2014年11月28日金曜日

明日は町田の「被爆者とつどう会」へ



みんなが言っている。
なぜこんなに早く月日はたってしまうんだろうかと。

明日はもう11月29日。
この調子では、ゆっくり考える暇もなく、私たちは衆議院選挙の日を迎え、
よい考えもないままに、従来型の投票をしてしまうだろう。

ある人は反アベの中ではせめて勝ち目がありそうだからと民主党に。
ある人は民主党よりまだシッカリしているんじゃないのと自民党に。
そしてこのふたつの甘やかされた世襲権力党がイヤなら、
ふわふわ棄権(選挙権の投げ捨て)するか、汗と涙で白紙投票にするか、
この際だから思い切って共産党か社民党に入れるか・・・。
いろいろな考え、というか無考えが、ひしめいている。

国家の変質、私たちの母国浮沈のターニングポイントがノド元まできているのに、
どの政党、どの集団、どの、いったい何に賭ければよいか、
わからないわからないと、自分がわかっていないことばかりを話題にしてしまう。

こういう現象を、おまかせ民主主義というのだろう。

私は主張したい。落ち着こう、これをチャンスに少しでも自分が変わろう。
無考えとおまかせを文字どおりやめるのだ。生きていれば、いろいろな時がある。
動いてみよう、学んでみよう。努力しよう。
自分なりの判断をつくるために。

運がよいことに、町田の「被爆者とつどう会」は明日である。
これは、私の幼友達のみっちゃんがライフ・ワークのようにして関わってきた、
被爆者とともに生きようという努力のひとつ、選挙とは直接関係がない営為だけれど、
事実の証明というものはつねに魂を洗う。

事実には政治がない。
私たちひとりひとりによく似た、真実のかたちがあるばかりである。

原爆投下から69年  原発事故から3年8ヶ月
第25回目の「被爆者とつどう会」のテーマはこれだ。
  参加無料。場所は小田急線鶴川駅徒歩3分。
  和光大学ポプリホール鶴川  
  11月29日・13時30分~16時まで。

小さな会である。

69年前の被爆体験が語られ、
福島第一原発の労働者を取材したジャーナリストが語る。

ぜひ時間をつくって参加し、投票の参考にしてください。
 


2014年11月27日木曜日

朗読の会


今日は、願いかなって、というような日だった。
朗読された題材がすばらしかったのである。
ジャンルがそれぞれ異なっていたのも、新鮮だし面白かった。

①「今月の掘り出し本」
  以前からぜひ読むようにと言われていながらご縁ができなかった内田樹の本の
  紹介である。永江朗によりピシッと書かれた短文は、活きがよくて実に朗読向き。

②夢かと思うほど美しい物語は三好達治の「夜」。
 朗読しがいのある傑作。ごちゃごちゃ言わず、ここに載せてしまおう。

                      「夜」

 柝(たく)の音は街の胸壁に沿って夜どおし規則ただしく響いてゐた。それは幾回となく人人の
睡眠の周囲を廻(め)ぐり、遠い地平に夜明けを呼びながら、ますます冴えて鳴り、様々の方向
に谺(こだま)をかへしていた。

 その夜、年若い邏卒(邏卒)は草の間に落ちて眠っている一つの青い星を拾った。それはひい
やりと手のひらに滲み、あたりを蛍光に染めて闇の中に彼の姿を浮かばせた。怪しんで彼が空
を仰いだとき、とある星座の鍵がひとところ青い蕾(ぼたん)を喪ってほのかに白く霞んでいた。
そこで彼はいそいで眠ってゐる星を深い麻酔から呼びさまし、蛍を放すときのやうな軽い指さき
の血からでそれを空へと還してやった。橋は眩い(まばゆい)光を放ち、初めは大きく揺れなが
ら、やがては一直線に、束の間の夢のやうにもとの座の帰ってしまった。

 やがて百年が経ち、まもなく千年が経つだらう。そしてこの、この上もない正しい行ひのあとに、
しかし二度とは地上に下りてはこないだらうあの星へまで、彼は、悔恨にも似た一条の水脈(み
お)のやうなものを、あとかたもない虚空(虚空)の中に永く見まもってゐた。 

