2013年2月25日月曜日

「真夜中の太陽」について


2011・3・11以来、
いったいどうすれば、ふつうの人間がふつうにくらせるのだろうかと、
私は答えをさがしている。

戦災孤児・田辺健之さんと劇団民藝の「真夜中の太陽」を観たのは、
上演後、出演者と観客の交流会が行われるというめずらしい日で、
劇は、よくいうセピア色にやわらかく褪色した過去というムード、
若い一生懸命な俳優たちの姿もすがすがしく、つかわれる日本語もきれい、
小柄でかわいらしい白髪の日色さんが主人公を演じて、
「真夜中の太陽」は美しい歌声とともに心地よく進行した。
涙にくれる観客も多く、客席がほぼ満席であることにも、おどろく。
交流会がはじまると、参加者が学童疎開など体験をまじえての感想を熱く語った。
高齢の方々が大勢足を運ばれたのであろう。

・・・この心地よい演出。
懐かしいといえば語弊もあろうが、ノスタルディックな客席の空気。
私が劇団にいたころは、新劇調のもの言いが忌みきらわれていたけれど、
そんないわば社会派志向の、肩ひじはった表現はもうあとかたもない。

芝居の終わりごろ、舞台では、過去と現在とが交差し、
80代のハツエがかつての同級生たちと会話する。
ハツエの人生はどうだったのか。
恋愛結婚だったこと。相手は医者だったこと。
だから比較的金持ちで。子どもはふたり。孫もいて。
思い出が掻き立てる罪悪感がなければ、人並みのしあわせなくらし。
「私ひとりが生き残ったこと、怒ってない?」
ハツエが死んだ少女たちにたずねると、少女たちはけげんな顔だ。
幸福でよかったよね。私も恋愛したかったな。子どもがいるなんてうらやましいな。
ハツエちゃん、あなたは私たちみんなの代わりに生きたのよ、本当に幸福でよかったね。
舞台のうえの、15才で惨殺された亡霊たちは、
くったくもなく、けなげにそう思っているのだ・・・。

観客席と舞台のあいだにあるのはあきらかな調和である。
問題提起などクスリにもしたくない予定調和だ。
見てくださるお客さんを全面肯定するこういうありようこそ、
新劇の商業主義化ということではないか。
商業主義的であることは、
理屈ばっかり言ってたんじゃ「食えねえよ」という話なのだけれど、
そういう相互の現状認識が今日の日本にいったいなにをもたらしたか、

それをいやでも考えずにはいられないのが原発被爆日本だと私は思うけれど。

私は読んだり聞いたりして知っている。
戦後62年がたったいま、
不幸にも現在15才の少女たちが、いろいろな場所で語リ始めている。
私、結婚したとして、こどもを生んでいいんですか、と。
南相馬からやってきた高校演劇部の公演は切符がとれないほど。
終わらない事故。たれながされ続ける放射能。置き去りにされておびえる被災者たち。

ハツエさん、あなたは日本の反戦運動の、どこにいたのですか。
あなたは原発反対のデモの、どこかにいましたか。
一般的日本人とはちがう運命を背負ったあなたが、そのどこにもいなかったとして、
では妻として、母親として、孫娘のおばあちゃんとして、
あなたはどこでなにを考えていたのでしょう。
二度と少女の同級生が全滅しないですむように、あなたはどんな努力をしたのですか。
あのとき唯一の生存者だった立場が、あなたにのこした傷痕は?
くよくよしただけなんですか?
そのことを忘れられなかった、だけなんですか?

舞台を見るかぎり、ハツエの悲しみはなにひとつ行動をともなわない。
そして、それだからこそ観客にとって悲しみも心地よいのだ。

たとえば田辺健之さんは、中学出では就職も難しく、臨時工からはじめて、
「孤児だからってよう、差別されるじゃん、そりゃあやっぱりな。」
高木さんや私が本に書いた事実も、彼がシンボルのような子どもだったからだが、
「語り継ぐということにしたって、けっきょく目立ちたいんだろって言われたりな。」
目立てば、その結果孤児だとわかって、やっぱり悪い目にあう。
それが「健ちゃん」の家族の心配だったという・・・。
田辺さんは、にこにこしているのだが。

2013年2月23日土曜日

真夏の太陽(劇団民藝)


劇団民藝の「真夏の太陽」を見る。
複雑な観劇。
個人的な思い出が二重三重に交差するというヘンなことが起こった。
ふつう私はきわめて単純であって、
過去と未来が心のなかで、なんていう複雑思考型じゃない。
・・・ところが、である。

民藝が「真夏の太陽」やってるからさあ、見に行かない?

