2012年12月25日火曜日

かぶきちょうの子やくざ


ピカソが少年時代に書いた絵とか、習作のあとかたを眺めると、
10才でも13才でも14才でも、15才で描いた「初聖体拝受」など特に、
生まれた時からもう画家として完成していた、
そう断定されるわけだと思う。

老年のピカソを写真家が写すと、私が気になるのは目玉だ。
縞のかんたんなTシャツに短パン。
カメラのレンズを、大きな目玉が、ピカソが、なんの気負いもなく眺めている。
こんなドンピシャリの強い視線を、自分は対象にむかって当てたことがない。

ピカソの目玉。思うにそれは、自信というやつ。
自分の目でそのまま世界を眺めることを、自他共に許した目玉なのだ。
いいもわるいもなく、ということである。
そういうことが、日本の子どもたちにゆるされたら、どんなにいいだろう。
いいもわるいもなく、あるがままを自分の目で見るということが。

今日みたいな空気の冷たい、枯れ枝を陽光がキラキラくるむ日、
ひとりの子どもが私の思い出のなかを出たり入ったりする。
幼稚園で働いていたころ出会った、凶暴な顔した坊やで、
4才ぐらいなのにそれはもう迫力満点。
「かぶきちょうの子やくざ」というあだ名をつけたぐらいだった。
歌舞伎町の子ヤクザ、ですよ、すごいでしょう。
生まれて4年しかたってないのに、なんでこんなけわしい顔付きになったか、
私どもは親のせいにし、親は幼稚園のせいにする。
したがっていまのところは解決不可能、お手上げなのであった。

かぶきちょうの子やくざは凶暴で暴れ放題、
私など、担任が平然と対処する姿を遠目に見ては、よく平気ねとビクビクしていた。
それなのにある日、おさだまりの手が足りない朝がきて、
「園長先生、おねがいします、ちょっと15分だけ見てていただけますかっ」
そんなことできないと思っても、立場上逃げるなんて論外で、
「あっ、ちょうどいいところに来たじゃない」
紙の長剣をにぎりしめて、今にも私をブッ叩きそうな顔にむかって、私はにっこり、
かたわらの紙の山を見せ、
「運がいいわよあなたって。見てごらん、素晴らしいと思わないこの紙?」
私はゲームがきらい、保育もだめだ。
テキが長剣を持っていれば、私の話題はあわれ長剣に限定されてしまう。
ビビッているせいで気のきいたことなどなんにも思いつけない。
「これでそういう剣をつくったら?」
つくってそれで刺されたらどうする、などと思いつつすすめると、
子ヤクザのほうはギロリと表紙の山を睨んで問答無用の形相、
しかしイヤだとは言わない。
いいのかしら。

「ほら絵本のカヴァーよ。見てよピカピカでしょ、剥がしたばっかりなのよ」
幼稚園では新刊本のカヴァーは、もったいないけど全部剥がして捨てる。
彼はイヤそうに椅子にこしかけ、不満げに紙の山をながめ、
子ヤクザにふさわしいしゃがれ声でポツリと、
「あスイミー」
そうか、幼稚園でせんせいが絵本を読むときは、どこかできいているのか。
「知ってるの?」
「うん、うちにある」
インテリやくざというか、たどたどしいけど4才にして字も読めてる。すばらしい。
どろだらけ凶暴という見てくれと、文化的教養のアンバランスが絶妙なのだ。
思い出した、まだ4才だった。かわいいのだ。
「どの色がいいか選びなさい、何枚でもいいわよ、あげる」
カヴァーは50冊分ぐらいあった。本屋から着いたばかりの新品である。
子やくざはぶっちょうづらのまま、だまりこくったまま、
きれいでロマンティックな青だとか黄色だとかピンクの絵本のカヴァーを、ゆびさす。
「ふーん? あなたっていう人は、色彩感覚がいいんだ?」
「しきしゃいこんかく、なんだそれ?」
彼はホントにいちばんステキな表紙を選ぶわけで、
しかも必要な分だけ受け取ると、もういらないと首をふるのだ。
よくばりじゃない。おくゆかしいところがある。
親御さんのことはウワサでしか知らなかったけれど、
これはきっと、子どもをだいじにしている人たちなんだろう、とまあ想像した。
「じゃ、それで剣をつくればいいじゃない?」

二日後。
かぶきちょうの子やくざが、いつものごとく泣く子をしつっこく追い回し、園内騒然。
恐ろしい形相で紙の剣を振り上げ、ギャーッとなったすごい瞬間、
職員室から飛び出した私がこの子とバッタリ鉢合わせしてしまったのである。
どうなるか、双方息をのんで立ち往生、
なんてまあ恐ろしい形相だろうかと、私は仁王立ちの凶暴子やくざをながめる。
捨てるには惜しい記憶があったと残念、私だって、この子だって。

その時のことである。

子やくざは、すばやく表情をフツウにもどし、
私のあたまを長剣の先でチョンチョンと、挨拶のように、二度叩いた。
それから、猛然だんぜん凶暴やくざ顔にもどったかと思うと、
逃げだした子を追いかけ、わーっと園庭を飛んでいってしまった!!
こんなことは、こんなような変身は、子どもにしかできない。
りょうほうともが自分なんでしょ。
ハスキイな声で「えんちょうせんせい」と言ってたっけ。
私が園長だからと、加減したのだろうか。
幼い彼の文化のなかに、そういう気遣いのようなものがあると思って、
またも私は親御さんの姿をすこし想像したのである。
私たちの幼稚園とこの坊やの親御さんとはどうしても折り合えず、
申し訳なくもついに転園されてしまったけれど、
いつ思い出してもかわいらしく懐かしい。

世界の人々がピカソをそのまま認めるのは天才だからだろうか。
子どもはみんな、どこか天才ふうのものである。
なんとかして、あるがまんまのそのまんま、みとめられたらと思う・・・。
・・・だってねー、くっきり、はっきり、すごい子どもだったんだわよねー。
ピカソみたいに坊主あたまで。

2012年12月20日木曜日

選挙こそ巨大で偉大な意識調査だ


五日まえの私は今日の私と、それほど変らない。
選挙前の日本人も選挙後の日本人も、おなじヒトだ。
べつに。

選挙の前,われわれは、
胡散臭い「意識調査の結果」をきかされる。
私は思う。
選挙こそは、巨大で偉大な意識調査だと。
今回の選挙は、「意識調査しただけじゃないの」と言いたいぐらいの惨状だ。
こんな貧相な選挙で、憲法や原発の未来を決定されてはたまらない。
じょうだんじゃないでしょ。
投票率59・32%。
40%もの人が投票所に足を運ばなかった選挙!
そのうえ投票した中でも白票が異常に多い。無効投票戦後最多。
朝日新聞を読んだらそう書いてあった。
それだけの国民が、どこにも(自民党にも)票を入れなかったのである。

しかも、
投票率が議席数に反映しない。
それはもう憲法違反なほどに。
「この選挙はしたがって無効である。」
そういう訴訟をはやくも弁護士たちが起こしたそうだ。

すがすがしくない、子どもに顔向けできない、日本のズルイおとな。
原発OKかNOか。
「国民の命と国土」の喪失・被爆するから住めない場所化する・をどう防ぐか。
そういう選挙だったのに。
投票所に行かないのってよくないよー。
だから当然みたいに、ついでみたいに憲法まで変えようとされるのだ。

「圧勝」という文字を無頓着につかうマスコミは、
原子ムラの住民で軍国主義者だ。そう思われたって仕方がないでしょ。

自民党に投票しなかった人は多い。
全有権者(投票権をもつ人)ということで計算すれば、
小選挙区で24・67%、
比例代表なんか15・99%
それしか自民党は票を獲得しなかった。
自民党支持者って少数なのである。
なにが「圧勝」だ。

議席はマジックでとったかもしれないが、
民意はべつのところにある。

「圧勝」「原発続投」「憲法を今こそ変えよう」
自民党とマスコミは鬼の首でもとったような顔でそう言う。
しかし、べつに巨大な民意を反映してるわけじゃない、数が合わない。
新聞だってそう書いている。
新聞って、読みきれないほど記事が載っているけど、
おなじ新聞紙上でべつべつのことを書いたりして。

選挙戦という。
「戦」に負けたのは実害もあるし、よろしくないが、
実数でいうと、原発絶対反対は多数派である。
私たちが選挙まえと変らなければいいのだ。
ずーっとデモを続け、識者の知恵をもらい、頭脳をみがき、工夫もして。
なんとかしてがんばろう。
子どもたちの健康のために、若い母親たちのために。

2012年12月19日水曜日

選挙のあとでライブの話


天にたいして
やや ななめ
地にたいして
ややななめ

この巨大なシャクトリムシの
口の先から
ぎんの糸が一本
まっすぐに
地球の中心までとどいている

風に鳴る鳴る
銀の糸

   
まど・みちおさんのこの詩を読んだら、
選挙のせいでがっかりし痛んでいた心が、まあまあ、と少しおさまった・・・。
ななめ、ということばで想うのは、ウラジーミル・マヤコフスキーの詩句だ。
ずーっとむかし、エレンブルグの本でみつけたのである。

     私は自分の国に理解されたい、しかし、私は理解されないだろう。
     よろしい、私ははすかいにふる雨のように、故国の端を通っていこう。

よろしい、と少数派なら、幾度も思うことはあるだろう。
はすかいにふる雨のように故国の端を通るのだ、と。

そして私は、さがしていた歌い手をみつけたことを思い出した。
金曜日の夜、ピン・ポン・パンクのアサくんのライブで、やっと彼に会えたのである。
西村卓也の弾き語りが「よくわかる気がする」人は多いはずで、
Life is water と組み合わせて、私もライブを主催してみたい。
ロックをすこしばかり私の友人たちのほうに近づけて。

三月か四月にとおねがいしたら、よろこんでと言ってもらえた。
風に鳴る鳴る
銀の糸

そういうことを魂の糧に、めげたりしないぞという生き方だってある。

2012年12月18日火曜日

選挙が終わって


選挙がおわって、
私が感動をもっておもいだすのは、
12月14日、荻窪駅頭で、山本太郎を応援して、歌手の沢田研二が行った演説だ。
    12月14日、荻窪、山本太郎、沢田研二 と検索し、
    ぜひとも直接、このふたりの選挙演説を動画で見てほしい。
    すがすがしく、て優秀なメッセージである。
    やっと新しい人間が登場しはじめたんだと思う。
    いいじゃないですか、こんな邪悪な選挙にはじめて負けたって。 
    
気分がよかったことは、ほかにもある。
12月14日の金曜日。
私は国会デモに出かけ、そのあと、
早稲田のゾーンBで行われたピンポンパンクの、
アサくん主催のライブに出かけた。  
まあ一晩に両方掛け持ちしたのだから面白い経験である。

国会周辺はその日、小沢一郎がデモ隊の前で演説するそうで、
よそ目にもピシッとしまった雰囲気、けっこうな人出でもあったけれど、
ゾーンBのアサくんのライブだってなかなかのもの。
ステージをふた手にわけて、
弾き語りみたいなのと、絶叫型と、
好きなようにみんなが階段をのぼったり降りたり、あっちこっちする形式、
主催者は気をつかって大変だったろうけれど、これが「自由」でよかったのである。

さっきの国会での原発反対のシュプレヒコールが耳に残るまま、
weddinngs の演奏を私はきいたけれど、この草っぱらのキンポウゲみたいな
二人組のちょっとヒトをくったジョークが、みょうに革命的に思えたからあーら不思議だ。
選挙にあしたは行きましょうよと、なにか演奏しながら乱雑敬語で言ったりする、
FourTomorrow やら Life is Water やら。
会場の空気にそのまま通用しているらしいのがめずらしい。
ロックだからって、まえはもっと月並み保守的、サラリーマンふうに見えたものだ。
国会と、ここ。
反原発だとか、憲法を護れだとか断固として言いたい場合、
(そういう若い人ばっかりじゃないのがビックリだが)
どっちが有効かというと、国会よりこっちかなーもしかして、と思う。

だってねー、わからないわよ。
小沢一郎の演説より、山本太郎の演説のほうがずっといいと思うから。
直接、見たり聴いたり読んだりしなきゃ、権威主義では夢も希望もないのだ。
ケンイ主義ってどういうことか。
信用できそうな感じの意見をもうすぐ信用して採用することでしょ。
それじゃ足りない。
国会周辺でだって、ライブハウスでだって。
自分でさがして、新しい考え方と生きる方法を見つけなければと、そう思う。
滅亡したくなければ、
いま我々は待ったなしで、本気になって、自分の方法で学ぶしかないのである。


2012年12月13日木曜日

多摩市民塾・地震の日


多摩市民塾の私のクラスでは、いよいよみんなが、
自分で選んだ作品を朗読する段階となった。

味わいの深い面白い練習。
提出された作家の文章を、予習するとき、
ああ、私たちは同じ時代を生きたのだなあと、つくづく思う。
どう朗読するべきか、どんなに頭をヒネってもいい知恵が浮かばないもの、
(友人たちに朗読してもらいディスカッションもしたりして備える)
私がついつい敬遠していた作家の格調の高い立派な文章や、
うわあ、よくこれを見つけたものだと嬉しいような名文、
いずれも高齢者の多い市民塾ならではのゆたかさだと思う。

今回は、
高村光太郎の迫力気力度胸満点の詩、「冬が来た」の朗読があって、
朗読者は弱々しげな白髪のほっそりとした婦人だったから、
詩と朗読する人の印象のちがいにおどろいて、
茨木のり子作の、詩人の評伝があったっけと思い、
「うたの心に生きた人々」を家にもどってから読んでみた。
なるほどねえ。高村光太郎ってやっぱり大詩人だったんだ。
あらためてそう思うことは、うれしいことだった。
この小さな本には、光太郎のほかに与謝野晶子、山之口獏、金子光晴の肖像が、
きっぱり、いきいき、あざやかに、元気よく浮き彫りにされ、修められている。
ーちくま文庫(1994年)

おなじ日、「私が一番きれいだったとき」を朗読した人がいる。
詩人茨木のり子の作品である。
この有名な青春の詩を朗読したのは男性であった。
病気の人で、病気だということをちっとも隠さない人で、
彼の朗読をきくと、いつも私は「努力」というものの優しさを思う。
・・・日々の、おだやかな、素直そのものの、不屈の・・・。
私の不備なレッスンを理解しようするこの人の親切に、私はいつもおどろく。

「茨木さんはいきいきと反抗的な魂をもつ人だったでしょう、
ですから、元気に明るくということを年頭において朗読してください。」
明るい声をテーマに始めた練習だったからそう頼んだが、
朗読をきいて胸を衝たれた。
少女であった詩人が、戦争のあいだに失った時間、
いくら悲しんでも絶対にとりもどせない、人生、というもの。
明るく、張りのある声音で、それはそうしようとしながら、
彼は、時間を失ったこと、手がとどかなかった望みがあったこと、
とりかえしがつかない時間をすごしてしまったこと、
すなわち私たちの生命の喪失そのものについて、説明したのである。

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしはとてもふしあわせ
    わたしはとてもとんちんかん
    わたしはめっぽうさびしかった

    だから決めた できれば長生きすることに
    年とってから凄く美しい絵を描いた
    フランスのルオー爺さんのように
    ね

それはとてもよくわかる朗読だった。


この日は、講座のあとが忘年会だったけれど、
府中駅の7階レストランで地震に遭遇。
どうなるのかしらと、お隣さんにぐらぐら揺れながら聞いてみたらば、
井上 靖の「西行」を朗読したその方が、いかにもそれにふさわしく落ち着いて、
「いや、ここは最上階ですから、一階や二階にいるよりはいいですよ」
「いいって、ど、どういうことですか、それは?」
「いや、下のほうよりましでしょう」
そうかもしれないけれど、そうじゃないかもしれないじゃないの。
「大丈夫でしょう、たぶん」
男の人たちはニコニコしている。
「ま、飲んじゃおう!」とこれは私。
一応センセイだから図々しいことである。
まあとにかく・・・などと言いながら、
みなさんのご好意がとてもうれしい、印象的な忘年会でした。
ほんとうにどうもありがとう。

2012年12月10日月曜日

岩崎菜摘子の朗読


菜ッちゃんが、一冊まるまる絵本を朗読してくれた。
私の家で、そこにいるみんなに。
リュック・ジャケとフレデリック・マンソの「きつねと私の12ヶ月」。
暁子さんがずーっと眼をつぶってきいていた。

暁子さんは菜摘子ちゃんの母親で、
菜摘子ちゃんはダウン症であり、画家であり、三十五才の童女である。
暁子さんはシングルマザーだ。
学生結婚をし、はやばや離婚し、働きながら菜摘子ちゃんをひとりで育てた。
いま、ふたりは暁子さんと菜ッちゃんとで、なんというか1・5人のように見える。
そんな言い方はおかしいけれど、そう見える。
人間は1人のものだから、1・5人をやるのは苦しいだろう。
暁子さんはくたびれている。
眼をつぶっていても、眼をあけていても、
「田園交響楽」(アンドレ・ジイド)の、あの盲目の少女がけっきょく告白するところの、
・・・人間の顔がこんなにも悲しいものだとは思わなかったという、あの苦悩の顔だ。
でもなんて深みがあって人間的な、きれいな顔なのだろう。

菜っちゃんの素晴らしかった個展の、あるふうっとした時間、
暁子さんに言われて、「きつねと私の12ヶ月」を私は朗読した。
個展のあいだ、もしかしたらタイクツするのかもしれないと思い、
気持ちがわからないなりに、会場におみやげにもって行った絵本である。
菜摘子ちゃんの表情がそんなによめない私は、
朗読が彼女にどうきこえていたのか、本当にさっぱりわからなかった。
でも、個展がおわって何日かたつと、
菜ッちゃんは「きつねと私の12ヶ月」をお母さんに読んできかせた。
暁子さんに。一冊まるごと終わりまで。ぜんぶ。
「菜摘子がそんなことができるようになっていたなんて、知らなかった」
お母さんは私におどろいた顔で言った。
そうかあ。
子どもはおとなになると、絵本を読んできかせるって、しなくなるんだっけ。

菜ッちゃんの朗読は、
10才の少女の孤独な、そして幼くわびしい理解の様相を、
ほとんどあますところなく描き出した。
愛情というものの、途方にくれてしまう様子が、
指でページを繰るために時間がかかり、物語ることばがたどたどしく途切れ、
しかし、曖昧なところのない確実な発声でもって、物語られていく・・・。
それはまことにあの絵本にぴったりの読み方であった。

理解とはなるほどこういうものではないか。
時間がかかり、たどたどしく、しかし結果として心が確実につかまえる、
そういった行為ではないか。

私は菜ッちゃんの朗読をききながら想像した。
岩崎菜摘子のこの朗読も、あの数々の美しい絵も、
岩崎暁子という母親の精神世界からくる複雑多岐にわたる洪水を、
洪水のような言語を、
ダウン症で一人娘の菜ッちゃんが毎日浴び、
洪水だから受止めかね、
それでもいくつもいくつもの言語を、菜ッちゃんの身体全体がどうしようもなく受止め、
おそらく多くは流れ去ってどこかに消えてしまい、
しかし唯一無二の母親を信じ、愛して、こだわる心が、
辛抱づよくいくつかを拾いあつめ、
ゆっくりと菜ッちゃん自身の手で再構成が行われ・・・、
そうやって作品というものは誕生するのだろうか、と。

なんてきびしい人生だろう。
それなのに菜摘子ちゃんの絵は幸福そのもので、
私たちみんなを温めるのである。

1・5人であることはどんなにかたいへんだろう。
岩崎暁子という生来孤独な、小説家になったはずだろう女性の子育てが、
そのきびしさと深みが、たくさんの人たちに影響をあたえてくれたらと私は願う。


2012年12月7日金曜日

今回の選挙は


「誰を選んだらいいかまるで判らない」
みんながそういう悲鳴をあげているんだとか。
バカ言っちゃちゃこまる、と思う。
誰が信用ができ、どの政党がウソをつかないのか、なんて。
わかるはずがないじゃないの。
ただでさえ日本人は「たてまえとほんね」がみんなちがうのだ。

サラリーマンは飲み屋で言うことと会社でいうことがちがう。
先生は生徒に言うことと職員会議で言うことがちがう。
私たちはあっちの友に言うこととこっちの友に言うことが微妙にちがう。
仲間に言うことと、自分の夫や妻に言うことまでちがっちゃう。
アーティストだってめったに本音なんか言わない、ウソばっかりだ。
・・・・たてまえとほんねがおなじだと「失職」しちゃうんだもんね・・・。

認めよう、たしかに、はいはい、はい、
私たちは今、そういう国民であり都民である。
それがワルイというヒマはない。選挙まであと10日しかない、冗談じゃない。
政治家は信用できないらしい。信用する時間もない。
しかしそういう自分は誰かに信用されているのか。
何年もかけて、信用できる友人の1人でもできたのか。
さっぱりわかんないのよ、いまさらそんなこと。

でも、そんなでもこんなでも、わかることはある。
選挙の争点はわかる。
争点、つまり絶対にゆずれない一点だけは。
それが今度ほどわかりやすい選挙はない。
今回の選挙は「原発やめるか・やめないか選挙」である。
原発をやめるか・やめないか、その一点を自分でシッカリ決定したい選挙だ。
人生は、いのちあってのモノダネではないか。
もう一度五十四基の原発のどれかが爆発事故を起せば、わが国土はどうなるのだ。
それは、どう考えたらいいか判らない、なんてこととはまったくちがうだろう。

おおざっぱにいうと、
原発やめない、は自民党と、それからもちろん石原・橋下コンビの党である。
その他7党は、口では、とりあえず脱原発。
十年かけて廃炉、というのが「新党日本」「日本未来の党」「新党大地」。
すぐやめる、というのが「共産党」とか「社民党」とか。
(東京新聞を読むと主張が表になっているから見やすい。)
そうかどうかしらべてみてくださいね。

私は思う。
できるかできないか、信じられるか信じられないか、
そればっかり言い立ててどうなる。
投票権を持つ圧倒的多数者の支持があれば、「できない」は「できる」に変化する。
投票もしないで、「信じられません」なんてことばかり言うのは無責任だ。
私は全原発の即時永久停止を願う。
したがって私は、すぐやめる、に投票したい。
十年って、0才のあかちゃんが10才になるまで?! 待てない!
そのあいだに何人の総理や都知事が交代し、何基の原発が事故を起すのか。

2011年3月11日。それが去年だなんて信じられない、
もう何年も苦しんできたような気がする1年9ヶ月だったと思う。
フクシマ原発の問題を、いったい世界はどう見ているのだろう。

世界保健機関 WHOはどう考えているのだろう。
国際原子力機関 IAEAはどういう判断をもっているのか。
欧州連合 EUの考えは?

1996年4月、チェルノブィリ事故から十年目。
WHO、IAEA、EUはウィーンで国際会議を共同主催したという。、
ここに参加した各国政府関係者、原子力専門の科学者や医学者たち、
世界最高の情報と知識をもつこれらの専門家たちは、
この福島の事故がいつごろ終わると考えているのだろうか?
日本だけでなくこの地球がどうなると判断しているのだろうか?

