2013年9月21日土曜日

現実とどうむきあったか②


私は窓の外を見た。
自分の頭で考えてみようと、集中しようと、必死で思ったのである。
医者が拒否するなら自分で考えるしかない。
なんとかしなければ母が死んでしまう。
病院の廊下、カーテン、待合室の窓から見る夜景、新宿。
夜景は夜景であるだけ、もちろんそこからなんの考えも生まれるはずはない。
恐怖のドン底に落ちて、いい考えなど何も浮かばない。

ところがである。
突然、思い出した。
私の家は隣家が医院なのであった!
先代からの耳鼻咽喉科医院。心臓とはまったく関係ないけど、とにかく病院。
そういえばそうだ!
ユウチャンが「先生」だった!

私といまの「先生」はおなじ私立の小学校に電車で通って、あっちが年下、
私はあの子を毎朝学校に連れて行ったのである。
ユウチャンだ!
なんで思いつかなかったんだろう!?
私は公衆電話から家に電話して隣家の番号を調べてもらい、ユウチャンを起こしてもらった。
深夜に図々しいのだが、まあいいか、だってよく知っている家だし、人なのである。
先生はユメのように親切で、即刻某病院に電話をし話を通してくれ、
魔法のように病院の門が開かれた。

・・・最初に頼んで空きがないと断った病院の門である。
かつて祖母がそこで亡くなり、母も3ヶ月入院していた近隣の病院である。

救急車が高速道路を走る。サイレンを派手に鳴らして。来た道をもう一回戻っていく。

けっきょくコネだと、小骨がノドにささって取れない感じがした。
自分はなんて軽率でくだらないんだろうと思う。
お隣さんが助けてくれてとても嬉しいけれど、社会にも自分にも釈然としない。
こんなことはおかしいと思わずにいられない。

なにをやるにしても、まずきちんと自分の頭で考える。
ドンくさくてダメな方法かもしれないが。そうするべきである。
そういう宿題を得た、ということだろうか。


2013年9月18日水曜日

現実とどうむきあうか①


桜上水で暮らしていたころ
深夜老母が苦しみだしたことがあった。
ふだん我慢強い人が胸が痛い痛いと言う。
大動脈瘤を病んで九死に一生を得たあとだから慌てた。

救急車に来てもらいホッと安心したのもつかの間、
巨大な車は病人を車内に寝かせたきり暗い路上から一向に動かない。
患者の引き受け先が見つからないのだ!

・・・専門医が今日はいない。・・・ベッドに空きがない、・・・応答しない病院もある。
近くの病院に当然電話して拒否されたあとである。
「今まで入院したことがある病院はありませんか、ほかに!」
隊員の切迫した声に進退窮まって「赤十字病院」という名前を言ってみた。
以前白内障の手術をした新宿の病院である。
「赤十字」といえば赤い羽根を連想する。関連施設も多いだろう。
伝手をたどってくれるかもしれない。
ついそんなことを考えた。

さいわい先方が引き受けてくれたらしく、
救急車は高速道路をサイレンを鳴らしながら新宿へと走った。
やっとのこと担架が院内の暗い廊下に運びこまれる。
看護婦が医者を呼びに行き、しばらくして医者が姿をあらわす。
ところが口論が始まった。救急隊員が詰問されている。
なぜここに連れて来たんだと食って掛かられている。
この医者は老母に手を触れようともしない。
冬の暗くて冷え込んだ廊下で、担架の母をながめて一言。
「ああ、痛がってるな」

私は驚倒した。
救急車の隊員さんがまさか病院でこんな扱いを受けるものとは知らなかった。
やっと運び込んだ病院で、医者が患者にも家族のものにも、
ひとかけらの関心も示さないなんて、予想だにしなかった。
寡黙で落ち着いた隊員二人に喰ってかかって恥じないあの口調。
看護婦を見れば遠巻きになって、もうなんにもしてくれない。
「どうしました」とはじめは型どおり親切そうに聞いてくれたのに。

20年前のことだ。今はどんなだろうか。
親たちを私たちが見送ってしばらくのあいだ、
家族の平均年齢がさがって、救急車を呼ぶことなく月日は流れた。

思い出せば、あのころ私はロクなもんじゃなかった。
病院といえば「イノチを扱ってくれるところ」と思っていただけ。
医者といえば「イノチを扱う人」と思っていただけ。
救急車といえば、急場に駆けつけて即刻問題を解決してくれるはずとしか思わない。
つまり家族の命を社会?に丸投げ状態だ。
ただもう社会の仕組をアテにして。

