧弱なる頭脳で考えるっきゃない社会になってしまったのである。
頭のいいヒトたちが今日の事態をまねき、今日の事態を解決できないでいる。

それならどうするのだろう? どうしたらいいのだろう?
思案投げ首、お手上げの毎日。
でもその解決のひとつが、食品の市民管理、ということかもしれない。
少しでも協力して、少しでも良心的な、気持ちのやさしい知り合いをつくって、
大勢のヒトたちで具体的な相談をしながら、地道な解決をする。
私はそれが、とりあえずわかりやすくて一番よい方法だと考えているんだけど。

きのうもわざわざチラシをもってきてくれたなんて、私の家は遠いのに。
それだけだって、すがすがしい気持ちのよい顔が見られて、うれしいことだった。


2011年11月4日金曜日

1994年の手帳


物入れの中の茶箱を開いたら、引越しの際に投げ込んだまま忘れていた手帳が
でてきた。ぱらぱらめくると、読んだおぼえもない本からの書き抜きがある。

視よ冬すでに過ぎ 雨もやみて はやさりぬ もろもろの花は地にあらはれ
鳥のさへづる時はすでに至り やまばとの声われらの地にきこゆ 
無花果樹はその青き果を赤らめ 葡萄の樹は花さきて その馨わしき香気を放つ
わが佳糖よ わが美はしき者よ 起ちいできたれ 磐間にをり 断崖の匿処にをる
わが鳩よ 我になんぢの面を観させよ なんぢの声をきかしめよ
なんぢの声は愛らしく なんぢの面はうるはし われらのために狐をとらへよ
彼の葡萄園をそこなふ子狐をとらへよ 我等の葡萄園は花盛りなればなり

聖書を読んだのだろうか?
隣のページを見れば、月曜日、松沢病院とある。母を連れて行ったのだ。
1994年。子どもの学校に行き、仕事をし、日曜日は少年野球の当番。
どん底からぬけだしているのだ本当は。そう思いたかったのかしら。

良寛さんのことばもあった。

病気になった時には 病気になったほうがよろしく
死ぬ時には死んだ方がよろしく候
これ災難を免れる 妙法にて候

この時分の私って、やけくそだったんじゃないの。
たぶん、やさしい人になりたかったのだろう、でも、なんとしてもそうはなれなくて
こんな気持ちにあこがれたのだ。

君がゆく海辺の宿に霧立たば 吾が立ち嘆く息と知りませ
降る雪はあはにな降りそ よなばりの猪養の岡の寒からまくに

翻訳まで書いてあった。
よき人のねむるあの猪養の岡は寒かろう
雪よそんなに降りしきるな あの人の墓の上に。



2011年10月31日月曜日

西洋人は向日葵よりも背が高い


娘がリックと日本を旅行する。
何日かうちにも泊まるのよ、といったら、友人がそれならお掃除をといい、
ある日私のかわりにせっせと働いてくれたのだけれど、その着眼点がおかしい。
リックは195センチ?
堀 辰雄ふうにいえば、オランダ人はヒマワリよりも背が高い。
だから、低いところはともかく (久保さんはよくお掃除するから)、
高いところが問題だというのである。
たとえばドアの上。たとえば本棚の上。たとえば階段の天井のほう。
冷蔵庫や食器戸棚・の上。
そうかもしれない。見えないところは、たしかに蜘蛛の天下かも。
おかげさまで、いまや、うちはさりげなくすっきりしている。
それはそうと、
リックってさ、見えたとしても「見ない」ヒトなんじゃないの、冷蔵庫の上なんて。

オランダに行ったとき、リックの実家にご挨拶にうかがって、おどろいた。
迎えにきてくださったリックのお父さんのクルマがホンダのフィット(私とおなじ)。
これはまあ、ときどきある話かもしれない。でも家までがまったくおなじタイプだった。
三階五部屋のテラスハウス! あらためて案内されなくても、どこがどうなっているのか、
自分の家のようによくわかって、落ち着きもしたし、おかしかった。
あのとき、庭は別として、オランダの家のほうがちょっと大きいとも思わなかったから、
あの家でもリックはドアの仕切りに頭をぶつけたりしていたのかしら。

おんなじような家を選ぶ親をもち、おんなじようなクルマを買う生活環境で、
おんなじようにロシアにでかけてロシア語を学ぼうとして。
ヒトがヒトと出会う場合、それとは知らず、
かれらはおたがいにわかりやすかったのかもしれないと思う。

2011年10月29日土曜日

のんびり


のんびり
の んびり のんびりだ
しゅうめいぎくが ゆれている
きたかぜに
ガラスどのむこうで いちれつにならんで
こっちをむいて
かぜのないひは えのように うごかず
わたしがDVDで
サーカスなんかみてると
こまかくゆれて
みなくても みえてる 
みえてる 
みえてる 
とみんなでいってる
しろいはな はな
のっぽ
の んびり
のんびり
のっぽの
しろい
はな
はなしが
わたしにとどくのは
きいろい
ちいさな
芯のところの
せいかしら。



2011年10月27日木曜日

職員室の幸せ  2010


ある日のことです。
男の子がふたり、職員室の薬戸棚の前に連れてこられて、
それぞれ片手で頭をおさえて、泣きながら立っています。五才です。
ふたりを連れて来たのはフリーの先生、この人とっても忙しい。
「園長先生、おねがいしていいですか?」
彼女ははやくも両手に紺色木綿の湿布用ハチマキを用意し、
「痛かった、痛かった、冷やそうね」
と泣いてるふたりに言い、私にはこう説明、
「園庭で激突しちゃったんです、ケンカじゃなくて。」
ハチマキを渡すや、仕事にむかってふっ飛んで行ってしまいました。
さて、
残されたふたりがおなじ模様の保冷剤入りのハチマキをしますと、
可愛いふたりは、ぜんぜん似てないのにソックリの双子みたい。
泣きべそをおなじようにかき、言われるままに小さな椅子にこし掛け、
泥がついた片手で、それぞれゲキトツのあとを押さえているのです、シンメトリックに。
私が思わずアハハと笑っちゃったら、ふたりともおかしいらしく泣き笑い。
大丈夫かしら、すこし休んだほうがいいかしら。
「本を読んであげようか?」
べつべつの一風変わった坊やたちなんだけど、双子みたいにうなづくので、
私はヘンテコリンな本だよと言って、
レイン・スミスの「めがねなんか、かけないよ」を読みました。
この本が好きなんですね、私は。
一人がクスクス笑うと、もう一人も笑って、ふたりはゲラゲラ笑ってきいていて、
そのうち私たち三人は世間話、つまりこのあいだの歯科検診の話になりました。
ふたりともムシ歯があるんだとカミングアウト。
歯医者さんに行ったときの話になって、一人は「泣かなかった」と言ったけど、
もう一人は「ぼくは泣いた」と言って、思い出し笑い。
泣いたというのが自分でもおかしいのよねえー。
それからしばらくふたりにしておいたら、
ゲキトツしたふたりは、ごめんね、さっき、なんて言いあっていて、
それから、もう大丈夫になって、園庭にもどりました。

この話を園内の通信に載せた時、投書をもらいました。
こういうのでした。
『 痛みがおさまるまでの時間。
やわらかくて、楽しくて、ゲキトツもたまにはいいか、みたいな。
これが小学校だと、「気をつけろ」とか「保健室の先生が大変じゃないか」とかって
怒られて、子ども同士も、「お前がぶつかってきたんじゃないか!」となりそうです 』

この投書を読んで、、自分の子どもには、私もまたガミガミの一点張りだった、
と思い出してしまいました。



「めがねなんか かけないよ」 
レイン・スミス作  青山 南訳  ほるぷ出版


2011年10月26日水曜日

ランキン・タクシー


明治公園で行われたデモの日、
ランキンタクシーというヒトがいると初めて認識した。
息子といっしょだったからだ。
ランキンタクシーが出る(舞台)ならきてよかった、本当によかったと彼はにっこり。
大江健三郎さんも出るんだのに。彼の卒業論文は大江健三郎論だったのに。
「なに、それ? 知ってるヒト?」
大群衆の中だ、私にはランキンタクシーという音がとれない。にほんごか、それ?
「なんだって?」
ロックの世界の大物で、尊敬しているんだとかなんだとか。
息子ときたら、デモ行進が出発し始めるころ、
前方の舞台めがけてジャンジャン歩いて行ってしまう。
アナウンスがあって、
舞台にランキンタクシーが登場、いまから歌うとわかったせいだ。
こんな六万人もいるところで迷ったら、なにがなんだか判らなくなってしまう。
私は友人と、もうしょうがなくて群集をぬって息子が消えた方角へ進んだ。
原発反対の会場で、労働組合の旗の下をくぐって舞台の真下に行くなんて。
しかもロックの王様にむかって突進しているわけでしょ?
なんだかこう、こんなのってありなのという気持ちだった。

でも私たちは舞台近くに歩いて行って本当によかったのだ。
ランキンタクシーは、その日、圧倒的にすばらしかったから。
会場の遠くにいたら、マイクの調子はおかしいし、ご縁もできなかったろう。

後日、私はインターネットで、もう一度ランキン・タクシーの歌を聞いたし見た。
友人が私のパソコンに映像を送ってくれたからである。
こんな見事なものがある、と知らせたくて、私が若い友達に送ったメール。
「ユーチューブでランキン・タクシーを検索すれば『誰にも見えない匂いもない2011』
というのが出てきます。それ以外に非常に下品なパフォーマンスも出てきますが、
決してそれは見ないようにして下さい。かしこ。」
すぐに返事をもらったけど、それがおかしい。
「見るなと言われると、見たくなるじゃないですかぁ。」

2011年10月25日火曜日

サンジュウマル


その三人にあうと、なんとはなし春にであったような気分。
お母さんに連れられてくるお兄ちゃんと弟。小さいマル顔がもうそっくり。
お母さんもまたほっそりして、ふたりの息子にすごくよく似た小型のマル顔だ。
それで朝なんか、三人がむこうからやって来た場合、
私の目には、大中小のマル、マル、マル、が並んでということになり、
しかもこの三人は、一年を通し 「気候温順太平洋波平らか」 とでもいうか。
不機嫌だったこともなく、泣き顔だったこともなく、大笑いはしないけどいつもニコニコ、
情緒が安定していることといったらふしぎなくらい、どうしてなんだろう?
もちろん、子育てに適したおちついた家庭だから。
考えてみると、こういう家族はホントいまどきめずらしい。
かえってわけがわからなくなっちゃう。
それはそうでも、目が楽しいし安心安定、なんだか冗談も言いたくなってきて、
「あなた達のこと、サンジュウマルって呼んでるわよー、わたしは」
そう言ったらお母さんが、ええ、よく似ているって言われます、と笑いだした。
家族の都合なのかお父さんが子どもたちを連れて来る日もあって、
「きょうは二重マルで幼稚園に来ました、ははは」
四人で来るとちょっと壮観、1000円札というわけね、なーんて言ったものである。
一家のなかでこのハンサムスッキリスーツのパパだけが、面長だったからである。


2011年10月19日水曜日

小さな絵本美術館にて


夏のあいだ、休暇を取らなかった息子を説き伏せて、小淵沢へ。
すこし気分をかえないと、気持ちが開放されないだろう、と思って。

むかしは、原村周辺を出たり入ったりしていた。
八千穂村の村会議員だった友人、東京から移住した母親とふたりの子ども。
白州には従姉夫婦のすてきな別荘もあったっけ、家具工技場つきの。
ああ、十年はほんとうにひとむかしまえ。
現実のことだったと思うことが今となってはふしぎにできない。