世界にむかって窓をあけ、情報をかくさず、人間的で政治力のある都知事を、
たしかに原子炉を全部廃炉にしようと闘う都知事を、まずは選びたいものである。


2012年12月1日土曜日

原爆投下から67年 原発事故から1年9ヶ月


今日中にどうか読んでいただけますように、みなさん!

きのう、みっちゃんがうちにお見舞いに来てくれて(私が左手に怪我)、
あした12月2日の小集会の話になった。
いつも思うことだけど、この人ってえらい人なんだなあと思う。
町田の被爆者とともに生きる会の催しを、成功させたいともう一生懸命。
参加者が少なかったりしたらもったいないでしょと気に病んで、
今から申し訳なさそうな顔をしている。
この「被爆者とつどう会」の副題は以下の通りである。
「原子爆弾投下から67年 原発事故から1年9ヶ月」

みっちゃんならではの企画。
( 私の窓口が本間美智子だから、みっちゃんならでは、などと偏ったことを言うけれど、
 町友会のみなさん、おゆるし下さい。)
てんこもりだけど、きちんとしている。
原発事故以来、私たちの気持ちのなかを彷徨って、理解も解決もできない疑問に、
正攻法で答えようという考えがモトになっていると思う。

   Ⅰ 短編 ドイツ国営テレビ放送ZDF制作 「フクシマの嘘」
   Ⅱ 被爆して67年・町田の被爆者の話
   Ⅲ 福島から町田市に避難して(鹿谷さんの話)
                    (休憩)

   Ⅳ 東京新聞「こちら特報部」
    野呂法夫デスクより
   「原爆と放射能の問題を追いかけて」

     質問と懇談

参加費無料
時間と場所は
町田駅下車5分・コメット会館5階・13時~16時
問い合わせ先・・・本間美智子・044・987・4785

マスコミがいかに無節操であるか、不信感をもち愛想をつかす人は多い。
しかし、金曜日のデモに参加すると、
東京新聞がちゃんと報道してくれている、という声高な話をきく。
そうだと思う。うちは東京新聞だからそうだと思うのである。
どういう仕掛けでちゃんとした報道ができるのか、
デタラメを報道する各マスコミの根拠と理由はどういうものか。
それを直接東京新聞に聴こうなんて、よく考えついたものである。
ダメモトでもと思いながら電話をしたら、思いがけなくも
「こちら特報部」デスクをゲットできたのですって。
たいした度胸だと思う!

あしたは二次会もするのだとか。
なにとぞ万障くりあわせてご参加くださいますように。


2012年11月29日木曜日

神保町の街角で


神保町を歩くのが好き。
地下鉄A6出口を出て、落ち着いた雰囲気の白山通りを歩いて行く。
古本屋の老舗が並んでいるし、こどもの絵本の店もあって。
よせばいいのに古本や新刊本を誘惑にかられて何冊か買ってしまい、
珈琲店の大テーブルにむかって買ったばかりの本を読み始める、それが楽しい。
時々、本のページから眼をはなして、なにか食べながら珈琲を飲む若者を見たり、
仕事の打ち合わせをしている人たちを見たり。

母や従姉夫婦がこの街の出版社で働いていたから、愛着があるのかしら。
むかし読んだ童話のお祖母さんのように、古いアパートで独居生活をするとしたら、
などとふらふら考えるのがまた楽しいのだ・・・。
その空想の部屋にはまず見え隠れする魔法みたいな小人がひとり、
本棚からは本があふれだし、少ない家具はオンボロがいい。
窓の手摺(てすり)は鉄のレース模様、
カーテンは色あせた青灰色の上等のビロード。
窓から見下ろす光景はジャン・ジャック・サンペの、私はもちろん行ったことがないけど、
愛すべきサンペが描くマンガのような巴里、じゃなくて神保町。

きのう御茶ノ水から歩いたとき、娘がかよっていた大学があった。
明治大学は本の街のなかに位置していたのだとあらためて思う。
大学と劇団とアルバイトでいそがしく、心配のない子だったから放っておいた。
娘はこんな文化的な場所にいたのかと、今になって気がついたことに胸が痛んだ。
音楽も聴ける、本は洪水のようにある、安くておいしそうな食堂も、文士的山の上ホテルも。
無いのはおかねだけ、だったにちがいない。
でもこの街は親の代わりに、あの娘の情緒を育てもしてくれたのではないか。
そんなことを思うとすこしさびしさが薄れてうれしい気がした。

駿河台下まで歩いて、白山通りに行き、そこでまた本を買ってしまった。
美しい装丁に気を惹かれて。
210円だった。
三浦哲郎著 「木馬の旗手」。
子どもをあつかった短編が12編まとめてある。
貧しい農民の子どもの呆然、これほどの悲哀と不運を、なんと美しい方言でもって、
三浦さんは書いたことであろう。
装丁は司 修。本のハコも表紙も本編をしかと護ってすばらしい。
「木馬の旗手」を覆う茶色く変色したパラフィン蝋紙を、
装丁をながめていたくて、私はぺりぺりと家に帰ってから破いて捨てた。



2012年11月28日水曜日

都知事を選ぶって


昨日の夜、がたがた震えながら日比谷野外音楽堂へ出かけた。
寒いっ。
「いい会でしたよね」「ほんと、いい会でした」とまあ言いつつ、
終わって、がたがた震えながら、見知らぬ人と地下鉄をめざして早足で歩いた。
「宇都宮健治さんと 東京から脱原発を!大集会」
そういう集会があるときいてむりやり参加したのだ。

五時半から七時までの集会。こんなの無理だ。
たいていの若い人は職場で働いている。
ヒマ?な老人は来たらカラダを悪くするだろう。
こどもがいる主婦ならいちばん複雑で忙しい時間。
なんでこういう時間設定をしたのか、大集会と書いてあったけど、無理でしょうよ。
責めるわけじゃないけど、ばかげていると思う。
「小集会」と名乗るともっともっと参加者が減るのかしら。

まあ寒くって、舞台に出てくる人出てくる人みんなが、寒いでしょ、という。
そりゃ、寒い。どうしてか、よくわかんないけど冷風がふ、吹きおろしてくる。
でもなんだかいい会だった。みんなにこにこして。

思いがけなくも、驚くほどいろいろな党派の人が話したのである。
宇都宮さんって、見たとこ小柄で穏やかそうだけど、
けっこう強靭な政治力の持ち主なのだろう。
日本弁護士連合会の会長だったのだ、あたりまえか。

だからまず弁護士が話す。宇都宮さんの東大時代からの先輩。東大卓球部だったとか.
共産党の議員が演説。なぜだか志位さんじゃなくてホッとする。
社民党の福島瑞穂さんも登場。小柄でびっくり。
宇都宮さんも小柄だけれど、もっと小柄。威圧感がなくてトクかな。
民主党都議会議員もきたから、びっくり。
都議会民主党としては、都知事候補を特定せず、と決めたんだって。
したがって彼女、美人の大河原さんは宇都宮さんを推すのである。
脱原発。格差是正。反石原慎太郎。
引き止められたけど民主党を離れてみどりの党へ入りましたという元衆議院議員も、
脱原発をかかげ宇都宮さんを都知事に、と語った。
作家広瀬 隆さんが傑作。
共産党になぜだか嫌われている広瀬 隆ですという。
こないだなんか地方の講演会に出かけたら、共産党のクルマが迎えに来た、
乗っていいのかなーと考えちゃいました、などという。
共産党員がいっぱいそうな夜なのに、会場爆笑。
広瀬さんは自分は「脱原発ではない反原発です」と断言。
ピリリっとした人である。そうよねー。私も自分は「反原発」という感じ。
ルポライターの鎌田 慧さんは怒っている。
「なんで石原慎太郎が後継者を指名するのか、余計なお世話じゃないか。」
勝手連のお母さんは、主婦らしくて、みんなの共感を呼んだし。
その他その他で一時間半の集会は、寒いのにけっこう早くすぎてしまった。

宇都宮健治都知事候補の
「人にやさしい東京をつくる会」の会長は上原公子さんだという。
国立市長だった人である。うまい人選。
多摩市で講演をきいたことがあるけれど、賢くて強い自由人という印象の女の人だった。
こういう民主的な元市長に都庁で活躍してもらえたら、と思う。

作家の発言に、
政治の方向をえらび、政治家をえらぶのは、権力者やマスコミではない、
政党でもない、都民であり国民である、人々が選ぶのである、
そこをまちがえちゃいけないというのがあった。
けっこう大変でむずかしい指摘である。
そのせいかどうか、
宇都宮健治さんは、今回政党の公認を廃す、受けないという立場らしかった。





2012年11月27日火曜日

「新版・チェルノブイリ診療記」400円


福島原発事故への黙示という副題がついている文庫本。
この「新版・チェルノブイリ診療記」を私は出版されてすぐ買ったらしい。
2011年の7月に再発行されてすぐ、苦しまぎれに買いはしたけれど、
本棚にツンドクだけで、読まないままだったのだ。

2011年3月11日、未曾有の天災と人災。
幼稚園の園長だった私の日常は、さまざまな対応におわれて、
もちろん関連の書類や書籍を読むことは読んだけれど、
いろいろ買った本のなかにはそのまま忘れて、今ごろ読むものも多い。

園長としての私は、原発事故以後の一部保育について職員と対立、
苦慮したあげく辞職願をだしたが、経営陣に賛同受理され任期なかばで退職となった。
子どもにも親御さんたちにも挨拶ができない「別れ」である。

退職が6月半ばのことだから、7月なんかくたびれてなんにもできない。
園内の各種職員会議で論議をくりかえしたのだし、内外の信頼する人々に相談もしたから、
自分勝手な独断専行の結果とはまったく思わないが、
自分がした決断が正しかったのかどうか、失職後もすごく悩んだ。

私にとって原発事故が以後に及ぼす影響は、ある程度予測のつくことだった。

事故を終わらせることは簡単にはできない。
政府は事実を隠す。マスコミはいい加減なことばかり伝える。
だから、どうしたらいいかを自分たちで考えるしかない。
日常のルールを、病気にならないように用心して変えるべきだ。
事実から眼をそむけたら、
自分たちの子どもの健康も安全も絶対に守れはしない。

そう思うことが異常だろうか?
2011年3月11日にそう思ったということが?
私はそれまでに原発を批判する一般的な本も読んでいたし、
チェルノブイリの原発事故の様子をテレビで見もした。
友人たちが気をつけてくれたので、映画も観たし講演を聴きにも出かけた。
強烈な活動家にならなくてもうしわけなかったけれど、私の孫の父親はいう。
「かあさんは原発に反対してたし、ぼくたちが子どものころから、
デモにも映画会にも連れて行ってた。ぼくも本気をださなくてホントウに悪かったけど」
恐ろしいことがついに起こった、と思うのは当然ではなかろうか?

なんでこんなことを書いたかというと、菅谷先生の本を読んでビックリしたからだ。
「職を賭して」と考えたつもりの私でさえ、考え疲れていい加減のん気になっている!
この本をなんとかして読んでほしい。
本書は新潮社文庫で400円である。
菅谷先生は親しみやすく、良い人だ。明るくて、希望を失わない。

この本を読んで胸をうたれるのは、
原発が事故をおこした場合、子どもたちがどうなるかよくわかることである。
どうしてかって、
この本を書いた人は、甲状腺の専門医であり、優秀な外科医として、
事故直後チェルノブイリの風下となったベラルーシの国立甲状腺ガンセンターで、
5年間も病気の子どもたちの体にメスを入れていた人だからである。
先生はいま、二期目の市長さん(松本市)で行政の責任者でもある。
お書きになった本が読みやすいのは当然かもしれない。

私は思う。
選挙で私たちは半月後に投票する。
そのまえにこの本を読んで、よく考えて、棄権しないでほしい。
つい先日ブログにのせた童話のことだけど、
「100万回いきたねこ」は「キライ」ということが多かった。
あのとらねこは、「みんなキライ」、なのだった。
いま、政治家の離合集散、労働組合の腐敗、マスコミの嘘にとりかこまれて、
私たちは、ふてくされたとらねこ状態である。

みんなキライは、とらねことガキのセリフだ。
いい人は、さがせばいる。
だれもいないはずがない。
どうしてもいなければ白紙投票で(そんな場合じゃないとおもうけど)、
自分たちの投票の権利だけでも高くかかげよう。


2012年11月24日土曜日

朗読・「100万回生きたねこ」


家で朗読の会をする場合、ポストに何日かまえ文章が投げ込まれる。
公園の木がいっぱい見えるせいか、これが私には童話的できごとに思われて
いつも楽しい。枯葉の秋なら、なおさらである。

今回は「100万回生きたねこ」と「異人たちとの夏」「すてきな三にんぐみ」そして、
小6の教科書から西研(にし けん)の「ぼくの世界、きみの世界」が入っていた。
「100万回生きたねこ」については手紙もあって、
それがまた森の動物のだれかから届いたみたいなおもしろい手紙。

手紙
『 今回この本を選んだのは 
「ブームになっている」「図書館に行くとどこでも必ず飾られている」 からです。
自分も昔購入して10年くらいになりますが、とってもわかりやすいので、
子どもも老人も みんな 好きになるような、それでいて
内容が他にない、深そうなひきつける魅力があり、
自分にはそこがよくわからないので、ぜひ久保さんの解釈を
お聞きしたいのが、やっぱり選んだ 大きな理由 です。』

よく書けた手紙だと思う。魅力的。
こんがらかり方がおもしろい。
朗読をするには、こういう疑問のもちかたがだいじである。

さて私の考え
この絵本はひとつの物語が半分にわかれている。
りっぱなとらねこが100万回死んだ話と、そのとらがもう一回だけ生きて死んだ話。
はじめの半分は「きらい」ということばと「死んだ」のくりかえし。
あと半分は一応ふつうの物語、100万回も死んだ主人公のりっぱなとらが、
ふつうに生きてふつうに死ぬのである。

まず絵本を開いて、私たちおとながひたすら、すらすら読むと、
つまり、どうなっているかとあらすじだけをたどったりすると、
絵本は、後半、急に頼んでもいない月並みな回答を与えはじめるのだ。
愛のホンシツはとか、愛されるだけでは人(ねこ)はホントウの満足はとか、
きいたふうな物語が展開するのである。
前半分のヒネクレ方からすると、後半分がみょうにスナオで落ち着けない。
正しすぎるし、哲学てき、みんなが気に入りそうすぎる。
そこが、どうもなんだかわかるようで、よくわからないところなんだろうと思う。

しかし、である。
作者佐野洋子の日本人ばなれしたものすごさは、そこなのだ。
「100万回生きた猫」は、独立、ということをわかりやすく話した絵本なのだ。
個性とか独立とか自立とか、とにかく個体ということについて。
個であることは、極限まで圧しまくると、
「気にいらん」
つまり「きらい」ということなのかもしれない、のではないか。
めったなことで私たちは「きらい」じゃない人間にめぐりあわないのかもしれない。
100万回死んで、だれかにあいたくて100万回生きなおしたとしても。
・・・生きとし生けるものが、そういう存在だと、絵本にまぎれこませて語る絵本・・・。

孤独であること、独特であること、個性的であること、自分らしくあることを、
感じがわるいとか、ヒネクレてるとか、反体制的だとか、えらぶっているとか、
そう考えずに朗読しないと、そこをよく考えないと、工夫しないと
子どもたちは、
このとらねこさんをちょっとキライになっちゃうかもしれませんよね。


「異人たちとの夏」(山田太一・新潮社)ですが、
なにはともあれ以前この映画を観た人がいて、朗読をききながらもうずーっと、
きいてるあいだじゅう、思い出しては泣くのですね、ははは。
そんないい映画なら観ればよかったなー。
ビデオを借りに行こうと決心しました。


2012年11月23日金曜日

光りほのか


光りほのか、とはアンネ・フランクの日記につけられたタイトルだった。

菅谷 昭先生の「チェルノブイリ診療記」をもう一度読んでみたら、
・・・・まさに、自国の政府を信用できないくらい惨めなことはない・・・・とあった。

菅谷さんは甲状腺専門の医学博士だ。
1996年から5年半、ベラルーシに単身滞在。
首都ミンスクの国立甲状腺ガンセンターと、ゴメリ市の州立ガンセンターで、
甲状腺ガンにかかった子どもたちの治療にあたっていた。
大学病院をやめた退職金をロシアでボランティアしてつかってしまい、
帰国後胃がんを手術、手術直後の2004年、わが国の松本市長になった人である。

惨め、と読んで惨めかと思い、私たちはどのくらい惨めなんだろうかなあ、と思う。
昨日、鳩山由紀夫氏が政界引退を表明した。
こういう人はもう外国に逃げて行くのかしら。
失礼ながらそう思う。

世界には、大きなことと小さなことがある。
こういう時、ほのかな光って、けっこう温かいものだ。

このあいだ、私はビデオ屋さんの駐車場で接触事故をおこした。
ゴンッと鈍い音がして、じぶんがよそのクルマにぶつけたとわかった。
私たちはそれぞれクルマから降り、おたがいに謝罪しあい、
車を調べ、住所を交換。警察をよび、保険会社に連絡してわかれた。
私がぶつけてしまった車は大きく、乗っていた人はわかくて優しい人だった。
ほんとうにあたたかい人で、あやまる私の心配をしてくれたのだ。
事故は申し訳ないことだったけれど、こんなときにはめずらしく、
私の心にはキズができず、うれしい気持ちだけがのこった。

きのうは、私のわかい従妹が、自由律の短歌を送ってきてくれた。
若い従妹で、私は彼女に手紙を書くとき、美しい菜っぱちゃんへと書く。
美菜子という名まえなのである。
美しい菜っぱちゃんは昔から身体が弱かったし、年齢は私の子どもとおなじぐらい。
小さい時から、この菜っ葉の感受性には端倪すべからざるものがあって、
それがこんどの短歌になったのかと、知ってはいたつもりでも、とてもおどろいた。

    緑がうねる黒 南風のなか意識する秘密 薄日が射した
    この寂しさを一生抱えていくのだろうか 緑は雨にしっとりけむる
    身近な人の笑顔のために頑張ろうと思った体調不良の朝
    公園の珊瑚樹が色づき始めている 秋によろこべるだろうか
    幸せすぎて気づかなかったこと 例えば母が疲れ易くなった

たいへんな表現方法だと思わずにはいられない。
自然とそして心の秘密にそっと踏み込むような。
私たちの惨めな世界、惨めな心には、
静謐な領域がゆたかに残されていると思えて、私は得がたい体験をしたのである。
ほのかな光を喜ぼう。そう生きたいと思う。



2012年11月17日土曜日

松元ヒロ ソロライブ立川・11/16


・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・。

「私、コロッケと松元ヒロと比べると、松本ヒロがすきなの」
会場で私がそう言ったら若いお母さんが心底びっくりした。
「えーっ、ホントですかあ!!」
彼女はヒロさん初めて。
もちろんコロッケは誰もが知っているビッグな有名人だ。
いま流行の言い方をすれば国民的芸人、とそう言える。
私だってコロッケは好き。公演に出かけて、天才だこれはと思ったぐらい。
でも、比べるわけじゃないけど、ムリに比べると、
私は松元ヒロのファンなんである。

なんでこんなことから「ソロライブ」の感想文をはじめたか。

じつのところ、なにかが気になっちゃって、
なにを言いたいのか三日もわからなくって。
冒頭の ・・・・・・ ・・・・・ は私の悩みなんである。
ところが今日になってなんとかそれがわかった。
どうやったら短く言えるものだか、見当がつきませんが。

NHKのアナウンサーが逮捕された。11/15 だったかしら。
私はテレビを見ないから知らないが、だれでも知っているような人だという。
容疑は電車の中での痴漢行為である。
本人は泥酔していて、記憶がない、と言っているんだとか。
「こういう人が痴漢だといって逮捕されると、ホントかなーと反射的に思っちゃう」
友人にそう言われて私はすごくびっくりした。
彼はNHKではわりと自由に話すタイプのアナウンサーで、
権力の側から見ればこまったヒトかも、というのである。
「あなたは、これがデッチ上げだと言うの!?」
もちろん今の段階ではまだなにもわからない。

でも、そういう時代かも。

そういえば「ニッポンの嘘」という映画だ。
90才のカメラマン福島菊次郎さんのドキュメンタリーを観ると、
福島さんが自衛隊基地の撮影禁止区域を写し、それを公表するや、
ヤクザに襲撃され、家は放火で全焼。
娘さんがお父さんのフィルムをとっさに持ち出さなかったら、
福島さんの撮りだめしたすべての記録は消失したはずだった。

今日、松元ヒロはマルセ太郎の面影とともに、「ニッポンの嘘」を
コント仕立ての大笑いにして再現、まことごもっともの批判や諷刺をして見せた。
批判だけするのではない、いつだったか、
パントマイムとともに中原中也の「幻 影」を朗読したあのおもしろさ、
廃校になりそうな小学校の校舎の建築美を、校舎になって!やって見せたこと、
山口の画家香月泰男の美術をまるごとコントに仕立てたこと・・・。
松元ヒロってスゴイ。
ヒロさんのライブに行くたび「松元ヒロに代わりに言ってもらってる」と私は思う。
なんかこう、無意識のシバリが溶けるんだけど、
この無意識のシバリとは、言論の不自由だろう。
気がつけば、言論の自由からひどく遠いところに自分はいるとわかって、
まー笑いこけちゃうんだけど、
いつもはずかしいような気に私はなる。

大笑いしながら辛らつな諷刺や批判とむきあうことって、
ものすごくだいじな私たちの娯楽でしょ。
基本的人権の砦(とりで)のひとつだし。

ソ連邦がガタガタして、ペレストロイカということばが日本に入ってきたころ、
ロシア製のオペラを見た。オペラだから高額チケット。
ソ連は極貧状態だとかで、『装置はぜんぶゴミ集積場・夢の島でひろった本物のゴミだ』と、
ものすごく立派なプログラムに書いてあった。
演出家も歌手もプロデューサーもみんな亡命先からソ連に復帰した超一流のロシア人。
技術は世界最高、たしかにすばらしい水準の作品だった。
私が見た日は「ウラジミル・イリイチ・レーニン」がオペラに登場。
もう本物みたいにソックリな歌手が主役で。
忘れられない。
オペラのレーニンは縞のパンツだけ、ネクタイを裸体の首にまき、ホモということだった。
私は、ふかふかの国立劇場の座席に凍り付いて腰かけていた・・・・。

休憩時間がきて、化粧室に行き、鏡にうつった自分の顔をながめた。
ショックで本気にこわばっちゃっている私。
「スターリンならともかくレーニンまでこんなふうに言っちゃうの!?」
私はマキシム・ゴーリキーの書いたレーニンを思い、
エー・ヤー・ドラプキナの名作「冬の峠」に描かれたレーニンを思った。
若きコムソモールたちと話す人類の理想のようなレーニン。
私はそういう、権力から自由なレーニンが少女のころから好きだった。

それはずーっと、ながい時間をかけて、考えずにはいられないことだった。

けっきょく私はこう思った。
どんな指導者も、左翼だろうと右翼だろうと、
権力をもてば、告発や諷刺の洗礼を避けては通れない。
諷刺や批判を権力や暴力でつぶさないこと、それが民主主義なんだ。
それがいい政治なんだ、理想の社会はそうなんだ。

