2013年12月31日火曜日

大晦日のくくり  ⑵


ひとつ手紙がとどき、ひとつ電話がかかる。

とどけられた達筆のメモ書き。凝った用箋で、川上澄生の絵がこういっている。
大勢の顔は塵芥の如く流れ あなたの顔のみ 
花の如く ああ花の如く 夕暮れの街に明るい
川上澄生展の帰り、会場でこの地味な用箋を買い求めた彼女のすがたを想像する。
・・・ねえ、あなただって私だって、だれかのことをそう思っているのだと、
知っている大勢のだれかさんに伝えられたら幸せね。

でもメモ書きの達筆はこう語る。
今年もあと一日。結果的にひどい一年でしたね。
‘靖国’のおまけまでついちゃって。

30日のテレヴィジョンは、安倍首相の大はしゃぎを大々的に映しだした。
東京証券取引所納会でのあられもない喜びように呑み込まれて、
TVの画面に違和感しか持てないやつなんか、
極貧ひねくれ少数派、生まれついての「負け組」だぞとそういう感じ。
そんなことを見ているひとりひとりの人間に思わせるなんて、
テレビって毒をはらんだ蛾なんじゃないの。

一年で株価56%上昇。41年ぶりの高水準。
なにをどう売り買いし、だれをどう働かせて、年間上昇率が五割を超えたのか。
それを今ここで問題にするのは無粋でしょうがという、あの人この人の顔が浮かんじゃう。
日本って、ものすごい雰囲気。

さて。
別れた夫の同窓生だった人から電話。夫の誕生日をたずねられた。
知るもんかというわけにいかない。天皇誕生日と同じ日なんだから。
ああそうか、4月29日ね、と応答されたのがおかしいでしょ。
ちがうわよ、それは昭和天皇でしょ、皇太子さんとおなじなのよ、とついタメグチになって、
笑ってしまった。ははははと、電話の向こうもおかしそうな声になった。
明治は遠くなりにけりではなく、昭和がかくも遠いものになってきてしまったのだ。

彼と友人夫妻と3人で、所沢の欅ハウスを訪ねてくださったそう。
移転後のもと夫の状態は、まあ微妙。
そんなにものごとってうまくいくはずもないものねー。

11月。私は別れた人の遥かむかしの学校友達ふたりと関内駅で待ち合わせ、
徹底的にギロン?をした。
忙しいのにわるいと思ったけど、相手になっていただいたのである。
誰でもそうだと思うけど、人間・生活・歳月が、よくわからなくなっちゃったからである。
その時の質問(私)に対する回答(彼ら)が引っかかりながらも胸に落ちて、
以後、精神的な舵取りを落ち着いてするようになった。
夫の友人であって私の友達じゃないのだろうけど、文字どおり有難くって。
ひとりは芸術が専門、ひとりは政治が専門で、ながいあいだの友人同士。
人間としては、感覚的と論理的、それで各々率直。凄みがあるけど怖くはない。
もうなにもかもイヤになったと喰ってかかりたい気分の私にとって、
絶好の直接解答者という感じ。教育的なのだ。
結局、これからは好きにしろと言われたけど、
「人間は哀しいものなのだ」と芸術専門じゃない人のほうが引導を渡してくれた。
ビックリもしたが、自分としての整理もついた。

ひどい一年のなかにも、幸運は数えればたくさんあるものだ。
花の如く ああ花の如く 夕暮れの街に明るい
そういうに折にふれて会うことができ、与えられたものが大量な一年だったと総括したい。
みなさんに感謝して。


大晦日のくくり ⑴


もう一年が終わってしまう。
今年は小さな会を三度主催。
アンパンマンのやなせさんの老後の著書をたくさん読んだのでマネしたくなる。
「まったくもう、なにをやっているんですかね」

とくにはじめの会は図々しくって、私の知人に強引にあつまってもらった。
目的は簡単、異なる世代の文化交流である。
タケシと西村さんが音楽、中さんとみっちゃんが朗読、エドワードさんが英語で童話。
終了後の打ち上げでは、中村さんの高砂、三國さんの俳句が披露された。
思いがけないことで、みんなが愉しんだことと思う。
大きくもない家に、30人!! 野田さんあっての大飲食大会だった。
輪切り教育システムへのささやかな抵抗のつもり。

二つ目の会は、東京新聞の野呂記者に原発について質問してみよう、という会。
細田さんと小林さんが、会場のあんばいに終始気をつけてくださったのが、
しみじみうれしかった。電気関係がとくに最近は苦労なので。
この日の打ち上げは近くの小料理店で。
野呂記者に細田さんを紹介できたことがすごくよかった。
後日、細田さんの戦争体験が東京新聞「こちら特報部」にでかでかと掲載された!!
私って細田さんのファンなのだ。
細田さんの一生、細田さんの気質、無邪気と優秀の混合、
気短かな啖呵、卑怯じゃないこと、不正直じゃないこと。
そんな日本人とおなじ団地の住人だなんて光栄だ。
だからもう是非ぜひぜひ新聞に取材してほしい。
いろいろな人に細田さんを知ってほしい。
と思ってたと言うとヘンかしら。

それから初めて朗読の発表会をひらいた。
きれいな、いい会ができた。
幼稚園時代のお母さんたちがバザーをやってくれて華やかだった。
萱野さんと籠浦さんの朗読を聴いて、泣いた彼女たちの友人がいる。
「こんなに成長したなんてすごいと思う」 といいながら泣いているのである。
・・・音楽的な魂が、むかしからよくみえる、少女のようなお母さん。
すくなくとも朗読の先生としてはいちばん嬉しいほめことばじゃない?
度胸を決めて、人前で朗読をしてしまう。自分を投げ出す。なにかに賭ける。
そうやって自分で開放の階段を上る。
そういう経験をみんなにしてもらえることが、隠れた誇りである。
それにしても、富田さんと三瀬さんは練習する前から上手。
よかったけど困ったというか。
こういうヒトが時々出現するからセンセイやってる私なんかタイヘンだ。
教える、それがセンセイなんでしょ。
ところが彼女たちは上手。
なにひとつ私なんか言えることがないんであーる。



2013年12月30日月曜日

師走


クルマに乗ったら、ナヴィゲーションの機械?がすぐ消えてしまう。
工場が近いので立ち寄って理由をきくと、電源取り付けミスである。
工場側の人がやったことだと確認できたが、相手は複雑な表情をするだけ。
スミマセンでした、と彼女が謝ってしまったら責任問題が発生するのだろうか、
何だか知らないが、責任責任責任、という文字がチェーン店を駆け巡っているのだろう。
やだやだ。

タケシのギターが壊れた。買ってまだ半年ぐらいか。
有名メーカーの何万円もする高額なギターである。
ギターのボディーの表面が剥がれたというめずらしい事故。
保証期間は一年だから、ライブハウスリボレ近くの楽器店に運んで、直してもらおうとした。
秋葉原である。
何日かたってその店から電話があり、感じのいい店員が修理費に8300円かかると言った。
「だって保証期間内なのに」
たまたま電話にでた私があきれてたずねると、
店員もそう思うらしく、おおもとクロサワ楽器に電話してみると言い、
「持ち主が自分でどこかにぶつけて表面が剥がれたのだから」
というのが本社の返答だったと申し訳なさそうに言うのだ、再度連絡してきて。
木製のだいじなアコースティック・ギターである。
過激な演奏でふりまわしたというのとはちがう。
そんな大それた損傷をつけたのなら、修理を頼むとき、本人が当然申告する。

修理費は5300円、取次代が3000円。
まるで納得がゆかない。
ギターの表面が剥がれるなんて。それを5300円で貼り付けると無事再生?
しかもなんで保証外なのよ。
なんにでも当たり外れはあろうけれど、楽器店は不良品を売ったのである。
取り替えてあたりまえと思うけど。
取次の電話代を3000円機械的に取るという商業道徳だってまずおかしい。
まわりの人は玄人、素人みんな、楽器店の店員までもが、
そういうもんだ、だまされたんだ、運が悪いんだ、抗議しても無駄だと言う。
いわゆるガセネタをキミは買ってしまったのだと。

このガセネタ商品に対する社会的制裁装置は、むかしは消費者センターだった。
被害にあった者が電話をかけて売り手の不正を申告し、野放図な商業行為にタガをはめる。
あんがい親切な担当者が多く、頼りになる組織だったと思う。
ところがこの組織を、レンボウとかいう国会議員が中心となって、省くことにしたときく。
税金の無駄を省くという名目であっちも切り、こっちも切り、大騒ぎし、
どさくさにまぎれて、庶民の被害救済組織を大幅にカットしたのだ。

しょうがないって。
しょうがないってどういうことなんだろう。
もう本当にイヤだ。
どうして日本はこんな国になってしまったんだろう。
そういう受け身そのものの弱者の叫びのなかに、のみこまれてしまう自分たちが、みじめだ。

こういう口惜しさの根本には、国家がだれの味方かという問題がある。
なぜこういう時に、消費者救済センターが東京の区役所や市役所にないのだろう?
国家とは税金の運用を国民に委託された装置である。
アメリカ人マイケル・ムーアのドキュメント映画「シッコ」をなんとかぜひとも見てほしい。
この傑作は有名だから、いつだって、貸DVDがどこの店内の棚にもまだ並んでいる。
「シッコ」はつまるところ税金について考える映画である。
アメリカの健康保険について、学費について考えながら、おかしいおかしい、ほんとかよと、
ついには弱者とともに(アメリカ 9・11の消防夫や病人なのだ!)
カメラ・クルーをつれてキューバまで出かけてしまうマイケルがすごい。
だってキューバはあんな小さな貧乏国なのに、学費は無料、医療費だってただ同然、。
キューバだって税金なんでしょ、そういうお金の出どころは。


ユーツなので、ナヴィが治ったところで、横浜市関内まで。
大桟橋や関内の街並をぶらぶら。
美しいところだった。
元気を出そう。
きれいな街で、目から心を洗って。





2013年12月29日日曜日

くぼきんサークルの朗読 12・19


たそがれの時は良い時・・・と少女のころ詩集で読んだけれど、
そんな風合いのしっとりとしたよい朗読を数々きくことができた。
今年最後の集まりではあるし、うれしいことだった。

サークルが誕生して、おさだまりの紆余曲折も当然あったけれど、
こんなふうにのびのびと、ひとりひとりの屈折が好ましい個性として朗読に生かされれば、
もう上手も下手も問題にならない。下手はヘタウマ、上手はイイゾである。
聴いているだれもがそう思うのだから、あーら不思議。
表現ということの究極の目標はーなんていうと偉そうだが、教育の目標と変わらない。
その子なりの感性をだいじにすること。子どもの自己実現のお手伝いをすること。
多面的な考察とともに。人間の幸福はそこからだって思うから。

私の今回のお気に入りは「そぼくな恋」かな。
サトウハチローである。
朗読者はお孫さんに絵本をよんであげたい、というのが朗読の会参加のきっかけだった人。
絵本を読むように、彼女は恋知り初めし時の心を詠む。
それってすばらしい。
なぜならその初恋を想い起こそうとする彼女の朗読には、子ども心がそんまんま残って、
そのセンスのよさが、いかにもなつかしい気持ちをみんなに起こさせたからである。
世相にふりまわされ、素朴を忘れ荒れてしまった私たちみんなの気持ちを、
彼女の素直な、いわば訥々とした朗読が、すがすがしく癒したのである。

印象的で忘れないのは「男の気持ち」という新聞への投稿、「悔恨」の朗読。
93歳の妻を見送った一周忌に、91歳の夫が書いた文章である。
九月とあるから、強い印象を与えられたからこその、朗読者の選択だろう。
さまざまな本を多読する彼女らしいこだわりが実って、興味深かった。
人は哀しいものだという、凍るような大正生まれの男性の詠嘆を写す、悩みの多い声。
もともと個性的なので、彼女の選ぶ作品はごろごろと聞き手の気持ちに引っ掛かる。
そこがいい。理解されにくいが、理解を要求する朗読なので、
否応もなく、聴いている人たちの守備範囲が拡がる、教えられることが多いわけである。
俳優ではない生活者の朗読は、選択いのち。
この日の「悔恨」の朗読は、
愚かで侘しい苦悩を、実感として、私たちに伝えるものではあった。

「エプロンで」は岡部伊都子のエッセイ。
なんということもない昔懐かしい大晦日のおんなの心がまえを書いたものだけれど、
詠み手の声音やいっぷう変わった風情が、この短い風物詩にピッタンコ!
この人は半分、耳が聴こえないのだという。いつも慌てふためいて遅れたり早すぎたり、
テンポが人とズレているんだけれど、最初のころ、ゆっくり読んでゆっくりと頼んだら、
それからというものがんこなほど「ゆっくり」に専念。
そして、そうなったら何を朗読しても生まれついての語り手のよう、本当に素敵なのだ。
味があって、飄々として。
私はみんなに彼女の朗読の真似をしてもらったんだけど、
だーれもうまく真似ができなかった。
みんながクビをひねって、こまってコロコロ笑ってしまっていた。

「原子力」大いなる錯覚、
新聞投稿欄に掲載された主婦の文章を主婦が朗読する。
しみじみ、もう本当にしみじみ、反原発運動のなかにこういう声音が見えていたらと
思わずにはいられない朗読だった。
なぜなら、きけばきくほど普通の遠慮ぶかい日本の女性の声だから。
笑顔がいい人である。あんまり「いい笑顔っ」なので、どうしてときいてみたら、
「おまえにはなんの取り柄もないんだから、いつも笑顔でいなさい」
父親にそう言われて育ちました、というお返事がにこにこもどってきた。
・・・それでその通りにしたら、こうなるの? なんてうらやましいんでしょう。
低めのおだやかな、日常が朗読のすき間から見えてくるような主婦らしい声だ。
ゆっくりと、表に出ない幾百千のおんなの日々の想いが、朗読の下敷きになっている。
朗読教室の愉しさは、こういう表現にもあると思う。
含羞(はにかみ)は生活者のもので、
そのせいか、俳優がつい取り落とす現実感を、スイスイと、らくらくと表現してしまうのである。

鴨長明の「方丈記」を詠んだのは、介護を仕事にしている女性であった。
のびのびして朗らかで論理的。朗読しようと選ぶ作品もいろいろ。
朗読をしているあいだ、なんで彼女が「方丈記」を、と私は考えたけど、
・・・私の大学時代の友人が自動車に跳ね飛ばされてタイヘンなことになってしまった、
そのお見舞いに伺ったときのことである。
彼の言語療法訓練を奥様が見学できるように計らってくださって、
「ういろううり」と「方丈記」を病人が朗読した。
「方丈記」をぜひ朗読したい、これが僕の今の気持ちです、と苦労しながら彼が言う。
去年の冬なんの罪もないのに、首から下、両手も両足も動かなくなってしまった彼である。
言語療法では発音だけを問題にする。
朗読は、一方文学的なものである。
私はサークルでの彼女の朗読を思った。
たとえば離婚してすべてが灰塵に帰してしまったおんなが、自分に正直なもの言いで、
「方丈記」を詠んだとしたら、どういう朗読になるのだろうか。
彼女はあの時たちまち切り替えて、いわば演劇的に「方丈記」を朗読した。
やりきれない、怒りにみちた、投げやりともいえそうな「方丈記」であった。
坊さんの説教みたいな朗読をしないって、そういうのもありでしょ。
言語療法訓練中の彼にも、そう思ってほしいなと。

コカリナを吹く人がいる。
コカリナ的音声の、少年のように硬いまっすぐな声が、いつ聞いてもすっきりと気持ちがいい。
みんなこの声が好き。サークルのよさは、こういうところにあるのかなと思う。
「人間は長所をのばすことでどこまでものびてゆく、短所をあげつらっても悪くするばかり」
とは名優北林谷栄さんが考える顔をして言ったことだけれど、
長所も短所もすごく部分的なもの、これで合格というわけにもゆかない。
だから、つい自己嫌悪に負けてくよくよしてしまう。
コカリナに導かれて、あっけらかんと彼女が朗読する「双子の星」は、
いわば棒をのんだよう。どこまでも硬い。
この硬さ、硬質であるということ、気骨のようなもの、不器用なまでの。
それこそが宮沢賢治的なのかもしれないといつも思う。
コカリナはたくさんの音は出さない。
木や土や、太陽のにおいや、吹く風の気配を伝えるだけだ。
そういう素朴で、自然で、懐かしい世界を、彼女はちゃんと体現しているのだ。
それは宝だって思う。
だれにも見えないその宝を、小さいサークルは少人数だからこそ、
個性として、かけがえのないものとして認められるし尊重もできるわけである。

「風に立つライオン」は、恋の上に「生きる目的」を置いた青年の心情をうたう。
さだまさしの物語詩である。
律儀な朗読者が【鑑賞】という一文をそえて提出した。
この物語詩を朗読する彼は、従来技術畑の人で、退職して、大病もして、
これからは今までとまったく違う生き方をしたいのだという。
みたところ心が緑の野原のよう・・・。
クローバーの柔らかい緑がつやつや光る野原のような、初老。
真似できないなと私なんか羨ましい。
俳句をつくっても、蕎麦打ちをしても、朗読でも、
きっちり取り組んで、しっかりものにして、仲間にもぜひ楽しんでもらいたいと彼は思ってる。
「風に立つライオン」
技術屋で人間のことはわかりませんという彼の【鑑賞】を読むと、
おっしゃる通りのタイプなんだ正直だと、愉快になって嬉しくなっちゃう。
おかしくなっちゃう。
私などは逆の欠点だらけ。心のありようでしか「風に立つライオン」を追跡しないが、
彼は自動車を分解するように、この物語詩を解析。物語の起承転結の具合不具合を考え、
『現代日本人の、心の不摂生の為に過剰にしみついた魂の脂肪の対する警告』かも、
と結論づけたりするのだ。・・・それはその通りなのよね、やっぱり。
感心するのは、途方にくれた顔でその月の朗読の課業を見送りながら、
一か月後、つねに見違えるように彼が変化していることだ。
たぶん律儀に噛み砕いて咀嚼もして、モノにしちゃたのだ?
私はねー。社会人の学びとはこういうこと、「そこでふたたび生きる」ことだって思う。
春の風が楽しく吹く野原のようにね。

2013年12月22日日曜日

F.B.Y というライブ


吉田くんが歌うのは初めて、と誰かが言っている。
JR大塚駅徒歩2分。心細いようなビルディングを五階まで上がった狭い廊下。
音楽スタジオの前に7、8人ぐらいが集まっていたろうか。
私はオーバーをライブのあいだずっと着ていた。寒かったんだと思う。
でも、思い出すとぽかぽかと暖かい気持ち。

3マン企画。吉田将之と、バーンと、fruit and veggies。 

廊下の古い椅子に腰かけて、開場を待つあいだに、
ジンにCDをつけて500円なんてと驚いて心配する声が聞こえていた。
プログラムのことをジンと思わないから、飲み物つきなのかしらと不思議な気がしていた。
ビールじゃなくてジンをだすの?と勘違い。
来て待っている若者の顔がなんとなくわかるようになったのに、
腰かけで人のうしろからライブを覗くだけの10年だったから、
私はイロハがのみこめていない。

吉田君はニコニコしている。
私のことを知ってくれているのだ。
私も彼をどこかで見たことがある。さてどこだったのだろう?

