2011年7月28日木曜日

リアリズム

ジョーン・エイキンの童話がけっこう好き。
ずっとまえからそうだから、
アーミテージ一家がなにをさわいでいるのか、
ユニコーンや幽霊、とんでもない叔母さんや突拍子もない木について、
読む本がなくなると熱をいれて再読、そして現実をわすれる。
最初、私はだまって本を読んでいる。
アーミテージ一家のおくさんがご主人に、新婚旅行さきの浜辺で、こう言うのだ。

「それにマークとハリエットっていうふたりの子どもがほしいわ。元気がよくて、
行動的で、ふさぎこんだり、ふくれたり、たいくつしたりしないこどもたちをね。
そしてこのふたりにはたくさんおもしろくて、めったにないようなことが起こるといいわ。
妖精の名づけ親がついたらすてきだわね。たとえば、だけど。」

そこらへんで私は、はじめの二行とくに後半部分を読んできかせる。
台所で料理中の二男にである。
三行目以下は関係ないから読んできかせない。
だって、うちのこどもたちに、
おもしろくて、めったにないようなことは、めったに起きなかった。
これからだって福島の原発事故をずっとひきずって生きなきゃならない。
妖精の名づけ親はヨーロッパにいる。
京王線沿線だと、ゲゲゲの女房になっちゃう。
とそれはともかく。
私は二男に、ついこう言ってしまう。童話のノリなんである。
元気がよくて、行動的で、ふさぎこんだり、ふくれたり、たいくつしたりしないこどもたち。
「うちのこどもたちって、こんなふうだったわよねっ?」
二男は急にバカにした顔になって、
「ぜんぜんちがうよ、かあさん、オレたちみんな元気なかったぜ。八ッハッハッ。」
「そうかなあ。でも行動的だったわよ」
「どこが? だれもまるで行動しなかったよー。アネキとか僕なんかトクに」
「そういえばそうか。そうよね。でも、ふさぎこんでなかったじゃない?」
彼はテキトーな皿をさがしながら、
「ちがうさー。みんなふさぎこんでたさ、楽しいことなんてひとつもなかったもん」
ひとつもない、はひどいよ。
「ふくれたりは? エートそうか、年がら年中怒ってたか、あんたのお兄さんは」
二男はそうそう、そうと言って、
「僕たちは、すごく機嫌の悪い兄弟だったんだよね」
私は、リアリズムのグレーゾーンへと落下する。
「いやだなあ、してみると、三人が三人とも退屈してたっていうわけなの?」
そうさ、という答えが確実にもどってくるのだろう。
それが彼らのナマの回答なのだ。
思えば私だって、そんなふうに悲しむこどもだったではないか。

私は白いワインを飲むことにした。
リアリズムからの別途逃亡である。
これだって油断がすぎればアル中になるのである。


おとなりさんは魔女―アーミテージ一家のお話1
ジョーン・エイキン作 猪熊葉子訳
岩波少年文庫

2011年7月25日月曜日

ダンゴ虫体験

幼稚園をやめたあと、生れて初めてゆっくりした。
一分間を地球儀のようにまん丸く感じる、というようなことか。
たとえば日陰の道を急いでよこぎるダンゴ虫を、よけたりする。
すると灰色のだんご虫のまわりで、時がのんびりゆっくり、ふくらみ始めるのだ。
虫たちの前で立ち止まるヒトは、いつの時代にもちゃんといる。
いいヒトだと相場も決まっている。そういうヒトに会ったことだって、ある。
しかしながら私は、そんなこと考えただけでもつんのめって転んじゃうわけで。

よかった。
たとえ二年でもこどもたちの中にいたのが、幸せだった。

むかしならば、ダンゴ虫はダンゴ虫、見たくもないガイ虫だ。
でも、こどもたちは私にしょっちゅう、ダンゴ虫をさしだす。
「ほら、ね?」「みてみて」「あげる」
はにかんで、世にもうれしそうな顔をしている。
「けっこうよー。いらないよー」
小さな手のひらの上のダンゴ虫は、恐怖のあまり、
たいていが、まん丸くなってる。
ツルツルのピカピカになってる。
ダンゴ虫にそんな可能性があるなんて、誰が思うだろう。
だいじにされてピカピカになっちゃうなんて。