そう言ってさそって下さったのは田辺健之氏であった。
かつて私が「疎開保育園物語・君たちは忘れない」の中に書いた人物である。
彼は童話の主人公にもなった。
「ガラスのうさぎ」の著者高木敏子さんがお書きになった、
「けんちゃんとトシ先生」がその本である。
1945年3月10日、東京大空襲の日、下町の田辺家は一家全滅。
4才だった健ちゃんがひとり生き残った。
この子は埼玉県桶川の疎開保育園にいたから助かったのである。

一方、劇団民藝の「真夜中の太陽」は、集団劇で、
2013年のいま、83歳の老女となったかつての女学生ハツエが主人公である。
東京大空襲の3月10日、彼女はミッションスクールにかよう15才の少女だった。
同級生は全員が、教師の誘導にしたがい防空壕に逃げたがために壊滅、
逃げおくれたハツエがただひとり生き残る、それが今日観る劇の設定なのである。
「久保さんの出版記念会でさあ、日色さんがあの本を朗読してくれたんだよね」
にこにこと人懐かしい笑顔で健ちゃんがプログラムを渡してくれて言う。
そういえばそうだった。むかしそんなこともあったなあと思い出す。

主人公ハツエを演じたのは日色ともゑさんで、適役好演。
彼女をかこんで、デビューしたての新人女優たちが、
ミッション・スクールの生徒15歳を演じている。
私も大学を出たあと、しばらくのあいだ、この劇団民藝にいて、
こういう形式の芝居がデビュー作であった。
「ああ野麦峠」で15歳の工女に配役され、一年中、旅公演をしていたのである。
そして、そこに日色さんが出演していたのだから・・・、
日色さんにとってはよくある話だろうけれど、
劇団をやめて、ヘンなことばっかりやってきた私のほうは、
むかしの自分を虚構の中で見ているよう、
なんだかおかしな時間が実感をともなわず、ふわふわと流れたのだった。

デジャビュ、ではないけれど。
奇妙な体験・・・。
ああ、あのころ舞台で、自分たちはこんなふうに見えていたのか、
製糸工場の原始的なストライキに破れて、雪の野麦峠を越えて故郷に逃げていく、
「おのぶ」という少女役の私は、絣のおんぼろ着物に手甲脚絆という装束。
若い女の子がたくさん出るって、こうなのかー。

「真夏の太陽」の主人公とおなじような運命を生きた田辺さんは現在74才。
「おれとおんなじだからさあ、日色さんが演じるハツエさんはさあ。
だから、語り継ぐ責任ってことをどう思っているのか、知りたくてさあ。」
と健ちゃんは私に言う。
「保育園の福地先生なんかがよう、日本ではじめて園児疎開っつこと考えてくれたんだろ。
ひきとって育ててくれた叔父さんとか、いろんな人に助けられてさあ。
おれなんかはさ、それでもらった命だもんな。」

そういう田辺さんといっしょに劇場の座席にすわって、一時間半。
・・・私は、だからこの日、
健ちゃんの目を借りて、この劇の進行と主張、結論を考えたわけであった。
彼の立場で、東京大空襲で殺された15歳の亡霊たちについて考えたわけであった。


2013年2月15日金曜日

ライブとコラボレーション


コラボ、コラボと何年もまえから耳にしていて、いやだなと思っていた。
そういう外来単語に、ぜったい素直になれない、できるだけ日本語でしのぎたい。
辞書をひいてみたら、合作とか共同研究とかですって。
・・・ふーん、共同研究ね。

あした、梅が丘のリンキーディンクスというスタジオで、
7時から、息子がライブをひらく。
「かあさん、なにかやる?」
といわれた。
「私?!」
「うん、ひと枠あげるから、なんかやれば。」
ライブ見物をしはじめて15年ちかく。
リンキーディンクスには行ったこともある。
お客さんは少なくて、来てくれるのは多少とも知っている人ばかり。
このあいだ、私も小さなライブを主催しようといよいよ思って、
プレイヤーふたりに出演をたのんだばかりだ。
「やるかい? なんでもいいよ」
「なんでもって?」
「だから朗読でも話でも」
ライブで私が演説したらこまるでしょうに。

でも、こういうことがやりたかったので、作戦をたてた。
私はいま多摩市民塾というところの朗読のクラスの講師であるが、
そこに今回のライブにピッタリのヨシノさんという生徒がいるのだ。
独身、地味、たぶん50代、小柄、個性的、孤独、そうして自由。
そんな感じというだけで、ほんとうはなんにも知らないが、
朗読が美しい。
私の朗読のクラスでは、当人が選んだ文章を朗読するのであるが、
彼女の選曲はつねに詩的である。
日本語がもっている音律や深みが、
ライブに集まる人たちの詩心に、遠くからでもとどくといいなあ、と思う。

