2013年1月30日水曜日

身をやつした神 マーストリヒト




マーストリヒトは、
遠い。
ロッテルダムからだと列車に四時間ぐらい乗って行く。
オランダ最古の街で、ヨーロッパの十字路として栄えた。
ドイツとベルギーに隣接。それで建築資材としての石を調達しやすく、
旧市街の道路や広場がオランダにはめずらしく重厚な石畳である。

マルクト広場は、ショートケーキみたいだった。
私の家にもあるけど、記念品として有名な陶器の建物のホンモノが建ち並んで、
「すごいな、これ!?」
ホンモノとなると遊園地みたい、どこに眼をつけたらいいのかわからない。
しかもこのショートケーキには毒がある。
聖セルファース教会(560年)なんかおそろしい。
12世紀の建物だという礼拝堂に陳列された金箔の聖遺物箱や、聖人の胸像の数々、
壮麗な教会礼拝堂の薄暗がりにうかぶ宙吊りのまことに美しいキリスト像。
陰惨美。グリム童話みたいな暗さ。
教会の絵もいやだ。青白いキリストの死体を金ぴかに装った司祭が抱いて支えている。
脂肪をしっとり沈めた白い肌、みょうに薄い一文字の口、氷のように冷たく無関心な眼の色。
こんなふうに画家に自分の容貌を描写されても、
この人、なんとも思わなかったのかなー、ほんとに。

マーストリヒト駅で、バスをさがしているとき、
へんな老人を見た。

もんのすごくふとっている。
黄土色の厚ぼったい外套が風にはためき、白いハゲ頭、大きいズボンに古靴。
両手にふくらんだカバンと紙袋。
横拡がりに盛り上がったボンレスハムみたいな色のお腹が、
ズボンから三分の一ハミ出して寒風にさらされている。
オランダにホームレスはいないという。
ただの一人暮らし?彼はバスに乗らなかった。
歩いてせっせとどこかに行ってしまった。

私たちはバスをまちがえて、どこだか住宅街の停留所で途中下車。

寒い停留所で、いつまでもバスを待つ。
自転車で飛ばしていく人の顔はけわしいものだ。
一軒の家から男が出てきて、ポーチで煙草を吸いはじめる。
寒いのに、家の中は禁煙なのね。
猫が広い通りをじょうずに横切って歩いていく。
散歩中の黒犬が飛びかかろうとするけど、猫はおざなりに身構えているだけ、
飼い主がロープで犬を押さえるって、よくわかっているのだ。

やっとバスが来て、マーストリヒト駅へもどる。
なんと、あのお腹をだした老人が今度は駅にむかって歩いている!?
人ごみの中にいるのがバスの窓から見える。
「見てよ、あのへんな外套、さっきのあの人、ほらほら!」
スノーマンを描いた絵本画家の絵のようだ。
今までどこでなにをしていたのかしら?
この辺のことがわかっていそうな足運びではある。

バスは駅を通りすぎ、目的のマルクト広場へ。
マーストリヒトの起点である。
お昼だし疲れたし、広場前のカフェに入ってやれやれと食べたり飲んだりしてたら、
「どういうこと、さっきのおじいさん、そこにいる!」

カフェのガラス窓のむこう、雨樋に寄りかかるようにして、
ペットボトルの水を、のんびりラッパ飲みしているところである。
大きな身体、ふとった猫みたいにおちついた顔。
「神さまかもしれない」と遥が言いだした。
そうよねえ。よくあるよねえ。
身をやつしてさあ。
私たちの品性がどの程度のものかと、もしかして調べているんだとしたら?

水を飲みおわると、彼はやおら身を起こし、
スタスタ、スタスタ、早足でマルクト広場を横切り、
揚げパンを売る自動車のむこう、見えない遠くへと、姿を消した。
私たちは、ずーっと彼の風にはためく厚ぼったい外套を見ていた。
もう、次に会うことはなかった。

もしかしたら神さまかもしれなかったんだけど・・・。

2013年1月28日月曜日

アムステルダム 中華街へ


お腹が空いた。
ジャズ・コンサートが始まるまえになにか食べなきゃならない。
けっきょく、遥が仕事をするときいつも利用するという中華料理屋に行く。
「安いよ? おいしくないかもしれないよ?」
「あなたがよく行くところ?」
「うん、手ごろだし気がラクだから」
「じゃそこがいい」
大衆食堂で、わんわんに混んでいる。
カウンターに行列して、あれだこれだと目で見て料理を指定、お金を払うと、
働き者みたいな女や男の給仕が、「これ頼んだのは誰よー」と怒鳴っては客をさがし、
手を上げると、註文した料理を運んでくる。
私はもう、手におえないから遥と健に頼んで、自分はぼーっとテーブルにいた。
ま、なんて雑多な集まりなんだろう。
老若男女、中国、トルコ、アラブ、日本、白人だってもうどこの国の人だかわかんない。
だれもが話しながら、どっさり食べている。アルコールを置かない店である。

中華はおいしかったしまずかった。
私の味覚はずーっとヘンなのだ。病気かなと。
健は、ここの中華がすごく気に入っている。
わたしはオランダのどこでなにを食べても、おいしくもあり、まずくもありで、
それならいっそ安いところがいいわよね。
誰かがよく行くなら、けっきょく雰囲気も味もまあまあなのだ、きっと。

食事が終わって、大きなカフェへ。
おそく出たのにけっこうゆっくりできるもんだと感心してたら、
ジャズ・コンサートに遅れてしまった。
日本のライブ・ハウスのように、観客は立ったままでジャズを聴く。
途中で階段に腰掛けたのもおなじだった。
やわらかな、澄んだ演奏、プレイヤーたちの愉しげな冗談。
初老のギタリストがすごくよかったと健がいう。
のめりこむほどに好きなことがある人は、とりあえず自分が幸せだし、
その幸せがまわりに星屑のように輝いて伝播する、そう思わせるようなプレイヤーだった。
リックさんらしい落ち着いた選択だと思う。