はじめて、一番塚をまがったところの「小さな絵本美術館」へ。
月曜日だった。道がわからず到着したのは四時すぎで薄闇のもやがかかるころ。
自動車をおりて、アーチになった門をくぐると、
枯葉でいっぱいの静寂にみちみちた庭づたいに通路があり、
そのむこうにミカンいろのあかりがともる大きな窓、
事務室らしいその部屋には、若い女性がふたりと泣いているあかちゃん。
ふたりがおどろいたように立ち上がって、私たちのほうを眺めている。
あ、人がきた、なんて思ったのだろう、きっと。

フェリックス・ホフマン展(後期)開催中。生誕100年記念。
五時閉館なのでゆっくりはできなかったけれど、
すばらしく美しい絵や版画の数々におどろかされる。
気がつけば、
幼稚園に常備されている「オオカミと七匹の子ヤギ」はホフマンの挿絵なのだ。
「ヨッケリ ナシをとっといで」という絵本と カップ「ヨッケリ なしをとっといで」を買う。
ホフマンはスイス、アーラウの画家である。版画、壁画、ステンドグラス・・・・・・。
そんなことをいえばヘンだろうけれど、ものすごい腕前である。
帰ったらもう一度、絵本をよみなおしてみよう。

美術館の外にでると、ふたり乗りのブランコやハンモックのような遊具、
かしいだ地面をかこむ小川の跡、白樺が夕暮れのなかで、
いま見てきたばかりのホフマンの幻想的な絵のようだ。
なんて素朴で洒落た風情の美術館なのだろうか。

こんなところで育つと、子どもってどんな子どもになるのかなあ、と息子がいう。
うつくしい、童話みたい、きれい、かわいい。わるいものがない。じょうひん。
さーてね・・・・・・。
よく考えてみなくちゃならないわね。



2011年10月16日日曜日

自立ということ

9月25日(日曜日)の東京新聞に哲学者の文章があった。
・時代を読む・というコラム。
タイトルは
自立的な「我らが世界」を
著者は立教大学大学院の内山 節先生である。

イタリアの話だった。
今から三十年ちかく前のイタリアはどういう国だったか。
リラの下落。政権は不安定。毎週代わるみたいな首相。おおきな企業も少ない。
ダメだこんなの、というイメージ。
ところがである。
十年もするとヨーロッパの国々は経済不安と失業率の高停まりに苦しむ。
その時、よく見るとイタリア人の生活は「健全」で幸福そうだった。
けっこうヨーロッパじゃ軽蔑されていたのに。
どうしてか。
第一次産業などでくらしている人間が多いから、と内山先生は書いている。
自営業、職人仕事、地域サーヴィスなどなど。地域密着型の職業選択。
つまり大企業に依存している人が少ない、と。
つまるところイタリア人は、
「国の経済がどうなろうとも、そんなことに影響されない自分の仕事の世界を
もっている」、というのである。

「イタリアはうつ手がなくなってダメになるかもしれないが、イタリア人は大丈夫だろう」
という評判なんだとか。ホントウ?そんなことを考えてもいいなんて。

日本は打つ手がなくなってダメになるかもしれないが、日本人は大丈夫だろう。

そういわれるような、
そういう人種になれたら、どんなに安心だろうか。
しかし、そのために必要とされる「自立性と柔軟性」という内山先生の文字を、
どう考えたらよいのだろう。
依存性と硬直、無考えと保守、長時間労働と不勉強。甘えと強情。
その逆の態度を、自分たちの生活に今さらどうやって、とりいれたらよいのだろう。

「自立的な地域の確立」と書いてあるけど、なんかこうデキなさそう。がんばれない。
「私たちのコミュニティー」とか「くらしの創造」とか。自分の生き方の範囲なので、
とりあえずそれをやろう、できるかも、ということかしらん。

なんにもやらないより、腕まくりして始めるほうが、ずっと健康だ。


2011年10月15日土曜日

島津碧巖 近作書展


JR鶴見駅まで、島津碧巖(へきがん)氏の近作書展を拝見に。
バスにのって、多摩急行にのって、南武線にのって、京浜東北線にのる。
のぼったり、おりたりしては、歩く。
遠い、これじゃほんとの東北についてもおかしくない。

川崎ちかくで、斜め向こうにいるサラリーマンふうの若い男の子がつり革に
ぶらさがりながら、電車の床に崩れ落ちかかったのがショックだった。
ぱさぱさの髪と真っ青な唇、しろい顔色。貧血をおこしたのだ。
前の座席の女性が席を立ってやり、ふらーっと腰掛けたが大丈夫なわけがない。
次の駅で電車を降りていったけれど、ろくにごはんも食べていないのだと思う、
がたがたにやせているのだ。
お母さんがみたらどんな思いをするだろうかと、胸がいたんだ。
会社ではどんな働きかたをしているのだろう。
ちゃんとかまわれていたら、あんなふうにはならないものだ・・・・・。

島津さんのお書きになる「書」。
私の家で、書をたのしむお茶の会を、島津さんに来ていただいて開催できればと、
それも私のユメのひとつだ。子どもをもつ人たちが、いろいろな人や世界にふれて、
すこしは人間がつくるこの世をゆるすことができるように。
島津さんの「書」は、そういう心構えを、温かく清らかに伝えるものだ。
島津さんの童心と厳しさ、そのあるがままが伝わる「書」をみながら、みんなで話す。
やってみたい! 芸術作品を直(じか)に見るのって、とても楽しいので。

来年の四月の末なら、できそうですって。
てつだってくださる方はいませんか。

(お断わり  碧巖の巖はまちがいですが、直せないのでとりあえず)

2011年10月14日金曜日

どろんこ こぶた

とてもよくできた絵本がブックオフに。
どろんここぶた、という。アーノルド・ローベル作。
ローベルの絵本は「ふたりはともだち」が有名だけど、
どろんここぶた、が私はすきかな。
物語がいい。絵がとてもいい。翻訳もいい。
こどもと読むとき、これだと自分もたのしい。
しかも長くない。短くないのに長くないって、なかなかのこと。
そういう絵本はなかなかないのである。


「どろんこ こぶた」  アーノルドローベル作  岸田衿子訳
文化出版局ミセスこどもの本

2011年10月13日木曜日

バイキンマンがすき


けんかしたりケガをしたりで、たびたび職員室に連れられてくる。
三人兄弟の真ん中、自分だって小さいのにもうお兄ちゃんなのだ。
トラブルが続いているけれど世にも素直。心というものがそういうふうにできてる。

おとなの世界からやってきた私のお手上げでマヌケな質問。
「テレビ、みるの?」
彼は小さな顔に大きなメガネをかけてるんだけど、泣きながら、
「うん、ぼ、ぼく、」
ぼくは、ぼ、ぼくは、いい子だと、いい子な時だとゆ、夕方、テレビを見せてもらえる。
なんてりっぱな話しぶりなのだろう、まだ三才にしかならないのに。
あなたはテレビづけじゃない子どもなわけねと私は思い、
「ふうん、あなたのママは、いいママなんだねー?」
「うん、マ、ママ、いい、いいママ、なんだよ」
うなづきながら、また新しく泣きはじめた。
ママにあいたい、という。
そういうわけにいかないのよ、と私はまたもお手上げ、
「幼稚園がおわるまでもう少し、あの時計を見てごらん、あと1時間27分」
なみだの目が読めない時計をみて、ぼうぜんとしている。
どんなに悲しいんだろうかなあ、この子っていま。
「テレビだと、なにがすき?」
アンパンマン、と彼は言う。ハスキーヴォイスでもって。
「アンパンマンかあ。あのさあ、アンパンマンのなかのだれがすき?」
彼はタオルでなみだと泥をけんとうはずれに拭きふき、
「ぼくはね、ぼくね、ぼくはバイキンマンがすき」
「えー、これはおどろいた、どうしてなの?」
彼が、バイキンマンをすきなわけは、こうだった。
「ぼくはいまはまだ小さいんだけど、だけど、いまに大きくなるから、
きっと大きくなるから、大きくなったら強くなって、そうなるから、
そうしたらバイキンマンみたいにやっつける人になるんだから、
わるものたちををやっつけるんだから、きっとそうなるんだから、いいんだよ」

今はまだ小さいけれど、きっと大きくなるから、きっとそうなるんだから。
こんなに自然な希望にみちた声というものがあるだろうか?
ああ、ずっとそう思いながら大きくなってくれたらどんなにいいだろう!

2011年10月11日火曜日

ひとり植木屋


朝、起きてコーヒーをつくり、庭をながめた。
柿の木の落葉がはじまっっている。
園児のパパが「ひとり植木屋」さんで、去年うちの庭を手入れしてもらった。
それで柿の枝ぶりをみるたび、いかにも人柄がよさそうな人だったと思い出す。
お昼に、うちの息子がつくった水炊きを、息子の友だちとみんなで食べたっけ。
もっと何かおいしいものを出せればよかった。
ぼくは鍋物がすきなんですよ、と言ってくれたっけ。
作業しながらの世間話も、いかにも職人らしい物の見方がよかった。
ご縁で幼稚園の樹木の剪定をお願いしたのだが、いい仕事っぷりの人である。
お嫁さんのカラカラした明るさを思うにつけ、あのふたりが親であれば子どもは
きっと、ぶじふつうに成人するのだろうと思う。
それは細部をみないおおざっぱな感想だけど、
おおざっぱでふつう、ということほどありがたいことがあるだろうか。
親がじゃましなければ、子どもはこの場合は、それなりに育つのだ。
なにかに子どもがじゃまされた時、ちゃんと相談相手になれる親だということが
それだけが、だいじなのだとさえ、私は思うんである。


2011年10月10日月曜日

深夜


はくびしんは白鼻心というヘンな漢字のタヌキみたいなジャコウネコ科の哺乳類
なんだけれど。最近どうしたのか、まったく姿を見ない。
以前息子が卒論を書いていた真夜中、ふと食堂のガラス戸の外をながめたら、
タヌキの親子みたいなのが庭を通行中、あとから聞いたらはくびしんだった。
おたがいしっかり目があったからめずらしい。
自由な立場(野生だから)の親子の親のほうが、けっこう長く立ち止まって私を
見たが、けげん(怪訝)なふうである。怪訝とは怪しくいぶかしいということだが、
あっちが、こっちを、そんなふうに考えるということが、ねむかったせいかすごく
おかしく思われた。よく考えればあたりまえなのに。
はくびしんは鏡で自分を見たりしないだろうから、私のこともはくびしんだと思い、
なんでエプロンなんかかけて人んちの中にいるんだ、はくびしんなのに、と思って
るんじゃないか、とそういう気がした。深夜のできごとだからだろう。
垣根をみると、ももんがみたいな小さいのが?ながなが親を待つふうで、たぶん
子どもにちがいない。めずらしい。かわいい。

パンがあったかなと、私がそーっと動いたら、アッというまに消えてしまった。
あとはあとばかり、土管のそばなんかに住んでるそうだけどホントウ?