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
③ 里親の会の当番で話すことになってと、朗読をする当人が作文したもの。
  作文のコツについて話し合えることって、私はとても嬉しい。
  きちんと書くことを会得すれば、その後は、自分の考えを朗読するのだから
  いかにもの個性がみんなの眼のまえに出現する。たとえ自分の書いたものでも、
  ことばをいい加減にひとり歩きさせない努力は基本的必要事項だ。
  リアリティの裏打ちのない朗読は、結局つくりものめいて、つまらないからである。

  

2014年11月26日水曜日

さむざむしい老的一日。


雨が降っている。紅葉して燃え上がるメタセコイヤ通りを、車で走りぬけて、
接骨院へ。用心していないと痛みがぶり返し、持病とふつうの故障の区別がつかなくなる。
治療がおわってから、図書館へ。「35才を救え」という本の期間延長手続き。
そのあと銀行で、各種支払いのための銀行口座を調べて入金。
それから思い切って、市役所へ。
「平成25年度の納税ができていませんよというような文書を受け取ったので」
窓口でそう申告すると、いや、全部済んでいますよと言われた。
そうよねえ。今年の2月に何年分か清算したもの。去年だけ抜かすなんてあり得ない。

市役所を出るべく車に乗ると、ソフトバンクの督促メール、電話料金をはやく、という。。
これだって催促される理由がわからない。このあいだ払ったばかりである。
あーあと思って家にもどると、宅急便の不在連絡票がきていた。

さっきは図書館でお茶を飲み、「ケルトの白い馬」を一章だけ読んだ。
すこし読むと、涙が眼のふちまできて・・・また少し読むと、また涙がでてくる。
中古金銭登録機の堆積めいた ごちゃごちゃの谷間とすこしも関係がない、
遠い、遠い行ったこともないケルトの神話だ・・・。
とぼとぼと、私はくそエレベーターに乗って・・・。

2014年11月24日月曜日

メタセコイヤ通りの初冬


庭先をながめると、メタセコイヤが、堂々とした大木ごと、
すばらしい赤茶色に変わっている。毎朝見とれてしまう。
庭先の柿の木の落ち葉を、取り除かなくてよかった。
あの落ち葉の下では、スノー・ドロップや鈴蘭や水仙の新芽が、
ちょっと温かい思いをしているはずだ。
これから雪が降って、それから、それからと、とりとめもなく春を思う。

植木鉢のシソが、どうしてか盛大にゆれる。
めずらしいこともあるものだと見れば、小さな茶色のあたまがしきりに見え隠れしている。
雀だ。スズメが何羽かきているのだ。すぐそこのシソの実を食べるの、雀って?

ロシアのペテルブルグで娘とふたり、屋台でホットケーキみたいなものを買い、
傍らのベンチに腰かけたら、スズメたちがもう必死で、ものほしそうに寄ってくる。
知り合いになりたくて手をさしだしたら、おどろくまいことか、ケーキのかけらを
私の手からとっては飛んで逃げるのである。
あの時は、たしかにペテルブルグのチープサイドの小さくて筋張った足にさわった。
ヒトの手から食べ物を受け取るスズメは初めて。ほんとうにめずらしかった。
遥が、ロシアのスズメは飢えきっているから、人間をこわがってなんかいられないのよ、
と言ったっけ・・・。

チープサイドはロンドンのスズメで、ドリトル先生の物語の名脇役である。
いかにも下町のスズメらしい、ぴったりの命名ではないか。
井伏鱒二の翻訳で、彼奴はペラペラペラペラ、いなせなべらんめえ調でしゃべる。
私の子ども時代の本を、今でも、家ではだれかが時々読んでいる。

ところで、おどろくまいことか、という日本語はこういう使い方をしてよかったのかしら。
こんがらかって、なんだか、よくわからなくなっちゃった。


2014年11月22日土曜日

衆議院解散・選挙


衆議院解散直後、選挙の争点を各政党の代表が語るのを聞いた。
慄然としたのは自分だけだろうかしら。

とにかくここで自民党が勝てば、アベ内閣の寿命がまた4年のびて、やりたい放題。
前回は、選挙で投票数5962万票のそのまた4割ぐらいの支持しか得られなかったのに、
権力を手にしてアベ自民党内閣はやりたい放題だった。

