2011年11月30日水曜日

メタセコイア

いそがしい。
ちらっと空をながめると、メタセコイア通りでメタセコイアが、
赤毛のアンの頭の色みたいに(と私は思うんだけど)なってきた。
並木の道のあかるく派手な紅葉って、すばらしい。
あとで歩道橋の上に、走っていって、見てみよう。

あの大樹のしたで、ぼーっと本を読み、だれかが熱い紅茶をわたしてくれて、
すると、どこかの学者が彼方から幻影のように現われ、
ちょっと読んでる本の解説を・・・・・。
なーんて考えても、ダメのダメなのよ。
こういうのを、見果てぬ夢、というのだろう。

2011年11月28日月曜日

ごちゃまぜな集まり


土曜日、
15・6人のパーティーをひらく。
息子のバンド仲間とその知り合い、私の友人も参加のごちゃまぜな集まりである。
まあ、一日やってる。
時間がきまっているのは、一日のうち夜の8時だけ。
被爆体験をしたご近所さんにきていただき、放射能の内部被爆の話をきき、
具体的かつ有効な「対策」「考え方」「生きるということ」を、教わろうと。
あとは、ブラジル料理とヴェトナム、タイ風料理をたのしむ。
帰れなくなった人たちもいた。
ここの終電車にまにあっても、乗り換えにまにあわない。

それから、朝がきて、午前5時30分。
遥とリック・ヘンドリック・ミヒール・エンセリングがオランダへ。
娘たちがたっていったあと、しばらくしてやっと、
小鳥が二羽、夜明けの空の下で、きりもなく囀るのが耳にとどいた。
・・・・・あわただしいわかれ。
うまれてからずっと、ついさっきまでいっしょにいたような。
そんな気のする優しい娘だけれど。

パーティーにきた人たちは、
79才になるご近所さんに会えて良かったと、言った。
それはホントウにうれしいことだった。
みごとな老人には、後世にのこる本みたいなところがあって、
直接ながめたり話したりできると、こっちがピリッとして幸せだ。

今年の大仕事を終えた・・・という感じ。
息子の仲間が集めた会だから、知らない人もいたけど、
そこがめずらしいし、おもしろいし、楽しいのよね。




2011年11月25日金曜日

冬がくる

柿の葉っぱが全部おちた。
見ると、メタセコイヤ通りが、釘のサビみたいな色になっている。
秋名菊の花びらも、みんな落ちた。
いまごろになって、チョコレート・コスモスが、咲くのだ。
コスモスなのに、秋というより、冬の色。

日本の冬は暖かいらしく、
家のまえの藤棚の下のベンチがお気に入りらしいリックさんは、
JAPAN とかいう本を、冬だというのに半そでしゃつで読んでいる。



2011年11月23日水曜日

大爆笑

家のなかに、私ひとりだけしかいないのに笑った。
ひとりっきりだというのに大爆笑するなんて、
どうかと思うけど。

このあいだ読んだ「笑うふたり」の続きに、高田文夫著という雑誌を、
つい図書館で、
借りたら。

「銀幕同窓会」ー白夜書房 2001年9月初版発行

またしても高田さんの対談もの。
大瀧詠一さんがゲストで 『 あぁマイトガイ!』。
ほかのゲストが登場する日もある ー池袋文芸座復活ー 公開対談。
しかし、大瀧・高田コンビはゼッタイ無敵である。むちゃくちゃにおかしい。
ほかの人物の時だって(爆笑)と書いてあるから、
きいている人はおかしかったのだろう。
だけど『 あぁマイトガイ!』にはかなわない。

話のなかみのマイトガイ、小林 旭。
この、「最後の銀幕大スター」一世風靡の粗雑モーレツ。
小林 旭はひとりじゃおかしくない、こわいぐらいのもん。
だから大瀧・高田コンビの奇天烈な解説話芸あっての話なんだけど、
私だって小林 旭の映画をなんとなく二、三本観ちゃてたあの頃だ。
あぁマイトガイ。
これって、なにがなんだか知らなくても笑えるものかしら、話芸だけで?

