2012年8月29日水曜日

ア・ページ・オブ・パンク 8/25


ピンポンパンク8/25で、「ア・ページ・オブ・パンク」が体力のあるところを見せた。
アグレッシブ。陽気、主義主張もガンガン。
音楽性について? どうだってきかれても、めまぐるしくってわっからなーい。

視界がパーッとひろがったのだろう。
夏休みをとり、2週間イギリスに出かけ8回ライブに出演、結果、なんでもイギリスの
神奈川新聞?みたいな地方紙に評判がよくて載っちゃったというから意気軒昂、
かんじんのその新聞は、マイケルだかスコットだかエイゴの友人が、
「オレの家の壁に貼るよ」と言って、くれなかった、だからもって帰れなかった、
というのも如何にもの話ではないか。洒落てるんだか泥くさいんだか、
たぶん両方なんだろう、なにしろワーキング・クラスを誇りに、パンクだ、パンクだと
一年中そう言って生きてるんだから。
今回のア・ページの演奏のよさは、生きる様態と決定のしかたに加えて、
ピンポンパンクで帰国初ライブということがけっこうな真髄、アサくんの力量というか、
ライブハウス芸術のよさを、見せられた気がした。
イギリス帰り強調の!扮装?でア・ページ・オブ・パンクの演奏が始まると、
集まった面々の空気が、で、どうなったのかという好奇心、冗談のやりとり、野次、
大暴れ、絶叫、仲間的からかい、などなど、などに。
彼ら双方の存在理由と関係が、粉飾をくわえず不安定のなかに浮かんでは消える、
すばらしく好ましいあり方だと思う。
パンクのライブはまさに演奏する側と迎え撃つ側のやりとりいのち、
ア・ページもこの日ばかりは、さぞぶっちぎり感があって、楽しかったろう。
バカ高かったろう飛行機代や行くまでのゴタゴタも、むくわれたわよねー。

わいわい騒ぐのって、楽しいんだなーと。
私なんか空中を飛んでくるばかもの?!にぶつからないようにとタイヘンだ。

ロックバンドが集まるライブは、音楽が手段の小型デモのようなものだと思う。
このライブハウス形式の自由さがうらやましくって、
いろいろなバンドの演奏を見たり聞いたりが、私は好きだが、
いつも考えることは、たとえばのはなし、英語を流暢にあやつるといったって、
脳みその中にしっかり言いたいことがなければ、話題のとぼしい、どーだっていい、
痩せたエイゴしかしゃべれないことになってしまう。
ロック周辺もまったくもってそういう感じ、
いくつになっても自己表出とか個性とか、そんなことしか考えない表現活動は、
テクニックがいくらすばらしくても、インストゥルメントなるものがいくら上等でも、
自分のやせたタマシイ以上の拡がりを持たないから、
ロックなんて言っちゃっても、いつのまにか信用金庫型保守なのだ。
電力でいくら騒ぎを大きくしたって、自分の頭と耳がごまかされるだけ、
やっぱり、その日その時みんなとすごく楽しんだという感激はウスイのではないか。

デモンストレーションとは、
なんにもせよ自分の考えの表出であり示威行動である。
愛をうたおうが正義をうたおうが、人間らしくなにをデモりたいかがだいじだ。
しかもライブハウスでの演奏は、観客も出演者の一部である。
みんながその日の気分を用いて、いっしょになって演奏をつくるという、
可変型の、じか取引が大劇場より幅をきかす世界である。
そこが自由でそこが楽しい。しかも上手くいきにくい。
そういう場に自分がいるって、やっぱり、おのれの病める魂をゆさぶることだと思う。

金曜日の国会周辺デモには、独りで参加したという人があっちにもこっちにもいる。
おどろくほどの人数である。私は、その人たちの日常生活での孤立を想像するし、
自分の閉塞感についても考える。そして、なんだか、ただ、ホッとする。
集まった人はみな、それぞれが「原発再稼動絶対反対」である。
憤慨と抗議の膨大にして個々の表現。
では、日本人というものも、可変するんだろうか。
彼らは人生のどういう道筋を通って、ここ首相官邸までやってきたのだろう?
ひとりで? 万障くりあわせて?
私はだれにも似ていないが、そこがみんなと似てもいるのだろう。

ロックもデモなら、これもデモだと、どっちにいても、私は両方を比べて考えるのだ。


2012年8月27日月曜日

政治の目的


8月23日だった。
外務省は、野田首相の親書を返しに来た韓国・駐日大使館職員キム参事官に
門前払いをくらわせた。
キム参事官の乗用車の外務省正門通過も許可しなかった。

こんなにイヤなニュースってあるだろうか?

日本の首相親書をつき返す韓国・イミョンバク大統領の態度は好戦的である。
では韓国の国民は、好戦、なのか。
韓国国民に、国内問題として、まずそれを考えてもらいたい。

ヒトのことを言うまえに、日本は、好戦、なのか。
政府マスコミのせいで伝わりにくいのかもしれないが、
私たち国民は戦争という大量殺戮にぜったい反対である。
外務省は、いったいだれの許可のもとに、好戦的な外交を展開するのだろう?

今回のいわゆる領土問題で、すごくおっかないのは、
マスメディアを利用した脅しが先行し、
政治本来の願いを国民レベルで確認しよう、という声が聞こえないことである。

大勢いるところで人は、直接どんなことをいっているのか、
たとえば金曜日のデモで、みんなはなんと言っていたか。
福島が先だ。竹島に人間は住んでいない。
日本国民の今を見たらいい。
現状の命と安全を無視しウソでぬりかため、
対策をネグレクトし、
そのくせ人が住まない領土に血相を変えるなんて。
全原発の撤廃と、じっさいの弱者救済がだいじだ・・・。

みんなはマスメディアを苦しく批判している。
参考になる意見は、聴けばたくさんあるのだ。
政治には無論、領土問題、があるとしても。

政治とは、平和にものごとを進行させるための工夫である。
政治本来の目的は、人間として大量殺戮をしないですむ方法をさぐることだ。
相手の態度が悪いからこっちも悪い態度でやり返す、という
外交にもならない外交のどこに政治があるのか。
ただ熱くなって相手を突き飛ばす、幼稚失礼な外務省のどこに、
反戦があるのか、政治感覚があるのか、熟慮というものがあるのか。