アムステルダムからロッテルダムへ遅くなって帰る。
遥が自転車で、夜中、リックが待っている自分の住いへと戻った。



2013年1月27日日曜日

ビネンホフ 国際感覚


夕暮れが夜になりかけている。
トラムに乗って走るうち、あたりが暗くなり、ビネンホフに着いた。
ハーグはオランダの、諸官庁、各国大使館、国連の機関などが集まる政治都市である。
ビネンホフとは国会議事堂で、13世紀にはホランド伯のお城だった。
このお城だった議事堂は、オランダの女王所有の古典的宮殿と隣接している。
上院、外院、総理府、外務省がここに入ってるんだって。
どれだけ大きいお城だったんだか。

これからジャズ・オーケストラを聴きにアムステルダムまで行くのだから、
くわしく見てまわる時間はない。それでビネンホフの門をくぐり広場にいただけなのだが、
無理にも遥にひっぱっていかれてよかった。
「国会が開会する時、ベアトリクス女王が金の馬車をあそこの門から乗りいれて」
と遥が言う。・・・宮殿で施政演説を行うそうである。
「金の、馬車?」
「うん、金の馬車よ」
「どういう演説をするわけ?」
「今年一年間オランダ国民はなにを課題とするべきか、話す」
その演説を受けて国会が審議をスタートさせる、大規模なパレードもある、と言う。

そういえばオランダは、立憲君主国だった。

「金の馬車かあ」
立地条件の弱さで、さまざまな強国の支配を受けた歴史。
有名な、なかば本気みたいなジョーク。
「神は天地を創造された、しかし、オランダはオランダ人が造った」
ハンス・ブリンカーという民話になった少年のこと。
この子は海と陸地を分けた堤防の欠壊をわが身で守って死んだのである。
(岩波少年文庫「ハンス・ブリンカー」はこの英雄の名前を借りた小説だった)
すなわち愛国心。

「金の馬車ねえ」
うらやましいような、おもしろいような、女王さまの権威というもの。
私はオランダに新年二日に到着した。
新しい年が来たんだから元気をだしたいともがいて。
ああ、あの去年のウソったらしい日本の選挙!

金の馬車で何百年も前からの宮殿に乗りつけ、
ネーデルランド連邦議会の開会に先立ち、国民に課題を示す。
そんな舞台装置と人物がいるなんて。
ブータンの王様がそうかな、とうちで読んだ新聞記事を思い出す。
議会がそれを受けて審議を始めるなんて、いいじゃないですかねえ。
平成天皇が金の馬車で、と考える。
福島のこと、憲法を尊重すること、沖縄の苦難について。
それを今年第一の課題にと、おっしゃるかも、などと。

日本の場合は、時の権力が天皇制を暴走させ、アジア諸国侵略蹂躙の手段にした。
島国だしアジア圏だし、戦後も私たちは国際感覚が弱い。
だから、やっぱり日本国憲法を軸にして、別の筋道を考えなくちゃならないのだろう。
あの時、憲法草案に連合軍の外国人たちが関与したことを、良しとして。

オランダには、ハーグ国際司法裁判所が、ある。
国家の犯した犯罪を裁く機関で、ものすごく大きなビルディングなんだから、
そこにはオランダ人だって大勢働いているだろう。
各国大使館も集中している。そこでもオランダ人は働いているだろう。
オランダの隣接国ベルギーは、ユーロの中心地である。
そこでもオランダ人は働くだろう。
リックが働いていた会社は、ベルギーに本拠を移した。
リックが承知すれば遥はベルギーに引っ越したかもしれなかった。

こういう国際的環境あるいは監視のなかでは、好戦的気分は育ちにくいのではないか。
君主および司法と、立法(国会)と、行政のいわゆる四権分立を、
オランダでは、権力をもった人たちも、注意深く守ろうとするのではないか。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに占領され蹂躙された記憶が、
小国オランダの国民に、油断や甘えや人権マル投げを、許さないということもある。

たとえば、オードリー・ヘップバーンはオランダ人で、スイスでくらしていたが、
世界的アイドルになったあと、国連の仕事を引き受け、戦争で苦しむ子どもの保護に、
自分の残り一生の時間を捧げたのである。

それも、今は昔の、話かしら。

議論とか、異論とか、反論とか。
個人の正直な、しかしよく考えた論理がぶつかって、それが国家をつくる土台になる。
それができたら、貧乏でも質素でも、すごく幸福になると思うんだけれど。

ハーグ市立美術館・モダン・アート


入り口の警備員は黒人だったけど、遥にニコニコ挨拶をしてくれる。
仕事の知り合いである。
いつも思うことだけれど、遥は孤独じゃないと思ってホッとするのだ。
ロッカーに荷物を預け、美術館を歩いた。
15世紀といえば600年も前、そのころのオランダ絵画から20世紀までの展示。
この美術館は、モダン・アートで有名とか。
華麗にして大量の宮廷絵画、それからレンブラント、ブリューゲル、フェルメール、
セザンヌ、モネ、ピカソ・・・たとえばエゴン・シーレの奥さんの悲劇的で素晴らしい全身像。
ゴッホの、精神病院で描いたという、美しくて現実味のつよい花と野菜の畑。
彫刻もあれば皿も、壷も展示されてある。
アムステルダムの美術館とはちがって、すいているので、ゆっくりできてうれしい。

ところが私は、なんの絵が素晴らしかったかなんて、ほとんど思い出せない。
駆け足で通り過ぎた、みっともなくて何の意味もない、と思ったんだけど、
20世紀の見るに耐えない作品群の荒廃ぶりしか、印象がない。