今、生きる毎日のくらしがつらくて、潰れる寸前みたいな自分の代わりに、
「お笑い」を磨きにみがいて、人間の自由を描く人。
松元ヒロはめずらしくも稀有なる芸人である。
立川市民会館でのソロライブからの帰宅途中、ヒロさんってたぶん、
脅迫されたり、それはイロイロあるにちがいない、とみんなが言った。
そう考えてみると、自民党の国会議員だった立川談志が、
最後までヒロさんをヒイキして後ろ盾になっていたということは、
実際問題としても、たいしたことだったのかもしれない。
ヒロさんが放火されたり、冤罪の被害者になったり、狙われて殴られたり、
そういうことがどうかどうか始まりませんように。
もうホントウにそれが心配だ。

「新宿公演のときとネタが重なってと、ヒロさんが心配してました」
立川市民会館の出口のところで、子ども劇場の若い人が言ってた。
「だいじょうぶですよねえ?」
もちろん大丈夫である。二回の公演がまったく同じだってとても楽しいと思う。
まー、私なんか、新宿であんまり笑ったから、こんどは十人で立川に来たのだ。

大丈夫じゃないのは、今やもっと別のことだと思うのである。


2012年11月14日水曜日

メタセコイヤ通りの秋


メタセコイヤ通りに面した土手のうえに
私の家がある
赤いポストがあるメタセコイヤ通り
手紙をだそうと歩くと
今日の昼間
空はすっきりと群青色だ
風がふけばザザーッと
公園で大木の葉がざわめき
たくさんたくさんの木の葉が
枝を離れ
ワーッと渦巻き
ああ、いともかるがる空へと飛んでいく
遊んでいるみたいに
あんなふうに幸福そうに
命が
わたしから離れていくのだったら、
どんなにいいだろう
どんなに楽しいだろう
そんな風の秋の日

あとすこし
あともうすこし時間がたつと
メタセコイヤの樹は
ゆかいな黄色からあたたかい煉瓦色になる
この通り全体が燃えるような色になる
そうなったら私の毎日は
「幸福のお隣さん」ということね

それだけだってとってもいいことね



2012年11月12日月曜日

 11月11日のデモ


百万人規模のデモになるべきだと思っていた。

警視庁の発表では八千人だった。
警視庁は六十年安保の昔からウソをつく、だから八千人ということはないだろうけど、
三倍としても二万人。五倍としても四万人。
私の感じでは国会周辺に、五時前後だと流動的ではあるが五万人はいた、
というより参加したろうと思う。
なにしろ雨が降り出して、それがだんだんびしゃびしゃになり、
傘をさしてもレインコートを着ても濡れてしまう。
濡れてもいいと思ってる人も大勢いる、見れば警察官だってみんな濡れて、みんなが
やっぱり放射能をあびているのである。このすごい人ごみと混雑のなかで。
デモは制限された歩道をズルズルと前方へ進む。
国会を取りまいて。権力者の横暴と原発再稼動に反対して。
なんという悲劇だろう。

二日前、主催団体の都合だとかで恒例の金曜デモはお休みだった。
それを知らなくて、ふらっと一人で国会議事堂前駅で降りたら、
黄色い袈裟がけのお坊さんたちが太鼓をたたいて、
見たら反原発の垂れ幕をよこに拡げている。
時間がはやすぎるのかなとこまっちゃって、石垣に腰掛けていたら、
だんだんに人がふえてきた。
それでも、その日集まった人数は少なかった。
ある金曜日には二〇万人をこえる人たちが国会を囲んでいたのに、
おとといは警官と装甲車ばかりが目についた。

一度でもがんばって金曜日のデモに参加した人たちが、
今日デモに参加しないからといって、考えを変えたはずもない。
今日ここにいなくたって、彼らはデモの仲間である。
どうしてかって、行けばわかることだけど、
金曜日のデモはいろいろなことを私たちに教えるのだ。
そこには自分にけっこうよく似た、ひとり参加の人がいる。
そういう人が大勢いる。連帯ってこれだと感じる。
勇気のある人があっちこっちからきてマイクの前で話すけれど、
考えていることはあんがい自分とおなじで、
原発の事故というものがいかに恐ろしいか、事故の収束についての悩みが、
疑う余地のないギリギリの恐怖と悩みなんだと、みんなの悩みなんだと、
そのことが具体的にわかる。
さまざまな地方からやって来た人の口から、直接きく、驚くようなニュース。
反原発意識は、自分の家にもどって一人になったからといって、変るもんじゃないのだ。

それでも、
百万人のデモが実現しなかったことがすごく残念だ。
権力のやりたい放題は、百万人があつまらなければストップしないだろうと思うから。

なんで東京都庁は
11/11日比谷公会堂を貸さず、反原発集会を妨害したのだろう?!

追記
12日東京新聞夕刊によれば、デモの参加人数
主催者側発表だと100、000人。

3時からと5時からと。だいたいこんな数字になるかと思う。

2012年11月11日日曜日

『菜摘子』展・第4回


小田急線狛江駅の泉の森会館(駅から2分)で、11月13日まで、
『菜摘子』展があるとご案内をいただいて、出かけた。

お茶を飲むまんなかのテーブル。こしかけて、ぼーっと全作品を見ていると、
なっちゃんの心の幸せが見える。
万葉集からとって、菜を摘む子と名づけた母親の暁子さんが護った心の幸せだ。
やわらかく無心な、純粋な幸せを、絵というものにできるなんて。
そこがすごく不思議。
その不思議はヒトというものの不思議さだなあと思う。

まっすぐなまま。それがかたちをつくる、なんの技巧にもじゃまされない絵。
私たちはふつうならば紆余曲折の果て表現に達するのだが、
岩崎菜摘子はまっすぐにそこへ行く。
そしてあるがままかどうかはわからないことだけれど、
温かい、きれいな、やわらかい心が、私たちに届けられるのだ。
人間というものの元素に、こういう美しい感覚が備わっているということは、
なんて安心で、なんて嬉しいことだろう。

はじめて会うのに懐かしいような人たちと、
ゆっくり、ゆっくり、『菜摘子』展の、時間が流れる。
盛会だった。


2012年10月29日月曜日

鶴三会の俳句


団地老人会の句会! 十二人参加。よい人数ではないか。
みんながそれぞれ三句つくって、俳句を長くやっていらっしゃる三國さんにまとめていただくので
ある。あとで気がついたことであるが、この方こそ私たちにぴったりのお人柄。
上品にして温かく穏やか。
「うーん…、…、いいですなあ」と、そんなふうにおっしゃって、私たち初心者に少しばかり俳句と
いうものを教えることをふくめ、作句者に報いて二時間がたつのである。
作句した十一人のほうは、苦しかったけどもう創っちゃったんだしと、いわれのない安心感のも
と、みんな講評を待って苦労を知らず。それは楽しい。
感性の並ならず豊かな方も、その道の素養がおありの方もいらっしゃるけれど、圧倒的多数を
占めるのがド素人。とても居心地のいい俳句の会だと思う。

それで今回であるが、私の一番のお気に入りは、欠席した方が夫人に託された一句。

    花見ても 句が出ず心が 曼珠沙華
        
「あなた、こんなのお出しになるんですか? およしなさいよ!」
奥様がこう言って極力とめられたそうだけれど、「欠席が申し訳ないし出したい」とおっしゃったとか。なんて善い方なのでしょう。
……俳句を作ろうなんて思うと、曼珠沙華を見ようが秋風が吹こうが、グッとつまってしまってお
手上げだ、なにかに感ずる心がこの自分にだってあるはずなのに…。
私なんかが、そうですよねぇと深くうなづく一句である。だけど、心が曼珠沙華って。いくらなんで
もそんなのだめでしょ?! と思うけどしかし、まんじゅしゃげ…という音には、心がという主語が
つくと、進退窮まって丸まってしまうと連想しちゃう…魔法…があるんだわよねー。

    足音に 消える虫の音 月明かり

この句も好き。八十才になりそうな細田さんの句である。
…無数の虫の鳴く声が聞こえる。なかでもひときわ響く鈴のような鳴き声に惹かれて、そっと近
寄ると、鳴き声は不意にやんでしまう。そういう時は月の明るさがひときわ感じられる…、
そういう句ですよね、と三國さんが。
細田さんは、私たちの団地の管理組合で植栽を引き受けてくださって長い。いつも地下足袋、作
業着という印象。月の夜にそーっと生垣にしのびよる姿が見えるようである。

三國さんの講評で思い出すとおかしいのは、
 
    枯尾花 熱燗想う 肌寒さ

「枯尾花」は冬の季語ですって。「熱燗」も冬の季語なんですって。それでもって「肌寒さ」は秋の
季語なんだそう。だとするとこの句で季語じゃないのは「想う」だけ!!
この句について三國さんがポツリと「…季語のデパート」とおっしゃると、平野さんは「鶴三会」を
作った人で今年は管理組合理事長さんなのだけれど、「そおかあ」と思いがけなくニコニコ顔だ。
「季語のデパート」ってケッサクだとおかしがっているみんなに、「オレは呑ん兵衛だからこういう
句になるんだよ、どうしても」と。
そうよねえ、本当に一杯飲みたくなる句よねえ。

そんなこんなで、句会は、よかったなあ、この団地に住むことができて、と思う日なのである。



2012年10月26日金曜日

佐渡へ  書斎


「ご覧になりますか」
きいていただいて宮司さんの書斎を拝見することがかなう。
人の故郷というもの。魂の原風景を見る感激。
当主正人氏が引き継いだ書きもの調べものの部屋である。

大きな和机の上にも部屋のどこにも、種々文房具と印刷物やら資料やらが置かれ、
りっぱな床の間も紙類の置き場にされ、しかし流麗な文字の短歌の額が掛けられてあり、
本棚の中は斉藤茂吉全集とか、文学博士折口信夫の本、佐渡が島関係の書籍・・・。
それに欄間の上の、洋風の額に入った暗い油絵のなんという存在感。
淑人さん達の亡くなった「お母さん」が描いた「お父さん」が、
白絣であったろうか、ふだん着を着崩したすがたで横に痩躯をのばしている。
見れば壮年の、まことに凄みのある芥川龍之介のような風貌の人である。
「この絵はほんとうにおじいちゃんに似ている、そっくりだよね」
家族の人たち、お嫁さんのみッちゃんや孫の智人くんまでが口々に話してくれるけれど、
しかし「そっくり」の、魂までも油絵に写し取った、この腕前はなんなのだろう。

    りんご二つ画ける油絵を壁にかけ さびさびとして人は居ませり

私は改めて考える、・・・みっちゃんの配偶者である淑人さんのことを。
父親が、妻である人をこんなふうにうたった宮司にして歌人だったのであり、
女子美術大学の前身である学校に行き、画家の道をめざしたかったろう「お母さん」は、
年譜によれば昭和19年台湾で連れた子のいる本間文人氏と結婚。
淑人さんを生み、敗戦後、佐渡に帰還。12年後に他界。
母親はというと、こんなにもまざまざと夫の姿を画布に残した人だったのであり、
・・・淑人さんは、それでああいうようなこういうような人になったのだなあ、と思うのである。

昭和20年。敗戦・国家神道廃止、「お父さん」は39歳。失職。22年ふたたび奉職。
戦後の貧しく苦しい暮らし。
文人(ふみと)歌集に残された魂とおもかげは強烈で、
「無法者」というくくりの短歌などは(護国神社支持者に与ふ)という但し書きがつき、

    明治記念堂を修復すると募りたる 浄財は勝手に他に流用す
    明治記念堂の財を掠めて建てしといふ 護国神社の祭終りぬ

フクシマを修復すると募りたる 浄財は勝手に他に流用す・・・現在ならこういうことか。
「侵入者」というくくりでは、軍国主義者に神社を犯されまいという裂帛の気合。

    ばりばりと柵破る音間を置きて 聞こへ来るなり夜の一時頃
    柵破る音にすばやく走り出で 声あげて追へり無法者らを    
    英霊という名を嵩に境内に、侵入(いり)こまんとする輩を憎む
    立入禁止の立札はいづこしらじらと 明けゆく境内に怒りこみあぐ
    境内に無法に侵入(いり)こみ荒くれし 奴らに寸土も許してなるか

この熊野神社にめずらしく樹木が多いのは、右翼の侵略に抗してお父さんが次々植えたから。
淑人さんは、「こどものときヤクザとなぐりあう親父を見たけど怖かった」と。   
書斎を拝見したことも、御一緒させていただいたお墓参りも、そして神社参拝の儀式も、
私なんかよく考えたことも無い世界、
日本のながく続いた平和が、こういう父祖の魂の在り様にも支えられてあったのかと、
落ち葉のカサカサ乾いた音で鳴る土を踏みしめての、魅入られるような体験だった。
    
    いはけなき吾にしあれど心やすし 祖母のもとにはぐくまる思へば

昭和22年「吾娘を養女に」と嘆きの中で詠んだお父さんは、後になって、
二男淑人さんの嫁であるみっちゃんの出産をこう歌った。

    さやかとはよき名なるかもさつき空 微風にそよぐ若葉と云わむ
    まごさやかの誕生祝の記念にと 日光ヒバの苗を植えたり

私がみっちゃんの家族にくっついて佐渡の本間家にうかがった明るい日、
庭の奥のほうの松の木を指さして、正人氏の奥様がこう言われた。
笑顔のすばらしく美しい方であった。
「あの松はね、智人くん誕生の記念の樹ですよ。
台風で上のほうがボッキリ折れてしまったから、もうダメかと思ったけど。
見てごらんなさい、ほらほら、驚いたことにそこからまた枝があんなに伸びたでしょ。
ほらあんなに大きく生き生きと立派になったんですよ。
智くん、あなたは大丈夫、これからきっと良いことがありますよ。」

佐渡はここに、
この庭やこの書斎に残されてあるというふうに、
陽も風もかたっているような気のする一日だと、私は思った。


2012年10月22日月曜日

佐渡へ 1


さそわれて、本間家の家族旅行に、ただくっついて、佐渡が島へ。
淑人さん、美智子さん、息子の智人くんと、そして私。
東京から自動車で300キロ以上も走るのである。
新潟港で大佐渡丸というフェりーに乗り換え晴天の日本海を渡る。
佐渡の港で自動車をとりもどし、淑人さんの実家をめざしてまた走って行く。
今回の彼らの旅は、美智子さん側(中島家)の葬儀に関する本間家への報告と御礼、
亡くなったお母さまを供養し新たな思い出をつくる・・・それが目的である。

そんな家族の旅に、面白いわねと、私がなんでついてきちゃったのか。
空気のような存在になれればとは思うけど、そんなの無理だ。
私はいつも空気を攪拌して大騒ぎしながら生きている。ゆうれいみたいにはなれない。
つくづくジャマだろうなーと心配がつのってきて、フェリーの上でひそかにさかうらみ。
みっちゃんはともかく、淑人さんがなんで反対しなかったのかわかんないわよ。
お墓参りだけならともかく、本間家のご実家をまずは表敬訪問という・・・。
それって淑人さんの場合でいうと、なんでも「神社」がご実家なのである?

佐渡が島は東京23区の1・5倍の面積。
電力も食料も島内自力でまかなえているはずときいてびっくり、
ホントなの?とうらやましくて、思わず、
「それなら佐渡が島独立共和国にすればよかったのに!」
引っ越したい。東京電力のない国へ行きたいのだ。
「・・・むかし、そういう話もあったみたいだよ」
ハンドルをにぎる淑人さんが言う。
国分一太郎さんがおなじようなことを言っていたのだっけ、と父の笑い声を思い出した。
「とうほぐ ずぅんみん きょうわごぐ(東北人民共和国)・・・」
東北人の国分先生と父・堀江正規は日教組講師団の、仕事仲間であった。
「井上ひさしの吉里吉里人の話もそうかしら?」
淑人さんにきいてみると、
「うん、そうかもしれない、読んではいないけれどね」
「そうよねえ、あの本、長いし重たいしさ、ふつう読めないわよねえ」
まー私はこの家族が好き、かならずやおもしろい旅になるのだろう、
畑、畑、軒の低い瓦屋根、瓦屋根、なだらかな畑と電信柱の連なりを見ながら、
ああ、佐渡かあ、佐渡にきたんだなあと、たとえ一人だけ異邦人であっても、
それはのんきなものなのだ、やっぱり。

到着したのは、農道のわきの入り口、
柿や棗や金柑、柚子の木のあるところに畑があり、
畑にはほうれん草や大根や、家族に必要な分の野菜が並んで育っている。
敷石に導かれて歩いて行くと小さなお池があり、そこには鯉もくらして、蛙もくるのだろう、
その先にひろがる庭をあたためている日の光と風のなんというのびやかさ。
むこうに五葉、三葉の松ノ木が、庭を囲んで数本まばらに立っているのも古典的、
ヤツデ、百日紅、梅の木や楓、萩の花々、昔あったあらゆる木々が無言で風に揺れていた。
・・・秋なのだ。
そういう庭先に、静かな玄関をおいた家。
私がなんにも知らずにたどり着いたのは、さかのぼれば室町までというような神社の、
淑人さんのお兄さんの正人氏があとを継がれた「実家」なのであった。

なにもかもが、私を魅了した。
ゆっくりと行われる家族同士の消息話、道を越えた先の畑の傍らのお墓での正人氏の祝詞、
熊野神社での、八百万の神様方にささげられ神道の儀式。
それらは本間家の生活と共にあって、いかにも自然であり、いかにも美しかった・・・。

2012年10月15日月曜日

 GREEN BREWFEST!西荻10/ 13


小さいライブハウスで、GREEEEEEN BREWFEST!(ビールの名まえらしい)、
タイタイ主催のライブがあった。まあビールをぶっかけられる破目になった人もいて、
大暴れ。私など紙コップを取り落としウィスキーサワーを床にまいてしまった。
今夜は外人がいっぱい。樽みたいな体型の人が多いから空間がせばまって、
めずらしいしおもしろい。本場パンクスを見ているような気分になった。
この日のスペシャルゲスト英国「THE VOX DOLOMITES」関連の人たち。
ちなみに、DOLOMITEとは白雲石のこと、苦灰石ともいって、
カルシウムとマグネシウムの炭酸塩鉱物なんだとか。
なんかそういうVOX、つまり民の声というか世論。
ブクブクあわ立つ民の声。
彼ら5人はこれから約一週間、演奏しながら東海地方を旅するのだとか。

FOUR TOMORROW/A PAGE OF PUNK/DIEGO/PEIPEI
/MAKES NO SENSE

ア・ページ・オブ・パンクが一曲演奏したところで、ツトムがいつものごとくふざけて、
「いいかおまえら、いまのはオレらのパワーの20%ぐらいだから。
これが100%全開したらいったいどーなると、思う?」
私は笑ったが、反感をもった人もいた。
その人は心底ムカついたらしく、
・・・・ふざけんな。カネをとってれば一応プロなんだろう、まじめにやれ。なめるな。
プロなら本気だしてやるのが当たり前だろうが。
オレはこれからやる「ドルメッツ」をききにわざわざヨコハマからきたんだよ。
おまえらなんか聴く気はねえんだ、はやく済ませろ・・・・
(ちょっとちがうだろうけど、まあ、こんなふうな内容)
ツトムはというと、顔がすこし赤くなり、あっ、えーと、そうか、
「じゃあ僕たちは一曲ぐらいやって引っ込みますか?」
彼はけっこう長いこと、長すぎるぐらい舞台からそのヨコハマさんに応えて、
・・・・おれ等はふざけているんじゃないよ、ア・ページはずっとマジメにやってる,
NO・WAR(反戦)なんだ・・・たぶん、あなたは僕たちのことがキライなんだろうけど、
僕はあなたを好きだし、思ってることを言ってもらえてうれしいし・・・。
(もっと言ったけど、まあこんなふう)

この日、FOUR TOMORROW が演奏した。
それがとてもよかったんだけど、急におかしなことを思い出しちゃった。
連想である。

かつてFOUR TOMORROW のリーダーをツトムは短くこう唄った。
YAMAOKA  MotherFUCKER
YAMAOKA  MotherFUCKER×3
You have Nosense
何年も前のA PAGE OF PUNK である。
共同作業の小冊子がのこっているから、このへんは共同作業だったんだろう。
そこにはみょうに気のないヤマオカくんの文章も載っている。

CD録音のときヤマオカくんはツトムを手伝い、人がたりないからコーラスもやり、
しょうがない自分をくさす唄もつきあって歌い、
いっときア・ページのライブにヤマオカくんが来るとツトムはこれを演奏、
ヤマオカくんは、なんでオレがこんなもんを一緒になって・・・
とこぼしながら歌いもして、
そこに居合わせたみんなをすごくおかしがらせたんだと聞いた。
ああ惜しい、それが見られなかったなんて!

ちがうことも思い出した。
そのもっとむかし私が主催した平和集会で、お客さんは150人ぐらいか。
若い人間に助けてほしくて、むりやりツトムに司会をたのんだ。
ツトムはオンボロなスタイルでやってきて、パンクふうなタメ口で司会をはじめ、
中年と老年の多い会場をげんなりさせ凍りつかせた。
ふつうの進行になれた左翼ふうの会場にカッチーンと反感がみなぎって、
ツトムがある有力婦人の長弁舌を、
「過去の話はしない約束だから終わりにして下さい、ルールがちがう」
とさえぎると、無礼な口をきくなと会場騒然、
「司会には向かないんじゃありません? 交代なさったらいかがですか!」
活動家らしい有識者がテイネイ口調で怒りの提案。
もう前代未聞のサムイ展開になったのである。

僕はそれでもいいですよ、司会を交代しますか。みなさんはどうしたいですか。

けっきょくのところ、その時もツトムは司会を交代せず、最後まで持ちこたえた。
私が手に汗をにぎったのは当然であって、その時の彼は今よりもっと、
欠点と長所がいりまじったヘンテコな奴だったのだ。
ツトムの反省とバァァァァァァァァァカッ!!という私世代の人間どもに対する揶揄嘲笑を、
ごもっともと聴いたんだけれども、あとの電話で。
ライブがイチャモンでおかしなことになっても、多少のスリルを感じても、
なんかこう安心なのは、私の場合だと、
こんな滑稽ともいうべき佳作な?思い出の集積があるからなのだろう。


2012年10月7日日曜日

多摩市民塾ひさしぶり


5年ぶりに朗読教室にもどる。
みんなにあえて、なんだかうれしい。
といっても今年度の抽選をくぐりぬけた人たちだから、
私が知っている人は3人だけ。
昔の人が来てくれないかなーと思っていたので、
笑顔を見つけたら、やはり、ちょっとホッとしてしまいました。

月日がたったのか、今がそういう世相だからか、
病気の人が26人のクラスに幾人もいるということが不思議だけれど、
考えてみれば、クヨクヨ暗くなっていないで、外にでて、
なんとか自分の事情を改善しようという人は、
私の辞書では英雄である。
そういう気のもちようだと、ヒトは表情からして優しい、いい感じの人になる。

自己紹介をしてもらった。
それで、さしあたりみんながコロコロ笑える人になればいいのかなあ、と。

闘病はくるしい。収束しない原発はこわい。
この世はおそろしくヘンで、信じられないほどばかばかしい。
それに対抗して、さからって、はっきりと今を生きる。
じぶんらしい時間をじぶんで創る。
せめて二時間。ここで。いまのいま。
日本語をさまざまな方法でつかって、すきな文章を朗読して。
がんばるぞー。
だって社会人のクラスはそのためにあるわけでしょう?