30代以下の人に読んでみてほしいなーと思う。




2011年11月22日火曜日

一軒家のライブ


千歳船橋と桜上水のまん中あたり。
古色蒼然でもない、ごく中古の住宅地に、
しっかりした車庫つき木造の家をスイッと借りて、四人の、
なんというのでしょう、
ロックバンドのメンバーが住んでいる。

「生活の柄」ということばがタカダワタルさんの歌にあるけれど、
彼らの働く生活のガラが、いかにも感じられる雑然として!いい「家の中」だ。
道路をはさんで、夏だと幽霊でる?みたいな向かいの家屋。
その敷地の樹木が、こっちにはみだすように茫々と茂っているのも、
彼らの生活の柄をものがたるよう、そんなもんなんだなーまったく。

どういう幸運か、防音でもないのに音が外に漏れない幸福な家。
そこで、
同居ロッカー四人は、家の中で、練習だけじゃなくてライブをと。
この企画は人数限定らしい、大勢だと畳の上でも座れなくなるから。
演奏したのは五グループだった。
私なんかよく、そんなところに招待してもらえたと思って。
なんという贅沢。
音楽をきかせてもらいながら、イッパイのんで、息をすったり吐いたり、だ。

たのしい夕暮れで、わくわくとした一夜だった。
いつか、私の家にも、この人たちがきて、
よく知っている子どもの親たちにあってもらえたら、と思った。
彼らこそは、幼い子どもたちの、すぐその先をあるく人たちだからである。


現代の表現には、
いったいなにが重要なのだろう。
むかしはいつも、よくわからなかった。
どーでもいいじゃんか、と思ったことは一度もないんだけど。

けっきょく、
表現というのは、あそびがないと息ぐるしいから、
いろいろあってよいのだろう、
それでも、人の心をうつ作品が必ずもっている何か、というのはある。
わるいけど、やっぱりあるのだ。
いったいどの分岐点を通過することで、共感できる作品ができるのかしら。

あの日は、そういうことを、考えさせられた夕べでも、あった。

3・11以後、わが国の不幸は、とくに誰の眼にもあきらかだ。
しらない、わかんない、かんじない、たのしい、と言ったって、
厚く塗ったファンデーションの下の、日本のわが胸の底の此処に、
おわらない原発 がある。
歌だろうと説教だろうと、「カンケーねえ」ことを表現する場合にだって。

表現の原点は、いまや整理されてしまった。
対抗も、反対も、ぎゃく表現も、無視だってありだけど、
おわらない原点にドン感だと、自分がおもしろいだけ、になってしまう。
どうしてかって、
音楽をきくだけの、楽しみたいだけの (Tシャツのロゴを失敬すれば、
looser とでもいうんですか) 私たち観客が、
例外なく、悲しみとともに、おわらない原発の上に立っているからだ。

「抗議」しないなら「生活の柄」をとらえて語る。
どっちかを、まず。
そういうことかも、と演奏をききながら、自分も考えるのが楽しい。
生活の柄というワナのような枠にはまった自分を、
いろんな自由さで、のびのび語れたらなー。

タカダワタルは酔っ払いだったけど、ガンコだった。
自分ひとりで哲学をさがした。芸術人だから本もたくさん読んだろうけど、
吉祥寺の「伊瀬や」で酔眼朦朧・・・・・、
彼は偶然あつまった人々をながめ、タカダワタル的な表現で、世界を説明した。
ま、そういう時代。そういう生活の柄。ワタルさんだと。
哲学って、いかに生きるべきか、を表現にこだわってさがすことだと思う。


2011年11月21日月曜日

リソースルーム


2009年の5月といえば思いがけなく幼稚園の園長になって一ヶ月がすぎたころ。
園内通信に、私は「自分にもどる場所」として、リソースルームのことを書いた。
プレイルームと呼んでいたその部屋の説明はこうである。
「幼稚園では、職員室と調理室の間に、この部屋があります。クラスという多人数の中で、
ストレスをかかえすぎ、不安な気持ちになったり、安定を失ったりする子どもが、保護者と
担任の話し合いのもと、利用します。」

一ヶ月のあいだ勤務して、ざっと園内をのみこんだ時つくった通信だ。
園内の問題は、この部屋が安定することで落ち着くという判断を、私はしていた。

人間には、どんなヒトにだって、弱みがある。
会社でも役所でも学校でも幼稚園でも、団地の管理組合でもそうだけれど、
弱い者をそまつにしていると、いつのまにか自分の権利だって減ってしまう。
保育の現場のことでいうなら、
「クラスという多人数」にたえきれない子どもの心の痛みっていうのは、
いまでは会社勤めの一家の父親にまで蔓延した痛みだ。
まっ先に手をつけるべき社会問題として、保証し対処するのが当然だ。


さて、園内通信だけど。
左ページはリソースルーム担当保母の話
幼稚園は子どもの『社会性』をそだてようとしていますよね。
集団で、みんなで、遊ぶし、話し合うし、ね?