2011年10月9日日曜日

今週は「ルック チャップリン」


ディエゴ主催の「ルック チャップリン」 

フージーロッ久というバンド名は仮の名称だそう。
リーダーをフージーとかいって、
ステージに出てきた姿はぐにゃぐにゃのオンボロ、かけた眼鏡がズレてフッ飛んで、
マイクを投げればヘンなところに落ちるし、飛び上がったらせまいからぶつかるし、
ギターを持ちだしたと思うとすぐさまテレ笑いになり、
「さっき、練習の時、弦が切れちゃって、だれかかしてくれませんかね」
しかし、そこはもう存在感のある出番待ちの ”SEVENTEEN AGAIN”の
よく知られたリーダーがフージーにギターを貸してスーッとキレイにつなぐので、
彼らの正直な音楽が、あっと思うまに板の上を凄まじく反抗的に滑りだした。
納得拒否の生活感覚、怒りがあって邪気はなく、ガンコ清新な演奏。
チームワークも私にはよかった。
しめくくりにフージーがうたった歌がとても気に入って、たのんで歌詞をもらう。
こんなのだ。


おいしいごはんを食べよう
きみとごはんにしよう
よく噛んで残さずにね
強く大きく なれないよ

楽しいごはん
窓の外
誰かがミサイル放射能
大きくなったなら
強く正しく ならなくちゃ

気が遠くなるような夢のまた夢の中
気を強く持たせて花を贈れ
誰にも邪魔はさせないよ
ああだこうだ済ませて ごはんにしよう

気を引きしめるような音をくれ
気を付けておいでねと キスをくれ
伝えることを愛と呼んでみたら
ああもうこんな時間 ごはんにしよう

シャボン玉飛んで 壊れて消えた
暮らしは続く ごはんにしよう



この漢字の使いっぷりを見よ。このオンボロ小僧のことをフーテンの寅なら言うだろう。
おまえ、さしずめインテリゲンチャンだな、と。 ははは。

ざわめく心


先週まちがえたので、またも下北沢/THREEへ。
ライブである。
フージーロッ久(仮)   SEVENTEEN AGAIN   DIEGO

三つのロックバンドが競演。
いい集まりだった。

大学時代に読んだセルゲイ エセーニン(ロシア)の詩を思う。   

花よ、どうしてお前たちを愛さずにおれよう?
できるものなら、お前たちと仲睦まじく酒を汲み交わしたいものだ
においあらせいとうともくせいよ、ざわめけ
私の心に不幸がおこった
私の心に不幸なことがおこったのだ
ざわめけ、においあらせいとうともくせいよ

エレンブルグはエセーニンと同時代の作家だが
大著「人間・歳月・生活」のなかでエセーニンの詩をこう説明している。

においあらせいとうともくせいが樫や菩提樹のようにざわめくことができないことは
だれにもわかっている。それにもかかわらず、この詩はすばらしい。
が、さてなぜすばらしいかとなると、説明不可能だ。
そういうものが詩というものだ。


不幸に対して大胆に向きあおうという心と、向きあえない心とがある。
今日、私はむねがいっぱいになった。

2011年10月8日土曜日

ひっこぬく


歯をひっこぬいて、
それがきのう
ハーブの根をいろいろひっこぬいて
それがおととい
夜、玄関の暗闇に立って
ひっこぬく ひっこぬく
さきおとといはなにを?
おもしろいじゃない?

なんにも
ひっこぬかない日なんて
ないと思うけど
どうしても思いだせない 
ひっこぬいたこと
さきおとといって
どういう日だったかしら?
そんなに昔じゃない じゃないの

マザーグースをしらべたけど、ひっこぬく はなかった
ひっこぬくはないんだ
こげついたり ばらばらになったり おどったり 
とだながからっぽになったり はあっても
やれやれ
しょうがないもんだなー
秋なのねー

秋だと
秋にたどりつく
けっきょく


2011年10月7日金曜日

かわいいおばけ

こんなに哀れでかわいらしいおばけを、よく創れたものだと思う。
なんとも、かわいい。挿絵も、それをよくあらわして、たのしい。
あんじゅう、といい、くろすけという、まだこどもの妖怪である。
中篇を集めた小説だが、この子?が表題をつとめるのも当然だ。
山中湖で買った厚ぼったいハードカヴァーの本。
すじだては、どうもなじめないが、このおばけちゃんが出色。

よく書けたなあ、こんなかわいらしい、もののけ。


宮部みゆき 著   「あんじゅう」
中央公論新社 

2011年10月6日木曜日

敬老のお祝い会が好きだった


幼稚園では9月に 『敬老のお祝い会』 を行う。
なつかしい幸福な一日。
どんなことばで、説明したらよいのだろう?
その日、幼稚園のホールは、
にこにこしながら集まってくださった祖父と祖母たちでいっぱい。
一生を努力しながら生きて。子どもをぶじに育てて。そして生れた孫が可愛くて。
平和とはこういう現実の重みを言うのだと、そう感じさせるゆたかな光景である。
暖かさ、理解力。ひと時代を越えたという落ち着き、疲労への共感のような。
そう、いっしょにとしをとった、ということの有難さ、私にとっては。
ちいさな孫の幸福をよろこぶ気持ちがつくる、うれしい会だった。
2010年には、『敬老のお祝い会』が終わったあと、こんな感想文が届いた。
きちんと原則的にかんがえて書いてくださってと感動、園内通信で紹介。
この方と私はおなじ学校の子どもの親同士であった。



ぼくは昭和15年生まれで、
幼稚園は小さい組4才、大きい組5才の2組だけでした。
 それに時代が時代でしたので、園のあそびは軍国主義的なものでした。
 いつ頃からか艦載機の空襲が始まりました。
 その度に、大きい先生、小さい先生の指示で家に帰りました。
 帰り道は途中でアメリカの飛行機が頭上に来ていて恐ろしくて仕方ありませんでした。
 普段食べ物はどんなものを食べていたか覚えていませんが、或る日家に帰ると、
 ゆで卵がお皿に乗っていたのがとてもうれしかった事を良く覚えています。
 八王子は、敗戦の一週間ぐらい前にB29の空襲で焼け野原となってしまい、
 小さい組を修了しないうちに通園しなくなり、
その後どうなったのか今だに判らないままです。
 一年に満たない幼年時代で忘れられない事の一つに、
空襲で医療刑務所近くの岡に母たちと逃げた時、
 遠くに艦載機の群れの一機に高射砲が当たったらしく、
えんじ色の玉となったのがはっきり見えました。
 僕は、その時その飛行機に乗っている人は〈死んでしまった!〉と思いました。
 そして戦争は本当に嫌と思い、今でもその事が自分の心を育ててきた
強い支えになっています。
 今日、小さなかわいい子たちを観ていて、
いつまでも僕らのような経験を決してさせてはいけないと思いました。
 みんなのエネルギーをもらって、ジィジィ野性人に成ってこれから頑張ります。
(原文のまま)



としとった人たちの知力がこんなに必要な時代はない。
とにもかくにも平和にくらせた感謝と御返しを、みんながどこかでできたら、と思う。


山中湖に行ったら

山中湖に行ったら、びっくりした。
自動車を運転していて、なんとなく横目でみたら、湖の水が側道すれすれの
ところに来ている。もうちょっとであふれちゃうのか、と気味がわるい。
湖というのも、なかなか、こわいものだと思う。

もうひとつ、おどろいたことがある。
自衛隊のトラックだの戦車だのがすべるように走っていくのだが、それがなんだか
ケーキみたいに見える。出来立て。上等。かたちもステキ。それが、ひっきりなしに
走っていく。なんであんなに新品ばっかり?

二晩とまって、はじめのうちは雷の音かと、かんちがいしていたけれど、
朝八時から、ドカン、ドカーンと富士山麓で、あれは大砲だかなんだかの音なのだ。
一日中やってる。 一年中こうなんだ?
これはショックだった。

           (小学校の時からの友達のみっちゃんとふたり旅)

2011年10月1日土曜日

下北沢

「ディエゴ」は息子のロックバンドで、ライブの日、下北沢に行く。

下北沢は、ごたごたの仕方にセンスがあって、町がとても楽しい。
私は子どものころ、ちょっとこの辺に住んでいたから、知らない町じゃなく、
このライブハウスに行くのは、今日が二度目だし。
はやばや出かけて、古本屋とオールドファッションな珈琲屋に寄った。
少し本を読んで、あっちに行ってこっちに行って、いい調子で歩きまわって。
感心にも定刻に、目的の場所にたどりついた。
チケット。地下まで階段をぐるぐる。いつか見かけたソファ。
そのソファに無事こしかけた、というところまでは普通だったんだけれど。
あーあ。知ってる人がだれもいない。

来る日を一週間まちがえたのである。
それなら帰っちゃう、とソファから立ち上がるというのもなんだかで。
音響がいいライブハウスなんだし、
息子の大学の後輩だというヴォーカルの女の子が、とても親切だし。
ディエゴの日とまちがえたんだってと紹介してくれて、つぎつぎに。
まあいいかー。
おもしろいかー、まったく知らないロックバンドのライブというのも。
きいてかえろうかしらという気になった。

かわった体験。
こういうのもあるのねと、やっぱりおもしろくって。
和光大学の卒業生たちが集まって音楽をやってるわけで。
テクニックはいいし、どんなという興味もあり、音はそれはきれいだし。

まったく、なーんでこうも、まちがえちゃうのかな、私って?

2011年9月30日金曜日

オハヨウゴザイマスの女の子


朝、陽だまり門のところでしか、会うことがない。
印象的な出会いをくりかえすのに、
幼稚園の門を通ると、250人いる子どもの中に消えうせてしまう女の子。
日中、ときどき思い出して姿をさがすのだけれど、見つからない。
どこにいるのかなあと思うけど、仕事がいそがしくって、つい忘れてしまう。
クラスもよくわからない。名まえだってよくわからない。
毎朝会うのに、いまさらあなたのお名まえはなんて、もうきけない・・・・・・。

そうこうしているうちに卒園式の日がきてしまい、卒園証書も授与してしまい、
式典での園長挨拶もしてしまい、あれこれのうちに記念の集合写真もとって、
ざわざわざわざわ、ああ、あの子ともこれでお別れ、と心のこり。
そうしたら、
お父さんとお母さんが職員室まできてくださって、遠慮がちな声で、
「子どもとふたりの写真をとらせていただいてもいいですか」
よかった、このまんま終わってしまわないで、とホッとしたりして。

毎朝、地味な5才が坂道をお母さんと、ある朝はお父さんと上がってくる。
いろいろなオハヨウの挨拶を、いろいろな子どもがするのだけれど、
でも、この子ばかりは棒をのんだように固まって、深々とお辞儀をするのだ。
「おは、よう、ござい、ます」
初めてうたい上げるような挨拶をされた時、
うわあ、なんだか劇みたいじゃないのと思って、うやうやしくも深々と、
「まあ、これはこれはごていねいに、ありがとう」
私としては儀式の際の明治大正の祖母という感じかな、と。

ははは。これが一年中、ずーっと続いたからおもしろい。
挨拶がすむと、この5才は、かゆいようなおかしいような顔で離れていく。
ほかになんの話もしないで一年が過ぎる。私はうれしいけれど、いいのかしら。
ある朝、心配になってきてお母さんにたずねた。
「ほかでは、こんなふうじゃないの?」
「ええ、ほかのところではまったく普通にやってますよ」
「おはようって?」
「ええ、おはようって普通に言ってます」

愉快な、なつかしい思い出。
ね、あれはユーモアだったのよね、五才のかわいい女の子だったあなたの?