その人の事情はその人の権利である。
声がよく出なくても、舌がもつれても、心が硬直していても、
そういう人が多いければ、そこからみんなで出発、と私は思う。
笑う門には福来たる、なのだ。

2012年10月5日金曜日

いそがしい!


掃除、掃除、そればっかり。
掃除が好きでたすかった。
タンスを移動したら、祖母の箪笥と生き別れた母の箪笥がキーキー、ミシミシ鳴った。
両方とも桐のタンスだけど、たいしたもので今でも使える。
祖母の箪笥なんか120年はたってるというのに。
なんだかボロい箪笥だけど、私が生まれた時もうこれは古かったと思うとすばらしい。
自分で買った家具は、折々捨ててしまって、本箱がひとつぐらいしかない。
ペラペラぱらぱらした家具しか買えなかったから、
どっちを選ぶかとなると、自分の買った物のほうを手放すのだ。
本もどさどさ移動する。売るとか捨てるとか。・・・できない。
着るものも捨てる。もうなんでもかんでもあふれている。
ゴミがすごい。ホコリと紙が。書き損じまで捨ててない。

昨日は医者に行き、クスリをサボって飲まないのはいけませんと言われ、
今日は午後から多摩市民塾。朗読教室の講師をしにでかける。
明日は美容院の行きなおし。娘と同い年のサイト―さんが、
ヘンだったらやり直しますね、とめずらしいことを言ったので、
ヘンとヘンじゃないの中間だと思うけど、やりなおすのかもしれない。
洗濯をし、図書館に本を返し、ビデオ屋に韓流ドラマを返し、おかしくて笑う。
私は今や韓流ドラマの中毒で、これのおかげで楽しいけど時間がない。

あさっては佐渡島。
みっちゃん一家に連れられて。
アノーちょっと、じゃまじゃないのかしら。

私って掃除している。掃除、洗濯、ブログ、食事の用意。
映画「ニッポンの嘘」の福島菊次郎さんは九十才のひとりぐらし。
日常茶飯事を、すがすがしくこなして、それがすごかった。
すがすがしく。
すがすがしく。
まあ、やってみましょうじゃないの。
一日がそうやって暮れる。
ここのところずっと。
ゴミゴミと。

2012年10月4日木曜日

映画「ニッポンの嘘」×松元ヒロ


新宿ケイズシネマって84席。
新宿駅東南口を御苑方向に階段を降り、側道を御苑方向に進む。
大塚家具があるから、そのビルに沿って手前横を左に曲がる。
ビルの切れ目を3階にのぼると映画館です。
ミニシアター。すわり心地のいい座席。
椅子は大塚家具が用意したのかしら。
そこで「ニッポンの嘘」を観ました。

松元ヒロ・ライブで、ヒロさんがこの映画を実演?したので、
そんなに素晴らしいならホンモノをと思ったわけです。
複眼で見る。
ヒロさんの「案内」プラス自分なりの「見る」。
映画を二度観たというのともちがうけれどおもしろい体験です。

カメラマン福島菊次郎90年の足跡を追うドキュメンタリー映画。
DVDがあったら買って、生きることが苦しくなったらとりだして、
友だちみんなといっしょに観たい。きっと精神がシャンとするだろう。
長生きすれば納得できることも起きる、自分を律してズルイことをしなければ。
見ればそのたびそう思うことだろう。
私もがんばろうという気持ちになるだろう。
監督 長谷川三郎。スタッフがいい。朗読が大杉漣。
脚本もいい。朗読も、生活の描写も、数々の写真も、ピシッとおさまって
素晴らしい。

・・・松元ヒロのソロライブに考えをもどすのですが、
福島菊次郎の数々の写真が語る、たとえば「東大安田講堂」を、
松元ヒロが舞台で再現して見せたとき、
私の頭に不意に浮かんだのは、こんなことでした。

自分はまちがっていたのかもしれない。
真実を見過ごしたのかもしれない、
あの闘争の意味は、本来違うところにあったのかもしれない、
何千人もの無名の若者が国家と闘う現場にいたというその事実にこそ、
希望も意味も、見つけるべきだったのかもしれない。
私は数人の指導的人物だけを目で耳で追い、マスコミの誘導にスンナリのって、
ゼンキョウトウは暴力的とただそれだけ考えて、
真実とはちがうものに行き当たり今日まで来たのかも。
そういうものの見方、考え方は、まったくもっていいかげんだったのかも。

なんでだか私はふうっとそう考え始めたのです。
べつだんヒロさんが、ことばにしてそう言ったわけじゃなかったのですが。
「だいじなものは目には見えないんだ」
星の王子さまはそう言ってたかなあ、と思う。
砂漠が美しいのは、砂漠がどこかに井戸を隠しているからなんだって。
あの時の、無名の若者たちこそ、砂漠の井戸だった、
そういう考え方をしたほうが、日本人としては、私としてはよかったのかしら。

「ニッポンの嘘」は、真実を哲学的に考える映画になっている。
あいまいな私に、写真が直接応えている。
報道写真家福島菊次郎さんの90年と写真は渾身の回答なのでした。


2012年10月2日火曜日

ジャズフェスティバル・鶴牧東公園


NEW GLORIA SWING ORCHESTRA の演奏はそれはステキでした。
ジャズって人のくらしの、どんな風景もすくいあげて、それをあたたかく懐かしく、
すべてを肯定して奏でてくれるものなのだなと思いました。
ね、故郷を離れることも、こどもが生まれたことも、飛行機に乗ったことも、
向日葵畑を見たことも、私をはなれてくれない悲哀感すら、
それも幸せ、あっていいことだという感じ。
47年目を迎える社会人のジャズバンドだそうです。

公園の芝生にすわってききましたが、秋になったなあ、と思って。
スズムシやマツムシがトランペットといっしょにずーっと鳴いているし、
月が黒々とした大木の上で淡く光っています。いったい財政は大丈夫なんでしょうか、
スピーカーで拡大される音がとても美しいのですね。 
演奏はもちろんのこと、
機材もすばらしくよいものでしょうが、いったいどこの、だれの、なのでしょう。
市の持ち物だとよいのですが。
入場料はカンパでまかなっているのだし、
何十人ものジャズプレーヤーの出演料は?
鶴牧東公園はうちのとなりの、そんなに大きくはない公園です。


Basie Straight Ahead
Put It Right here
Ⅰ Can’t Stop Loving You 
Sophisticated Lady
Caravan
When I Falin Love
Backrow Politics

この人たちが演奏した曲です。スタンダードナンバーばかり。
私なんかにはぴったり。たのしくて。
backrow politics ? 政治の逆流かしら。政治に逆らうと訳すのかしら。
47年目をむかえるJazzバンドですから、お年を召したプレイヤーがいるはず。
さがしたら、ベースにギターとドラムの人がそうでした。
それで、この創始者たち?のセンス、考え方、プレーヤーもみんなそうですが、
自然でヒトの音のじゃまをしない、このオーケストラの思うところがわかるような。

When Ⅰ fallen love  ぼくが恋におちたとき。

これなんか若いトランペットプレイヤーのソロが素敵だと思いましたが、
彼、なんでも俵屋さんみたいな苗字の人、がヒナ壇から舞台前方へと歩きはじめると、
他のトランペット奏者たちがなにかこう微笑む、おかしがるふうなのです。
だってそうでしょう、彼の When I Fallen Love  、
トランペットが奏でる彼の永遠は、少年の恋そのもの、
もう練習のときからとても独特で、すばらしく美しかったのでしょう。

ぼくが、ぼくなんかが、恋におちた、
そんなすごいことが、こんなぼくに起こっていいのかしら。

フィンランドに行ったとき、川沿いのカフェが気に入って、夕暮れにまた出かけました。
冬のことで、出窓のむこうには凍った運河に凍りついた汽船、
雪の街路を月と街燈があわく照らしているのです。
テーブルにはロウソク、お茶をのんでもよいし、かんたんな食事をしてもよいのです。
すこしだけ値段の高い、若々しいけれど落ち着いたカフェレストランでした。
夕闇が暗い夜になりました。
外がよく見える席に、16才ぐらいの金髪の少年がいてだれかを待っていました。
空色のシャツに網目模様の灰色のセーター、紺色の冬のパーカ、
出窓のガラスにロウソクの灯がうつっても、待っているだれかさんは、
もしかしたら少年より年上なのかもしれないその少女は、
少年がなんど腕の時計を見ても、夜がすこしづつ深けても、
・・・待ってもまっても、来ない、のですよねえ。

時がすぎていく、時間がみえるようでした。

2012年9月25日火曜日

ザ・バトル・オブ・パンク  9/22


ふたつのバンドがバトル。
ゴロゴロとア・ページ・オブ・パンクが。
リーダー同士の日ごろの言い争いを「演奏バトル」形式に昇華させた試みで、
企画としてはけっこう抜群。主催ア・ページ。いかにもらしい。
何日か前、ゴロゴロのリーダーに行き会ったとき、ツトムを指さし、
「やっつけろ、こんなやつ、こてんぱんにやってしまえ!」
と言ってみたらば、
「そうですよねえ? そうしますっ!!」 
などとユウくんは言い、ツトムくんはニヤニヤした。

高田馬場の音楽館というスタジオ。
ゴロゴロとア・ページ双方の味方がゾロゾロ集まって、その数もカウントされるのだ。
入場者にウマイ棒が配られてお祭り騒ぎ。後方ヨコにバトルの進行表が貼ってある。
拍手の数で勝敗を決めるという。
いっぱいの会場のうしろ壁ぎわで、がたがたする椅子の上に立って見物。
それはもう楽しくておもしろくてエキサイティングな2時間だった。
結果、引き分けというのが会場および司会の判定。
ジャンケンでア・ページが勝った。パンクだからパーを出したとか(!)。
人生というか人間模様というか、
あんなにいろいろが見えたことはない。
小説のようだった。

成功
トライアングル全開。
長期にわたる複雑多様な人間関係の足し算。
こんなふうだといいなあという若いイメージの洗練された実現。
ア・ページ・オブ・パンクとゴロゴロは異質で、双方案外に危なく大人。
喧嘩の組み合わせとしてはすごくいい。
しかも気がつくと、ふたつのバンドの友達が、
バトルに乗る気、すっかりやる気、おもしろがって遊ぶ気だ。
会場はフラット、線引きのあっちとこっちで、床がミシミシ鳴っていた。
スタジオの機材が壊れるんじゃないかというような華やかな大騒動、
勝ち負けに徹底してこだわり、競奏およびリーダー同士のけなし合いで盛り上がり、
そこに各種友人たちの、悪口冗談タメ口とフッ飛んでくる人体が加わる、
興奮と期待と一体感とがわんわん高まって見ているだけでも熱気で汗まみれ。
勝敗を決める拍手も、おまえらどっちに拍手したか見てるぞ仕返しするからな、
などと脅してドッと笑わせるのである。司会もよかった。

失敗
そこで。さあこれからという時に失速が起こり、驚くべきことになる。
1分間づつ3回交互に演奏、気合が入ったところで、
次はいよいよ各10分づつの激闘のクライマックス。
さっきの勝負に僅差で勝ったゴロゴロが先行演奏なのであるが、
これがまたも会場を圧倒するほどエキサイティングな素晴らしい出来。
当然ア・ページは死力を尽くして闘うであろう、サア実力はどっちが上だろう!?
会場の期待と興奮が、絵に描いたみたいに沸騰点に達し、
見たとこア・ページが全力疾走に移ろうと楽器を高々かまえた瞬間、
中央に走り出たぺイぺイちゃんが次の10分間を占領、
ゴロゴロとぺイぺイちゃんが対決するという図式に「バトル」はなった・・・。
ハッキリ言ってこれはないだろう。
しかしそうだからってどうしたらいいのか誰にもわからないのだ。
みんな呆然。必殺効果バツグン。電撃ショック。
悲劇で喜劇。小説。
ま、パンク。

考えてみればパンク・ロックの対決に、
土台パンクとはちがう質のぺイぺイちゃんの加勢をたのむって、
たのんだア・ページの作戦がおかしい。
ゴロゴロの演奏中、「パンクじゃないだろう」とかゴロゴロに難クセつけてなかった?
だったら自分たちも純粋パンクで闘いなさいよ。

残念
ア・ページ・オブ・パンクのチアキは登場の瞬間から相変わらずのドラマティックさ、
戸を破りの天井ぶらさがりの人の頭を伝いの目がさめるような出場、ゴロゴロ演奏中も
ユウくんのヴォーカルを侮る模写パントマイムがおしゃれで秀逸、
本日はア・ページがゴロゴロを制覇するだろうと予感させた。
一方のゴロゴロがまた、彼らの音楽性や舞台センスがバトルで挑発されたかして、
極限までの爆発的展開、元来スマートなふうのユウくんの人柄に加うるに、
反射反発力の強靭さを見せつけて、けっきょくは彼らが勝ったかもしれなかった。

もったいなかったんだよねー。

発見
注目すべきはその興奮の失速をたてなおそうとした気分とやり方だ。
ア・ページがぺイぺイちゃんの10分間を「ア・ページ」と認知、演奏はゴロゴロへ。
決定したとたん司会に演奏をかぶせ、たちまちライブは次の5分間バトルへと移行。
迷走をたてなおす方策が鮮やかに見えた一瞬だった。
ゴロゴロのカッコいいセンス力量である。
それに友達、バンド仲間って、おもしろいもので。まー、浪花節の世界といいますか、
むかしの木場とかやっちゃ場、男の世界ってこういう感じだったか。
若いのに親切。いわくいいがたい共感があるらしく、終わったあとの雰囲気もまたシブい。
勝敗を決める最後の拍手だって、互角、だもんねー。
ツトムくんは幸せな人である。

パンク・ロックは小説とはまったくちがうジャンルの芸術だ。
スカッとたためばいい。
あの日はあの日、今日は今日だ。
そしてどうするか。
演劇の世界ではアントン・パヴロヴィッチ・チェーホフの台詞が有名である。
「一度目は悲劇、二度目は喜劇」
どんな憂愁にみちた悲恋もこういう運命をたどるという警告だよ。
ライブもそうよ。気をつけてね。


2012年9月19日水曜日

松元ヒロ ライブ 9/18


素晴らしいライブ。
なにから、話せばよいのか、見当がつかない。
私はヒロさんのファンで、ライブを見るたびいつも大笑いしてきた。
でも昨日ほど解放されて、のびのび爆笑したことはない。
なぜだろう、こんなに不幸なのに。
今日もふたたび日本に不幸な朝がきた。
だけど、目がさめたら元気だった。
アイロンなんか掛けちゃった。

笑う門には福来たる。

会場が揺れるほど笑って、目はなみだでいっぱい、泣いたりもしたんだけど、
いったいなにを見聞きしたのか、よくは思い出せない。
茫然とし、スカッとし、あんまりおかしくて、笑っちゃって、
それなのに思い出せない。
「どうせあんたはつぎの瞬間パッと忘れてしまう」
松元ヒロのたびたびの老人向けギャグがおかしい。
私もそのとおりでこまったもんだけど、
幸福感はそのままだからやっぱり、幸福。

東電と政治家の悪口をつい期待したけど、そんなもんはそこそこ。
考えてみれば、それは巷(ちまた)に充満しているから、まあいいか。

昨日はライブ千秋楽の日。
松元ヒロさんはいつにもまして熱演だ。
鹿児島から東京をめざし今日に至るまでの「自伝」と、
映画「ニッポンの嘘」ー九十才のカメラマンのドキュメンタリーを全篇再現。
この伝記大作二本が柱なのである。だったわよね?
この二本立てがまた、縦横無尽、諷刺てんこ盛り。
体育運動、学生運動、芸能芸術にまつわるエピソード、
17万人デモの日、ドイツ人とのプチ会議、領土問題、「憲法のはなし」、etc・・・。
あっちへ飛びこっちへ飛びして、すごく爽快。
パントマイムつきコメディアンの「自伝」だから、オーッ、なんと、
大野一雄や、土方、エーと撰のテヘンがないやつ、そうだ土方 巽(たつみ)、
つまり暗黒舞踏の神々までもが、幽鬼のごとき如何にもの出現、ケッサクである。
永六輔、立川談志もモチロン模写としておもしろいが、
しかしながら一番おかしくてクール?!なのは松元ヒロ本人であって、
世相とともに浮き沈みする自分の人生を、ヒロさんは喜劇的奇天烈でもって戯画化、
私たち観客の昭和はこうしたものだったと、なんかこう思わせるのだ・・・。

その語り口は、私たちの気持ちをラクにする。

ヒロさんを通して私たちは自分のこともついでに笑っちゃって、
おかしくて笑うんだから、それは反省というより自己肯定であって、
たとえなにがなんだかきっちり思いだせなくても、
今も、心が温まっているわけである。


2012年9月14日金曜日

映画「内部被爆を生き抜く」を観に


映画と講演会。
鎌仲ひとみ監督の最新作「内部被爆を生き抜く」を観に行く。

講演会も終わってホールに出ると、女の人がひとり、貧血を起こして倒れ、
誰かがホールのソファに助けて座らせたところだった。
痩せて、拒食が始まっているのかもしれないと思うような人だった。
こわばってさびしい表情に、・・・とりあえず、ということを考えてしまう。
脳貧血って、ふつう、日々の過度緊張がひきおこした血行不良の結果だから、
そのヒトに必要なのは、血行をほぐしてくれるだれかの手であり、
思いつめた気持ちをきいてくれるだれかの温かみだと思う。

「内部被爆を生き抜く」は、生き抜く、それがテーマ。
どうせなら、なんとかして、
ほがらかに、希望を失わず、面白がって、生き抜きたい。
親切に、温かく、大笑いして、元気に。
頭を、じゃんじゃん、働かせて。

現実がホラーじみて、閉塞状況が深刻なので、
笑いこける相手でもいないと、私たちは思いつめてしまう。
不幸の果てしない底に、どんどん堕ちてしまう。
そんなことはダメだ。
自滅は敗北である。

9/13  鎌仲ひとみ監督と会場の人たちの質疑応答は、
私たちの国が、変化せざるを得なかった事情を如実に示していた。
それを「おんな革命」と鎌仲さんは表現する。
この事態を動かすのはいまや女であると。

映画と講演の夕べに参加し、会場で手を上げて質問する人の多くは、
内部被爆におびえる、若い母親である。
・・・2004年だったか、
鎌仲さんの映画「ヒバクシャ ー世界の終わりに」を観に行った。
あのころは、原子力の危険を警告する映画や講演の会場に、
若い人の姿など、数えるほどしかなかった。

昨日、鎌仲さんはこう話した。
「自分だけよく判っててもダメなんですよ。
家庭を変える、夫を変えることがまずは出発点です。
それができないと、子どもを守る国に日本はなっていかないと思いますよ。
だって、子どもはふたりの子どもでしょう?
パパは原発賛成、ママだけ反対。そんなことでどうするの。
そういうタイプの人がすごく多いんですよ、いまの日本って。」

ふるい企業戦士というイメージにしがみついている夫を変えないとダメって、
日本の構造は2004年とほぼ変らないというのかしら。
原発が三度メルトダウンしたというのに!?
金曜日の25万人を、11月11日、100万人のデモにするには、
その壁をなんとかして越えなければならないわけか。
鎌仲ひとみ監督は、原発反対の映画を引っさげて、日本全国を歩いている。
その彼女の実感がこうだとは、おそろしい。

貧血を起こした人が自動販売機のほうへ行く。
何度コインを入れなおしても、珈琲もジュースもお茶もガシャンと落ちてこない。
そういう時ってあるよねー。自動販売機にまでバカにされる苦しいとき・・・。
彼女はひっきりなしに片手で、自分で自分の身体をマッサージしている、
ふだんもよく具合がわるくなって、整体に行ったりするヒトなのだろう。
私なんだけど、タイミングが悪くて、どうしても声をかけられない。
指圧だってできるのに。
「ありがとうございます、でも、もう大丈夫ですから」
彼女は先刻助けてくれた人にくりかえしそう言ったにちがいない。
あの様子ではたぶん私にもそう言うだろう・・・。
そう思う自分をくだらないと感じる。
単純なことがすばやくできる人は、なんでもできる人だ。
いま考えても、よくなかったなーと心のこり。

颯爽とした鎌仲ひとみさんの、
監督のトークつきの上映会にぜひ参加してみてください。おススメです。

2012年9月12日水曜日

夏バテか?


