2011年9月30日金曜日

オハヨウゴザイマスの女の子


朝、陽だまり門のところでしか、会うことがない。
印象的な出会いをくりかえすのに、
幼稚園の門を通ると、250人いる子どもの中に消えうせてしまう女の子。
日中、ときどき思い出して姿をさがすのだけれど、見つからない。
どこにいるのかなあと思うけど、仕事がいそがしくって、つい忘れてしまう。
クラスもよくわからない。名まえだってよくわからない。
毎朝会うのに、いまさらあなたのお名まえはなんて、もうきけない・・・・・・。

そうこうしているうちに卒園式の日がきてしまい、卒園証書も授与してしまい、
式典での園長挨拶もしてしまい、あれこれのうちに記念の集合写真もとって、
ざわざわざわざわ、ああ、あの子ともこれでお別れ、と心のこり。
そうしたら、
お父さんとお母さんが職員室まできてくださって、遠慮がちな声で、
「子どもとふたりの写真をとらせていただいてもいいですか」
よかった、このまんま終わってしまわないで、とホッとしたりして。

毎朝、地味な5才が坂道をお母さんと、ある朝はお父さんと上がってくる。
いろいろなオハヨウの挨拶を、いろいろな子どもがするのだけれど、
でも、この子ばかりは棒をのんだように固まって、深々とお辞儀をするのだ。
「おは、よう、ござい、ます」
初めてうたい上げるような挨拶をされた時、
うわあ、なんだか劇みたいじゃないのと思って、うやうやしくも深々と、
「まあ、これはこれはごていねいに、ありがとう」
私としては儀式の際の明治大正の祖母という感じかな、と。

ははは。これが一年中、ずーっと続いたからおもしろい。
挨拶がすむと、この5才は、かゆいようなおかしいような顔で離れていく。
ほかになんの話もしないで一年が過ぎる。私はうれしいけれど、いいのかしら。
ある朝、心配になってきてお母さんにたずねた。
「ほかでは、こんなふうじゃないの?」
「ええ、ほかのところではまったく普通にやってますよ」
「おはようって?」
「ええ、おはようって普通に言ってます」

愉快な、なつかしい思い出。
ね、あれはユーモアだったのよね、五才のかわいい女の子だったあなたの?



2011年9月29日木曜日

生きる証(あかし)という名まえ


幻影            中原中也

私の頭の中には、 いつの頃からか、
薄命そうなピエロがひとり棲んでゐて
それは、紗の服かなんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。

ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あはれげな 思ひをさせるばっかりでした。 

手真似につれては、唇も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見てゐるやう_
音はちっともしないのですし、
何を云ってゐるのかは、分かりませんでした。

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
目付きばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。


「幻影」という詩をよむと、証生という名の青年を思い出す。
ニュージーランドからイスラエルへ行き、そのルートでイラクに入国した若い
バックパッカーが、人質になって首を切断されたのは、2004年10月のことだった。
なんて遠いむかしのことになってしまったのだろう。ほんとうになんて薄情に私は
すべてを忘れてしまうのだろう。
香田証生という人だった。
生きる証(あかし)という、まごころに満ちた名まえを生れた子どもにつけるような、
まっすぐでけなげな、親御さんの彼は息子だったのだなあ、と。


2011年9月27日火曜日

コスモス


のっぽの秋明菊が横倒しになって、
なおしてもなおしても、うちのちいさな庭はくたびれた様子。
このあいだの台風で荒れたあとの手入れに、コスモスを少し買ってきた。
コスモスは、あんがい場所をえらぶ。
どこに住んだときも、私はコスモスを植えたけれど、うまくは育たなかった。
畑をみると、なんでもなく群生しているのが、とてもうらやましい。

こんど私がえらんだのは、チョコレート色をしたコスモスである。
チョコレートの香りがしますと、ラベルに書かれているヘンなコスモス。
そんなことをコスモスにさせるなんてとは思うけれど、
やっぱりとにかく、花のかたちはコスモスなので、かわいらしい。