だから、支援の必要な子ども達は、
とても つらいんだと 思います。
集団が 苦手で。

だけれど
たとえ苦手でも、ここの保育のなかで、できるだけゆっくり、
たのしい園の生活を送ってほしい。
その方法のひとつが
ぷれいるーむ」です。

子どもによって、それぞれ
「プレイルーム」の使い方はちがいます、もちろん。
リラックスするために来る子もいれば、
クラスの中で 先生から話しをきくだけじゃ難しい場合、
かみくだいて、ゆっくり、時間をかけて 伝える。

保育を ていねいに 補う、そういうつもりです・・・・・。 


≪註≫   
ベテランらしい、やさしく考え深い表現である。                
幼稚園ぜんぶの子どもをこういう心がまえで保育できたら、
子どもたちはどんなに開放されるだろうか。
必要なことをぜんぶ言ってくれている、という声が
卒園していった子どものお母さんから、とどいたものである。


右ページは園長の気持ち。
さいしょ 幼稚園にきた頃 
おぼえなければならないことが多すぎて
頭痛 と言いますか
まー ガックリきまして おとななのに。
ヒヨコちゃんたちも、こうなのかな、とか 思ったりして。

それで くたびれると、

どこへ行ったかというと
 ぷれいるーむ
ちょっとステキな アコーディオンカーテンのむこうに
小さな机と 椅子があり、
誰も来なくて 静か。
しばらく ひとりでいると 落ち着く。 

プレイルームにはふたりの先生がいて それも、たのしいし。

そこは、あたたか味のあるお部屋です。
てづくりのウォルドルフ人形たちは
てづくりの人形の家にいて。 
この人形の家も、ふたつのテーブルも、バスの運転手さんが制作。
小型のトランポリンもあったりして・・・・・・。 


≪註≫) 
子どもとおとなの心の痛みはそんなにちがわないのだ。
それを癒やす生存に欠かせない安定した環境を、
おとなであれば自分がどこにいても、ていねいに整えるべきだと思う。
たぶん幼児たちのすがたから、直接学ぶのだろう、
リソースルームには、
人間の苦しさや悲しさをよく知るやさしい保育者が多く、
見ならいたいと思うことが多かった。


2011年11月18日金曜日

高田 渡的

タカダワタル的ゼロ、というタイトルのDVDがある。
企画は東京乾電池。俳優・柄本 明が、高田 渡(故)という老いたる歌手のファンで、
劇団を総動員、高田 渡のライブを主催もしたし、ドキュメント撮影もした。
楽しい。泉谷しげるも参加共演しているがダイナミックな名演奏。

高田さんはシンガーソングライターで、若いときの逆説揶揄ソング「自衛隊に入ろう」が
大ヒット、放送禁止になったりして有名になった。一生を通じいろいろな歌をつくったが、
マリー・ローランサンや山之口 獏の詩に曲をつけて、つまり他人の詩に曲をつけて
歌いもした。

私の家で朗読の稽古をして遊ぶ人のなかに、山之口 獏の詩をすごく上手に語る、
佐賀育ちの武蔵野幼稚園のお母さんがいるが、今となっては、
山之口 獏の詩は、タカダワタル同様に、知る人ぞ知る、というようなものなのである。

このDVDでは、獏さんの「鮪と鰯」を高田さんは歌っている。マグロとイワシである。

    鮪と鰯      山之口 獏       

鮪(まぐろ)の刺身を食いたくなったと
人間みたいなことを女房が言った        
言われてみるとついぼくも人間めいて
鮪の刺身を夢みかけるのだが
死んでもよければ勝手に食えと
ぼくは腹立ちまぎれに言ったのだ
女房はぷいと横むいてしまったのだが
亭主も女房も互に鮪なのだ
地球の上はみんな鮪なのだ
鮪は原爆を憎み
水爆にはまた脅(おびやか)かされて
腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
ある日ぼくは食膳をのぞいて
ビキニの灰をかぶっていると言った
女房は箸を逆さに持ちかえると
焦げた鰯(いわし)のその頭をこづいて     
火鉢の灰だとつぶやいたのだ

(1954年3月太平洋ビキニ環礁で
第五福竜丸が水爆実験により被爆)



人は、さまざまな繋がりのなかで暮らすものだ。
その繋がりが、まとまりをもって浮かび上がるのが、今現在である。

広島、長崎への、アメリカによる原爆投下の被害者は、三多摩にも住んでいる。
私のご近所さんに、
たび重なる米ソ核実験の影響下、仕事さきで(日本)内部被爆した方がいらっしゃる。
1958年以来、現在にいたるまでの、闘病。くらし。考え方。
その方の経験こそ、現在私たちが、教えてほしい、切実に知りたいことだと思う。

もうすぐ80歳になるというこの方の、
明るくて真っ正直、自分勝手なところのない人柄が、私はなんて好きだろう。
わが団地の植栽委員をずっと引き受け、年中作業着すがたでいる人で、
おはようございます、と会えば私は言い、
いつもお世話になってありがとうございます、と言う。
近所でいちばんご迷惑をかけ、お世話になっているのが自分かなーと。
私は、いまその方とわが居住区の、高齢化対策ボランティア相談会で同席。
高齢化ゆえの特権。お人柄と一体化した東北なまりがじつに気持ちよく、
ごいっしょできて光栄である。