戦争は絶対にいやだ。

使者には、とりあえず礼をつくしてアイスティーの一杯を、という意見に私は賛成である。
たとえば親書をもって帰ってください、と言うにしてもである。



2012年8月26日日曜日

ピン・ポン・パンクの日


早稲田大学ちかくにライブハウスがあって、
息子たちがゾンビイ、ゾンビイとむかしから発音するので、バケモンみたいな名まえを
つけるのも、ロックだからかと私はずっとカン違いしていた。
初めてそこに行ってみたらば、ホリゾントになんか血塗られたような英語が描いてあって、
読んだらZONE B ・・・。夜中だったら、やっぱりコワイかなーとも思う。

きのうは4時から、ピン・ポン・パンクというけっこう知られたライブで、
「ア・ページ・オブ・パンク」と「ディエゴ」も演奏。
長男と二男のバンドである。
集まった多くのバンドを見て、私もライブハウスにながいこと来ていたなと思う。
息子たちが演奏するからあれも聴きこれも聴き、考えながらながい時間が過ぎた。
たぶんフツウだったらとても続かなかっただろう。
きのうなんか、うちに帰ったら夜中の12時だった。

桐朋学園の演劇専攻科の廊下を思い出す。
私はそこの二期だったが、クラスメイトが楽器をもちだしてバラバラバラ、バラバラッと
もう年中やっていて、そのなかの何人かは職業的音楽家になった。
幼馴染に有名な「ロフト」の平野悠がいて、彼は三人兄弟の末っ子だが、
まーあんな波乱万丈過激?な人になるもんなんだなあ、と。
彼のお父さんと私の父は将棋友達である。
小さいころから知っていても男三人兄弟というのは、わけのわからないもので、
私が大学生になると学生運動まっさかり、悠のいまいましくも利口な兄貴が活動家で、
からかわれて、カンカンに怒ってくやし泣きして家に帰ったのも、おかしい。
とか、そう考えてみると、私の精神構造のなかに、
息子たちがロック・バンドにのめりこむようになると、
よくわかんないけどいったいこれはなんだろう、という好奇心が生まれたのは当然だ。
文化的素地というものである。

それであれやこれやを見たり聞いたり、劇場(ライブ)はなんでもすきだが、
十年以上も、ジャマだろうかなーと思いながらヨコで見て、
私にもすこしづつ「知っている人」ができたから、ホッとしている。
ピンポンパンクのアサくんをダッシュボードのときから見て知っている、
だからどうだといわれるとこまるが、
それなんか息子がいなかったらあり得ない。
素通りしないですんで、人生が複雑かつ興味深いものになった。

ライブハウスにいる人たちが、いったいなにを考えているのか、
自分とどこがどうちがうのか、それはなぜか。
言葉をつかって問いつめなくてもよい、単純な見たり聞いたりが、
けっきょく自分としてはよかった。

思い出したけど15年ぐらいまえ、「食事のときロックの話をしないでよ!」
と、かんしゃくを起こした。
なんで、ときかれて、「まるでわかんない話題だからよっ」と居直ったが、
今なら、どうやら質問ぐらいはするだろう。意見ぐらいなんとか言うだろう。
私も、私なりに、今じゃたいしたもんだと思うので、あーる。


2012年8月23日木曜日

やっとこさ金曜日のデモへ


金曜日、地下鉄丸の内線「国会議事堂前」で降りたら、心配もなく現地に行けた。
なぜなら、出口が4番とかぎられ、警官が案内というとおかしいけど、行く先を決めて
くれる。くれるというとおかしいけど、抗議行動の方はこちら、という。
私は一人で出かけたけれど、たちまち安心した。
4番出口から地上に出ると、もうそこから首相官邸に向けてびっしり、
「原発再稼動反対」の行列が始まっているのだ。
行列は個人でできあがっている。それでやっぱり元気になる。

黒い洒落た帽子の女の人が、私は金曜日になるとここに来る、と言い、
だいたいどうしたらよいのかを教えてくれた。この人もいつも一人で来るのである。
彼女のそばにいるのがよさそうだと、私もぐいぐい前に進まず同じところに立ち続ける。
前も後ろもビッシリ人だらけ。まあ、なんにも見えない。イチョウの木と道路と警官しか。
集会は6時にはじまって8時まで続くそう。
私は5時についたから、そうすると3時間ここに立っているのかしら。
この先が首相官邸、あっちが国会議事堂、議事堂ヨコには子連れ用テントもあるらしい。
テントの中だとピンとこない、と若いパパがあかちゃんをだっこして、そこに立っている。

「ここはなにかの政党とか組合が集まっているんですか?」
こんどは私がきかれた。
ちがいますと言うと、ああ、それじゃよかったとその初老の夫婦も隣りに立った。
千葉県から、彼らはとうとうついにやって来たのだ。成田の向こうから。
やっと来れましたっ。ふたりでにこにこしている。
・・・広い広い車道が前にある。
マイカーが思い思いのステッカーや飾りをつけて、通る。
タクシーの運転手さんがクルマに「原発再稼動反対」の布をつけてくれたりもするそう。
自転車が走っていく。こぶしを振り上げて、ツーイツイと走りながら合図している。

6時になる。
シュプレヒコールが始まる。それが延々と、延々と続くのである。
その唱和が、びっしり歩道を埋めた人々全体の意志であり、抗議であり怒りであることが、
すごいことに思われた。二時間。雨だろうと猛暑だろうと毎週。
「原発再稼動反対」「規制委員会の人事案反対」「子どもを守れ」「フクシマを守れ」
愚直なまでに繰り返し行われる怒りの表明には、思わぬ凄みがある。
コワイものがある。
無視できなくなって、首相が抗議運動の代表たちに会ったのも、当然かもしれない。
そういう気がした。


韓流ラブコメ


ビデオ屋さんに行ったら、韓流コーナーがあって、
この作品からハマル人が多い、とあった。
『華麗なる遺産』 という。
そういうからにはおもしろいのだろうと借りてきたんだけど、
それはもう、おっそろしく、おもしろかった。
やめられない。夜中になっても観てしまう。
ものすごい分量なのに中毒になるほどおもしろくて先が知りたい。
私なんかほかのことができない。眼にもわるい。いや冗談ではなく。

簡単にいえば、破滅した小企業の娘と、大成功した中企業の孫の恋物語。
まあ、なんというか、シンデレラとハムレット?が出逢った、みたいな。
で、ストーリーもよくできているし、俳優も脇役主役まったくもって適材適所、
むかしアレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」を読んだ時のように、
わくわくしっぱなし。ちょっと、なさけないもんだわよねー。
まんまとお伽話にだまされちゃうなんてねー。
考えるに、このラブコメの魅力は、美男美女たちのど真ん中に、
「食品会社チンソン」の現役社長、大資産家のチャン・スクチャが存在することであろう。
このおばあさんのいかにもの存在感と、企業家としての思想が、
山あり谷あり、ど派手なこのメロドラマの底流をなしていて、
エセっぽいんじゃないのとかウソみたいとか、そういう批判を許さないのよね、なんだか。
初老の女優さん、ええと、パン・ヒョジョン、チャーミングでリアル、うまい!