電話をかけてたのんだら、承知してくれた。
「すげえ」
息子がびっくり。
「こういうこと一度もやったことない人でしょ?」
そうだけどね。
日本にだってほんとうの大人もいるわけよ、あっちこっちに。

おーい、みっちゃんお願い、聴きに来てね?
場内煙草禁止にしてもらったから。


2013年2月12日火曜日

老後


早朝ゴミを捨てに行った。
行く道で、そこのヤブに百舌(もず)がチョンチョン飛んでいてうれしい。

ゴミを捨てる金網のハコのところで、同じ団地のお名前を知らない人に遇う。
若い気持ちのいい顔立ちの美人である。
「今朝は寒いですねえ」と言うと、今夜また雪になるかもしれませんという返事。
にこにこしている。
「きのうの新聞にあんまり寒いと雨から雪になるって書いてありましたよ」
「ほんと」「ええ、こまりましたねえ」「うわあ、それで今朝はこんなに寒いのねえ」
朝一番に出合ったった人が穏やかな彼女でよかったと思いながら引き返すと、
左手の道路上に、向こうの棟の初老のご主人が、ゴミの袋を片手に姿をあらわす。
この方もじつに気持ちのいい表情の持ち主で、お名前は知らないけれども、
なにかのおりに行き会うと、なんだかとてもホッとする。
「おはようございまーす」と言えば、即座に「おはようございますっ」
まことにケチくさくないしっかりした声がかえってくる。本当にあたたかい気持ちになる。

もどる道にはまた、百舌が今度は場所をかえてチョンチョン、ガサガサ。
よく来てくれたなあと思う。

あんたは百舌かしら、ジョウビタキかしら、どっちだろう。
モズが枯れ木で鳴いている、というから百舌は冬見て不思議じゃないし、
ジョウビタキも夏どこかに飛んでいってしまうけれど、
冬になるとそこいらへんの人家ちかくにいるという。
どうしてあんたはモズになり、あんたはジョウビタキになったのか・・・、
柄はそうちがわないのに。
私はこういうことを、こどものために買ったけど、彼らが全然使わなかった小学館の
古いこども図鑑をとりだして、調べてひとりごとを言うのである。

ああ老後ふう。
亡くなった姑を思い出す。
「どうしたら、お姑さんみたいな人になれるのかしら?」
私がきくと、
「なれるわよ、私なんか普通だから」
いつもそう言ってわらっていたっけ。
姑みたいな自然な人になれたら、と私はいつもいつも思っていたっけ。

2013年2月11日月曜日

英語劇


英語劇の台本をつくる。
ドクター・スースの初等教則本みたいな本を、ある日先生がもってきてくださった。
リズムをだいじにスピーディーに読むやり方に、私はワクワク、
このクラスの修了式の舞台「作品」をつくるとすれば、これだ、と思った。
エドワード先生はアメリカの大学で演劇専攻だった方であるから、なおさらである。

年末になると、英会話のクラスが修了式になにをするか、相談を始める。
「ドクター・スースはどうでしょう?」
提案してみたら、すんなりみんな賛成。
エドワード先生も、
「イート、オモウ」

なりゆきで、たたき台を私が作るわけであるが、英語劇なんだからエイゴである。
三多摩の図書館には、原書があれば翻訳本がなく、絵本があったと思うと原書がない。
どうせ童話を下敷きにするんだから、とかるく考えたのが運のつきで、
参考書を確定するのに、とんでもなく時間がかかった。
これを下敷きにと決めたのは、けっきょく紀伊国屋で買った本。
原文英語が図書館になくて、友人にネット検索を頼み、なんとか見つけてもらった。
私はエイゴがよくわからないんだから、そういうことを言うもんじゃないと思うけど、
絵本の日本語が気にくわなくて、けっこう頭をかかえた。
ちいさな台本にも、筋書きとモチーフ(発想のモト)はあるもので、
翻訳をそのままにすると、ドクター・スースの言わんとするところがボケてしまう。
発想の原点がボケたら、みんなで元気よく演じることは不可能だ。

見つけた絵本とエドワード先生の以前の教材ふたつ。
三つの英文をまぜこぜ切り貼り、イラストも切って貼って、台本ができたぞと思うころ、
あっ、風邪をひいた、と思う瞬間があった。
それからの一週間は、咳と胸郭のあたりの痛みで、夜もおとおち眠れない。
めずらしい、夜も眠れないなんてちょっとドラマティックじゃないの、とオモシロイけど、
そろそろ死ぬのかなあ、と弱気になるのは私もそういうお年頃なのだろう。

