2013年11月27日水曜日

映画 「きつねと私の12か月」(仏)


昨夜、私の家に瑞々しい長ネギときれいなサラダ菜を届けてくださった方が、
「金曜日に、とうとう国会へ出かけてきましたの」とおっしゃった。
きけば政府は来週にも「国家秘密保護法案」を参議院で通すそうだ、
もっぱらそういう話でしたよ、
と本当に不安な表情。
どうしてこんなに反対の声が多いのに、あからさまに急ぐのだろう? 
今すぐ圧しつけたいこと、どうしても早く隠したいことが、日本政府にあるかのようだ。

こんな時、フランスの子ども向けの映画を見ると、
本質に決して届かないものの考え方が
いつのまにやらしっかり身に着いてしまったなあと思う。
「拙速」ということばが今や大流行だが、
国民はあげて急ぎに急ぐものの見方考え方だ。
ゆっくり考えるなんて素質は、もう私たちの体内には無いのかもしれない。
だからこそ、こういうことをする政府をけっこうな数の人がすんなり選ぶのかもしれない。

「きつねと私の12か月」では、時間がもうゆっくりと流れて、
慎重に用意された美しい映画の出来上がりなのだけれど、
そう思いながら、つい貧乏ゆすりでもしそうな自分が少しばかり情けない。
きつねと友達になりたいし子どもの努力がタイトルの通り12か月つづくと、
主人公の可愛らしい少女の根気と情熱と忍耐は、時に、にくらしくなるほど。
私などかえって落ち着けないのである。
名作か、迷作か。
うーん。

ただね。
友情とはけっして圧しつけてはいけないものだ、
そんなことをしたら、相手が不幸になるだけ、敵対するだけ、
子どもときつねも、大国と小国も、民族と民族もね。
それは短時間では身に着かない重いことだという、
フランス児童文学界の作劇態度は、やはり好ましい。

2013年11月26日火曜日

マラジェーツ山本太郎


朝刊に、スパイ防止法に当時反対(元)自民2氏という見出し。

白川勝彦氏は、もと国家公安委員長。
杉浦正健さんは、副法務大臣で官房長官だった。
ふたりとも弁護士。いわずと知れた自民党。
国家機密保護法案に関するふたりの意見を、朝刊の見出しで拾うとこうだ。
国民の「暴く権利」守れ が白川氏。 
秘密41万件 多すぎる が杉浦氏。

私は、法律や政治むきの記事が苦手で、どうしようもない。
それじゃこまると思うので、集会があれば出かけようと心がける。
自分の意見は?と思うからだ。

むかし、国家公安委員長だった人まで、
「最大の問題は、秘密に近づき暴こうとする国民が罰せられる規定だ。」
「最も罰せられやすくなるのは国会議員だと思う」
「議員に反対の声が増えないのが不思議だ。学者やジャーナリストはもちろん、
官僚だって処罰される可能性が高まる。」
と言うほどコワイ秘密保護というもの。

じぶんは特定秘密保護法をどう考えるのか、
その根拠をさがし、じぶんなりの筋道で考えてみたい。
筋道だとか、感想だとか。引っかかりができれば、新聞も本も読みやすくなるというものだ。
理解する私なりの手順である。

さて、木曜日の夜だが、
檀上に思いがけなくも?山本太郎が飛び出してきた。
いろいろ言われている青年である。
天皇に手紙を渡したあと、
ナイフが届き、銃弾が届いたとなにかの見出しで読んだ。
手紙を受け取ったお方は、しかし彼に同情的好意的であられたとか。
うれしいことである。
もともと手紙を渡したって危険じゃない人しか、宮内庁だって選んでないでしょ?