結論をいうと、
けっきょくのところ、「華麗なる遺産」をこの大資産家チャン・スクチャはどうしたか。
全株式を全社員に分配したのである!
オドロキだった。資本主義韓国における、ラブコメにおける社会主義・・・。
鳩山兄弟のママとずいぶんちがう。ブリジストンの娘でしょ、あのママは。
トヨタや日産や、東京電力とも、すごくちがう。
日本政府なんかの考え方と全然ちがう。
ドラマだからできるんでしょ、と言うのは簡単である。
ドラマにだってしないでしょ、日本では。

ドンドン人気が出ちゃって、最終的には40%を越えたという韓国での視聴率。

「華麗なる遺産」のヒロインは、お金を気味が悪いと言う。
お金に取り込まれてしまう人間の心がイヤだと言う。

尖閣諸島や竹島の、地下資源であるとか、領土問題であるとか、
日本はいま、ペラペラと燃える紙のようだ。
私たちは煽られっぱなし、この問題をどう考えたらよいのか正直なところわからない。
私がであうおじさんたちは、ハンコで押したみたいに、韓国や中国を悪く言う。
なんだかすぐ興奮する。よく考えずに言う悪口は、品が無い。
なんで、即座に資本家や軍国主義者のお先棒をかつぐのか。
そんなことしたら、こんどは誰が、戦争に行くのだ。
今日の新聞に「こういう時だからこそ日韓交流」という記事があった。
佐賀県唐津市で行われた小学校どうしの交流会が、ぶじ、成功したという。
私は民間レベルのこの姿勢こそ、尊いんじゃないかと思う。

どうしてかというと、
それが全部じゃなくても、ラブコメの中の話でも、
労働する者の立場を最優先しようという、そんな経営者をたたえる気風が、
韓国という国にはあるのかと、そう思えばホッとしてうれしいからだ。
たとえばそれが、ユメであっても、架空の話であっても、
おたがいをだいじにして、ゆっくりみんなで発展していこう、と、
日々そう考えることは、いい文化があるということではないか。
戦争だけはどうしても避けようという動きは、
おたがいがおたがいをだいじにという考えからこそ、生まれるでしょ。


2012年8月21日火曜日

一番すきだ、という気がした映画


「フランスのレストラン」

私は無計画なその日ぐらしというタイプで、いつもこまったことになる。
そのかわり、ユメは、極小のユメしか見ないから、案外かなう。
たとえば、「フランスのレストラン」という映画を観て、
とてもステキだった、
あれこそ人類(じぶん)のユメだなーと。
そこでケッコウな影響をうけてしまう。

ふたりの男が風来坊なんだけど、海辺でレストランを開くのが夢だった。
自由なまんま、幸福に海風に吹かれてくらしたいのだ。
お金にこまらないで。いつまでも。レストランを開いたらちゃんと働いて。
ふたりはレストランの備品を、足りないとひろったり、もらったり、かっぱらったりして、
それから無力な、哀れで、あてどない女、こども、老女もなりゆきでひろって、
レストランをとうとう開く、よせてはかえす波の砂の上に。
浜辺にならぶ深紅のプラスチックの椅子の色がさすがフランス。
テーブルがアルミで、安っぽいから、ビンボーはやっぱり。
壁もなく、太陽があり、潮風が吹く。
ひきとった母子を好きになって、ふたりの男はべつべつに生きることになってしまう。
現実的じゃないほうのユメがかなうのが不思議。
詩みたいな心の、無垢であって、知恵のないほうのユメが、かなう。
映画だから。
根のない話。幸福なのだ。それはやっぱり映画なので。

こんなくらしは、フランスだろうとスペインだろうと、ユメにすぎない。

「フランスのレストラン」の主人公のひとりは、ロバンソンという名まえ。
この映画をむかし観た人がいるかしら。
まるでこんなストーリイじゃないのかしら。
なつかしい映画だ。

これっぱかしのユメや理想や思想って、少しはなんとかなるものだ。
なにしろバブルだったし、ひろった物ともらった物とで、
私は家をなんとか飾り、みんなで集まっては、四方山話をし、
できればじぶんの国を、貧しくても清らかに生活できる場所にと考えた。
それはユメだ。やっぱり根のない幸福で。

ユメは、過去から、できる。
人はだれでも、おとなになってから、じぶんの過去で、未来をつくる。
ユメというものは、生活とそりがあわない。
生活のみじめさがユメを創りだすが、ユメを支えるものは生活だということが、
わかっちゃいるけど、ホント、イヤなことだね。

2012年8月19日日曜日

生命を想う ③


どうしてあなたは誕生日を祝うのか。
どうして、生きるということを、喜ぼうとするのか。
あなたはなにをどう思って、人間の生命を肯定するのか。
それが、ききたいことだった。
そこへいく梯子に自分はどうしても手がかからない。

彼女は言った。
「たしかに私ってお誕生日をだいじにするわよね。
家族の誕生日はもちろん、いろいろな人のお誕生日をメモしておいて、
カードだけでも贈ったりするものね。」
どうしてそうなるの。
「うーん、やっぱり、生れるって、たいしたことだと思うから」
ふうん。
「なんでそんなことをきくの?」
私は、ちがうもん。だから不思議で。
「へえ、そうなんだ?」
いつからそう考えるようになったか、おぼえてる?
「うん、おぼえている」
言えるの、いつからって。
「うん、言える」
そこで、みっちゃんが私にしてくれたのは、
ざっと、つぎのような話だった。


