2013年4月26日金曜日

第4回 鶴三会句会


句会の翌日、今日は輝くような好天である。
青々としたメタセコイヤが強い風にうねっている。
これは、木下さんが詠まれた「春北風(はるならい)」とはちがう風だなと思う。


西行に見せたや多摩の桜かな
若葉もえ空に伸び行く欅かな
木蓮の花痛々し風走る
春あらし御衣黄(ぎょいこう)も散らしけり
春北風去年(こぞ)より強く花(さくら)白し
朝日浴び薄紅の滝しだれけり
黄昏の風ひとふきし花吹雪
我が指をつつき遊ぶや残り鴨
春北風吹きあれてなお蕾つけ
坪庭につつしみて咲くえびねかな
花吹雪想い何処や六地蔵


なんと私たちが住む鶴牧界隈は美しいところではありませんか。
春たけなわ句(苦)をもとめて、
楽しくさまよう心を好ましく思わずにはいられない。
五十句がとどけられ、二十句が披露されたが、
よしあしはあれ、
句会に集まる親しい人たちの、複数の目がとらえたこの春が素晴らしい。

西行法師を詠った中村さんの句から、話がはずんで、
「ねがわくば 花の下にてわれ死なん そのきさらぎの もちづきのころ」
という名高い短歌まで、
いささかの毒をはらんだ西行の家庭からの遁走の様子などもみなさんが語られ、
いつものことながら、おどろきもし心にも残ったのでした。

切り株や我にうらみのヒコバエが

上記は細田さんの俳句だけれど、労働歌のようで今回の私の一番はこれ。
どういうわけか、切り株をかこむ周囲の、伐採をまぬがれた樹木の深緑の色が、
読むなり鮮やかにパーッと頭の中にひろがった。
花のなかにてわれ死なんという感傷とはちがうなにか、
行動をともなっての句の地味な輝き、
三國さんがおっしゃるには、木を伐ってしまう心の痛みがあっての句であると。
本当にその通りとみなさんがうなづいておいでだったけれど、
細田さんをよく知るからこそなのか、句それ自体のもつ力なのか、
ヒコバエ談義も私には新鮮、おもしろくうかがった。

リアリズムばんざい!みたいな。
私のこういう感覚は、若いころ新劇にいて、リアリズムリアリズムと、
先輩方がいうのを耳にしていたせいにちがいない。
私が育ったのは、物書きと編集者の家で、
そこでもまた、私はリアリズムということばを、よく耳にしていた。
子どもの耳でお経のようにきいていたことばが、
俳句の世界にゆっくり連座させていただくことによって、
ああそうなのか、父たち戦後の日本人はこういうことを思ったのかと、
しみじみ得心するのだから贅沢なことではある。

細田さん宇田さんによれば、
植栽関係では植物の名称はカタカナ表記が原則だとか。
名称の正確な伝達こそ表記の目的だからである。
一方、俳句の場合は、できるだけ漢字をつかう練習をすることがよいのですって。
漢字は意味表記というのか、文字そのものが想像を産む。
今回の句からひろえば、
「御衣黄」や「木蓮」「黄昏」「坪庭」、それに「欅」も「花吹雪」も。
漢字のもつ力ということを三國さんは言われ、
あらためて季語の力について、季語をさらに説明してしまうことは避けるようにと、
いましめることでもう一度強調された。
誰もがついやってしまうことなんですがと。


2013年4月23日火曜日

ニワトリのゴンちゃん


千樫がひとりで泊まりにきて、朝がきた。
五才である。
保育園に送っていくのだが、
そこはむかし私の息子が通っていたところだった。
おなじ保育園がすぐご近所に移動したのである。
七階建てみたいな新築都営住宅の一番下の階に。

改悪、という気がした。
べつによく見たわけでもないんだけど、わびしくなっちゃった。
千樫は遅刻を気にしながら、靴を脱ぎ、あわてたふうに上着を脱ぐ。
「また泊まりにきてね」という私に泣くのをこらえた顔でうなづく。
私の子どもだって、どの子も泣きべそをかきながら、
世にもおっかない私という母親に護送されて?
保育園の門扉を入っていったのである。
あのころは私も若かったし、
保育園でもいちばんビンボーという感覚だから、余裕もへったくれもなかった、
知らない、かまうもんかという、それだけのものだった。
しょうがないよ、千樫、こんなもんよ人生って。