2011年11月17日木曜日

外人その2

「おかあさん、わるいけどナイフとフォークとスプーンをかしてね」
あとで返すから、と遥がいう。
「日本のレストランって、箸ばっかりなのね。リックは練習してきたんだけど、
やっぱりムリみたい」
そうかなーと思いながら、持ち歩き用にワンセットもたせて、
「どんなとこに行ったの、レストランって?」
そうしたら牛丼屋だって。ナイフとフォークがあるわけないじゃないの。
うちでも、ひき肉ハスのはさみ揚げみたいなものをつくって、
うっかりと中皿と生姜醤油用に小皿しか用意しなかったら、
リックさんはナイフとフォークをせまい中皿の上で苦労してあやつっている。
「みないでくださいねって言ってる」
とおかしがって遥が。
血も涙もないやつで、すぐヨコの食器戸棚にお皿ぐらいあるのに、
そのまんま、メンドウはみないのだ。

リックは正確なところ身長193センチ、うっかりすると100キロを越えてしまう
のだそうだ。日本的サイズの室内を警戒して、椅子から立ち上がるとき、もう
首をすくめて、ねこ背になっている。そうしてみると、おなじタイプでも、リックの
両親の家はオランダサイズで、我が家よりタテが大きかったにちがいない。
物静かで、はずかしがりやで、とても礼儀ただしい。
見事な体格だから目が楽しい、いても気にならない。

食事中、遥がリックと私をふたりきりにする。
黙っているのもなんだかなので、内気なリックさんはタイヘンである。
私はエイゴがダメのダメだし、内気じゃなくても短気だから、しまいに、、
わたし日本語、リックオランダ語で、それぞれが自国語で話したらどうでしょう、
そっちのほうがスッキリわかるかも、なーんて非科学的なことを考えはじめる。
やっと戻ってきたから遥にそう言ったら、
「いや、ちゃんと英語で話をしてたよって、リックが」

やさしい人で、これなら娘は安心である。

2011年11月16日水曜日

外人用プチトマト


遥がリックとオランダから到着。
霧のため飛行機が飛ばずドイツの飛行場で六時間待たされたという話。
午後九時に着いたのでもうお腹はいっぱい。
ふたりとも元気で、にこにこしている。

そして朝がきた。今朝である。
娘によると、リックの朝食は冷たいままのほうがいい。
外人って、そうなのかー。
温めちゃいけないの? ときいたら、まあかまわないんだけど、と言う。
かまわなくても、冷たいほうがいいんだとして、冷たいものはあるから。
パン、胡瓜、ハム、そして昨夜三人で会話した時のプチトマト。

会話は、オランダ語と英語と日本語で行われる。
リックがいい人だから、これは愉しい。娘が通訳するのでラクチンだ。
さて、パンは長男の店のカンパ-ニュ。胡瓜とかボンレスハムはそのまんま。
そして冷やしたプチトマトである。友達が入院中の友人に携帯でききだして、
レシピを置いていってくれた、私にもできるはずの未知の食品。
オレンジジュース、ワイン、塩、ハーブなんでも、のミックスジュースをつくる、
そのなかにプチトマトを入れ一日以上まえから冷蔵庫で冷やす。
それだけの手間でよくて、すばらしくおいしいという評判の一品。

どういうことか、昨夜ビールをのんだ時は、
まだ、まったく、味がただのプチトマトと変わらなかった。
でも、一晩たった今朝はどうか。
「外人用のプチトマトなのよと、私が強調しているって話して」
遥はオランダ語でリックに説明し、自分もプチトマトを食べリックにも食べさせ、
「お母さん、あのさあ、これさあ、ふつうのプチトマトとおんなじ味じゃない?」
リックは、そうは言わなかった。
ヨーロッパ調で、礼儀正しく椅子にゆったり、しかもまっすぐに腰かけ、
「いや、ぼくにはハーブのかおりもワインもよくわかって、やはりおいしいです。」
と言っているわよ・・・と遥が言うから、
「あなたはとても親切な人なのね、感心したと私が言ってると伝えてちょうだい」

リックは、腕組みをして、わっはははとしばらく笑った。そして、
「ぼくはゲストなので失言したくないのです、まあ、よい人でいようとしています」
そう言ってると遥が言うので、私たちはみんな、プチトマトの前でふきだした。