朝一番にダンゴ虫をつかまえた子どもの幸せ。
そんなことが、私の記憶をかがやかせ、私の今をいっぱいにし始める。

あの子。
あの晴れ晴れと、一点の曇りもない笑顔。
どうしたらそんなほがらかな顔になるのか、いつも不思議だった。
親がいいのかな? もって生れた気質かな? 
一生、ほがらかさをキープする才能がこの男の子にはあるのかな?
幼稚園に到着後十分もたてば、おなじこの晴ればれ坊やが、
カンシャクを爆発させ、ダッコのセンセイを蹴っ飛ばしブッ飛ばし、
まいど泣きさけびながら職員室に運搬されてくる、ほらきた?!
でもさあ、いいじゃない?
毎朝幸福そうに幼稚園に来てくれるのよ。
今朝なんかスキップしてたもん?!

この子に、私は中国の貯金箱っていう、あだなをつけてた。
ふっくらと赤ちゃんみたいな体格だし、話す声が甲高くてかわいくて。
でも、いつしか職員室に運搬されてくる回数が減っちゃって。
成長したからと説明されてそうかあ。成長はいいことなのよねー。
そんな記憶の一分間を、
まるくてツルツルのダンゴ虫みたいに手のひらにのせて、
のーんびりは楽しいことだよ、いいな、とそう思う。

2011年7月24日日曜日

長 新太な一日

長 新太さんのまわりをグルグル、まわるような一日。
変てこで、ヘンテコで、もうこまるよ。
昨夜、「長 新太 ナンセンスの地平線からやってきた」という本を買った。
帰宅後、怪しいような気がしてさがすと、うちの本棚にそれがある。
ところどころ読んだ本。いくら魅力的だからって、二冊は多すぎる、こまる。
べつの本と取りかえてもらうことにして、今日もまた昨日の本屋さんへ。
風に吹かれて、夢の上にただのりでもしているような。
そんな日だったからかどうか、
私ときたら、またしても長 新太の本棚の前に行き、
またしても、うちにあるのに、という長さんの本を買っちゃったのである。

これって怪談なのか。運命なのか。
いくら拾い読みしてみても、読んでないっ、という気がするデジャヴな本。
今度の本は「絵本画家の日記」というんだけど、
読んだおぼえがあーりません
長 新太なら太字でそう書くだろうな、と思ったらおかしくて。
だめだ、立ち読みなんかじゃ決着がつけられない。
こんなこと書いてなかった、と、どうしてもだまされちゃう。
文体が新鮮。文章は短い。ききたい捨てぜりふが、ピチンパチンときける本。
日記部分なんか、読みにくいのを強引に読ませる、画家の直筆。
職人のしかけとは、まっこと、こういうものであろう。

私は差額を支払い、またこの怪しい長 新太の本を買った。

魔法にかかったような日の暮れで、
こどもの泣き声に気をとられ、本屋では危うく上がりのエスカレーターで下ろうとし、
近道をするつもりで帰り道をまちがえ、野外映画会場にまよいこみ、
「それじゃ理屈にあわないっ」というどこかの少年のさけび声をききながら、
草のにおいのする公園をぬけ、曲がりくねった道を曲がりくねりながら進み、
ヘンな石の階段をのぼり、蒼白の紳士がほうっと腰掛けているベンチの前を通って、
やっとこさ家にたどり着いた。
なーにナンセンスの地平にいたと思えばおもしろいわよ。

家に帰ると本棚にはやっぱり「絵本画家の日記 2」。 2、なのに同じ本。
なりゆきから想像するに、今日一日ってまるでヘンだった。
まともじゃなくて、現実がどこかにいっちゃったような。
だとしたらおもしろいことが起こるのは、これからかもしれないじゃないの。