でも、それで思い出したのがニワトリのゴンちゃんである。

調布から桜上水に引っ越して、保育園をいろいろさがしてここにたどり着いたとき、
園庭では保母さんがふたり草取りをしていた。
ふるいタオルに麦わら帽子、
にこにこしていたかどうか忘れたけれど、親切な人たちだった。
ちょっと強面(こわもて)のニワトリが一羽、
遠からず近からず、キョロッキョロッと、そこらへんを歩いている。
「放し飼いなんですか?」
そうたずねると、草を引っこ抜く手を休めず、
「ええ、まあ。子どもさんがいる時は鶏小屋に入っててもらうんですけどね」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。まあ小屋だけじゃ鶏もあきるだろうし。こうやって」
時々放してやるんだとか。
ふーん。
「子どもが喜んでかまうと、怒って突っつきますからね、ゴンちゃんがね」
「・・・ゴンちゃん」
なるほどそんな感じの雄鶏だ。
「正式には権太というんですけどね。」
保母さんは草取りをしながら、私たち夫婦と話をした。

この鶏は気にくわないとなると大人にだってかかってきますから、そうだろゴン?
まあ、気が強いし、悪口もわかるんでしょ。
こないだなんか、おまえ、卵を突っついて食べて怒られたんだよねっ?
「卵、突っついた?」
ゴンを見るとそこはニワトリ、知らん顔だ。
そうですよ、癪にさわるじゃありませんか、せっかく産んだのに。
だから言ってやったんですよ。
アンタねえゴンちゃん、アンタ、ニワトリだからって仮にも親でしょうが!
親が自分の卵、食べるってどういうんだ!
「ゴンちゃんは? どういう態度だったんですか?」
「そりゃ、しらばっくれてましたよ」
保母さんたちは顔を見合わせ、ねえまったくとかなんとか言っている。
私はこの冗談っぽい保母さんたちがすっかり好きになり、
園長先生に会わせてもらった。
「ここはね、ほらあそこ、あそこで専門の人たちが作ってますから。
ここは給食もとってもおいしいんですよ」
年上の保母さんが湯気のたってるようなプレハブを手にもったスコップで指して宣伝した。

園長先生は新しく赴任したばかりの人であった。
おもしろがってついついきくと、
ゴンちゃんに気に入ってもらえなくて苦労しています、と言った。
「私、ゴンちゃんに気に入られたくて、エサをうちから運んで来るんですもん。」
キャベツとか、新鮮な、ゴンちゃんが好きそうなものを。
私はげらげら笑ってしまった。
まるでおはなしのようじゃないかと思った。
「そこまでしてますのに」
そこまでしてるのに、園長がいくらゴンちゃんに、私は園長なのよと口説いても、
「だめなんです、飛ぶというかですね、私のこと突っつこうとして追っかけてくるんですよ」
ははは。

いまは園庭はせまくなってしまい、ゴンもいない。
貧しくても、人間の手が子どものために手を入れているという「雰囲気」がない。
園の周辺はコンクリート、砂利、荒地のように野草茫々。
保育園の門を入ると、最低必要充分遊具あり。公立。鳥インフルエンザ対策完備。
でもユメのあとだ。ツワモノがいない。
ああいう保母さんや、ああいうニワトリの権タクレは消滅した。
なにがないって、なんだか余裕がない。
ちいさい子どもの居場所なのに。



2013年4月19日金曜日

ライブ+打ち上げ


夢がかなったと思えた瞬間。

打ち上げでビール片手に帽子屋さんの秋山さんが西村さんに
「デンシンバシラという曲がすきだったけど、唄わなかったんですね?」
ときいている。
「電信柱」は草野心平の詩に西村さんが曲をつけたもの。
西村さんはギターでそれを唄ってくれた。
立ったり座ったりしているみんなに。
もう一曲と頼んだらもう一曲。
それって誰だってうれしいでしょ。