結婚して、職場結婚だったし、そのまま働いていたの。
子どもがほしいと思うでしょ。
でも、妊娠しても、受け入れてくれる病院がなかった。
いろいろな病院をたずねたけれど、お医者さんに、ことごとく反対された。
私がこんな身体だからって反対ばっかり、拒否されたのよね。
親もそう、私の父親なんか堕ろせって。なにバカなこと考えてるんだって。
心配したのかもしれないけど、ひどかった。
母? そのころは、私、母がどこにいるのかも知らなかったから。
あきらめられないから、夫と本当にいろいろな病院へ行って。
とうとう、ある病院の中国人の揚先生という方が、がんばってみましょうって。
その先生にめぐりあえたから、おかげで出産できたのよ、幸運にも。
でもさあ。そうきまってからだって、またタイヘンでしょ。大変だった、もう、やっぱり。
なにしろ私は母体が小さいでしょ、あかちゃんが私のお腹のなかで、
ちゃんと成長できるかどうか。障害があるかもしれないし。
私がこうだから、どんな障害のある子どもが生まれても、
ちゃんと引き受けて育てようと思って、そういう覚悟はわりとできていたけど。
あかちゃんって、お母さんのお腹の中で、ふつうは足を上に縦になっているはずが、
私の場合だと、あかちゃんが横になっちゃう、せまいからね。
あかちゃんが育つと、内臓が圧迫されるから、私はもう寝る姿勢もとれないし。
苦しいし、不安で不安で、まあ誰でも不安なんだけどね。
妊娠中毒症になって入院して、ずっと。
いよいよ陣痛がはじまったというのに、いくら待っても生まれないの、二日間も。
ほかのあかちゃんは生まれて、あっちでもこっちでもみんな喜んでるのに。
先生もあわてちゃって困ってた。
でもすごい思い、痛くて、苦しくて、疲れちゃって、婦長さんが怒るし、
しっかりしなさいって、もうおっかなかった、がんばりなさいって。
はじめは帝王切開の準備を病院はしていて、手術で産むはずだったんだけどね。
そうしたら生まれる直前に、あかちゃんがお腹の中でぐるんと縦になって、
フツウの子みたいに位置をかえた、だからけっきょく普通分娩になったの。
人間って、生まれる時は産まれるようになるもんですって。
死ぬ思いをして、やっと産んでね。
私がベッドでもう疲れて死にそうになって寝ているところに、
看護婦さんがあかちゃんを連れてきてくれたでしょ。
みんなそうよね。
美智子ベビーっていう名札が、足につけてあって、ああ、生まれたんだって。
私はとうとう、あかちゃんを産んだんだって。
もう、私はその時、ヒトが生まれるって、命って、
本当にたいしたもんだなって思った。
やっぱり、その時よね。誕生するってすごいことだって、私が思ったのはね。

・・・だから私はお誕生日っていうと、大騒ぎするの、毎年ね。

私がだまっていると、
あいかわらず納得がいかないでいると思ったのだろう、
彼女はこうも言った。
「それに、もしも生まれなかったとしたら、なんにも起こらないもの。」
どういうこと?
「もしも生まれなかったら、私たちは宇宙の塵なんでしょ?
生まれなかったら、なんにも無い、ただの暗黒で。
そりゃあ悪いことも起きないだろうけど、良いことも起きない。
こどもを産んで育てる喜びもない。友達にだって会えなかったし、
こうやっていっしょにいて楽しいなんていうことも、なんにも無いわけだから。」


彼女と別れて、小田急多摩線に乗った。
ガタンガタンと、電車は夜の闇の中を走る。
終点から終点まで乗っても三十分とはかからない。
その日だって乗客は少なかった。
この電車から降りるまでによく考えよう、と思う。
ごちゃごちゃ言うのはやめよう。
自分はおかしい。
ここで、電車の中で決めてしまおう、なんだかそう思った。

私は選択をした。
生まれないより、生まれたほうがいい。
どんな状況になっても幸福をさがして生きよう、これからはと、考えたわけである。
まあ、みっちゃんのようにはいかないけれど。



真夏のセミ


玄関から出て、階段にこしかける。
セミの鳴き声が、わーん、とせまい空をまるく囲んでいる。
耳にじんじん。だれもいない。
太陽のおとはきこえない。
セミばかり。
階段にこしかけるなんてはじめて。
ここに引っ越して十年以上にもなるのに。
風は滞留、空気は熱でゆらゆら。
家のむこうは藤棚をしつらえた中庭で、
びっしり葉をつけたアキニレの木が、三本ばかり、たっている。
陽がのぼる朝は、西にむかって影が三つ、小川のようにできるけれど、
いま、アキニレは、油絵のなかの木のよう、
ただくっきりと、こい緑にふくらんで、むんむんとあつぼったいのである。
一分間が一分間ずつ過ぎる・・・。何分間も。
セミがたくさん。
あっちへ、こっちへ、
思いだしたように、あっちへ、こっちへと、空間を移動する。
三本のアキニレのあつぼったい緑から緑へと。
ほら、また、飛んだ。
飛んでは、とまって、飛んでは、とまるのだ。

うすい空色のそらに、わーん、わーんとセミの音響。
かれらの期待は一生けっして裏切られない。
豊かであつくて、みどりで、緑で、緑で、ひたすらな満足の、
このながい七日分!



2012年8月17日金曜日

弔辞


家族新聞にみっちゃんはこう書いている。

母の希望通りに(美智子)
母は生前、遺影も参列者名も祭壇についてまでも、私たちにくり返し話していました。
ですから参列者は、母を大事にしてくださった方々でした。
「菊はイヤよ。真赤なバラの祭壇にしてね」の願い通り、バラをメインのお花畑の、柩
の中で母が眠っているような祭壇にしました。その両側には花好きの母らしく、沢山の
花籠。今頃、好きだった方たちと天国で楽しく暮らしていると思います。 合掌。


弔事のあと書き(亜子)
彼女のお母さんの派手なことといったら、それはもうすばらしくって、壮快だったので、
時々、お宅にうかがうのだけれど、わくわくして、フツウだと弔辞はブログに載せたり
しないのでしょうが、まー、ちょっと・・・。これはおとぎ話かなあ、と。
三分間で小学校一年から知ってた人の九十年を語る!
 