彼の女の子だか男の子だかわからない表情の動かし方は、めったにないものだ。
どうも違和感があるんだけれど、あんまり好意にみちたきれいな顔なので、
女の子のような男の子のようなその顔に降参してしまう。
たまご型の白い顔。
紺色のカーディガンは白い水玉模様で、この人はピエロ志向なんだろうかと想像する。
ギターを持って歌いだしたら、ポエティックな風情にとても心を打たれた。
炭鉱の坑道から地上のさらにその上の上の蒼空を見上げるような。
あんまり上を見るので、白目がひっくり返って、まつ毛が目玉に逆さにかかっている?
そんなすごい顔が天使のように見えたりするのでホッとする。

歌がまたすごくよかった。

私は彼のつくったプロテストソングに感動した。
彼の歌は、余すところなく私たちの身の置き所のなさや、
絶望とはまた異なる果てしない失望を、そしてまた努力して手に入れた輝く小さな喜びを、
なかなか怒りに収斂されてゆかない、もどかしい憤怒を、
無理なく、しかし非常にはっきりと表現していた。
あの、めずらしいほどの、果てしもなく明けっ放しの好意。
放浪芸のようなズダボロの強靭さ。
彼はそのほかに「ディエゴ」という支離滅裂な?歌をうたった。
ディエゴのタケシが今までに歌った詩句を羅列したそのみょうちきりんな歌は、
私なんかには判然としないタケシの本質をよくとらえて、
時にはタケシよりタケシらしいのだった。

(ジンを休憩時間に読んでみたら、この日のライブは勉の「ステイ・フリー」パン店の、
三周年を吉田くんが祝ってくれた、そういう企画だった。みなさん、本当にありがとう)

バーンの音楽に酔いしれるような演奏も、大学生だという二人の可愛い女の子の演奏も、
ちょっと主催した人にかなわないような、それがまたすごく心地よい夜だった。
お客がみんなゆっくりオンボロ椅子に腰かけて、必要なとき手伝ったりして。

・・・ルーマニアのルビー色したホットワインを飲んだ時みたいな夜だった。



2013年12月13日金曜日

身の置き所


窓の外から風の音とアキニレの落葉の音がきこえてくる。
アキニレはカラカラ、カラカラと美しい音をたてる。
アスファルトで舗装した地面を風が舞うと、
黄色くて小さな葉が無数に、小鳥の群れのようにそろって、
舞い上がっては落下するのだ、あっちにも、こっちにも、煙りみたいに散らばって。

おとといの夜中
私はうちの中で段ボールの箱に引っかかって躓いてしまい、
アッというまに上体をひねり、
バスター・キートン的?にひっくり返って転び、
気がつくと気絶はしなかったものの息ができない。
どこかなにかでしたたか肋骨を打ったのに、
私に突き当たった家具がなんなのかさっぱりわからないのもおかしなことだ。

肋骨座礁。
痛くて痛くて、だけどべつにこのまんま死に至るやまいになるはずもなさそう。
ぶつかってひねったところがおっそろしく痛いだけ。
一日一錠の痛み止めが朝のんで夕方効いてくるらしいのも解せない?
薬がきいているのか、よくなりかけているのか、なんともよくわからない。
予定をかたっぱしから中止して、むりやり横になると、
これはこれ、それはそれ。

風と葉っぱがアスファルトにあたって空に上る音がきこえる。
私の家は公園に隣接しているので、
秋になるたび風に吹かれて舞い上がる小さい小さい葉っぱがうらやましくて
立ち止まって眺めたものだっけ。


2013年12月4日水曜日

石破幹事長のブログ発言


11月29日付の石破茂氏のブログ発言を読んだ。

 今も議員会館の外では「特定機密保護法案絶対阻止!」を叫ぶ大音量が
鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような
主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静想を妨げるような行為は
決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を
広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない
ように思われます。

国会をとりまく人々の前に挨拶に出てきた小沢一郎氏を見たことがあった。
原発再稼働反対を叫ぶ全国規模のデモンストレーションの日だった。
小沢さんが姿を見せたことをデモの人々は喜ぶ様子だった。

いろいろな党のいろいろな議員が、国会の分厚いコンクリートの中から群衆の前に現われる。
それは自分の主義主張を人前にさらすことだ。
反論を恐れず、多少とも、自分の目で見て耳で聴こうという態度だ。
家来を使わず、自分の体を張って考えてもみる、という姿である。
そして、それはやっぱり国会の内側と外側を結ぶ行為なのだ。
主義主張のロボットではない人間がそこにいると、みんなは安心する
 
 
 
大音量が人々の静想を妨げるって。
国会周辺に、2011年からどうしようもなく続く「大音量」があれば、
その理由を真正面に受け止めて、とにかく議論検討するべきなのである。
だって国会は、国民に信任された議員の「仕事場」なのだ。

大音量は、くりかえし、
原発稼働に反対し、汚職に反対し、戦争に反対し、権力の秘密主義に反対している。
汚職に賛成、戦争賛成、原子炉商売繁栄希望、情報不自由化希望であるなら、
出てきてそう群衆を説得すればよい。
議員となったからにはそれも仕事のうち、静想が仕事ではないのである。
国会議事堂駅前は、軽井沢や箱根の別荘地とはちがう、民家周辺でもない。
仕事場なのだ。沸騰する民主的議論の場なのである。
それなのに国会のまわりは、
雨の日、風の日、制服私服の警官だらけ、装甲車だらけじゃないの。
 
 

国会周辺の公孫樹(いちょう)の木は、トシの割に貧相不揃い、気の毒な有様である。
9・11アメリカの頃か、枝を取り払い、警備の警官ばかりがやたら目立つ時期があった。
あのころは見るも無残だった。
テロリストを警戒してのことかと図書館に行く途中、げっそりしちゃったのを覚えている。
なんて自信に欠ける佇まいだろうか。
公孫樹は百年もたてば堂々たる景観をつくる美しい木である。

背中のイチョウが泣いている

1970年のころの東大の戯れ歌は、東大のイチョウ並木の見事さが下敷き、
造園設計師たちのたゆまぬ仕事の成果が威風堂々のイメージとして
組み込まれていたわけだが、
イチョウは今度こそ、背中で大っぴらにめそめそするにちがいない。
わが国のほかならぬ国会を飾る街路樹だというのに、
大きかったり小さかったり、スカスカで、日本文化の影もない。
情けないなーと思えてならない。

 
 

2013年12月3日火曜日

こんな時は俳句でも・・・


22時35分にゴミの袋と手紙をもって外に出た
ゴミは団地の金網のゴミ置き場に前もって捨てるのである
手紙はポストに放り込むのである
夜は緊張して藍色、シンとしてかおりのいい冬だ
アキニレの落ち葉をふむ道がグリコのおまけみたいに楽しい

外灯がほわりと暗黒をやわらげ、むこうのほうでは、メタセコイヤが燃えている
メタセコイヤは冬がくると赫赫煉瓦色になって大気をかきまぜる
夕焼けに似合う、赤信号に映える、真夜中の今は外灯と腕を組んで
消防署のダンスパーティーのよう

不意にだれかの家のドアが開く、うわあたいへん、飛んで出てきた青年が、
「なんですか、なんですか、御用でしょうか」
私の周りをニコニコ、丁寧にくっついてまわるじゃないの
ビックリ箱みたいなのでこまるけど
急に現われた彼にぶつかって、「アッしまった」と私が叫んだからか
・・・私ときたら、さっきからメタセコイヤの赤い色のことばかり考えて
ゴミ袋を手にゴミ置き場の金網の前を通りすぎ
重いゴミ袋とふわふわ歩いて、
そのまま角もまがって石の段々も降りて、バス停横のポストまで行くつもりだったみたい
ゴミ袋といっしょに。

それがわかったんだかまるでわからなかったんだか、
青年はぴょんとキツネのように飛んで気合を入れると走って行ってしまった
私は泥棒じゃないし徘徊人でもないし、・・・君はジョギングなのよね真夜中のね
猫はいないかな・・・、猫はいないよと思う
10年以上この団地に住んで、今も見知ぬ青年に出会うなんて
出会いはしてもすぐさま分かれるなんて
今晩はきっと自然で楽しい夜なのだ

ポストまで行く石段は銀杏の葉っぱのせいでバターを塗ったパンみたいだった
きれいだけれどよろしくないね。
ふかふかして、すべって、星のようにも淡い黄色だけれど私が落っこちそう。




2013年11月27日水曜日

映画 「きつねと私の12か月」(仏)


昨夜、私の家に瑞々しい長ネギときれいなサラダ菜を届けてくださった方が、
「金曜日に、とうとう国会へ出かけてきましたの」とおっしゃった。
きけば政府は来週にも「国家秘密保護法案」を参議院で通すそうだ、
もっぱらそういう話でしたよ、
と本当に不安な表情。
どうしてこんなに反対の声が多いのに、あからさまに急ぐのだろう? 
今すぐ圧しつけたいこと、どうしても早く隠したいことが、日本政府にあるかのようだ。

こんな時、フランスの子ども向けの映画を見ると、
本質に決して届かないものの考え方が
いつのまにやらしっかり身に着いてしまったなあと思う。
「拙速」ということばが今や大流行だが、
国民はあげて急ぎに急ぐものの見方考え方だ。
ゆっくり考えるなんて素質は、もう私たちの体内には無いのかもしれない。
だからこそ、こういうことをする政府をけっこうな数の人がすんなり選ぶのかもしれない。

「きつねと私の12か月」では、時間がもうゆっくりと流れて、
慎重に用意された美しい映画の出来上がりなのだけれど、
そう思いながら、つい貧乏ゆすりでもしそうな自分が少しばかり情けない。
きつねと友達になりたいし子どもの努力がタイトルの通り12か月つづくと、
主人公の可愛らしい少女の根気と情熱と忍耐は、時に、にくらしくなるほど。
私などかえって落ち着けないのである。
名作か、迷作か。
うーん。

ただね。
友情とはけっして圧しつけてはいけないものだ、
そんなことをしたら、相手が不幸になるだけ、敵対するだけ、
子どもときつねも、大国と小国も、民族と民族もね。
それは短時間では身に着かない重いことだという、
フランス児童文学界の作劇態度は、やはり好ましい。

2013年11月26日火曜日

マラジェーツ山本太郎


朝刊に、スパイ防止法に当時反対(元)自民2氏という見出し。

白川勝彦氏は、もと国家公安委員長。
杉浦正健さんは、副法務大臣で官房長官だった。
ふたりとも弁護士。いわずと知れた自民党。
国家機密保護法案に関するふたりの意見を、朝刊の見出しで拾うとこうだ。
国民の「暴く権利」守れ が白川氏。 
秘密41万件 多すぎる が杉浦氏。

私は、法律や政治むきの記事が苦手で、どうしようもない。
それじゃこまると思うので、集会があれば出かけようと心がける。
自分の意見は?と思うからだ。

むかし、国家公安委員長だった人まで、
「最大の問題は、秘密に近づき暴こうとする国民が罰せられる規定だ。」
「最も罰せられやすくなるのは国会議員だと思う」
「議員に反対の声が増えないのが不思議だ。学者やジャーナリストはもちろん、
官僚だって処罰される可能性が高まる。」
と言うほどコワイ秘密保護というもの。

じぶんは特定秘密保護法をどう考えるのか、
その根拠をさがし、じぶんなりの筋道で考えてみたい。
筋道だとか、感想だとか。引っかかりができれば、新聞も本も読みやすくなるというものだ。
理解する私なりの手順である。

さて、木曜日の夜だが、
檀上に思いがけなくも?山本太郎が飛び出してきた。
いろいろ言われている青年である。
天皇に手紙を渡したあと、
ナイフが届き、銃弾が届いたとなにかの見出しで読んだ。
手紙を受け取ったお方は、しかし彼に同情的好意的であられたとか。
うれしいことである。
もともと手紙を渡したって危険じゃない人しか、宮内庁だって選んでないでしょ?

顔の右側にペタンと大きな丸い禿げが白く見えた。
整った顔立ちなのに、むかし見た喜劇の丁稚どんみたい、と思う。
彼を迎える会場の雰囲気は複雑。
疑り深い、興味深い、共感、反感、とまあぐちゃぐちゃ。
「みなさん、元気ですかーっ?」
山本太郎が叫ぶと、人々の気持ちは曖昧模糊に迷って波のように揺れるのである。
民主党は彼をどう迎えるのだろうか?
共産党は? 社民党は? どう考えるのだろう?!
今日は日本弁護士会の後援、各党反対国会議員が檀上であいさつ。
弁護士、法律学者、平和団体の代表、文化人の落合さん、
山本太郎は一人党よね、参議院議員だから演説するのか・・・。
そんな感じ。

彼は反・原発、反・国家機密保護法案。
非常にハッキリしたその姿勢が大勢の人に支持されて国会議員になった。
でもそれがマユツバだったら? 売名行為だったら?
そういうさざ波。どことなくなんとなく。
それがパラパラと好意に変わっていくのを私はながめた。
「・・・とにかく元気だよな?」
筋金入り左翼ふうのおじさんが、ふふふっと笑ったりして。

あることないことヤリ玉に挙げられ、売名行為だといわれ、それがホントかどうか判らない青年。

売名で天皇に「お手紙」を渡せるものだろうか?
たとえそうしたいと思ったって、実行なんかできないだろうなー。
だからやっぱり、個人としての山本太郎については、
ロシア語でいう「マラジェーツ!」(いいぞ若いのっ)と、なんかそんな感じなんでしょうね。
どことなくみんなね。

その太郎さんが言うことには、
「みなさん、国会の中だけで頑張る、もはやそういう段階じゃないんですよ。
みなさんの、外からの力強い応援がなければ、これは確実に負けます。
自民党にも国家機密保護なんて間違ってる、という人はいます。
その人たちに、反対しなけりゃ票はいれないぞっ(拍手)と言うんじゃなくて(笑い)、
頑張って反対してください、そうしたら票をいれますからと、
そういう応援をしてもらわないといけない、と僕は思うんです。
自民党に投票した人には、そういうことが責任としてあると思うんですよ。」

そうかもしれないなーと思ったりするわけである。

登壇した学習院大学の法律学者が、
「2013年の11月、12月は、日本の重大な歴史上のターニング・ポイントです。
あの時、じぶんはどこでなにをしていたか。
私たち一人ひとりの日本人があとになって問われる点だと思います。」
地味でキリッとしてクールな印象の学者らしい人だったが、
会場をぎっしり埋めた人たちが、彼女の法律上の説明を聞くシーンと落ち着いた様子もまた、
かっこよくて?感銘を受けた。クール!なのであった。

2013年11月22日金曜日

新パソコンでやっとブログ再開


新しいパソコン。
おかしいと思えてならない。
ふつう新しい危機、いや機器を高いお金をだして買ったら、スッキリと便利になって、
清々するはずなのに、なにがなんだかもうメンドーくさいばっかり。
わけがわからない。
なんで日本という国にはしっかりと奥深い日本的基準というのがないのだろう?
私たちの望みは単純な「使い勝手のよさ」であって、
あれもこれも、ゲームもスマホ機能も備えて、なんてことじゃないのだ。
適切で美しい漢字が好み、ひらがなが好き、カタカナも片仮名がよい、
アメリカ的カタカナ語なんか必要最小限しかいらないよ、まったく。
ふつうのおとななんて、みんなそんなものじゃないの。
これだけ大勢の日本人が使う商品なのに説明用語がなんでエイゴなのか。
属物根性もここまできたか。あら字をまちがえた。
こんな誇りのない話ってあるものだろうか。

と思いながら、もうなにがなんだか、日々は明け日々は暮れ、混乱中の私は、
水道橋の東京ドームでびっくりしたことに「ポール・マッカートニー公演」を、
ものすごく高額チケットの、とんでもなく悪い席で見て、しかし面白くって。

木曜日は、大学時代の友人に教えられ、
日比谷野外音楽堂の「国家機密保護法絶対反対集会」に参加。
実に恐ろしい法案だと改めて思う。

政府与党が「秘密」に指定していることは、4つである。

⑴「防衛」
戦争しようということでしょ。隠されてはたまらない。冗談じゃない。
⑵「外交」     
外交とはドンパチ抜きで戦うことである。
あらゆる知能と柔軟性を、あらゆる理想とあらゆる希望を総動員しても足りないぐらいだ。
それを秘密や機密にして、コソコソなんかして、
この末期的21世紀に、いったいどうやって全国民を守るというのか。
    
⑶「スパイ活動防止」
⑷「テロ活動防止」
  
なんだかね、京王線のゴミ箱撤去についての駅構内放送を思っちゃう。
テロ防止というけど、「布田」とかね「国領」なんかでもテロが起こるの、ゴミ箱使って?
そんなことするのは愉快犯といわれる人だ。テロリストとはいわないと思う。
政府は清廉潔白にわかりやすく平和を守れ。
そういう努力のほうがずっと大切だと思う。
幸福で安心な生活ができたら、若者はスパイにもテロリストにもならないと思うもん。

部屋を片づけ、本をじゃかすか捨て、衣類も捨てて、
やっとのことで、ブログ再開。
やれやれ、変な時におぼえのない音がするのはなぜだろう?
たとえば、それがスカイプのベルでも、今の私はどうすることもできないのよねー。

2013年11月9日土曜日

立ち姿二つ JR関内駅改札口


JR関内の駅に行くと、人ごみの後方に二人が立っているのが見えた。
まさか私が街をふらふらしていたとは想像もしないとみえて、
二人して並んで改札口の方角をカッとにらんでいる。
背筋をガンとまっすぐにした立ち姿に迫力があった。
こう生きて、今後も同じようにするということなのだろうか。
胸を打たれる光景だと思った。
ひとりは暗い色の古びた背広で、ひとりは厚手のセーターで。
・・・いつか、もう一度こういう時が私にやってくるものだろうか。
こういう出会いなど、もとから無理な相談で、もう二度とないことなのだろうか。

それは二重に寂しい思考であった。

彼らも私も七十をすぎて、とくに二人ともお酒をたくさん飲むのだろうし、
いつ死んでも、ああそうかと思う年まわり、
それに、彼らは私の別れた夫の中学時代からの同窓生で、私の友人ではない。
この秋の一日、私のために揃って都合をつけてくれたことが、
もともと物語的なのである。

この幸運はいったいどこから降ってきたのだろう。
彼ら二人にひきあわせてくれたのは、もと夫のkだった。
二十四年続いた結婚が壊れたあとになって、私はkの友人たちと知り合ったのである。

姑が亡くなったあと別れた夫の家に一年に一度か二度集まって、
天下国家について、読書について、中高一貫の私立男子校の思い出について、
私たちは切り炬燵をかこみ、話したい放題の飲み会をして、
kをはげます会だと称していた。

べつに考えれば、それは一九五〇年代の私立学校の同窓会のようなものだった。
彼ら三人は、みなと横浜の私立一貫校の卒業生。
私が通った世田谷のユネスコ実験学校もまた少人数の一貫校であった。
もっとも小中一貫の私の学校は男女共学だったけれど。
戦後すぐのオンボロ私立の、自由主義的大雑把なありようが似ていたのだろう、
私たちはみな、手前勝手で、愛想がよく、話題にしたいことが沢山あって、似てもいた。