最初に眼に入ったのは、部屋の中央を占める大きな円形の囲いである。
首を吊られた人間が、やわらかくグルグル、囲いのなかを回っている。
あたまはウンコだ。衣服を着たウンコ。
幾部屋もの、ナチスドイツの言動の再現。理想主義を失った大戦後の人類の精神の醜悪。
日本でも見たアメリカのポップ・アートとか、ピンナップ写真。
ご存知マリリン・モンロー。コカコーラのアイス・ボックス。
大衆化ということ。ミシンで縫える20世紀のワンピース展。
ろくに見ないでも見覚えがある世界。
草間弥生の部屋では、裸体にペインティングされた欧米人がうごめいている画面。

無意味で、と憤りをおぼえた。
過去の偉業をなんとかして乗り越えて目立とうという、
不自然で下品な野心ばかりが目立つ、
こういうことなら教えてくれなくてもよく知っている、というかんじ。
そういう中で自分も生きていたなーと屈辱感のとりこのようになる。

狭い地域でくらし、子どもを育て、家賃や子どもの学費を滞納し、
美術館にも博物館にも、入場料が払えないし時間もないからけっきょく縁がなく、
それをまた苦しいともなんとも感じなかった。
そういう私の個人的なだけの20世紀。
しかし、これらのモダン・アートはいったいどうやって、
美術と無縁でしかなかった私の眼や耳に、五感に侵入していたのだろう?
駅で眼に入るポスター、雑誌、大江健三郎ふうに言えばテレヴィからかしら?

モダン・アートなんかまっぴらだ、と思うのは自己嫌悪の一種かしら。
無意味どころかこれがアートというもので、これが私らの世界の再現、説明なのかしら。
わっからなーい。
わかるのはキライだということだけで。

ところで、嫌っていたらすぐにバチがあたっってしまった。
廊下の真ん中にコカコーラの赤いきれいな四角い冷蔵庫があって。
「ああこれ」と蓋(ふた)を持ち上げて中をのぞいたら空っぽだった。
当然そうよね、20世紀の部のアートだもの。
と思ったんだけど手遅れ。
とたんに、雲を衝く制服ノッポのオランダ人がむくむくと目前に出現。
「さわってはいけません」
まるでアラジンと魔法のランプだ。
こわくはなかったけれど、どこで私を見てどの通路を通って、隠れていた場所から、
蓋を持ち上げた私のそばに急に出て来たのかが、わからない。
どこに隠れてたんだろう、あんなに大男なのに?

ハーグ市立美術館はモンドリアンの作品のコレクションでは世界一なのに、
見なかった。
くたびれちゃったのである。

2013年1月26日土曜日

デン・ハーグでの屈託


私が意気消沈して、成田空港にいたわけはなぜか。
日に日に、それがハッキリしてくる。
国土が放射能づけになり、日本沈没が架空のこととも思われない。
もちろんそれはやっぱり恐ろしい。
しかしそれよりもっとくたびれるのは、
私の場合、わが国の三権分立がガタガタに崩れた、ということではないか。
デン・ハーグで、デン・ハーグだけじゃないけど、
しみじみ思ったことはそれだった。
悲惨や矛盾はどこの国にもある。
しかし私の国では、人権の確立がもうホントないがしろ。
三権分立ってなんだっけと思うほど、ふだんはそんなこと考えないんだけど。

駅を降りてトラムに乗った。
市立美術館に行くという。
ハーグの街なかをガタンゴトンとトラムが走る。
ハーグには飾り窓の家があった。
あそこがそうだし、あそこもそうだ、と娘はいう。
国連関係の建物が多く、しかも国の窓口でもあるから、
住民から、当然、撤退要求が出たんだけれど、
飾り窓側が反撃抵抗、今にいたるもどかないのだとか。
そこで、オランダ国はどうしたか。
私娼窟とは、古来より絶えることなく存在し、世界各国に存在し、
おそらく未来永劫存在し続ける古典的職業ではないのか。
ならば(つまり消滅しないならば)、認めて、
そういう労働?に従事する人間が酷いめに会わないように、自治を保障しよう。
「えーっ、どういうことなの、なんだって?」
娼婦たちには組合がある。
なにか不具合があったら、自分たちの組合で話し合う。
「話し合うの? なにを話し合うの?」
「権利が守られてるかどうか、でしょ」
「それで、どうなるの?」
彼女たちは、ヤクザに支配されることはない。
そういうことだと遥が言った。
「・・・そう?」
いちばんヒドイ目にあいそうな人間をとにかく守るわけなのね?

トラムが壮麗な住宅街を通る。何世紀にできた建築物だろうか。
「あそこにはどんな人が住んでるの?」
「さあ、国連関係の駐在員かな。外国人が多いんじゃない?」
「しあわせねえ。世の中にそういう人がいるのって、不思議ねえ」
どんなに自分のことが自慢だろう、いいなあと思う。

市立美術館で降りる。

2013年1月25日金曜日

デン・ハーグへ



ロッテルダム・ジャズ・オーケストラのチケットを、リックがプレゼントしてくれた。
アムステルダムのライブハウス。夜7時開始。

そこへ行くまでの時間をどうするか。
責任を感じるらしく、遥が観光課の役人みたいなことを言う。
「国会議事堂を観に行く?」
いやだ、行かないよ。
と思ったけれど「国際司法裁判所があるところよ」と言われて、行く気になった。
知り合いが従軍慰安婦問題支援で出かけたところがハーグだ、と思う。
それにこのアパートメント・ホテルの持ち主の建築家がデン・ハーグにいる。
どこだか誰だかわかってるわけじゃないけど、まあデン・ハーグを見よう。
第一、デン・ハーグからだとアムステルダムまで50分ぐらい。
ライブ・ハウスへ行きやすい。
またしても、いまいましいドラム式洗濯機に私が手間取って、2時すぎに出発。