弔事(亜子)
おば様 お別れの時がきました。
おば様は、九十才。
私が、おば様に初めてお会いしたのは、
本田美智子ちゃんと私が小学校の一年生になった
入学式の日でした。
おば様は、あのころから、子どもの目にもとてもおきれいな方でした。

それからたくさんの、いろいろな事がおこりました。

おば様はオリエント急行に乗ったり、アフリカでゴルフをしたり、
仏蘭西や中国、インドやオランダやベルギーでお買い物をするという
まるで、おとぎ話のような方になったのでした。

それでも
この人は、長い十五年もの戦争と、
日本の惨めな敗戦をくぐりぬけたのだ、
そのころ、きょくたんに身体の弱い子どもを生んで育てた
ひとりの若い母親であったのだ、
とそう思うことがありました。
そんな時のおば様からは、
もともとがサッパリと、働きもので、粋な方でしたけれど、、
下町風の意地というか、くやしいというか、
そんな気持ちが、
少しだけ見えた気がするのでした。

それから、
おば様は年を取られました。
ご病気と、たびたびの入院。
もうゴルフもできないし、世界中を旅してまわることもできません。
すると、淑人さん、美智子さんご夫婦の、
こども、孫、ひまごちゃんの三代にもわたる、
家族ぐるみの支えを得て、
おば様は、新しく、
やわらかな光りかがやくような人になりました。
まことに、それは見事なながめで、
そうなられてからのおば様が、
私はいちばん好きでした。

おば様は古き佳き日本人といった気質をもっていらした、
私は、おめにかかることができて、
ご縁が結べて幸せでした。
お世話になって、本当に有り難うございました。
さようなら、おば様。
どうか安らかにお休みください。

これをもちまして、おわかれの言葉とさせていただきます。

生命を想う ②


この春、中島美保子さんが亡くなった。
入学式のとき、私にみっちゃんをグイッと押してよこしたお母さん・・・。
お通夜が終わるころ、みっちゃんが私に、葬儀の日の弔辞をおねがい、と言う。
90才のご高齢で、お母さんのむかしを知る人は、もう、数すくない。
そのすくないひとりが私だなんて。
それにしても。
あのオンボロ小学校の入学式から、豪奢なお花でいっぱいの葬儀場まで、
私たちは、いったいどういうかげんで、友達でいられたのだろう。
めまぐるしく、ふつうの生活をしながら、あれを悩みこれを苦しんでいるうちに、
歳月は、霞のように、蜃気楼のように、過ぎてしまったのであった。

東関東大震災と原発の事故のあと、生命は、それ以前とはまたちがうものになった。

いままで、90年の長寿というものが、なにか当然のように感じられていたのに、
・・・・・・たとえば、井上ひさし著「あてになる国のつくり方」2002年・光文社によれば、
1945年、敗戦の年の日本人の寿命は、男性23・5才、女性34才。
その章の見出しは、「平均寿命が三倍になった」である・・・・。
ああ、でもこれからはどうなってしまうのだろうか。
私たちの子どもたちは、20代と30代。
孫は5才にもなっていないのである。
戦争末期には、多くの男性は戦争で玉砕、戦死、餓死。
人は空襲でも多く死に、日本全土ろくに食べるものがなく、
満足な医薬品がないから、赤ん坊は生れても死んだ。
子どもも大人も死んでいった。
それが上記の慄然たる数字になったと、井上さんは書いた。

その運命のワクの中に、みっちゃんが必死のお母さんに守られて、いるのだった。
私たちは1943年生れだから。


2012年8月15日水曜日

閑話休題 -デジャビュ


夜勤が続く息子の、ひるまのごはん
韓国ふうの冷麺のどんぶり
たまごに鶏肉、きゅうりにトマト、小松菜にゴーヤ、紅しょうがと白ゴマ

少しづつのっけてある
きのうは小松菜がモヤシだった
「ごめん、きのうとおなじなのよ、おいしいっていったから」
まー、手抜き
続けて
コップ
どんぶりをドンとおき、ならべてコップをドン
暑い。
疲れた。
「これもおんなじなのよ」
うん
気をつかわなくていいよと
うわのそらの
息子は
おとなしくこしかけ
それから急に
ホントだ
かあさん
これはデジャビュか
と、
オレとっさに思っちゃったもんね、と。

まー、ええと、なにもかも、きのうとそっくりおなじだからね。
ごめんねっ。




2012年8月14日火曜日

生命を想う ①


50才もなかば過ぎて、離婚もし、葬式もやり、親の家を売り払い、自分の家を買い、
子どもたちも一応育ったみたい、つまり一段落したころは、散々な目にあったという
虚脱感でいっぱい。だけどいい気になって不幸づらなんかしたら、全知全能のカミサ
マにすぐさまバチを当てられるという気がしてポーカーフェイス、つまり私なんかふつ
うですからとニコニコしてたつもりだけど、自分の一生分の空虚にむかって。
でも踏ん切りがつかなかった。ばかみたいだ。
鬱病なんていうことじゃないのかもしれないけど鬱的、どうせ死ねやしないのに死に
たくないのに、生きていたいのか本当は死にたいのか、よくわからないのだ。
12才のころ、死ぬ気で、鉄道のわきで電車がくるのを待ったけどけっきょくは怖くて。
以来あきらめてがんばる道を歩いたが問題が片付いたわけではない。そんなことは
誰にもあること、私なんかが文句いうなんてみなさんに申し訳ないのかもしれないと、
言われなくても思うんだけどだからって、これはよくあることだとどんなに自分に言い
きかせても、それでも生きたいと思えないのはやっかいで困ったことでしょ。べつにだ
れにも迷惑はかけてないと思うけど、重荷でしょ自分の。なんとかしなきゃいけない、
いいかげんにしないとみっともない。飽きたし。くたびれたし。