私がkのもと女房であることも、たぶんちょうどよく安定?した事情だったと思う。
みんなで話すときには、結婚も、離婚も、たいして話題になりはしなかった。
私が怒りだして離婚にいたったことは了解ずみだし、
結婚だって離婚だって、五〇代ともなればつまらない話である。
私の居心地が一番よかったのは当然で、
なにしろ、聞きたいことがあればなんでも聞いてよい立場だった。
彼らより二つ年が下だし、kのバカが別れた(とふたりとも社交的に公言)私は、
どっちかというとさそり座ならぬ親父型の女。

kのアルコール中毒がひどくなり、病気が進行し、入退院ということになってくると、
私は、迷惑だと思いながら、ついこまってふたりに相談した。
離婚したもと女房と、夫のむかしからの友人と。
それは私のほうが望むかぎりは、案外平等で、切っても切れない間柄のものである。
もちろん、そんなにたびたびではない。
たびたびじゃないから、二十年ちかい月日が疾風のようにすぎていったのである。
相談するたび、彼らは考えられる限りの対応をしてくれた。
厳しくもなく甘くもなく、納得ができる程度に人間的だった。

親切とはそういうものだと、そう思う。

2013年10月29日火曜日

鶴三会・第五回句会/の続き


九月十九日の句会をギブアップしたら敷居が高くなり、
今回は会計報告を小林さんがなさるにちがいない、それにもゾッとするわけである。
私は鶴三会のあわれ会計係、つねに足し算と引き算が合わない。
小林さんは年度末らしい時になると、どんぶり勘定の私の会計ノートを辛抱づよく解読し、
整然たる表になおし、印刷し、ニコニコしながらみんなに配る。
鶴三会が「会費はその都度参加者から集める」となったら、
平野さんが会員の一覧表をササッと作成、
来た人の名前をいちいち紙に書いてる私に、これを使えばいいよとおっしゃって。
はらはらイライラしてしまうのでしょうね、見てると。
大きいのと普通のと小さいのと「表」は三種類も作ってあった。ははは。
まるで宮沢賢治の童話だ。
さしづめ私は、頭の悪い鶴牧林3のタヌキみたいなものだろう。
フーテンの寅のセリフに「おめえ、さしづめインテリゲンちゃんだな」と言うのがある。
インテリゲンちゃんならつくだ煮ほども鶴三会にはいるのに、
算数をやっては、やるたびまちがえる私が会計係なんてなーと疑問だ。

それで今回も休もう、俳句も絶対できないしと思っていたら、
前日三国さんが電話をくださって、
「ぜひ一句でも二句でもけっこうですからお出しになっていただければ」
渋味のある遠慮がちな…控え目、親切、上品な音声。
こんな人から逃げられる句会員がいるだろうか。
ああ、こまるこまるよー。なんにも思いつかなくて、しぶしぶ夜も九時になって投函。
今も霧雨の降る闇夜の三国家のポストが私の目に浮かぶ。
あのわびしい霧雨をこそ俳句にできればよかったけれど、
こんな時はいくら考えたって狙ったように頭がポッカーンとするばかりである。

まあ・・・、ではあるがこういうことが私を揺さぶって、
それで私は鶴三会から脱落しないですんでいるにちがいない。

そこで句会であるが、今回は加賀谷さんが出色という結論。

次々と 雲が生まれる 月の山
生ビール 泡が多いは 回り番
白装束と 共に巡る 出羽三山
夏花火 新作饗宴 大曲

この方は写真俳句とおっしゃって常に写真つき。
今回は字足らず字余り、季語無し、漢字だけ。
威風堂々。泰然自若。なんといったって風情が断固大物ふう。
小物じゃないことだけは絶対に確かだ。
なんかこう、くよくよしないのよね。
三国先生に「雲」と「山」は季語になりませんかと訝しげに交渉なんかなさって、
・・・認められたら二重季語になるんじゃないのと密かに思う私だったが、
これは両方ともやんわり却下。
しかし、次の句の「生ビール」は夏の季語なのですって。
そしてこの日の一番はこの句だということになったから、うらやましい。
ありがちな風景、回り番とは当番のこと、生ビールを注ぐには 泡8:2の2 がよく、
得てして注ぎ方がなってないんだ、こういう時は・・・云々かんぬんと賑やかに補足意見あり。
不調法なビールの注ぎ方をまざまざと想像してしまったらしく宇田さんが、
「ああ、言われてるうちイライラしてきたっ!」
臨場感あふれる句なのですね、まさに。
「夏花火」「新作饗宴」「大曲」ぜんぶ漢字。
そしてこういう漢字句という作風?もあるのだそうで、おどろいてしまった。
ぜんぶ漢字でうたう句がよい、という意見もあるのだとか。

のびのびということは、ほんとうにとてもいいと思う。
苦しまぎれに私がつくった句はなんかこう貧相ですよね。
夏花火新作饗宴大曲   ドカン・ドカン・ドッカーンのあとでは。

水引草 赤く小さな 勇気見よ
子どもなら えのころぐさを ツイッと抜け

次回は最近会員になって下さった斉藤さんのお話。
調布市福祉課で活躍している素敵なと、入居以来、風の便りに聞いていた人です。
よかったぁ。互助組合的鶴三会の心棒強化。
お話が楽しみです。




2013年10月28日月曜日

時の歩みは三重である


「時」の歩みは三重である
未来はためらいつつ近づき
現在は矢のようにはやく飛び去り
過去は永久に静かに立っている         シラー



教育学の同窓会


同窓会をほそぼそ続けていた。早稲田の文学部はむかしクラス制でいま思えば家族的、
それだからか卒業後も似たもの同士で集まっては飲んだり食べたりしていた。
もちろん一年に一回がせいぜい、集まらない年だってあった。
大学生というと十八才がはじまりだが、人はもう人品骨柄がそれまでに決まってしまうんだなと、
みんなと別れて電車で帰るとき、よく考えたものである。
私とちがって年々地位が上昇するらしい彼らが昔のまんまなので。

ところが今年はちがう。
劇的、といってよいほど、みんなが変化した。
七十才は古希というが、生命のターニング・ポイントなのかもしれない。

森本さんが車に撥ねられて首の骨が折れ、頸椎損傷、
一年前から実は大変なことだったのだ。
彼は六五才になってから突然現れて、会社もあるけどと私たちの世話係を引き受け、
きっちりとクラスの名簿をつくり、ぐずぐずせず全員に連絡をし、
去年集まった時などはカンカン、クラスメイトの数々の非礼無礼に憤慨していた。
返事もよこさない、威張る、おまえらとはもう付き合わないとか言う・・・なんだあれは!!
なんとなく自分が怒られているよう、新宿の飲み屋に集まった連中は、
はははと笑い、申し訳なさそうな顔もしたりして、
悪いとか、まあまあ、まあとか、
釈然としない森本氏とそこは楽しく一杯飲んだのだった。
その頑健で山歩きが趣味の、文学部にしては自他ともにマッチョなふうな彼が貰い事故。

病院から一時帰宅した森本さんを世話役的四人で訪ねる。

私たちは七十才になったんだなあと思う・・・。
それはどんなことか、目がよく見えなかったり、癌の術後であったり、
森本さんほど悲劇的ではないにせよ、みんなの肉体の崩壊というか損傷が甚だしい。
いつも参加していたのに今回は来なかった森田さんだって脊椎の病気だとか。
このクラスの友達がホントにケッコウ好きだったんだなー、けっきょく私ってね。
だれかが同じような感慨にとらわれたのだろう、低い声でつぶやいた。
「働いたんだな、よく」

森本さんの家には美人の奥さんと、息子さんと娘さんがいた。
きのうは日曜日だったからよかった。
家族みんなが半身不随になった彼にやさしい。
彼は鉄人みたいにマッチョ風にみせていたのだけれど、
頼もしい夫であり父親であって、ちゃんとした家庭人だったにちがいない。
それはむかしからのクラスメイトには考えも及ばない彼の一面で、
森本家の家族あげての闘病の様子や
複雑さを増したさびしく純粋な彼の美しい表情や、
不幸が運んできた複雑きわまりない「幸福」のかたち・・・そういうことに、
私たちみんなは見とれるばかりであったのだ。

しっかりと、ほのぼのと「命」を持ちこたえるとは、なんて大したことだろう。
がんばれ、森本さん。



2013年10月27日日曜日

泰尚の倒産


泰尚永山店が倒産したというニュースが悲しい。
9月18日に破産手続き決定。
多忙をきわめた夏で、「泰尚」に足を運ぶことがなくなっていたあいだの出来事。
アッと言う間の。
疲れて夕食の支度がもうできない時、息子とふたりで出かける、
板前さんの面構えがシャキッとして、気持ちのよい店だった。
居酒屋ふうの、うどんがおいしく、魚料理がおいしい店だった。
家族づれが大きい座卓にいつも二組ぐらいいたりする。
私たちはカウンター席の後ろの小テーブルによく陣取った。
そこだと人のジャマをしないし、品書きも見やすいし、板前さんも見えるのである。

なんでこんなに自分は悲しむのだろうと、
記事にびっくり仰天して以来、
ブログに思うことを記す気力もない私の9月と10月に
時々考えた・・・。

常連というわけでもなかったのに、
勘定をすませて店を出るとき、泰尚の主人がカウンターごしに私を見てくれる。
だから「ご馳走さまでした」とか「おいしかったです」とか、私も言えたのだった。
今でもこの人の容貌、料理人らしいしっかりして頼りになりそうな顔が目にうかぶ。
そんなことも私たちが「泰尚」へ行く理由のひとつだったなあと思う。
悲しいのは、「泰尚」の破綻と法的整理があまりに短期間のうちに決定したことである。
ああ、まるで自分たちの運命を見るようなのだ。

アルバイトの男子学生が誇りもなにもない悪戯をツイッタ―に流したのが今年八月上旬。
営業をとりやめ、売り上げがなくなって破産したのが翌月の一八日・・・。
私たちの国では、こんなふうな馬鹿げた若い者の軽率で、
昔ながらの努力が築いた店舗がアッというまに破産してしまうのか。
助ける商工組合も、銀行も、社会保障も、もうなんにもないということか。
日本資本主義には庶民的社会保障が皆無であって、
金持ちが行く店とはちがうから、
三千三百万円を肩代わりしてやろうという客も見つかりっこない。
家族で働いているというあの雰囲気、空間、何人かいた若いアルバイト。
多摩というコンクリートの街で、人情の在り処がなかなか感じられない場所で、
「泰尚」は湯気が立ち、働いている人たちがそこにいる面白さのただよう店だった。
潰れるなんてユメにも思わなかった。

こんなことってありだろうか? 彼らはこれからどこに行くのだろうか?
台風に直撃された各地の惨状を見るたび思う。
治山治水は政治の根幹ではないかと。
そんなことを思うばかりなのが悲しい、本当に悲しいそういう夏だった。



2013年10月25日金曜日

ごぶさたしていますが


みなさん、おげんきですか?

パソコンが老朽化して、手に負えなくなり、
たぶん自分も老朽化したせいだと思うけど、
夏が終わったらぼーっとしてしまい、
パソコン同様あっちも壊れたこっちも壊れた、私もだめなんだとまあ思う。
それならそれでいいんじゃないのと、
例によって本ばっかり読み、
庭に一本だけある柿の木が紅葉しはじめたよなー、
でも紅葉ってこんな程度だったっけ?
今年は実がぜんぶ落ちちゃった、やっぱりね、
ああでもよかった本格的な紅葉がやっと始まった、などなど、
まあーぼんやり....。
柿の葉の紅葉って実はとてもきれいで、クリスマスツリーのようなんですよね。
緑だし、赤だし、オレンジ色だし、黄色だし。
ずーっとそんな調子でくらしていたら、ある日元気になったから不思議です。

疲れたら休む。
それが一番という、かんたんな事らしい。
鬱(ウツ)なんて上等複雑なことじゃないらしい。
いま思えば私がウツになるわけないよなー、まったく。
ちゃんとした友達にかこんでもらっているわけなのに。

新しいパソコンが到着するのは11月8日。

友人のパソコンを借りて、ブログを続けられることがわかったので、
(そんなこともできるのかと驚いてしまいました)
今日からブログを再開することにしました。
どなたか私のかすかな声を読んで下さると嬉しいです。



2013年9月21日土曜日

現実とどうむきあったか②


私は窓の外を見た。
自分の頭で考えてみようと、集中しようと、必死で思ったのである。
医者が拒否するなら自分で考えるしかない。
なんとかしなければ母が死んでしまう。
病院の廊下、カーテン、待合室の窓から見る夜景、新宿。
夜景は夜景であるだけ、もちろんそこからなんの考えも生まれるはずはない。
恐怖のドン底に落ちて、いい考えなど何も浮かばない。

ところがである。
突然、思い出した。
私の家は隣家が医院なのであった!
先代からの耳鼻咽喉科医院。心臓とはまったく関係ないけど、とにかく病院。
そういえばそうだ!
ユウチャンが「先生」だった!

私といまの「先生」はおなじ私立の小学校に電車で通って、あっちが年下、
私はあの子を毎朝学校に連れて行ったのである。
ユウチャンだ!
なんで思いつかなかったんだろう!?
私は公衆電話から家に電話して隣家の番号を調べてもらい、ユウチャンを起こしてもらった。
深夜に図々しいのだが、まあいいか、だってよく知っている家だし、人なのである。
先生はユメのように親切で、即刻某病院に電話をし話を通してくれ、
魔法のように病院の門が開かれた。

・・・最初に頼んで空きがないと断った病院の門である。
かつて祖母がそこで亡くなり、母も3ヶ月入院していた近隣の病院である。

救急車が高速道路を走る。サイレンを派手に鳴らして。来た道をもう一回戻っていく。

けっきょくコネだと、小骨がノドにささって取れない感じがした。
自分はなんて軽率でくだらないんだろうと思う。
お隣さんが助けてくれてとても嬉しいけれど、社会にも自分にも釈然としない。
こんなことはおかしいと思わずにいられない。

なにをやるにしても、まずきちんと自分の頭で考える。
ドンくさくてダメな方法かもしれないが。そうするべきである。
そういう宿題を得た、ということだろうか。


2013年9月18日水曜日

現実とどうむきあうか①


桜上水で暮らしていたころ
深夜老母が苦しみだしたことがあった。
ふだん我慢強い人が胸が痛い痛いと言う。
大動脈瘤を病んで九死に一生を得たあとだから慌てた。

救急車に来てもらいホッと安心したのもつかの間、
巨大な車は病人を車内に寝かせたきり暗い路上から一向に動かない。
患者の引き受け先が見つからないのだ!

・・・専門医が今日はいない。・・・ベッドに空きがない、・・・応答しない病院もある。
近くの病院に当然電話して拒否されたあとである。
「今まで入院したことがある病院はありませんか、ほかに!」
隊員の切迫した声に進退窮まって「赤十字病院」という名前を言ってみた。
以前白内障の手術をした新宿の病院である。
「赤十字」といえば赤い羽根を連想する。関連施設も多いだろう。
伝手をたどってくれるかもしれない。
ついそんなことを考えた。

さいわい先方が引き受けてくれたらしく、
救急車は高速道路をサイレンを鳴らしながら新宿へと走った。
やっとのこと担架が院内の暗い廊下に運びこまれる。
看護婦が医者を呼びに行き、しばらくして医者が姿をあらわす。
ところが口論が始まった。救急隊員が詰問されている。
なぜここに連れて来たんだと食って掛かられている。
この医者は老母に手を触れようともしない。
冬の暗くて冷え込んだ廊下で、担架の母をながめて一言。
「ああ、痛がってるな」

私は驚倒した。
救急車の隊員さんがまさか病院でこんな扱いを受けるものとは知らなかった。
やっと運び込んだ病院で、医者が患者にも家族のものにも、
ひとかけらの関心も示さないなんて、予想だにしなかった。
寡黙で落ち着いた隊員二人に喰ってかかって恥じないあの口調。
看護婦を見れば遠巻きになって、もうなんにもしてくれない。
「どうしました」とはじめは型どおり親切そうに聞いてくれたのに。

20年前のことだ。今はどんなだろうか。
親たちを私たちが見送ってしばらくのあいだ、
家族の平均年齢がさがって、救急車を呼ぶことなく月日は流れた。

思い出せば、あのころ私はロクなもんじゃなかった。
病院といえば「イノチを扱ってくれるところ」と思っていただけ。
医者といえば「イノチを扱う人」と思っていただけ。
救急車といえば、急場に駆けつけて即刻問題を解決してくれるはずとしか思わない。
つまり家族の命を社会?に丸投げ状態だ。
ただもう社会の仕組をアテにして。

あのとき、棒立ちになったまま、
私は冷淡このうえないお医者さんの顔を、ヨコからながめた。
今にも死にそうな担架の上の継母をなんども見た。
「ではここがダメなら、私たちはどうしたらよいのですか?」
再度問うても、この当直医は吐き捨てるようにこう言うのだ。
「わかりませんよ、そんなこと!!」

このヒトは瀕死の病人が死んで責任を取らされるのが怖いのだろうか。
そういう考えがなんだか不意に浮かんだ・・・。
このヒトの冷淡や権幕はそういうことなのだろうか?
心臓に変調をきたした老母を眼の手術をした病院に運ぶなんて、
むちゃくちゃなのはこっちだと今は思うが、そのことは考えなかった。
だって「赤十字」なのにと、そういうことばかりを思ったのである。

医者も人間で看護婦も人間で、私とおなじ程度の人間だとしたら、
この当直の医師が私なみに怖がっているのだとしたら、
継母に関する「最高責任者」は私だということになってしまう。
なんだかそういう考えも浮かんだ。
では、彼女の命は、この私、ただのバカでフツウの私に懸かっているというのか、
救急車でも、看護婦でも、医者でもなく・・・?
たぶん、そうなんだ。
・・・でもそれが本当だとしたらどうする!
家族の命の責任を担う者が世界に「自分」しかいないとなったら。

私から、サーッと、まるい地球が青ざめて、平面になって遠のいて行くかのよう。

考えたこともない立場だった。
私はなんとか自分で考えようとした。
担架から離れて、病院の待合室に入り、窓から新宿のネオンサインを見る。
「専門家」だと思う人にいくら考えてもらおうとしてもダメだと、キモに銘じたわけである。
戦後民主主義に甘えて。漠然と社会なるものに期待して。依存して。
これまでそれでやってきたけれど、「社会」は本当のところ違う姿をしているのだ。
そして、それが今後良く変ることもないのだろう。
そう認識した瞬間だった。

2013年9月16日月曜日

引越し・仏壇とか遺影とか


病院にいる人の代わりにケアハウスをさがしたのだが、さいわい行く先があって、
入院先から直接(健康になって)転居させる手はずも整う。

病院と本人と家族のあいだをつなぐケース・ワーカーが
私どもの事情のあるがままを察して支えてくれたからこそである。
ほんとうによくも「出来ない相談」にのってくれたと思う。

「出来ない相談」とはなにか。

私たちの努力が実るまで周到に待つということである。
病院からなるべく早く出て行け、という立場に立たないことである。
ばらばらに千切れた患者の家族を
それなりに「信頼してみようか」と考えてくれることである。

これこそ本当に「出来ない相談」ではないだろうか。
すくなくとも、ふつうに暮らしているとき、
私はそう感じていた。

引越しの手はずを整えることができた頃、
娘がオランダから帰国、
「お母さん、とにかく二人でまずお父さんのマンションに行こう」
様子を見て、できるかぎり先に片付けておこう、というのである。
それまでは、8月31日、ひでこちゃんと3人で掃除をすませて、
夕方引越しやに会い、料金の見積もりを二社に出してもらおうという計画だった。
彼の妹のひでこちゃん、離婚した妻である私、外国ぐらしのながい娘。
ひでこちゃんは病気でゼイゼイ、ハアハア、
私は「わかれた夫にはぜったい会いません」、
娘は一ヶ月だけの日本滞在、
なんかこう、やってられないよ、いいのかなあという組み合わせ。

それでまず8/29、遥の時差ボケがおさまった後、まず二人で出かけたのだが、
本当にそうしてよかった。
難病をかかえるひでこちゃんがあんな部屋に入ったら死んでしまう。

ゴミの集積・・・・。
彼のゆめの跡・・・コンパクトな仏壇がほこりをかぶり、
その上に、かつて私の舅姑であった彼の両親の遺影が、
小さい額に入れられて、あった。
並んでこの部屋で起きたことを見ていたあの人たち。

私ってこのふたりが好きだった。
なんだか気の毒でたまらなくて、私は額を仏壇から引き離し、
となりの部屋の本棚の上に立てた。
ふたりが成仏できず今もここにいるにちがいないという気がした。

おかしなことだった。
私は無宗教、無神論であるのに、
現に今を生きてどんなにか苦しんだにちがいないかつての夫より、
写真立てのガラスの中から、
長男の惨状の一部始終をただ傍観するしかなかった亡き舅と姑が、
これではいつまでも極楽浄土へ旅立てないだろうと、
それが気の毒なのだった。


2013年9月15日日曜日

彼はなにを思ったのだろう?