そう思っていれば、そうなるものなのであって、本当に。
今度の「絵本画家の日記」にはDVDが、おまけの魔法みたいについている。
それは長 新太さんが日記を朗読し解説した、過ぎし日の講演の映像なのだった。
大腸のガンを手術し、胃のガンを手術し、肝臓のガンを手術したこの人が、
病気になるほどのわりきれない怒りを、ナンセンスの地平の下にどう抱えて生きたか、
抑えても抑えても解決をみなかった画家の怒りが、
ちらちらと、ちりちりと、平板な空間を輝かせる、そんな映像なのだった。

ふつう私たちが手に入れてながめたりする絵本の挿絵とはちがい、
大きなTV画面のなかの長 新太さんの絵は、
ほんとうに本当に美しく、芸術そのものである、それも新発見だった。
展覧会に行きたいなー

2011年7月23日土曜日

そっとかくれて

そっとかくれて応援してるからね、と言われた。
柱のかげでね、いつも応援してるよ。大好きだから。
まるでオジサンのようだ、まだ5才なのに。

幼稚園の二階にのぼる階段はいつも混んでる。
だれかしらが、のぼったりおりたり、けんかもしたり。
私は昇る、彼は降りる、そこでばったり会ったらそう言うのだ。
あ、園長先生、と言って。
いつも無表情な顔がすこし、でもちゃんと笑っている。

私はけっこう前からこの坊やをさがしていた。、
在園児が多いので、名まえを知らないとなかなか出会えない。
さがしたのは、
ホールで合唱する五才のなか、彼の身振り動作が、
歌をうたう楽しさでひときわ光りかがやいていたからだ。
楽しんでいるすがたが、音楽そのもの、
魂と音楽が今いっしょにときをすごしているんだな、という印象を受けせいだ。

あなたはだあれ、どのママのこども?
みんなで音楽会に出かけるような、そんな家の子どもなの?
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
うちの人に、商店街の宝くじの一等賞、みたいなお知らせを、
音楽を楽しむ才能がひそんでいる、おめでとう
みたいなお知らせをしたかったのだ。

2011年7月22日金曜日

おとなりさん

幼稚園のお隣が小学校で、校長先生がいい人だった。
前世は男?だった?のか?みたいな口調の、思いやりのある人だった。
会合の席上、よく透る声で、
「なるほどねえ、ええ、わたくしも実のところ善処すべきと、そう思ってはオルんですが」
このオルんですがのオルなんか、自分だったらまちがっても使わないんだけど、
なれてくると私は好き、会議のひそかな楽しみで待っちゃったぐらいのものだった。
笑うとカラッと心底おかしそうな顔で、そこがまた、相手をのびのびさせるのである。

校長と園長は似た商売。
悩んだりして夜中に目がさめて睡眠不足、と私が話すと、
うん、うんうん、そうでしょ、そうでしょ。
自分だっておなじですよ、となぐさめてくれる。
「歯を喰いしばったりしません?」
ときいてくれ、
「わたしなんか、喰いしばりすぎて、それでしまいに口があかなくなりましてね。
ねっ、おにぎりが入らないのねっ、口があかないんだから、もう。
ええと、そう、が、がく、顎関節症、それそれ、先生もなったの?!」
思わずふきだしたけど、なんたってサーヴィス満点なのだ。

疲労がよく見れば彼女をとりこんでいるらしいのに、それでも気合が入っている。
気力充実、俊敏な雰囲気、実力十分。ほんとにうらやましい。
たぶん、ひとつのことをまっすぐにやり続けた結果なんだろうな。
つめのアカを煎じてのめばいいのかしらと、憂鬱なばっかりのにわか園長の私に、
先生みたいな方こそ私はあこがれですよ、とポンと言う。
演劇やって、書くこともなさって、あれもこれもでしょ、それで園長先生でしょ。
そこいくと、わたしなんか、教師一筋というと聞こえはいいでしょうけど、
ほかのことはなーんにも知りませんし、できませんし。