そういうわけで旨みはこれからだろうに、プチトマトを全部食べてしまいました。


2011年11月15日火曜日

クリスマス・リース


上北沢に行くと、ついついそこの花屋さんをのぞく。
買うときも買わないときもあるけれど、とても楽しい。
店内の空気がシンと冷たくて。
たくさん用意された異国の花や木の枝の、種類や置きぐあいがよく、
花瓶もそうだがふつうのブリキのバケツまで素敵に見えてしまう。
水がなみなみと行き渡って、呼吸がラクになるという感じ。
クリスマス・リースをさがすと、大輪の薔薇で作ったリースが、
今日はひとつだけコンクリートの壁にかかっている。
値段が、ものすごそうだと思う。
「リースは、ここにあるものだけですか?」
臙脂色のカラーを3本とユーカリの枝を買ったあとでたずねたら、
奥の作業場のほうにありますと若い人が言った。

なんともいいのは、鶏頭の花のみ、のリースだった。
中原淳一的な、色合いもどっしりしてあやうく野暮になりかねないような。
臙脂、黄色、牡丹色。なるほど、これだってもすごい値段である。
「鶏頭が思いのほか、たくさんいるものですから、あれは」
初老のご主人が言う。この人が作業場でリースを作っているのである。

椅子をだしてもらったので、ゆっくりと腰掛け、
自分の家の壁によいような、簡素なリースを私は作ってもらった。
一時間ほどくださればお作りしますと言われて、嬉しくなって。
私が気に入ったリースは、樹の枝葉ばかりで出来ていて、台座は、
オリーブの枝を編み上げて作った、地味めなものだ。
そこに小さな茶色の実をつけたスギの大枝をななめに取り付け、
私はリボンが好きじゃないので、
その代わりに枯葉や松ぼっくりを多めに飾ってもらって、出来上がり。
可愛らしいけど野趣があり、野山の冬が家の中に引っ越してきたような。
どうです、ちょっと素敵でしょう?

2011年11月14日月曜日

一生のピーク


おばさんが言った。
「いま思えばさあ、子どもを育ててたころが、一番幸せだったよ」
「ほんと!? ウソだぁ!」
私が言う。
「なにがウソなもんかいアコちゃん、本当だに。あのころはさ、めた幸せだったよ」

学生時代、信州信濃追分の民宿に、毎年、夏だけお世話になっていた。
おばさんはその家の主婦だったから、18の私が38とか48とかになっても、
私をアコちゃんとよぶのだ。
追分村で夏を過ごすことがなくなってからも、親の手元からはなれた私に、
おばさんは林檎や手作りの味噌や畑の野菜なんかを箱につめて送ってくれた。
糠漬け絶品という、なにをやっても人一倍できる日本の主婦である。
子どもが大きくなると、私はボロ車を運転し、むかし沓掛いま中軽井沢の
街道沿いにおばさんを訪ねた。おばさんが始めたカフェ一らしき飲み屋で、
むかし楽しんだ料理をつくってもらい、裏の小部屋に泊めてもらったりする。
私はおばさんの料理上手、子どもへの献身、生活力にいつもおどろいていた。

小諸の方角だかに新しい養老院が建ち、そこにおじさんが入っているというので、
お見舞いに行ったこともあった。
おじさんは鉄道工事の人で畑と兼業、頑健寡黙な男だった。
おじさんが畑に行く時、泥んこの小型トラックに乗せてもらってついて行ったっけ。
たずねれば質問にこたえてはくれるが、たいがい黙ってなにかの作業をしている。
おじさんの泥のあとびっしりの地下足袋のしたで、地面や小粒の砂利の音がする。
黙ったまま、彼の日は経ち、彼の日が暮れる。そんな武骨で重たいような人が、
酒やけした声で、おばさんのいうとおりに、私をアコちゃんとよぶから、
みょうにちぐはぐな気がして気の毒のようであった。

おじさんとおばさんは一生すごく仲がわるかった。
こどもたちとも、心がかよう風でもなかった。

おばさんは未婚の若い私からみれば不幸な人であり、結婚して私自身が苦しくなって
からも、幸福とは言いがたい人生をおくっていた。
・・・多少わかるところがあっても何もわからなくても、所詮どうしようもないが、
ただ途方もなくこわい疑問を、おばさんからもらったように思う。
子どもを育てている時が一番幸せ、というのが真実ならば。
もしかして今の今が、私の一生のピークだとしたら。
いったいどうしようというのだろう、自分は?
考えに考えても、立ち往生するしかなかったが・・・・・・。
子どもとくらす時間のなかに、幸福というものの元素のキレハシでも見つけて喜ぼう、
そういう態度にはなったのである。