彼は何を思ったのだろう
マンモスな団地の、公団住宅の意地悪な12階のマドから
彼は何を見たのだろう

たったひとりで

体が破壊するにまかせ
食べるものを調理できず、掃除もできず
だれにもかまわれず
どうすることもできず
死んだ母親の
ぼろぼろになった布団を敷いた
ベッドに寝て

コンクリートのヴェランダの外は、
ひろびろとした空の下にひろがる横浜の大空間
空虚で涼やかな秋が
灼熱の大気にまぎれこんで
地平線のぎざぎざのかなたには
港らしいものが見えると娘が私に言う・・・

彼があの港をだれかに見せたくても
だれかにこの無意味な美景をおしえたくても
そういう用意はしたのだろうに
こだまひとつもかえらなかった何百日か

12階のヴェランダはあまりにも高く
飛び降りて死のうにも
びゅうびゅう風がゆくのだし
こんな光景がまばゆくどこまでも広がるばかりだから
倒れた壁画のような美しくもおぞましい地上めがけて
ニンゲンの人生によく似たそこに
そこに身を投げるなんて
とてもできなかったろう

彼はいったい
なにを、どう
考えたのだろう
まだ元気な日、歩けなくなった日、起きられなくなってから、

こんな
地獄によく似た景色を売り物にする
一年契約の公団刑務所住宅をわれにもあらず選んだあとで



2013年9月14日土曜日

あした「ガゼルのダンス」で


あしたは「ガゼルのダンス」でタケシがひとりライブをする。
池の上の帽子屋さんの薄明かりのなかで。
店主の秋山さんがつくったフライヤー(ちらし)は、ロマンティックなものだ。
彼女の帽子のどれかをかぶって演奏と息子がいうから、
それもおもしろくて・・・。

岩崎菜摘子ちゃんが暁子さん(お母さん)と来てくれる。
智人くんもお母さんのみっちゃんと来る。
遥も九月末まで日本にいるから、
「ガゼルのダンス」に行って秋山さんたちに会えるのだ。
息子が働いた先で年上の友人になってくれた森さんにも
また会えるだろう。

はじめて出会う人にとっても、
みょうに居心地がいい「ガゼルのダンス」は、
むかし床屋さんだった。
なぜかは知らず床屋ってのは昔から洒落た感覚のものだが、
この変形の床屋っぽい店を女の子が不思議につくりかえたのである。
帽子をつくる器用な、芸術的な手でもって。

菜摘子ちゃんの作品は雑誌の表紙を飾るようになったし、
みっちゃんは家族新聞「すいとんの日」を閉じる。
「すいとんの日」最終号はおどろいたことに300号。
家族と友人たちがその作業の終了を惜しみ、新しい出発を祝っている。
反核家族と宣言し、新聞を手書きで300号だなんて・・・。
なんてまあ、みっちゃんは努力したことだろう。

私のところでは、今朝、長男が父親を病院から自立型老人ホームへと引越しさせた。
以前崩壊した家族なりの、それぞれの努力がとりあえず実る日。
ああ、それでも、だれの人生だって、
悲劇を抱えたまま、そのままずっと続いてしまうのだろう。
しかし、そこに小さいスキマを見つけ、工夫してこじ開け、
苦しいくらしを自分たちらしく、笑いながら過ごしてみよう。
へんてこりんにちがいないけど、人間的な日常をカラカラとつくりだそう。

二男はひとりでライブをする時・ライフイズウォーター・と表示する。
してみると、彼にとって人生は水なのかしら。
そんなこと言うなよと、私は時々思うんだけれど。

ライフイズウォーターの連絡先・電話だと090・8518・3724


2013年9月8日日曜日

遥の帰国


遥に一時帰国するよう頼んだ。

オランダに住んでいるので、めったに会えない娘だ。
いままで帰ってきて、と私から頼んだことはない。
親孝行な子だが、外国は遠くて、
私にもこの娘にも、行き来の自由がそんなにはなかった。
あっちへ行ったり、こっちへ来たり、
なにか、どっちかにおカネができた時。
(そんな時はめったにない)
でも今回は言うとすぐに来てくれた。
どうやら外国に根付いて実力を発揮しだしたのだ。

ロシアは遠くて。
オランダも遠くて。
それでも、ひとりの子どもがはるかな土地に住んだので、
運命によって、私もそこに出かけ、少しのあいだそこに滞在した。
遥のおかげでよい旅ができたのである。

子どもたちの父親と離婚したときから長い時がながれた。
指折りかぞえてみると、20年ちかくにもなる勘定だ・・・。
別れた夫は、母親とのふたり暮らしがおわり、マンモス公団に入居、
あげく病気をこじらせて緊急入院。
今年の3月末のことである。

来るときがきたなあと思うことになった。

以来、入院先のケース・ワーカー、市役所、不動産屋、保健所、各老人ホーム、
友人たちに相談にのってもらいながら、
なんとか今後の彼の落ち着く先をさがそう、考えようとしてきた。
息子たちとは直接、外国にいる娘とはスカイプやケイタイ電話で相談した。
どんなに考えても、もう一度ひとり暮らしという未来に幸福はない。
ひとりで死ぬことになってしまうと思う。

かといって、同居可能な家族などいない。

誰かがなんとかしなければ、どう考えても彼は破滅するのだ。
個人的に破滅する人の多い日本である。
毎年の自殺者が3万人以上いる国。
友人が言うには、5年ごとに地方都市がひとつ消滅する勘定だという。
戦争よりひどい、となにかの本にも記述があった。

破滅。
老人になれば、ヒトは人間という種族から厄介ものという種に転落する。
入院もままならない。ひとり暮らしを受け入れるアパートは見つからない。
病院や施設を紹介してくれようという保健所も市役所も、けっきょく無いのである。
それは、ほんとうに苦しい、無残な結末だ。
オリンピック招致に約1000億円の経費をつぎ込む国で、
なんでこんなことが、と思う。
こんなことばかりまかり通るわけはない、とも思う。

それでがんばってみることにしたのである。
努力の余地が日本にはまだあるだろうと思うことにしたのである。
半年がたって、やっと彼が自立型の軽費老人ホームに入居できることになった。
針の穴をくぐりぬけるように難しいことだったけれど、本当によかった。

私が遥に帰ってきて手伝って頂戴とたのんだのは、
そうしてもらわなければ、もう、にっちもさっちもいかないからである。

それに、いま家族の努力の輪の中に入っておかなければ、
遠くにいる娘はどうなるというのだ。
遠くにいるヒトは、ますます遠のいて、存在感をなくしてしまうだろう。
こんなおそろしい世の中で、家族とは名ばかりのものと考えるに到るなんて、
それはダメだ。
留学以来、しかたなく仲間はずれを続けてしまったけれど、
それは寂しいことではないか、当の遥にとっても私たちみんなにとっても。

遥はたちまち飛行機を予約。先月27日に帰って、
集中的に父親の引越しにともなう雑事を肩代わりしはじめた。
ありがたいことに仕事の切れ目でタイミングもよかったのだ。
彼女の一ヶ月の滞在は、灰色めいた用事で埋め尽くされているけれど、
・・・私たちは、ひさしぶりに家族的生活をして、まーそれはそれ。
ケッコウ面白くて愉しいことである。

2013年9月6日金曜日

敦賀の市長さん


内橋克人さんの講演を、福島の原発が大事故をおこした直後、大船で聴いた。
それは井上ひさしさんの追悼の夕べだった。大江健三郎、なだいなだ、そして内橋さんが
話した。

つい最近、なんの気なしに内橋さんの本を手にとった。
そこに、故・高木孝一敦賀市長の「原発講演会(地元の広域商工会主催)」における
講演の記録があった。この講演は1983年に行われ、一時、ネットに流布、
有名になったものである。
当時の私はインターネットを使いこなせず、この敦賀市長の考えというものを、
ぜんぜん知らなかった。

高木さんは九十三才で心不全のため亡くなり、お葬式は2012年6月5日だったみたい。
4期16年の市長さん。大往生。
高木さんの息子さんは衆議院議員の高木 毅さんである。

いま講演記録を読むと、
選挙とか、投票の重みを、子孫に対する責任とはどんなことをいうのか、まざまざとわかる。
いったい自民党は高木さんをなんで公認したのだろう!?





1983年1月26日、石川県羽咋郡志賀町にて。
        (敦賀市長 高木孝一氏の講演の記録)

 只今ご紹介頂きました敦賀市長、高木でございます。えー、きょうはみなさん方、広域商工会主催によります、原子力といわゆる関係地域の問題等についての勉強会をおやりになろうということで、非常に意義あることではなかろうか、というふうに存じております。……ご連絡を頂きまして、正しく原子力発電所というものを理解していただくということについては、とにもかくにも私は快くひとつ、馳せ参じさせて頂くことにいたしましょう、ということで、引き受けたわけでございます。
 ……いわゆる防災義務と称するものは、(原子)炉の周辺から2キロないし3キロというところは、やはりそうしたところの(防災)体制を固めなさいと。こういうふうなことでございます。あるいは住民は避難道路をつくろう、とか。あるいはまた避難場所をつくろうとか、こういうふうなことで、私どもに対しましても、強くいろいろ申し出があるわけでございます。けれども、抗議もくるわけでございますけれども、ま、私は防災訓練もやらない、と……。もうそんな原子力発電所は事故があったら逃げまどわなければならない。あるいは避難しなければならない、とういうことになったら、もうそれで終わりなんだ。そんなことはゼッタイあり得んのだ、というふうに、自分も、私どものいわゆる住民も、あるいは私も、そういうふうに思っておるわけでございます。
 一昨年もちょうど4月でございましたが敦賀1号炉からコバルト60がその前の排出口のところのホンダワラに付着したというふうなことで、世界中が大騒ぎをいたしたわけでございます。私は、その4月18日にそうしたことが報道されましてから、20日の日にフランスへ行った。いかにも、そんなことは新聞報道マスコミは騒ぐけれど、コバルト60がホンダワラに付いたといって、私は何か(なぜ騒ぐのか)、さっぱりもうわからない。そのホンダワラを1年食ったって、規制量の量(放射線被曝のこと)にはならない。そういうふうなことでございまして、4月20日にフランスへまいりました。事故が起きたのを聞きながら、その確認しながらフランスへ行ったわけです。
 ところがそのフランスでも、送られてくる日本の新聞に敦賀の一件が写真入りで「毎日、毎朝、今にも世の中ひっくり返りそうな」勢いで報じられる。やむなく帰国すると、こんどは大阪空港に30人近い新聞記者が待ち構えていた。
 悪びれた様子もなく、敦賀市長帰る。こういうふうに明くる日の新聞でございまして、じつはビックリ。ところが敦賀の人は何喰わぬ顔をしておる。ここで何が起こったのかなあ、という顔をしておりますけれど、まあ、しかしながら、魚はやっぱり依然として売れない。その当時売れない、まあ魚問屋さんも非常に困りました。あるいは北海道で採れた昆布までが……。
 敦賀は日本全国の食用の昆布の7割ないし8割を作っておるんです。が、その昆布まで、ですね、敦賀にある昆布なら、いうようなことで全く売れなくなってしまった。ちょうど4月でございますので、ワカメの最中であったのですが、ワカメも全く売れなかった。まあ、困ったことだ、嬉しいことだちゅう……。
 売れないのには困ったけれども、まあそれぞれワカメの採取業者とか、あるいは魚屋さんにいたしましても、これはシメタ! とこういうことなんですね。売れなきゃあ、シメタと。これはいいアンバイだ、と。まあとにもかくにも倉庫に入れようと、こういうようなことになりまして、それからがいよいよ原電に対するところの(補償)交渉でございます。
 そこで私は、まあ魚屋さんでも、あるいは民宿でも、100円損したと思うものは150円もらいなさいというのが、いわゆる私の趣旨であったんです。100円損して200円もらうことはならんぞ、と。本当にワカメが売れなくて、100円損したんなら、精神的慰謝料50円を含んで150円もらいなさい、正々堂々と貰いなさいと言ったんですが、そうしたら出てくるわ出てくるわ、100円損して500円欲しいという連中がどんどん出てきたわけです(会場に大笑い、そしてなんと大拍手?!)。
 100円損して500円もらおうなんてのは、これはもう認めるもんじゃない。原電の方は、少々多くても、もう面倒臭いから出して解決しますわ、と言いますけれど、それはダメだと。正直者がバカをみるという世の中をつくってはいけないので、100円損した者には150円出してやってほしいけど、もう面倒くさいから500円あげる、というんでは、到底これは慎んでもらいたい。まあ、こういうことだ、ピシャリとおさまった。いまだに一昨年の事故で大きな損をしたとか、事故が起きて困ったとかいう人はまったくひとりもおりません。まあ、いうなれば、率直にいうなれば、一年に一回ぐらいは、あんなことがあればいいがなあ、そういうふうなのが敦賀の町の現状なんです。笑い話のようですが、もうそんなんでホクホクなんですよ。ワカメなんかも、もう全部、原電が時価で買(こ)うてしもうた。全部買いましょうとね。そんなことで、ワカメはタダでもらって、おまけにワカメの代金ももらった。そういうような首尾になったんです。
 (原発ができると電源三法交付金がもらえるが)そのほかにもらうおカネはおたがいに詮索せずにおこう。キミんとこはいくらもらったんだ、ボクんとこはこれだけもらったよ、裏金ですね、裏金! まあ原子力発電所が来る、それなら三法のカネは、三法のカネとしてもらうけれども、そのほかにやはり地域の振興に対しての裏金をよこせ、協力金をよこせ、というのが、それぞれの地域であるわけでございます。それをどれだけもらっているか、をいい出すと、これはもう、あそこはこれだけもらった、ここはこれだけだ、ということでエキサイトする。そうなると原子力発電所にしろ、電力会社にしろ、対応しきれんだろうから、これはおたがいにもう口外せず、自分は自分なりに、ひとつやっていこうじゃないか、というふうなことでございまして、たとえば敦賀の場合、敦賀2号機のカネが7年間で42億入ってくる。三法のカネが7年間でそれだけ入ってくる。それに「もんじゅ」がございますと、出力は低いですが、 その危険性……、うん、いやまあ、建設費はかかりますので、建設費と比較検討しますと入ってくるカネが60数億円になろうかと思っておるわけでございますが……(会場に感嘆の声と溜息がもれる)。
 で、じつは敦賀に金ケ崎宮というお宮さんがございまして(建ってから)随分と年数が経ちまして、屋根がポトポト落ちておった。この冬、雪が降ったら、これはもう社殿はもたんわい、と。今年ひとつやってやろうか、と。そう思いまして、まあたいしたカネじゃございませんが、6千万円でしたけれど、もうやっぱり原電、動燃へ、ポッポッと走って行った(会場にドッと笑い)。あッ、わかりました、ということで、すぐカネが出ましてね。それに調子づきまして、今度は北陸一の宮、これもひとつ6億円で修復したいと、市長という立場ではなくて、高木孝一個人が奉賛会会長になりまして、6億の修復をやろうと。今日はここまで(講演に)来ましたんで、新年会をひとつ、金沢でやって、明日はまた、富山の北電(北陸電力)へ行きましてね、火力発電所をつくらせたる、1億円寄付してくれ(会場にドッと笑い)。これで皆さん、3億円すでにできた。こんなのつくるの、わけないなあ、こういうふうに思っとる(再び会場に笑い)。
 まあそんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、50億円で運動公園はできるわねえ。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これも今、あのカネで計画しておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の町づくりができるんじゃなかろうか、と、そういうことで私は皆さんに(原発を)おすすめしたい。これは(私は)信念をもっとる、信念!
 えー、その代わりに100年たって片輪が生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部、片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、いまの段階では(原発を)おやりになったほうがよいのではなかろうか...。こういうふうに思っております。どうもありがとうございました(会場に大拍手)。

私が読んだ本は
「日本の原発、どこで間違えたのか」 朝日新聞出版、2011年である。
224ページから234ページにこの講演は載っている。

2013年8月14日水曜日

あらかじめ寄せられた野呂記者への質問


原発についての講演会なんて、うまくできるとはとても思えない。
でも参加者に、忙しい時間を割いたけどその甲斐あったと、なんとか喜んでほしい。
小さくてもほのかにでも、心に灯りをともして会場から家に帰ってほしい。

それには野呂記者にマル投げしないで、工夫しよう。
参議院議員選挙の真っ最中で忙しいはずの記者(こちら特報部デスク!)に、
こわいけど悪いけど、メールを送り、
私たちの側からの質問にまず答える「講演」を、とお願いした。
あらかじめみなさんから集めた質問に答える講演を一時間。
そのあと会場との質疑応答一時間半。
聞きたいことをきかせてもらう、そういう組み立て。
いままで私が参加した講演会では、
まず有識者の講演。それから残り時間があれば質問を受け付ける。
これもいいけど上意下達というか、なんかこう気持ちがよりそわないところが気になって。


以下は、当日会場で参加者に配った「質問集」の写しである。
この質問に野呂さんが全部こたえられたわけではない。
なにしろぜんぶで二時間半の集会である。
でも、私たち一般の人間の心もとない必死の質問はだいじなものだ。
だれかがどこかで参考にしてくれるかもしれないし、
質問してみようと勇気がでるかもしれないし。


質問集

Hさん(団地住人)
①原子炉格納容器内のメルトダウンした放射能物質は、
 今後どのような方法で 処理されるのでしょうか。

②ストロンチューム90や、プルトニューム238の報道は
 非常に少なかったような気がしましたが、その理由はなぜでしょうか。

Kさん(学校の先生でした。団地の人)
①温暖化への影響
 原子炉を冷やすのに大量の水が必要。一基あたり中規模の川の水の量を7℃あげて、
 海に流していることになります。これが原子炉の数ぶん・・・。

②メルトダウンしたウランははたして取り出して管理することは可能なのか。
 その間中「汚染」し続けるのか。
 その「オセン」の状態をある程度把握できるようにはなりそうか。

Aさん(図書館活動)
①2011年以降、なにが起こっていたのか本当のことが知りたい。
 アメリカ留学中の友人の息子が「メルトダウンが起きている」と言い張り、
 日本にいる母親は政府の発表から「心配しすぎ」となだめたとか。

②福島第一原発の現状を知りたい。このごろ報道していない。
 汚染水。根本的な解決はありうるのか。

③子どもが受ける影響
 再稼動が始まると日常的な被爆と、事故が心配。どうしたらよいのでしょうか。

④どのくらいの放射能がほんとうのところ放出されたんだろうか。
 わかりやすく示してほしい。

Yさん(私立校勤務だった)
①自然界に存在する各種放射性物質と、
 原発事故等によって生ずる放射性物質はまったく同じものか?