2011年9月29日木曜日

生きる証(あかし)という名まえ


幻影            中原中也

私の頭の中には、 いつの頃からか、
薄命そうなピエロがひとり棲んでゐて
それは、紗の服かなんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。

ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あはれげな 思ひをさせるばっかりでした。 

手真似につれては、唇も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見てゐるやう_
音はちっともしないのですし、
何を云ってゐるのかは、分かりませんでした。

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
目付きばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。


「幻影」という詩をよむと、証生という名の青年を思い出す。
ニュージーランドからイスラエルへ行き、そのルートでイラクに入国した若い
バックパッカーが、人質になって首を切断されたのは、2004年10月のことだった。
なんて遠いむかしのことになってしまったのだろう。ほんとうになんて薄情に私は
すべてを忘れてしまうのだろう。
香田証生という人だった。
生きる証(あかし)という、まごころに満ちた名まえを生れた子どもにつけるような、
まっすぐでけなげな、親御さんの彼は息子だったのだなあ、と。


2011年9月27日火曜日

コスモス


のっぽの秋明菊が横倒しになって、
なおしてもなおしても、うちのちいさな庭はくたびれた様子。
このあいだの台風で荒れたあとの手入れに、コスモスを少し買ってきた。
コスモスは、あんがい場所をえらぶ。
どこに住んだときも、私はコスモスを植えたけれど、うまくは育たなかった。
畑をみると、なんでもなく群生しているのが、とてもうらやましい。

こんど私がえらんだのは、チョコレート色をしたコスモスである。
チョコレートの香りがしますと、ラベルに書かれているヘンなコスモス。
そんなことをコスモスにさせるなんてとは思うけれど、
やっぱりとにかく、花のかたちはコスモスなので、かわいらしい。

チョコレートの色の花だから、洒落てるパリみたい、と行ったこともないのに
思うけれど、目をこらさないと、そこに咲いてることがわかった気がしないと
いうのが、うらみかな、まあちょっと。
各地各公園で花の巨大な群生が流行しているけど、
もしもこのチョコレート・コスモスが、そういう扱いをうけたとしたら、
公園の花畑は、たぶん炭鉱みたいになるのだろう。

2011年9月26日月曜日

濫読(らんどく)

永山駅にある多摩市の複合施設が私は好きなんだけれど、
ずっとまえ、そこで百円の古本を買った。
朝日選書 「20世紀とは何だったのか」 1992年
買ったはいいけど、、難しそうだからいつまでも読まない。うちの本棚
はそういう本でいっぱいだ。私は、はかない向学心?のせいで、読ま
ないのに買ってしまうのである。

娘のオランダの住居をたずねた時、居間の本棚に重そうな横文字の
本がびっしり並んでいて、半分以上はリックの本だという。
「リックは本を買うのが趣味」というような説明で、それも「ホロコースト
に関する本」をよく買うのだとか。
それにしてもすごい内容、すごい分量と思って、
「これをぜんぶ読んだのですか?」と、私が自分でエイゴできいたら、
上品で人見知りするオランダ人のリックも、エイゴで、
「いいえ、買って少しは読みますが、あとは途中で本棚にしまいます。」
と言っていると、娘がいう。
「ほとんどの本がそうですって、言ってるよ」
ははは。

ところで最近になって、
私は、「20世紀とは何だったのか」を、読みはじめた。
あーあ、出版されてから20年もたっちゃったじゃないの。
表紙に書いてあるのだから、今さらびっくりするのもおかしいが、
マルクス(経済学者)と、フロイト(精神分析)、ザメンホフ(エスペラント)
この三人の業績を通して、20世紀の社会変動を説明する試みである。
形式は対談。話し手は二人の精神科医、しかも座談の名手である。
だって、なだいなださんは、アル中の先生だ。
もう一人の小林司さんときたら、シャーロックホームズ研究家なのよ。
精神科医でよ?!
迷路を探偵が行く、みたいな本!
おもしろい!

2011年9月25日日曜日

映画ふたつ

銀座のシネ・スウィッチをさがし、「人生、ここにあり!」(イタリア映画)を観る。
人生ってどこにあるのか。ここにあるのが人生か、それともどこへ消えたのか。
それがよくわからない精神病者のきもちを、ちっとも否定しない。
そういう人間観と、そういう精神病理学を基本にできた映画なんだなと思う。

ちっとも否定しないセリフを数々書いて、しかもそのセリフを軸に物語を展開さ
せていく。物語が展開するとは、精神病者たちをとりまく社会もまた、セリフに対
応してかわっていくということで、そこが日本人と、まるでちがうな、というかんじ。

イタリアは精神病院を廃止、患者を拘禁しないで治療しようという国である。

銀座から、本の街を歩いたりしたくて神保町へ。
神保町といえば映画の岩波ホール。
看板をながめて、やっぱり映画のハシゴをしようかな、遠くまで来たんだし。
それで時間をたしかめ、チケットを買い、ロビーでお茶を飲み、
座席に落ち着いてスクリーンをながめたら、うわっ、みる映画をまちがえてた!

でもいいか。岩波ホールなら、まあいいや。
なんとか自分に折り合いをつけ、みたいと思わなかった映画を観ちゃった。
一日のうちの、ある時間帯だけべつの映画を上映するなんて。
複雑すぎるじゃないの。


2011年9月24日土曜日

プラネタリウム

空気がすがすがしくて、風が斜めに飛んでいく。
秋の風はいい。風が冷たいと、歩くのだって道をきくのだってスイスイだ。
たとえ渋谷なんかにいても、樹があるな、枝がゆれているなと思う。
信号だって四方に広がる大スクランブル、みんなが風といっしょにざわざわ、
大勢の人たちを運ぶエスカレーターに立っている人もいろいろで、上がる人下る人、
こういう秋の日にはみんなが、苦しそうに見えなくて、好きだ。

プラネタリウムに朝から行く、と思うと自分まで風のようだ。

朝から、夜の星空を見るなんて。
一生に一回!!
なーんてね。

2011年9月21日水曜日

朗読

朗読の稽古は楽しい。

以前、家の朗読の会にきていた人が
保育士の資格試験のための練習を、と。
えらんだのは「てぶくろ」、ウクライナの民話である。
「てぶくろ」といえば内田莉沙子翻訳、と思っていたけど、
今は、いろいろな 「てぶくろ」 があるみたい。
彼女が試験用に選んだのは、日本製の「てぶくろ」だった。
でもお話は似ているから、だいじょうぶ。

彼女は(試験を想定して)そっとイスに腰かける。
もともとエレガントで、ていねいなヒトである。
この何年か、月日はきっと彼女にやさしかったのだろう。
すこしだけれど、のびのびした人になった。
試験が前提だから、練習できびしくするのだけれど、
いちいち、かぼそい声で、
「ほんとにそうですね」
礼儀正しくも相づちをうって、それから上半身をおりまげて笑う。
ヘンな朗読をしちゃってと、自分で自分がおかしいのだ。
こうなると、がぜん稽古は楽しいものになる。
自己表現の門がぎぎぎーっと開く。
すなおで自由。教える私をおそれない。
「てぶくろ」のイメージが、
いきいきと彼女の頭に入っていくのが見えるようだ。

自分の欠点をおかしがるって、できそうで出来ない。
緊張する自分とたたかい、朗読する民話を理解しようとたたかい、
しかも表現する自分のことも楽しむ。
のびのび、のびのび。
こども相手の朗読ならば、よけいそうである。
なんとか試験までに、と彼女はいっしょうけんめいだ。
むかし朗読をはじめたころは、家にくると泣いていた。
友達の朗読をきくたび、自分が朗読するたび、
なにかで胸がいっぱいになって、声がでなくなるというふうだった。
あの硬い緊張感や余裕のなさを、この人はいつどこで、すてたのだろうか。
この何年かを、どんなにかゆっくりと、かしこく過ごしたのだろうか。
だれかが教えてできることではない、おそらく自分なりにそう学んだのだ。

「お芝居の台本のように練習するんですね」
そうね、まずはね。
じぶんがなにを話しているのかちゃんと識っていることがだいじよね。
忘れ物のてぶくろに、みんなで住んじゃって、楽しいなという話でしょ。

2011年9月20日火曜日

希望

明治公園で原発反対のデモをやるそうだ。
息子に、参加しようと思う、と電話をしたら、
このあいだのデモでは12人が逮捕されたんだよと彼はいった。
気をつけてね、新聞には出ないからね、知らないでしょと。

そうね、私はインターネットもつかいなれないし。
ぼやぼやもたもた、してるもんね。

警察はモヒカンカットの若者とか、そういう人をねらうんだよね。
母さんみたいな人は大丈夫だよ。そんなふつうの人を逮捕したらタイヘンだし。

モヒカンアタマなら、どうせ感じのワルイ不良だろうと、
だから原発に反対する若い人間を逮捕していいなんて。
3.11以降の日本で、それを国家がやるってどういうことか。
警察や機動隊は国家の方針で動く。
原発に反対すると逮捕って、どういう日本か。
原発のせいで、誰の未来もマックラじゃないの。
そんなひどい国ってありか。
しかも、新聞が警察の家来みたいに、それを知らせないって、どういうことか。

前の日、私が団地の親しい方から頂いたチケットで「敬老の集い」に行ったら
それは、梓みちよショー、だったんだけど、一時間前に着いたのに
会場の外まで行列だった。としよりは、はやく集まるものである。
それで明治公園には一時間半まえに到着。
わたし。友達。もうひとりの息子。
平和運動というと、60代、70代が主流だから、用心したのである。

それがよかった。
会場は立錐の余地もないというふう。
なにせ5万人集会に6万人も参加したのだ。いやまてよ。
私の大学時代の友人ふたりは、混雑のため駅から会場にたどりつけず、
あきらめて帰ったというのだから、じつはもっと多かったのではないか。
若い人が多く、こどもをつれた母親も多く、もちろん50代、60代も多かった。

連帯感というけれど、こんなホットないいものは、近頃ないんじゃないか。
なにしろみんなが、原発に反対なのである。
風船をもって、ハーモニカをふいて、ハイヒールで、登山靴で、女の子で、
白髪で、サラリーマンで、フウテンで、どこかの誰かで、とにかくだれでもよくて、
原発反対 。

のびのびできた一日だった。

2011年9月16日金曜日

「修繕の日」

歯医者さんが、「朝から食べてないんじゃ麻酔がちょと」「しないほうがいい」と、
奥歯を引っこ抜くはずが、「準備」になってしまった。ホッとした。
時間ができたので次に内科医へ。ここでは太ってはいけません、と言われた。
なにかありませんかときかれたので、ええと太りました、と答えたら。ははは。
家に帰る。自転車のパンクの修繕が終わっていた。ご近所さんがして下さった
ことである。幸運、なんでもできる人の近くに住んでいるなんて。

今朝は草取りもすこしやって、生垣のあたりがすっきり。

十時に互助会ともいうべきボランティアーの小会議に出席。
私が住む団地は約百所帯のこじんまりしたもので、七十代の人たちが素晴らしい。
会議は今のところ少人数であるが、これもゆっくりしたもので楽しい。
紳士だなあ、とみなさんをながめる。

新聞の運勢をみたら、ひつじ年
ー 人に生れて役に立たない人間は人間失格である ー
気に入らない。
役に立つ人ばっかりだと、お役に立とうと思う気持ちの立つ瀬がなくなっちゃうわよ。


2011年9月14日水曜日

ノート

むかしのノートをさがすが見つからない。
忘れた言葉、思い出したい詩。本も見つからない。

かたはらに 秋ぐさの花かたるらく ほろびしものは なつかしきかな    (牧水)



2011年9月13日火曜日

千坪を制す 


私の机は園庭に面したガラス戸の前にある。
そこから、遊ぶ子どもたちが見える。
・・・・千坪の庭のほんの一部、戸板一枚分の視界。
つばめやひばり、そしてひよこの子。

新学期になって、ひよこ組(三才児)にとても小さい女の子が入ってきた。
早産で生れた子ども。
健康に特別心配はないそうでも、あまりに小柄なので不安である。
なにかというと私の目はその女の子をさがしてしまう。
見れば終日無表情。笑わない。寒そう。つくづく小さい。
小さな手がぎゅっと担任をつかんでいる。
離そうとしたら泣いたのだろう。ほっぺたが涙だらけ。
ずーっとそんな調子なんだときいた。
まあ先生独占にはちがいないけど、無理もないでしょ。

とあるさんさんと春の陽ざしのふりそそぐ昼さがり、
あの小さい小さい女の子が、自分の横に来たでっかい(そう見えてしまう)坊やを
小さなこぶしでもって、ボカンボカンとなぐっているではないか!?
大きいとはいえ、なぐられてるほうだってまだ三才、入園一ヶ月である。
反撃がこわいなーと見ていると、彼は彼なり痛くも痒くも座ったきりで。
おおようにパンチされつつ、悠然とちょっかいしごと?を開始または再開。
小さい方はもうカンカンのかなきり声。
職員室できくと、あの親指ヒメちゃんには、たいした根性があるんだとか。