それから、あっちやこっちでみんなが話したり笑ったりして、
打ち上げがお開きになろうというころ、
わが敬愛する中村さんが、
そろそろ帰るんだけれど、そのまえに今日はたいへん良いライブだったので、
めでたいということで、謡いの「高砂」の部分を、うたわせてもらってもいいかしらと
そうおっしゃってくださって。
私がみんなにそのむねを伝えたら、居間や台所にいっぱいの人が、
たちまちしーんと静かになった。
どの顔もめずらしさと期待とでにこにこしている。
「高砂」がおめでたい謡曲であることは、若い人たちもなんとなく知ってはいる。
自分の結婚式できいた、という人だっているかもしれない。
でも今日のこんなライブの打ち上げで、
「高砂」に耳を傾けようなんて、そんなことはめったに起こらない。
八百万の神さまの仕掛けたミラクル、みたいなことである。
(もっとも、中村さんご自身はクリスチャンなのだけれど)

なんてゆったりとのどかな、平和そのものの「高砂」であったことだろう。

わが団地の白髪の紳士お二人は、うちの古いソファに並んで腰掛けておられたが、
中村さんの「高砂」が終わると、思いがけないことに今度は三國さんが、
三國さんは「鶴三会」ではみんなのだいじな俳句の先生なのだけれど、
ソファから立って俳句を詠まれたのである。
それはこういう句だった。

ライブ聞き 老ひ忘るるや 春の午後

私の家は、おどろきとふわっとした相槌(あいづち)でいっぱい。
思いがけないことが起こったと、音楽仲間の若い人たちも動きをとめている。
これは感謝句とか挨拶句というもので、
俳句の世界ではよく行われることと、あとから教えていただいたけれど、
素朴な、そして奥ゆかしく思われる即興だった。
エドワードさんがその場にいらっしゃったことも私には嬉しかった。
朗読と弾き語りのライブからすべりだした一日が、
私たち日本人というものを、静かにおだやかに表現して、
きれいに終わったのだ。




2013年4月17日水曜日

ライブ「迷走のときは」終了!


野田さんが、彼女は裏方を引き受けていたけど、
50人を越すほどの方が会場に、
それから家での打ち上げに30人の方がみえたのだと教えてくれた。
30人も入る大邸宅?・・・いやいや、
すきまなく床に座った人も、台所で立ちっぱなしの人も多かったから。
ライブが終わると、どこにあるかよくわからない私の家まで、
約15分かかって春のなかを歩いて移動してくださったみなさん、ありがとう。
それから案内してくださったみなさん、
若い森さんなんか息子の先輩で友人だけれど、
私が頼んじゃったら、バイクを唐木田に置き去りにして、
それで歩いて、お客さんを家まで連れてきてくれたのだ、ごめんなさい、
そしてほんとうにありがとう。

・・・翌日、はやばやと感想のお手紙がとどいた。
「何ゆえにあれだけの人達が集まって感動を共有できたのでしょうか」
人寄せをする目標ってなんといってもそれだから、
むくわれたと喜んでしまいました。

・・・時間がたつにつれて、考えた。
共有の根源は、やはり「ことば」だったと。
朗読と弾き語りの会だもの、それはそうなのだ。

ことばを細心の注意を以て選ぶこと。
表現する人たちの感受性が、集まって聴く人たちと同等であること。
人の世に対する理解力。
親切さ。
いいかげんじゃない論理。
そんな感じがほの見えること。

そういうだいじなものは、今ではどうも個人的にしか存在できない。
存在しないから創るし、探す、迷走の時。
私たちふつうの人間が。
プロじゃないシロウトで。
でも、
私が出演をお願いした人たちは、
ただものでもないわけで。
やっぱり場数を
ふんだ
人たちなのだ。
出演してくださったみなさん、
ご協力ありがとうございました。

小さい会だった。
それゆえに、
集まる人の個人としての暖かみもまた、
おたがいによく伝わったわけだと思うのです。


2013年4月13日土曜日

いよいよ、あした


いよいよ明日にライブの日がせまった。
心配と失敗を思うが、にこにこと深呼吸をして、用意してくれた人と
みんなで乗り切りたい。そしてさらなる明日につなげたい。
おたがいに工夫して。