チョコレートの色の花だから、洒落てるパリみたい、と行ったこともないのに
思うけれど、目をこらさないと、そこに咲いてることがわかった気がしないと
いうのが、うらみかな、まあちょっと。
各地各公園で花の巨大な群生が流行しているけど、
もしもこのチョコレート・コスモスが、そういう扱いをうけたとしたら、
公園の花畑は、たぶん炭鉱みたいになるのだろう。

2011年9月26日月曜日

濫読(らんどく)

永山駅にある多摩市の複合施設が私は好きなんだけれど、
ずっとまえ、そこで百円の古本を買った。
朝日選書 「20世紀とは何だったのか」 1992年
買ったはいいけど、、難しそうだからいつまでも読まない。うちの本棚
はそういう本でいっぱいだ。私は、はかない向学心?のせいで、読ま
ないのに買ってしまうのである。

娘のオランダの住居をたずねた時、居間の本棚に重そうな横文字の
本がびっしり並んでいて、半分以上はリックの本だという。
「リックは本を買うのが趣味」というような説明で、それも「ホロコースト
に関する本」をよく買うのだとか。
それにしてもすごい内容、すごい分量と思って、
「これをぜんぶ読んだのですか?」と、私が自分でエイゴできいたら、
上品で人見知りするオランダ人のリックも、エイゴで、
「いいえ、買って少しは読みますが、あとは途中で本棚にしまいます。」
と言っていると、娘がいう。
「ほとんどの本がそうですって、言ってるよ」
ははは。

ところで最近になって、
私は、「20世紀とは何だったのか」を、読みはじめた。
あーあ、出版されてから20年もたっちゃったじゃないの。
表紙に書いてあるのだから、今さらびっくりするのもおかしいが、
マルクス(経済学者)と、フロイト(精神分析)、ザメンホフ(エスペラント)
この三人の業績を通して、20世紀の社会変動を説明する試みである。
形式は対談。話し手は二人の精神科医、しかも座談の名手である。
だって、なだいなださんは、アル中の先生だ。
もう一人の小林司さんときたら、シャーロックホームズ研究家なのよ。
精神科医でよ?!
迷路を探偵が行く、みたいな本!
おもしろい!

2011年9月25日日曜日

映画ふたつ

銀座のシネ・スウィッチをさがし、「人生、ここにあり!」(イタリア映画)を観る。
人生ってどこにあるのか。ここにあるのが人生か、それともどこへ消えたのか。
それがよくわからない精神病者のきもちを、ちっとも否定しない。
そういう人間観と、そういう精神病理学を基本にできた映画なんだなと思う。

ちっとも否定しないセリフを数々書いて、しかもそのセリフを軸に物語を展開さ
せていく。物語が展開するとは、精神病者たちをとりまく社会もまた、セリフに対
応してかわっていくということで、そこが日本人と、まるでちがうな、というかんじ。

イタリアは精神病院を廃止、患者を拘禁しないで治療しようという国である。

銀座から、本の街を歩いたりしたくて神保町へ。
神保町といえば映画の岩波ホール。
看板をながめて、やっぱり映画のハシゴをしようかな、遠くまで来たんだし。
それで時間をたしかめ、チケットを買い、ロビーでお茶を飲み、
座席に落ち着いてスクリーンをながめたら、うわっ、みる映画をまちがえてた!

でもいいか。岩波ホールなら、まあいいや。
なんとか自分に折り合いをつけ、みたいと思わなかった映画を観ちゃった。
一日のうちの、ある時間帯だけべつの映画を上映するなんて。
複雑すぎるじゃないの。


2011年9月24日土曜日

プラネタリウム

空気がすがすがしくて、風が斜めに飛んでいく。
秋の風はいい。風が冷たいと、歩くのだって道をきくのだってスイスイだ。
たとえ渋谷なんかにいても、樹があるな、枝がゆれているなと思う。
信号だって四方に広がる大スクランブル、みんなが風といっしょにざわざわ、
大勢の人たちを運ぶエスカレーターに立っている人もいろいろで、上がる人下る人、
こういう秋の日にはみんなが、苦しそうに見えなくて、好きだ。