イヤそうじゃなくて、老化の廊下に乗ったのかな。
朝、目が覚めると、起きたくない、となる。
本を読んじゃう。
ごはんがまずい。
とちゅうで食べるのをやめる。
でもなんだか太る。
薬をのまなきゃ、と思う。
一メートル先においてあるのに、
取ろうとすると、
ナイアガラの滝を見物に行くほどの決心がいる。
やめた、のまない。
立ち上がって、なにかをするのが、もうイヤだ。

で、また、本を読んじゃう。

ときどき、ものすごく悲しい。
たとえば、「津軽・斜陽の家」を読むと。
太宰 治の生家の、帝政露西亜の貴族にも匹敵する、
「よそごとのやうに読むことができなかった」(太宰 治)暮らしぶりについて、
読めば読むほど、もの悲しくなる。
そこで生きた人々の不幸もそうだが,
西日に輝くようなものであったとしても、
津軽の文化が、あとかたもなく沈没したのが、悲しい。
見たこともない日本の歴史・・・。
個人としての郷愁の行き場がないのが、悲しい。

二十日に劇団民藝の今野鶏三さんにおいでいただいて、
団地の管理事務所で、朗読をきく会を、鶴三会が行う。
ポスターに色をつけるのに、二週間もかかった。
ものごとを必要な順からサボる。
事務、がダメ。

老化とは、個人における突発性ストライキのことかも。

               「津軽・斜陽の家」  鎌田 慧著  詳伝社


2012年9月7日金曜日

熊本に移住したAさんへ


Aさんへ

お元気ですか?!
南阿蘇の緑の公園の灰色化した木のベンチ、
牡丹みたいなあかい色したTシャツ姿で、くっついて笑っている
可愛いふたりの女の子。
写真つき暑中お見舞いのハガキ、ありがとう。
「首都圏、関東からの移住家族とたくさん知り合いました」と書いてあって。
ああ、どうにか無事なんだと安心して、
この小さなふたりのために、放射能を避けて熊本に移住したその後の、
あなたの日々の明暗を、あらためてハガキを手に考えました。
さんざん悩み、調べ、ご両親と言い争いにもなり、苦しんで、万難を排して、
そういうあなたといっしょに、根こそぎ生活を動かし仕事場を変えた、
あなたの夫君のお人柄が、写真のむこう側に見えるような気もしたのです。

今年の5月、考えたとおり引っ越して。
九州地方は前代未聞の集中豪雨に見舞われ、
なれない土地でさらに酷暑の夏をむかえ、
引越しというのはたださえ疲れるものなのに、
利権国家日本は、原発再稼動を決め、瓦礫の拡散を方針にする。
せまい汚染列島のどこに逃げても、放射能は追いかけてくる。
自分たちの選択は正しかったのか、これはもしかしたらまちがったかもしれないと、
あなたはどんなに不安だったでしょうか。

なにか、フツウであれば考えもしない「大事」と正面衝突?したあと、
私たちは、なんども迷うのですよね。
よかったとも思うし、失敗だったのかなとも思うのです。
それで、どう考えても、なにが正しいのかきめられないのです。
少数意見は、どこまでいっても少数で、よって立つ地盤も常にぐらぐら。
よかったと思い失敗したと思い、たして、ひいて、
しょうがなくあなたのそばにとどまったボロボロな残りが、
「結論」ということなのでしょう。

Aさん
このごろは、空をながめると、入道雲ばかりが眼について、
それだけで地殻変動がどうのこうのと想像し、ガックリ疲れちゃうような私なので、
未来を予測して語るなんてことはできないけれど、
でも私はあなたに、こんなこともある、と言いたい気がするのです。
あなたたちが熊本に移住したとき、
あなたの勇気や、決断や、周囲との軋轢、バクハツしそうなまでの論理の堂々めぐり、
それからふたりの子どもたちの様子だとか、
東京に残るみんなとのあなたの話し方だとか、喧嘩とか、後悔とか。
私はみんな、好きだった。だって、賢そうで、人間らしくて。
欠点も、決断力もりょうほう立派に備わっているみたいだし?!
「行った先がダメなら、安全をさがしてまた移っていく人間になりたいです」
そう言って笑ってみせた態度だってね、あっぱれじゃないですか。

スウェーデンの世界的ベストセラー「ミレニアム」の作者スティーグ・ラーソンは、
友情は信頼と敬意に基づくものだと、たびたび主人公に語らせています。
信頼と敬意がなければ、友情は成立せず、それでは助け合うことはできないと。
信頼と敬意なんてもの、それはいったいどこから生まれるのかしら。

考えて決めたことを実行しようとする一連の行為を見て。

そう、私は思うのですが、どうでしょう。
友情はそうやって得られるものではないでしょうか。
あなたは一連の行為によって、私を友達にしたと思うのです。
友情とはなんだか馴じまない言いまわし、泡ぶくのよう、はかなく消えてしまう虹みたい。
でも私は、私の友情って、あなたの人格を保証している、と思うのです。
あなたは移住して多くを失い、失う行為によって、新しい多くを獲得した。
「首都圏、関東からの移住家族とたくさん知り合いになりました」
それが信頼と敬意に基づいた関係に、どうか進化していきますように。
立場がおなじであっても、友達じゃなければ助け合うことはできないよ、と
スティーグ・ラーソンならば言うでしょう。
ジャーナリストであったラーソンは、一生を社会運動につかい、雑誌EXPОを主催、
人種差別に反対し、極右を論じた著書を発行し、50年の一生は貧乏で、
だからこそ、友情についてはリアリストだったでしょう。
「君は僕を信頼しているのかな、どうなの?」
それはいつも、どこにいても、一連の行為をよく見ることで、決まるのでしょうね。

長くなりました。
ヘンな手紙で、、まったくもう、こまりました。
これ、もう三日もかけて、書こうとしてるけど、うまくゆきません。
手紙を書いていると、あなたのご両親のことを思うので、とても不思議です。
こんな娘さんを育てた方々に、敬意をささげたい気持ちでいっぱい。
くれぐれも、よろしくお伝えください。

元気でね。


2012年9月6日木曜日

メモ -情熱


いったい、”情熱的”とはどういうことなのであろうか。情熱(Pasion=Passion)とは、第一義的
には”受難、苦難”を意味し、これが複数になり大文字になれば、キリストの受難を意味する。
受難、苦難から発して激情、激怒、熱情とまで来れば、それらはすべて受身な、暗い感情で
あることがおのずと明らかになるのではなかろうか。”明るく情熱的”ということは、ことば自体
として矛盾しているであろう。哲学者スピノザならば言うであろう・・・・。
「受け身の感情(情熱)は、われわれがそれについて明晰な観念を形成するや否や、たちまち
受け身であることを解消する。受け身な感情は、混乱せる観念である。」と。
情熱的な人間とは、これはあまり名誉ある呼ばれ方ではないであろう。受け身な、暗い感情
の持ち主とは、誇り高いスペイン人達にとって耐え難い呼称であろう。

         堀田善衛 著「ゴヤ」  朝日文芸文庫

旅に出た


短い旅をする。
山あいを夜になって自動車でハラハラしながら通る。崖から落ちたら困る。
「おかしいな前がよく見えない、・・・霧がでているのかな・・・」
運転しながら息子がそう言うのがこわい。霧なんか出てないわよ。

話がまたいやだ。
「さっきね、露天風呂にバッタがいた。溺れてたから助けた」
そう言ったら、
「たぶん、今夜の夢に巨大なバッタがお礼に出てくるだろうね」
想像すると、助けたんだからこわくはないがイヤである。
「あんたはだれも助けなかったの?」
「クモがいた」
「助けなかったの?」
「助けたけど死んでた」
なりゆきで、
救助が遅すぎると蜘蛛が恨んで出てくる図を考えてしまう。

やっと山あいを抜けて、道路が平坦になり、自動車道になる。
でも左右に黒々とした山が待ちかまえていた。
「うわっ、すげえ。いやな月が見える」
「えっ?」
なるほど、凄みのある、月ともいえないような月がダラッと前方にいる。
低いところで待ちかまえているようなのがこわい。
いやなオレンジ色だ。大きくて欠けて傾いて、尋常とも思えない。
天変地異である。
「あれ、本当に月?」
山の横にひっかかってこっちを見ているようだ。
「月以外のなにものでもないでしょう、あんなの」
「雲のせいよ、こういうとき、ああいう形になるのって」
自動車もたてこんできたし、あんまり話しかけるとよくないけど、
「見てよ、あのどろりとした・・・」
この私の、どろりと、という言葉が一生忘れないぐらいイヤな形容だと息子が言う。
オバケ屋敷用語だしオトがすごい、と言うのだ。
そんなかしら。
どろりと、が?
月が相手じゃなければこわくないのよね、たとえばメリケン粉がどろりなら。

やがて暗黒の山はなくなり、ビルディングが林立しはじめた。
そうなればなるほど、どうしてだか月はスッキリさわやかになり、
欠けてはいても、ウサギがいて、怪奇な色もわずかとなったのである。


2012年9月4日火曜日

追いかけてくる芳香


まず緑の枝のむこうを黒いカラスが横切って飛んだ。
するとちいさな庭に黒揚羽がひらひら。
うれしいなとおもっていたら、セミががさがさ、網戸にとまる。
セミもきたし、スズメもやってきた。

こんなきれいな日ってあるかしら。

郵便やさんがやってきて、外国から小包ですという。
オランダの娘からだった。
郵便やさんが手渡してくれるまえから、なんの花か香る。
なんとなく不吉というか。
香水壜がわれたのかなと、小包と格闘。
だってなかなか、テープもはがれず、箱もひらかず。
はるかー、なんでこんなにシッカリ荷造りするのよ。
それにしても、なんだろうか、こ、こ、この芳香 ?
小さい包みがいっぱいあって、全部ひっぱったり破いたりするんだけど、
そのあいだにも、芳香は殺人的にひろがる、どれがそれなんだかわからない。
帽子がでてきて、コースターがでてきて、カード、来年用の卓上カレンダー、ペンダント、
ええとこれ。これは、それは、香水壜を入れた箱かと思うほど大きな石鹸だった。
250グラム。ОLCE ⅤIVERE そういう名まえの石鹸なのね。
読めない。脅迫的な fine natural soap 。
どこの。なんの? こんなに強烈でも fine で natural なの?
ひっくりかえして、さがして読んだら、イタリヤの石鹸。
なんでオランダにいるのに、これを選んで送ってくるのー、もらったの?
ぼやぼやしてたら、家中に、香りがひろがって、
ねえ、遥、助けてよ、言うけどロッテルダムのあんたのところでも、
これ使ってるんでしょうね、と思うし、なんですって?イタリア語のほかにエイゴがあって、
rose water  & marine liliy のクラシックなハーモニーだって。うそつけと思うし。

すごい日になった。
刺激的よね、とにかく!


2012年9月3日月曜日

無名人


在田さんと池田さんが一年ぶりにたずねてきてくれた。

足りないものがあって、朝、買い物に出てもどったら、
うちの前にクルマがとまって、はや在田さんがいる。
「池田さんは?」ときいたら、「もう、中に入って待っている」という返事。
彼らって警視庁みたいに時間厳守な人たちなのだ。
在田さんだけ、見張りみたいに外で待っている、というのも律儀である。

池田さんは足がよくないらしい。でも、にこにこしてソファに腰掛けていた。
ラッキョウとお茶と、お赤飯にバナナケーキに薄荷のケーキなんかのおみやげが、
どんとテーブルに載せてあった。手作りなり。
お赤飯があるなら、お昼ごはんは、素麺をやめておかずだけ作ろう。

話をする。
彼らふたりは、修理や掃除や介護のプロだ。当然迫力がある。
私なんか夕べは床に無公害だとかいうワックスまでかけちゃった。
寡黙な人たち。どんな話もどっちかがすごくよくわかるというのが興味ぶかい。
おもしろい組み合わせだなあと、私はいつも思う。
在田さんと私はかつて同じ市に住み、同じような住民運動にかかわっていた。
それぞれの運命およびカルマによって家族はバラバラ、生活も変わった。
都市生活者というのは、みんなこうかしら。
変わらないのは、私たちが「カネにならない生き方」の見本だ、ということかなー。
永 六輔いうところの無名人。

話しながら池田さんは着物をほどいてくれる。
在田さんはふらりと立って食器戸棚のゆがみをコツコツ、
「ダメだこりゃ、どうにもならんな」とか、言う。
私は一年前に書いた文章をさがした。
ふたりはそれを読み、おたがいに文章を交換し、それから黙って私に返した。
「なんでもアリタさん」と、池田さんについて書いた「秋風や」である。
能力の交換とでもいうか。

ふたりが帰るとき、玄関でよくよく眺めたら、
在田さんは、鳥打帽子に紗の濃紺の作務衣、それに運動靴である。
「なによー、どういう格好なの、大正時代じゃないの、まるで!」
おかしくなってそう言ったら、
「これでニッカーボッカーならばってか?」
在田さんはニヤリとし、池田さんとふたり、紗で丈夫だし涼しいのだと強調した。
これさえあれば、仕事でもなんでもやれる、どこへでも行けるし、と言うのである。

在田さんってパンクだな、と私の長男なら言うかしら。

2012年9月1日土曜日

週刊文春の吊り広告


電車に乗ると、吊り広告をけっこうヒマつぶしに読む。
きのうは週刊文春の広告に、「韓国・中国を屈服させる方法」とあった。
私はギョッとして自問自答した。自分はどうか。
韓国や中国を「屈服」させたいと思っているだろうか?
屈服で国交安定? 屈服させて友情? コワイ考え方だ。
ライブハウスにいたイギリス人にきいたら、彼はなんて答えるのかしら。
この世は日本人だけでデキているわけではない。
文春の記者は、外人記者クラブに行って、おなじ意見を堂々と表明してみてはどうか。

こんなことも思う。
いつのころからか、電車に乗ると、韓国語の案内が目立つようになった。
DVDを借りに行くと、韓流コーナーができ、そこには大量の作品が並んでいる。
レストランやカフェには、たどたどしい日本語をあやつって一生懸命働いている
韓国人や中国人がいる。在日韓国人も多い。
多いからこそ電車の表示にハングルが登場するのだ。
大勢の彼ら彼女らが交通費をはらって電車に乗ってくれていることを、どう思うか。
京王線は? JRは?
その人たちが「韓国・中国を屈服させる方法」というデカ見出しを読むなんて?
学校に通う在日の子どもたちの心細さや恐怖ってどんなだろう?

こうも思う。
韓流ドラマが大流行だというのに、
私たち庶民は、竹島問題が起こると、即座に手の平を返すのか。
韓国の屋台料理をほめ、イケメンに血道をあげ、
スターがくると空港まで迎えにいき、歌手の公演チケットは完売。
韓流スターが自殺すると泣いて葬儀に300人が直接参加、
ありがとう、あたたかい心を教えてくれて!と叫ぶ。
平和があって、そんな熱い気持ちがせっかくあったのに、
相手国家を屈服させようといわれるとスンナリ無関心、そうねとなっちゃうの。
ちょっと待ってよく考えてみたい、と少しは思ってみるのが自然なんじゃないの。

そこに人間の存在があるかぎり、
いつも、気持ちはあたたかくなくちゃ、と思う。


2012年8月29日水曜日

ア・ページ・オブ・パンク 8/25


ピンポンパンク8/25で、「ア・ページ・オブ・パンク」が体力のあるところを見せた。
アグレッシブ。陽気、主義主張もガンガン。
音楽性について? どうだってきかれても、めまぐるしくってわっからなーい。

視界がパーッとひろがったのだろう。
夏休みをとり、2週間イギリスに出かけ8回ライブに出演、結果、なんでもイギリスの
神奈川新聞?みたいな地方紙に評判がよくて載っちゃったというから意気軒昂、
かんじんのその新聞は、マイケルだかスコットだかエイゴの友人が、
「オレの家の壁に貼るよ」と言って、くれなかった、だからもって帰れなかった、
というのも如何にもの話ではないか。洒落てるんだか泥くさいんだか、
たぶん両方なんだろう、なにしろワーキング・クラスを誇りに、パンクだ、パンクだと
一年中そう言って生きてるんだから。
今回のア・ページの演奏のよさは、生きる様態と決定のしかたに加えて、
ピンポンパンクで帰国初ライブということがけっこうな真髄、アサくんの力量というか、
ライブハウス芸術のよさを、見せられた気がした。
イギリス帰り強調の!扮装?でア・ページ・オブ・パンクの演奏が始まると、
集まった面々の空気が、で、どうなったのかという好奇心、冗談のやりとり、野次、
大暴れ、絶叫、仲間的からかい、などなど、などに。
彼ら双方の存在理由と関係が、粉飾をくわえず不安定のなかに浮かんでは消える、
すばらしく好ましいあり方だと思う。
パンクのライブはまさに演奏する側と迎え撃つ側のやりとりいのち、
ア・ページもこの日ばかりは、さぞぶっちぎり感があって、楽しかったろう。
バカ高かったろう飛行機代や行くまでのゴタゴタも、むくわれたわよねー。

わいわい騒ぐのって、楽しいんだなーと。
私なんか空中を飛んでくるばかもの?!にぶつからないようにとタイヘンだ。

ロックバンドが集まるライブは、音楽が手段の小型デモのようなものだと思う。
このライブハウス形式の自由さがうらやましくって、
いろいろなバンドの演奏を見たり聞いたりが、私は好きだが、
いつも考えることは、たとえばのはなし、英語を流暢にあやつるといったって、
脳みその中にしっかり言いたいことがなければ、話題のとぼしい、どーだっていい、
痩せたエイゴしかしゃべれないことになってしまう。
ロック周辺もまったくもってそういう感じ、
いくつになっても自己表出とか個性とか、そんなことしか考えない表現活動は、
テクニックがいくらすばらしくても、インストゥルメントなるものがいくら上等でも、
自分のやせたタマシイ以上の拡がりを持たないから、
ロックなんて言っちゃっても、いつのまにか信用金庫型保守なのだ。
電力でいくら騒ぎを大きくしたって、自分の頭と耳がごまかされるだけ、
やっぱり、その日その時みんなとすごく楽しんだという感激はウスイのではないか。

デモンストレーションとは、
なんにもせよ自分の考えの表出であり示威行動である。
愛をうたおうが正義をうたおうが、人間らしくなにをデモりたいかがだいじだ。
しかもライブハウスでの演奏は、観客も出演者の一部である。
みんながその日の気分を用いて、いっしょになって演奏をつくるという、
可変型の、じか取引が大劇場より幅をきかす世界である。
そこが自由でそこが楽しい。しかも上手くいきにくい。
そういう場に自分がいるって、やっぱり、おのれの病める魂をゆさぶることだと思う。

金曜日の国会周辺デモには、独りで参加したという人があっちにもこっちにもいる。
おどろくほどの人数である。私は、その人たちの日常生活での孤立を想像するし、
自分の閉塞感についても考える。そして、なんだか、ただ、ホッとする。
集まった人はみな、それぞれが「原発再稼動絶対反対」である。
憤慨と抗議の膨大にして個々の表現。
では、日本人というものも、可変するんだろうか。
彼らは人生のどういう道筋を通って、ここ首相官邸までやってきたのだろう?
ひとりで? 万障くりあわせて?
私はだれにも似ていないが、そこがみんなと似てもいるのだろう。

ロックもデモなら、これもデモだと、どっちにいても、私は両方を比べて考えるのだ。


2012年8月27日月曜日

政治の目的


8月23日だった。
外務省は、野田首相の親書を返しに来た韓国・駐日大使館職員キム参事官に
門前払いをくらわせた。
キム参事官の乗用車の外務省正門通過も許可しなかった。

こんなにイヤなニュースってあるだろうか?

日本の首相親書をつき返す韓国・イミョンバク大統領の態度は好戦的である。
では韓国の国民は、好戦、なのか。
韓国国民に、国内問題として、まずそれを考えてもらいたい。

ヒトのことを言うまえに、日本は、好戦、なのか。
政府マスコミのせいで伝わりにくいのかもしれないが、
私たち国民は戦争という大量殺戮にぜったい反対である。
外務省は、いったいだれの許可のもとに、好戦的な外交を展開するのだろう?

今回のいわゆる領土問題で、すごくおっかないのは、
マスメディアを利用した脅しが先行し、
政治本来の願いを国民レベルで確認しよう、という声が聞こえないことである。

大勢いるところで人は、直接どんなことをいっているのか、
たとえば金曜日のデモで、みんなはなんと言っていたか。
福島が先だ。竹島に人間は住んでいない。
日本国民の今を見たらいい。
現状の命と安全を無視しウソでぬりかため、
対策をネグレクトし、
そのくせ人が住まない領土に血相を変えるなんて。
全原発の撤廃と、じっさいの弱者救済がだいじだ・・・。

みんなはマスメディアを苦しく批判している。
参考になる意見は、聴けばたくさんあるのだ。
政治には無論、領土問題、があるとしても。

政治とは、平和にものごとを進行させるための工夫である。
政治本来の目的は、人間として大量殺戮をしないですむ方法をさぐることだ。
相手の態度が悪いからこっちも悪い態度でやり返す、という
外交にもならない外交のどこに政治があるのか。
ただ熱くなって相手を突き飛ばす、幼稚失礼な外務省のどこに、
反戦があるのか、政治感覚があるのか、熟慮というものがあるのか。

戦争は絶対にいやだ。

使者には、とりあえず礼をつくしてアイスティーの一杯を、という意見に私は賛成である。
たとえば親書をもって帰ってください、と言うにしてもである。



2012年8月26日日曜日

ピン・ポン・パンクの日


早稲田大学ちかくにライブハウスがあって、
息子たちがゾンビイ、ゾンビイとむかしから発音するので、バケモンみたいな名まえを
つけるのも、ロックだからかと私はずっとカン違いしていた。
初めてそこに行ってみたらば、ホリゾントになんか血塗られたような英語が描いてあって、
読んだらZONE B ・・・。夜中だったら、やっぱりコワイかなーとも思う。

きのうは4時から、ピン・ポン・パンクというけっこう知られたライブで、
「ア・ページ・オブ・パンク」と「ディエゴ」も演奏。
長男と二男のバンドである。
集まった多くのバンドを見て、私もライブハウスにながいこと来ていたなと思う。
息子たちが演奏するからあれも聴きこれも聴き、考えながらながい時間が過ぎた。
たぶんフツウだったらとても続かなかっただろう。
きのうなんか、うちに帰ったら夜中の12時だった。

桐朋学園の演劇専攻科の廊下を思い出す。
私はそこの二期だったが、クラスメイトが楽器をもちだしてバラバラバラ、バラバラッと
もう年中やっていて、そのなかの何人かは職業的音楽家になった。
幼馴染に有名な「ロフト」の平野悠がいて、彼は三人兄弟の末っ子だが、
まーあんな波乱万丈過激?な人になるもんなんだなあ、と。
彼のお父さんと私の父は将棋友達である。
小さいころから知っていても男三人兄弟というのは、わけのわからないもので、
私が大学生になると学生運動まっさかり、悠のいまいましくも利口な兄貴が活動家で、
からかわれて、カンカンに怒ってくやし泣きして家に帰ったのも、おかしい。
とか、そう考えてみると、私の精神構造のなかに、
息子たちがロック・バンドにのめりこむようになると、
よくわかんないけどいったいこれはなんだろう、という好奇心が生まれたのは当然だ。
文化的素地というものである。

それであれやこれやを見たり聞いたり、劇場(ライブ)はなんでもすきだが、
十年以上も、ジャマだろうかなーと思いながらヨコで見て、
私にもすこしづつ「知っている人」ができたから、ホッとしている。
ピンポンパンクのアサくんをダッシュボードのときから見て知っている、
だからどうだといわれるとこまるが、
それなんか息子がいなかったらあり得ない。
素通りしないですんで、人生が複雑かつ興味深いものになった。

ライブハウスにいる人たちが、いったいなにを考えているのか、
自分とどこがどうちがうのか、それはなぜか。
言葉をつかって問いつめなくてもよい、単純な見たり聞いたりが、
けっきょく自分としてはよかった。

思い出したけど15年ぐらいまえ、「食事のときロックの話をしないでよ!」
と、かんしゃくを起こした。
なんで、ときかれて、「まるでわかんない話題だからよっ」と居直ったが、
今なら、どうやら質問ぐらいはするだろう。意見ぐらいなんとか言うだろう。
私も、私なりに、今じゃたいしたもんだと思うので、あーる。


2012年8月23日木曜日

やっとこさ金曜日のデモへ


金曜日、地下鉄丸の内線「国会議事堂前」で降りたら、心配もなく現地に行けた。
なぜなら、出口が4番とかぎられ、警官が案内というとおかしいけど、行く先を決めて
くれる。くれるというとおかしいけど、抗議行動の方はこちら、という。
私は一人で出かけたけれど、たちまち安心した。
4番出口から地上に出ると、もうそこから首相官邸に向けてびっしり、
「原発再稼動反対」の行列が始まっているのだ。
行列は個人でできあがっている。それでやっぱり元気になる。

黒い洒落た帽子の女の人が、私は金曜日になるとここに来る、と言い、
だいたいどうしたらよいのかを教えてくれた。この人もいつも一人で来るのである。
彼女のそばにいるのがよさそうだと、私もぐいぐい前に進まず同じところに立ち続ける。
前も後ろもビッシリ人だらけ。まあ、なんにも見えない。イチョウの木と道路と警官しか。
集会は6時にはじまって8時まで続くそう。
私は5時についたから、そうすると3時間ここに立っているのかしら。
この先が首相官邸、あっちが国会議事堂、議事堂ヨコには子連れ用テントもあるらしい。
テントの中だとピンとこない、と若いパパがあかちゃんをだっこして、そこに立っている。

「ここはなにかの政党とか組合が集まっているんですか?」
こんどは私がきかれた。
ちがいますと言うと、ああ、それじゃよかったとその初老の夫婦も隣りに立った。
千葉県から、彼らはとうとうついにやって来たのだ。成田の向こうから。
やっと来れましたっ。ふたりでにこにこしている。
・・・広い広い車道が前にある。
マイカーが思い思いのステッカーや飾りをつけて、通る。
タクシーの運転手さんがクルマに「原発再稼動反対」の布をつけてくれたりもするそう。
自転車が走っていく。こぶしを振り上げて、ツーイツイと走りながら合図している。

6時になる。
シュプレヒコールが始まる。それが延々と、延々と続くのである。
その唱和が、びっしり歩道を埋めた人々全体の意志であり、抗議であり怒りであることが、
すごいことに思われた。二時間。雨だろうと猛暑だろうと毎週。
「原発再稼動反対」「規制委員会の人事案反対」「子どもを守れ」「フクシマを守れ」
愚直なまでに繰り返し行われる怒りの表明には、思わぬ凄みがある。
コワイものがある。
無視できなくなって、首相が抗議運動の代表たちに会ったのも、当然かもしれない。
そういう気がした。


韓流ラブコメ


ビデオ屋さんに行ったら、韓流コーナーがあって、
この作品からハマル人が多い、とあった。
『華麗なる遺産』 という。
そういうからにはおもしろいのだろうと借りてきたんだけど、
それはもう、おっそろしく、おもしろかった。
やめられない。夜中になっても観てしまう。
ものすごい分量なのに中毒になるほどおもしろくて先が知りたい。
私なんかほかのことができない。眼にもわるい。いや冗談ではなく。

簡単にいえば、破滅した小企業の娘と、大成功した中企業の孫の恋物語。
まあ、なんというか、シンデレラとハムレット?が出逢った、みたいな。
で、ストーリーもよくできているし、俳優も脇役主役まったくもって適材適所、
むかしアレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」を読んだ時のように、
わくわくしっぱなし。ちょっと、なさけないもんだわよねー。
まんまとお伽話にだまされちゃうなんてねー。
考えるに、このラブコメの魅力は、美男美女たちのど真ん中に、
「食品会社チンソン」の現役社長、大資産家のチャン・スクチャが存在することであろう。
このおばあさんのいかにもの存在感と、企業家としての思想が、
山あり谷あり、ど派手なこのメロドラマの底流をなしていて、
エセっぽいんじゃないのとかウソみたいとか、そういう批判を許さないのよね、なんだか。
初老の女優さん、ええと、パン・ヒョジョン、チャーミングでリアル、うまい!