日本語の朗読ふたつ、ギターによる弾き語りふたつ。英語の朗読ひとつ。

私の英会話初級の先生、エドワード・ヴァインゼィル(なんど耳できいても
発音がわかんない)さんは、ドクター・スースの絵本を朗読する。
わかるの?と思うでしょう?
みんなは頼んだ私にビックリして、それからとてもおもしろがって、
次にぜひとも英文を会場に用意してほしい、と言う。
ベンキョウする気?!
エド先生は初老ハンサムなアメリカ人で、
UCLAの演劇専攻出身である。
それなのになんでエドをながめず、英文にとりつこうとするのか。
授業じゃなくてライブなのよ?
いいじゃないの。
ヴァ・・ワ、ヴァインゼィルの、そこはプロ的な朗読を、そのまんま見物すれば。
英語を習いたくなるかもしれないし、
朗読っておもしろいと思うかもしれないし。
わっからなーい・・・?と思ったって、そういう自分がおもしろいじゃないですか。

あー、あしたあしたあした。
きのうは中さんとみっちゃんと朗読の稽古をし、
当日に備えて市場で買い物、唐木田菖蒲館を再度下見した。
私は今回、知ってる人にお願いして、2時間のライブを構成した。
60年まえから知っている人もいるし、去年知り合うことができた人もいる。
集まってくださった方同士、ちょっとめずらしくも新しい知り合いができたと、
そういう展開になったらどんなに楽しいかしら。
ライブって生き物、そして行き当たりばったり、お天気にだって左右されるしなー。



2013年4月10日水曜日

「迷走の時は」を準備する


ライブをやる、ときめてからアッというまに時間がたった。
あたりまえだ。
公民館のホールを借りようにも、抽選が一ヶ月まえなのである。
抽選に落ちたらライブはやめる。ゲットできたらライブ強行。
そんなムチャな。

でも抽選で幸運にもきれいなホールをゲット。
じゃんじゃん準備。

楽しんでもらえるかどうか、心配になってきちゃって。
こういうプログラムでいいのか。
自分の思い込みでやっていいのか。
異年齢の交流スタイルで?
お客さんを20代から80代までさそっちゃった!
集まってくれた人たちの時間をムダにしちゃったらどうしよう?
愉しくなかったら?
無意味だったら?

雨宮処凛著「ロスジェネはこう生きてきた」2009年を読んだ。
岩波ホールでイタリア映画「海と大陸」2011年を観た。
ロスジェネってロスト・ジェネレーションのことですって。
迷走の時はどうせよと、彼らは考えているのだろう?
ふーっ、雨宮さんの真似は自分にはとてもできない。
うーん、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞をとったほどでも、
無回答なんだ。たとえば難民問題に。

私はライブに「迷走の時は」とタイトルをつけた。
新聞4月9日一面の見出し
「福島第一・水漏れ貯水池継続・規制委使用容認・代替案なし」
脅かすのも脅かされるのもいやだけど、
安心だ、地球はこのままでOKだとは、とても思えない。

最近、迷子という言葉をよく見る。

宇宙全体ということを考えれば、アッというまであっても、
自己感覚でいうと、
私がみぎもひだりもわからない子どもだったのは、遠いむかしである。
考える時間はいくらでもあった。
おとなが自分を迷子だというのは、おかしい。
迷子は子どもがなるもので。

あまったれたくなくて「迷走」。
「迷走の時は」。
どうしたらいいのか。
まずはいわれなき自己否定の網の目から、
脱出できるチャンスをつくりたい。
上質と信じる幸福な一日を創ることで。
みんなと。

私の今どきのライブ主催にみるユメである。


2013年4月7日日曜日

ひでこちゃん


やっと「むかしの話」ということになったけれど、
夫と別居してから5年後に離婚成立。
当時子どもは19才、17才、11才で親権と養育権は私である。
私たちは私の実家に住み、夫は自分の実家にもどった。
義妹がやさしい人で、姑に離婚話をする時、私はいっしょに行ってもらった。
それがひでこちゃん。

ひでこちゃんは4人兄妹の次女で、姉、兄、妹にはさまれて、
いかにも次女らしい人格の、そう、なんと形容すればよいのか、
亡くなった姑の美質をいちばんよく受け継いだ人、というふうに思う。
けなげ、どんな時もチャーミング。
夫と別居して2年後に私の継母が死んだとき、
うちに泊まりこんで葬儀の手伝いをしてくれたのもひでこちゃんだった。