これで当選すれば、次はもっと民主主義クソくらえ内閣。

あのねえ、野党の統一戦線をくめないものかしらと電話が友人からかかってきた。
民主党から共産党まで手を組めば、という。

そんなことできっこないでしょ。
でもおかしなことだ。
自民党から共産党まで今回の選挙の争点が消費税の値上げ云々に集中。
その点では手を組んじゃっているように思える。

いちばん大切なのは生活と、それはだれでもがつい思うものだけれど、
今回にかぎっては、集団的自衛権の拡大つまり憲法の歪曲こそが、
各政党がなんというかは知らないが、
若者たちにとって、私たち子どもの親たちにとって、一番の脅威だと思う。
アメリカの「お願い」だとか「指示」だとか「脅し」があれば、
戦争をしに地球の裏側にでも行こうという集団的自衛権の拡大。

そんなことになったら。
日本はどうなってしまうのか。
生活を守るものが戦争を始めたら。殺したり殺されたりが生業になってしまったら。

わからないから、とか、どうせ、とか。
もうなんとか、そういうことをいわずに、かしこい若者に投票したいと思う。
軍国主義者じゃない人に。憲法を楯(たて)にシッカリたたかう人に。


2014年11月19日水曜日

「天才スピベット」を観る


昨夜見た映画は「天才スピヴェット」
ヒット作「アメリ」の監督ジュネの作品で3Dだから、仕掛けが見もの。
可愛い、楽しい、美しい、純粋、設計スケールが壮大。上質なメルヘン。

フランスとカナダの合作。

でもとちゅうで眠りそうになった。
登場人物に共感できないから退屈なのだ。
大がかりな作品。単純なテーマとストーリー 。模型としてはすごいけど類型的。
世界的に有名な俳優が使われているのに、10才のT・S・スピヴェット役(主人公)をのぞいて、
ぜひ見せてほしかった役割を、俳優たちが果たしていない。

いくら素晴らしい表現があっても、リアリティーがなければ空回りということだ。
面白い演技も、秀逸な表現も、俳優それぞれに孤立して演じられては、
共感できる、いかにもの人間関係が、画面の中にうまれない。
スピヴェットという天才少年に新しく加わった変化と成長が、私にはどうもピンとこなかった。
演技力のバザーを見たってしょうがない。

10才の天才が天才ゆえにスミソニアン博物館へ演説しに行けたということであれば、
ふつうの人間には生きている愉しみなんてない。
 ニンゲンはおたがい同士、手伝える存在だからいいんじゃないの。
ドラマって、それが楽しみ、それが感動でつい見ちゃうもんだと思うけど。
プログラムを読むとロビン・ウィリアムスに断られた、とあり、キャシー・ベイツはガンで
出演不能になった、とある。
ロビン・ウィリアムスはうつ病で自殺してしまった。

ただもう、小さい天才カイル・キャトレットの恐るべき演技力に
みんながまけちゃって、編集も監督も、こういうことになったのか、

この子はまぎれもなく天才的だが、ぶじに大人になって幸せな人生をおくるのだろうか。

映画のほうでも観客をえらぶのかしら。そうかもしれない。
都会生活者の生活はシンプルでもなく単調でもない。その逆でストレスだらけだ。
日本人としての私は、自然の中での雄大素朴、一本調子な繰り返し(!)と縁遠い。
私自身は不自然そのもので、人工的一生をすごしてしまった人間である。
フランス的、牧歌的ありようも、そういう日常からの脱出もまるで期待しないし、できない。
それだから感心できなくなっちゃってるのかも・・・・とも思う。
だって、ものすごくお金をかけた映画だ。
フランスじゃ大ヒットしたというし。