結論をいうと、
けっきょくのところ、「華麗なる遺産」をこの大資産家チャン・スクチャはどうしたか。
全株式を全社員に分配したのである!
オドロキだった。資本主義韓国における、ラブコメにおける社会主義・・・。
鳩山兄弟のママとずいぶんちがう。ブリジストンの娘でしょ、あのママは。
トヨタや日産や、東京電力とも、すごくちがう。
日本政府なんかの考え方と全然ちがう。
ドラマだからできるんでしょ、と言うのは簡単である。
ドラマにだってしないでしょ、日本では。

ドンドン人気が出ちゃって、最終的には40%を越えたという韓国での視聴率。

「華麗なる遺産」のヒロインは、お金を気味が悪いと言う。
お金に取り込まれてしまう人間の心がイヤだと言う。

尖閣諸島や竹島の、地下資源であるとか、領土問題であるとか、
日本はいま、ペラペラと燃える紙のようだ。
私たちは煽られっぱなし、この問題をどう考えたらよいのか正直なところわからない。
私がであうおじさんたちは、ハンコで押したみたいに、韓国や中国を悪く言う。
なんだかすぐ興奮する。よく考えずに言う悪口は、品が無い。
なんで、即座に資本家や軍国主義者のお先棒をかつぐのか。
そんなことしたら、こんどは誰が、戦争に行くのだ。
今日の新聞に「こういう時だからこそ日韓交流」という記事があった。
佐賀県唐津市で行われた小学校どうしの交流会が、ぶじ、成功したという。
私は民間レベルのこの姿勢こそ、尊いんじゃないかと思う。

どうしてかというと、
それが全部じゃなくても、ラブコメの中の話でも、
労働する者の立場を最優先しようという、そんな経営者をたたえる気風が、
韓国という国にはあるのかと、そう思えばホッとしてうれしいからだ。
たとえばそれが、ユメであっても、架空の話であっても、
おたがいをだいじにして、ゆっくりみんなで発展していこう、と、
日々そう考えることは、いい文化があるということではないか。
戦争だけはどうしても避けようという動きは、
おたがいがおたがいをだいじにという考えからこそ、生まれるでしょ。


2012年8月21日火曜日

一番すきだ、という気がした映画


「フランスのレストラン」

私は無計画なその日ぐらしというタイプで、いつもこまったことになる。
そのかわり、ユメは、極小のユメしか見ないから、案外かなう。
たとえば、「フランスのレストラン」という映画を観て、
とてもステキだった、
あれこそ人類(じぶん)のユメだなーと。
そこでケッコウな影響をうけてしまう。

ふたりの男が風来坊なんだけど、海辺でレストランを開くのが夢だった。
自由なまんま、幸福に海風に吹かれてくらしたいのだ。
お金にこまらないで。いつまでも。レストランを開いたらちゃんと働いて。
ふたりはレストランの備品を、足りないとひろったり、もらったり、かっぱらったりして、
それから無力な、哀れで、あてどない女、こども、老女もなりゆきでひろって、
レストランをとうとう開く、よせてはかえす波の砂の上に。
浜辺にならぶ深紅のプラスチックの椅子の色がさすがフランス。
テーブルがアルミで、安っぽいから、ビンボーはやっぱり。
壁もなく、太陽があり、潮風が吹く。
ひきとった母子を好きになって、ふたりの男はべつべつに生きることになってしまう。
現実的じゃないほうのユメがかなうのが不思議。
詩みたいな心の、無垢であって、知恵のないほうのユメが、かなう。
映画だから。
根のない話。幸福なのだ。それはやっぱり映画なので。

こんなくらしは、フランスだろうとスペインだろうと、ユメにすぎない。

「フランスのレストラン」の主人公のひとりは、ロバンソンという名まえ。
この映画をむかし観た人がいるかしら。
まるでこんなストーリイじゃないのかしら。
なつかしい映画だ。

これっぱかしのユメや理想や思想って、少しはなんとかなるものだ。
なにしろバブルだったし、ひろった物ともらった物とで、
私は家をなんとか飾り、みんなで集まっては、四方山話をし、
できればじぶんの国を、貧しくても清らかに生活できる場所にと考えた。
それはユメだ。やっぱり根のない幸福で。

ユメは、過去から、できる。
人はだれでも、おとなになってから、じぶんの過去で、未来をつくる。
ユメというものは、生活とそりがあわない。
生活のみじめさがユメを創りだすが、ユメを支えるものは生活だということが、
わかっちゃいるけど、ホント、イヤなことだね。

2012年8月19日日曜日

生命を想う ③


どうしてあなたは誕生日を祝うのか。
どうして、生きるということを、喜ぼうとするのか。
あなたはなにをどう思って、人間の生命を肯定するのか。
それが、ききたいことだった。
そこへいく梯子に自分はどうしても手がかからない。

彼女は言った。
「たしかに私ってお誕生日をだいじにするわよね。
家族の誕生日はもちろん、いろいろな人のお誕生日をメモしておいて、
カードだけでも贈ったりするものね。」
どうしてそうなるの。
「うーん、やっぱり、生れるって、たいしたことだと思うから」
ふうん。
「なんでそんなことをきくの?」
私は、ちがうもん。だから不思議で。
「へえ、そうなんだ?」
いつからそう考えるようになったか、おぼえてる?
「うん、おぼえている」
言えるの、いつからって。
「うん、言える」
そこで、みっちゃんが私にしてくれたのは、
ざっと、つぎのような話だった。


結婚して、職場結婚だったし、そのまま働いていたの。
子どもがほしいと思うでしょ。
でも、妊娠しても、受け入れてくれる病院がなかった。
いろいろな病院をたずねたけれど、お医者さんに、ことごとく反対された。
私がこんな身体だからって反対ばっかり、拒否されたのよね。
親もそう、私の父親なんか堕ろせって。なにバカなこと考えてるんだって。
心配したのかもしれないけど、ひどかった。
母? そのころは、私、母がどこにいるのかも知らなかったから。
あきらめられないから、夫と本当にいろいろな病院へ行って。
とうとう、ある病院の中国人の揚先生という方が、がんばってみましょうって。
その先生にめぐりあえたから、おかげで出産できたのよ、幸運にも。
でもさあ。そうきまってからだって、またタイヘンでしょ。大変だった、もう、やっぱり。
なにしろ私は母体が小さいでしょ、あかちゃんが私のお腹のなかで、
ちゃんと成長できるかどうか。障害があるかもしれないし。
私がこうだから、どんな障害のある子どもが生まれても、
ちゃんと引き受けて育てようと思って、そういう覚悟はわりとできていたけど。
あかちゃんって、お母さんのお腹の中で、ふつうは足を上に縦になっているはずが、
私の場合だと、あかちゃんが横になっちゃう、せまいからね。
あかちゃんが育つと、内臓が圧迫されるから、私はもう寝る姿勢もとれないし。
苦しいし、不安で不安で、まあ誰でも不安なんだけどね。
妊娠中毒症になって入院して、ずっと。
いよいよ陣痛がはじまったというのに、いくら待っても生まれないの、二日間も。
ほかのあかちゃんは生まれて、あっちでもこっちでもみんな喜んでるのに。
先生もあわてちゃって困ってた。
でもすごい思い、痛くて、苦しくて、疲れちゃって、婦長さんが怒るし、
しっかりしなさいって、もうおっかなかった、がんばりなさいって。
はじめは帝王切開の準備を病院はしていて、手術で産むはずだったんだけどね。
そうしたら生まれる直前に、あかちゃんがお腹の中でぐるんと縦になって、
フツウの子みたいに位置をかえた、だからけっきょく普通分娩になったの。
人間って、生まれる時は産まれるようになるもんですって。
死ぬ思いをして、やっと産んでね。
私がベッドでもう疲れて死にそうになって寝ているところに、
看護婦さんがあかちゃんを連れてきてくれたでしょ。
みんなそうよね。
美智子ベビーっていう名札が、足につけてあって、ああ、生まれたんだって。
私はとうとう、あかちゃんを産んだんだって。
もう、私はその時、ヒトが生まれるって、命って、
本当にたいしたもんだなって思った。
やっぱり、その時よね。誕生するってすごいことだって、私が思ったのはね。

・・・だから私はお誕生日っていうと、大騒ぎするの、毎年ね。

私がだまっていると、
あいかわらず納得がいかないでいると思ったのだろう、
彼女はこうも言った。
「それに、もしも生まれなかったとしたら、なんにも起こらないもの。」
どういうこと?
「もしも生まれなかったら、私たちは宇宙の塵なんでしょ?
生まれなかったら、なんにも無い、ただの暗黒で。
そりゃあ悪いことも起きないだろうけど、良いことも起きない。
こどもを産んで育てる喜びもない。友達にだって会えなかったし、
こうやっていっしょにいて楽しいなんていうことも、なんにも無いわけだから。」


彼女と別れて、小田急多摩線に乗った。
ガタンガタンと、電車は夜の闇の中を走る。
終点から終点まで乗っても三十分とはかからない。
その日だって乗客は少なかった。
この電車から降りるまでによく考えよう、と思う。
ごちゃごちゃ言うのはやめよう。
自分はおかしい。
ここで、電車の中で決めてしまおう、なんだかそう思った。

私は選択をした。
生まれないより、生まれたほうがいい。
どんな状況になっても幸福をさがして生きよう、これからはと、考えたわけである。
まあ、みっちゃんのようにはいかないけれど。



真夏のセミ


玄関から出て、階段にこしかける。
セミの鳴き声が、わーん、とせまい空をまるく囲んでいる。
耳にじんじん。だれもいない。
太陽のおとはきこえない。
セミばかり。
階段にこしかけるなんてはじめて。
ここに引っ越して十年以上にもなるのに。
風は滞留、空気は熱でゆらゆら。
家のむこうは藤棚をしつらえた中庭で、
びっしり葉をつけたアキニレの木が、三本ばかり、たっている。
陽がのぼる朝は、西にむかって影が三つ、小川のようにできるけれど、
いま、アキニレは、油絵のなかの木のよう、
ただくっきりと、こい緑にふくらんで、むんむんとあつぼったいのである。
一分間が一分間ずつ過ぎる・・・。何分間も。
セミがたくさん。
あっちへ、こっちへ、
思いだしたように、あっちへ、こっちへと、空間を移動する。
三本のアキニレのあつぼったい緑から緑へと。
ほら、また、飛んだ。
飛んでは、とまって、飛んでは、とまるのだ。

うすい空色のそらに、わーん、わーんとセミの音響。
かれらの期待は一生けっして裏切られない。
豊かであつくて、みどりで、緑で、緑で、ひたすらな満足の、
このながい七日分!



2012年8月17日金曜日

弔辞


家族新聞にみっちゃんはこう書いている。

母の希望通りに(美智子)
母は生前、遺影も参列者名も祭壇についてまでも、私たちにくり返し話していました。
ですから参列者は、母を大事にしてくださった方々でした。
「菊はイヤよ。真赤なバラの祭壇にしてね」の願い通り、バラをメインのお花畑の、柩
の中で母が眠っているような祭壇にしました。その両側には花好きの母らしく、沢山の
花籠。今頃、好きだった方たちと天国で楽しく暮らしていると思います。 合掌。


弔事のあと書き(亜子)
彼女のお母さんの派手なことといったら、それはもうすばらしくって、壮快だったので、
時々、お宅にうかがうのだけれど、わくわくして、フツウだと弔辞はブログに載せたり
しないのでしょうが、まー、ちょっと・・・。これはおとぎ話かなあ、と。
三分間で小学校一年から知ってた人の九十年を語る!
 



弔事(亜子)
おば様 お別れの時がきました。
おば様は、九十才。
私が、おば様に初めてお会いしたのは、
本田美智子ちゃんと私が小学校の一年生になった
入学式の日でした。
おば様は、あのころから、子どもの目にもとてもおきれいな方でした。

それからたくさんの、いろいろな事がおこりました。

おば様はオリエント急行に乗ったり、アフリカでゴルフをしたり、
仏蘭西や中国、インドやオランダやベルギーでお買い物をするという
まるで、おとぎ話のような方になったのでした。

それでも
この人は、長い十五年もの戦争と、
日本の惨めな敗戦をくぐりぬけたのだ、
そのころ、きょくたんに身体の弱い子どもを生んで育てた
ひとりの若い母親であったのだ、
とそう思うことがありました。
そんな時のおば様からは、
もともとがサッパリと、働きもので、粋な方でしたけれど、、
下町風の意地というか、くやしいというか、
そんな気持ちが、
少しだけ見えた気がするのでした。

それから、
おば様は年を取られました。
ご病気と、たびたびの入院。
もうゴルフもできないし、世界中を旅してまわることもできません。
すると、淑人さん、美智子さんご夫婦の、
こども、孫、ひまごちゃんの三代にもわたる、
家族ぐるみの支えを得て、
おば様は、新しく、
やわらかな光りかがやくような人になりました。
まことに、それは見事なながめで、
そうなられてからのおば様が、
私はいちばん好きでした。

おば様は古き佳き日本人といった気質をもっていらした、
私は、おめにかかることができて、
ご縁が結べて幸せでした。
お世話になって、本当に有り難うございました。
さようなら、おば様。
どうか安らかにお休みください。

これをもちまして、おわかれの言葉とさせていただきます。

生命を想う ②


この春、中島美保子さんが亡くなった。
入学式のとき、私にみっちゃんをグイッと押してよこしたお母さん・・・。
お通夜が終わるころ、みっちゃんが私に、葬儀の日の弔辞をおねがい、と言う。
90才のご高齢で、お母さんのむかしを知る人は、もう、数すくない。
そのすくないひとりが私だなんて。
それにしても。
あのオンボロ小学校の入学式から、豪奢なお花でいっぱいの葬儀場まで、
私たちは、いったいどういうかげんで、友達でいられたのだろう。
めまぐるしく、ふつうの生活をしながら、あれを悩みこれを苦しんでいるうちに、
歳月は、霞のように、蜃気楼のように、過ぎてしまったのであった。

東関東大震災と原発の事故のあと、生命は、それ以前とはまたちがうものになった。

いままで、90年の長寿というものが、なにか当然のように感じられていたのに、
・・・・・・たとえば、井上ひさし著「あてになる国のつくり方」2002年・光文社によれば、
1945年、敗戦の年の日本人の寿命は、男性23・5才、女性34才。
その章の見出しは、「平均寿命が三倍になった」である・・・・。
ああ、でもこれからはどうなってしまうのだろうか。
私たちの子どもたちは、20代と30代。
孫は5才にもなっていないのである。
戦争末期には、多くの男性は戦争で玉砕、戦死、餓死。
人は空襲でも多く死に、日本全土ろくに食べるものがなく、
満足な医薬品がないから、赤ん坊は生れても死んだ。
子どもも大人も死んでいった。
それが上記の慄然たる数字になったと、井上さんは書いた。

その運命のワクの中に、みっちゃんが必死のお母さんに守られて、いるのだった。
私たちは1943年生れだから。


2012年8月15日水曜日

閑話休題 -デジャビュ


夜勤が続く息子の、ひるまのごはん
韓国ふうの冷麺のどんぶり
たまごに鶏肉、きゅうりにトマト、小松菜にゴーヤ、紅しょうがと白ゴマ

少しづつのっけてある
きのうは小松菜がモヤシだった
「ごめん、きのうとおなじなのよ、おいしいっていったから」
まー、手抜き
続けて
コップ
どんぶりをドンとおき、ならべてコップをドン
暑い。
疲れた。
「これもおんなじなのよ」
うん
気をつかわなくていいよと
うわのそらの
息子は
おとなしくこしかけ
それから急に
ホントだ
かあさん
これはデジャビュか
と、
オレとっさに思っちゃったもんね、と。

まー、ええと、なにもかも、きのうとそっくりおなじだからね。
ごめんねっ。




2012年8月14日火曜日

生命を想う ①


50才もなかば過ぎて、離婚もし、葬式もやり、親の家を売り払い、自分の家を買い、
子どもたちも一応育ったみたい、つまり一段落したころは、散々な目にあったという
虚脱感でいっぱい。だけどいい気になって不幸づらなんかしたら、全知全能のカミサ
マにすぐさまバチを当てられるという気がしてポーカーフェイス、つまり私なんかふつ
うですからとニコニコしてたつもりだけど、自分の一生分の空虚にむかって。
でも踏ん切りがつかなかった。ばかみたいだ。
鬱病なんていうことじゃないのかもしれないけど鬱的、どうせ死ねやしないのに死に
たくないのに、生きていたいのか本当は死にたいのか、よくわからないのだ。
12才のころ、死ぬ気で、鉄道のわきで電車がくるのを待ったけどけっきょくは怖くて。
以来あきらめてがんばる道を歩いたが問題が片付いたわけではない。そんなことは
誰にもあること、私なんかが文句いうなんてみなさんに申し訳ないのかもしれないと、
言われなくても思うんだけどだからって、これはよくあることだとどんなに自分に言い
きかせても、それでも生きたいと思えないのはやっかいで困ったことでしょ。べつにだ
れにも迷惑はかけてないと思うけど、重荷でしょ自分の。なんとかしなきゃいけない、
いいかげんにしないとみっともない。飽きたし。くたびれたし。

というような気がとくにした時期があった。もう西暦2001年にはなっていた。


私には思いがけないことに、小学校一年生のときからの友人がいる。
私のような生きる力のうすい者に、生涯変わらぬ親友?がいるなんてヘンだ。
その人は毎年、私の誕生日になると、お祝いをしてくれる。
私の希望をきいてくれ、日時をえらびレストランをえらび、お花を渡してくれ、
すごく考えたのだろうプレゼントを、毎年毎年、私のためにさがし・・・。
ほめてくれて、励ましてくれて、感心してくれて、
しかも彼女の夫君もいっしょに付き合ってくれるから、不思議でしかたがない。
この世には本格的に善意の人がいるのかもしれない、サッパリわからない。
そのくせ、私といえば、なんにもしない、おかえしもしない、できない。
うかない顔で、何年たっても、ありがとうと言うばかりだ。
彼女は私の誕生日を忘れないのに、私は彼女のお誕生日を覚え、られない。
なんでそんなに誕生日がだいじなのか考えたことがないし、わからない。
こんなことはよくない、こんな礼儀知らずはないと思っても、どうにもならない。
お手上げ。無気力の標本。

だけど、私たちは、だんだんに、友達らしい友達になっていったのだ。


彼女と私だけだったある6月3日の誕生日、
彼女にきくことにした。
どうして、あなたは誕生日を祝うのか。
どうして、生きるということを、あなたは喜ぼうとするのか。
あなたはなにをどう思って、人間の生命を肯定するのか。
「見ればわかる、あなたって、ハッキリそういう立場のヒトなんでしょうよね。」
本間美智子。みっちゃんである。
両親の離婚で、母親に捨てられたと思う子ども。
継母に精神的虐待をうけた少女。
味方をしてくれない父親との争い。
結婚して三人の子どもの母親になった人。
もってうまれた強靭さと、なおらない欠点と、孤独、けっきょくの楽観主義。
ここまでは、ほぼ私とそっくり。苦しくてもフツウなんだけど、
彼女はそのうえに、脊椎カリエスの結果として障害者であり、
私たちが初めてあった小学校の入学式の時からもうずっと、
差別と侮蔑にさらされて生きてきたのであって。

彼女が人生を肯定し、私が否定してやっていこうなんて。それはナシなのだ。


60年以上もむかしの、私立の小学校の入学式の記念撮影。
はじめてだから、一クラスでも、いつまでもごたごたしてたいへんだ。
お母さんたちのなかで、私の左ヨコに子どもを押し込んで座らせた人が、
「美智子です、よろしくね、なかよくして。いっしょにあそんでくださいね」
強い口調でそう言った。おねがいしますと命令にちかい言い方だった。
初めて学校に来た日だから、いい子でいようとしてるのに、
なんにもしてないのに、グイとおされて「うん」と私はいい、
となりにきた小さな女の子と手をつないだ。
並びましょうといわれて、みんな子どもは一年生用の椅子にこしかけてる。
写真が撮られるまでのあいだ、めずらしくて、その子をじっと見つめた。
紺色の上っ張りを着て、吸ったり吐いたりする息がもうくるしそうな病気の子。
神秘そのもの。蒼ざめた特別。
・・・ごたごたの中になげこまれたおとなしい星みたいな。
その子には私という子どもが必要なんだと、
感じたし、わかるような子だった。

その時は、教室で苗字の五十音順でくっついて並ぶ、弱い子と強い子である。




2012年8月13日月曜日

朝顔


いつだったか
「ご近所を連れて引っ越しができればねっ」
ということばにで逢った
いいことば
なんども思い出す
そう言ったひとの心持ちを思い出せばうれしい
わたしはどうかなと、じぶんの生き方をたしかめたりもする
その人の笑いをふくんだ声や、はにかんだようないい顔
思うことなんかぜったい思うように運ばないのよ、というかんじの
いい人のショウコみたいな苦笑いを、なつかしく思う

あんまり逢えないけれど
どうしているかな
たぶん十年一日のごとく、いそがしくて腹立たしくて
でも、連れていけないなら引っ越さないご近所をつくって
そこからは、考えてみればあたたかいそこからは
動かずにすむ運命で
やっぱり、日々を努力してくらしちゃっているのだろう
そんなくらしは、気働きばっかりみたい
くるくると空しく
どこかへ飛んでいってしまうけど
そうやって年をとるって、あの青い朝顔みたいにいいわよね?