冬が完全に去って、夏も終わり、秋がくるころ、ひよこ組のこどもたちが
おちついたのがわかる。こども同士で遊ぶのだ。

あの子が視界をよこぎる。
ひとり、決然としてどこへいくのだろう?
仕事のある私は机の前に座ったまま考える。
手にバケツをつかんでたけど、バケツの中には砂が入ってるんだろうか?
それとも砂か泥をさがしにいったのか?
彼女が出かけた方角には、砂場とブランコと畑がある。
さてと。なが旅から、同じ姿がバケツといっしょに引き返してくる。
とっとっとっ。とっとっとっ。
あいかわらずの無表情、個性そのもののぶっちょうづら、あの一心不乱。
むこうでなにをしてきたの、あなたは?
園庭って、もしこの子になってみたら、どんなに広いところだろうかしらん。

砂漠かな。

かけめぐっている無数の園児をものともせず、ひとりで出かけようなんて。
なんと勇敢。
千坪を制す。
三才がそこをわがものとはやくも理解したのだ。
あなたの前途はきっと洋々ね。
そう思う。



2011年9月10日土曜日

ライブ 松元ヒロ『ひとり立ち』

新宿明治安田生命ホール 松元ヒロライブ。

ヒロさんのライブが好きで、以前はチケットを20人分予約し、みんなに
買ってもらっていた。ぜひ観てほしいぜひと、頼まれたわけでもないのに。
90分間を大笑いしてすごす楽しさ、である。

松元ヒロはひとり語りで、
今日の政治にかんする言いようもない私の、みんなの、
わが怒りわが腹立ちわが憤慨を、おかしな具合にじゃかすか、
もうありとあらゆる方法で、表現するのである。
なんてったってスカッとしてしまう。
それでいて、彼はぜーんぜん下品じゃないのだ。
今回は香月泰男という画家についてのコント、描写がとてもよかった。
耳から入ってくる文学。ユーモア。そして日本の歴史。

幼稚園で働くようになって、私はどこにも行けなくなった。
くたびれるものだから、働くだけにどうしてもなってしまう。
しかし働く日々は、それはそれでよいものだった。
ヒロさんが舞台上に描き出す世界、
日本という国のおかしさやゆがみ、かなしさや、理不尽な現実のなかに、
たぶん一番よいかたちで、自分も参加できていたから。
子どもはおかしく、親たちもおもしろくって、私はいつも笑った。

でもまたヒマになったので、今度は劇場にみんなをさそって、
みんなで大笑いしたいなーと思う。
よろこんだり、笑ったり、よくわかったりする時間をふやす。
そうやって、みんなで生きていくのだ!
気持ちはあっても、私は自分じゃ、あんなふうに語れない。
あんなふうに人を笑わせられない。
残念だ。
でも残念だけど、いいじゃないの、ヒロさんがいるから。

2011年9月8日木曜日

ワシントン ナショナルギャラリー展へ


アメリカのナショナル ギャラリーが今回はたくさんの絵画を
貸し出してくれたのだとか。
朝はやく美術館に行ってみたら、もう行列ができていたけれど
それでも比較的ゆっくり、見たことのない絵もたくさんながめて、
散歩のような時間を過ごした。

印象派、それから後期印象派とよばれる人たちの作品。
ロートレックの『カルメン・ゴーダン』を、とても美しいと思う。
小さい絵が金色の素晴らしい額に入っている。

働きどうしらしい、そんなに若くもない黒いブラウスの女。
灰色の荒れた手の彼女は、暗い壁を背景に、
棕櫚の鉢植えの前にすわり、光の来るほうを荒々しくみつめている。
けわしい横顔とまっすぐな姿勢の緊張。
ロートレックがとらえて描きだした外からの光が、
この女のあかい前髪をやわらかくふわりと輝かせ、
そのやわらかな光の放射が、暗黒を照らすランプのように、
絵の中の彼女の、灰色がかったきつい青い目、不満そうな口、
白い首や、寒さで赤らんだ頬や鼻、そういったなにもかもすべてを、
すばらしく美しいものに、
美しいとしかいえない姿に変えてしまったわけである。

とらえられた永遠。
きびしい労働のみが可能にした美の領域。

トゥルーズ・ロートレック (1864-1901)

2011年9月7日水曜日

おーい、遥さん

ははは。あーあ。 あなたに言われたとおり、毎日ブログにむかいましたが、 ブログのほうで、動かせないっ、とどうしてだかガンとしてゆずらないのよ。 個人で解決しろ、とあなたの弟が言うのでがんばりましたが、どうしてもダメ。 それでまたもや空白期間が。 やっと今日、たすけてもらって復活できたのかも。 私は元気で、あっちに行き、こっちに行きしてくらしています。 これでなんとかなるかどうか、「短い文で確かめてください」と なおしてくれた人が言うので、ご連絡まで。

2011年9月3日土曜日

憲法の集い2011 鎌倉 ①

4月9日(土曜日)
鎌倉九条の会はこの夕べ、井上ひさしさんを追悼する大集会を行う予定であった。
会場は鎌倉芸術会館、大船。講演者は、内橋克人、なだいなだ、大江健三郎の三氏。

私のことなど言うにあたいしないが、もう遠くて。
明日日曜日は会議だし体力が無い。行きたいのだが行けると思えない。
土日休まず、ぶっ通しで次の一週間働くなんて、今の自分にできるだろうか。
参加するべきだ、参加するべきだ。
やめようと考えては思い直す。
疲労で呆然としながらクルマを運転、午前中の仕事を片付けてもまだ迷い、
やっと決心がついて、チケットを手に入れ、大船へ。

3.11以来、
「破滅の日」が巨大な壁となって私たちの目前にそびえ立っている。
その感覚。孤独そのものの認識。
かつて大江さんに指摘された、いや大江さんだけではない、
学者、原子力発電所で働いて死んだ人、この団地の住人。
映画、芝居、講演会、買い求めて途中まで読んだ本も雑誌も。
友人たちとの会話、みっちゃんが個人で出し続けた反核家族新聞だって。
私たちみんなをかこんでいた、原発の恐ろしさを告発する論理の集積。

冷笑をうかべ、片頬をゆがませ、わずかに唇をひんまげて、
原発がなくてどうする、、米軍基地がなくてどうする、
あなたたちは今みたいに暮らしていかれないよ。
そういう男は多く、
主人がそう言うんですし、難しいことはわからないので、という女は多く。

私といえばいつも、なまはんかに位負けして。

この日、大江さん、内橋さん、なださんはどう語ろうと決めたのか。
作家。経済学者。精神科医。
彼らが加わる民主的運動、彼らの言動、彼らの書くもの。
私は知識と誠実をあわせもつ人の見解をきいて、その上でよく考えたかった。
原発に関する知識をもう一度、と期待したのでは無かった。
破壊の巨大さから言って、なんにもわからないなんて大人のいうことではない。

破滅だとしてどうする。
それが私たちみんなの、今日只今の正直で切実な疑問というものだろう。
私たちはそれでも生活し、子どもたちを育て、死ぬ日までは生きるのである。

なんにせよ、知らない顔ではいられない立場というものがある。
職員と親と子どもに対して、園長とはそういうものではないか。
共同体の人々に対して、年寄りとはそういうものだろう。
親であるということもそうだ。
父親であれば母親であれば、子どもに対してヒトはそういう立場に立つのである。
程度の差こそあれ、おとなにはおとなの責任がある。
ふだんはどこかのんきで、そんなことは思いもしないのだけれど。

日ごろ幼稚園は幼児の保育をになう、一見平和なばかりの現場である。
幼稚園には幼稚園らしいイメージというものがガンコに存在している。
日々平安を土台に、政治だの運動だの激動だのを徹底的にきらうのだ。
しかし、命は、日々の生活に支えられ、生活する者は明るい見通しを必要とする。

見通しをもちたい。日々平安につながるなんらかの。
亡き井上ひさしさんは、私たちにのぼれる階段を示す人だった。
実行がむずかしい高級な理論ではなく、と、ヘトヘトの私はいま一度ねがった。

2011年8月28日日曜日

そして「毎日が夏休み」

「毎日が夏休み」は1994年の映画だった。
私が住んでいる団地が、主人公たちの生活空間としてふんだんに使われている。
大島弓子原作のロマンティックコミックの映画化に、ちょうどよかったのね。
絵空事で綿菓子みたいなふわふわとした映画なんだけど、
住宅全体と遊歩道から裏の小山までが映る、その上なんでもかんでも今より新しい。
私が引っ越してくる七年もまえ。当然、木から芝生からベンチまで新鮮である。
でも、これじゃ撮影中は、大規模修繕の時みたいに鬱陶しかっただろうなー。

風景がむかし新しくって今はその頃より重厚。変ってない。嬉しいことだと思う。

2011年8月27日土曜日

ユウシュウ

八月がはじまり、八月がおわろうとしている。

歯の治療。クーラーの清掃。車検。配水管清掃の日。その他その他。
避けられぬトラブルを乗り越えた開放感があるわけだが、
ヒトを選び、技術をえらび、失礼のないように応対し、高額を日々支払い、
鎧(よろい)を脱げないというか、義務教育が一生続くような、コワイ感覚。

団地の掲示板に、雨にあたって色あせた「お知らせ」が画鋲でとめてある。
「毎日が夏休み」
明日の夜、BSテレビジョンで放映される映画の題名で、
私たちの居住区域が舞台につかわれている、という。

スケジュール闘争、一生成長、毎日達成感。ゆりかごから墓場まで。


2011年8月25日木曜日

弟くんのママ、おーい

「ふしぎなバイオリン」という単純な絵本がある。
絵も文もイギリスのクェンティン ブレイク。
私はそれを、山花さんの山荘の本棚で見つけて真夜中に読んだ。
ひらがなばかりの小さな本。

たのしげな彩色のへんてこなページのなか、
気のよさそうな太陽を背に、パトリックというわかものが、
バイオリンを買いにいく。
パトリックがあるいていくのんきな通りは、
とくべつきれいでも、きたなくもないんだけど、わさわさとにぎやか。
そのまんま童話のせかいの町なのである。
で、パトリックはすんなり、バイオリンを買っちゃう。
やせていて、しろい紙のかお色のウスバカゲロウみたいなパトリック。
買ったバイオリンのホコリをフッとふいたら、そのホコリはふわわんとホコリっぽく金色。
池のほとりの草にすわってひくと、へんてこりんなことに、
魚たちがいっぴき、またいっぴきと、空中をとびまわりだす。
その魚たちが、まるで幼稚園の子どもみたい。
ああ、子どもってこんなだったんだ。
で、つぎのページにいくと、男の子と女の子が登場する、カスとミックである。
このふたりもまた、私がしっていた子どもたちにそっくりである。
どこが? 
ああ、幸福になり方が、かなあ。

幼稚園のひだまり門であう人たちのなかに、
どことなくブレイクの描く絵に似たレインボウカラーの母子がいた。
5才の女の子と2才の男の子。
毎朝ふたりは長身のママにつれられてやってくる。
私はオハヨウと言い、弟の小さな手をとって握手しようとする。
かならず坊やが私にあいさつしようと騒ぐからだ。
ママは重い彼を片腕で抱っこし、黙って笑っている。
大きめな2才。歩く時もあれば、ダッコダッコと泣きわめく時もある。
ある日のこと、めずらしく女の子がママとふたりだけで登園してきた。
ええと、名まえがわからなくって、
「弟くんは? どうしたの?」
なにかを思う目をして女の子が、
「かぜひいて熱がでた、だから、おばあちゃんがみてる」
家においてくる時タイヘンだったろうと私は想像したが、
「うん、だいじょうぶだったの」
ママのほうは私たちの話しがおわるまでヨコで待っている、寡黙なのである。
以後、
「弟くん、今日こなかった、うちでおるすばん」
女の子は思いだしたみたいに、ときどき私に報告した。