「イートオモウ、ウン、オモシローイ」
12分ばかりのカンタンな劇。
先生に登場していただく場面つきだけれど、ダメとおっしゃらなかったのでよかった。

ネライをつけてた音楽と美術を担当する人に、うちに集まってもらい、たたき台をつくる。
お茶をのんで、お菓子を食べて、進行の段取りをつくるのである。
こういう時間が楽しいのよね。
修了式の出し物で、シロウトが集まってつくるわけだけれど、
どうせやるなら本気がいい。
そのほうがとても楽しい。


2013年2月9日土曜日

春がきてしまった


オランダから1月10日に帰国、つぎの日から仕事がはじまって、
1月は、オランダでノートに書いたことをブログに移しているうちに、終わってしまった。

ノート・パソコンなのに荷が重くて持ち歩けない。
いまハヤリのスマート・フォンの奴隷になるのも好ましくない。
けっきょく、布張り縦書きの古風な帳面をもって行き、メモ書きに終始した。

オランダの汽車みたいなものに何時間か乗る場合、私は、窓の外をながめる。
羊がぼーっと雨にうたれてるとか、牛はいないのかとか、いいな、あの農家はとか、
なんてまあこの国の落書き軍団はしつっこいんだろうとか。
ところが、遥と健は「スマホ」にかかりっきりである。
むかしの私が四六時中かるく読める本に取り付いていたのとおなじだ。

これはうちの家系かなあと思ったりする。
目前の現実に耐えられないという・・・。
たとえば、絵画を落ち着いて眺める、なんてできないのだ。
すくなくとも私は、モナリザだろうと、ピカソのゲルニカだろうと、じっと観ていられない。
大学生のころだったと思うけど、そういうことを父に言ったら、
原稿書きの父は笑って、お前さんもそうかい、まったく以ってわしもそうだよ、と言った。
どうもわしらは、そういう傾向だな、論文なんかにはいいんだがね、と。

今の今という時間のなかに自分を置いておくということが、どうにも苦手だった。
汽車の中でぼーっとして、過ぎて行く時間を見送るなんて、
それができるようになったのは、父や母や、私を育ててくれた誰彼が、
みんな遠くに逝ってしまったあとになってから。
われにもあらず、というやりかたで生きちゃって。
しょうがないもんだなあ、と思う。

2013年2月8日金曜日

鶴三会・句会三回目  1/17



我が団地 ひっそり咲いた 石蕗(つわ)の花

宇田さんの句が、今回、私には懐かしい。
亡くなった花松さんを思い出すからである。
石蕗の花と花松さんの面影は、切っても切れない。
・・・団地の周りに、重い緑の丸い葉をもつ花が奥ゆかしく「ひっそり」配置され、
季節がくれば沈黙のうちに「我が団地」を飾る、その古風さをとても自慢なさっていたのだ。
植栽をめぐる団地内の折々の小戦争のまっただなかに、かの花松さんあり。
憤慨して怒って「なんだテメエは」と言い、細かいがうえにも細かい学術的文章を書き、
管理事務所でも通路でも理想を語り、凝った珈琲を飲み、中国通であり、
景観と美観とはまったくもって別ものなんであって、とかもう怖くって、ははは。
理事会でご一緒させていただいたけれど、献身的で私心がなくいい方だった。
「頼むよ、花松さん、そこから降りてよ。首の骨でも折ったら取り返しがつかないからさあ」
藤棚の高いところで、植木バサミをパチンパチンとどこまでもやる花松さんに、
宇田さんが、何度もおがむように声をかけていた。
言うこときかなかったわよねー、ガンコで。

さて、である。
三國さんがおっしゃるには、花というものは咲いているから花と言う。
だから、「咲いた」と「花」をくみあわせないほうがよろしい。
たとえば、隅にひっそり、というふうに「咲いた」を避ける。
はあ、そうなんですかあ。たいしたもんだなあ。
今回の参加者は10人。
おもしろいねえ、ふーん・・・と合いの手がいちいち感心しているのも愉快である。
投稿(句)は48句。
残念ながら所要あって不参加の方が多かったが、この句会はけっこう流行っているのだ。
今回は力作が多く、老人の集まりならではの存在感だと思った。

介護終え 静かに響く 除夜の鐘

「なんにも思いつきませんので、ただ想ったことを、そのまま詠みました」
村井さんがそうおっしゃると、
「私も100歳の母を介護の真っ最中、胸がいっぱいになりました」という講評。
・・・母親の介護をした頃は、除夜の鐘に耳をすます余裕すらなかった、というふくみ。
生活というものは眼に見えないところで重く進行している、ということであろうか。
三國さんの介護に重なる思いの俳句も、新年ということで詠まれてあった。