②原発事故で発生した放射性物質は何種類あって、そのすべてが人体に有害か?

③原発事故発生時、東電は廃炉をおそれて海水注入をためらったと承知している。
 今度、管首相(当時)が安倍首相を名誉毀損で提訴したが、真実は如何?
 (管さんが海水注入を止めた、というのが安倍発言)

Hさん(町田、被爆者とともに生きる会)
①原発不必要を一般市民にわかってもらうもっとも説得力があり効果的な方法は?
 電気料金の使われ方がおかしい。その暴露が効果的だと思いますが。
 わかりやすく説明してほしいです。

②原発関係では、どんな訴訟が起きているのでしょうか。
 訴訟の実態が知りたいです。

③日本の小さな街で、自然エネルギーを採用、原発に頼らない努力をし、
 成功している自治体がありますか。町田で運動をするとしたらどういう糸口で?

④東京は実際のところ、どんな状態ですか。
 現在、日本には被爆地域差が、今でもありますか。フクシマと大阪と九州と?

⑤除染の意味はあるのか。

Tさん(母親・高校生と大学生の)
①原発=プルトニウムを持っているということで、
 北朝鮮や中国の日本の侵略の抑止力になる?

②高校や大学で遠泳授業があるが、千葉の海で海水浴は大丈夫なのか?

③原発を日本から廃止する方法は?
 そして、私たちにできる事は、やるべき事は?

④これからの日本は?

Nさん(会社役員:団地内)
①原発がまったくない社会はありうるんですか? それがききたい。
 なんでこんなにウソがはびこるのか。おかしな隠蔽工作ばかりが目立つのか。
 それが僕の知りたいことです。

Yさん(小5女児母親)
①原発事故から2年半経ちました。今でも、福島の農産物・海産物・加工食品などの線量は、
 他の地域のものと比べて高いのですか。
 福島産のものを購入するのをためらってしまいます。
 風評被害という言葉に罪悪感を感じます。

②原発がなくても電力はまかなえると良く聞きますが、本当でしょうか。
 再稼動は必要なのですか。再稼動しない原発はどうなっていくのでしょうか。
 
③洗濯物をいまだに外に干せない友人がいます。
 東京の線量の状態はどうなのでしょうか。




2013年8月12日月曜日

海に行く一日


葉山は一色海岸。
4才の時ここから離れた。よく出かけて行く。
昨日梅が丘へ行き、用事が終わってふらふらと環八沿いの神戸屋へ。
朝食けん昼食のサラダバー・ランチ。
うちに帰るか、予定がない日だからどこかに行くか。
私は具合が悪くなっちゃって気分がわるく、決心がつかない。
それでもせっかく環八にいるのだし、踏ん切りわるく第三京浜へ。
この際だからやっぱり葉山へ行こうと。

着いたら葉山は渋滞、「満車」「満車」の表示ばかりだし人だらけだった。。
夏だから当然かもしれない。
「そうか、夏は来ちゃいけないんだね、日曜なんて特に」
息子が運転しながら感心している。
森戸海岸がことに混雑、そこを抜けても混みあって、どうするわけにもいかない。
それじゃあと、道なりにまっすぐ城ヶ島をめざしてクルマで走ると、
対抗車線がそら恐ろしいような帰宅渋滞だ。なんでまだ二時半ぐらいなのに帰るの?
これじゃ帰りがこわいなと思っても一本道を引き返す決心がつかない。
どうにでもなれとノロノロ。こっち側も渋滞なのだ。
のんびりは楽しい。
畑でスイカを売っていた。
買おうかしらとヒマなので考えるけど、あんな巨大スイカ。
冷蔵庫に具体的に入んないわよねー。
買ったあと、またクルマの行列に割り込むのも億劫。
できない・・・。

城ヶ島にやっと着いた。
暑い。クルマから外にでるとたちまち汗まみれになる。
私は息子をながめてふきだしてしまった。
熱気にぶん殴られたようにボロボロ・・・。
空気はすこし澄んで軽いかなー、たとえ熱気がすごくても。
公園の道をとぼとぼ歩き、思い切って展望台のわきの切り立った崖道を下る。
海は悠々広々。ゴツゴツした崖の下で、みんなが遊んでいる。
波が寄せては返す海水のきれいな場所にやっとこさ腰かけた。

私の息子は私が教育をあやまったせいか「不自然」がTシャツを着たような奴で、
崖だの海水だの努力だのがまるでダメみたい。
腰痛の後遺症でろくに歩けずグラグラしている私を、
「しっかりしろ」とか「大丈夫か」とか、励まそうなんてユメにも思わないんじゃないの。
城ヶ島に到着するや、自分の方がすぐさま暑気あたりでフラフラし、
岩場ではサンダルの足が小石ですごく痛むふう、身体もこちんとこわばって不自由そう。
私のあとから降りて来るけど、崖を滑ってごろごろ落っこって来るかと見おそろしい。
「そういえばあんたって苦手だったわよねー、こういうの?」
あきれてたずねると、
「オレ、ハッキリ言ってこういうのホント苦手だから。お、落ちるから、か、必ず・・・」
恐怖ただようワザトのウラ声に怒ることもできない。

それでいて彼はむかしから海が好きなのだ。
「・・・きれいだなあ、やっぱりいいなあ、ほんとに海は」
ヤドカリを手につかまらせ、海水を気も長くずーっと眺めていたりする。
すごく小さなヤドカリは、中にだれもいないんじゃないかと思うほど小さい。
そして澄んだ海水を貝殻の中いっぱいためている。

着替えはもってきた。
温泉に行っても平気だし、洋服のままで海水につかっても平気である。
べつにただ着替えればいい。タオルも石鹸もある。
城ヶ島公園には水道もある。
見回すと、そうやって遊んでいる人がけっこういた。
私は岩にからくもつかまって海中の砂地に立った。
波の音がいい。ジャッブーンとびしょぬれになったけれど、解放感でいっぱい。
魚もいるし、カニもいる、岩はフナ蟲だらけで繕い物のようだ。
緑や赤の海草がまるまって流れてくる、花のように浮かんで沈む。
涼しい。楽しい。海はやっぱりすごく気持ちがいい。すばらしい。

ねえ、なんでこの海に放射能の汚染水を放出しつづけたの、と心は思う。
自民党さん、なんでそんなことして平気でいるの。
小さい子が夢中になって遊んでいる・・・。お父さんがカニの採りかたを息子に教えている。
むこうのほうでは、あわいピンクの浮き輪が楽しげに波にゆれている。

帰るとき。やっぱり渋滞。やっぱりさっきのスイカを眺めて買わず。
でも往きよりは一色海岸が空いていたから、すこしさがしてパン屋のレストランで夕食。
いつかのむかし、長男がここに就職したらと見に来たこともあるパン屋だけれど、
どんな理由だったか、職人たちの顔が暗いというような。
クルマでの帰り道。
朝から長い一日だった。それが疲れたとこんどは近くの温泉へ。
行き当たりばったりの罰あたりみたいな一日を、またまた延長、さらにずるずる。
まーいいや、明日からまた忙しいんだから。

海ほどスカッとする場所はない。自然ほど気が休まるものは少ない。
人間なんてそんなもん。海を勝手に奪うな資本家。
あんたの子孫だって海水浴をすれば放射能まみれになるのよ。

2013年8月7日水曜日

7/26 野呂記者にきく


「原発問題あれやこれや」。
東京新聞の野呂法夫記者に直接質問を、と計画した会が終わった。
会にいたるいきさつも内容もたいへんだったから、
私なんか終了後に病気みたいになってしまった。坐骨神経痛で歩けない。
歩くと、暑いし空気は悪いし、ぐったりしちゃって、まー、人並みに疲労困憊。
みっともないことである。しかし、万難を排した甲斐あって、参加者50人。
みんなが集まって、直接疑問を解決しようという試みはよいものだった。
自分の耳でじかに事実をたしかめることって、勇気をもらえることだと実感した。
野呂さんに来ていただいてよかったのである。

今回の集まりはみなさんの協力で、参加者がなかなか多彩であり、
自然であり、もの優しげだったことがすばらしかったと思う。
老人もいれば子どもの親もいる。
ながいあいだ反原発運動をしてきた人もいたし、
こういう集まりは初めてというひともいた。
地元のひともいたし、町田や相模原から、八王子からきたひともいた。
男性もいたし女性もいた。宗教者もいたし、私なんかはじめて見るひとも多かった。
ふつうの金曜日の午後だったというのに。

会場の準備や、空調の不具合、わかりにくいプロジェクターの操作、
いつもなら困るのに、今回はそういうことに強い人がいて、
集まったひと達と野呂記者のために、当然のようにずっと配慮してくれている。
ホッとして、私たちの気持ちは和んだ。
私たちとはなりゆきで講演会を主催する破目になった三人である。
年寄りで孫がいて。むかしは教師で。そしておなじ団地の住人で。
その三つが主催者三人の共通点なんて、おだやかでいい感じでしょう?
私たちがヨコに並べば、三匹の?老女なのだ。
そこに、出席の通知のなかったお方が四人連れにて、準備も始めていないのに到着。
カン違いして早く着すぎちゃった、と笑っておっしゃったのである。
四人ともにこにこ。
「うわーい、うれしいな。これで今日一日が幸運だって決まったー!」
クヨクヨ、不景気な予想ばかりたてていた私だけど、とたんに陽気になっちゃって、
はははは、ゲンキンとはこのことである。

しかも、というとおかしいが、
講演をお願いした東京新聞の野呂記者がめったに会えないような優秀な方だった。
never give up  とはこういう態度の人をいうのだろう。
午前中に印刷したから知ってるんだけど、
こんな小さな集会のために野呂さんは、多忙の真っ最中なのに(選挙と転勤!)、
私たちにあわせてレジメをつくっている様子だった。
最終訂正文が私のパソコンに送られてきたのは講演の日の午前一時すぎだった。

原発の事故は言うまでもなく全人類の生死を左右する巨大災害である。
人災である。なんだか悪いことばかりの聞き恐ろしい事故だ。
どうにかして事実と向き合おうとすればするほど、
心のなかの不気味な暗黒が巨大化して手に負えなくなってしまう。
講演会を開く場合、それがネックだし、うとまれる理由だと思う。

・・・講演がはじまって一時間ほどたったところで、野呂記者にメモを渡した。
「ここで一息いれさせてください」
失礼だと思ったけれど、アタマがつかれちゃったのである。
司会の私の眼にも、会場のみなさんの顔が、もう途方にくれてみえる・・・。

以前、わが団地の鶴三会の席上、耳にした意見。
「これ以上、原発について、いま僕が知っている以上のことはききたくない。
どうでもよいとは決して思わないが、
数字のことやシステムのことを、もうこれ以上知っても仕方がない。
原発なんていうものは、本当のことをいえば、元来あってはならないものなのだ。
いま、私が知りたいのは人間のことです。
例えば、なぜ政府や東電は本当のことを語らないのか。
あるいは、原発のない社会は真実可能なのかどうか。」
私は集会の成功って、話をスカッと整理することが重要かもしれないと思っていた。
こんな具合に。

しかし、である。
そうかといって原発事故そのものについての説明報告を避けては通れない。
今日の会の主題は「原発あれやこれや」なのだ。

いったいどうすればよいのか。
ここでケリをつけて、講演としては不十分かもしれないが、
会場にきてくださった人たちとのやりとりに移ったほうがよいのだろうか。
司会者には進行状況を判断する責任があると思うが、
いったいどうすればよいのか、なかなか決められない。

野呂さんは話しながら私のなぐり書きしたメモを読み、たちまちすーっと話をおさめた。

遠慮しいしい何度か野呂さんとメールでやりとりをし、集めたみんなの質問を送り、
さっきの発言についても、こう思うとたどたどしくお伝えしてあった。
それが野呂さんにわかってもらえていたのだということに、
もうすごくびっくりしてしまった・・・。

そこで私は、会の流れを「会場の参加者と野呂記者の一問一答」に切りかえたのである。


2013年7月30日火曜日

みっちゃんが東京新聞にでてる!


今朝、朝刊をぱらぱらめくっていたら、多摩のページにみっちゃんの写真が!
記者さんと話をしたと聞いたけど、こんなに大きく扱ってもらえたなんてびっくりした。
自分の顔がきにくわない、トシを書かれたと、グチってる声が聞こえるようでおかしい。
実際のみっちゃんは、なんともやわらかで純粋無垢という印象。
きれいな人だから、私のまわりの人たちは、いつもみっちゃんを、ちらちら眺める。
なんだか気がやすまるし、不思議だし、気持ちがいいからだろう、きっと。

今日の記事はみっちゃんが代表をつとめる被爆者を支援する町田市の
「町友会とともに生きる会」が発行した小冊子、
「被爆のこころで 7」の紹介、宣伝が目的である。

寄稿した人たちは、長崎・広島の被爆者4人。福島の被災者3人。
編集のしかたがとてもよかったのだろうと思うけれど、
どの文章もわかりやすい。
読む人が納得するように語られ書かれていることに、おどろく。

みっちゃんとよく行く喫茶店で、私がついつい、読んでみてくださいとお願いしたら、
そこはウィークエンド・カフェという小さくてとても静かな洒落たところだけれど、
私たちがランチをおわりお茶をのんでゆっくりしているあいだに、
女店主は厨房でひっそり、おどろいたことに大半を読んでしまい、
読んでよかったです、
こういうことを私なんかよく知りませんから、
と店に置くことにして下さったのである。

みっちゃんはとても喜んだ。
自分じゃなかなか頼めないと言う。
私も自分の開く会のことを自分から頼むって、たいへんだ。
人のためならがんばれるけど、自分のためとなると難しい。
こういう美質まがいの弱点?をなんとか乗り越えないと、
いろいろな運動も活動も、大きくはなれないのよねえ、どう考えても・・・。



2013年7月26日金曜日

東京新聞、野呂記者と


今日は、原発をどう考えたら、ということで
「原発問題あれやこれや・野呂法夫記者にきく」
という会をひらく日だ。
野呂さんは東京新聞「こちら特報部」のデスクであり原発報道の率直さゆえに、
ふたつの賞を受けた人である。
大記者なんだと誰かが言っていた。
「第六十回菊池寛賞」と「第一回日隅一雄賞」
有名で伝統ある誰もが知っている賞と、できたばかりの賞である。

この会は私が考えたものではないが、なりゆきで発起人の一人となった。
発起人は三人いて、気がつけばみんな、
かつて小学校と幼稚園で教えていた者である。
孫がいて、団地のご近所さんで。
私は団地住いのよさを、しみじみ感じている。
人間の関係が、もちろん人にもよるけれど、楽しく、感動的なのだ。

野呂法夫記者が、きわめて誠実だということに驚かされた。
メールにも、電話にも、あっというまに対応してくださって、
傲慢不遜なところが全然ない人である。
私には新聞記者の生活なんて想像もできないが、
講演会のレジメをつくるに際しての、手抜きをしない努力の仕方にはビックリだった。
選挙だって終わったばかり、八月一日の転勤移動を控えて、
いったいどれほど多忙な毎日の隙間でこの努力がされたのだろうか。

講演のお願いをして、今日の日がくるまでに、
原発の話をきいてみることさえ、考えることさえ、拒否する人にたくさん出合った。
参加者が少なかったら少ないなりに、実りのあるよい会にしたいなあと思う。
気持ちのよい集まりは、好意や、人知れぬところでの努力や、
よりよく生きてみたいという意志の積み重ねである。
会が終われば、そういう人たちが案外自分のまわりには多いとわかる。

しっかりしよう。
あしたから、また元気に生きて暮らしたいものである。


2013年7月24日水曜日

選挙がすんで

新聞のコラムに鎌田慧(さとし)さんの短文が掲載された。
「選挙がすんで」というタイトル。
こう書いてある。

 「期日前投票所に人影がなかった。投票率が低かったら、
 団票の多い与党が有利になる。不安を感じたが、予想通
 り自民党の圧勝だった。野党側の四分五裂は眼を覆うばか
 りで、民主党への批判票は共産党に流れ、沖縄と脱原発の
 運動が、糸数慶子、山本太郎さんを辛うじて議会に送った。
   いま、ピースボートに乗船して、ベトナムのダナン港にむか
 っているのだが、これから先を思うと気が重い。自民党は  
 「絶対安定多数」に自信を深め、改憲準備を進めのだろう
 が、その前に米国側の要請を受けた、「集団的自権」行使
 の合憲解釈にむかうであろう。
 憲法第九条二項が禁止している「国の交戦権」を認める閣議
 決定をして、内閣法制局と対立するのだろう。また原発の再
 稼にこだわる安倍首相の圧力に、原子力規制庁はどれだ
 けできるか。
 戦争と原発への反対を表明している公明党は、閣内にいて
 どれだけ抵抗するのだろうか。国会議員を選んだわたしたち
 は、国会の外にいて、戦争と原発再稼動への批判の声をさ
 らにさらにひろげ、本気で行動すべき正念場を迎えた。
 まず安倍政権は秋に「秘密保全法案」を提出しそうだ。昔の
 自民党のような数に任せた傲慢政治を許さない、日本の平和 
 と安全をつくる、共同の運動がこれから必要とされている。」

全文である。こんな字数で、こんな指摘ができるなんて、鎌田さんはすごい。
とにかく、秋はもうそこまでやって来ている。どんぐりは木の上でもう実をつけ、
糸トンボも水辺からふわっと飛んできた。
本当に安倍政権はこの秋、「秘密保全法案」を提出するのだろうか。見てみたい。
なんの秘密を保全するのだろう?
みんなの政府なら、なんにもみんなにかくさない、おおらかな政府であってほしい。
秘密より日本人の不幸の回復を、みんなの必要をまず満たす政府がいい。
アメリカの要請がなんだろうと、交戦権禁止をうたう自分の国の憲法を守ってほしい。

選挙の結果を知りたくて、ひさしぶりにテレビをみてビックリした。
ニュースキャスターというのか、昔でいえばアナウンサーだけれど、
女の子の目がおかしい。なんであんなに恐ろしいようなぎらぎら眼玉なのときいたら、
カラーコンタクトのせいだと、よく知っているヒトはそれが当然のように話す。
半カツラかぶってバレないと思っているらしい初老の誰それが、政治家だったり
大学教授だったりって、もしかしたらそっちのほうが印象がよいのだろうか。
これじゃあ、私のように容貌にめぐまれない者は立つ瀬がない。こんなありのままを
認めない不自然な世界が、いいわけないとウンザリだ。

選挙や政治を思うまえに、なんだかもう、そっちでイライラしてしまう。
事実をありのままに歪曲せず伝えることが役目の者が、男も女も内面は問題にせず、
化粧おばけとなり果てて、毎日がパーティーといわんばかりの格好だなんて。
なんでこうなったのか、さっぱりわからない。
こんな世界が、私たちみんなにとって居心地がいいわけがない。
平和や安全や、共同の運動は、自然を無視してのし上がりたい人間に指導されて
うまれるものだろうか?