2012年8月12日日曜日

「原子力規制委員会」の人事



最近、原子力規制委員会の委員長になろうとしている
田中俊一氏・67才に対する反対の声を数々読んだり聞いたりした。
国民の大量被爆を招いた「犯罪」を代表する人間の一人。
彼はいま、その件で、
刑事告発および告訴されている身である。
東京地検、福島地検、金沢地検が相次いでこの告発を8月1日に正式受理した。
田中俊一氏が恥ずべき「無責任者」の一人であることは、
いずれ法廷で明らかになるだろう。

テレビ朝日の画面の中で、
田中氏のさまざまな場面での「折り合いがだいじ」「ご理解を」発言のあと、
ある若い女性の言ったことが忘れられない。
「67才のおじいさんにこんなこと言われても」
と彼女は憤慨をかくし薄笑いしながらこう言った。
「私たち、これから子どもを育てようとしている母親とか、
若い人はもっと切実ですよね」

そうだなあ。
原子力を規制しようというなら、もっと若い世代がいい。
切実な立場にある、これから子どもを育てなきゃいけない若い人たちが、
政治権力をにぎったら、
どんなに希望が持てることだろうか。

かく市町村で、中学生や高校生の委員会をつくり、
原子力規制委員会がその意見を吸収することもふくめて、
新進気鋭の若手組織者を国家的委員会に投入するべきである。
若い母親の代表も入れるべきである。
切実で必死な人たちに、原子力規制委員会をまかせるべきだ。
悲劇的な未来を引き受けるのは彼らなのだから。

そこになんの危険があるだろう?
規制の方法を若い人たちが考えることに?
「規制」とは、あばれまわる魔物をもっと新しく作れということではない。
それをしたのは、
そうやって制御不可能とも思える原発の大事故を招いたのは、
歴代の自民・公明、民主党政権である。
だってまだ、あと11の原発をつくる計画だったというのでしょう!

「原子力基本法」で生活してこなかった清潔な人間を、
「原子力規制委員会」の長とし委員とせよ。

フィンランドが教育力で世界一になったとき、
教育改革を断行した文部大臣は30代であった。
もちろん議会の満場一致のあとおしがあってのことだ。
異論や反論はむしろあとになってから出てきた、と読んだ。
それについては討論した、と。

今の日本で原子力を規制するなんて、
そんなことは不可能だと、小出裕章先生は言う。
「原子力基本法」1956年ーがあるから。
これは原子力ドンドンの憲法で、
これが頭上にドンとあるかぎり、
いくら「規制委員会」なんていったって、
この法律に引きずられてダメ、どうせダメなんだとそうきいた。

日本国憲法はいくらでも無視するのに、
原子力のほうの憲法は、日本がこんな無残なことになっても強行。
憲法の精神にかえり、
「原子力基本法」をまず撤廃したい!!




2012年8月8日水曜日

どんぐり


太陽がぎらぎら
にらむ
石畳が熱気を反射
真夏がやってきた
きょうきのうあした
むうっとおもたい
熱気に圧され
風をさがしながら
歩いて
木も苦しむのだろうかと
頭上をあおぐ


木のなかに
どんぐりがいる
沈黙して
別のことを考えて
とうのむかしに
準備をはじめて
どんぐりが、そこに
あおあおと、わかく
あおざめてはいても
しっかりした実となって
たくさんの葉陰に
いる

かれらは
ちがう世界にいる
掟がちがう世界に
どんぐりは
どんぐりは
すでに誕生し
すでに成長し
いきいきと変化し
なにも語らず
運命の日にむかって
疾走している
秋というよりは
むしろ冬をめざして

真夏なのに




2012年8月7日火曜日

遠景を楽しむ私


レストランへ行った。チェーン店ではあるけれど、景色がいいし気持ちがよい。
奥のほうのテーブルに案内してもらい、待ち合わせた友人と向かい合って腰かける。
急な豪雨で、熱くて重たい空気が少しばかりしのぎやすく変化し、
午後の時間はやわやわとゆっくり流れた。

ランチがおわるころ、アンケート用紙が配られ、私も会話のあいまに記入。
アンケート用紙とボールペンの相性がよくて、それもうれしい。字を書くのがすきだし。
こげ茶色とオフホワイトの色調、黄色がかった淡い光線を放つシャンデリア。
天井がとても高いことや、空間がのびのびと広いこと、大きなガラス窓の向こうに
私の場所からは左右同じように配置された緑の木々が見えてとても美しいことを、
アンケートの項目を読みながら、あらためて楽しむ・・・のである。

私は、アンケートによって「態度の如何」を問われているウェイトレスがふたり、
じつに優秀な笑顔で、ふたりの少女に対応しているのを、見るともなく見つめた。
教育がいきとどいている、にマルだ。
テーブルにむかっているふたりの少女たちはそろって白いブラウスを着用。
そろって銀のお盆をかかげた笑顔のウェイトレスに、なにごとかを説明され、
行儀よく頷いている。
従業員の面接がこれからあるのだろうか、と私は想像した。
ふたりの少女も、ふたりのウェイトレスも白い服装である。
彼女たちのうしろにはピンクのブラウスの女の子がふたり順番を待っている。
さらにそのうしろには赤いブラウスの女の子たちがふたり順番を待っている。
その光景は遠く静かで、いかにも整然としたところがあって、美しかった。
こんなにきれいで気持ちのよいレストランだから、働きたいひとが多いのもわかる。
そう思う。私は、雰囲気は「とても良い」にマルをつけた。
「いいわねえ、ここ、デザインがいい。これぐらい広いと本当に気持ちがいいし。」
帰ろうというころになって、友人にたずねた。
「あの人たち今日はこれから面接なのね、きっとね?」
ふたりづつ並んでテーブルについている、白とピンクと赤のブラウスの少女たちのことを
言ったのである。
「面接? どうして?」
なぜだか知らないけど友人が腑に落ちないというふうに私にきき返す。
「だって、ふたりづつ並んで、順番を待ってるじゃない、さっきから。
ウェイトレスが説明に来てたじゃないの、さっきふたりで」
私が説明すると、
ふたりづつ? と友人はあっちのほうに目をこらし、事情がわかると爆笑した。
「ふたりじゃないわよ、あれ! ひとりよ! 鏡に映ってるからふたりに見えるのよ!」

鏡!?

そんなことってあるだろうか!
あの赤も、ピンクも、白も? 女の子たちみんなひとりで腰かけてるの?
「そうよう、もう信じられない、面接とか、そんなヘンなことつぎつぎ考えて!」
じゃあ、えーっ、このレストランって私が見てる半分だけってことなの!?
私はすごくあきれた。
だけど友人は私よりもっとあきれちゃって、
「なによ、それじゃあ、あなたにはずーっとここが二倍に見えていたわけなの?!」
私は聞いた。
じゃあ、あの窓の外の木はこっち側だけ? あっちにあるのは鏡だってこと?!
この冷房のきいた心地よい大空間。
「鏡よ、なに言ってるの、まさかあの木もホンモノだと思ってたんじゃないんでしょうね!」
じゃあ、さっきのウェイトレスがシンメトリックだったのは当たり前なんだ?!
みごとに銀のお盆をふたりで掲げて見せてたけど、ひとりでやってたの?
うそお!? 
「うそみたいなのは、あなたのほうよ! どうもおかしいと思った。
ほかのお店とくらべてさほど大きくもないのに、さっきから広い、広いって言うし!」
・・・えー!? 

アンケート用紙を災害義捐金の箱に入れてしまい、
・ひとり・のウェイトレスがムリに手を突っ込んでそれを出した。
散々だ。私が近眼なのに、メンドーでメガネをかけないからだ。

2012年8月5日日曜日

刺青の毒蛇


電車から降りたら、向こうから、小柄な、七分パンツ姿の外人だか日本人だか
ちょっと判らない男が歩いてきた。
毛むくじゃらというほどでもないが毛だらけの両足に、
それぞれ裂けるほど口を開けた毒蛇の刺青がノタクリ巻きついている。
20代の後半だろうか、彼はおそろしい形相でもないし、服装も少々くたびれてはいるが、
Tシャツはピンク、木綿縞の七分パンツも異様ではない。
強いて気にすれば、まるっきりの手ぶら、というのが変かも。
小柄な人だ。だからこの人は喧嘩を想定、気合で両足に刺青を彫ったのかしら?
それともこれはいま流行の遊び、ただの「タトゥー」であって、洗えば落ちるのだろうか?

彼を見て、以前、お風呂やさんで出合った少女を思い出した。
なぜだか、その少女を、私は二十年たっても忘れられないのである。
暗闇にめずらしく一本の電信柱がふうーっと浮かび上がったり、
木枯らしが自分になんの関わりもない街なかで不意にするどい音をたてたり、
誰ひとり友達がいなくて、することもなく、空白が世の中、という感じだと、
あるいは電車に乗っていたりすると、その面影が宙に浮かんで、そして消えるのだ・・・。

何年も前のある晩のこと、そのお風呂やさんはガランガランに空いていた。
湯船につかると、そこに地味な顔色のわるい少女ががいて、
私が行くと、横向きになりスッと湯船に肩まで身を沈めたが、
乳房と乳房の中央に思い切り口を開いたコブラがこっちに向かって牙をむきだしている。
まだとても若いのにそういう刺青をしている。
ショックだった。
攻撃的なところがまるで感じられないうらぶれた細面(ほそおもて)。
長い黒髪、地味で小柄、
目も鼻も口も目立たない造作・・・。
スイッとタオルで胸をかくして彼女が湯船から洗い場のほうへ行ってしまったあと、
暖簾の横の『刺青おことわり』の貼り札のことを考え、不自由だろうなあと思ったのは、
いかにも目だたない表情と、陰惨な蛇の刺青のアンバランスとが、
私に考える余裕のようなもの与えてくれたから。

もしも私があの少女だとしたら、
毒蛇にどんな期待をかけただろうか。
言われっぱなしの、口答えが許されない環境にいて、
永遠に続くような精神的虐待があって、
その時、胸の、魂の底の此処にある「絶望」の門番に、あのコブラがいてくれたら。
たぶん自分はずいぶん気強かったろう。
弱者であるだけでなく、いつか虐待するやつから堂々と逃げてやるという、
希望にもならない希望をまだしも、私は持てたかもしれない。

・・・・黙っていても考えているのだ・・・・
そういう詩句があったのは、新宿の古本屋で買った朝鮮詩集の中だったか。

ああ、なんとかして、そんなふうにけっきょくは自分を痛める方法ではなくて、
虐待が内なる虐待をよぶようなことではなくて、
先生がいたり、友人がいたり、近所にただもう優しい人がいたりすれば、
とそうは思っても、
刺青の蛇をつかって、黙ったまま、ひそかに相手を喰いころしてやると誓う、
そういう、相手には届かない抵抗。
そういうことしか思いつけないほど弱いということが私たちにはよくあるではないか。


2012年8月2日木曜日

映画「死刑弁護人」


「死刑弁護人」という映画をご存知だろうか。
東中野駅前のポレポレとかいう映画館ですこし前から上映している。
(毎日、よる7時と9時、8月15日まで上映  tele03/3371/0088 )
私はきのうひとりで、もう一度なんだけど、見に行った。

安田好弘弁護士の活動と生活を追うドキュメンタリー。
制作/東海テレビ。監督/斉藤潤一。

私がこの映画を二度見たわけは単純である。
安田さんの、実に気持ちのいい容貌や姿、
どんな時も変わらず落ち着いて返答しかえす姿を、
もう一度見たいから。
安田弁護士のような人といっしょに、同じ時代を生きられてうれしい。
今を生きる理想、それが安田さんだと思うから。

裁判官の前でも、彼を鬼畜とまでののしる群衆の前でも、
その場かぎりの正義感をふりかざす巨大マスコミの口撃にあっても、
どんな時も、安田さんはおなじだ。
弁護士という職業の、倫理と論理をかけて戦うその姿に、なんの動揺も無い。
映画を見ているとそれがしみじみよくわかる。
なんてたいした人なんだろう!

弁護を引き受けた被告人が処刑された時、
あるいは首をつって自殺した時、
命と、遅ればせながら詫びようとしていた不運な日本人の思いを、
自分の不注意な戦い方のせいで助けられなかったと、
そういう・・・悔恨と反省を、彼はおどろくほど隠さない。
そこになんの壁もない。
「死刑弁護人」とは、時には政治のからむ複雑な仕事だが、
安田さんは怯むことなく引き受け法廷で戦う。
自分のためじゃない、被告のために。

検察の謀略で安田弁護士が起訴され収監されたとき、
安田さんには1400人の弁護士がついた。

映画「死刑弁護人」で語られる事件の数が多いので、
最初、私は茫然としてしまい、ドキュメンタリーとしての価値もなにもよくわからず、
ただもう安田好弘弁護士の姿に魅せられるだけだったのだが、
二度みたら、やっとよくできた映画だったと落ち着いた。

第66回文化庁芸術祭テレビ・ドキュメンタリー部門優秀賞受賞。

ナレーションが山本太郎さんだったのも、うれしい。
がんばれ、山本太郎!

2012年8月1日水曜日

すごいウソ


デモに何万人が参加したのか、
7月30日の新聞を読むと、主催者側発表、デモと国会包囲あわせて20万人。
それが警視庁関係者発表では、それぞれ1万2千5百人。
すごく気になる。

60年安保の昔も、警視庁と主催者側の発表は大幅にちがっていた。
あのころマスコミは、警視庁の発表のほうがホントかもしれないと国民に思わせた。
いつまでもいつまでも曖昧な発表に終始したのだ。

ところが昨今はちがう。
7月16日の17万人デモについてなど、主催者側発表を優先する報道が多かった。
カンパでやとったヘリコプターの空中撮影が、ウソの発表を許さないのだ。
新聞もテレビも、すぐ判ってしまうウソなんか、もう、つけなくなっているのだ。

「17万人デモ」があった7月16日、
NHKは夜のニュース番組で、デモも写したけど、神奈川県茅ヶ崎海岸の夏祭りも報道した。
驚いたのなんの、おなじみ警視庁関係者の発表だと、
茅ヶ崎の海岸に集まった人数と、代々木公園のデモ参加人数がほぼ同数。
そんなあ! 画面をみたって、人数がまるでちがうじゃないの!
いったいどっちが警察としちゃ真実のつもりなのか。
NHKのニュースってなんなのか。

デモのほうは、主催者側発表から警視庁発表を引いたら、10万人になった。
警視庁って、デモを10万人も少なく発表して、平気なんだ?
しかもそれが、最近だんだん極端になってきて、
7月29日夜の抗議行動の場合など、17万人以上少なく発表している。
まともな人間たちの破滅が迫っているようで、なんだかゾッとする。

人間なのになんでこんなひどいウソをつくのだ。
警察のなかには、こんなウソはいけないと上申する人はひとりもいないのだろうか。


2012年7月31日火曜日

幸福とは


私は親にかかわりのない人生を、考えてみれば演劇から出発させた。
ある夜、家から遠くない都立松沢病院のガタピシする講堂で、精神病院の労働組合が
クリスマス?の演芸会をひらき、その時、地域の合唱団に入っていたお手伝いさんが、
小学生の私をそこに連れて行ってくれたのである。
私の未来の種子はそこで蒔かれた。

だれだか知らないが労働組合の青年が、
(私には恐るべき破滅をまつ老人に見えたけれども)
チェーホフの 『煙草の害について』 を独りで演じたのだった。
あの狭い舞台をかこむ黒いカーテン。暗闇と埃の浮かぶ光線、
役者の身体を覆うゴワゴワとして穴のあいた灰色の外套。
悲劇的で不自然なメーキャップ。
そして、なによりも素人俳優の彼が語った言葉だ!
私は大勢のご近所の観客の中のひとりの子どもでしかなかったが、
自分がかけがえのない、そう在りたかった孤独に完全にブロックされて、
わけのわからないまま、いつまでもいつまでもそこにいたかったのを憶えている。
撃たれたような時間だった。

商業と関係なく、人生があたえる芸術を享受したのは、あの時だけだったかもしれない。
あたえられた作品をまっすぐに、その大きさに見合う素直さで、受け取ったのだ。
とにかく、私にとってはそういうことだった。
それは、言語であり、文学であり、限定された空間にうかぶ人間存在の悲哀だった。
人間というものの説明だった。

私のささやかな幸福は、
そこから、松沢病院の講堂から始められたように思う。
人生のなにかを楽しむこと、理解する楽しみを、小さくてもおぼえたのだ。
一人っ子だった私は、
そこで人が人に、なにごとかを与え、なにごとかを受けとる、
物質のやりとりとはまたべつの、そういう生き方が世界にはあると知ったのだ。
それが劇場ではなく、職業的俳優によってもたらされたのでもなく、
なんの権威ももたない仕掛けのなかで起こったことが、
私らしいことだったのだろう。
私の子どもたちが、ロックバンドであれ、演劇であれ、翻訳であれ、
彼らのなにかを表現しようとする時、親である私が彼らの表現にさがすものは、
売れるか売れないか、ということから自由だから。


2012年7月30日月曜日

温泉へ


空気のせいか気圧のせいか、どうにもこうにもならなくて、
朦朧として、こんな暑い日にまさかと思ったけれど、温泉場へ出かけた。
まさかと思うのに、温泉も、混雑している。
広間の畳の上にどたんとのびちゃって、しばらくぼーっとし、ビールをひとまず一杯飲んだ。
身体がこわばって、目がかすんで、食欲はなく、あーあお風呂か、と思う。
温泉にきたというのに。

あたりは人でいっぱい。子どもも赤ちゃんもいた。
むこうのテーブルに湯上りの、分厚い金髪の中年男性がふたり。
ひとりは内気でおじけづいたような人であり、ひとりは腕にタトゥーの親切そうな人である。
職場のなかよし・・・、しきりに話しをして。
おかしいなぁと、がっくりしたまま考える・・・。
昔はおじけづいたり親切だったりする中年男は金髪にならなかったんじゃないの。
まあ、でも、世の中、こういうふうになっちゃったんだなあ。

感慨にふけってきのうの電車のなかを思い出す。
浴衣全盛。どこかがやる各所花火大会のせいか。
金髪茶髪の長い髪の毛で、浴衣がえんじ色で、桃色の帯にさらにリボンをつける。
まるい目にドッテリ金色と青のアイシャドウを塗って、唇にはぬらりと光るみょうな口紅。
そんな女の子がじっとり若い男に浴衣姿で抱きついて立っているのだ。
こういう流行をつくる人って、だれなんだろう?

おとといはよかったな、とまた電車の中。
車内はめずらしいことにちょうどいい冷房。すずしい。
シートに腰掛けた男の子がヒザに大きな本を開きシッカと本を読んでいる。
本を読んでいるおとなが、ほかにもいて、ケイタイを読んで?いる人もいたし、
目をつむっている人もいた。
電車の中は静かで小津安二郎みたいな世界。
立っている人は数えるほどしかいなくって、不思議とちゃぶ台なんかを私は連想。
みんなが落ち着いていい顔つきだった。

横になって、本を読む。温泉に入らなきゃとも思う。
堀田善衛の「若き詩人たちの肖像」を読む。
耳もとを何人もの人が歩くけど平気。こちとらあ、いやだと思う気力もないわけで。
堀田さんがものすごい作家だということはよく判っているけど、
スゴイ人って若いとこんなに感じがわるいもんか、と怒りながらよんでいる本だ。
こうだからこうだ、と
ただその通り正直に書けばこうなる、という感じがまた凄くって、
頭がくたびれて眠たくなり、しばらく寝てしまって、
ーやっと温泉。


2012年7月27日金曜日

誕生日を祝う


今日は私の娘の誕生日。

彼女はまんなかの子で、ほとんど親の手をかりずに育った。
貧乏だったから入院助産制度の適用を受け、出産費用は公的援助のおかげで
2600円ぐらい、それだって払った時、とても苦しい気がしたのをおぼえている。
そう書くと、明治か大正の話みたいだけれど、昭和も後半のころの話である。
結婚してからずーっと、私たちはものすごく貧乏だった。

遥がまだ子どもだったころ、
あんたってこんなにビジンなのになんで足のかたちがマッスグじゃないの、
どうしてかな、まったくどうしてこんなになっちゃったのかな、と私が心配したら、
「お母さんが手抜きして2600円なんかで生むからだよ」
と言うのだ。
テレビもないしお風呂もないくらしで、娯楽といえば冗談ぐらい、
この冗談はすごくいい、すばらしく気がきいてる、
遥はとても頭がいい!
そう思っちゃってわーっと笑ったら、遥もくすくすくすくす笑ったのだ。

かみさま、この子は母親の私とはちがう遠くへ、
世界のどこか遠い彼方へ出かけて行くヒトにしてください。

先の見えない貧しさが苦しく、私は娘に遥という名まえをつけた。
本当にかなう夢だなんて思えなかったのに、なんにもしてやれなかったのに、
彼女はロシアへ行き、その後オランダで生活する人になった。
ロシアの演劇アカデミーにいたころは、きれいな人みたいにしていたけれど、
オランダで何年か生活して、そこからフィンランドに私と健に会いにきた時は、
厚着したインディアンみたいな女の人が空港にあらわれたというかんじ。
あー遥、なるほどねーと。
オランダは質実剛健のお国柄、それにああやっぱりこの子は演劇は捨てたのか、と。
弟が、遥はよくなった、こっちの遥のほうがずっといいよ、と言っていた。

遥というといつも私が思い出すのは、自転車の荷台から落っことしたことで、
なんのかげんか、ちいさな身体がうしろにグルンとでんぐり返って地面に転落したから、
私も幼い遥も、ふたりとも、ものすごくビックリした。
怪我もしないで、でんぐり返って着地したのが奇想天外にして意外、
ホッとした反動かなんか、急におかしくてなっちゃって。
「ごめんね、遥ちゃん、あーおどろいた、ケガしなくてよかったあ。
死ぬほどビックリしたよ、お母さんは。
でもさあ遥、でも、どうしてあんたって大丈夫なの? サーカスじゃないの、まるで!」
地面に落ちた遥のほうは、固まって私を見上げていたけど、
まだ赤ん坊にちかいから、ああのこうのとは言えない。
ビックリしたまんま、かわいい声で、やっぱり私といっしょにげらげら笑ったのだ。