あのとき、棒立ちになったまま、
私は冷淡このうえないお医者さんの顔を、ヨコからながめた。
今にも死にそうな担架の上の継母をなんども見た。
「ではここがダメなら、私たちはどうしたらよいのですか?」
再度問うても、この当直医は吐き捨てるようにこう言うのだ。
「わかりませんよ、そんなこと!!」

このヒトは瀕死の病人が死んで責任を取らされるのが怖いのだろうか。
そういう考えがなんだか不意に浮かんだ・・・。
このヒトの冷淡や権幕はそういうことなのだろうか?
心臓に変調をきたした老母を眼の手術をした病院に運ぶなんて、
むちゃくちゃなのはこっちだと今は思うが、そのことは考えなかった。
だって「赤十字」なのにと、そういうことばかりを思ったのである。

医者も人間で看護婦も人間で、私とおなじ程度の人間だとしたら、
この当直の医師が私なみに怖がっているのだとしたら、
継母に関する「最高責任者」は私だということになってしまう。
なんだかそういう考えも浮かんだ。
では、彼女の命は、この私、ただのバカでフツウの私に懸かっているというのか、
救急車でも、看護婦でも、医者でもなく・・・?
たぶん、そうなんだ。
・・・でもそれが本当だとしたらどうする!
家族の命の責任を担う者が世界に「自分」しかいないとなったら。

私から、サーッと、まるい地球が青ざめて、平面になって遠のいて行くかのよう。

考えたこともない立場だった。
私はなんとか自分で考えようとした。
担架から離れて、病院の待合室に入り、窓から新宿のネオンサインを見る。
「専門家」だと思う人にいくら考えてもらおうとしてもダメだと、キモに銘じたわけである。
戦後民主主義に甘えて。漠然と社会なるものに期待して。依存して。
これまでそれでやってきたけれど、「社会」は本当のところ違う姿をしているのだ。
そして、それが今後良く変ることもないのだろう。
そう認識した瞬間だった。

2013年9月16日月曜日

引越し・仏壇とか遺影とか


病院にいる人の代わりにケアハウスをさがしたのだが、さいわい行く先があって、
入院先から直接(健康になって)転居させる手はずも整う。

病院と本人と家族のあいだをつなぐケース・ワーカーが
私どもの事情のあるがままを察して支えてくれたからこそである。
ほんとうによくも「出来ない相談」にのってくれたと思う。

「出来ない相談」とはなにか。

私たちの努力が実るまで周到に待つということである。
病院からなるべく早く出て行け、という立場に立たないことである。
ばらばらに千切れた患者の家族を
それなりに「信頼してみようか」と考えてくれることである。

これこそ本当に「出来ない相談」ではないだろうか。
すくなくとも、ふつうに暮らしているとき、
私はそう感じていた。

引越しの手はずを整えることができた頃、
娘がオランダから帰国、
「お母さん、とにかく二人でまずお父さんのマンションに行こう」
様子を見て、できるかぎり先に片付けておこう、というのである。
それまでは、8月31日、ひでこちゃんと3人で掃除をすませて、
夕方引越しやに会い、料金の見積もりを二社に出してもらおうという計画だった。
彼の妹のひでこちゃん、離婚した妻である私、外国ぐらしのながい娘。
ひでこちゃんは病気でゼイゼイ、ハアハア、
私は「わかれた夫にはぜったい会いません」、
娘は一ヶ月だけの日本滞在、
なんかこう、やってられないよ、いいのかなあという組み合わせ。

それでまず8/29、遥の時差ボケがおさまった後、まず二人で出かけたのだが、
本当にそうしてよかった。
難病をかかえるひでこちゃんがあんな部屋に入ったら死んでしまう。

ゴミの集積・・・・。
彼のゆめの跡・・・コンパクトな仏壇がほこりをかぶり、
その上に、かつて私の舅姑であった彼の両親の遺影が、
小さい額に入れられて、あった。
並んでこの部屋で起きたことを見ていたあの人たち。