プラネタリウムに朝から行く、と思うと自分まで風のようだ。

朝から、夜の星空を見るなんて。
一生に一回!!
なーんてね。

2011年9月21日水曜日

朗読

朗読の稽古は楽しい。

以前、家の朗読の会にきていた人が
保育士の資格試験のための練習を、と。
えらんだのは「てぶくろ」、ウクライナの民話である。
「てぶくろ」といえば内田莉沙子翻訳、と思っていたけど、
今は、いろいろな 「てぶくろ」 があるみたい。
彼女が試験用に選んだのは、日本製の「てぶくろ」だった。
でもお話は似ているから、だいじょうぶ。

彼女は(試験を想定して)そっとイスに腰かける。
もともとエレガントで、ていねいなヒトである。
この何年か、月日はきっと彼女にやさしかったのだろう。
すこしだけれど、のびのびした人になった。
試験が前提だから、練習できびしくするのだけれど、
いちいち、かぼそい声で、
「ほんとにそうですね」
礼儀正しくも相づちをうって、それから上半身をおりまげて笑う。
ヘンな朗読をしちゃってと、自分で自分がおかしいのだ。
こうなると、がぜん稽古は楽しいものになる。
自己表現の門がぎぎぎーっと開く。
すなおで自由。教える私をおそれない。
「てぶくろ」のイメージが、
いきいきと彼女の頭に入っていくのが見えるようだ。

自分の欠点をおかしがるって、できそうで出来ない。
緊張する自分とたたかい、朗読する民話を理解しようとたたかい、
しかも表現する自分のことも楽しむ。
のびのび、のびのび。
こども相手の朗読ならば、よけいそうである。
なんとか試験までに、と彼女はいっしょうけんめいだ。
むかし朗読をはじめたころは、家にくると泣いていた。
友達の朗読をきくたび、自分が朗読するたび、
なにかで胸がいっぱいになって、声がでなくなるというふうだった。
あの硬い緊張感や余裕のなさを、この人はいつどこで、すてたのだろうか。
この何年かを、どんなにかゆっくりと、かしこく過ごしたのだろうか。
だれかが教えてできることではない、おそらく自分なりにそう学んだのだ。

「お芝居の台本のように練習するんですね」
そうね、まずはね。
じぶんがなにを話しているのかちゃんと識っていることがだいじよね。
忘れ物のてぶくろに、みんなで住んじゃって、楽しいなという話でしょ。

2011年9月20日火曜日

希望

明治公園で原発反対のデモをやるそうだ。
息子に、参加しようと思う、と電話をしたら、
このあいだのデモでは12人が逮捕されたんだよと彼はいった。
気をつけてね、新聞には出ないからね、知らないでしょと。

そうね、私はインターネットもつかいなれないし。
ぼやぼやもたもた、してるもんね。

警察はモヒカンカットの若者とか、そういう人をねらうんだよね。
母さんみたいな人は大丈夫だよ。そんなふつうの人を逮捕したらタイヘンだし。

モヒカンアタマなら、どうせ感じのワルイ不良だろうと、
だから原発に反対する若い人間を逮捕していいなんて。
3.11以降の日本で、それを国家がやるってどういうことか。
警察や機動隊は国家の方針で動く。
原発に反対すると逮捕って、どういう日本か。
原発のせいで、誰の未来もマックラじゃないの。
そんなひどい国ってありか。
しかも、新聞が警察の家来みたいに、それを知らせないって、どういうことか。

前の日、私が団地の親しい方から頂いたチケットで「敬老の集い」に行ったら
それは、梓みちよショー、だったんだけど、一時間前に着いたのに
会場の外まで行列だった。としよりは、はやく集まるものである。
それで明治公園には一時間半まえに到着。
わたし。友達。もうひとりの息子。
平和運動というと、60代、70代が主流だから、用心したのである。