ながい髪をおくれ毛いっぱい、頭のてっぺんでぐるぐる巻いてとめている。
ママとそっくり系の、胸から肩がむきだしになりそうなTシャツ。
フニャフニャの上着は首から背中のへんまでタレておっこちそうだ。
半ズボンで、というのが幼稚園の方針なんであるが、いつもタイツ。
タイツの上にだらだらんとファッションパンツ。
園庭で走ったら、ころんじゃうよー。
およそ私なんかにはよくわかんない姿かたちでママと出現するけど、でも。
よく見ると、こんがり日焼けして、くったくなさそう、じょうぶそう。
たとえドッところんだところで、ちょっと泣いたら立ち上がるはずの子どもだ。
弟くんにママを取られっぱなしだろうに、気にしてるふうもない。
基本が健康。
そう、これはもしかしたらたいしたことなんじゃないか、と思う。

まだよく舌のまわらない二才が、毎朝、私にオハヨウと言いたいのだって、
考えてみれば、内気で寡黙な母親の、心の奥にあるなにかが始まりのはずなのだ。
好意というものがなければ、オハヨウはない。

ドレイクが描いた子どもの世界には、塀もなければ、規則もない。
子どもや若い親をしばるいいわけは、いつだって、どこにだってたくさんある。
規則と塀のほうから、リクツを出発させたらおしまいなのに。

なんだか、弟くんのママ、おーいという気持ち。


                          ふしぎなバイオリン
                          文・絵 クェンティン・ブレイク
                           訳   たにかわ しゅんたろう
                          岩波の子どもの本

2011年8月24日水曜日

秋風や

在田さんは池田さんといっしょに来てくれる。
池田さんがはこんできたお土産の中に、葡萄もあった。
知り合いの家に沢山なったという葡萄。

        秋風にふくみてあまき葡萄かな   万太郎
                      
クーラーの清掃が終わってから素麺で昼食。お茶を飲み葡萄を食べる。
きのうは涼しくて風のいい日だった。
ああ、いい風だ、蝉がこんなに鳴くなんていいですね、
何度となく池田さんがいう。
私の家は土手の上だから、下から上から湧き上がるように蝉が鳴く。
ありがたいことに今年もそうだ。
だまって耳をすませば、じんじんじんじんと、力強いことである。

2011年8月23日火曜日

なんでもアリタさん

在田さんが来てくれてクーラーの清掃。
例によって徹底的である。
子どもが幼児だったころからの、ふるいつきあい。
継母が死んだ時も、施設から夜明けに電話をかけ葬儀の前仕度をたのんだ。
うちに帰ると、通路から庭や家の中まで、たのんだ通りの準備がぴしっとできていた。
ほとんどなんにも言えなかったのに。
思えば胸にせまることだった。

子どもに数学を教えてもらったこともあったっけ。
めったに会わないのに、家族のようなかんじ。
特別仲がいいわけじゃなくても、在田さんはあてにでき信頼ができる。
それも絶対にだ。
クセがあってガンコで古風。、頭脳明晰がすぎたのだろう、会社で差別されて、
あげく病気になり、挫折のなかで離婚し、かたくなな生き方を貫くものだから、
つきあいにくいことおびただしいサムライではある。

「なんでもアリタ という仕事をしたら? なんだって出来る人なんだもの」
失業してるんだよと苦笑いするからすすめたら、驚くべし彼はそれを完璧な仕事にした。
いま在田さんは飄々となかば自由に生きている。
私は彼と同い年で、おなじ時代を生きた。
可愛くないけど事実本来的に信頼できる、
そういう人格の男が育つ土壌が戦後日本にもあったのである。


2011年8月22日月曜日

聖高原納涼花火大会

花火大会って、うれしいものだ。
それはそうと。
よくわかんないけど、湖畔で配布されたチラシのタイトルが
「第47回 聖高原納涼煙火大会」
煙火大会だって。
花火を煙火なんて、聖(ひじり)湖の人たちってストイックなのね。
 ?
この字だと煙草大会だな、と読んで私の想像はふくらみ、
全国喫煙者悲憤大会をひらいたりしたら、とさらに想像はふくらみ、
その大会の酋長には宮崎 駿氏こそがふさわしい、と想像がふくらむ。
タバコというと、アメリカに行ったときの宮崎さんの憎まれ口を思いだすからだ。
なんでもアメリカという国家は、当時、禁煙禁煙とうるさくて、
アメリカが原爆つくるのやめたら僕も煙草やめます、と切り返したんだとか。

さてさて。
麻績村観光協会は大型花火を50本も用意。
雨がパラパラきそうなので、休憩なしで、ボンボン打ち上げる方針である。
アナウンスはしっかりしていて、ゆっくりていねい。
「33番、大スターマイン、スペースファンタジー、34番、四寸五発早打ち、
清流のきらめき」
ドカーン、ドッカーン
スターマインに、スペースファンタジーか。よくわかんないけど、
夜空に華やかにして大輪の火の花がつぎつぎ開く。そして五十本目が、
「超特大スターマイン ナイヤガラ大瀑布、がんばろう!日本」
ていねい且つ、けなげである。
「宇宙への旅」「ときめきの時」「湖畔のそよ風」「魅力の華芝居」「絆の輝き」
「夏空のオアシス」「なでしこの躍動」「天体観測」 等々、等々。

見ていると、
四寸一発という、くりかえして出現する花火っていかにも山花郁子的。
こういう花火があると、大会はさらに楽しい。
湖面ちかく、なんども打ち上げられて、じゃんじゃか中空を飾る四寸1発は、
「空中の花園」「清流のきらめき」「無限の夜空へ」
同じ花火なんだけど名まえが陽気に変化する。 こだわらないところが山花的である。
火花の先はニジの七色、こども用の絣(かすり)みたいで可愛らしいし風情がいい。

終盤になって、とうとう雨が降り出す。
「母が亡くなったトシ(100才!)を考えると、私なんかあと二十年ぐらいしかないのね。
こうしてはいられないなと思うんですけどね」
さっと髪を一振り、山花さんは湖畔の観光協会とかいう建物の方へ。
明日の帰京にそなえて、タクシー会社の電話番号を調べる気なのだ。
超特大スターマイン、ナイヤガラ大瀑布にふりかかる雨もなんのその、
「いやがらせしてるのよねっ」
夜空雨雲にしたお天気にむかって、ぎゅっと一声。
すてきな山花さんは、だれに言われなくても、もとから、がんばろう!日本である。



              「大好きなおばけちゃん」いくこさんの老々介護
                   山花郁子著   日本評論社 2002年

2011年8月21日日曜日

雨の日曜日

みっちゃんのスケールの大きい母上を訪ねる日。

六〇年も前の小学校の入学式。
この人は記念写真撮影の時、 横にきた小さな子どもに、
カリエスからやっと回復した瀕死のみっちゃんをグイとおしつけて頼んだ。
「みちこです、なかよくしてして。おねがいね。」
必死のお願いは命令にちかく、ビックリしてこわくて、「ウン」 と私は言った。
いま思えば、
あの時、あの必死の母親は、まだとても若い人だったのだ。

ブログ熱中症

オランダに住んでいる娘が、
毎日投稿してくれると有難い、と言う。
それでお母さんが無事かどうかわかるからと。
短いのを書けたほうがいいよ、と息子も言う。
「長いのも、短いのも作れるほうがいいよ。」

短いじゃんか。
と思うのは自分だけらしい。
ブログは短文が、電報とか短歌とかの字数のほうがいいらしい。
短文をできれば毎日。

そういえば、
ブログを開けたのが嬉しくて、毎日パソコンに向かい、
ある日など、ご飯も食べずお茶も飲まない、七時間半もブログ。
次の日、朝から目がまわって、すごく気持ちが悪くなった。
病院に行くと、
「屋内熱中症ですね」
日射病に、部屋の中で、かかったのである。
そのうえ元来パソコン不理解、 機能操作でつまずくから空白十数日間。
「そうするとブログを読んでくれる人がいなくなるのよ、お母さん」 
娘に言わせると、
なんでも人はブログを習慣のように開いて閉じるのだとか。

短文をスッキリ。
それが私の課題、と。
今日のこれだって、ブログ的に考えれば、また長文なのね。

2011年8月18日木曜日

山荘で夏休み

山花郁子さんの山荘は聖(ひじり)高原の林の中にあった。

水の流れのあとを残す黄土色の小道に、風が吹く。
水音を隠す草の斜面、
蕗(ふき)や、こごみ、秋には小さな栗の実が落ちるという低木、
家の裏手のどこかには、たらの芽が取れる木もあるという。
なんてすがたのいい雑木林なんだろう。
春に咲きだす山の花も、今は、緑のくらい影にうもれている。
小鳥が手を貸したらしい実生まじりの木々が、
ぐるっとこの小さな山荘をかこんでいる。

聖湖畔の花火大会。
バスが別荘に住む人たちを迎えに来る。
林を出て少し歩くと、
パイプ椅子や飲み物を抱えたおなじみらしい人たちに会った。
山花さんが、挨拶をしている。
「霧がねえ、出ないでくれるといいんですけれど」
「おととしかな、あの時は花火がまるで見えなかったですもんねえ、霧で」
見上げれば空模様をかくす木の枝に、
ついさっきまでの稲光と落雷と豪雨のあとがある。
樹木の上から金色の光がにさしこんで、
不意に強い雨がやんでくれたのだ。
「なんだか意地悪するのよね」
「ホント、じらすんだよなあ」
ここでは、お天気さんは「ある人物」という感じ。

バスが山道をぐるぐる降りて湖に着くと、パトカーが見えた。
あらあら。
よその県の乗用車が、坂道から転落したのだとか。
警官が二、三人。なにもできていない様子。
道路はゾロゾロ雑踏だが、緊迫もしていない。
倉庫の前庭の石の階段のわきに、車がドスンと無事に落ちていた。
脱出したのか、横で若い人が子どもを抱いてあやしている。
小さい湖の、うっかり事故。ぶじでよかったー。
落ちた場所は坂道なしの石段のみ。車は階段をヨジ登れない。処置なしだ。
お巡りさんだって手をこまねいているしかないわけである。
でもよかったとホッとして、のんびり。
「あした、クレーン車だなあ」
花火大会の開始がせまっているので、
人の群れは花火見物の場所取りへと、進んで行く。

どこに陣取りをしてもこれだと花火はよく見える。
小さな湖。人出もなかなかで、ほどよく賑やかなのだ。
たこ焼き、焼きそば、お好み焼きにトウモロコシ。人気はやっぱり焼き鳥。
どの屋台にも行列ができている。
打ち上げ開始は七時だから、あと十五分。
さむいぐらいの風に吹かれて、ゆっくりのんびり、しかもワクワク。
私たちは、バスから遠からぬ湖の縁に、持ってきたシートを敷く。
湖からやってくるブイブイした風。
雲はないけど、星も見えない空。
霧は向こうの林のてっぺんにひっかかって、ここまではこない。
なんとはなし、お天気にいじわるされそうな雲行きである。
バスのそばにいたほうが安全である。

ドッカーン!!