私ってこのふたりが好きだった。
なんだか気の毒でたまらなくて、私は額を仏壇から引き離し、
となりの部屋の本棚の上に立てた。
ふたりが成仏できず今もここにいるにちがいないという気がした。

おかしなことだった。
私は無宗教、無神論であるのに、
現に今を生きてどんなにか苦しんだにちがいないかつての夫より、
写真立てのガラスの中から、
長男の惨状の一部始終をただ傍観するしかなかった亡き舅と姑が、
これではいつまでも極楽浄土へ旅立てないだろうと、
それが気の毒なのだった。


2013年9月15日日曜日

彼はなにを思ったのだろう?


彼は何を思ったのだろう
マンモスな団地の、公団住宅の意地悪な12階のマドから
彼は何を見たのだろう

たったひとりで

体が破壊するにまかせ
食べるものを調理できず、掃除もできず
だれにもかまわれず
どうすることもできず
死んだ母親の
ぼろぼろになった布団を敷いた
ベッドに寝て

コンクリートのヴェランダの外は、
ひろびろとした空の下にひろがる横浜の大空間
空虚で涼やかな秋が
灼熱の大気にまぎれこんで
地平線のぎざぎざのかなたには
港らしいものが見えると娘が私に言う・・・

彼があの港をだれかに見せたくても
だれかにこの無意味な美景をおしえたくても
そういう用意はしたのだろうに
こだまひとつもかえらなかった何百日か

12階のヴェランダはあまりにも高く
飛び降りて死のうにも
びゅうびゅう風がゆくのだし
こんな光景がまばゆくどこまでも広がるばかりだから
倒れた壁画のような美しくもおぞましい地上めがけて
ニンゲンの人生によく似たそこに
そこに身を投げるなんて
とてもできなかったろう

彼はいったい
なにを、どう
考えたのだろう
まだ元気な日、歩けなくなった日、起きられなくなってから、

こんな
地獄によく似た景色を売り物にする
一年契約の公団刑務所住宅をわれにもあらず選んだあとで



2013年9月14日土曜日

あした「ガゼルのダンス」で


あしたは「ガゼルのダンス」でタケシがひとりライブをする。
池の上の帽子屋さんの薄明かりのなかで。
店主の秋山さんがつくったフライヤー(ちらし)は、ロマンティックなものだ。
彼女の帽子のどれかをかぶって演奏と息子がいうから、
それもおもしろくて・・・。

岩崎菜摘子ちゃんが暁子さん(お母さん)と来てくれる。
智人くんもお母さんのみっちゃんと来る。
遥も九月末まで日本にいるから、
「ガゼルのダンス」に行って秋山さんたちに会えるのだ。
息子が働いた先で年上の友人になってくれた森さんにも
また会えるだろう。

はじめて出会う人にとっても、
みょうに居心地がいい「ガゼルのダンス」は、
むかし床屋さんだった。
なぜかは知らず床屋ってのは昔から洒落た感覚のものだが、
この変形の床屋っぽい店を女の子が不思議につくりかえたのである。
帽子をつくる器用な、芸術的な手でもって。

菜摘子ちゃんの作品は雑誌の表紙を飾るようになったし、
みっちゃんは家族新聞「すいとんの日」を閉じる。
「すいとんの日」最終号はおどろいたことに300号。
家族と友人たちがその作業の終了を惜しみ、新しい出発を祝っている。
反核家族と宣言し、新聞を手書きで300号だなんて・・・。
なんてまあ、みっちゃんは努力したことだろう。

私のところでは、今朝、長男が父親を病院から自立型老人ホームへと引越しさせた。
以前崩壊した家族なりの、それぞれの努力がとりあえず実る日。
ああ、それでも、だれの人生だって、
悲劇を抱えたまま、そのままずっと続いてしまうのだろう。
しかし、そこに小さいスキマを見つけ、工夫してこじ開け、
苦しいくらしを自分たちらしく、笑いながら過ごしてみよう。
へんてこりんにちがいないけど、人間的な日常をカラカラとつくりだそう。