あの自宅での葬儀の日。
姑だって気持ちは複雑だったろうに、別居中の夫といっしょに来てくれて、
すすめられるままにくつろいだ様子でソファに腰を掛け、
式の段取りで忙しく、葬儀屋さんはじめ出入りの人も多いし、
当方の従姉親類夫も興奮気味にごったがえす、その有様をはた目に、
「これはいいお鮨ねえ」
お茶をゆっくり飲んで、食物もおいしそうに口に運んでくれて、
「船頭多くして、だとまあ・・・こういうときはかえって大変なんですよね」
べつに船頭たちのじゃまはしない、にこにこ傍観というか・・・。
マトを正確に射てるし、まあそれなりに小さくはない声だし、なんかこう、
私は吹き出してしまった。
手伝いにきてくれた友達がみんな、あの方がお姑さんだなんていいわねえ、と言った。
・・・そうなのよ、たぶんもうすぐ、お姑さんじゃなくなっちゃうんだけど。

離婚って苦しいものだ。
あの姑(はは)とひでこちゃん(義妹)と。
ふたりがいてくれなかったら、私の離婚は苦しいだけのものになっただろう。

月日がたってこの姑が亡くなると、夫は独り暮らしになり、そして数年、
独りが破綻する日がきたのである。

ひでこちゃんから久しぶりに電話がかかって、私はうれしかった。
でもそれは、兄さんから助けてくれと電話があって、という内容の電話だった。
ふたりで話をしながら、じわじわと心を衝たれ、
離婚に終わったけれど、結婚したことはよかったと、私はもう一度思った。
私の結婚のなかには、彼の側の家族もいて・・・。
ひでこちゃんは、だれに言われたわけでもなく、頼まれたわけでもないのに、
「兄さんが独居老人として野垂れ死ぬのは耐えられない」という立場を
ただひとりで引き受けてくれている・・・。
自分だって肺気腫なのに。ご主人も入院中なのに。
彼女は、私や私の子どもたちを少しでも当てにできるとは思っていない。
それで当然と、うらむふうでもない。
そんなことは期待できないと思っていたのだろう。

私のほうはどうか。
離婚後、独りになってしまった相手の老後について、
彼のお姉さんや妹をあてにできると考えたことはない。
父親であれば、その親の老後は子どもたちの責任になってしまうと思っていた。
ただもうふた親それぞれの不徳が子に報い、という感じである。
人情というより日本カミフウセン。政治はもとより、家族親類、兄弟姉妹など、
多くの場合、知らん顔をしてすますのがこの世の常ではないか。
考えるのを先にのばして、先延ばしして、けっきょくのところ「人情紙風船」だという、
そういう暗黙の社会的?疑問だらけの現状認識・・・を、しかし、
具体的にどうにかしなければならない時が、私たちにもついにきたのだった。

ひでこちゃんと病院のケースワーカーに会いに行き、
相談にのってもらい、今後の体制の下敷きをつくることになった。
病院とのパイプになってくれたのは、誰が見てもカンジのいい彼女である。
オランダにいる娘と、仕事から離れるわけにいかない息子たちが相談したけど、
スカイプとかスマホとか、なんて便利なものなんだろう、タダで話ができちゃう。
私とひでこちゃんだけが時代遅れで通話が有料なのである。

4月4日。
長男と二男に仕事を休んでもらい、
クルマを運転してひでこちゃんを迎えに行った。
彼の入院先で、医師、ケースワーカー、本人、妹、息子ふたりの6人が
今後について話合いをするという約束である。
会合は2時間。病院側も丁寧な応対であったときいた。
「できることはなんでもさせてもらいますが、私は絶対に彼には会いません。」
なんのために苦労して離婚したのかわからなくなる。
私自身はそう断言して、ケースワーカーの了解を得たのである。

「ひでこおばちゃんっていいねえ。」
談合?がおわって、みんなをクルマで迎えに行った私に二男が言う。
えらいよねえ。お父さんの冗談にも笑うんだよなー。
チャーミングだ。ホントウに心がきれいな人なんだね。

散々迷惑をかけられても、相手が冗談を言えば笑ってあげる。
そういうところなんか、たぶん、彼女はほんとうに亡き姑に似たのだろう。
うらやましいのかうらやましくないのか、よくわからない。
私ならば、このさい冗談なんか言われたら、ニコリともしなくって、
ジョーダンじゃないわよといいかげん無表情になっちゃうと思うもんねー。


