2013年6月15日土曜日

「ガゼルのダンス」という帽子店


池ノ上というところは、
有名な下北沢の裏っかわにくっついて、
人工的予定調和の街から出かけて行くと
消えかける昭和のあとかたが建物にも感じられ、詩情がただよって美しい。
とくに夕暮れ時、
「ガゼルのダンス」店の、なんでもないような椅子に腰掛けて、
すぐ前の、北口商店街はずれの十字路をながめれば、
足早に通り過ぎるどんな人もが、奇妙に美しく見え、
みんなおとぎ話を乾いたその身に背負っているかのようだ。

・・・軽やかな赤い自転車、学校帰りの少女の二人組み、黒いカバンをもった人、
巨大でぴかぴかの乗用車、風にひるがえるシルクのスカート。
ほつれた髪の灰色の老人夫婦、乳母車を押してゆくか細い人。
サラリーマン、いかにものおじさん、日本人を見ていていつまでも見飽きない・・・。

十字路はななめ四方に折れ曲がって、
横のほうの不揃いなビルの白いカーテンの奥にぽつんと夜の灯りがともれば、
ああ、なんでこの小路に私は住居を定めなかったのか、
私の人生はけっきょくのところ失敗だったのだと、
ちっぽけな魔法が、つかの間、ヒトをからかうのである。
「ガゼルのダンス」とはサンテクジュぺリの著作「人間の土地」から選び出した言葉。
若い帽子制作者、息子の友人のアキヤマさんが開いたカフェの名である。

私は椅子から立ち上がり、
ガゼルのガラス戸を引き、風が通っていく外をながめる。
北町商店街はどうしてかマッスグに定規で引いた一本の線だ。

むかしは床屋さんだったゆがみの多い店舗。

やわらかい音楽が影の多い白い空間をただよい、
オレンジ色した古い布のスタンドに明かりがともり、
夕暮れが薄暗がりにかわるころ、
「ガゼルのダンス」店では、
あっちからこっちから集めた台所用具の堆積を抜けて、
緑のハートランド・ビールや個性的なハーブ・ティ、それから珈琲などにともなって、
ちいさな皿や不揃いのスプーン、すばらしくおいしい果実のなにかが供される。
1・5倍にもふくらんでのんびりした時間のなかで、
私たちは帽子屋のユメがつくった店内を見まわす。
アキヤマカナコ製作のいかにも古典的で可愛らしい帽子は、
(それはほんとに美しい)
いまのところ、まだそんなには飾られていないけれど、
床屋が残したのだろう昔の仕事場の面影とともに、
それをこんどは帽子屋に造り替えたアキヤマさんの
芸術的な腕前をぜひ見てほしい。
この女の子の工房、そして見知らぬ人々を心から迎えようという用意をだ。
帽子展示の季節がくるまで、
いまのところ、ここは自然にカフェなのだ。

床屋というと私はチャップリンの映画を思い出し、
チャップリンがじゃんじゃか弾いたヴァイオリンのことを考えたりする。

きのう私は仕事帰りのこだまちゃんのママと、野田さんと3人で、
「ガゼルのダンス」を見にいった。
店は6時から10時まで。水曜日が休みの日。
井の頭線池ノ上駅から北口商店街をまっすぐ歩いて3分。
こだまちゃんのママはサイケなサーカスの芸人を模った首飾りと
おなじ模様のネックレスがとてもよく似合い、雨用ナガグツが皮の長靴のよう、
もうにこにこと、いつまでもいつまでも、あれを手にとり、この花の帽子を被り、
帰ろうと言ったら10時になっていた。
眼が愉しくて、そんな時間までぼーっと遊びほうけてしまったのだ。


2013年6月13日木曜日

朗読発表会(6/30)の準備着々


チラシとハガキの準備ができ、バザーにだす外国製フクロウの数々の値付けも完了。
発表会の場所は長池公園の自然館(ネイチャーセンターという)で、
なんといいましょうかフクロウさんにはピッタリの環境。
フクロウ・グッズはみっちゃんの寄付、
世界中を旅行していた母上がフクロウを集める方だったのである。
みっちゃん、ありがとう。
なんとかして、あれをちょうだいねと寄付をせまって、
ごめんなさい。

肩のこらないユーモラスな音楽もと思ったけれど、
マイクその他の音響用設備がないところだから、けっこう難しい。
考えてみれば、そうよね。
そういうものがあったら「ネイチャー」とはいいにくい場所に、なるわよね。
ほんとはコオロギさんちの戸をたたき、スズムシさんちの窓をのぞいて、
セッションをとお願いするのがよいはずと思うけれど、
秋じゃないから時期もわるいし、
あっちから見ればこっちは、巨人ほどに大きいニンゲンだもの。

けれど、やっぱりちょっと楽しみたくて、楽しんでいただきたくて、
makimakiのシンセサイザーによる演奏をすこしばかり。
この人は私にとって魔法のランプみたいな人である。
幼稚園で働いていたとき、
いつか子どものための、すごく単純で気持ちのいい「遊んで動ける音楽劇」を
ふたりで創ろうと、私は考えていた。
慣れない園長仕事にくたびれて、モト本までmakimakiに渡してたのに、
それができなかったのは残念だった。

ま、いいか。人生はかなわないユメの集積。
今回は、魔法のランプmakimakiに、
スズムシさんやクツワムシさんやの代わりに、楽しく奏でてもらいましょう。
ところでかんじんの朗読をする8人は、一生懸命準備している。
声がとどかないかもしれない、気持ちがとどかないかもしれないと心配しながら。
でも、いいじゃない、知ってる人にくつろいでもらえたら。
・・・45人しか入れないちいさな会場での朗読。
みなさん、45人に聞こえる声を、なんとか出せるようになりましょう。
だってマイクがないのよ、ネイチャーだと。