二男はひとりでライブをする時・ライフイズウォーター・と表示する。
してみると、彼にとって人生は水なのかしら。
そんなこと言うなよと、私は時々思うんだけれど。

ライフイズウォーターの連絡先・電話だと090・8518・3724


2013年9月8日日曜日

遥の帰国


遥に一時帰国するよう頼んだ。

オランダに住んでいるので、めったに会えない娘だ。
いままで帰ってきて、と私から頼んだことはない。
親孝行な子だが、外国は遠くて、
私にもこの娘にも、行き来の自由がそんなにはなかった。
あっちへ行ったり、こっちへ来たり、
なにか、どっちかにおカネができた時。
(そんな時はめったにない)
でも今回は言うとすぐに来てくれた。
どうやら外国に根付いて実力を発揮しだしたのだ。

ロシアは遠くて。
オランダも遠くて。
それでも、ひとりの子どもがはるかな土地に住んだので、
運命によって、私もそこに出かけ、少しのあいだそこに滞在した。
遥のおかげでよい旅ができたのである。

子どもたちの父親と離婚したときから長い時がながれた。
指折りかぞえてみると、20年ちかくにもなる勘定だ・・・。
別れた夫は、母親とのふたり暮らしがおわり、マンモス公団に入居、
あげく病気をこじらせて緊急入院。
今年の3月末のことである。

来るときがきたなあと思うことになった。

以来、入院先のケース・ワーカー、市役所、不動産屋、保健所、各老人ホーム、
友人たちに相談にのってもらいながら、
なんとか今後の彼の落ち着く先をさがそう、考えようとしてきた。
息子たちとは直接、外国にいる娘とはスカイプやケイタイ電話で相談した。
どんなに考えても、もう一度ひとり暮らしという未来に幸福はない。
ひとりで死ぬことになってしまうと思う。

かといって、同居可能な家族などいない。

誰かがなんとかしなければ、どう考えても彼は破滅するのだ。
個人的に破滅する人の多い日本である。
毎年の自殺者が3万人以上いる国。
友人が言うには、5年ごとに地方都市がひとつ消滅する勘定だという。
戦争よりひどい、となにかの本にも記述があった。

破滅。
老人になれば、ヒトは人間という種族から厄介ものという種に転落する。
入院もままならない。ひとり暮らしを受け入れるアパートは見つからない。
病院や施設を紹介してくれようという保健所も市役所も、けっきょく無いのである。
それは、ほんとうに苦しい、無残な結末だ。
オリンピック招致に約1000億円の経費をつぎ込む国で、
なんでこんなことが、と思う。
こんなことばかりまかり通るわけはない、とも思う。

それでがんばってみることにしたのである。
努力の余地が日本にはまだあるだろうと思うことにしたのである。
半年がたって、やっと彼が自立型の軽費老人ホームに入居できることになった。
針の穴をくぐりぬけるように難しいことだったけれど、本当によかった。

私が遥に帰ってきて手伝って頂戴とたのんだのは、
そうしてもらわなければ、もう、にっちもさっちもいかないからである。

それに、いま家族の努力の輪の中に入っておかなければ、
遠くにいる娘はどうなるというのだ。
遠くにいるヒトは、ますます遠のいて、存在感をなくしてしまうだろう。
こんなおそろしい世の中で、家族とは名ばかりのものと考えるに到るなんて、
それはダメだ。
留学以来、しかたなく仲間はずれを続けてしまったけれど、
それは寂しいことではないか、当の遥にとっても私たちみんなにとっても。

遥はたちまち飛行機を予約。先月27日に帰って、
集中的に父親の引越しにともなう雑事を肩代わりしはじめた。
ありがたいことに仕事の切れ目でタイミングもよかったのだ。
彼女の一ヶ月の滞在は、灰色めいた用事で埋め尽くされているけれど、
・・・私たちは、ひさしぶりに家族的生活をして、まーそれはそれ。
ケッコウ面白くて愉しいことである。

2013年9月6日金曜日

敦賀の市長さん


内橋克人さんの講演を、福島の原発が大事故をおこした直後、大船で聴いた。
それは井上ひさしさんの追悼の夕べだった。大江健三郎、なだいなだ、そして内橋さんが
話した。

つい最近、なんの気なしに内橋さんの本を手にとった。
そこに、故・高木孝一敦賀市長の「原発講演会(地元の広域商工会主催)」における
講演の記録があった。この講演は1983年に行われ、一時、ネットに流布、
有名になったものである。
当時の私はインターネットを使いこなせず、この敦賀市長の考えというものを、
ぜんぜん知らなかった。

高木さんは九十三才で心不全のため亡くなり、お葬式は2012年6月5日だったみたい。
4期16年の市長さん。大往生。
高木さんの息子さんは衆議院議員の高木 毅さんである。

いま講演記録を読むと、
選挙とか、投票の重みを、子孫に対する責任とはどんなことをいうのか、まざまざとわかる。
いったい自民党は高木さんをなんで公認したのだろう!?