2011年11月13日日曜日

ききじょうず・付録


高田  谷さんちが火事で焼けたあと、庭で麻雀してたっていうのはなんなんですか
     (笑)     
谷   そのころ麻雀をよくやってたんで。
高田  なんだかわかんない人だね(笑)
谷   もうすることがなくなっちゃったんですよ。見舞いの人がやたら来るし、ここでうろ
     たえてもしょうがないし、町内会の人がテント張ってくれたんで、麻雀引っ張りだし
     て。    
高田  普通やらないよな(笑)
谷   冬だったんですよ。1月19日だったかな。で、焼け跡におまわりさんがずっといる
     んですよ。だから、テントのなかで小声で。
高田  小声でポン(笑)
   今日は俺、家焼いちゃったから、ツイてないからレート半分に下げて。
高田  俺ツイてないからって(笑)
   そしたらツイちゃったんですよ。ああ、倍にしときゃよかったと思って(笑)
高田  何考えてんだか、この人は(笑)
谷   でもお見舞いに来た人が「よかった」って。
高田  谷さん、元気なんだと。
谷   うん。
高田  ポンなんつってるから(笑)   
谷   でも、なべおさみが駆けつけてきたとき、相談したんですよ。麻雀は不謹慎だろう
     かって。
高田  相談しなくたって普通思いますよ。不謹慎だって(笑)
谷   「今日はやめといたほうがいいかね」って。そしたらなべが「何言ってるんですか、
     今日やらなくて、いつやるんですか」って(爆笑)



ききじょうずになりたかったら、環境も必要みたい。

2011年11月12日土曜日

ききじょうず


『笑うふたり』(中央公論社)という本を、古本屋で買った。
副題を ー語る名人、聞く達人ー という。
100円である。もとは1500円もしたのに。
語り手が、
伊東四朗、三木のり平、イッセー尾形、萩本欽一、
谷 啓、春風亭小朝、青島幸男、三宅祐司、立川談志。
この人たちと高田文夫さんの対談。
用心したのか、カバー絵・装丁がビートたけし。1500円でも不思議はないけれど、
あっというまに読了というのが、料金設定上の弱みだろうかしら。

なるほど高田文夫という人は、非常によい聞き手である。
間がよくてスピーディーでカンがいい。
語る相手との間に、自分の時間を使って創った歴史をもっている。
相手の専門分野を、高田的好奇心でよく調べ、よく知っている。
相手のどこが傑作なのかひと一倍心得ていて、待ちかまえるのである。

つまり、あいづちがいい。人とはちゃんとつきあう。つきあう相手は選ぶ、の三拍子。

「笑うふたり」の組み合わせがヒットした場合、対談に相互間の敬意がうかがわれ、
話術の妙が冴えわたる。ふたりも笑っているが、読んでるほうだって笑うわけだ。
語り手と聞き手が同格ということは、気持ちよくさわやかで、
組み合わせのもっとも成功した例が、聞き手高田文夫に対して、
谷 啓、青島幸男(当時都知事)、伊東四朗、そして三木のり平だと思う。

それなりにやっぱり、たいへんなことである。

2011年11月10日木曜日

amazing story


ーamazing story   または surprising story を話しなさい。
英会話の宿題。
まー、不思議な話があったら、ということでしょうか? 


2004年、私はひとりで飛行機に乗って、モスクワ経由でペテルブルグへ。
夏のことで手荷物のみの一ヶ月の旅である。
疲れきっていて、ロシア大使館にヴィザをもらいに行くのさえ苦しく、
出発するだけで大変。だからなんの準備もしないのだ。

何時だかわすれたが、ペテルブルグの到着ロビーは薄闇のなかにあり、
迎えにきた娘に連れられて扉の外にでると白夜であった。
・・・・・白夜。
考えてもいなかったのに、白夜というものがそこにある。

エレベーターで地下鉄の駅へ降りていく。大きくロシアらしい地下鉄である。
ここで降りるのよ、と言われて電車を降りた。
「ネフスキー大通り」と、遥が教えてくれる。
様々な時代の素晴らしい建築や運河に架かる古典的で豪華な橋。
そしてネヴァ河。
「さくらんぼ、買いたい、お母さん?」
ぼーっとしている私に、遥がきく。
もちろん買いたいというと、大粒のさくらんぼを二種類一キロづつも買うのである。
重たくないの? ときくと 「へいきだよ、うん」。
娘はロシア人みたいになったんだなあと思う。
私の荷物を持ってくれて、さくらんぼも持って、自分のバッグは肩にかけている。
遥の住居はスウェーデン人街とかにあるので、見物しながら歩いて行くのだが、
私はおかしな気になって、気分がどうもヘンだった。

橋を渡る。遥が話す。またべつの橋を渡る。遥が説明する。
ゴーゴリだとか、トルストイだとか、ドストエフスキーだとか、ツルゲーネフだとか、
それからもちろんピョートル大帝・・・・。いろいろな話。
私はヘンな気分だった、どうしてなのかわからないのだがおかしい。
なぜだか、ネフスキー大通りが隣人だったような気がしはじめて。
はじめて遠いロシアという国に来たのに、
自分はこの大通りを知っているのだ。
ネフスキー大通りのことを。