まだ、ある。
保育園の帰りみち、手をつないで歩いていたら、電信柱の鉄の張り板にドカンと激突。
おでこと鼻のあたまに、張り鉄板の粒々のアトがおもいきり赤く浮き出してしまった。
あまりのことに、
「どうして、なんでよけないのよ?!」
「だって、だって、目をちゅぶってたもん」
もちろんワアワア大泣き、イタイイタイと怒っている。
「おかあちゃん、なぜ、デンチンバチラになるよって、はるかに言ってくれないの!」
「だって、まさか目つぶって歩いるなんて、知らないもん。
あのさぁ、手をつないでるからって、
目をつぶるんなら、ちゃんと教えてくれなきゃダメなのよ。」
そう言ったとたん、ふきだしちゃって、もう。
「ごめん。遥がかわいそうでたまらないけど、ごめん、おかしくってダメだこれは!」
子どもって、なんてヘンテコリンな生き物なんだろう。
手をつないで話をしながら、ごきげんで歩いているかと思えば、
目なんかつぶって、自分だけひそかに、またべつにも遊んでるのである。
そうとは知らないお母さんに引っ張られて、ちっちゃい遥さん、ドカーン。
「遥さあ、そりゃお母さんが悪いけどさあ、ムリよー、わかんないわよー」
だっこしておんぶして謝るんだけど、どうにもおかしくって。
遥はまたしても、泣きながら怒りながらげらげら笑っちゃうという、
気の毒な運命の人になったのであった。

遥へ。
お誕生日、おめでとう。うちの子どもに生れてきてくれてありがとう。


2012年7月25日水曜日

クラシックなくらし


息子からきいた彼の休日。
労働がやっとおわった金曜日は深夜まで、
音楽の友人たちと、
ろくに家具もない自分の下宿で「よばなし」。
話しがうまい人ばかりで、みんなが大笑いしどおしだったとか。
それから、つぎの日の夜はライブでひとり演奏。ライブは彼の兄の主催だった。
打ち上げがあって、電車がなくなり、こんどは友人宅でまた徹夜の「よばなし」。
はじめの友人はみんな年上、おとといは年下の知り合いだったとか。
やがて休日が終わると、またも彼らは、
息子も友人たちも、おそらくは虚しいのだろう労働にもどっていく。
それぞれの果てのない努力へと。
べつのなにかを一心になって続けるために。

あとになると、あれが詩のようなくらしというものだった、とだれかが書くのだ。

2012年7月21日土曜日

志ん生の長女


志ん生の娘というと馬生と志ん朝のお姉ちゃんである。
「三人噺」という、なにか黄昏のようなカラーの、美しい本を読んだ。
聞き書きだから流れるような、話というよりはやっぱり「噺」の、そのおもしろいこと。
見たこともない詩のような本・・・。

美濃部美津子さんは落語の名人を三人も出した家族の娘だから、
軽妙洒脱が稼業の家にまるごとざんぶり浸かっていたわけで、
彼女の生活言語であることばは、えらびぬかれた落語の噺のそれなのである。
考えてみれば当然だけれど本当にすばらしい。
しかしそれよりもっと、この物語に私たちが感動させられるのは、
けなげで、欲がなくてまっすぐな人の気持ちのありようだ。
こころねがいい。献身が自己犠牲とカンケイがないのもすっきり美しい。
この家は男三人が有名なんだけど、美津子さんは母親のおかげで、
裏方であることを、それはそういうもんだと自然に受けとって自分も生きたのである。

どうしてなのかなあ。
古今亭志ん生の家の極端な貧乏は有名だけれど、なんかこう納得のいく、
こどもがそれをスンナリ引き受けちゃうぐらいな、第一級のおかし味というものがあって、
魅力的だったんでしょうよね、きっと、考えなくても。
結婚はしたけどやっぱり戻っちゃったぐらいの、ねえ。

文庫本になったから買って読んで、と友達にすすめたら、
もうもう読んじゃって、ドライアイがいたくて苦しいのに読んじゃった、と。


2012年7月20日金曜日

確実な春のはじまり


新鮮な発見。

官邸デモに参加した、あるいは官邸デモを見に行った人たちが、
巨大ともいえる人々の群れが金曜日の仕事帰りに集まってきていると言う。
その多くが個々人で参加しているふうに見えると言う。
障害のある娘とふたり、デモの様子を見たくて国会議事堂駅で降りた友人は、
知らない人が自分の代わりに飲料水を買いに行ってくれたと驚いている。
行進なんかできないほど抗議デモの人数は多く、知らない人同士の親切が気軽に行われ、
ふつうの個人的な人たちだから、ルールを守り、ゴミは持ち帰っている、と。

7月16日、17万人が集まったという代々木公園でも雰囲気は、ほぼ同じだった。

4、5年ほど前、フィンランドに私は出かけた。
個人的な見学の旅で、ヘルシンキに10日間滞在。
・・・むかし日本もこういう国だったと、行ってみて思い出すことがたくさんあった。
おだやかで、スジが通っていて、カフェやレストランで話し合う姿が落ち着いていて。
それは懐かしくて、好ましい光景だった。
ああ、日本がこうだった時代を私は知っている、と少なからぬ感慨があった。

ノスタルジー。

むかしと言っても、1960年安保前後のころの話である。
貧しくてもあのころ私たちの国は学力世界一のフィンランドによく似ていたのだ。
たとえば、
フィンランドのバスは、時間内であれば、同じチケットで何回も乗りなおしができる。
私はかつての日本の地下鉄を思った。
学校が青山にあって高校へは定期で通ったんだけれど、
地下鉄は定期さえ買えばどこまで乗ってもよかった、フィンランドみたいに!
銀座に行くのも、学校がおわって国会議事堂へデモに行くのも、学校の定期で行ける。
こういう市民本位のべんりさが、日本が世界に冠たる金持ちになるにつれ、
制限されていったのがヘンである。

忘れていたけど、あの時代は案外イロイロよかったのだろう。
そんなふうな生活や気持ちを私たちは再びとりもどせるだろうか?

いま巨大なデモのありようを聞いたり見たりすると、
ここから春が少しは始まるのかもしれない、と信じる気持ちが起こってくる。
巨大な抗議デモのなかには、
社会的な意見をもつ人も多くいて、不信の壁をこえて見知らぬ人に優しい人も多い。
そこへ出かけて行って、たくさんの人々を見て、自分を自分なりに変えるのだ。
自分が変わらなければ、家庭はかわらず、学校もかわらず、
イジメの構造も変わりはしないのだ。
社会は自分からはじまるという真理に、たぶんいま私たちは接近し始めているのだ。


2012年7月18日水曜日

17万人の抗議デモ


7月16日、新宿でみんなで待ち合わせて代々木公園へ行った。
何日も前から、自分なりの意見表明をしたいと思っていたけど、
身軽く出かけられずもどかしい思いだった。だから願いがかなってうれしい。
今、デモに行かないでいつ?! と私は思うのである。 

このあいだパーティをやって印象的だったことのひとつに、
息子と息子の友人と私の、三人の夜中までのギロンがあった。
「デモはいま流行のファッションだ、そういう軽薄なやつらがイヤで行く気にならない」
「なんでむかしの人は安保の時はすごかったと自慢するんだ、負けたくせに」
などなどと、けっこう本質をついた感想。
私も思うことを言ったり、言いかえしたりしたんだけど。
あれからずっと、16日の代々木公園でも、この二人の意見が私についてまわった。
頭から離れないのだ。それがギロンのよさだ。
ギロンというものは勝ち負けではなくて、論理の精査にある。
自分ひとりで、あとあとまでこだわって考える、そのためのものだ。
あの真夜中のギロンをパーティに来てくれたみんなとできたらよかったのに。

17万人のデモというけれど、本当はもっともっと多いはずである。
参加したかったのに身体の具合で思うようにならない、という人は多い。
老齢で、選挙権の持ち主で。デモに参加したいけど行かれない・・・・。
第一会場にいる私の携帯電話に長男が電話をよこした。
こどもと来たけど、なにしろ人が多すぎて私たちがいるところまで行けないと言う。
いま「赤い疑惑」の演奏を聴いたよ、と言っている。
彼らは「第3案内カー」の上で11時から演奏している。
ということは長男は道路がいっぱいで公園に入れないでいるのだろう。
こどもは4才。熱中症になりませんようにと祈るしかなかった。

会場を見わたす。それこそ安保の頃とはとても様子がちがう。
政党はもはや見る影もないし、労働組合の旗もすくない。
旗や幟(のぼり)を立てている人に、うしろからしつっこい抗議の声がかかる。
舞台が見えないから旗を降ろしてください、というのである。
10万人もいるところで、舞台の上の顔を見ようなんて無理でしょと、
私なんかそう思うが、とにかく旗指物の存在をゆるそうとしないのである。

広辞苑でしらべると、ハタサシとは軍陣において主人の旗をもつ従者をいう。
なるほど60年安保の時、私も、主人をさがすようにまず旗指物をさがしたっけ。
社会党か共産党か。全学連の主流派か反主流派か。総評か、それとも・・・。
とにかく所属団体をきめたい、どこかに所属したい、という心の動きだ。
とこんなことを考えるのも、あの夜、息子たちとしたギロンのおかげである。
私は自分なりの考えをもって安保反対のデモに参加していたのかしらん。
高校二年生で授業が終わると毎日国会に走って行ってたけど。

そうですね、おっしゃるとおり、流行のナミに乗っていただけかもしれません。

そう考えるにつけても、安保反対はすごいデモンストレーションだったと感心する。
国家と国家の条約に反対してよくあれだけの抗議行動をしたものだ。
条約や法律に反対するって観念的で難しい。法律言語の洪水を泳いで渡るような。
読んではみても、頭がクラクラしてわかった気がしない。学者やインテリの天下というか。
戦争が終わって15年の1960年。
アメリカ軍に占領支配された国民としての屈辱的な経験が、まだ生きていた頃だ。
他国の支配がどれほど暴力的であるか日本人がよく知っていた頃だったのだ。
いくらアメリカ文化にあこがれても、支配は友好とはまったくちがう。

原発反対は安保条約反対より悲しいかなもっと直接的だ。
ランキンタクシーの歌のとおりである。
放射能・差別しない・区別しない。
安保条約賛成の人の上にも反対の人の上にも放射能は降りつもる。
利権のバケモノの上にも、赤ちゃんの上にも、
「原発どうだっていい」と思う人の上にも、「原発心底反対」の人の上にも、
実は内部被爆の恐怖が迫っているのである。
安保条約締結の結果の成れの果てが今日の日本だといま私は思うが、
そんなことをこうなるまでロクに考えもしなかったのが悔やまれる・・・・。

だらしないイジメの流行より、自殺の流行より、政治的無関心の流行より、
人間不信や鬱病の流行より、ゲームづけより、官僚主義の奴隷でいるより、
軽薄だろうとファッションだろうと、原発反対、抗議デモの流行のほうがずっとマシだ。
この流行は少なくとも私たちを暖かくむすびつける、見知らぬ者同士を。
代々木公園に集まった群集は、組織された人たちというより、
日当をもらって参加する従来の労組の人たちというより、
まずは個人であり友達どうしという感じがする。
私も大学の同級生と、アメリカ人の演出家と、おなじ団地の住人と参加したが、
私たちだってデモに参加したいがための、急ごしらえの個人グループだ。
解散もそれぞれの都合にしたがって、まちまちである。

やっとここまできた、という見方もある。やっと自分の実感で、と。
それはそうだ。それはいいけど。
自由意志が民主主義の基本であってほしいけれど。

旗指物のことだ。
ハタサシモノを否定して、本当にいいのかしら。
なにかのハタのもとに集まって戦うことなんかもういやだと思うことが
そんなに好ましくて当然だろうか。
信頼できる政党がなく、安心できる宗教をもたず、指導力のある組合組織をもたず、
それでいったいどうするのか。
現代史のいったいなにを反省すれば未来が見えるのだろうか。
これは今や深刻な課題である。

自民党は原発問題の主犯であり、民主党は同一従犯である。
政党政治はもうウンザリ。御用組合ひっこめ。官僚よ首を洗って待ってろ。

そうだけれど代わりにどうすればいいのだろう?

この戦いも「どうせ負ける」のか、安保反対闘争のように。
イヤ今回はその抗議デモの巨大さによって革命的変化が始まるのか。
たとえ権力にうわべは負けても、抗議の結果、健康な精神風土が少しでももどって、
国家の濁りを浄化してくれるのか。それをなんとかしてみんなで考えたいものである。
政党にも、各組織にもこの際、厳しく考えてもらいたいものである。

2012年7月14日土曜日

首相ピリピリ


いまは、新聞を読むべき時だと思う。
できれば毎日読んでみてほしいけど、図書館に行ったとき読むのでもいい。

政党に無関係で宗教がらみじゃない新聞がいい、という人には東京新聞をすすめたい。
理由は簡単。
東京新聞は早くから、脱原発、反原発情報を掲載していた。
ふだんから紙面が意欲的である。
たとえば13日の金曜日には、日本外国特派員協会での記者会見の記事を載せた。
大江健三郎、内橋克人、鎌田 慧の「さよなら原発10万人集会」への呼びかけ。
ー7・16 代々木公園、12時半開始である。ー
鎌田さんはこう言っている。
「七百五十万筆は極めて重く、(政府は)民衆の意思を踏みつぶした」
一千万署名市民の会が、七百五十万人分の脱原発署名を政府に出した翌日、
政府は再稼動を決定したのである。

今日14日(土曜日)一面の見出しはこうだ。
官邸前デモ「首相ピリピリ」

べつにウソじゃないでしょ。
毎週金曜日に十万人以上のフツウの人たちにデモをかけられたら怖がって当然だ。
しかもそれが増える一方だというではないか。
政府首脳の不誠実、ウソ、厚顔無恥、不公平に対しての反政府デモである。
それなのにテレビも大新聞も、歯がゆいほど、そこを知らん顔して通る。
私たちは、原発に反対する動きや運動についてろくに知ることができないのだ。

新聞というものは読みにくい。
そう思う。
なんとか読もうとして四苦八苦。
字が多くって、言い回しが難しくって、いやになる。
ぜんぶ読めたことは自慢じゃないけど一度もない、私なんか活字中毒なのに。
もう私は新聞のぜんぶを読もうとは思わない。
そのことをどう考えたらよいのか、今でもちっともわからない。
私が新聞の存在をみとめるわけは、
読みたくないニュースが大見出しで毎日とどく、からだろうか。
受身な話でもうしわけないが、
新聞をとると、
読みたくないから読まないという行為が負債のようになってしまう。
自分を叱咤激励しないと、その借りが少しも返せない。
新聞は、おまえには返すべき借りがヤマのようにあると、私に迫るのである。

その私の負債とは、
「アンタの社会にたいする借りだ」と、やっぱり私は思う。
学校に行かせてもらい健康に育ててもらい自分自身の家族も持った、そういうごく普通の、
しかし大人としてこども達に なんとか返済するところを見てもらいたい、借り。
自分たちが平和にくらせた幸運は、いまとなっては負債である。
完済なんかできないけど、借りっぱなしが恥ずかしい。
なんでこんな世の中にしたのか、私にはやっぱり責任があると思わざるを得ない。

専門学校生のかわいい18才が囲み記事の中で言っている。
夏休みになってやっとここに来れたと言い、15万人の渦のなかでインタヴューされて、
「選挙権がないのがもどかしい、選挙に行かない大人は私に譲ってほしい」と話している。
もっともである。
首相ピリピリも、この女の子の発言も、もっともではないか。
こういうもっともは、こんな世の中でも、私たちが思っている以上にたくさんある。
それが否応もなく目にとびこんでくる点が新聞の力というものだ、と私は思うのである。




2012年7月12日木曜日

パーティーをひらいて



小沢昭一がめぐる「寄席の世界」という本のあとがきは、小沢さんの俳句一首のみ。
帰り花夕風わたる帰り道    変哲        
ー朝日新聞社ー

パーティをひらいて終わったあとの私の気持ちって、この句のようだった。
しみじみ、みんなのよい話がきけて、たのしいゆたかな時があって、
そこにはじぶんの人生をかけたそれとない精進もあるわけで、
だからぜんぶが終わっての感想は、贅沢なような質素なような、
気持ちのよい夕風にあたってこれで帰る、という気分だったのである。

「寄席の世界」は対談の本で、小沢さんと矢野誠一さんがこう語りあっている。
矢野
あれはなんなんでしょうね、噺家のほうにも成長過程というものがあるし、それを聞いて
いる客のほうにも成長過程というのがあるわけでしょう。その両方がうまく一緒になって
いくというのが理想なんじゃないかな。
小沢
つまり両方とも、文化的に年を重ねていくということですかね。それがピタッと合ったとき
の喜びというのはなんともいえない。


図々しい言い方かもわからないけど、このあいだはそういうふうな集まりで。
はじめて家に来てくれた人もいたし、以前、彼らの家に行って音楽をきかせてもらった
「一軒家のライブ」の人にも、やっと会えた。
若い母親たちと、彼女たちよりまだ若いアーティストたち。
いろいろな仕事、いろいろな年齢。そして生涯新劇人の今野鶏三さんの朗読。
それでみんなが疎外感なしに自由に話をした。
これが私の人生の目的だったといえば、おかしなかんじだろうけれど、
若い時から、その機会をつくろうと考えて努力したのは本当だ。
だって、なんだかむずかしいことですもんね!
議論したり話したりってね?

私たちには、じぶんより若い人間と話す場所も能力もない。
老人はもちろん、どんな若い人でもそうだ。
私たちは輪切り状態で育てられたから、ほかの世代から学ぶことができない。
そして、だからこそ日本に言論は育たず、独裁者の恫喝にすぐ負けるのである。

参加してくださったみなさん、ありがとう。


本の背を読む幼児


疎開先の葉山一色海岸を引き揚げた両親は、大邸宅の二階を借りた。
下北沢である。
敗戦後のことで、そこには持ち主の社長一家はもちろん、
私たちのほかにも、書生や、あかちゃんのいる若い夫婦が住み着いていた。
天井でネズミがかけまわっている、東京大空襲を免れたおおきな家・・・。
池があって、石灯篭が立っていて、築山のかげの防空壕は水びたし。
ふだんは開けない大玄関だとか、閉めたきりの大応接間だとか。
電話室の電話は手巻き式。
大きな柱時計の動きがとまると、横の階段の途中から扉を開け、誰かがネジを巻く。
塀はぐるりと高い黒板塀。桜と八重桜と松の木とモミジと百日紅の木がある、
そんな家でも、戦争に負けたのだから、
真冬、火鉢だけしかなかった。

二階東南の角に、屋根にとりつけた木造の物干し台があり、
廊下に、雑多な本を投げ込んだ、うちの大人用本棚が置かれてあった。
どの題名も漢字ばっかり、四才や五才には、ひらがなしか読めない。
読めるのは二冊で、私はそれを音読する。
「かひしなの」と声にだして言い、「なすの夜ばなし」と、たどたどしく読むのだ。
夜という漢字は、祖母が、私にきかれて教えたのだろう。
それを読む。物干し台にのぼり、また本棚の前にもどる。
冬、物干し台のまえは陽だまりになって暖かい。こどもは猫みたいなものだ。
私は、ふたつの背表紙を何回となく読み上げ、首をひねり、本棚からはなれ、
またもどってきては、首をひねるのである。

ナゾという言葉を知らないときのナゾは、霧のようにも深いものだ。
「かひしなの」のほうは、あっちから読みこっちから読んで、
かひ、も、かひし、も、ひしな、も、読んでも歯がたたないからあきらめたけれど、
なすはちがう。
なすのことならよく知っている、考えこんでしまう。
なすは、いったいなぜ、夜になると話をするのか、昼間はあんなに黙っているのに。
四才がまるっきりひとりで考えるとなると、そこがわからない。
なすとなすが話しをするのか、
なすはそれとも、この本を書いた人にだけ、夜になると特別に話しかけるのかしら。
真夜中の月の畑で、なすに、どんなことが起こっているのか。
いけばそれが、きっとわかる。
ー絵本の影響で、幼い私は夜の畑には月がかかっているときめていた。ー
しかし、どんなにそれを知りたかろうと、こどもだから夜中は眠らされて、
月光の下の真実については絶対に知ることができないのだ。

それは、いま私が知っている漢字をつかえば、懊悩、というべきほどの感情だった。

・・・自由に文字がよめるようになると私は、少女の私の読書でいそがしく、
「かひしなの」も「なすの夜ばなし」も忘れ、知らん顔の無関係でほかの本を読んだ。
読みやすい本ばっかり。
継母が少年少女用の本も出版する会社の編集者であったから、
私の部屋には子ども用の本棚が作られて、おもしろい本がヤマほどあったのだ。

なすは那須であり、かひは甲斐であり、しなのは信濃であった。
私ときたら、忘れがたい思い出のために、この二冊だけはだいじにとってあるのに、
六十年たってもまーだ読んでない。
読まないままで死んじゃうのかもしれない。
「なすの夜ばなし」なんか、小山内 薫の本なのに。
山花郁子さんにこの話をしたらふきだして、貸してくださいって言った。
お元気だろうか。

2012年7月2日月曜日

まともな論理を求めて

木曜日 朗読の会。
金曜日 若い母親たちの集まり。
土曜日 パーティー。

全部家でのことなので、ものをどけて掃除がしてあるふうにするのが大変だけれど、
そんなことより、来てもらった人に後悔させないようにって、それがなかなか。

日曜日になって、東京平和映画祭に午後から出かけてパネルディスカッションをきき、
短編映画「フクシマの嘘」 ヨハネス・ハーノ(ドイツ)レポートを観て、
上杉 隆(自由報道協会)さんの講演を聴いた。
上記三日間のあとだったので、なんだかもう雨は降っているし、
くたびれたのかなんなのか、
死んだなにかの虫みたいな気分がしていたけれど、
ヨハネス・ハーノ監督のドキュメンタリー映画が素晴らしく、
これこそさがしていた意見だ、無理しても出てきてよかったとうれしかった。

ヨハネス・ハーノ氏は、ドイツ最大のテレビ局 ZDF の東アジア総局長である。
調査報道の看板番組を担当、ベルリンの政治特派員であった。
大震災の起きた昨年3月11日、彼はちょうど東京にいて、
即刻福島第一原発に駆けつけ、内情を知る人たちに直接インタビューし、現場に潜入、
原子力むらにひそむ背後関係をたどり、さぐり、追いかけ、
「なにがどうなっているのか」「なぜなのか」を映像化した。
それがこの「フクシマの嘘」である。

29分ばかりの短い映画。

私が胸を打たれたのは・・・、この映画のまともな「論理」にだった。
私たちの国を襲った惨劇の正確な把握。
天災と人災にまみれ、嘘にひっかきまわされてワケがわからなくなり、
なんだかおそろしいほど完全に見失ってしまった私たちの人間性。
それが外国人によって発掘され、日本人の姿を軸に事態が解明されてゆく。
私たちが見たい知りたい日本人の姿が、かろうじてそこにある・・・。
ハーノ氏はたくさんの関係者にインタビュウーしたにちがいないが、
29分間の画面に選びだされて登場する日本人たちの発言の、
善と悪、真実と嘘を、疑問の余地なく整理してみせた論理的剛腕がすばらしい。

私は証言する映像のなかに管 直人前首相の姿があったこと、
また佐藤栄佐久もと福島県知事の戦いがとりあげられたことをうれしく思った。

デマや誹謗中傷の洪水の中から、故意に消された努力と苦闘をひろいあげること。
それが、ドイツ人の記者ハーノ氏がした作業のひとつである。
人間の勇気や理想主義、責任者としてのまっとうな苦闘を、
混迷の中から見つけ出し注目し味方すること、論理的にバックアップすること
いま本当に一番だいじなことはそれだと私は思うのである。


「フクシマの嘘」はYouTubeでみることができます。