1983年1月26日、石川県羽咋郡志賀町にて。
        (敦賀市長 高木孝一氏の講演の記録)

 只今ご紹介頂きました敦賀市長、高木でございます。えー、きょうはみなさん方、広域商工会主催によります、原子力といわゆる関係地域の問題等についての勉強会をおやりになろうということで、非常に意義あることではなかろうか、というふうに存じております。……ご連絡を頂きまして、正しく原子力発電所というものを理解していただくということについては、とにもかくにも私は快くひとつ、馳せ参じさせて頂くことにいたしましょう、ということで、引き受けたわけでございます。
 ……いわゆる防災義務と称するものは、(原子)炉の周辺から2キロないし3キロというところは、やはりそうしたところの(防災)体制を固めなさいと。こういうふうなことでございます。あるいは住民は避難道路をつくろう、とか。あるいはまた避難場所をつくろうとか、こういうふうなことで、私どもに対しましても、強くいろいろ申し出があるわけでございます。けれども、抗議もくるわけでございますけれども、ま、私は防災訓練もやらない、と……。もうそんな原子力発電所は事故があったら逃げまどわなければならない。あるいは避難しなければならない、とういうことになったら、もうそれで終わりなんだ。そんなことはゼッタイあり得んのだ、というふうに、自分も、私どものいわゆる住民も、あるいは私も、そういうふうに思っておるわけでございます。
 一昨年もちょうど4月でございましたが敦賀1号炉からコバルト60がその前の排出口のところのホンダワラに付着したというふうなことで、世界中が大騒ぎをいたしたわけでございます。私は、その4月18日にそうしたことが報道されましてから、20日の日にフランスへ行った。いかにも、そんなことは新聞報道マスコミは騒ぐけれど、コバルト60がホンダワラに付いたといって、私は何か(なぜ騒ぐのか)、さっぱりもうわからない。そのホンダワラを1年食ったって、規制量の量(放射線被曝のこと)にはならない。そういうふうなことでございまして、4月20日にフランスへまいりました。事故が起きたのを聞きながら、その確認しながらフランスへ行ったわけです。
 ところがそのフランスでも、送られてくる日本の新聞に敦賀の一件が写真入りで「毎日、毎朝、今にも世の中ひっくり返りそうな」勢いで報じられる。やむなく帰国すると、こんどは大阪空港に30人近い新聞記者が待ち構えていた。
 悪びれた様子もなく、敦賀市長帰る。こういうふうに明くる日の新聞でございまして、じつはビックリ。ところが敦賀の人は何喰わぬ顔をしておる。ここで何が起こったのかなあ、という顔をしておりますけれど、まあ、しかしながら、魚はやっぱり依然として売れない。その当時売れない、まあ魚問屋さんも非常に困りました。あるいは北海道で採れた昆布までが……。
 敦賀は日本全国の食用の昆布の7割ないし8割を作っておるんです。が、その昆布まで、ですね、敦賀にある昆布なら、いうようなことで全く売れなくなってしまった。ちょうど4月でございますので、ワカメの最中であったのですが、ワカメも全く売れなかった。まあ、困ったことだ、嬉しいことだちゅう……。
 売れないのには困ったけれども、まあそれぞれワカメの採取業者とか、あるいは魚屋さんにいたしましても、これはシメタ! とこういうことなんですね。売れなきゃあ、シメタと。これはいいアンバイだ、と。まあとにもかくにも倉庫に入れようと、こういうようなことになりまして、それからがいよいよ原電に対するところの(補償)交渉でございます。
 そこで私は、まあ魚屋さんでも、あるいは民宿でも、100円損したと思うものは150円もらいなさいというのが、いわゆる私の趣旨であったんです。100円損して200円もらうことはならんぞ、と。本当にワカメが売れなくて、100円損したんなら、精神的慰謝料50円を含んで150円もらいなさい、正々堂々と貰いなさいと言ったんですが、そうしたら出てくるわ出てくるわ、100円損して500円欲しいという連中がどんどん出てきたわけです(会場に大笑い、そしてなんと大拍手?!)。