なんだか手に余る現実がのしかかる昨今だ。
本気。正念場。
本気も正念場も、行動も、ほんと手に余る。

2013年7月23日火曜日

手工業的くらし


4月にライブを開いた。
朗読と弾き語り(歌)と英語の朗読という組み合わせなので、
頼むのも、人に集まってもらうのも、準備もたいへんだった。

6月の末には朗読の発表会を開いた。
一ヶ月に一回の練習を、朗読者の都合にあわせて「何回でも」にした。
その合間をぬって原稿を書く。

これがパンク・バンドのCDの解説という難題。
「書けっこないだろう幾らなんでも」
というのが大方の予想だったから、それが出来たらオリンピックみたいな感じよねと
引き受けてしまった。
さてそれで。
CDを受け取り、歌詞カードを受け取って、CDプレーヤーを前に腰掛けたけど、
どんなにガチャガチャやっても音がどうしても鳴らない。
CDのスウィッチってどれなの?と電話で息子にきいたら、
「うちの母さん、CDがかけられないって言ってるぜ、おいおい」
電話のむこうで長男があきれ声だ。
忙しいのに悪いと思うけれど無理にも教わる。
これから解説を書こうというのに曲がきけないなんて私だってこまる。
説明がやっとわかった。
「最初の曲がかかったわよ、助かった」
私はありがとうと電話をきる。
CDは調子よく①を何回も繰り返している。
ふーん、おなじ曲を2回やるの、3回やるのと、それが演出なのかと聴いてると、
これはやっぱりおかしい、こんなはずはないと7回目ぐらいには私も思うわけである。

こわごわ、あっちを押しこっちを眺め、やっとわかったことがあった。
このプレーヤーには、無限におなじ箇所を再現するボタンがあり、
その隣りには、一曲終わると次の曲にスッと進んでくれるボタンもある。
そういうわけかベンリなものだ、とナットクしたけど、疲れた。
私って時代おくれ。
でもそれからの私はすごく順調。
もうずーっと、54曲分?CDをつけたり消したりつけたり消したりし続けて、
ハード・ロックもといパンク・ロックの解説?を書いたわけである、とにかく最後まで。
私は全曲ぜんぶ解説してしまい、その結果そんなことした人なんかいないとと言われ、
だれかほかの人の解説を読んでみたことはないのかと聞かれ、
しょうがない全部のっけようかしらとも言われたけれど、
書き直した。
いくぶんか短く。

こんな私にヒトは何故解説させようとしたのか。
それはまたべつの話である。


2013年7月22日月曜日

7/18 鶴三句会


春の句会が、さまざま延びて、今日三回目の「季語は春」の会。外は炎天なのに。
31番から48番までの17句を楽しむ。
あらヘンだ、これはダレの句、オレの句かという感じ。忘れてしまっているのである。、

パタパタと梢を見れば凧哀し

おかしいなこれはええと、ヘンだな、イヤしかしやっぱり・・・。
「たしかワタシがつくりました」と言いつつ、細田さんはまだ首をひねっている。
凧(たこ)哀し。哀しくない。おかしい。自分でも笑っちゃってる。
なんたって4月25日から持ち越して、それでどうしても最後までやろうというのだ。
トシをとるとなんかこう、やめられないのよね途中では。

故郷(ふるさと)の街なつかしきリュウジョかな

村井さんの句である。リュウジョとは、春、柳の熟した実から飛ぶ綿毛のことで
むかし読んだパール・バックの本にたしかそんな場面があったなあと思い出す。
大陸にいた方ならではの郷愁というものがうらやましい。
子どものころ。学校に通っていた道。異国の街一面に舞い散る綿毛。
さて、今日は(というか三ヶ月前には)、流れるようにきれいな句がいくつか。

嵐去り花に埋もれる古寺で待つ
永き世を慈しまれし雛飾り
大木を伐る老師いて春来る

嵐去り、は小林さんの句である。
小林さんは作句にあたってはヒネる?のだ、それもイミシンに。
嵐のあと散ってしまったかと心配したけれど幸いにも古寺の桜はまだ満開、
その花の下である人に「会う」・・・よりも「待つ」のほうがいいかしらんなんて沈思黙考。
つまり遊んでいるわけでしょう、俳句をつくりながら?
「いいなあ」と宇田さんが、苦味ばしった声で、
「こういう境地から離れて何年にもなるけど、ワタシなんかはねっ。
いやすばらしい。こういう句を作る人はあと三〇年は大丈夫ですよ、羨ましいまったくねっ」
ええと、そうなると百才まで生きるということかあ。
ちなみに小林さんが作成中の防災ノウハウの文書はすばらしい。
具体的で、読んでもめんどくさくならない。イザという時の備えに自分も用意してみたくなる。
つまり頭もとてもいいわけで。・・・そう、あと三〇年たっても小林さんは写真を撮りつつ、
思いがけなくもイミシンな句をおつくりになっているのかも、ですよねえ。

私ごとで恐縮であるが、
季語にまつわる評を三國さんからおききするたび、キッと平野さんのほうをにらむのが
私の句会におけるなんとなくの愉しみである、だっておかしい。

大人びた年長さん孫の声

誰かの遠慮がちな、これには季語がありませんよねえ?という声に、
まさかこれはちがいますよねと平野さんを見る。
三國さんがにこにこと、「売るほど豊富な季語をお持ちの方が」って。
やーっぱり平野さんなのがおかしいじゃないですか。
曰く、おれは季語のデパートだと言われたからさあ、今度のは問題提起なんだよ。
それで季語なしに挑戦。ケッコウですよねー。

散りかけて桜吹雪が川に舞う

これは永瀬さんの句。可愛らしくて素直である。
見たままだから、ああ多摩のあそこのあの川だろうかと微笑ましい。
三國さんがおっしゃるには、こういうとき、「とのぐもり」をつかうとよいと。
とのぐもるとは、雲がたなびいて曇るさまである。
「僕らはこまるとよくつかうんですよね」
ふーんなるほど、そういうことかもしれない。
・・・とのぐもり桜吹雪が川に舞う、
そうなれば、説明のつかない屈託がこの景色に加わって、風景が情景となる。
たとえば私などは、ああ灰色だ今日も明日もいいことは無いだろうとズーンと暗くなる。
いくら桜が咲いていたってそれもわびしい人生の象徴のように思えてしまう。
なにを隠そう、私は鬱的人間なのだこれでも。

ふいに咲き白さ目を射る雪柳

私も春は鬱になり易いんです、と川上さんが。
「自分としては春を迎える心の準備がまだなのに。
あの花ってある朝、突然咲きますよね、ぱーっと白く葉が緑になりかかると同時に咲く。
まだ春を早すぎると思わせる花なんです、私にとっては。
うわっと咲いちゃって。」
あーあ。私なんか18号棟の向かいの芝生の雪柳をみると、
そろってないぶかっこうだとそればっかり気にする。
春と自分のカンケイなんかもちろん考えたこともないのだ。
反省していたら、植栽二大老の笑って曰く
「わたしらは、蕾の具合で、これはあと2,3日でぱっと咲くなとわかってて待つからね」
人生はかくのごとく深くて広いものなのであーる。

「詠む聴く半々。おなじようにできることがだいじとはよく言われることで。
川上さんはそれがおできになる、大変けっこうです」
そういう三國さんのお話が興味ぶかく思えた。しかし。
川上さんや小林さんに備わっている、わきまえとか心構えとか意味深長とか、
そういう奥床しいものが自分にはなにひとつないって変じゃないの。
いったいどういうわけなんだろう、親のせいか。
三國さんは、童話俳句をめざしたらおもしろいのでは、と私に言われる。
あなたは童話的感覚だからと。
たぬき?きつね? オランダの羊?


2013年6月15日土曜日

「ガゼルのダンス」という帽子店


池ノ上というところは、
有名な下北沢の裏っかわにくっついて、
人工的予定調和の街から出かけて行くと
消えかける昭和のあとかたが建物にも感じられ、詩情がただよって美しい。
とくに夕暮れ時、
「ガゼルのダンス」店の、なんでもないような椅子に腰掛けて、
すぐ前の、北口商店街はずれの十字路をながめれば、
足早に通り過ぎるどんな人もが、奇妙に美しく見え、
みんなおとぎ話を乾いたその身に背負っているかのようだ。

・・・軽やかな赤い自転車、学校帰りの少女の二人組み、黒いカバンをもった人、
巨大でぴかぴかの乗用車、風にひるがえるシルクのスカート。
ほつれた髪の灰色の老人夫婦、乳母車を押してゆくか細い人。
サラリーマン、いかにものおじさん、日本人を見ていていつまでも見飽きない・・・。

十字路はななめ四方に折れ曲がって、
横のほうの不揃いなビルの白いカーテンの奥にぽつんと夜の灯りがともれば、
ああ、なんでこの小路に私は住居を定めなかったのか、
私の人生はけっきょくのところ失敗だったのだと、
ちっぽけな魔法が、つかの間、ヒトをからかうのである。
「ガゼルのダンス」とはサンテクジュぺリの著作「人間の土地」から選び出した言葉。
若い帽子制作者、息子の友人のアキヤマさんが開いたカフェの名である。

私は椅子から立ち上がり、
ガゼルのガラス戸を引き、風が通っていく外をながめる。
北町商店街はどうしてかマッスグに定規で引いた一本の線だ。

むかしは床屋さんだったゆがみの多い店舗。

やわらかい音楽が影の多い白い空間をただよい、
オレンジ色した古い布のスタンドに明かりがともり、
夕暮れが薄暗がりにかわるころ、
「ガゼルのダンス」店では、
あっちからこっちから集めた台所用具の堆積を抜けて、
緑のハートランド・ビールや個性的なハーブ・ティ、それから珈琲などにともなって、
ちいさな皿や不揃いのスプーン、すばらしくおいしい果実のなにかが供される。
1・5倍にもふくらんでのんびりした時間のなかで、
私たちは帽子屋のユメがつくった店内を見まわす。
アキヤマカナコ製作のいかにも古典的で可愛らしい帽子は、
(それはほんとに美しい)
いまのところ、まだそんなには飾られていないけれど、
床屋が残したのだろう昔の仕事場の面影とともに、
それをこんどは帽子屋に造り替えたアキヤマさんの
芸術的な腕前をぜひ見てほしい。
この女の子の工房、そして見知らぬ人々を心から迎えようという用意をだ。
帽子展示の季節がくるまで、
いまのところ、ここは自然にカフェなのだ。

床屋というと私はチャップリンの映画を思い出し、
チャップリンがじゃんじゃか弾いたヴァイオリンのことを考えたりする。

きのう私は仕事帰りのこだまちゃんのママと、野田さんと3人で、
「ガゼルのダンス」を見にいった。
店は6時から10時まで。水曜日が休みの日。
井の頭線池ノ上駅から北口商店街をまっすぐ歩いて3分。
こだまちゃんのママはサイケなサーカスの芸人を模った首飾りと
おなじ模様のネックレスがとてもよく似合い、雨用ナガグツが皮の長靴のよう、
もうにこにこと、いつまでもいつまでも、あれを手にとり、この花の帽子を被り、
帰ろうと言ったら10時になっていた。
眼が愉しくて、そんな時間までぼーっと遊びほうけてしまったのだ。


2013年6月13日木曜日

朗読発表会(6/30)の準備着々


チラシとハガキの準備ができ、バザーにだす外国製フクロウの数々の値付けも完了。
発表会の場所は長池公園の自然館(ネイチャーセンターという)で、
なんといいましょうかフクロウさんにはピッタリの環境。
フクロウ・グッズはみっちゃんの寄付、
世界中を旅行していた母上がフクロウを集める方だったのである。
みっちゃん、ありがとう。
なんとかして、あれをちょうだいねと寄付をせまって、
ごめんなさい。

肩のこらないユーモラスな音楽もと思ったけれど、
マイクその他の音響用設備がないところだから、けっこう難しい。
考えてみれば、そうよね。
そういうものがあったら「ネイチャー」とはいいにくい場所に、なるわよね。
ほんとはコオロギさんちの戸をたたき、スズムシさんちの窓をのぞいて、
セッションをとお願いするのがよいはずと思うけれど、
秋じゃないから時期もわるいし、
あっちから見ればこっちは、巨人ほどに大きいニンゲンだもの。

けれど、やっぱりちょっと楽しみたくて、楽しんでいただきたくて、
makimakiのシンセサイザーによる演奏をすこしばかり。
この人は私にとって魔法のランプみたいな人である。
幼稚園で働いていたとき、
いつか子どものための、すごく単純で気持ちのいい「遊んで動ける音楽劇」を
ふたりで創ろうと、私は考えていた。
慣れない園長仕事にくたびれて、モト本までmakimakiに渡してたのに、
それができなかったのは残念だった。

ま、いいか。人生はかなわないユメの集積。
今回は、魔法のランプmakimakiに、
スズムシさんやクツワムシさんやの代わりに、楽しく奏でてもらいましょう。
ところでかんじんの朗読をする8人は、一生懸命準備している。
声がとどかないかもしれない、気持ちがとどかないかもしれないと心配しながら。
でも、いいじゃない、知ってる人にくつろいでもらえたら。
・・・45人しか入れないちいさな会場での朗読。
みなさん、45人に聞こえる声を、なんとか出せるようになりましょう。
だってマイクがないのよ、ネイチャーだと。

練習のとき、私はいつも吹き出してしまい、笑ってしまい、
それから、時々泣きそうだった。
こういう時間が創りだせるということが、朗読の会の実力だと思っている。
文学をまん中に、感情と論理を交差させ、発表の日のために神経をとぎすます、
そこでつい自分のことがおかしくなっちゃって、みんなでワーッと笑うなんて、
そんなこと、ふつう、めったにできないでしょ。

2013年6月5日水曜日

明治公園の反原発集会で思ったこと


6月2日。
全国的な、を目標にした反原発集会にひとり参加。
けっこう決心して出かけた。
ひとり、はどうやら慣れたけれど、身体の調子だの、仕事のことだの
ついぐずぐず考えてしまう。

会場について、樹木の陰をさがした。
どこかの地方からきた「革新懇」の旗。その横の地面にじかに座って。
はやく着いてヒマなので、友人にメールしてみた。
ひとりは体調が整わず今日はパスしたとか。
もうひとりは会場にいるそうで、
あっちの方かとそっちを見た。
でも立ち上がるのも、混雑をかきわけるのもオックウで、そのままひとりでいる。

なかなか集会は始まらない。
太陽がじりじり照りつける。みんながお天気でよかったと言い合っている。
蕗の煮付けを作ってきた、これは母の日に嫁がくれた梅干、
なーんて元気がいい。
一人でいる私に敷物に座るように言ってくれたり、飴をぎゅっと渡してくれたり。
日陰の風がすずしいし、居心地もいい。

私は知らなかったんだけど、集会は明治公園と芝公園で行われたのだ。
明治公園の集会は地方代表たちのリレートークであり、
芝公園では大江健三郎さん、落合恵子さん、澤地久枝さんなどなどが演説。

いやあ集会がはじまると、違和感。
ここに集まってくる人たちは、デモの初心者ではないはずだ。
地方から集まってくるにせよ、私のように都内ひとり参加にせよ、
「万難を排して参加しよう、原発を即刻停めてほしいから、
外国に売りつけるなんてトンデモナイから、
明日の運命が心配だから」
そんなふうにあらかじめ考えて、ここに集まってきた。
いろいろ聞いて読んで、いろいろ自分で絵も描き字を書きもして。

大震災から2年がすぎた。
今日までにたくさんの集会があった。
そんな感じの人たちを前にして、なんでまあ司会者や舞台の上にいる人たちは、
みんながもう知っていることばっかりを繰り返すのか。
私だけじゃない、かたわらの青年たちも辛抱がまんの薄笑いをしている。
だんだん真夏がちかづいているのだ。
かんべんしてほしいなーと思う。
抗議デモの出発を待って、何時間かをムリにも過ごすのだ。
おさだまりの視点、耳タコの批判、あたらしくない情報をがまんして聞くのは
苦痛である。

この日の集会参加は、両公園合わせて3万人弱。デモ行進が8万人。
二年前とくらべて、あきらかに集会参加人数が減少している。
そうか今度からは私もデモだけにすればいいのかと思った。
考えてもらいたい、工夫してもらいたいことだ。


2013年6月3日月曜日

朗読の「くぼきんサークル」 5/31


金曜日にひらく
久保つぎこの朗読サークルなので
「くぼきんサークル」という名まえにしたのだそう。
多摩市民塾が六ヶ月で終了したあと、約半数の方がきてくださって、
こういう朗読の会ができたなんて、ほんとうに光栄です。

ひとりひとりの在りようが印象的でふしぎな雰囲気、
六ヶ月間おつきあいしてきたのですが、
それぞれの人が朗読する声音に見え隠れする、
いかにもの日本人「らしさ」が私にはなつかしい。
大震災いらい私は、ヒトのなかに嘗てあった風情をついさがしてしまう。
控えめで、地味で。まーじめ。敏感。親切でそして正直。
大笑い、というのじゃないんだけれど、少しばかり愉快そうな微苦笑。
こういうことって、同世代的だからこその共感なのかもしれない。
一ヶ月に一度、府中というにぎやかな街に出かけ、
みなさんの音読を、私も一緒になってきくなんて、
楽しい。

としをとった人の多いサークルには病気の人が多いと思う。
そうなってからも、声をだして文章を楽しもうという、その気概がいい!
笑いながら病気とつきあい、
文学の助けをかりて勇気をだし、
自分以外の人々の親しみぶかい姿かたちから、かしこく学ぶ・・・
そんな一年のあとで、深みのある楽しい発表会ができたらと思うのです。

5月31日は朗読サークル第一日目。
初日用にと私が選んだ詩と散文を朗読。
高田 渡の短い詩「風」
それから長田 弘著「詩人の紙碑」

けっこう漢字の多い、声をだして読もうとすると自信喪失しそうな、
「詩人の紙碑」にあった「角田柳作先生のこと」という文章。
やや難解。しかしどうしても読めないというようなモノではありません。
副題がー司馬遼太郎氏への手紙ー、手紙なのですもんね。
それに、たまにはこういう文章に挑戦しないと、脳みそが退化してしまう。
すがすがしい明治時代の日本人を書いて、実に気持ちのよい短文なのです。
頭の体操にと思いましたが、
漢字の読めなさに私は自分自身にもおどろいたけれど、
きっと誰かが読めるだろうとアテにしてたら、けっこうみんなダメ。
むかしはこういう時、見回すとどんな漢字でもすらすら読む老人がいたものだ。
ところが今では私がアテにされる立場の「長老」なのであって。
そうか、こういうことかと、
自分をふくめた戦後育ちの「弱点」と「傾向」を今さらながら実感納得。