というような気がとくにした時期があった。もう西暦2001年にはなっていた。


私には思いがけないことに、小学校一年生のときからの友人がいる。
私のような生きる力のうすい者に、生涯変わらぬ親友?がいるなんてヘンだ。
その人は毎年、私の誕生日になると、お祝いをしてくれる。
私の希望をきいてくれ、日時をえらびレストランをえらび、お花を渡してくれ、
すごく考えたのだろうプレゼントを、毎年毎年、私のためにさがし・・・。
ほめてくれて、励ましてくれて、感心してくれて、
しかも彼女の夫君もいっしょに付き合ってくれるから、不思議でしかたがない。
この世には本格的に善意の人がいるのかもしれない、サッパリわからない。
そのくせ、私といえば、なんにもしない、おかえしもしない、できない。
うかない顔で、何年たっても、ありがとうと言うばかりだ。
彼女は私の誕生日を忘れないのに、私は彼女のお誕生日を覚え、られない。
なんでそんなに誕生日がだいじなのか考えたことがないし、わからない。
こんなことはよくない、こんな礼儀知らずはないと思っても、どうにもならない。
お手上げ。無気力の標本。

だけど、私たちは、だんだんに、友達らしい友達になっていったのだ。


彼女と私だけだったある6月3日の誕生日、
彼女にきくことにした。
どうして、あなたは誕生日を祝うのか。
どうして、生きるということを、あなたは喜ぼうとするのか。
あなたはなにをどう思って、人間の生命を肯定するのか。
「見ればわかる、あなたって、ハッキリそういう立場のヒトなんでしょうよね。」
本間美智子。みっちゃんである。
両親の離婚で、母親に捨てられたと思う子ども。
継母に精神的虐待をうけた少女。
味方をしてくれない父親との争い。
結婚して三人の子どもの母親になった人。
もってうまれた強靭さと、なおらない欠点と、孤独、けっきょくの楽観主義。
ここまでは、ほぼ私とそっくり。苦しくてもフツウなんだけど、
彼女はそのうえに、脊椎カリエスの結果として障害者であり、
私たちが初めてあった小学校の入学式の時からもうずっと、
差別と侮蔑にさらされて生きてきたのであって。

彼女が人生を肯定し、私が否定してやっていこうなんて。それはナシなのだ。


60年以上もむかしの、私立の小学校の入学式の記念撮影。
はじめてだから、一クラスでも、いつまでもごたごたしてたいへんだ。
お母さんたちのなかで、私の左ヨコに子どもを押し込んで座らせた人が、
「美智子です、よろしくね、なかよくして。いっしょにあそんでくださいね」
強い口調でそう言った。おねがいしますと命令にちかい言い方だった。
初めて学校に来た日だから、いい子でいようとしてるのに、
なんにもしてないのに、グイとおされて「うん」と私はいい、
となりにきた小さな女の子と手をつないだ。
並びましょうといわれて、みんな子どもは一年生用の椅子にこしかけてる。
写真が撮られるまでのあいだ、めずらしくて、その子をじっと見つめた。
紺色の上っ張りを着て、吸ったり吐いたりする息がもうくるしそうな病気の子。
神秘そのもの。蒼ざめた特別。
・・・ごたごたの中になげこまれたおとなしい星みたいな。
その子には私という子どもが必要なんだと、
感じたし、わかるような子だった。

その時は、教室で苗字の五十音順でくっついて並ぶ、弱い子と強い子である。




2012年8月13日月曜日

朝顔


いつだったか
「ご近所を連れて引っ越しができればねっ」
ということばにで逢った
いいことば
なんども思い出す
そう言ったひとの心持ちを思い出せばうれしい
わたしはどうかなと、じぶんの生き方をたしかめたりもする
その人の笑いをふくんだ声や、はにかんだようないい顔
思うことなんかぜったい思うように運ばないのよ、というかんじの
いい人のショウコみたいな苦笑いを、なつかしく思う

あんまり逢えないけれど
どうしているかな
たぶん十年一日のごとく、いそがしくて腹立たしくて
でも、連れていけないなら引っ越さないご近所をつくって
そこからは、考えてみればあたたかいそこからは
動かずにすむ運命で
やっぱり、日々を努力してくらしちゃっているのだろう
そんなくらしは、気働きばっかりみたい
くるくると空しく
どこかへ飛んでいってしまうけど
そうやって年をとるって、あの青い朝顔みたいにいいわよね?



2012年8月12日日曜日

「原子力規制委員会」の人事



最近、原子力規制委員会の委員長になろうとしている
田中俊一氏・67才に対する反対の声を数々読んだり聞いたりした。
国民の大量被爆を招いた「犯罪」を代表する人間の一人。
彼はいま、その件で、
刑事告発および告訴されている身である。
東京地検、福島地検、金沢地検が相次いでこの告発を8月1日に正式受理した。
田中俊一氏が恥ずべき「無責任者」の一人であることは、
いずれ法廷で明らかになるだろう。

テレビ朝日の画面の中で、
田中氏のさまざまな場面での「折り合いがだいじ」「ご理解を」発言のあと、
ある若い女性の言ったことが忘れられない。
「67才のおじいさんにこんなこと言われても」
と彼女は憤慨をかくし薄笑いしながらこう言った。
「私たち、これから子どもを育てようとしている母親とか、
若い人はもっと切実ですよね」

そうだなあ。
原子力を規制しようというなら、もっと若い世代がいい。
切実な立場にある、これから子どもを育てなきゃいけない若い人たちが、
政治権力をにぎったら、
どんなに希望が持てることだろうか。

かく市町村で、中学生や高校生の委員会をつくり、
原子力規制委員会がその意見を吸収することもふくめて、
新進気鋭の若手組織者を国家的委員会に投入するべきである。
若い母親の代表も入れるべきである。
切実で必死な人たちに、原子力規制委員会をまかせるべきだ。
悲劇的な未来を引き受けるのは彼らなのだから。

そこになんの危険があるだろう?
規制の方法を若い人たちが考えることに?
「規制」とは、あばれまわる魔物をもっと新しく作れということではない。
それをしたのは、
そうやって制御不可能とも思える原発の大事故を招いたのは、
歴代の自民・公明、民主党政権である。
だってまだ、あと11の原発をつくる計画だったというのでしょう!

「原子力基本法」で生活してこなかった清潔な人間を、
「原子力規制委員会」の長とし委員とせよ。

フィンランドが教育力で世界一になったとき、
教育改革を断行した文部大臣は30代であった。
もちろん議会の満場一致のあとおしがあってのことだ。
異論や反論はむしろあとになってから出てきた、と読んだ。
それについては討論した、と。

今の日本で原子力を規制するなんて、
そんなことは不可能だと、小出裕章先生は言う。
「原子力基本法」1956年ーがあるから。
これは原子力ドンドンの憲法で、
これが頭上にドンとあるかぎり、
いくら「規制委員会」なんていったって、
この法律に引きずられてダメ、どうせダメなんだとそうきいた。

日本国憲法はいくらでも無視するのに、
原子力のほうの憲法は、日本がこんな無残なことになっても強行。
憲法の精神にかえり、
「原子力基本法」をまず撤廃したい!!