デジャ・ビュ。 既視感というもの。

遥について、霧のなかを歩いて行くような感じで歩き続ける。
通りは人でいっぱい、ロシア人で。ジプシーで。
突然、記憶がよみがえってくる。
そうだ・・・・、私の人生の最初の夢なんて、「ロシア文学者になる」ことだった。
中学校で将来を問われた時、そう書いた子どもの私。
高校生のころ濫読した数々の本、大学でとった第一外国語。
それらのページの中に、遥のネフスキー大通りが、あった。
どうしてこんなに完全にすべてを忘れてしまったのだろう。
信じられないことだと思った。
私は忘れてしまったのに、夢のほうが私をおぼえていてくれたなんて、
それがもっとわけがわからないことであった。

人生のどこかで、ねじ伏せ、沈黙し、諦めてしまった夢。
ああ、あの夢が私の本気というものだったのだろうか。
それが、いま都市のすがたをして悠然と片膝をついたのだ、という気がした。
amazing だった。




2011年11月8日火曜日

エイゴ

ちかごろ楽しかったのは英会話のクラスのポスターを作ったこと。

このエイゴというのが私には苦の種で、クラスは中級、ムリの無理で。
出席したところでほとんどチンプンカンプン。
たとえ話がわかることがあっても、「英会語」で会話、なんかできない。
じゃあ、なぜ初級じゃないんだと人はきくかもしれないけれど、
空席が中級にしかなかったのだ、そのときは。
いやーこまるな。
今のうちに、なにかムリなことをしないと記憶力が、という危機感。
まあいいか。
英語エイゴといったって先生だけが外国人、あとの出席者は、
どんなに英語がペラペラだろうと日本人なんだ。

大丈夫です、とみんなが言うから、そうなんだろう、と私は一応思った。
それはしかし、アバウトかつ超楽天的認識、つまり無考えというもので。
とにかく毎週教室に通っていますが、
月謝を半年分、先に払っちゃってよかった。
そんなことでもしなかったら、とてもつづかない。
だって私は、2時間、ほとんど日本語でたたかっているのである。
現象としては我ながらおかしいけれど、抜本的解決を神に祈りたい。

このあいだ市の文化祭に、わが中級英会話のクラスも参加。
さいわい先約があったので、うれしく欠席したのだが、
文化祭用にポスターをつくってもらえませんか、とたのまれたから、
「いいですとも」
日本語でうけあって、つくっちゃった。
できることが、ある、というのが楽しいところだ。
英会話のポスターだって、まあエイゴのうちというかんじ。

2011年11月7日月曜日

映画 人生ここにあり!

休日だから、下高井戸シネマでイタリア映画を観てきたと二男が言った。
「人生ここにあり」である。どうだったときいたら、
素晴らしかったそりゃあ、と言い、
あのね、感動のあまり涙がおれの目のふちまでせり上がって、
画面がうるんでなんにも見えなくなったから。
思わずタオルをだして涙を拭いたんだよ、その展開のたくみさに、だって。
うそばっかり。
私はげらげら笑ってしまった。
くたびれはてたぶかぶかの衣装で髪がのび放題、映画の登場人物とそっくりに
頬のそそげたルンペンプロレタリアートみたいな彼が、
タオルをリュックからだして涙を拭いたりしたら。
映画の登場人物たちが、観客席にいる息子に、こっちへおいでよと言いそうだ。
そっちへ行けたら、どんなにいいかと思う。
行ったり来たりする自由があったら。

2011年11月6日日曜日

小鳥が飛んで行って

コゲラが柿の木の幹を、つついている。
セッセ、セッセ、セッセ、・・・・・
らせんにまわりながら、忙しそうで忙しそうで、
早朝の朝ごはん いちいちシンケン
そうおもってたら
メジロがめずらしく大勢あつまってきて ひとやすみ
あわい抹茶のようなその色あいが
遅くはじまった柿の葉のらくよう(落葉)に
なんと似合っていることだろう
木の枝の上の
いかにも冬らしいたちすがた
いまごろこんなところにいるなんて、
小さなすがたが何羽となく、枝にとまり、
枝にとまりして
そしてふわり、そしてふわり
一羽 また一羽と飛んで、飛んで、いってしまう
ああ、小さくて あんなに軽いなんて

いいんだなあ



2011年11月5日土曜日

チラシを読んだ


八王子に市民による市民のための
食品放射能測定室を作りましょう!