 100円損して500円もらおうなんてのは、これはもう認めるもんじゃない。原電の方は、少々多くても、もう面倒臭いから出して解決しますわ、と言いますけれど、それはダメだと。正直者がバカをみるという世の中をつくってはいけないので、100円損した者には150円出してやってほしいけど、もう面倒くさいから500円あげる、というんでは、到底これは慎んでもらいたい。まあ、こういうことだ、ピシャリとおさまった。いまだに一昨年の事故で大きな損をしたとか、事故が起きて困ったとかいう人はまったくひとりもおりません。まあ、いうなれば、率直にいうなれば、一年に一回ぐらいは、あんなことがあればいいがなあ、そういうふうなのが敦賀の町の現状なんです。笑い話のようですが、もうそんなんでホクホクなんですよ。ワカメなんかも、もう全部、原電が時価で買(こ)うてしもうた。全部買いましょうとね。そんなことで、ワカメはタダでもらって、おまけにワカメの代金ももらった。そういうような首尾になったんです。
 (原発ができると電源三法交付金がもらえるが)そのほかにもらうおカネはおたがいに詮索せずにおこう。キミんとこはいくらもらったんだ、ボクんとこはこれだけもらったよ、裏金ですね、裏金! まあ原子力発電所が来る、それなら三法のカネは、三法のカネとしてもらうけれども、そのほかにやはり地域の振興に対しての裏金をよこせ、協力金をよこせ、というのが、それぞれの地域であるわけでございます。それをどれだけもらっているか、をいい出すと、これはもう、あそこはこれだけもらった、ここはこれだけだ、ということでエキサイトする。そうなると原子力発電所にしろ、電力会社にしろ、対応しきれんだろうから、これはおたがいにもう口外せず、自分は自分なりに、ひとつやっていこうじゃないか、というふうなことでございまして、たとえば敦賀の場合、敦賀2号機のカネが7年間で42億入ってくる。三法のカネが7年間でそれだけ入ってくる。それに「もんじゅ」がございますと、出力は低いですが、 その危険性……、うん、いやまあ、建設費はかかりますので、建設費と比較検討しますと入ってくるカネが60数億円になろうかと思っておるわけでございますが……(会場に感嘆の声と溜息がもれる)。
 で、じつは敦賀に金ケ崎宮というお宮さんがございまして(建ってから)随分と年数が経ちまして、屋根がポトポト落ちておった。この冬、雪が降ったら、これはもう社殿はもたんわい、と。今年ひとつやってやろうか、と。そう思いまして、まあたいしたカネじゃございませんが、6千万円でしたけれど、もうやっぱり原電、動燃へ、ポッポッと走って行った(会場にドッと笑い)。あッ、わかりました、ということで、すぐカネが出ましてね。それに調子づきまして、今度は北陸一の宮、これもひとつ6億円で修復したいと、市長という立場ではなくて、高木孝一個人が奉賛会会長になりまして、6億の修復をやろうと。今日はここまで(講演に)来ましたんで、新年会をひとつ、金沢でやって、明日はまた、富山の北電(北陸電力)へ行きましてね、火力発電所をつくらせたる、1億円寄付してくれ(会場にドッと笑い)。これで皆さん、3億円すでにできた。こんなのつくるの、わけないなあ、こういうふうに思っとる(再び会場に笑い)。
 まあそんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、50億円で運動公園はできるわねえ。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これも今、あのカネで計画しておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の町づくりができるんじゃなかろうか、と、そういうことで私は皆さんに(原発を)おすすめしたい。これは(私は)信念をもっとる、信念!
 えー、その代わりに100年たって片輪が生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部、片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、いまの段階では(原発を)おやりになったほうがよいのではなかろうか...。こういうふうに思っております。どうもありがとうございました(会場に大拍手)。

私が読んだ本は
「日本の原発、どこで間違えたのか」 朝日新聞出版、2011年である。
224ページから234ページにこの講演は載っている。