2012年8月8日水曜日

どんぐり


太陽がぎらぎら
にらむ
石畳が熱気を反射
真夏がやってきた
きょうきのうあした
むうっとおもたい
熱気に圧され
風をさがしながら
歩いて
木も苦しむのだろうかと
頭上をあおぐ


木のなかに
どんぐりがいる
沈黙して
別のことを考えて
とうのむかしに
準備をはじめて
どんぐりが、そこに
あおあおと、わかく
あおざめてはいても
しっかりした実となって
たくさんの葉陰に
いる

かれらは
ちがう世界にいる
掟がちがう世界に
どんぐりは
どんぐりは
すでに誕生し
すでに成長し
いきいきと変化し
なにも語らず
運命の日にむかって
疾走している
秋というよりは
むしろ冬をめざして

真夏なのに




2012年8月7日火曜日

遠景を楽しむ私


レストランへ行った。チェーン店ではあるけれど、景色がいいし気持ちがよい。
奥のほうのテーブルに案内してもらい、待ち合わせた友人と向かい合って腰かける。
急な豪雨で、熱くて重たい空気が少しばかりしのぎやすく変化し、
午後の時間はやわやわとゆっくり流れた。

ランチがおわるころ、アンケート用紙が配られ、私も会話のあいまに記入。
アンケート用紙とボールペンの相性がよくて、それもうれしい。字を書くのがすきだし。
こげ茶色とオフホワイトの色調、黄色がかった淡い光線を放つシャンデリア。
天井がとても高いことや、空間がのびのびと広いこと、大きなガラス窓の向こうに
私の場所からは左右同じように配置された緑の木々が見えてとても美しいことを、
アンケートの項目を読みながら、あらためて楽しむ・・・のである。

私は、アンケートによって「態度の如何」を問われているウェイトレスがふたり、
じつに優秀な笑顔で、ふたりの少女に対応しているのを、見るともなく見つめた。
教育がいきとどいている、にマルだ。
テーブルにむかっているふたりの少女たちはそろって白いブラウスを着用。
そろって銀のお盆をかかげた笑顔のウェイトレスに、なにごとかを説明され、
行儀よく頷いている。
従業員の面接がこれからあるのだろうか、と私は想像した。
ふたりの少女も、ふたりのウェイトレスも白い服装である。
彼女たちのうしろにはピンクのブラウスの女の子がふたり順番を待っている。
さらにそのうしろには赤いブラウスの女の子たちがふたり順番を待っている。
その光景は遠く静かで、いかにも整然としたところがあって、美しかった。
こんなにきれいで気持ちのよいレストランだから、働きたいひとが多いのもわかる。
そう思う。私は、雰囲気は「とても良い」にマルをつけた。
「いいわねえ、ここ、デザインがいい。これぐらい広いと本当に気持ちがいいし。」
帰ろうというころになって、友人にたずねた。
「あの人たち今日はこれから面接なのね、きっとね?」
ふたりづつ並んでテーブルについている、白とピンクと赤のブラウスの少女たちのことを
言ったのである。
「面接? どうして?」
なぜだか知らないけど友人が腑に落ちないというふうに私にきき返す。
「だって、ふたりづつ並んで、順番を待ってるじゃない、さっきから。
ウェイトレスが説明に来てたじゃないの、さっきふたりで」
私が説明すると、
ふたりづつ? と友人はあっちのほうに目をこらし、事情がわかると爆笑した。
「ふたりじゃないわよ、あれ! ひとりよ! 鏡に映ってるからふたりに見えるのよ!」

鏡!?

そんなことってあるだろうか!
あの赤も、ピンクも、白も? 女の子たちみんなひとりで腰かけてるの?
「そうよう、もう信じられない、面接とか、そんなヘンなことつぎつぎ考えて!」
じゃあ、えーっ、このレストランって私が見てる半分だけってことなの!?
私はすごくあきれた。
だけど友人は私よりもっとあきれちゃって、
「なによ、それじゃあ、あなたにはずーっとここが二倍に見えていたわけなの?!」
私は聞いた。
じゃあ、あの窓の外の木はこっち側だけ? あっちにあるのは鏡だってこと?!
この冷房のきいた心地よい大空間。
「鏡よ、なに言ってるの、まさかあの木もホンモノだと思ってたんじゃないんでしょうね!」
じゃあ、さっきのウェイトレスがシンメトリックだったのは当たり前なんだ?!
みごとに銀のお盆をふたりで掲げて見せてたけど、ひとりでやってたの?
うそお!? 
「うそみたいなのは、あなたのほうよ! どうもおかしいと思った。
ほかのお店とくらべてさほど大きくもないのに、さっきから広い、広いって言うし!」
・・・えー!? 

アンケート用紙を災害義捐金の箱に入れてしまい、
・ひとり・のウェイトレスがムリに手を突っ込んでそれを出した。
散々だ。私が近眼なのに、メンドーでメガネをかけないからだ。

2012年8月5日日曜日

刺青の毒蛇


電車から降りたら、向こうから、小柄な、七分パンツ姿の外人だか日本人だか
ちょっと判らない男が歩いてきた。
毛むくじゃらというほどでもないが毛だらけの両足に、
それぞれ裂けるほど口を開けた毒蛇の刺青がノタクリ巻きついている。
20代の後半だろうか、彼はおそろしい形相でもないし、服装も少々くたびれてはいるが、
Tシャツはピンク、木綿縞の七分パンツも異様ではない。
強いて気にすれば、まるっきりの手ぶら、というのが変かも。
小柄な人だ。だからこの人は喧嘩を想定、気合で両足に刺青を彫ったのかしら?
それともこれはいま流行の遊び、ただの「タトゥー」であって、洗えば落ちるのだろうか?