花火大会が始まった。


2011年8月1日月曜日

幼なともだちと絨毯

オービュッソン
   仏蘭西中部の町。絨毯製造で有名。

エイキンの童話のなかでも「おとなりさんは魔女」がおもしろいと思うけれど、
そのお話のひとつに、オービュッソン製のじゅうたん、というのが出てきた。
えっ、あれっ、これをもしかしたら私、持ってるかも?
それはみっちゃんのお母さんがフランスで買い、ずっと壁に懸けていたもので、
何年か前、それこそ魔法みたいにビューンと、私のところに飛んできたのである。
秋がくるとダイニングの壁に私はそれを懸ける。
紅葉しはじめた秋の森林の鹿の群れ。

みっちゃんというのは私の小学校一年生の時のクラスメイトで、
苗字で呼ぶのもヘンだから、今も、みっちゃんみっちゃんと私は言う。
幼稚園の若い母親たちなんかも、つられてしまい、
彼女の講演の時、控え室での接待や、講演中の質問に、
すみませんすみません、みっちゃんなんて呼んじゃって、
そうあやまりながら、
「あの、みっちゃん、お砂糖は使われます? 」
「あの、これでいいですか、みっちゃんは?」
ちょっと憧れるような表情でみっちゃんをだいじにする。
お話ができてよかった、またお会いしたい、とあとあとになっても敬語である。
この私の友達は、
内面からほーっと光り輝くような、きれいな笑顔のヒトである。
はがね(鋼)のような意志力をもちながら、話し方は慎重でやさしい。
みっちゃんは純粋だし、努力のヒトなのだ。
幼児のとき重病を患い脊椎カリエスだったから、障害が身体に残った。
でもそのことが彼女をすばらしくチャーミングな人間にした、と私は思っている。
ずっと友達だったし仲間だったし、だからそんなふうに考えるのかもしれないが。
しかし、このことと絨毯の話とは関係がない。

みっちゃんの家は天井の高い、冬になると暖まりにくい大きな家である。
シャンデリアがあるのかないのか、気をつけて見たことがないから思い出せないけど、
どこかにシャンデリアがあるはずだという仕様の家。
住んでる家族は、それを降ろすのも仕舞うのも、さりとて磨いてキラキラさせるのも
メンドーと言いそうな働く一家で、「社宅」などとこの邸宅を呼ぶ。
なんせ家の南側バルコニーに、「反核家族」と大書した布を張り出しているのだ。
センスなんかナミのありようとはひと味もふた味もちがう。
私はこの家に行くたび、玄関から二階のマホガニー色の木製手摺を見上げ、
手摺に懸けられている貴重な大絨毯をながめたものである。
「なんとも芸術的な絨毯ねえ、、どういうものなの?」
「ああ、あれ? 母のお土産。重くってさあ」
「いい絨毯ねえ」
「うん、いいもんだって、母が」
みっちゃんは「母」のたび重なる世界旅行にも、お土産物産の山にも
そのお土産のスケールの大きさにもマヒしている。
「お茶にしよう、玄関寒くてごめんね、早くスリッパはいて」
みたいなもんなのだ。
だからその絨毯は何年も何年も手摺に懸けられて、色あせたのだかなんなのか、
大きな家の玄関の品位を、ただ沈黙のうちに、高めていたのである。
そのけなげな絨毯を、である。
ある年、大掃除をする気をおこしたみッちゃん一家が捨てたのだ。
「す、捨てた!? とめるヒトはひとりもいなかったの? こどもたちも!」
私はもう、意気消沈して、
「この家で一番いいのはあの絨毯だと思ってたのにー」
「アラー気に入ってたの? そりゃ申し訳なかったよなあ。」
みッちゃん夫婦は、じぶんちの絨毯なのに、うしろめたそうにニヤニヤし、
「ひとこと言っといてくれれば、差し上げたのになあ」
そんな悔やみ方をするのである。
ズレてる!

そしてまた月日は流れ、何年かが過ぎた。
この家族には、お母さんの膨大な家具調度品等々を整理始末すべき時があった。
そうしたら、どういう具合でか、
みっちゃんは優しくも親切な夫に、がみがみ、
「こんどこそ絨毯は捨てないで取っておいてよ! あげるんだから!」
なんでよ? ちがうでしょ? 
私がほめたのはあの、アンタ達がゴミに出しちゃったやつよ!
絨毯ならぜんぶスキって言ってないわよ!
なんだか思いだすとひとりでも笑っちゃうけれど、
とにかく、そんなわけで、
長い長い時間を経たあげく、
みっちゃんのスケールの大きなお母さんの
べつの絨毯が、ビューンと私の家に飛んできて、
仏蘭西中部の町、かの有名なるオービュッソンのモノだと、
今ごろになってのーんびり出自をあきらかにしたのである。
さすがにたいした話ではないか。


                         とんでもない月曜日
                         ジョーン・エイキン作 猪熊葉子訳
                         岩波少年文庫

2011年7月28日木曜日

リアリズム

ジョーン・エイキンの童話がけっこう好き。
ずっとまえからそうだから、
アーミテージ一家がなにをさわいでいるのか、
ユニコーンや幽霊、とんでもない叔母さんや突拍子もない木について、
読む本がなくなると熱をいれて再読、そして現実をわすれる。
最初、私はだまって本を読んでいる。
アーミテージ一家のおくさんがご主人に、新婚旅行さきの浜辺で、こう言うのだ。

「それにマークとハリエットっていうふたりの子どもがほしいわ。元気がよくて、
行動的で、ふさぎこんだり、ふくれたり、たいくつしたりしないこどもたちをね。
そしてこのふたりにはたくさんおもしろくて、めったにないようなことが起こるといいわ。
妖精の名づけ親がついたらすてきだわね。たとえば、だけど。」

そこらへんで私は、はじめの二行とくに後半部分を読んできかせる。
台所で料理中の二男にである。
三行目以下は関係ないから読んできかせない。
だって、うちのこどもたちに、
おもしろくて、めったにないようなことは、めったに起きなかった。
これからだって福島の原発事故をずっとひきずって生きなきゃならない。
妖精の名づけ親はヨーロッパにいる。
京王線沿線だと、ゲゲゲの女房になっちゃう。
とそれはともかく。
私は二男に、ついこう言ってしまう。童話のノリなんである。
元気がよくて、行動的で、ふさぎこんだり、ふくれたり、たいくつしたりしないこどもたち。
「うちのこどもたちって、こんなふうだったわよねっ?」
二男は急にバカにした顔になって、
「ぜんぜんちがうよ、かあさん、オレたちみんな元気なかったぜ。八ッハッハッ。」
「そうかなあ。でも行動的だったわよ」
「どこが? だれもまるで行動しなかったよー。アネキとか僕なんかトクに」
「そういえばそうか。そうよね。でも、ふさぎこんでなかったじゃない?」
彼はテキトーな皿をさがしながら、
「ちがうさー。みんなふさぎこんでたさ、楽しいことなんてひとつもなかったもん」
ひとつもない、はひどいよ。
「ふくれたりは? エートそうか、年がら年中怒ってたか、あんたのお兄さんは」
二男はそうそう、そうと言って、
「僕たちは、すごく機嫌の悪い兄弟だったんだよね」
私は、リアリズムのグレーゾーンへと落下する。
「いやだなあ、してみると、三人が三人とも退屈してたっていうわけなの?」
そうさ、という答えが確実にもどってくるのだろう。
それが彼らのナマの回答なのだ。
思えば私だって、そんなふうに悲しむこどもだったではないか。

私は白いワインを飲むことにした。
リアリズムからの別途逃亡である。
これだって油断がすぎればアル中になるのである。


おとなりさんは魔女―アーミテージ一家のお話1
ジョーン・エイキン作 猪熊葉子訳
岩波少年文庫

2011年7月25日月曜日

ダンゴ虫体験

幼稚園をやめたあと、生れて初めてゆっくりした。
一分間を地球儀のようにまん丸く感じる、というようなことか。
たとえば日陰の道を急いでよこぎるダンゴ虫を、よけたりする。
すると灰色のだんご虫のまわりで、時がのんびりゆっくり、ふくらみ始めるのだ。
虫たちの前で立ち止まるヒトは、いつの時代にもちゃんといる。
いいヒトだと相場も決まっている。そういうヒトに会ったことだって、ある。
しかしながら私は、そんなこと考えただけでもつんのめって転んじゃうわけで。

よかった。
たとえ二年でもこどもたちの中にいたのが、幸せだった。

むかしならば、ダンゴ虫はダンゴ虫、見たくもないガイ虫だ。
でも、こどもたちは私にしょっちゅう、ダンゴ虫をさしだす。
「ほら、ね?」「みてみて」「あげる」
はにかんで、世にもうれしそうな顔をしている。
「けっこうよー。いらないよー」
小さな手のひらの上のダンゴ虫は、恐怖のあまり、
たいていが、まん丸くなってる。
ツルツルのピカピカになってる。
ダンゴ虫にそんな可能性があるなんて、誰が思うだろう。
だいじにされてピカピカになっちゃうなんて。

朝一番にダンゴ虫をつかまえた子どもの幸せ。
そんなことが、私の記憶をかがやかせ、私の今をいっぱいにし始める。

あの子。
あの晴れ晴れと、一点の曇りもない笑顔。
どうしたらそんなほがらかな顔になるのか、いつも不思議だった。
親がいいのかな? もって生れた気質かな? 
一生、ほがらかさをキープする才能がこの男の子にはあるのかな?
幼稚園に到着後十分もたてば、おなじこの晴ればれ坊やが、
カンシャクを爆発させ、ダッコのセンセイを蹴っ飛ばしブッ飛ばし、
まいど泣きさけびながら職員室に運搬されてくる、ほらきた?!
でもさあ、いいじゃない?
毎朝幸福そうに幼稚園に来てくれるのよ。
今朝なんかスキップしてたもん?!

この子に、私は中国の貯金箱っていう、あだなをつけてた。
ふっくらと赤ちゃんみたいな体格だし、話す声が甲高くてかわいくて。
でも、いつしか職員室に運搬されてくる回数が減っちゃって。
成長したからと説明されてそうかあ。成長はいいことなのよねー。
そんな記憶の一分間を、
まるくてツルツルのダンゴ虫みたいに手のひらにのせて、
のーんびりは楽しいことだよ、いいな、とそう思う。

2011年7月24日日曜日

長 新太な一日

長 新太さんのまわりをグルグル、まわるような一日。
変てこで、ヘンテコで、もうこまるよ。
昨夜、「長 新太 ナンセンスの地平線からやってきた」という本を買った。
帰宅後、怪しいような気がしてさがすと、うちの本棚にそれがある。
ところどころ読んだ本。いくら魅力的だからって、二冊は多すぎる、こまる。
べつの本と取りかえてもらうことにして、今日もまた昨日の本屋さんへ。
風に吹かれて、夢の上にただのりでもしているような。
そんな日だったからかどうか、
私ときたら、またしても長 新太の本棚の前に行き、
またしても、うちにあるのに、という長さんの本を買っちゃったのである。

これって怪談なのか。運命なのか。
いくら拾い読みしてみても、読んでないっ、という気がするデジャヴな本。
今度の本は「絵本画家の日記」というんだけど、
読んだおぼえがあーりません
長 新太なら太字でそう書くだろうな、と思ったらおかしくて。
だめだ、立ち読みなんかじゃ決着がつけられない。
こんなこと書いてなかった、と、どうしてもだまされちゃう。
文体が新鮮。文章は短い。ききたい捨てぜりふが、ピチンパチンときける本。
日記部分なんか、読みにくいのを強引に読ませる、画家の直筆。
職人のしかけとは、まっこと、こういうものであろう。

私は差額を支払い、またこの怪しい長 新太の本を買った。

魔法にかかったような日の暮れで、
こどもの泣き声に気をとられ、本屋では危うく上がりのエスカレーターで下ろうとし、
近道をするつもりで帰り道をまちがえ、野外映画会場にまよいこみ、
「それじゃ理屈にあわないっ」というどこかの少年のさけび声をききながら、
草のにおいのする公園をぬけ、曲がりくねった道を曲がりくねりながら進み、
ヘンな石の階段をのぼり、蒼白の紳士がほうっと腰掛けているベンチの前を通って、
やっとこさ家にたどり着いた。
なーにナンセンスの地平にいたと思えばおもしろいわよ。

家に帰ると本棚にはやっぱり「絵本画家の日記 2」。 2、なのに同じ本。
なりゆきから想像するに、今日一日ってまるでヘンだった。
まともじゃなくて、現実がどこかにいっちゃったような。
だとしたらおもしろいことが起こるのは、これからかもしれないじゃないの。