いいじゃないですかね、今ごろつっかえたってね。
試験じゃなくて鍛錬なんだし。
はははは。

2013年5月29日水曜日

エイゴの日


けっきょく、いつまでたっても英語なんかおぼえられない。
くさりながら、洗濯をし、
休んでしまおう、それはダメだと、
気になっていた革靴をそれなりの洗剤で洗い、
ふだんは見向きもしないガラス瓶などをスッキリきれいにし、
そのスキマでもう百回は読んだにぎやかな小説を飛ばし読み。
それから英語の辞書をだし、
作文のための紙をさがしまわり、
6Bのエンピツは削らず、
そうだ、レトルトのカレーがあったっけ、
あれでお昼ごはんと
お昼ごはん。
それからいよいよ英語だと思うのに、
嫌だからまた、あれこれ逃げまわって。
いやいや今度こそ英作文だと
決心し、
そんなわけで英語教室に出かけたけれど、
クルマだから。
買ったばかりの息子の方向指示器が、
たのんでもいないのに右だ左だといって、
OFFを押しても黙らない。
うるさいなあと、
目的地までムリに自分で走るわけだけれど、
なんで機械が「停止」と日本語表記じゃないのかわからない。
エイゴの教室で思う。
みんなのいうことがサッパリわかっちゃいないのは
たぶん私だけなんだろう
どうしよう。
わからないのが耳のせいだか頭のせいだか
今の私には微妙にわからない。
それから思う。
まあいいや
聞いていよう
それがエイゴなんだろう、
ばかばかしいけど
しかたがない。
エイゴ関連の一日のどこが面白いんだかわからなくても、
もしかしてまた、
遥がくらすオランダに出かける日には、
飛行機や外人や見知らぬ国の電車やらが、
まったくもってキョウフなのだから、
そのありもしないかもしれない未来のキョウフにしばられて
というのが、
けっきょく私の
脅迫観念にしばられた
通過儀礼なのかも、なんだから。


2013年5月28日火曜日

おきゃくさんの日 5/23


ちいさなライブがどうにか無事にすんで、
それからもっとちいさなお茶の会をひらいた。
ある病人をちがう病人にあわせるためにひらいた会だった。

すごい病気にかかったと知らせを受け、
即入院という診断だけど通院するという彼女に
それならば、
私がかねてから尊敬している天才に会ってみたいかときいてみた。
私はこのあいだ
その人の手術と入院の話を、朗読の日にみんなできいたばかりだった。
そして彼女の話術や、勇気や聡明さを、たぐいまれな陽気な気質を、
いつかだれかにかならず見せようと決めたところだった。
よし!という気になれるからである。

でもメールなんかじゃくわしい説明はできない。
爪の垢を煎じてのみたいほどの「入院上手」がいるけど会いたい?
とポツンポツンとメールを打ってみた。
そうしたら、以心伝心、よかったことに病人が、
うん、話しをきいてみたいと言ったのである、メールの返事で。

私はそのちいさなお茶会を6人でやろうと思った。
ある病人とちがう病人、
地味で優しくて大病人の気持ちをよくわかってくれそうな3人、
スグひっこんでしまいそうな人をたぶんホッとさせる親たち。
それに私である。

3人のうちのひとりが、べつの用事だったのに「入院上手」をひっぱってきてくれた。
私が電話じゃなく直接たのめるようにしてくれたのだった。
なんていい人なんだろうか。
こうしてお茶会がするすると成立した。
病院は病気を治そうとする。
もちろん治してもらわなきゃこまる。
しかし、病気ってたぶん「治療」だけでは憂鬱きわまりないシロモノなのだ。
見通しや、病気になったそもそもの原因の調整や、友達がいるという気持ちが
つまり、のびのび病気とつきあえる環境がだいじなはずと思う。

治る、なおる、治ると考えよう!自分は病気とかしこくつきあえると。
お茶会はすごく楽しかった。
「病気の話なのにあんなに笑っちゃって」
とうれしそうなメールをあとからもらったけど、
天才さんのお話は思ったとおり二度聞いたって新鮮で、
まあホントに私なんかあの真似はできないと思いつつ、
なんとかあんなふうに人生をあい渡りたいものだとみんなで思ったことである。

2013年5月27日月曜日

小島 力さんの詩


帰れない朝
  武蔵野市・都営アパートで

まだ覚めやらぬうつつの中で
今朝は伸び始めたじゃが薯の芽に
霜除けの土寄せをしようか
しとどに朝露を浴びた
さやえんどうの緑を摘もうかと
もしかしたらもう帰れないかもしれない
福島の日常をまさぐっている
次第に目覚めてゆく知覚が
仮の住まいの支給された布団の
感触を伝えているのに
日々遠のいてゆく福島の朝を
まだ手さぐりしている

都営住宅のヴェランダに立てば
団地の空は
今日も薄日の高曇り
新緑の銀杏並木の梢を越えて
遠い潮騒のような都会の朝の騒音が
伝わってくるので
まだ住み慣れない町の暮らしが
速すぎる秒針みたいに
進み始める

阿武隈の山ひだにへばりついた村々や
原発の足元にうずくまる町々が
ワイパーで水滴をはじき飛ばすように
たった一晩でリセットされた
あの日
眼に見えない恐怖に追われた
避難先たらいまわしの
暗夜の記憶

だからもう
決して帰れないかもしれない
福島の朝は
草木にも道にも田畑にも
ふるさとの風物のすべてに
セシウムやヨウ素が
霜のようにびっしりと凍りつき
放射能という醜悪な武力で
占拠され 蹂躙された
ふるさとである

(西田書店)

定義


武蔵野市は三鷹や吉祥寺がある地域。
そこで福島から避難してきた詩人の「涙茫々」という詩集の出版記念会が行われた。
三人の来賓が前にならんでパイプ椅子に腰掛けていた。
武蔵野市長と詩人の石川逸子さんと西田書店の代表だった。
三人は偶然にもおなじ色調の正装、生なりの麻のスーツで、
ああ夏になったのだと私は思い、懐かしい美しい光景だとしみじみ思った。
詩人はどこにいるのだろうか。
私はこの出版記念会があることを新聞で知り、
連絡先とある詩人の電話に申し込みをして、
岩崎暁子さんと菜摘子ちゃんをさそい参加したのである・・・。

正直なところ
都会でくらして、
メタセコイヤの大木なんかがならぶ通りに
ありがたく住んでいると、
目は庭の木の緑の枝や
私が植えたスイカズラの淡い色をさがし、
この空気には
まがまがしい放射能の毒がまざっているのだと思うのに
不人情になる
もっと直接的な
苦難にあえいでいるのだろう人たちを
どうしても忘れてしまう

親が
そんなふうなニンゲンじゃなかったので
私の血という血は、
いつもふたつにわかれ
ふたつによじれて流れる
ラクをして生きてしまい
もうしわけないことである
私は時々発作的に、
よい人みたいにふるまうが、
あとはぜんぶ自由ワガママ勝手にやっていて、
いつだっておちつかない

テレビはきらい、
新聞の政治面には歯がたたず、
教科書もダメで、
ああ、こまったあげくのはて、
当事者が語る集会にでかけて、
なんとかいろいろわかろうとするが、
いつだってそこにいるヒトたちとおなじ生き方ができない・・・
ではそのかわり
いったいなにをするのか
いったいなにをするのか
こまっていたら
図書館で
こういう定義を見つけた

「 地図の端っこに、いまにも海にこぼれ落ちそうについている    こんな印の中で、孤独、
焦燥、かずかずのジレンマと闘いながら、ふなびとを守る光一すじに一生を捧げるその
あけくれは、うらやましいほど美しい。波の音と、霧笛にすぎるその日々の、唯一のささ
えになるものは、人間同士の信頼と協力以外には何もない。ヒトをそねみ、そしり、疑う
以前に、根の張った和で結ばれている事実は何よりもすばらしい。インタビュウーの最
中にも、誇りと自負に満ちたほのぼのとした雰囲気を感じて、日本全体が、もう少しこん
なふうであってくれたら・・・と思わずにはいられなかった。」

これは故高峰秀子さんの灯台守夫婦についての文章である。

こういう一生を送ったのだろう人、詩人小島 力さんは、
福島県葛尾村の郵便局員であった。
労働運動と音楽運動に一生をささげたヒトでもあった。


2013年5月23日木曜日

ここのところ


ここのところいったいなにをしていたのか。
横浜に自動車に乗ってこわごわ出かけ、
病人のことでケースワーカーと打ち合わせもしたし、
きのうは狭山湖霊園へお墓の掃除にでかけた。
義務はなんとか。

でもウデやあっちこっちが痒いので、ひまである。
なんにもする気がしない。
よくしたもので、
ものすごく面白い韓流時代劇をじっと観ていた。
「根の深い木」である。世宗大王の誓い、が副題。
これはすごい。
すごい。
しかも俳優がいい。主役も脇役もいい。
殺陣が見事だし。
天皇制軍国主義を日本が清算できたかにみえた1950年や1960年のころは、
日本だってこういう重厚で思慮深い演技をする俳優が多かった。
「根の深い木」はいつごろの作品だろうか。
韓流も最近作はどうもよくないときくけど。

本もなーんということはないのに、
ナミダがあふれるような。
時がふかぶかとやさしく素直にすぎた、そんな記録を読んだ。
「夫の右手」という本。求龍堂の本である。
画家・香月泰男の奥さんの、思い出の。
むかしそのもの。
過去。
こんな心地に、
どうしたらもどることができるのかしら。
私たちもみんな、
ただ一生懸命に生きていました、
ただそうだったんです、ということだったらいいのにね。

メタセコイヤの大樹がうちのまえに一本。
柿の木もみどり。
きょうはお客さんがくるから、
とてもうれしい。


2013年5月22日水曜日

不調な日々だと


なにかにかぶれたらしくて、肩から上がかゆい。手の甲もかゆいし。
顔がむくんで、調子がよくない。
私はどっかが悪いんだ。
具合がわるいからずーっとユーツである。
にっちもさっちもゆかない無気力。
原因をあれこれ考えるのがメンドーでいっそ皮膚科医院に行くことにする。
だけど病院の名まえがわからない。思い出せない。
診察券は古くなったので捨てた。そういう感じがする。
思案投げ首、あーもう鬱陶しい。
私がおぼえているのは、そこの女医さんがとても好きだったこと。
それなのになんでかすごく待合室が空いていたこと。
南大沢の大きな建物の横の坂をのぼって、駐車場のわきをクルマで走ったこと。
一軒家みたいな医院。
これだけしかおぼえていないけど、とても行きたい病院でしょ。
どうせ薬をもらうなら、あそこがいい。カンジがいい。
気分の問題なんだけど。

さて私にはちょっとスーパーな若いともだちが幾人かいて、
これが幸運のはじまりだと思うけれど、
一人はそういう病院がたしかにそこいらへんにあったと受けあってくれ、
名まえはわからないけど、ご主人が内科医でご近所で開業しているはずだ、と言った。
なんだかだんだん判ってきた感じ。
それでこのヒトならホントにわかるかもと、もう一人のともだちにたのんだら、
確かじゃないけどここかもしれないと、医院名と電話番号をおしえてくれた。
どうやったのか、だれの携帯電話でもそうなのか、
私がメールをもらうと、青い番号があって、それで電話が病院にすぐかけられる。
彼女たちは母親なので、いろいろなことをよく知っているわけなのだ。

目的の医院も女医さんも、
あのときのように感じがよいまんまだったけれど、
今度はすごく混んでいた。
ぽかーんとダレもいなかった皮膚科医院のあの午後がなつかしいけど、
混んでいてよかった、さもありなんと、うれしい気がしたのも私にはよいことだった。
不調な日だとなぜだか、
だれかのお世話になるということが、物語のように新鮮に感じられるのですね。

2013年5月16日木曜日

朗読の発表会をひらきます


ちいさな会を計画しているのです。
ユメの実現。
たぶんお客さまは45人ぐらい。
場所はまだきまっていませんが、日時はきまっています。
6月30日、日曜日の午後2時から。
会費は500円です。
手作りのかわいい出店もあって。
ご参加くださるとすごくうれしいです。

朗読の会というと、朗読上手があつまってという感じですが、
いま私がみんなと計画しているのは、
こんな時代にこんな人がいるということを楽しく温かく知ってもらうこと。
思わずのんびりするような時間と空間をつくること。
自分の考えを文章のなかに見つけて、
ちゃんと元気をだしてもらうこと。
私たちの子どもたちに(もうおとなになった子どもだっていますよね)
自分としてはなにを伝えたいのか、
それを立ち止まって考えてみることです。

今回は子どもからのメッセージを群読してみようと思って、
ケッサクな作文をひとつふたつ選びました。
私たちは親になったけれど、
むかしはやっぱり子どもでした。
子どものとき思ったことは一生もの。
忘れられないんですね、かなしくてもうれしくても。
あーら、あらと朗読をきいていただけたら幸せです。

もしかしたら私が池袋で出あったステキな人たちのバンドが(交渉中)、
音楽を奏でてくれるかもしれません、自由で上等な♪音楽を。
ちいさな朗読の会。タイトルはまだ決まっていませんが、
「希望をもとう!」という気持ち。


2013年5月14日火曜日

ホーリネス系教会にいく


英語のクラスが火曜日に始まると、
「あなたはゴールデン・ウィークのあいだなにをしていましたか?」
いつものように問いかけられる。
富士山に登った人もいたし、掛川の古典的温泉へという人もいた。
孫と遊園地へという人、映画を見たという人。なんにもしなかった人。
私もやっぱりあれこれしたけど、
ゴールデンウィークのあざやかな記憶というと、「集会」見物だった。

「堀の内教会へ行きました。憲法を変えることに反対する勉強会でした。」
と、私は言った。
でも私は教会だけじゃなくて、あっちへ行きこっちへ行きしていたのだ。
英語でしゃべれないだけで。


4/26
町田で都知事選に敗れた宇都宮健児さんの講演会が行われた。
「日本・国民のこれから」というタイトル。
2011年3・11の大震災・大事故以来、
私たちはこれからをどう覚悟し、どうきりぬけていくのか、考えない日はない。
どうだっていいや、なるようにしかならないと思う日がほとんどでも、
すこしでも見通しをもって、と、やはり思う日もある。
宇都宮さんのお話をきちんときいたのは初めてだけれど、
これほどの人物はめずらしいと思う。
百選練磨の弁護士たちを統率する「日本弁護士会」の会長だったというのはスゴイ。
貧困問題専門という過去の弁護活動歴。
気持ちがこまっている人のほうを向いているのだろう。
それでいて上下左右にしたたかな人脈、弁護士だから。
法律のめんどくさい解釈など、職業柄、平気の平左衛門。
現行憲法重視。論理的で話もわかりやすい。


4/28
1952年、4月28日はサンフランシスコ講和条約発効記念日。
今年は記念式典から退席する天皇夫妻に、
「天皇陛下バンザーイッ!」
会場のだれかの掛け声にのって、アベ総理等が万歳をあびせた。
まともな神経の持ち主ならば、
「そういうことを致しますがよろしいですか」とあらかじめ了解を得るのが礼儀だ。
自民党は「憲法改正草案」で、天皇を「象徴」から「元首」に規定変えしようとしている。
もしかしたら国民投票の結果、日本国憲法はそんなふうに代わるのかもしれないと思う。
この日、私は日比谷図書館で行われた沖縄の人の講演会へ出かけた。
サンフランシスコ講和条約締結によって、日本は自由を獲得したが、
沖縄、奄美大島はアメリカの植民地にされ、以後どれほど不平等に苦しんだか、
投獄3回みたいな、ずっと抵抗してきた人たちがデモ行進を前に壇上から語る、
抗議集会、気がつくと講演会ではなかった。
翌日新聞を読むと、集会の後のデモ行進は、参加者400人だったという。

5/3
日本ホーリネス教団・堀の内教会の「改憲を許さないための集い」へ。
講演はクリスチャン新聞編集長の根田祥一さん。
主催者の挨拶がすばらしいと感じた。
教会の小枝牧師さんが挨拶されたのだったけれど、
冒頭から、この堀の内教会の歴史を語る、というもの。
はじめは教会も戦争協力を行ったと述べられ、
ホーリネス系教会は戦後、教会の戦争協力を公表、
二度と過ちを繰り返さないと組織をあげて誓ったと、話された。
短いお話だった。
戦前信者たちによって建てられ、弾圧をうけて崩壊し、戦後やっと再建した、
そういう堀の内教会の板の上で耳にする歴史。

そういえば宇都宮さんは、4/26の講演中、
創価学会は憲法を変えることにまだハッキリ賛成していないと話したが、
それはもっともなことだと思う。
創価学会理事長であった戸田城聖さんは戦時中投獄されていた。
信仰をもつ人たちにとって、神や仏を天皇の下におく思想は、
受け入れがたい深刻な問題にちがいないと思う・・・。


2013年5月2日木曜日

「ピアノマニア」という映画


おそらく夢がかなって生きるとは、こんな幸福のありようを言うのではないか。
これはドキュメンタリーなのか、幻想のドラマなのか、
よくわからないまま、魅せられて、1時間40分が過ぎた。
ピアノの音色が素晴らしいことはもちろんである。

シュテファン・クニュップファーというピアノ調律師のある一年間を語る映画。
(オーストリア・ドイツ合作)。

フランスの高名なピアニスト、ピエール・ロラン・エマールが、
「フーガの技法」(バッハ)を録音する。
演奏用に彼が選んだピアノは、スタインウェイ社の逸品『245番』である。

映画は、ひとりの細身の調律師の仕事と日常をひたすら追い、
世にも厳しいピアニストの、あらゆる希求をかなえようとするクニュップファーの
仕事、性格、生きるということを、私たち観客に、
あたかもあるがまま、そのままのように、見せてくれる。

映画には監督とか撮影するクルーがいて、たぶん膨大なフィルムを編集する
技術者もいるのだろう。
しかし、この映画では、ドキュメンタリーだとは信じられないほどに、
映画を撮る人達の存在がかき消えているので、
観客がドラマのなかで自分の夢を見ているような、そんなことが画面に起こるのである。
デリケイトな幻想にも似たひとつの人生が、
ドイツの地味なピアノ調律師の姿をかりて、浮かび上がるのである。

ああ、いいなあ。
真実と確実に向き合う人生の、なんとわかりやすいことだろう。
ピアニストのいかなる要望にも躊躇なくうなづく姿。
相手のすさまじい要求に、制限をもうけず応えようとする幸福な微笑。
調律が演奏の一部だという当然の生き方。
一流の演奏家が要求する音は、かならずおなじだという見識。

たぶんそれは、子どもを育てたり、なんとかよい仕事をしようとする、
私たちみんなの気持ちと、どこか似ているのかもしれない。
よりよく生きるとはこういうことをいうのだろうと、うらやましいけれど、
しかし一方で、あの孤独な、地味な、しあわせそのものの姿から、
だれかの役に立つように生きたいと願うヒトの魂の奥底には、
こういう姿、こういう日常、こういう心意気がしまってあるはずなのだとも、
思わずにいられなかった・・・。

つまり「ピアノマニア」は、ヒトの幸福を語る映画だったと私は思う。



2013年4月26日金曜日

第4回 鶴三会句会


句会の翌日、今日は輝くような好天である。
青々としたメタセコイヤが強い風にうねっている。
これは、木下さんが詠まれた「春北風(はるならい)」とはちがう風だなと思う。


西行に見せたや多摩の桜かな
若葉もえ空に伸び行く欅かな
木蓮の花痛々し風走る
春あらし御衣黄(ぎょいこう)も散らしけり
春北風去年(こぞ)より強く花(さくら)白し
朝日浴び薄紅の滝しだれけり
黄昏の風ひとふきし花吹雪
我が指をつつき遊ぶや残り鴨
春北風吹きあれてなお蕾つけ
坪庭につつしみて咲くえびねかな
花吹雪想い何処や六地蔵


なんと私たちが住む鶴牧界隈は美しいところではありませんか。
春たけなわ句(苦)をもとめて、
楽しくさまよう心を好ましく思わずにはいられない。
五十句がとどけられ、二十句が披露されたが、
よしあしはあれ、
句会に集まる親しい人たちの、複数の目がとらえたこの春が素晴らしい。

西行法師を詠った中村さんの句から、話がはずんで、
「ねがわくば 花の下にてわれ死なん そのきさらぎの もちづきのころ」
という名高い短歌まで、
いささかの毒をはらんだ西行の家庭からの遁走の様子などもみなさんが語られ、
いつものことながら、おどろきもし心にも残ったのでした。