デン・ハーグの駅を降りてトラムに乗った。
美しい街である。
それも当然、13世紀に建てられたお城があり国会議事堂があり、国際司法裁判所があり、
文部省があり、外務省があり、
とにかくここは内外の官僚の集まるところ、オランダの官庁街なのである。
最初、ハーグ市立美術館へ行く。



2013年1月22日火曜日

大家族にかこまれて


ヤニーさんはリック四兄弟の母親である。活力があるし体格がオランダだ。
すげえ体力、とびっくりした健が、なにかスポーツをやっていたんですか、ときくと
「いいえ、なんにも」と遥の通訳で、けげんそうな返事がかえってきた。
・・・沈黙。
以後、オレがなにか言うと遥が迷惑する、と思ったかして、
健はナゾに満ちた微笑をうかべ、私の横でいつ見ても東洋ふうにかたまっている。
髪は切った。服装もまあまあ。笑顔一種類のみ、眼にやきつくほど単調。
まったくもう。
リックはああだし、健はこうだし、亜子はハンス・ブリンカーだなんて知ったかぶり、
英語とオランダ語と日本語がどうやらわかるのは遥さんだけ。
嫁なんだし、アジアの辺境からヨーロッパにきた母親と弟をかかえているんだし、
すなわち気配りでへとへと、かわいそうにキレかかっている。
でもさー、どうにもできないのよ。助けてあげたくたってにっちもさっちもいかないもん。

そこに、二男のピムが家族全員でやってきた。
五人の子どもたちと夫婦、である。
ステイファンも赤ちゃんを連れてきた。
ふつうの居間に、十二人のオランダ人!
これでも、誰それはこういう理由で来られなかったとすまなさそうに言う。
ヤニーに召集をかけられ、みんなが遥の母親と弟に、あるいは両親に、
敬意を表して来てくれたということだろうか。
子どもは椅子に腰掛けちゃダメとお母さんに注意されて、
十四歳の女の子とその妹がパパの膝にこしかけ、
その下の男の子と女の子はママの膝に腰掛け、
めがねをかけた男の子はそこらへんに腰掛け、
しつけがきびしいのか、とにかく、みんながくっついてジッとしているのだ。
束になって、記念写真の絵のようになって、ジッと、シーンとしているのだ。
ピムお父さんはくたびれている、その奥さんは子どもとにっこりして黙っている。
ステイファンはさりげない笑顔だけどなにも言わない。リック、知らん顔でパソコン。
ディックさんは奥の安楽椅子でただもう赤ちゃんをあやしてる。
ヤニーは台所でオランダ伝統のスープを作っている。

「この圧迫感がスゴイっ」
遥がソファの横にドシンとすわって日本語で弟に冗談を言う。
いったいこういう局面で健ってどんな顔してるのか、横目で見たら、
就職先の白人のお屋敷に連れてこられた黒人の少年のようだ。
新しい洋服の中で居心地悪そう、オレは単なるチベットの地蔵だからみたいな。
あれはあれで必死のパフォーマンスなんでしょうね、きっと。

ディックさんがにこにこして、いう。
「こういう時、ああ、天使が通りすぎたと我々は言いあうんだ」
ディックさんこそ天使のよう、、おだやかで自然で、いいなーと思う。

不思議だ。
どうしてあんなに静かにしていられたんだろう、子どもがみんな。
あり得ないことだと思って、一日中、考えてしまう。
水路にさえぎられた静かで変化のない広大な住宅地のなかに住んでると、
ジャパンのハルカは珍しい、弟とか母親なんて、もっとパンダみたいに珍しいのかも。
私も息子も、めったにない体験をしたわけである。
苦しいような愉しいような一日・・・。
人情って、オランダも日本も変んないのよね。

リックの実家を訪ねる・大家族



日曜日。リックさん会社お休み。みんなで実家にご挨拶に行く。

ロッテルダム駅から列車で一時間ぐらいか。
駅を出ると、リックのお父さんがクルマで迎えに来てくれて、両腕をひろげる。
ニコニコ。遥と私の両頬に三度キス。
彼は80才をこして、以前あった時よりも瞳がブルーから灰色、茶色になり始めた。
「太陽みたいな明るい笑顔をもってきてくれたね」
ディック(パパ)が私にそう言ってると、遥が通訳。
クルマに乗ると、オランダ語で、
「これなら運転できるだろう?」
私のクルマとディックさんの車が偶然おんなじホンダのフィットなのである。

羊がうろうろしている牧場沿いに行くとまもなく川に出る。
動力で2分間だけ動く艀(はしけ)が待っている。
クルマが何台か乗ると向こう岸へ私たちを渡すのである。
昔の玉電みたい、腰にカバンの車掌さんが風に吹かれて、チケットを切りにくる。
橋をあえて作らず、こうやって他者の侵入を阻んでいるという。そう?
「艀が終わるのは何時ですか?」
夜11時なんだって。アムステルダムかどこかで酔っ払いでもしたら、帰れないじゃないの。
人口3000人ほどの、成城学園みたいな美しい住宅地にクルマが入っていく。
オランダ人は基本的にストイックだと聞いているが、
ここには、見たとこ教会と広い道路や美しい木立、農場、お墓、サッカーの練習場、小川や池、
そしてゆったりした家々の連なりしか、ない。
日曜日なので、きちんと帽子をかぶり正装した老人が、教会から家に戻っていく様子。
家が何軒か売りにでている。5000万円だとか。
まあ日本とおなじぐらいの価格。
「これは、とても便利にできていて、いい家だよ」
リックがそう言ってる。
リックも遥も、地味であっても都会的な人間で、ここには住まないだろうという気もした。