それがよかった。
会場は立錐の余地もないというふう。
なにせ5万人集会に6万人も参加したのだ。いやまてよ。
私の大学時代の友人ふたりは、混雑のため駅から会場にたどりつけず、
あきらめて帰ったというのだから、じつはもっと多かったのではないか。
若い人が多く、こどもをつれた母親も多く、もちろん50代、60代も多かった。

連帯感というけれど、こんなホットないいものは、近頃ないんじゃないか。
なにしろみんなが、原発に反対なのである。
風船をもって、ハーモニカをふいて、ハイヒールで、登山靴で、女の子で、
白髪で、サラリーマンで、フウテンで、どこかの誰かで、とにかくだれでもよくて、
原発反対 。

のびのびできた一日だった。

2011年9月16日金曜日

「修繕の日」

歯医者さんが、「朝から食べてないんじゃ麻酔がちょと」「しないほうがいい」と、
奥歯を引っこ抜くはずが、「準備」になってしまった。ホッとした。
時間ができたので次に内科医へ。ここでは太ってはいけません、と言われた。
なにかありませんかときかれたので、ええと太りました、と答えたら。ははは。
家に帰る。自転車のパンクの修繕が終わっていた。ご近所さんがして下さった
ことである。幸運、なんでもできる人の近くに住んでいるなんて。

今朝は草取りもすこしやって、生垣のあたりがすっきり。

十時に互助会ともいうべきボランティアーの小会議に出席。
私が住む団地は約百所帯のこじんまりしたもので、七十代の人たちが素晴らしい。
会議は今のところ少人数であるが、これもゆっくりしたもので楽しい。
紳士だなあ、とみなさんをながめる。

新聞の運勢をみたら、ひつじ年
ー 人に生れて役に立たない人間は人間失格である ー
気に入らない。
役に立つ人ばっかりだと、お役に立とうと思う気持ちの立つ瀬がなくなっちゃうわよ。


2011年9月14日水曜日

ノート

むかしのノートをさがすが見つからない。
忘れた言葉、思い出したい詩。本も見つからない。

かたはらに 秋ぐさの花かたるらく ほろびしものは なつかしきかな    (牧水)



2011年9月13日火曜日

千坪を制す 


私の机は園庭に面したガラス戸の前にある。
そこから、遊ぶ子どもたちが見える。
・・・・千坪の庭のほんの一部、戸板一枚分の視界。
つばめやひばり、そしてひよこの子。

新学期になって、ひよこ組(三才児)にとても小さい女の子が入ってきた。
早産で生れた子ども。
健康に特別心配はないそうでも、あまりに小柄なので不安である。
なにかというと私の目はその女の子をさがしてしまう。
見れば終日無表情。笑わない。寒そう。つくづく小さい。
小さな手がぎゅっと担任をつかんでいる。
離そうとしたら泣いたのだろう。ほっぺたが涙だらけ。
ずーっとそんな調子なんだときいた。
まあ先生独占にはちがいないけど、無理もないでしょ。

とあるさんさんと春の陽ざしのふりそそぐ昼さがり、
あの小さい小さい女の子が、自分の横に来たでっかい(そう見えてしまう)坊やを
小さなこぶしでもって、ボカンボカンとなぐっているではないか!?
大きいとはいえ、なぐられてるほうだってまだ三才、入園一ヶ月である。
反撃がこわいなーと見ていると、彼は彼なり痛くも痒くも座ったきりで。
おおようにパンチされつつ、悠然とちょっかいしごと?を開始または再開。
小さい方はもうカンカンのかなきり声。
職員室できくと、あの親指ヒメちゃんには、たいした根性があるんだとか。