2013年4月1日月曜日

フォーラム/統合失調症を生きる


統合失調症は病気である。
どんな病気かといえば、原因はまだはっきりわからない。
遺伝子だけの問題ともいえない。
100人に1人がかかる病気。
情報を伝える神経伝達物質のバランスがくずれると、大きなストレスがかかって、
この病気が始まる。

つらい病気である。
私の叔父が患者だった時代には精神分裂症とよばれていたのだ。
資料によれば、回復しても再発率が、1年後54%、5年後82%。
ところが公開討論をきいてハッキリわかったことだけれども、
病気を正確に理解し、患者がぶつかる不安をちゃんと解決し、
社会(地域資源という)が具体的に、社会復帰した当事者を支えれば、
再発率は低下する。再入院率も低下する。
つまり、まわりにどういう人々がいるかによって、
克服可能な病気ということができるという。

まわりにいる人とは、
もちろん家族、もちろん当事者会、相談支援事業所、
保健所とか、保険福祉事務所とか、地域活動支援センターだとか。
市区町村の窓口もそう。
NHKのフォーラムは、窓口が、それなりに気持ちよく病む人に対応した「実例」を、
1000人の人に知らせるものだった。
そういう窓口や理解者に出会えたヒトを「当事者」として紹介するものだったのだ。

じぶんの息子とあの若者とがほんとうによく似ているとビックリしながら、
あの日、私がなぐり書きしたエンピツ書きのメモにこういう一行。
「ウツの専門家は当事者だよ」
だれがそう言ったのか。もうひとりの女性の当事者だったろうか。
息子にソックリの若い当事者の発言を追いながら、
彼がふたりの精神科医を気遣って、自分の発言を微調整したのに気がつく。
純粋で、正直で、しかし必ずしも真実ではないかもしれない・・・、批判はしない・・・、
そういう我慢強いともいえる彼の社会性。

家に帰ってからフォーラムのことを話すと、
息子は私が持ち帰ったごく簡単な当日配布資料をテーブルから取り上げて読み、
「あ、オレは陰性(症状)のほうだ」と笑った。
統合失調症の症状には陽性と陰性があり、
陽性症状としては、
・妄想・思考がまとまらない・幻覚・変った行動
陰性症状としては、
・感情が無い・何もしない・閉じこもる・意欲がわかない・注意力が落ちる
ざっとそう(メモ代わりに)書かれている。そこを読んだのである。

「・・・なんだかこどもの時、あんたってこんなふうだったわよねえ。
閉じこもりこそしなかったけれど」
「そお? オレ閉じこもってたんじゃないかな?」
「閉じこもらなかった。閉じこもる場所もうちにはなかったし、大勢すぎちゃって」
なんでこんな話を自分にするのか、と不意に彼が私にたずねた。
「いや、そうねえ、
あのヒト28才ぐらいなのかなあ、当事者というんだけれどね、
あのヒトがね、どこからどこまであんたにソックリだということはよ、表情がよ、
たとえ統合失調症という病気にならなかったとしても、
もしかしたらあんたは、小さい時からすごく苦労してたのかもしれないなあと思って」
苦労かどうかわからないけど、と彼は言った。
「集中できない、考えがまとまらないことはあった。
自分はほかの子とちがってしまっている、それがなぜだかわからない、
そういうことが、けっこうずっと続いてはいたかな」
おかしなことね、と私は言った。
「そういうことがもう解決した今ごろになって、もしかしたらと思うなんて。
悪かったなー、いったいまあどんな親だったんだか、私ってもう」
「そうだね」
息子が皮肉な口ぶりで言う。
「どんなこと考えてたんだろう、つぎこさんはね」
「あのさあ。
なんかヘンだなとは思ってたわよ、だってあんたってヘンだったもんね。
でも子どもってみんなヘンじゃん? 
だからこれはなんかの才能の一部かもと思ったんだわよ。音楽の、とかさ。
それで日がたっちゃったのよ、忙しかったし。
まーミソラヒバリの母やってたのね、あたしはね」

女性のほうの当事者のことを、しきりに思い出す。
彼女は当事者同士で結婚、6才のこどもと現在は家族3人でくらしている。
なんにもかくさない、真っ正直な、そして思いがけないところで大賢人!という印象。
私は息子に言った。
「あのフォーラムにあなたもいっしょに行けばよかったのに」
病気のこともわかるけど、人間についてよく考えることができる集まりだったから。
精神の病気って、人間そのものについて考えさせるからね。