リックは男ばかりの4人兄弟の長男だけど、家族とはとてもちがう。
孤立を好む。いっしょくたになりたくない、という感じ。
それが徹底している。超人的水準といっていい。
ながいあいだ、遥に出会う前からそうだったらしく、みんなのほうも、
そういうリックに対し、もはや気楽な扱いに終始しているようだった。
大勢の親族が集まっている両親の家で、彼は窓のカーテンの横ちかくに立って、
パソコンだかスマートフォーンだかにとりつき、
もうまったく、ばかばかしい基本会話(というか)なんかには加わらない。
母親にうながされて口を開く場合は、文字通り苦笑して「・・・ふふんっ」が応答。
といって、おかしなことに、
私が話題にこまり、苦しまぎれにオランダの童話の話なんかすると、
「ハンス・ブリンカーを書いた作家はオランダ人ではなくアメリカ人だった」
パソコンを手に持っているんだから、いつのまにか調べて、どっかから教えてくれる。
会話が難破しかけて、私がいまや追い詰められる寸前だと判断したのだろう。
賢くて親切、遥がいいヒト見つけて嬉しいけど、でも、かえってこまるじゃないのよねー。

家のなかは家族の写真だらけ。
3番目のステイファンの職業がカメラマンなので。
ディックさんとヤニーさんの居間には、さまざまな国のおみやげが置いてある。
きれいだなと手にとって見ると、リックのおみやげで、ロシアの赤い宮殿や
長崎製の新幹線だった。


2013年1月19日土曜日

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ


エルミタージュ美術館アムステルダム別館でゴッホ展を観る。
フランス印象派展が別棟でひらかれていた。

初期の油絵。
泥と炭がまざったような色の、ごつごつと貧しげなジャガイモだったか、
これを見てゴッホの才能を認める人はいなかったろう、という感慨をもった。
風景や人物の絵・・・。
ゴッホは貧乏で油絵の具も安いものしか買えなかったから、
黄色がまず褪色したと、遥が言った。
「ゴッホがこの絵を描いた当時は、少なくとも黄色がもっと絵にあったはずだって。
ゴッホは黄色をよく使う画家だったけど」
・・・美しい、光りと影の、印象派展のあとで見るゴッホである。

そもそもオランダの絵画は、貧相とは逆の印象。
盛り上げられた果物や鶏、飼われている猛禽類や牛、大量の花々。
真珠のような肌の宮廷美人、華麗でやさしげな身仕舞い、天使、宝石、
青白いイエス・キリスト、教会の僧正がまとう黄金の衣装、武具、調度品の数々。
なんだか、通りすがりの旅行者でしかない私には、そういう感じなのである。

それがゴッホ展となると、農民を描いたコローの絵の模写など、
不器用にも見える素朴?な絵から見物を始めるのである。
貧窮と孤独の一生。
あらゆる人との不具合。熱狂的信念。狂気。
弟テオに見捨てられるのではないかという経済的な恐怖。
たとえばアーモンドの木立に、漂い始めるゴッホの狂気・・・。
幸福といえば、ゴーギャンとの同居を待つあいだの期待にみちた淡い六ヶ月。
パリのゴッホ。広重の模写。
骸骨を描いた絵も見る。
人間のモデルを描きたくてゴッホは美術学校に入学したという。
「モデルになってくれる人はいないから、断られてしまうから」
しかし学校はスケルトン(骸骨)しか見せないし、描かせようともしない。
初級の画学生ならそうするものだ、という理由で。
「骸骨」はそういう馬鹿げた教育制度に対するゴッホの、憤怒を表しているのだという。


最後の作品が「カラスのいる麦畑」であった。
ゴッホの筆によって凪倒されては盛り上がる、黄色い麦の穂の上をゆく悲哀、
無言の画布の上に波立つ、迫り来る死によって決定する感情・・・。
見えないもののはずが、ゴッホの画布の上に感情はまざまざと存在する。
それは奇跡のような筆致の実現にちがいないのだ。
ゴッホが死んだのは、ロシア革命の30年ぐらいも以前であって。
当時のオランダで、
彼は生きとし生ける者の中でもっとも悲惨で貧しい人々を描こうとした。
それはこんな人生を選ぶこと、そういうことだったのだと、思ったことである。


2013年1月17日木曜日

閑話休題 アムステルダム





遥が言った。
これは、ゴッホが精神病院で描いた絵よ。
ゴッホは36才で死んだでしょ。
精神病院に入院している時、一日に二枚も三枚も描いて、絵を大量生産した。
世界最多の絵を生産したのはだれでしょう? ピカソなんだって。
でもね、ピカソほど長生きしたら、世界一たくさん描いた人はゴッホだっただろうって。

遥の説明つきで、(ガイドがオランダでの職業)、
若い時の作品から順に、ゴッホの痛ましい一生のあとをたどって歩く。
ゴッホ美術館はしばらく前から改装中、ここはエルミタージュ美術館別館である。
フランスの印象派展、そしてゴッホ。
この入場券でゴッホだけ見るなんて、ケチかもしれないけど残念だから、
長いこと別の棟の印象派展を見て、しかるのちゴッホ美術館のゴッホを、
遥の説明をききながら、見て見て、見る。
疲れて。足が痛い。お茶を飲みたい。そういうとこないの、あるはずよ?
エルミタージュの食堂のケーキは、手がつけられないほどガンガンと甘い。
健はビールを見つけて飲んだ。そのほうがかしこかったわよねー。