冬が完全に去って、夏も終わり、秋がくるころ、ひよこ組のこどもたちが
おちついたのがわかる。こども同士で遊ぶのだ。

あの子が視界をよこぎる。
ひとり、決然としてどこへいくのだろう?
仕事のある私は机の前に座ったまま考える。
手にバケツをつかんでたけど、バケツの中には砂が入ってるんだろうか?
それとも砂か泥をさがしにいったのか?
彼女が出かけた方角には、砂場とブランコと畑がある。
さてと。なが旅から、同じ姿がバケツといっしょに引き返してくる。
とっとっとっ。とっとっとっ。
あいかわらずの無表情、個性そのもののぶっちょうづら、あの一心不乱。
むこうでなにをしてきたの、あなたは?
園庭って、もしこの子になってみたら、どんなに広いところだろうかしらん。

砂漠かな。

かけめぐっている無数の園児をものともせず、ひとりで出かけようなんて。
なんと勇敢。
千坪を制す。
三才がそこをわがものとはやくも理解したのだ。
あなたの前途はきっと洋々ね。
そう思う。



2011年9月10日土曜日

ライブ 松元ヒロ『ひとり立ち』

新宿明治安田生命ホール 松元ヒロライブ。

ヒロさんのライブが好きで、以前はチケットを20人分予約し、みんなに
買ってもらっていた。ぜひ観てほしいぜひと、頼まれたわけでもないのに。
90分間を大笑いしてすごす楽しさ、である。

松元ヒロはひとり語りで、
今日の政治にかんする言いようもない私の、みんなの、
わが怒りわが腹立ちわが憤慨を、おかしな具合にじゃかすか、
もうありとあらゆる方法で、表現するのである。
なんてったってスカッとしてしまう。
それでいて、彼はぜーんぜん下品じゃないのだ。
今回は香月泰男という画家についてのコント、描写がとてもよかった。
耳から入ってくる文学。ユーモア。そして日本の歴史。

幼稚園で働くようになって、私はどこにも行けなくなった。
くたびれるものだから、働くだけにどうしてもなってしまう。
しかし働く日々は、それはそれでよいものだった。
ヒロさんが舞台上に描き出す世界、
日本という国のおかしさやゆがみ、かなしさや、理不尽な現実のなかに、
たぶん一番よいかたちで、自分も参加できていたから。
子どもはおかしく、親たちもおもしろくって、私はいつも笑った。

でもまたヒマになったので、今度は劇場にみんなをさそって、
みんなで大笑いしたいなーと思う。
よろこんだり、笑ったり、よくわかったりする時間をふやす。
そうやって、みんなで生きていくのだ!
気持ちはあっても、私は自分じゃ、あんなふうに語れない。
あんなふうに人を笑わせられない。
残念だ。
でも残念だけど、いいじゃないの、ヒロさんがいるから。

2011年9月8日木曜日

ワシントン ナショナルギャラリー展へ


アメリカのナショナル ギャラリーが今回はたくさんの絵画を
貸し出してくれたのだとか。
朝はやく美術館に行ってみたら、もう行列ができていたけれど
それでも比較的ゆっくり、見たことのない絵もたくさんながめて、
散歩のような時間を過ごした。

印象派、それから後期印象派とよばれる人たちの作品。
ロートレックの『カルメン・ゴーダン』を、とても美しいと思う。
小さい絵が金色の素晴らしい額に入っている。

働きどうしらしい、そんなに若くもない黒いブラウスの女。
灰色の荒れた手の彼女は、暗い壁を背景に、
棕櫚の鉢植えの前にすわり、光の来るほうを荒々しくみつめている。
けわしい横顔とまっすぐな姿勢の緊張。
ロートレックがとらえて描きだした外からの光が、
この女のあかい前髪をやわらかくふわりと輝かせ、
そのやわらかな光の放射が、暗黒を照らすランプのように、
絵の中の彼女の、灰色がかったきつい青い目、不満そうな口、
白い首や、寒さで赤らんだ頬や鼻、そういったなにもかもすべてを、
すばらしく美しいものに、
美しいとしかいえない姿に変えてしまったわけである。

とらえられた永遠。
きびしい労働のみが可能にした美の領域。

トゥルーズ・ロートレック (1864-1901)