ながら族の一日


朝から忙しい。11時にみっちゃんが来る。
私は額を「壁かけ用のフランスの絨毯」に取り替える。秋だからである。
おんぼろの絨毯(床)は洗濯。あいまに掃除機を使い、
使いながらお湯をわかして昨夜水に漬けておいた菜花の葉を2束分茹でて冷蔵庫にしまう。
野田さんとグラノーラを牛乳で食べて、また2人で掃除と洗濯。
野田さんの仕事がお休みの日だからうれしい。
みっちゃんが到着して3人で昼食。パソコンで原稿書き。途中パソコンの電話相談に電話して
SOS、不具合をなんとか解決して、原稿にもどった。
みっちゃんと私はいま、一緒に仕事をしている。お茶を飲みケーキを食べる。
私は鶴三会の会計その他の辻褄を合わせたくて細田さんの御宅に走って行く。
あさっては山花郁子さんが来て下さって、小講演会なのである。
私の代わりにパソコンをやりにくそうに使っていたみっちゃんが、
「あ、消えちゃった、どうしよう」という。こういう目にあうのが自分だけじゃないとわかる。
エイトとかいう新システムはもうまったくきわめて不安定不便である。
野田さんが外からもどって来てくれたから、
できた文章の転送その他を野田さんにやってもらって、私は木下さんのための教材を用意、
およばずながら言語療法のお相手をしている。そのうち発表会をするつもり。お客さんを2人か
3人にすれば、木下家で発表会はできる。
野田さんも私もそれぞれに乾いた洗濯ものを取り込む。
1日がんばったので、原稿も少しはメハナがついた。
木下家5時の約束をどうしても守りたい。日中は温かいのに夕方ドカンと寒くなった。
みっちゃんは遠慮のかたまり。自分で帰るからと後ずさりするのをむりやり駅まで送って、
もどってバタバタと野田さんと簡易夕食。

なんとか約束の5時に木下さんの家へと外に出た。しかしまたいつものごとく、、
「ケーキ、ケーキ、木下さんのケーキ、忘れた、しまった!」
などと叫んで私は玄関からダイニングに駆け戻る。
テーブルの上の袋をひっつかんでまた駆け出す。
野田さんが野田さんらしく注意深い口調で向こうから叫んでいる。
「久保さん、ケーキを持ちましたか!?」
「うん、持った、大丈夫、手提げに入れたわよ!」
私はせかせかと靴をはきながら安心してよと言わんばかりにどなる。もう5時だ。
だけど野田さんが走ってくる。
「久保さん、待ってください、それ、ちがいます。それは焼き鳥の袋です!」
(なんと彼女はケーキを入れたタッパーウエアを用心深くささげ持ってる!)
えーっ。どうして。そっちがケーキ? こっちが焼き鳥?
「なんでよ?!」
なんでよと聞きたいのは野田さんのほうだろう。
私はおかしくってドッと笑ってしまった。

ケーキも焼き鳥もみっちゃんのおみやげだった。ケーキなんか木下家の分まである。
それをいうなら、フランス製秋の絨毯だって、みっちゃんのお母さんの遺品なのである。

木下家からもどると、野田さんと私は、8時開始の映画を観にモノレールで立川へ。
 もう冬で、外は真っ暗である。映画見物を最後にくっつけたから、今日は忙しかった。

てんこ盛りと、こういう日を言うのね。たぶん。

 

2014年11月14日金曜日

平和よねっ


きのうはパソコンの説明をしてもらって(電話相談)午前中がつぶれた。
ほうほうの態で午前中から這い出して、図書館へ。
山花郁子さんの講演会のために本を借りておかなきゃならないのを、ポカンと忘れていたのだ。
よかったぁ、講演会は来週の木曜日、ゆうゆう間に合う。
山花さんにきかれて、「あっ、忘れてました!」と口走らなきゃよかったよなーまったく。

ポスターは後藤さんの絵をいただいて、紅葉山(この団地の!)の絵入り。
チラシも後藤さんの管理事務所の絵入り。
たちまち作って(平野さんと私が)、たちまち全戸に配ってしまった(細田さんが)のが先週。
後藤さんの絵をみていると、誇らしい、という気がする。

今朝の新聞に平和俳句を募集とあった。
どんな時どんなことに平和を感じますか、という問いかけである。
平和ってこんなふうなことじゃないのか。
一生の最終ラウンドになって、個人の独立を保てていること。
隣り近所に冗談がいえる友人がいること。
病気になっても元気。
しかもポスターやチラシが作れる!

坂下の図書館に電話をした。
予約の追加注文である。なんでも「ねぎぼうずのあさたろう」 とかいう絵本を
山花さんが使うらしい。きいてびっくり、9巻もある。
思わず「一巻だけでいいです」と昨日は断ったが、手に取ってみればうすっぺらい続きもの。
「ばかばかしいけど、ま、・・・借りよう、思い切って!」と 言うと、電話にでた人が笑った。
笑っちゃうような絵本なのだ。
山花さんって、この絵本をどう料理するのだろう?