どういうぐあいに育てたら、ああいう気持ちのよい女性が育つのだろう?
もうお会いするチャンスもないだろうと思うけれど、思い出の青空である。

2011年7月21日木曜日

諧謔(かいぎゃく)

中国文学をよくする南雲先生が東日本大震災から二ヶ月たつころ、
東京新聞にのせた、かの国の「笑い話」がある。

「中国人たるもの、世界最強の免疫能力を保持しているではないか!
長年にわたって我々が 
メラミン入り粉ミルク、ローソク磨き米、にかわ入りうどん、
皮製牛乳、カドミウム入り米、パラフィン入り鍋料理、毛髪製醤油、
化学肥料づけ鶏、薬物入りハム、腐敗穀物、サッカリン入り棗(なつめ)、
酸化剤入り茶、アルミニウム入り饅頭、硫黄入りキクラゲ、農薬野菜、
メチルアルコール酒、人造卵、紙湯葉、どぶさらい食用油、段ボール入り肉まん、
麻薬入りスープ、プラスチック米、ホルモン入り田うなぎ
といった物を食べたり飲んだりしてきたのはなぜなのか?
ほかでもない、来るべき生物化学兵器戦争の中で生き抜くためではないか!
これだけ命を長らえてきたのだから、今回の事故など何を恐れるのだ?
日本から遥か離れた新橿でも騒ぐなんてどうかしている!」

うわぁっ、はははは。
見出しはこうだ。
「冷静沈着を求める囁き」

うん?
引用じゃなくて地の文を読むと、
このクールでコワイ冗談を、南雲先生ったら、
福島原発のご近所、日本のど真ん中にいるというのに、
冷静沈着に、といういましめに利用したりしている。
以って他山の石としなければならないだろうって。
「正確な情報が掴めないまま、風評で右往左往している中国人自身を皮肉っている
と同時に、中国の民衆生活を脅かす食の安全性への厳しい批判が鮮明である。」
と文中、ささやいたりして。

コワイ冗談は、元来、怒りのクールな発散である。
どだい冗談ってものが「冷静沈着」を求めるだろうか?
冗談じゃ、ないんじゃないの。
冗談が求めるものは、発散なんじゃないの。

諧謔(ユーモア)とは、とくにこの場合救いなき現状認識である。
笑っちゃう形式をつかった、腹を立てろというアッピール、のはずなのである。
その本質をこそ、「他山の石」としないで、なんのおのれが学者かな。
私たちが、正確な情報が掴めないまま風評で右往左往するのは、
不正確な情報ばっかり流されるからでしょ。
という不正について中国には、
たぶん、もっとコワイ冗談があるんでしょ。

2011年7月19日火曜日

そういうくらし

「どういう映画が好きです?」
古今亭志ん朝さんがきいたら山田洋次監督が、こたえた。
「ホラ、僕らが子供のころあった、たいして後に残らないけど、どうにもこうにも
おかしくってつい笑っちゃったみたいな。そういう作品がとても少なくなった。」                            (河出書房新社「もう一席うかがいます」)

郷愁をそそる、どうにもこうにもおかしくってつい笑っちゃったみたいな、という言い回し。
こどもだったころ、そういう映画をみたし、なんだかそういう生活をしてたなと思う。
たいして後に残らない、忘れてしまった、でもそこが一番すきだったようなくらし。
ビンボウが前提だから、二度ともどりたくないけど、なんか笑っちゃってたのだ。
すごく笑っちゃって、おこられたりもしていた。

ヒトは、こどもでも、貧乏だと笑いたくて笑いたくてたまらなくなる。
娯楽になかなか手がとどかない環境にいると、なんとか手持ちの範囲でみんなが、
おとなもだけど、おかしいことをさがそうと、ついそういう傾向になる。
そしてふつうのくらしなのに、天才だな、みたいヒトがひねりだされて来るのだ。

幼稚園にいたときは、なにはともあれ、
そう、たいして後に残らなくてもいいから、
どうにもこうにもおかしくってつい笑っちゃったみたいな、
そんな時間がつくれたらなあ、と思っていた。
こどもと私、どっちが笑うのでも、それはかまわないのだけれど。