きのう若いお母さんからこういうチラシを手渡された。

今朝になって、ゆっくり読んでみたけれど、とてもよい考えだと思う。
質問にこたえるかたちのチラシ。
食品放射能測定室を作るための、寄付金も、つのっている。
500円である。
500円の寄付をおねがい、というのはすごくいい。
ウンドーみたいなことはできないというヒトは、500円、ためしに出せばいい。
測定室がその無言の力で、沈黙の気持ちで、できちゃう。
できてしまえば、たとえ今は気乗りしなくても、いつでも使える。

ただし詐欺だとこまるから、よく知ってる人あるいは振込み先に振り込む。
よく知っている人のなかに、そんなことを一生懸命やってくれる人がいるなんて
プレゼントみたいなものだと思う。
わけを話せば、
祖父だとか祖母にだって、500円ならもらいやすい。
私はオランダから来る娘に500円玉をリックの分とふたつもらうつもり。
それぐらい、もらったっていい話でしょ。

500円玉が好きなヒトは多い。
大きくて、安っぽくなくて、500円玉限定だと貯金しやすい。
アストリッド・リンドグレーンの物語のなかでも
「さすらいの孤児ラスムス」が私は大の大の大好きなんだけど、
ラスムスは5ヨーレ玉が大好きだ。5ヨーレって5円かな50円かな。
こども心って、こんなものである。
ええと。この話はここでは関係がない。

チラシに書かれた質問は五つあったけれど、

どうして市民が測るの?

答え①②③のなかで (あのう、私は③に賛成なんだけれど)
福島第一原発の事故以降、
自分や家族の食事の安全は自分で管理して守る社会になってしまったから。


同じような機関はあるの?

答え。
小金井市ではチェルノブイリ事故直後から市と市民の手で食品放射能測定室を
運営しています現在は市民からの測定依頼が絶えないそうです。
全国各地で続々と市民測定室が誕生しています。

これはすごい!
チェルノブィリ直後からというなら、25年間持ちこたえたということでしょ。
市民税を使えばつぶれない、つくるのにさほどお金もかからない。

手に負えない混乱国家。
食品を自分で管理して自分で守るなんて、いったいどういう見通しで?
見通しもまた、わが貧弱なる頭脳で考えるっきゃない社会になってしまったのである。
頭のいいヒトたちが今日の事態をまねき、今日の事態を解決できないでいる。

それならどうするのだろう? どうしたらいいのだろう?
思案投げ首、お手上げの毎日。
でもその解決のひとつが、食品の市民管理、ということかもしれない。
少しでも協力して、少しでも良心的な、気持ちのやさしい知り合いをつくって、
大勢のヒトたちで具体的な相談をしながら、地道な解決をする。
私はそれが、とりあえずわかりやすくて一番よい方法だと考えているんだけど。

きのうもわざわざチラシをもってきてくれたなんて、私の家は遠いのに。
それだけだって、すがすがしい気持ちのよい顔が見られて、うれしいことだった。


2011年11月4日金曜日

1994年の手帳


物入れの中の茶箱を開いたら、引越しの際に投げ込んだまま忘れていた手帳が
でてきた。ぱらぱらめくると、読んだおぼえもない本からの書き抜きがある。

視よ冬すでに過ぎ 雨もやみて はやさりぬ もろもろの花は地にあらはれ
鳥のさへづる時はすでに至り やまばとの声われらの地にきこゆ 
無花果樹はその青き果を赤らめ 葡萄の樹は花さきて その馨わしき香気を放つ
わが佳糖よ わが美はしき者よ 起ちいできたれ 磐間にをり 断崖の匿処にをる
わが鳩よ 我になんぢの面を観させよ なんぢの声をきかしめよ
なんぢの声は愛らしく なんぢの面はうるはし われらのために狐をとらへよ
彼の葡萄園をそこなふ子狐をとらへよ 我等の葡萄園は花盛りなればなり

聖書を読んだのだろうか?
隣のページを見れば、月曜日、松沢病院とある。母を連れて行ったのだ。
1994年。子どもの学校に行き、仕事をし、日曜日は少年野球の当番。
どん底からぬけだしているのだ本当は。そう思いたかったのかしら。

良寛さんのことばもあった。

病気になった時には 病気になったほうがよろしく
死ぬ時には死んだ方がよろしく候
これ災難を免れる 妙法にて候

この時分の私って、やけくそだったんじゃないの。
たぶん、やさしい人になりたかったのだろう、でも、なんとしてもそうはなれなくて
こんな気持ちにあこがれたのだ。

君がゆく海辺の宿に霧立たば 吾が立ち嘆く息と知りませ
降る雪はあはにな降りそ よなばりの猪養の岡の寒からまくに

翻訳まで書いてあった。
よき人のねむるあの猪養の岡は寒かろう
雪よそんなに降りしきるな あの人の墓の上に。