2014年11月13日木曜日

秋から冬へ


毎日、飽かず居間から庭をながめていると、風がどこからともなくやってきて、
柿の、柿紅葉というそうだが、赤い葉が敗北したトランプのカードみたいに落下する。
葉を喪った柿の木のむこうは低い土手で、下の通路まで何メートルあるだろうか。
背の低い数本の木のむこうに、深緑が褪色して若葉色になった大木が見える。
メタセコイヤが、すこしづつ、ねじるように赤くなりはじめている。

メタセコイヤ通りには、時々、茫然としたみたいな小型自動車がハザードランプをつけて、
止まっている。あの慎ましいクルマの運転席では、われにもあらず年取ったひとが、冬を前にした樹木の挨拶をうけて、少しばかりゆっくりしようと思っているのだろうか。
そうだとしたら、その人は、私に少なからず似ているのかもしれないと思う。
メタセコイヤ通りの秋はこれからだ。尾根幹線道路につながるこの道は、いまに赤いレンガ色に
変わる。この通りは火がついたようになる。赤毛のアンの頭のようなカラーになる。

坂の下の小さな図書館にさっき昔ふうの少女小説を返してきた。
「ダーヴィンと出会った夏」、ジャクリーン・ケリー作。
キャルパーニアという12歳の少女と彼女のおじいさんの物語だった。
グラハム・ベルが電話を発明して、それがやっとテキサスまで届いて。
昨日の夜中、もう一冊「35歳を救え」という怪談みたいな本を読んだ。
NНKと三菱総合研究所が研究した、2009年出版の本
なぜ10年前の35歳より年収が200万円も低いのか、それが副題。
こわくて眠れなかった。2011年の津波と福島原発のメルトダウンの、
あれ以前でさえも、わが国はこうだったのかと思うと。


2014年11月12日水曜日

ハロウィーンの夜だった


長い一日だった。新宿はまがまがしい人でいっぱい。
帰宅者で電車は満員である。
ああくるしい。でもその急行に乗らないと。夜が10時になりかけて、家は東京のチベット。
それでむりに乗ったら、急行だから案外 どんどんと快速球もとい急なのだ。
座れはしないけれど、電車には乗ったし、すこし空間もあって、つり革にもつかまれる。
まあ、これで新百合ヶ丘までなんとかと思っていると、次の駅でむこうのむこうの席が空いた。
白髪の紳士が私を手招きして「どうぞお坐りなさい」とかけさせてくれる。
あんなに疲れた表情の人なのに。

私の横の人がしきりにもぞもぞして、腰かけたばかりの私に
「これ、次はどこに停まるんでしょうか?」
駅の名まえがやっとハッキリしても、どうも落ち着かないでいる。
なんだろうと思ったら、「すごいですね」と私を眺めているのだ。
席をゆずってもらってすごいのかと思いかけたら、メガネなしで細かい活字を
読んでいるのがスゴイという。たしかにスゴイ。見かけどおりの71才なんだから。
それでその人は私にこう言った。
「あのう、アメを食べません?」 !?  !? 
好きなのをお取りになってくださいと言われた。小さい缶にイロイロなアメが入れてある。
その人は自分は取らずに、またアメをしまった、ハンドバッグに。
礼節上私はアメをたべる。その人はたべない。
こんなことってあるもんかなー。

階段をあがる。階段をおりる。電車がいない。
小田急多摩線はいい。座れるし、終点から終点までの時間がみじかい。
やっと電車が到着、やれやれとドアから入って適当にドンと腰かける。
もちろん、私と同時に他の出入り口からもさまざまな人が乗り込んだのである。
みれば、私の腰かけた先に眠り込んでいる初老の紳士がいる。
終点に着いたというのに目をさまさない。酔っ払いだ。
どうしたもんかわからないけど・・・。私はウロウロとこまってあちこち・・・。
すると、前の座席の男の人が私と同じ目つきで、こっちを見てこまった笑顔だ。
向こうの方の座席の人もおんなじ、すこし笑顔の、思案顔である。
それで、あの人たちと自分が同じ判断ならばと、元気がでたし決心もついた。
私は眠り込んでいるヒトを横からつついた。
二度目につっつくと薄目を非難がましくあけたから、できるだけおもしろそうな低い声で、
「新百合ヶ丘につきましたよ。大丈夫ですか?」
彼は、不満顔で、考えながら立ち上がり、グラグラと歩き、危うくプラットホームへと降りる。
私を眺めている。恨んでいるのねと思ったら、閉まり始めたドア越しに頭を下げた、
グラグラとゆれっぱなしで。
みんなで心配したことだとは 知らなかったにちがいない。