そう思っていれば、そうなるものなのであって、本当に。
今度の「絵本画家の日記」にはDVDが、おまけの魔法みたいについている。
それは長 新太さんが日記を朗読し解説した、過ぎし日の講演の映像なのだった。
大腸のガンを手術し、胃のガンを手術し、肝臓のガンを手術したこの人が、
病気になるほどのわりきれない怒りを、ナンセンスの地平の下にどう抱えて生きたか、
抑えても抑えても解決をみなかった画家の怒りが、
ちらちらと、ちりちりと、平板な空間を輝かせる、そんな映像なのだった。

ふつう私たちが手に入れてながめたりする絵本の挿絵とはちがい、
大きなTV画面のなかの長 新太さんの絵は、
ほんとうに本当に美しく、芸術そのものである、それも新発見だった。
展覧会に行きたいなー

2011年7月23日土曜日

そっとかくれて

そっとかくれて応援してるからね、と言われた。
柱のかげでね、いつも応援してるよ。大好きだから。
まるでオジサンのようだ、まだ5才なのに。

幼稚園の二階にのぼる階段はいつも混んでる。
だれかしらが、のぼったりおりたり、けんかもしたり。
私は昇る、彼は降りる、そこでばったり会ったらそう言うのだ。
あ、園長先生、と言って。
いつも無表情な顔がすこし、でもちゃんと笑っている。

私はけっこう前からこの坊やをさがしていた。、
在園児が多いので、名まえを知らないとなかなか出会えない。
さがしたのは、
ホールで合唱する五才のなか、彼の身振り動作が、
歌をうたう楽しさでひときわ光りかがやいていたからだ。
楽しんでいるすがたが、音楽そのもの、
魂と音楽が今いっしょにときをすごしているんだな、という印象を受けせいだ。

あなたはだあれ、どのママのこども?
みんなで音楽会に出かけるような、そんな家の子どもなの?
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
うちの人に、商店街の宝くじの一等賞、みたいなお知らせを、
音楽を楽しむ才能がひそんでいる、おめでとう
みたいなお知らせをしたかったのだ。

2011年7月22日金曜日

おとなりさん

幼稚園のお隣が小学校で、校長先生がいい人だった。
前世は男?だった?のか?みたいな口調の、思いやりのある人だった。
会合の席上、よく透る声で、
「なるほどねえ、ええ、わたくしも実のところ善処すべきと、そう思ってはオルんですが」
このオルんですがのオルなんか、自分だったらまちがっても使わないんだけど、
なれてくると私は好き、会議のひそかな楽しみで待っちゃったぐらいのものだった。
笑うとカラッと心底おかしそうな顔で、そこがまた、相手をのびのびさせるのである。

校長と園長は似た商売。
悩んだりして夜中に目がさめて睡眠不足、と私が話すと、
うん、うんうん、そうでしょ、そうでしょ。
自分だっておなじですよ、となぐさめてくれる。
「歯を喰いしばったりしません?」
ときいてくれ、
「わたしなんか、喰いしばりすぎて、それでしまいに口があかなくなりましてね。
ねっ、おにぎりが入らないのねっ、口があかないんだから、もう。
ええと、そう、が、がく、顎関節症、それそれ、先生もなったの?!」
思わずふきだしたけど、なんたってサーヴィス満点なのだ。

疲労がよく見れば彼女をとりこんでいるらしいのに、それでも気合が入っている。
気力充実、俊敏な雰囲気、実力十分。ほんとにうらやましい。
たぶん、ひとつのことをまっすぐにやり続けた結果なんだろうな。
つめのアカを煎じてのめばいいのかしらと、憂鬱なばっかりのにわか園長の私に、
先生みたいな方こそ私はあこがれですよ、とポンと言う。
演劇やって、書くこともなさって、あれもこれもでしょ、それで園長先生でしょ。
そこいくと、わたしなんか、教師一筋というと聞こえはいいでしょうけど、
ほかのことはなーんにも知りませんし、できませんし。

どういうぐあいに育てたら、ああいう気持ちのよい女性が育つのだろう?
もうお会いするチャンスもないだろうと思うけれど、思い出の青空である。

2011年7月21日木曜日

諧謔(かいぎゃく)

中国文学をよくする南雲先生が東日本大震災から二ヶ月たつころ、
東京新聞にのせた、かの国の「笑い話」がある。

「中国人たるもの、世界最強の免疫能力を保持しているではないか!
長年にわたって我々が 
メラミン入り粉ミルク、ローソク磨き米、にかわ入りうどん、
皮製牛乳、カドミウム入り米、パラフィン入り鍋料理、毛髪製醤油、
化学肥料づけ鶏、薬物入りハム、腐敗穀物、サッカリン入り棗(なつめ)、
酸化剤入り茶、アルミニウム入り饅頭、硫黄入りキクラゲ、農薬野菜、
メチルアルコール酒、人造卵、紙湯葉、どぶさらい食用油、段ボール入り肉まん、
麻薬入りスープ、プラスチック米、ホルモン入り田うなぎ
といった物を食べたり飲んだりしてきたのはなぜなのか?
ほかでもない、来るべき生物化学兵器戦争の中で生き抜くためではないか!
これだけ命を長らえてきたのだから、今回の事故など何を恐れるのだ?
日本から遥か離れた新橿でも騒ぐなんてどうかしている!」

うわぁっ、はははは。
見出しはこうだ。
「冷静沈着を求める囁き」

うん?
引用じゃなくて地の文を読むと、
このクールでコワイ冗談を、南雲先生ったら、
福島原発のご近所、日本のど真ん中にいるというのに、
冷静沈着に、といういましめに利用したりしている。
以って他山の石としなければならないだろうって。
「正確な情報が掴めないまま、風評で右往左往している中国人自身を皮肉っている
と同時に、中国の民衆生活を脅かす食の安全性への厳しい批判が鮮明である。」
と文中、ささやいたりして。

コワイ冗談は、元来、怒りのクールな発散である。
どだい冗談ってものが「冷静沈着」を求めるだろうか?
冗談じゃ、ないんじゃないの。
冗談が求めるものは、発散なんじゃないの。

諧謔(ユーモア)とは、とくにこの場合救いなき現状認識である。
笑っちゃう形式をつかった、腹を立てろというアッピール、のはずなのである。
その本質をこそ、「他山の石」としないで、なんのおのれが学者かな。
私たちが、正確な情報が掴めないまま風評で右往左往するのは、
不正確な情報ばっかり流されるからでしょ。
という不正について中国には、
たぶん、もっとコワイ冗談があるんでしょ。

2011年7月19日火曜日

そういうくらし

「どういう映画が好きです?」
古今亭志ん朝さんがきいたら山田洋次監督が、こたえた。
「ホラ、僕らが子供のころあった、たいして後に残らないけど、どうにもこうにも
おかしくってつい笑っちゃったみたいな。そういう作品がとても少なくなった。」                            (河出書房新社「もう一席うかがいます」)

郷愁をそそる、どうにもこうにもおかしくってつい笑っちゃったみたいな、という言い回し。
こどもだったころ、そういう映画をみたし、なんだかそういう生活をしてたなと思う。
たいして後に残らない、忘れてしまった、でもそこが一番すきだったようなくらし。
ビンボウが前提だから、二度ともどりたくないけど、なんか笑っちゃってたのだ。
すごく笑っちゃって、おこられたりもしていた。

ヒトは、こどもでも、貧乏だと笑いたくて笑いたくてたまらなくなる。
娯楽になかなか手がとどかない環境にいると、なんとか手持ちの範囲でみんなが、
おとなもだけど、おかしいことをさがそうと、ついそういう傾向になる。
そしてふつうのくらしなのに、天才だな、みたいヒトがひねりだされて来るのだ。

幼稚園にいたときは、なにはともあれ、
そう、たいして後に残らなくてもいいから、
どうにもこうにもおかしくってつい笑っちゃったみたいな、
そんな時間がつくれたらなあ、と思っていた。
こどもと私、どっちが笑うのでも、それはかまわないのだけれど。

大江健三郎氏の予言

2001年9月10日に引っ越したけれど、TVはつぎの日もダンボールの中だった。
2001.9.11。
その日その時その光景を見なかったおとなは少ないだろうけど、しょうがない。

少し後になって、幼稚園の会で、ひとりの母親が新聞の文化欄に掲載された記事を朗読した。それはノーベル文学賞受賞者の大江健三郎さんへのインタヴューだった。
印象的な、しかし、のみこめない構成。
タイトルは 「それでも希望を託す」 である。
まずあの日のアメリカの世界貿易センター崩壊について、大江さんはこう語った。

「そういう形で21世紀が始まったのならば、我々の滅びの日は近いと、暗い気持ちになった。再建の思想が必要だが、おそらく僕は新しい希望を確信することなく死ぬだろう」

なんだって、と私は思った。なんと言ったの?
我々の滅びの日が近い?
短い記事のなかで大江さんが話したもうひとつの言葉はこうだ。

「自分たち人間は心のなかに子どもをもち続けて成長し、死ぬのだとわかったのです。子どもの時知っていたことは今も知り、感じていたことは今も感じている。子どもの中にすべてはあり、最期までそれから逃れられない。」

子ども。
滅びの日。
それでも希望を託す。

言葉がもたらすイメージのどれもが、たがいに反発しあい、ごろごろと収まりがつかず、
心に残った。忘れながらおぼえていて、
そうやって自分は、2011.3.11の日をむかえてしまったと言えようか。

あのころ五つだった子は、今ではもう十五才になるのだろう。

2011年7月18日月曜日

針葉落葉樹 

 メタセコイアは、歴史を中世代から中新世までさかのぼる堂々たる針葉落葉樹である。
 強くて勇敢で大らか、いつもその姿は新鮮だ。
 夏の大空に、濃緑のゆたかな尖端三角形をきっぱり風にさし出してたのもしい。
 炎天を意に介さずという、その風情がじつに私たちをホッとさせるのである。
 
 私は、メタセコイア通りの秋をいつだって待っている。
 秋になると、並木道全体が赤毛のアンの頭のよう、
 赤い燃えるような煉瓦色になって大騒ぎである。
 派手だ、火事みたいだ、とみんなが思う。
 それから季節がうごき、時間がたち、針の葉っぱはさびた茶色になって、
 どんどんどんどん、下に落ちてしまう。しかたがない。冬がくるのだ。 
 
 派手、がおわると私はすごくがっかり、でも、冬もきれいだったっけ、と気をとりなおす。
 メタセコイアが潔く落葉するからだ。
 何億ものさび色の針葉が、はらはらとみっしりと大樹の根元に落ち、
 無数の枝が今では凍る骨のよう、沈黙にみちみちたレース模様で冬空を飾っている。
 
 冬が終われば春がやってくる。
 お祭りの春だ。
 メタセコイアの赤ちゃん針葉がやってくる!何億もの若葉が!
 
 

2011年7月17日日曜日

メタセコイア通りの家

私は、土手の上に不安定なかっこうで立つ小さな家がよかった。
そこに緑の庭があり、小さな畑もあって、どこからともなく小鳥がやってくる。
小川のほとりだったらどんなにいいだろうか。
あたりまえだけど太陽と、月が、みんなの家も照らしこの家のことも、
おもしろそうにしばらくは照らしてゆく。
そんな家がよかった。
漢字でいえば、素朴、という文字の親類みたいな家。
でも人生じゃ、希望は半分しか、かなわない。

私の家は一軒家じゃなく、土手の上に立ってはいたけど、畑はもちろんないのだ。
ハンカチーフみたいな庭に、ほっそりとした一本の柿の木。落葉樹だった。
その一本だけの木に、メジロやムクドリやコゲラ、ヒヨドリやスズメがきたのでよかった。
2001年9月10日、
私はひろった物ともらった物と、それから本をたくさんはこんで引っ越した。
美しいメタセコイア通りにその家はあった。