顔の右側にペタンと大きな丸い禿げが白く見えた。
整った顔立ちなのに、むかし見た喜劇の丁稚どんみたい、と思う。
彼を迎える会場の雰囲気は複雑。
疑り深い、興味深い、共感、反感、とまあぐちゃぐちゃ。
「みなさん、元気ですかーっ?」
山本太郎が叫ぶと、人々の気持ちは曖昧模糊に迷って波のように揺れるのである。
民主党は彼をどう迎えるのだろうか?
共産党は? 社民党は? どう考えるのだろう?!
今日は日本弁護士会の後援、各党反対国会議員が檀上であいさつ。
弁護士、法律学者、平和団体の代表、文化人の落合さん、
山本太郎は一人党よね、参議院議員だから演説するのか・・・。
そんな感じ。

彼は反・原発、反・国家機密保護法案。
非常にハッキリしたその姿勢が大勢の人に支持されて国会議員になった。
でもそれがマユツバだったら? 売名行為だったら?
そういうさざ波。どことなくなんとなく。
それがパラパラと好意に変わっていくのを私はながめた。
「・・・とにかく元気だよな?」
筋金入り左翼ふうのおじさんが、ふふふっと笑ったりして。

あることないことヤリ玉に挙げられ、売名行為だといわれ、それがホントかどうか判らない青年。

売名で天皇に「お手紙」を渡せるものだろうか?
たとえそうしたいと思ったって、実行なんかできないだろうなー。
だからやっぱり、個人としての山本太郎については、
ロシア語でいう「マラジェーツ!」(いいぞ若いのっ)と、なんかそんな感じなんでしょうね。
どことなくみんなね。

その太郎さんが言うことには、
「みなさん、国会の中だけで頑張る、もはやそういう段階じゃないんですよ。
みなさんの、外からの力強い応援がなければ、これは確実に負けます。
自民党にも国家機密保護なんて間違ってる、という人はいます。
その人たちに、反対しなけりゃ票はいれないぞっ(拍手)と言うんじゃなくて(笑い)、
頑張って反対してください、そうしたら票をいれますからと、
そういう応援をしてもらわないといけない、と僕は思うんです。
自民党に投票した人には、そういうことが責任としてあると思うんですよ。」

そうかもしれないなーと思ったりするわけである。

登壇した学習院大学の法律学者が、
「2013年の11月、12月は、日本の重大な歴史上のターニング・ポイントです。
あの時、じぶんはどこでなにをしていたか。
私たち一人ひとりの日本人があとになって問われる点だと思います。」
地味でキリッとしてクールな印象の学者らしい人だったが、
会場をぎっしり埋めた人たちが、彼女の法律上の説明を聞くシーンと落ち着いた様子もまた、
かっこよくて?感銘を受けた。クール!なのであった。

2013年11月22日金曜日

新パソコンでやっとブログ再開


新しいパソコン。
おかしいと思えてならない。
ふつう新しい危機、いや機器を高いお金をだして買ったら、スッキリと便利になって、
清々するはずなのに、なにがなんだかもうメンドーくさいばっかり。
わけがわからない。
なんで日本という国にはしっかりと奥深い日本的基準というのがないのだろう?
私たちの望みは単純な「使い勝手のよさ」であって、
あれもこれも、ゲームもスマホ機能も備えて、なんてことじゃないのだ。
適切で美しい漢字が好み、ひらがなが好き、カタカナも片仮名がよい、
アメリカ的カタカナ語なんか必要最小限しかいらないよ、まったく。
ふつうのおとななんて、みんなそんなものじゃないの。
これだけ大勢の日本人が使う商品なのに説明用語がなんでエイゴなのか。
属物根性もここまできたか。あら字をまちがえた。
こんな誇りのない話ってあるものだろうか。

と思いながら、もうなにがなんだか、日々は明け日々は暮れ、混乱中の私は、
水道橋の東京ドームでびっくりしたことに「ポール・マッカートニー公演」を、
ものすごく高額チケットの、とんでもなく悪い席で見て、しかし面白くって。

木曜日は、大学時代の友人に教えられ、
日比谷野外音楽堂の「国家機密保護法絶対反対集会」に参加。
実に恐ろしい法案だと改めて思う。

政府与党が「秘密」に指定していることは、4つである。

⑴「防衛」
戦争しようということでしょ。隠されてはたまらない。冗談じゃない。
⑵「外交」     
外交とはドンパチ抜きで戦うことである。
あらゆる知能と柔軟性を、あらゆる理想とあらゆる希望を総動員しても足りないぐらいだ。
それを秘密や機密にして、コソコソなんかして、
この末期的21世紀に、いったいどうやって全国民を守るというのか。
    