練習のとき、私はいつも吹き出してしまい、笑ってしまい、
それから、時々泣きそうだった。
こういう時間が創りだせるということが、朗読の会の実力だと思っている。
文学をまん中に、感情と論理を交差させ、発表の日のために神経をとぎすます、
そこでつい自分のことがおかしくなっちゃって、みんなでワーッと笑うなんて、
そんなこと、ふつう、めったにできないでしょ。

2013年6月5日水曜日

明治公園の反原発集会で思ったこと


6月2日。
全国的な、を目標にした反原発集会にひとり参加。
けっこう決心して出かけた。
ひとり、はどうやら慣れたけれど、身体の調子だの、仕事のことだの
ついぐずぐず考えてしまう。

会場について、樹木の陰をさがした。
どこかの地方からきた「革新懇」の旗。その横の地面にじかに座って。
はやく着いてヒマなので、友人にメールしてみた。
ひとりは体調が整わず今日はパスしたとか。
もうひとりは会場にいるそうで、
あっちの方かとそっちを見た。
でも立ち上がるのも、混雑をかきわけるのもオックウで、そのままひとりでいる。

なかなか集会は始まらない。
太陽がじりじり照りつける。みんながお天気でよかったと言い合っている。
蕗の煮付けを作ってきた、これは母の日に嫁がくれた梅干、
なーんて元気がいい。
一人でいる私に敷物に座るように言ってくれたり、飴をぎゅっと渡してくれたり。
日陰の風がすずしいし、居心地もいい。

私は知らなかったんだけど、集会は明治公園と芝公園で行われたのだ。
明治公園の集会は地方代表たちのリレートークであり、
芝公園では大江健三郎さん、落合恵子さん、澤地久枝さんなどなどが演説。

いやあ集会がはじまると、違和感。
ここに集まってくる人たちは、デモの初心者ではないはずだ。
地方から集まってくるにせよ、私のように都内ひとり参加にせよ、
「万難を排して参加しよう、原発を即刻停めてほしいから、
外国に売りつけるなんてトンデモナイから、
明日の運命が心配だから」
そんなふうにあらかじめ考えて、ここに集まってきた。
いろいろ聞いて読んで、いろいろ自分で絵も描き字を書きもして。

大震災から2年がすぎた。
今日までにたくさんの集会があった。
そんな感じの人たちを前にして、なんでまあ司会者や舞台の上にいる人たちは、
みんながもう知っていることばっかりを繰り返すのか。
私だけじゃない、かたわらの青年たちも辛抱がまんの薄笑いをしている。
だんだん真夏がちかづいているのだ。
かんべんしてほしいなーと思う。
抗議デモの出発を待って、何時間かをムリにも過ごすのだ。
おさだまりの視点、耳タコの批判、あたらしくない情報をがまんして聞くのは
苦痛である。

この日の集会参加は、両公園合わせて3万人弱。デモ行進が8万人。
二年前とくらべて、あきらかに集会参加人数が減少している。
そうか今度からは私もデモだけにすればいいのかと思った。
考えてもらいたい、工夫してもらいたいことだ。


2013年6月3日月曜日

朗読の「くぼきんサークル」 5/31


金曜日にひらく
久保つぎこの朗読サークルなので
「くぼきんサークル」という名まえにしたのだそう。
多摩市民塾が六ヶ月で終了したあと、約半数の方がきてくださって、
こういう朗読の会ができたなんて、ほんとうに光栄です。

ひとりひとりの在りようが印象的でふしぎな雰囲気、
六ヶ月間おつきあいしてきたのですが、
それぞれの人が朗読する声音に見え隠れする、
いかにもの日本人「らしさ」が私にはなつかしい。
大震災いらい私は、ヒトのなかに嘗てあった風情をついさがしてしまう。
控えめで、地味で。まーじめ。敏感。親切でそして正直。
大笑い、というのじゃないんだけれど、少しばかり愉快そうな微苦笑。
こういうことって、同世代的だからこその共感なのかもしれない。
一ヶ月に一度、府中というにぎやかな街に出かけ、
みなさんの音読を、私も一緒になってきくなんて、
楽しい。

としをとった人の多いサークルには病気の人が多いと思う。
そうなってからも、声をだして文章を楽しもうという、その気概がいい!
笑いながら病気とつきあい、
文学の助けをかりて勇気をだし、
自分以外の人々の親しみぶかい姿かたちから、かしこく学ぶ・・・
そんな一年のあとで、深みのある楽しい発表会ができたらと思うのです。

5月31日は朗読サークル第一日目。
初日用にと私が選んだ詩と散文を朗読。
高田 渡の短い詩「風」
それから長田 弘著「詩人の紙碑」

けっこう漢字の多い、声をだして読もうとすると自信喪失しそうな、
「詩人の紙碑」にあった「角田柳作先生のこと」という文章。
やや難解。しかしどうしても読めないというようなモノではありません。
副題がー司馬遼太郎氏への手紙ー、手紙なのですもんね。
それに、たまにはこういう文章に挑戦しないと、脳みそが退化してしまう。
すがすがしい明治時代の日本人を書いて、実に気持ちのよい短文なのです。
頭の体操にと思いましたが、
漢字の読めなさに私は自分自身にもおどろいたけれど、
きっと誰かが読めるだろうとアテにしてたら、けっこうみんなダメ。
むかしはこういう時、見回すとどんな漢字でもすらすら読む老人がいたものだ。
ところが今では私がアテにされる立場の「長老」なのであって。
そうか、こういうことかと、
自分をふくめた戦後育ちの「弱点」と「傾向」を今さらながら実感納得。

いいじゃないですかね、今ごろつっかえたってね。
試験じゃなくて鍛錬なんだし。
はははは。