彼を見て、以前、お風呂やさんで出合った少女を思い出した。
なぜだか、その少女を、私は二十年たっても忘れられないのである。
暗闇にめずらしく一本の電信柱がふうーっと浮かび上がったり、
木枯らしが自分になんの関わりもない街なかで不意にするどい音をたてたり、
誰ひとり友達がいなくて、することもなく、空白が世の中、という感じだと、
あるいは電車に乗っていたりすると、その面影が宙に浮かんで、そして消えるのだ・・・。

何年も前のある晩のこと、そのお風呂やさんはガランガランに空いていた。
湯船につかると、そこに地味な顔色のわるい少女ががいて、
私が行くと、横向きになりスッと湯船に肩まで身を沈めたが、
乳房と乳房の中央に思い切り口を開いたコブラがこっちに向かって牙をむきだしている。
まだとても若いのにそういう刺青をしている。
ショックだった。
攻撃的なところがまるで感じられないうらぶれた細面(ほそおもて)。
長い黒髪、地味で小柄、
目も鼻も口も目立たない造作・・・。
スイッとタオルで胸をかくして彼女が湯船から洗い場のほうへ行ってしまったあと、
暖簾の横の『刺青おことわり』の貼り札のことを考え、不自由だろうなあと思ったのは、
いかにも目だたない表情と、陰惨な蛇の刺青のアンバランスとが、
私に考える余裕のようなもの与えてくれたから。

もしも私があの少女だとしたら、
毒蛇にどんな期待をかけただろうか。
言われっぱなしの、口答えが許されない環境にいて、
永遠に続くような精神的虐待があって、
その時、胸の、魂の底の此処にある「絶望」の門番に、あのコブラがいてくれたら。
たぶん自分はずいぶん気強かったろう。
弱者であるだけでなく、いつか虐待するやつから堂々と逃げてやるという、
希望にもならない希望をまだしも、私は持てたかもしれない。

・・・・黙っていても考えているのだ・・・・
そういう詩句があったのは、新宿の古本屋で買った朝鮮詩集の中だったか。

ああ、なんとかして、そんなふうにけっきょくは自分を痛める方法ではなくて、
虐待が内なる虐待をよぶようなことではなくて、
先生がいたり、友人がいたり、近所にただもう優しい人がいたりすれば、
とそうは思っても、
刺青の蛇をつかって、黙ったまま、ひそかに相手を喰いころしてやると誓う、
そういう、相手には届かない抵抗。
そういうことしか思いつけないほど弱いということが私たちにはよくあるではないか。


2012年8月2日木曜日

映画「死刑弁護人」


「死刑弁護人」という映画をご存知だろうか。
東中野駅前のポレポレとかいう映画館ですこし前から上映している。
(毎日、よる7時と9時、8月15日まで上映  tele03/3371/0088 )
私はきのうひとりで、もう一度なんだけど、見に行った。

安田好弘弁護士の活動と生活を追うドキュメンタリー。
制作/東海テレビ。監督/斉藤潤一。

私がこの映画を二度見たわけは単純である。
安田さんの、実に気持ちのいい容貌や姿、
どんな時も変わらず落ち着いて返答しかえす姿を、
もう一度見たいから。
安田弁護士のような人といっしょに、同じ時代を生きられてうれしい。
今を生きる理想、それが安田さんだと思うから。

裁判官の前でも、彼を鬼畜とまでののしる群衆の前でも、
その場かぎりの正義感をふりかざす巨大マスコミの口撃にあっても、
どんな時も、安田さんはおなじだ。
弁護士という職業の、倫理と論理をかけて戦うその姿に、なんの動揺も無い。
映画を見ているとそれがしみじみよくわかる。
なんてたいした人なんだろう!

弁護を引き受けた被告人が処刑された時、
あるいは首をつって自殺した時、
命と、遅ればせながら詫びようとしていた不運な日本人の思いを、
自分の不注意な戦い方のせいで助けられなかったと、
そういう・・・悔恨と反省を、彼はおどろくほど隠さない。
そこになんの壁もない。
「死刑弁護人」とは、時には政治のからむ複雑な仕事だが、
安田さんは怯むことなく引き受け法廷で戦う。
自分のためじゃない、被告のために。

検察の謀略で安田弁護士が起訴され収監されたとき、
安田さんには1400人の弁護士がついた。

映画「死刑弁護人」で語られる事件の数が多いので、
最初、私は茫然としてしまい、ドキュメンタリーとしての価値もなにもよくわからず、
ただもう安田好弘弁護士の姿に魅せられるだけだったのだが、
二度みたら、やっとよくできた映画だったと落ち着いた。

第66回文化庁芸術祭テレビ・ドキュメンタリー部門優秀賞受賞。

ナレーションが山本太郎さんだったのも、うれしい。
がんばれ、山本太郎!

2012年8月1日水曜日

すごいウソ


デモに何万人が参加したのか、
7月30日の新聞を読むと、主催者側発表、デモと国会包囲あわせて20万人。
それが警視庁関係者発表では、それぞれ1万2千5百人。
すごく気になる。

60年安保の昔も、警視庁と主催者側の発表は大幅にちがっていた。
あのころマスコミは、警視庁の発表のほうがホントかもしれないと国民に思わせた。
いつまでもいつまでも曖昧な発表に終始したのだ。

ところが昨今はちがう。
7月16日の17万人デモについてなど、主催者側発表を優先する報道が多かった。
カンパでやとったヘリコプターの空中撮影が、ウソの発表を許さないのだ。
新聞もテレビも、すぐ判ってしまうウソなんか、もう、つけなくなっているのだ。

「17万人デモ」があった7月16日、
NHKは夜のニュース番組で、デモも写したけど、神奈川県茅ヶ崎海岸の夏祭りも報道した。
驚いたのなんの、おなじみ警視庁関係者の発表だと、
茅ヶ崎の海岸に集まった人数と、代々木公園のデモ参加人数がほぼ同数。
そんなあ! 画面をみたって、人数がまるでちがうじゃないの!
いったいどっちが警察としちゃ真実のつもりなのか。
NHKのニュースってなんなのか。

デモのほうは、主催者側発表から警視庁発表を引いたら、10万人になった。
警視庁って、デモを10万人も少なく発表して、平気なんだ?
しかもそれが、最近だんだん極端になってきて、
7月29日夜の抗議行動の場合など、17万人以上少なく発表している。
まともな人間たちの破滅が迫っているようで、なんだかゾッとする。

人間なのになんでこんなひどいウソをつくのだ。
警察のなかには、こんなウソはいけないと上申する人はひとりもいないのだろうか。