百才の 母に紅さし 年迎ふ

三國さんは次の句が、じつに見事である、と言われた。
病気お見舞いなのだろう折り鶴に季語「実千両」を架けた、その発想がすばらしいと。

折り鶴に 光り充ちてや 実千両

明け暮れ闘病の木下さんが届けてくださった俳句である。
「満子さんがお名前ですよね・・・充ちてということばも、この句にぴったりでしょうし」
そうかあ、そうやって、ていねいにていねいに、言葉を考えるわけかあ。
「雑然」が洋服着て歩いてるような私なんか、もうびっくりするばかり。
あーあ、どうしたらいいんでしょ。下手な俳句求む。自分も書くけどひとりじゃ心細くて。
こんなにほめられたのだから、木下さんの欠席が残念でした。

舟小屋も 舟も新らし 年用意

「年用意」は年末の季語ですって。これは三國夫人の句である。
なんときれいな俳句ではありませんか。

三回目ともなると談論風発。感想や質問の鋭さ面白さで、
このたびは、句会終了後「脳みそがとても重くなってた」という気がしましたね私は。 


2013年2月4日月曜日

預言者エレミア レンブラント

                                    
「エルサレムの滅亡を嘆く預言者エレミア」(1630年)
この絵は、アムステルダム国立博物館に、多くのレンブラントの作品とともにある。


預言者は不思議な感覚をもって、未来にやってくるものを予知する人である。
この絵を見るたび、
預言者でもなんでもなく、平凡無能な生活者にすぎないのに、
私は、自分自身をまるごと描かれているようだと、感じてしまう。

それはレンブラントが、彼の父親の「ある日」をモデルに、
預言者エレミアの絶望を想像、あるいは創造したからではないか。

どんな親も、一生のうちに一度は、ここに描かれたような絶望と向きあうものだ。
ふつうの生活をする者はみんなそうである。
私たちは一軒の家の責任者であって、一国の運命を任されたというわけではない。
しかし、一軒の家も、民族を束ねた国も、
明日破滅するとなれば、責任をもつ者の苦しみはおなじであろう。
親と子を抱えて、責任者となり家長となり、しかし無力でしかなく、
解決策はないのだと絶望するばかりの、「ある日」の気持ち。
むろん、私などは無事に生きのびてきたのであるから、
絶望も、予知能力をもたない者のしょうもない混乱、ということでしかないが。

美しい絨毯と豊かさを思わせる衣装、鈍く光る財宝のかたわらに座り込んで、
ネブカドネザル二世によるエルサレム陥落とユダヤ民族破滅のありさまが見えている人。
少なくとも一族に迫り来る死を感じている人間。

平凡を下敷きに非凡を描き、並ならぬ判断力が無力でしかなくなった「その時」を描く。
この絵を見るたび、私はその二重表現に驚き、そして衝たれる思いをするのである。


お母さん、どこに行きたい?




息子が先に帰国する。私は明日、帰国する。

スキポール空港で、遥がしきりに悔やんでいる。
「仕事を休めないんだろうと思って、こんなスケジュールにしちゃったけど、
健の自由がきくなら、明日二人でいっしょに帰れるようにすればよかった」
でも、ひとり旅も、それはそれでいいものなのだ。
あの、わけがわからず、外国語も話せない、見知らぬ人のなかに一人でいる感じ。
私は機上で、ひまを持て余したりするのも、けっこう好きである。

「お母さん、今日はこれからどこに行きたい?」
弟がKLMの搭乗口を入り、税関を通り抜け、視界から消えると、娘がきく。
ああそう言えばそう。私の旅も今日で終わってしまう。
明日の朝は、私が出発するのだ。
遥ともお別れである。
今日も、残り時間はあと半日、荷造りもあるし。
「アムステルダム」
と私は言う。
「まえ連れてってくれたじゃない、あそこがいい。あの預言者の絵も見られるし」
「ああ、国立博物館ね。エレミア」
「そうそう、預言者エレミアを見て帰りたい」
2010年の夏、あの日は一日、ひどい雨降りだった。
博物館にむりやり入って、
あとは傘もないので、遥とふたり遊覧船に乗って運河めぐりをしたっけ。
私たちを乗せた船にも、運河に係留する数々の豪華船にも、
それからアンネ・フランクの家のまえの長い行列の上にも、
すべてをずぶぬれにする雨がずーっと降っていた。