「まえにきた時、あたしが一生懸命説明してるのに、
お母さんてば、あんたってぴーちくぱーちくウルサイわよって言ったのよ。」
そんなこと言ったおぼえが全然ないのに、遥が弟に言いつけている。
そうかなあ。彼女の解説は、絵画史を背景に具体的だしイキイキしてるし、
絵がそれまで考えたこともない形で、頭に入っておもしろい。
「感心したんだけどなあ。すごく尊敬したのに。そんなこと言った、ほんとに?」

・・・遥って、背後霊のしつこいのみたいに、親切なガイドだ。
美術館では、とにかくなにを聞いても返事をする。
しかもウスッペラなこっちのただの質問に、三倍答えるのである・・・。
弟は、気がつくと姉から離れて、ふらふらーっと、別のところで別の絵に感心している。
そうかもしれない、私はあんたウルサイよーと言ったかもしれない。

列車のなかで遥が私に言う。
「あれはなーにこれはなーにって、思いつくたびいちいち聞くな。
遥がなんでも知ってると思ったら大間違いだよ、お母さん。
いいねっ、あんたの娘はオランダ通の百科事典じゃないんだからね!」
私はドッと笑ってしまった。
自分だって、京都とか小豆島とかに行く途中で、
「あれはなんの工場?」「あそこの村じゃなにをしてるの?」
なんて聞かれたらこまると思って。


2013年1月16日水曜日

アムステルダム ゴッホ


アムステルダム中央駅はロッテルダムから列車で二時間ぐらいか。
古典的な駅舎は、東京駅がこれを真似たのだというが、美しく風化して親しみやすい。
ゴッホを見て、「牛の家」店?でステーキを食べようという計画。
駅前の路面電車の、遥が案内板をにらんでいる。
「あ、大麻の匂いがするよ、だれかが吸ってるはずだけど」
「そうなの? よくわかるわね?」 
私も、わからないなりに雑多な観光客やさまざまな外国人を見渡すが、
もちろん見当がつかない。
「おかしいな、どの人だかわかんないな」
それどころではない、あっちのトラム、こっちのトラム、
すぐそこの港には旗がひるがえっているし、ぞろぞろ、ぞろぞろ、ひっきりなしに外人が
往来するので、たぶんゴッホ美術館はいっぱいだろう、入れるのかしらと心配だ。
何年かまえ夏に来たときは、並ぶのがメンドウであきらめたのである。
「寒い時なら人はこないかと思ったのに」
「どこもおんなじよ、お母さん、外国人も新年のお休みを利用して旅行するのよ」

旧教会が見える。セント・二コラスの。1556年・・・。
行ってみたいけれど、ゴッホが先だ。
アパートメント・ホテルの洗濯機がドラム式で、表記がオランダ語。
乾燥機もなにも、おそろしく時間がかかり、しかもちゃんと使えているかどうかわからない。
遥は時間通り迎えにきてくれたんだけど、出遅れたのである。
オランダまで来て、一週間しかいられないのに、洗濯機のせいで出遅れるなんて。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。
若い時から、時々、何かの折にゴッホの絵を見て、
スーッと通りすぎた。
オランダに3年前に来た時も、混雑におそれをなして、やはり通りすぎた。
ゴッホの絵に対する人々の尊敬や愛着が不思議だった。

ピカソは絵についてこう言っている。
「絵は考え抜いたものでもないし、こう描こうときめて描くものでもない。
それに見る人の心の状態によって変るものだ。絵には絵の人生がある。
絵は見る人を通しても生きているのだ。」
ほんとかしら?
でも私はピカソの言葉に、漠然とではあるが、今回はこだわっている。
オランダのゴッホに対する扱い、あるいは旅行者のゴッホに対する熱意が不思義でもあり、
不幸のどん底にある国からやってきた自分というものが、
この心の状態で、ゴッホの絵をどう見るというのか知りたいのである。
絵は見る人の心の状態で変る、と言うのだから。


2013年1月15日火曜日

オランダ 早朝の床屋


空が夜明けの色になる頃、
オランダに来て三日になるのに、よく眠れない私は、
寝室の大きな窓から、向かいのビルディングをただ眺めている。
たとえ姿が見えなくても、都会にはなにかしら生活する人の気配があって、飽きない。
まだ夜のような闇のなか路面電車がはやくも働きに行くらしい人々を少しばかり乗せ、
八階建てのアパートメントの窓には、灯りが二つか三つぐらいしかついていない。

向かいの一階に並ぶ店舗のひとつに白いような明かりがいつのまにかついた。
歩道に歩く人影はない、午前五時なのか六時なのか、
夜明けのそこに金髪の小さい子どもが現れた、まるで魔法だ。
ちょこちょこ、一人か二人か? 見ればかたわらのおとなの歩調にあわせて歩き、 
白い明かりの店内に、連れられて、入って行く。
病院?大きなガラス窓の向こうは歯医者さんなのかしら? 
広い道路をはさんで、見ているので、
すべてが幻の絵物語りのよう、現実感がない。
黒づくめのおとな、一人は男性もう一人は麦わら色のカーリーヘアの女性、
ふたりが、子どもたちのコートを脱がせ、窓のそばのコート掛けにかけている。
小犬?が走ってくる、子どもは追いかけてぐるぐる。
冬だけど、あたたかいのね、部屋の中は。
小さいふたりが・・・大きな椅子に腰かけ、白い布が首にまきつけられ、
椅子の前は大きな鏡なのだと理髪師たちのパントマイムでわかった。
おとなのほうは長い足を床に、自分の順番を待つふうである。

・・・看板。Hair@Jerrys 
やっぱり理髪店。

なぜこんな夜明けに来るのだろう。
もちろん予約して?