幸福をもらった日だと思う。



2014年11月11日火曜日

不条理


電車に乗ると決まったように
アナウンスが申し訳ございません、申し訳ございません
2、3分おきに、申し訳ございません、を繰り返す
なぜかって、ほかの電車が人身事故にあって、
到着と発着に狂いが生じたのだとか
 
狂いが生じたのは、
車掌のせいでもないし運転士のせいでもないし、
申し訳ない申し訳ないって悪くもないのに謝るなよ
申し訳はハッキリついてるじゃないの
あやまり倒してなんになる

プラットフォームから飛び降りた人がいたんでしょ、
このごろしょっちゅう、苦しくて死ぬしかなくなる人がいるんだ、
毎日、あっちの電車、こっちの電車で、人身事故人身事故人身事故、
進入してくる電車が、もうこわがってびくびくして千鳥足
電車が千鳥足だなんて前代未聞 のこんな世の中

申し訳ないのは、政府と国会と裁判所なんじゃないの
まえはこんな世の中じゃなかったもん
こんな世の中じゃない世の中だってちゃんとあった日本を知ってるぞ
電車は無表情な乗客乗せて
申し訳ございません、申し訳ございません

いったいどうすればよいのだろう
申し訳ございませんといわずに、どうすれば?





鶴三会・句集発行!


句会が誕生して二年が過ぎた。
それで、そろそろ句集をなんて話が出て、自然とそんなふうな成り行きになった。
みんなで一緒にやることだから、私もくっついて行く。
俳句が苦手なので、「くっついて行く」意識がどうしてもつよい。
日頃、くっついて行くことが少ないので、これってけっこうラクかも?とうれしい。

約束が順調にまもられて、小林さんがパソコン相手の原本作成作業。
「 ああ、たまらないだろうなー、私が小林さんだったら 」と思ったんだけど、
鶴三会はなぜか、できないことを引き受けてくれる人の宝庫であって、
とうとう句集を参加者それぞれの手をつかって、和紙と紐で綴じる日がきたのである。
何時間もみんなで、教わりながら、なんとしても和綴じしようと四苦八苦。
今日に限って参加できなかった宇田さんと中村さんの話が出る。
宇田さんは山へ中村さんは病院へ。 残念だけどしょうがないけど残念だ面白いのになー。

できあがって何日かが過ぎると、不思議な気持ちになってきた。

表紙を和紙にしたのが大成功で、まず紙のやわらかい感触が、
句をよせた人々の二年にわたる努力や人柄をリアルに思い出させるのである。
そんなことは思ってもみなかった。みんなで句を作り、綴じることをしたからなのかしら。
つい置いてあると手にとってしまう。
活字になるとひときわ映えるものだなーと、ヒトの句を読んではおどろく。
それぞれのコメントを俳句のまえに置いた編集がよい、と読んだ人がほめてくれた。
そう思って読み直すと、たしかに編集がいい。
わるいところがすぐには見つからない!!

この憂き世にあって、この雰囲気。

なんだか、もしかして、と思う。
私がある日、死んでしまったとしてと、そんなふうに想像するのである。
あんな人がいたなあと、だれかが思い出してくれるのかもしれない。
ゆっくりと、のんびりと、たのしく、仲間だったなあと懐かしんでくれるのかもしれない。
さすが老人会、たいした努力をして一生懸命だったころには、思いもよらなかったユメだ。
三國さんにきいたら、三國さんもおなじようなことを思うとおっしゃるから、
老人会って、いいものなのかもしれない。

そう思って作ったわけではない句集が、ふしぎな船着き場に漂着して感心である。