切り株や我にうらみのヒコバエが

上記は細田さんの俳句だけれど、労働歌のようで今回の私の一番はこれ。
どういうわけか、切り株をかこむ周囲の、伐採をまぬがれた樹木の深緑の色が、
読むなり鮮やかにパーッと頭の中にひろがった。
花のなかにてわれ死なんという感傷とはちがうなにか、
行動をともなっての句の地味な輝き、
三國さんがおっしゃるには、木を伐ってしまう心の痛みがあっての句であると。
本当にその通りとみなさんがうなづいておいでだったけれど、
細田さんをよく知るからこそなのか、句それ自体のもつ力なのか、
ヒコバエ談義も私には新鮮、おもしろくうかがった。

リアリズムばんざい!みたいな。
私のこういう感覚は、若いころ新劇にいて、リアリズムリアリズムと、
先輩方がいうのを耳にしていたせいにちがいない。
私が育ったのは、物書きと編集者の家で、
そこでもまた、私はリアリズムということばを、よく耳にしていた。
子どもの耳でお経のようにきいていたことばが、
俳句の世界にゆっくり連座させていただくことによって、
ああそうなのか、父たち戦後の日本人はこういうことを思ったのかと、
しみじみ得心するのだから贅沢なことではある。

細田さん宇田さんによれば、
植栽関係では植物の名称はカタカナ表記が原則だとか。
名称の正確な伝達こそ表記の目的だからである。
一方、俳句の場合は、できるだけ漢字をつかう練習をすることがよいのですって。
漢字は意味表記というのか、文字そのものが想像を産む。
今回の句からひろえば、
「御衣黄」や「木蓮」「黄昏」「坪庭」、それに「欅」も「花吹雪」も。
漢字のもつ力ということを三國さんは言われ、
あらためて季語の力について、季語をさらに説明してしまうことは避けるようにと、
いましめることでもう一度強調された。
誰もがついやってしまうことなんですがと。


2013年4月23日火曜日

ニワトリのゴンちゃん


千樫がひとりで泊まりにきて、朝がきた。
五才である。
保育園に送っていくのだが、
そこはむかし私の息子が通っていたところだった。
おなじ保育園がすぐご近所に移動したのである。
七階建てみたいな新築都営住宅の一番下の階に。

改悪、という気がした。
べつによく見たわけでもないんだけど、わびしくなっちゃった。
千樫は遅刻を気にしながら、靴を脱ぎ、あわてたふうに上着を脱ぐ。
「また泊まりにきてね」という私に泣くのをこらえた顔でうなづく。
私の子どもだって、どの子も泣きべそをかきながら、
世にもおっかない私という母親に護送されて?
保育園の門扉を入っていったのである。
あのころは私も若かったし、
保育園でもいちばんビンボーという感覚だから、余裕もへったくれもなかった、
知らない、かまうもんかという、それだけのものだった。
しょうがないよ、千樫、こんなもんよ人生って。

でも、それで思い出したのがニワトリのゴンちゃんである。

調布から桜上水に引っ越して、保育園をいろいろさがしてここにたどり着いたとき、
園庭では保母さんがふたり草取りをしていた。
ふるいタオルに麦わら帽子、
にこにこしていたかどうか忘れたけれど、親切な人たちだった。
ちょっと強面(こわもて)のニワトリが一羽、
遠からず近からず、キョロッキョロッと、そこらへんを歩いている。
「放し飼いなんですか?」
そうたずねると、草を引っこ抜く手を休めず、
「ええ、まあ。子どもさんがいる時は鶏小屋に入っててもらうんですけどね」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。まあ小屋だけじゃ鶏もあきるだろうし。こうやって」
時々放してやるんだとか。
ふーん。
「子どもが喜んでかまうと、怒って突っつきますからね、ゴンちゃんがね」
「・・・ゴンちゃん」
なるほどそんな感じの雄鶏だ。
「正式には権太というんですけどね。」
保母さんは草取りをしながら、私たち夫婦と話をした。

この鶏は気にくわないとなると大人にだってかかってきますから、そうだろゴン?
まあ、気が強いし、悪口もわかるんでしょ。
こないだなんか、おまえ、卵を突っついて食べて怒られたんだよねっ?
「卵、突っついた?」
ゴンを見るとそこはニワトリ、知らん顔だ。
そうですよ、癪にさわるじゃありませんか、せっかく産んだのに。
だから言ってやったんですよ。
アンタねえゴンちゃん、アンタ、ニワトリだからって仮にも親でしょうが!
親が自分の卵、食べるってどういうんだ!
「ゴンちゃんは? どういう態度だったんですか?」
「そりゃ、しらばっくれてましたよ」
保母さんたちは顔を見合わせ、ねえまったくとかなんとか言っている。
私はこの冗談っぽい保母さんたちがすっかり好きになり、
園長先生に会わせてもらった。
「ここはね、ほらあそこ、あそこで専門の人たちが作ってますから。
ここは給食もとってもおいしいんですよ」
年上の保母さんが湯気のたってるようなプレハブを手にもったスコップで指して宣伝した。

園長先生は新しく赴任したばかりの人であった。
おもしろがってついついきくと、
ゴンちゃんに気に入ってもらえなくて苦労しています、と言った。
「私、ゴンちゃんに気に入られたくて、エサをうちから運んで来るんですもん。」
キャベツとか、新鮮な、ゴンちゃんが好きそうなものを。
私はげらげら笑ってしまった。
まるでおはなしのようじゃないかと思った。
「そこまでしてますのに」
そこまでしてるのに、園長がいくらゴンちゃんに、私は園長なのよと口説いても、
「だめなんです、飛ぶというかですね、私のこと突っつこうとして追っかけてくるんですよ」
ははは。

いまは園庭はせまくなってしまい、ゴンもいない。
貧しくても、人間の手が子どものために手を入れているという「雰囲気」がない。
園の周辺はコンクリート、砂利、荒地のように野草茫々。
保育園の門を入ると、最低必要充分遊具あり。公立。鳥インフルエンザ対策完備。
でもユメのあとだ。ツワモノがいない。
ああいう保母さんや、ああいうニワトリの権タクレは消滅した。
なにがないって、なんだか余裕がない。
ちいさい子どもの居場所なのに。



2013年4月19日金曜日

ライブ+打ち上げ


夢がかなったと思えた瞬間。

打ち上げでビール片手に帽子屋さんの秋山さんが西村さんに
「デンシンバシラという曲がすきだったけど、唄わなかったんですね?」
ときいている。
「電信柱」は草野心平の詩に西村さんが曲をつけたもの。
西村さんはギターでそれを唄ってくれた。
立ったり座ったりしているみんなに。
もう一曲と頼んだらもう一曲。
それって誰だってうれしいでしょ。

それから、あっちやこっちでみんなが話したり笑ったりして、
打ち上げがお開きになろうというころ、
わが敬愛する中村さんが、
そろそろ帰るんだけれど、そのまえに今日はたいへん良いライブだったので、
めでたいということで、謡いの「高砂」の部分を、うたわせてもらってもいいかしらと
そうおっしゃってくださって。
私がみんなにそのむねを伝えたら、居間や台所にいっぱいの人が、
たちまちしーんと静かになった。
どの顔もめずらしさと期待とでにこにこしている。
「高砂」がおめでたい謡曲であることは、若い人たちもなんとなく知ってはいる。
自分の結婚式できいた、という人だっているかもしれない。
でも今日のこんなライブの打ち上げで、
「高砂」に耳を傾けようなんて、そんなことはめったに起こらない。
八百万の神さまの仕掛けたミラクル、みたいなことである。
(もっとも、中村さんご自身はクリスチャンなのだけれど)

なんてゆったりとのどかな、平和そのものの「高砂」であったことだろう。

わが団地の白髪の紳士お二人は、うちの古いソファに並んで腰掛けておられたが、
中村さんの「高砂」が終わると、思いがけないことに今度は三國さんが、
三國さんは「鶴三会」ではみんなのだいじな俳句の先生なのだけれど、
ソファから立って俳句を詠まれたのである。
それはこういう句だった。

ライブ聞き 老ひ忘るるや 春の午後

私の家は、おどろきとふわっとした相槌(あいづち)でいっぱい。
思いがけないことが起こったと、音楽仲間の若い人たちも動きをとめている。
これは感謝句とか挨拶句というもので、
俳句の世界ではよく行われることと、あとから教えていただいたけれど、
素朴な、そして奥ゆかしく思われる即興だった。
エドワードさんがその場にいらっしゃったことも私には嬉しかった。
朗読と弾き語りのライブからすべりだした一日が、
私たち日本人というものを、静かにおだやかに表現して、
きれいに終わったのだ。




2013年4月17日水曜日

ライブ「迷走のときは」終了!


野田さんが、彼女は裏方を引き受けていたけど、
50人を越すほどの方が会場に、
それから家での打ち上げに30人の方がみえたのだと教えてくれた。
30人も入る大邸宅?・・・いやいや、
すきまなく床に座った人も、台所で立ちっぱなしの人も多かったから。
ライブが終わると、どこにあるかよくわからない私の家まで、
約15分かかって春のなかを歩いて移動してくださったみなさん、ありがとう。
それから案内してくださったみなさん、
若い森さんなんか息子の先輩で友人だけれど、
私が頼んじゃったら、バイクを唐木田に置き去りにして、
それで歩いて、お客さんを家まで連れてきてくれたのだ、ごめんなさい、
そしてほんとうにありがとう。

・・・翌日、はやばやと感想のお手紙がとどいた。
「何ゆえにあれだけの人達が集まって感動を共有できたのでしょうか」
人寄せをする目標ってなんといってもそれだから、
むくわれたと喜んでしまいました。

・・・時間がたつにつれて、考えた。
共有の根源は、やはり「ことば」だったと。
朗読と弾き語りの会だもの、それはそうなのだ。

ことばを細心の注意を以て選ぶこと。
表現する人たちの感受性が、集まって聴く人たちと同等であること。
人の世に対する理解力。
親切さ。
いいかげんじゃない論理。
そんな感じがほの見えること。

そういうだいじなものは、今ではどうも個人的にしか存在できない。
存在しないから創るし、探す、迷走の時。
私たちふつうの人間が。
プロじゃないシロウトで。
でも、
私が出演をお願いした人たちは、
ただものでもないわけで。
やっぱり場数を
ふんだ
人たちなのだ。
出演してくださったみなさん、
ご協力ありがとうございました。

小さい会だった。
それゆえに、
集まる人の個人としての暖かみもまた、
おたがいによく伝わったわけだと思うのです。


2013年4月13日土曜日

いよいよ、あした


いよいよ明日にライブの日がせまった。
心配と失敗を思うが、にこにこと深呼吸をして、用意してくれた人と
みんなで乗り切りたい。そしてさらなる明日につなげたい。
おたがいに工夫して。

日本語の朗読ふたつ、ギターによる弾き語りふたつ。英語の朗読ひとつ。

私の英会話初級の先生、エドワード・ヴァインゼィル(なんど耳できいても
発音がわかんない)さんは、ドクター・スースの絵本を朗読する。
わかるの?と思うでしょう?
みんなは頼んだ私にビックリして、それからとてもおもしろがって、
次にぜひとも英文を会場に用意してほしい、と言う。
ベンキョウする気?!
エド先生は初老ハンサムなアメリカ人で、
UCLAの演劇専攻出身である。
それなのになんでエドをながめず、英文にとりつこうとするのか。
授業じゃなくてライブなのよ?
いいじゃないの。
ヴァ・・ワ、ヴァインゼィルの、そこはプロ的な朗読を、そのまんま見物すれば。
英語を習いたくなるかもしれないし、
朗読っておもしろいと思うかもしれないし。
わっからなーい・・・?と思ったって、そういう自分がおもしろいじゃないですか。

あー、あしたあしたあした。
きのうは中さんとみっちゃんと朗読の稽古をし、
当日に備えて市場で買い物、唐木田菖蒲館を再度下見した。
私は今回、知ってる人にお願いして、2時間のライブを構成した。
60年まえから知っている人もいるし、去年知り合うことができた人もいる。
集まってくださった方同士、ちょっとめずらしくも新しい知り合いができたと、
そういう展開になったらどんなに楽しいかしら。
ライブって生き物、そして行き当たりばったり、お天気にだって左右されるしなー。



2013年4月10日水曜日

「迷走の時は」を準備する


ライブをやる、ときめてからアッというまに時間がたった。
あたりまえだ。
公民館のホールを借りようにも、抽選が一ヶ月まえなのである。
抽選に落ちたらライブはやめる。ゲットできたらライブ強行。
そんなムチャな。

でも抽選で幸運にもきれいなホールをゲット。
じゃんじゃん準備。

楽しんでもらえるかどうか、心配になってきちゃって。
こういうプログラムでいいのか。
自分の思い込みでやっていいのか。
異年齢の交流スタイルで?
お客さんを20代から80代までさそっちゃった!
集まってくれた人たちの時間をムダにしちゃったらどうしよう?
愉しくなかったら?
無意味だったら?

雨宮処凛著「ロスジェネはこう生きてきた」2009年を読んだ。
岩波ホールでイタリア映画「海と大陸」2011年を観た。
ロスジェネってロスト・ジェネレーションのことですって。
迷走の時はどうせよと、彼らは考えているのだろう?
ふーっ、雨宮さんの真似は自分にはとてもできない。
うーん、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞をとったほどでも、
無回答なんだ。たとえば難民問題に。

私はライブに「迷走の時は」とタイトルをつけた。
新聞4月9日一面の見出し
「福島第一・水漏れ貯水池継続・規制委使用容認・代替案なし」
脅かすのも脅かされるのもいやだけど、
安心だ、地球はこのままでOKだとは、とても思えない。

最近、迷子という言葉をよく見る。

宇宙全体ということを考えれば、アッというまであっても、
自己感覚でいうと、
私がみぎもひだりもわからない子どもだったのは、遠いむかしである。
考える時間はいくらでもあった。
おとなが自分を迷子だというのは、おかしい。
迷子は子どもがなるもので。

あまったれたくなくて「迷走」。
「迷走の時は」。
どうしたらいいのか。
まずはいわれなき自己否定の網の目から、
脱出できるチャンスをつくりたい。
上質と信じる幸福な一日を創ることで。
みんなと。

私の今どきのライブ主催にみるユメである。


2013年4月7日日曜日

ひでこちゃん


やっと「むかしの話」ということになったけれど、
夫と別居してから5年後に離婚成立。
当時子どもは19才、17才、11才で親権と養育権は私である。
私たちは私の実家に住み、夫は自分の実家にもどった。
義妹がやさしい人で、姑に離婚話をする時、私はいっしょに行ってもらった。
それがひでこちゃん。

ひでこちゃんは4人兄妹の次女で、姉、兄、妹にはさまれて、
いかにも次女らしい人格の、そう、なんと形容すればよいのか、
亡くなった姑の美質をいちばんよく受け継いだ人、というふうに思う。
けなげ、どんな時もチャーミング。
夫と別居して2年後に私の継母が死んだとき、
うちに泊まりこんで葬儀の手伝いをしてくれたのもひでこちゃんだった。

あの自宅での葬儀の日。
姑だって気持ちは複雑だったろうに、別居中の夫といっしょに来てくれて、
すすめられるままにくつろいだ様子でソファに腰を掛け、
式の段取りで忙しく、葬儀屋さんはじめ出入りの人も多いし、
当方の従姉親類夫も興奮気味にごったがえす、その有様をはた目に、
「これはいいお鮨ねえ」
お茶をゆっくり飲んで、食物もおいしそうに口に運んでくれて、
「船頭多くして、だとまあ・・・こういうときはかえって大変なんですよね」
べつに船頭たちのじゃまはしない、にこにこ傍観というか・・・。
マトを正確に射てるし、まあそれなりに小さくはない声だし、なんかこう、
私は吹き出してしまった。
手伝いにきてくれた友達がみんな、あの方がお姑さんだなんていいわねえ、と言った。
・・・そうなのよ、たぶんもうすぐ、お姑さんじゃなくなっちゃうんだけど。

離婚って苦しいものだ。
あの姑(はは)とひでこちゃん(義妹)と。
ふたりがいてくれなかったら、私の離婚は苦しいだけのものになっただろう。

月日がたってこの姑が亡くなると、夫は独り暮らしになり、そして数年、
独りが破綻する日がきたのである。

ひでこちゃんから久しぶりに電話がかかって、私はうれしかった。
でもそれは、兄さんから助けてくれと電話があって、という内容の電話だった。
ふたりで話をしながら、じわじわと心を衝たれ、
離婚に終わったけれど、結婚したことはよかったと、私はもう一度思った。
私の結婚のなかには、彼の側の家族もいて・・・。
ひでこちゃんは、だれに言われたわけでもなく、頼まれたわけでもないのに、
「兄さんが独居老人として野垂れ死ぬのは耐えられない」という立場を
ただひとりで引き受けてくれている・・・。
自分だって肺気腫なのに。ご主人も入院中なのに。
彼女は、私や私の子どもたちを少しでも当てにできるとは思っていない。
それで当然と、うらむふうでもない。
そんなことは期待できないと思っていたのだろう。

私のほうはどうか。
離婚後、独りになってしまった相手の老後について、
彼のお姉さんや妹をあてにできると考えたことはない。
父親であれば、その親の老後は子どもたちの責任になってしまうと思っていた。
ただもうふた親それぞれの不徳が子に報い、という感じである。
人情というより日本カミフウセン。政治はもとより、家族親類、兄弟姉妹など、
多くの場合、知らん顔をしてすますのがこの世の常ではないか。
考えるのを先にのばして、先延ばしして、けっきょくのところ「人情紙風船」だという、
そういう暗黙の社会的?疑問だらけの現状認識・・・を、しかし、
具体的にどうにかしなければならない時が、私たちにもついにきたのだった。

ひでこちゃんと病院のケースワーカーに会いに行き、
相談にのってもらい、今後の体制の下敷きをつくることになった。
病院とのパイプになってくれたのは、誰が見てもカンジのいい彼女である。
オランダにいる娘と、仕事から離れるわけにいかない息子たちが相談したけど、
スカイプとかスマホとか、なんて便利なものなんだろう、タダで話ができちゃう。
私とひでこちゃんだけが時代遅れで通話が有料なのである。

4月4日。
長男と二男に仕事を休んでもらい、
クルマを運転してひでこちゃんを迎えに行った。
彼の入院先で、医師、ケースワーカー、本人、妹、息子ふたりの6人が
今後について話合いをするという約束である。
会合は2時間。病院側も丁寧な応対であったときいた。
「できることはなんでもさせてもらいますが、私は絶対に彼には会いません。」
なんのために苦労して離婚したのかわからなくなる。
私自身はそう断言して、ケースワーカーの了解を得たのである。

「ひでこおばちゃんっていいねえ。」
談合?がおわって、みんなをクルマで迎えに行った私に二男が言う。
えらいよねえ。お父さんの冗談にも笑うんだよなー。
チャーミングだ。ホントウに心がきれいな人なんだね。

散々迷惑をかけられても、相手が冗談を言えば笑ってあげる。
そういうところなんか、たぶん、彼女はほんとうに亡き姑に似たのだろう。
うらやましいのかうらやましくないのか、よくわからない。
私ならば、このさい冗談なんか言われたら、ニコリともしなくって、
ジョーダンじゃないわよといいかげん無表情になっちゃうと思うもんねー。