太陽は灰色の空へのぼってゆかず、地平のどこかにとどまったままのよう。
灰色の鳥があちこちのビルをかすめて、はすかいに飛ぶ。
よく見ると白い鳥、カモメ、・・・カモメなのだ。

・・・看板の下をお父さんに連れられて、三人の金髪の坊やが帰って行く。
店員は床を掃いている。
道路では、パパがかがんで、小さい男の子の外套のボタンをはめてやっている。
それから軽々と一番小さい子をだっこし、クルマのところまで歩き・・・。、
みんな黒い外套を着て。道端に停めた大型車に乗って。
どこへ帰るのかしら。
お母さんが家で待っていて、朝食の支度をしているのだろうか。
白、黒、金髪の金色、それからグレー。
なんてきれいな絵柄なんだろう!


2013年1月14日月曜日

オランダ 1/4 髪をカットする


あんたねえ、とおねえちゃんが弟にブイブイ文句をいっている。
あのねえ、ヨーロッパに来たのよ。きちんとしなさいよー。
(うるせいよ、いいんだよ、どうでも)
いいんだよ、じゃないでしょー。よくないよお。
見たでしょ、リックだってこざっぱりしてるでしょ、清潔にしてるでしょ。
べつにお洒落しなくてもいいけど、きちんとしなさいよ。これはないよ。
ズボンなんか、ちぎれちゃってて。いったいなんなの。
(・・・ファッションです
あんたをスキポール空港で見たとき、おねえちゃん、目を疑っちゃったわよ?
椅子にぐっちゃり沈んでるし、
この子、不幸なんじゃないのって、きいてる? きいてるの、返事しなさいよお。
これはないよー、みとめられない、ねー、おかあさん、ねーっ?
(うるせい、うるせい、ああいやだ、うるせい)

弟は閉口して、にやにやし、身体をくねくね捩り、
なんとかしつっこい姉から逃れようとしているが、一方では負けてやらないと
遥がくらす遠い国に来て、これでは悪いとも思うらしい。
いささかこぎたない半端な頭だと思ってもいるらしい。
日曜日にはリックのご両親の家を訪問するのだ。
デパートでズボンを買おう、上に着るモノも、髪を切ってから!
遥の友人がここから歩いて10分ぐらいのところに住んでいて、
金城さんという沖縄の人だけれど、自宅でヘヤーサロンをしているのだという。
もう予約してあるというのでホッとした。
遥はホントに頼もしい。

6才ちがいのこの二人は、小さいとき、いつも喧嘩してなぐりあって片方が泣いていた。
「離れてなさいよ、そんなに喧嘩するんなら、くっつかなければいいじゃないっ!」
私があきれて叱っても、長椅子にピッタリくっついて座って毎日喧嘩する。
なんだかんだと一緒にゲラゲラ笑って、あげく小さい弟が泣く破目になるのだ。
あいつは悪魔だと本気で思ってた、と弟がいつか言ってたっけ。ははは。

金城さんはドイツ人の彼とふたり、ちょっと日本調に飾った部屋で暮らしている。
リックはシャイで静かなオランダ人だけれど、金城さんの彼は社交的な人で、
散髪を待つあいだ、遥と私に彼の新しく開発した製品の話をしてくれたりする。
英語なんだけど、まあわかる・・・一応。話せないけど。
その新しい製品とは、なんの害もなく果物や野菜を一ヶ月新鮮なまま保つ溶液である。
飛行機では果物が出されるけど、そういうところでは便利かもしれないと思った。
売るとなると、それはやはりなかなか大変だそうで。
どこの国でも、人間っていろいろなことを工夫して、働いて生きてゆくもんなんだなと、
共感のようなものを持ててよかった。

美人の沖縄人とハンサムなドイツ人が、整然とのびのびとロッテルダムのアパートで
ふつうに暮らしている。うらやましい。いい人生だなあと思う。

と思う間に、おかげさまで弟は見違えるようにスッキリしゃんとして、再生紙のよう。
よかったじゃないのほんとうに。

2013年1月13日日曜日

早朝のロッテルダム 1/3


 
夜明けは夜のように真っ暗だ。
時差のせいなのか、4時半に目がさめてしまい眠れない。
貨物を運ぶ自動車が一台、広い通りを走って行く。
時々、乗用車が家へ帰るのだか会社に往くのだか、走りすぎ、
六時ともなると、トラムがなめらかな音をひびかせて、十字路の角をまがり、
私がいるビルの下を右から左へ、左から右へと通りすぎて行く。

そうなっても私は眠れない。
時差がコタえているのかもしれないし、放射能さわぎの中に故国を残してきた緊張から
抜け出せないでいるのかもしれない。

星のようにひとつの明かりをまたたかせて走っていく自転車。
こんな時間・・・、早朝の仕事に出発する人だろうか。
二車輌のトラムが向こうからやってきて、左折。
目をこらすと、座席に腰掛けている冬外套のアラブ人や、中国人が見える。
ロッテルダムはオランダで唯一、第二次世界大戦で全焼した街だとか。
戦後の建物が多く、移民の多い街である。
信号が赤に変る。乗用車がおとなしく信号待ちをする。

夜の明けない外国の街を眺めながら、私は自分の傷ついた世紀の果てを見る。
そして行く手について、あてもなく考える。
オランダはこぬか雨のなかにあり、
朝は三筋のオレンジ色の線が灰色の空にうかび、いつのまにやらまったくの灰色に落ち着く。
同じ灰色でも、気がつけばあたりはもう暗くはないのである。

外国の平安が私をくるみ、この世の行く先を一時隠してしまう。

あんまりちがう人がいるので、黒人、白人、中国人、トルコ人、ばかデカかったり、
おどろくほど太っていたり、背の丈だってちぐはぐいろいろ、
日本人である自分がどうのと思うヒマもない。
ゆえにロッテルダムが私は好きである。