2011年9月7日水曜日

おーい、遥さん

ははは。あーあ。 あなたに言われたとおり、毎日ブログにむかいましたが、 ブログのほうで、動かせないっ、とどうしてだかガンとしてゆずらないのよ。 個人で解決しろ、とあなたの弟が言うのでがんばりましたが、どうしてもダメ。 それでまたもや空白期間が。 やっと今日、たすけてもらって復活できたのかも。 私は元気で、あっちに行き、こっちに行きしてくらしています。 これでなんとかなるかどうか、「短い文で確かめてください」と なおしてくれた人が言うので、ご連絡まで。

2011年9月3日土曜日

憲法の集い2011 鎌倉 ①

4月9日(土曜日)
鎌倉九条の会はこの夕べ、井上ひさしさんを追悼する大集会を行う予定であった。
会場は鎌倉芸術会館、大船。講演者は、内橋克人、なだいなだ、大江健三郎の三氏。

私のことなど言うにあたいしないが、もう遠くて。
明日日曜日は会議だし体力が無い。行きたいのだが行けると思えない。
土日休まず、ぶっ通しで次の一週間働くなんて、今の自分にできるだろうか。
参加するべきだ、参加するべきだ。
やめようと考えては思い直す。
疲労で呆然としながらクルマを運転、午前中の仕事を片付けてもまだ迷い、
やっと決心がついて、チケットを手に入れ、大船へ。

3.11以来、
「破滅の日」が巨大な壁となって私たちの目前にそびえ立っている。
その感覚。孤独そのものの認識。
かつて大江さんに指摘された、いや大江さんだけではない、
学者、原子力発電所で働いて死んだ人、この団地の住人。
映画、芝居、講演会、買い求めて途中まで読んだ本も雑誌も。
友人たちとの会話、みっちゃんが個人で出し続けた反核家族新聞だって。
私たちみんなをかこんでいた、原発の恐ろしさを告発する論理の集積。

冷笑をうかべ、片頬をゆがませ、わずかに唇をひんまげて、
原発がなくてどうする、、米軍基地がなくてどうする、
あなたたちは今みたいに暮らしていかれないよ。
そういう男は多く、
主人がそう言うんですし、難しいことはわからないので、という女は多く。

私といえばいつも、なまはんかに位負けして。

この日、大江さん、内橋さん、なださんはどう語ろうと決めたのか。
作家。経済学者。精神科医。
彼らが加わる民主的運動、彼らの言動、彼らの書くもの。
私は知識と誠実をあわせもつ人の見解をきいて、その上でよく考えたかった。
原発に関する知識をもう一度、と期待したのでは無かった。
破壊の巨大さから言って、なんにもわからないなんて大人のいうことではない。

破滅だとしてどうする。
それが私たちみんなの、今日只今の正直で切実な疑問というものだろう。
私たちはそれでも生活し、子どもたちを育て、死ぬ日までは生きるのである。

なんにせよ、知らない顔ではいられない立場というものがある。
職員と親と子どもに対して、園長とはそういうものではないか。
共同体の人々に対して、年寄りとはそういうものだろう。
親であるということもそうだ。
父親であれば母親であれば、子どもに対してヒトはそういう立場に立つのである。
程度の差こそあれ、おとなにはおとなの責任がある。
ふだんはどこかのんきで、そんなことは思いもしないのだけれど。

日ごろ幼稚園は幼児の保育をになう、一見平和なばかりの現場である。
幼稚園には幼稚園らしいイメージというものがガンコに存在している。
日々平安を土台に、政治だの運動だの激動だのを徹底的にきらうのだ。
しかし、命は、日々の生活に支えられ、生活する者は明るい見通しを必要とする。

見通しをもちたい。日々平安につながるなんらかの。
亡き井上ひさしさんは、私たちにのぼれる階段を示す人だった。
実行がむずかしい高級な理論ではなく、と、ヘトヘトの私はいま一度ねがった。