大江健三郎氏の予言

2001年9月10日に引っ越したけれど、TVはつぎの日もダンボールの中だった。
2001.9.11。
その日その時その光景を見なかったおとなは少ないだろうけど、しょうがない。

少し後になって、幼稚園の会で、ひとりの母親が新聞の文化欄に掲載された記事を朗読した。それはノーベル文学賞受賞者の大江健三郎さんへのインタヴューだった。
印象的な、しかし、のみこめない構成。
タイトルは 「それでも希望を託す」 である。
まずあの日のアメリカの世界貿易センター崩壊について、大江さんはこう語った。

「そういう形で21世紀が始まったのならば、我々の滅びの日は近いと、暗い気持ちになった。再建の思想が必要だが、おそらく僕は新しい希望を確信することなく死ぬだろう」

なんだって、と私は思った。なんと言ったの?
我々の滅びの日が近い?
短い記事のなかで大江さんが話したもうひとつの言葉はこうだ。

「自分たち人間は心のなかに子どもをもち続けて成長し、死ぬのだとわかったのです。子どもの時知っていたことは今も知り、感じていたことは今も感じている。子どもの中にすべてはあり、最期までそれから逃れられない。」

子ども。
滅びの日。
それでも希望を託す。

言葉がもたらすイメージのどれもが、たがいに反発しあい、ごろごろと収まりがつかず、
心に残った。忘れながらおぼえていて、
そうやって自分は、2011.3.11の日をむかえてしまったと言えようか。

あのころ五つだった子は、今ではもう十五才になるのだろう。

2011年7月18日月曜日

針葉落葉樹 

 メタセコイアは、歴史を中世代から中新世までさかのぼる堂々たる針葉落葉樹である。
 強くて勇敢で大らか、いつもその姿は新鮮だ。
 夏の大空に、濃緑のゆたかな尖端三角形をきっぱり風にさし出してたのもしい。
 炎天を意に介さずという、その風情がじつに私たちをホッとさせるのである。
 
 私は、メタセコイア通りの秋をいつだって待っている。
 秋になると、並木道全体が赤毛のアンの頭のよう、
 赤い燃えるような煉瓦色になって大騒ぎである。
 派手だ、火事みたいだ、とみんなが思う。
 それから季節がうごき、時間がたち、針の葉っぱはさびた茶色になって、
 どんどんどんどん、下に落ちてしまう。しかたがない。冬がくるのだ。 
 
 派手、がおわると私はすごくがっかり、でも、冬もきれいだったっけ、と気をとりなおす。
 メタセコイアが潔く落葉するからだ。
 何億ものさび色の針葉が、はらはらとみっしりと大樹の根元に落ち、
 無数の枝が今では凍る骨のよう、沈黙にみちみちたレース模様で冬空を飾っている。
 
 冬が終われば春がやってくる。
 お祭りの春だ。
 メタセコイアの赤ちゃん針葉がやってくる!何億もの若葉が!
 
 

2011年7月17日日曜日

メタセコイア通りの家

私は、土手の上に不安定なかっこうで立つ小さな家がよかった。
そこに緑の庭があり、小さな畑もあって、どこからともなく小鳥がやってくる。
小川のほとりだったらどんなにいいだろうか。
あたりまえだけど太陽と、月が、みんなの家も照らしこの家のことも、
おもしろそうにしばらくは照らしてゆく。
そんな家がよかった。
漢字でいえば、素朴、という文字の親類みたいな家。
でも人生じゃ、希望は半分しか、かなわない。

私の家は一軒家じゃなく、土手の上に立ってはいたけど、畑はもちろんないのだ。
ハンカチーフみたいな庭に、ほっそりとした一本の柿の木。落葉樹だった。
その一本だけの木に、メジロやムクドリやコゲラ、ヒヨドリやスズメがきたのでよかった。
2001年9月10日、
私はひろった物ともらった物と、それから本をたくさんはこんで引っ越した。
美しいメタセコイア通りにその家はあった。