オランダ・ロッテルダム 昼


アパートメント・ホテル
ロッテルダム駅からトラム(路面電車)に乗って、meent で降りる。
世田谷線(むかし玉電)の駅みたいなところで降りてすぐのマンションの5階。
建築家の事務所兼住居。
私が借りた一週間、持ち主はデン・ハーグの持ち家で彼女とくらすのだとか。
建築家の家らしく、機能的なデザインですっきり。
ホテルみたいだが、台所も、洗濯機も、洋服ダンス(作りつけ)もあり、居心地がよい。
暮の三〇日に先発した健が、リックと遥の住いから移動して合流。

大きく広いガラス窓。メタリックと木製の組み合わせ。

台所のガラス窓のむこうに見える景色が気に入った。
ビル街なのに道路が運河の跡のようにカーヴしている。そのカーヴに沿って、両側のビルが
やわらかく曲がった稜線を見せて建ち、曲がる必要のない建物はそれぞれ道なりに並んで、
曲がらずにいる。自動車が縦一列に並んで停まっている。
カーヴした道路の真ん中に緑がかった歩道があって、
時々誰かがそこを歩いていく。

台所と反対の居間から眺めると、
このアパートメントが大きな十字路に面していることがわかる。
たぶん日本で金曜デモにいった際の国会議事堂前の道路ぐらいか。
両側に歩道があり、自転車道があり、車道があり、真ん中がトラムの敷道だ。
写真を撮ろうと思うけれど、街路樹の枝にさえぎられて、
むこう側の建物は、見えるけど、写真が撮れない。
春になればこの大きな枝には若葉が芽吹いて、夏は緑の葉が風にそよぐのだろう。

絵葉書のような景色。
信号機のヨコに、ひとりぼっちの太った紳士が立っているけれど、
黒いコートのその人は、姿勢よくエックス脚で、足をふんばっている。
ひとつ向こうの信号の前は、真紅のコートを着た金髪の老婦人、
たびたびかがみこむのが不思議だ、
なにをしているのかと見ていたら車椅子を押しているのだった。



オランダへ 1/2


成田空港の第一ターミナル北は、バスの一番最後の停留所だったが、、降りるとすぐ前が
KLMの受付で便利である。三時間前に着いて、しょうがないからぶらぶら歩いて本屋へ行
く。チェック・インをすませ、荷物を渡してしまい、空港のロビーで、ぼんやり時間がたつのを
待っていた。いつのまにか搭乗口が変っていたからコワイ。ビックリ。

成田空港。
ゴミ箱、ちゃんとあるじゃないの。
テロ対策だとかいって、たとえば京王線の布田なんて駅にもゴミ箱はないのに。
布田より成田こそテロにあいそうなのに。
公共の場所からゴミ箱を撤去すれば外人は抗議するだろう。
または軽蔑するだろう。

まあなんとか飛行機に乗る。

機内で夕食の時ワインの瓶をひっくり返した。
となりの人にもうしわけなくてこまったけれど、
しばらくして、その人もコップの水を床に落っことした。
よかったというか、ホッとした。
飛行機の座席はせまい。落とした瓶に手が届かない。
大柄のオランダ人スチュワードに英語でひろってほしいと頼んだ!?
どこに行く時も英語がわからなくてこまっていたのに、驚いた。
英会話の初級クラスの授業でさえ、わかった気がしないでいるのに、どうしたのだろう。

機内で多摩市民塾の朗読の文章を読もうとする。へとへとでダメ。
12時間半の空の旅。スキポール空港に遥と健が待っていてくれるといいけど、
いなかったらどうしよう。成田で買った小説「ちいさいおうち」を読んでしまう。
眠って、起きて、朝食、到着。
直行便はほんとにラクだ。

スキポール空港。
荷物を
baggeage という。
おぼえたその英語の字があるとこへ行けばいいのね。
baggeage・hall とかで預けた荷物が運ばれてくるのを待っていると、
ガラスの向こうに遥が見えた。手真似をしている。
すぐそこにある電話の受話器を取れということらしい。
そうすればガラス越しに話せるのである。

entrance・hall
オランダの民族衣装を着た美人が、ウェルカムと微笑んで、
揚げた丸いドーナッツを幾つもおいたトレイを「いかがですか」と差し出す。
健と遥が「お母さん、おいしいよ」とさかんに言うので、食べてみたらこれはおいしかった。
歩いて、スキポール空港から列車のスキポール駅へ。
ロッテルダムへ行くのである。急行なら25分ぐらい、ふつうだと一時間ちょっと。


2013年1月1日火曜日

謹賀新年


2013年になりました。
みなさん、お元気ですか?
心から新年のご挨拶を申し上げます。
今年がどんな年になろうとも、
一生懸命くらした過去の時間が、
みなさんにたくさんの良いお返ししてくれる、
そんな心ゆたかな一年になりますように。

今年、私はなんとか知り合いをふやして、
できればゆっくりと直接なにかを、
会話とか相談とかなにかの会をするとか、
旧交を温めるとか、お茶を飲むとか、ごはんを食べるとか、
手作業にちかいことをしたいと思っています。
お手伝いしていただけると嬉しいです。

去年は、
よく知っている人や、はじめて会う人、それはいろいろな人たちから、
温かみのある、おかしくて、それでいて深みのある話を
ほんとうにたくさん、きくことができました。
世の中が悪くなればなるほど、深みは深く、温かみは温かく、
ユーモア感覚とともにみがかれてゆくのですね。

旧年中のご好意を感謝しています。
有難うございました。
私はあしたから一週間ばかりオランダへ。
娘がそこにいて、少し外国を見せてくれるはずです。
いまオランダは日本ほど寒くないとか。
HAPPY NEW YEAR !! ご健康をいのります。