⑶「スパイ活動防止」
⑷「テロ活動防止」
  
なんだかね、京王線のゴミ箱撤去についての駅構内放送を思っちゃう。
テロ防止というけど、「布田」とかね「国領」なんかでもテロが起こるの、ゴミ箱使って?
そんなことするのは愉快犯といわれる人だ。テロリストとはいわないと思う。
政府は清廉潔白にわかりやすく平和を守れ。
そういう努力のほうがずっと大切だと思う。
幸福で安心な生活ができたら、若者はスパイにもテロリストにもならないと思うもん。

部屋を片づけ、本をじゃかすか捨て、衣類も捨てて、
やっとのことで、ブログ再開。
やれやれ、変な時におぼえのない音がするのはなぜだろう?
たとえば、それがスカイプのベルでも、今の私はどうすることもできないのよねー。

2013年11月9日土曜日

立ち姿二つ JR関内駅改札口


JR関内の駅に行くと、人ごみの後方に二人が立っているのが見えた。
まさか私が街をふらふらしていたとは想像もしないとみえて、
二人して並んで改札口の方角をカッとにらんでいる。
背筋をガンとまっすぐにした立ち姿に迫力があった。
こう生きて、今後も同じようにするということなのだろうか。
胸を打たれる光景だと思った。
ひとりは暗い色の古びた背広で、ひとりは厚手のセーターで。
・・・いつか、もう一度こういう時が私にやってくるものだろうか。
こういう出会いなど、もとから無理な相談で、もう二度とないことなのだろうか。

それは二重に寂しい思考であった。

彼らも私も七十をすぎて、とくに二人ともお酒をたくさん飲むのだろうし、
いつ死んでも、ああそうかと思う年まわり、
それに、彼らは私の別れた夫の中学時代からの同窓生で、私の友人ではない。
この秋の一日、私のために揃って都合をつけてくれたことが、
もともと物語的なのである。

この幸運はいったいどこから降ってきたのだろう。
彼ら二人にひきあわせてくれたのは、もと夫のkだった。
二十四年続いた結婚が壊れたあとになって、私はkの友人たちと知り合ったのである。

姑が亡くなったあと別れた夫の家に一年に一度か二度集まって、
天下国家について、読書について、中高一貫の私立男子校の思い出について、
私たちは切り炬燵をかこみ、話したい放題の飲み会をして、
kをはげます会だと称していた。

べつに考えれば、それは一九五〇年代の私立学校の同窓会のようなものだった。
彼ら三人は、みなと横浜の私立一貫校の卒業生。
私が通った世田谷のユネスコ実験学校もまた少人数の一貫校であった。
もっとも小中一貫の私の学校は男女共学だったけれど。
戦後すぐのオンボロ私立の、自由主義的大雑把なありようが似ていたのだろう、
私たちはみな、手前勝手で、愛想がよく、話題にしたいことが沢山あって、似てもいた。

私がkのもと女房であることも、たぶんちょうどよく安定?した事情だったと思う。
みんなで話すときには、結婚も、離婚も、たいして話題になりはしなかった。
私が怒りだして離婚にいたったことは了解ずみだし、
結婚だって離婚だって、五〇代ともなればつまらない話である。
私の居心地が一番よかったのは当然で、
なにしろ、聞きたいことがあればなんでも聞いてよい立場だった。
彼らより二つ年が下だし、kのバカが別れた(とふたりとも社交的に公言)私は、
どっちかというとさそり座ならぬ親父型の女。

kのアルコール中毒がひどくなり、病気が進行し、入退院ということになってくると、
私は、迷惑だと思いながら、ついこまってふたりに相談した。
離婚したもと女房と、夫のむかしからの友人と。
それは私のほうが望むかぎりは、案外平等で、切っても切れない間柄のものである。
もちろん、そんなにたびたびではない。
たびたびじゃないから、二十年ちかい月日が疾風のようにすぎていったのである。
相談するたび、彼らは考えられる限りの対応をしてくれた。
厳しくもなく甘くもなく、納得ができる程度に人間的だった。

親切とはそういうものだと、そう思う。