2015年11月16日月曜日

フランス・パリ・テロがあった日の前後


11月14日の土曜日、四谷区民ホールに行った。
桐朋学園演劇専攻科の同級生だった人の追悼の会があったからである。
私たちはおなじ2期生だったのに、亡くなった彼のことを、
ほとんどおぼえていないというおぼえかたしか、私にはできていなかった。
どんなすがたかたちの人だったかは思い出せるのだけれど。
短かった私の演劇生活のうち桐朋での2年間は、あとに続いた職業的舞台生活の烈しさに
くるくる巻きとられ、記憶の彼方に消えてしまったのである。

ここに集まったみんなと別れて50年がたったとだれかが言っていた。
懐かしくて暖かい集まりだったと思って二次会から帰宅したのは深夜で、
帰宅後、夕刊をながめて驚倒した。フランスはパリが襲撃されたという記事。

11月15日は日曜日。
招待券をいただいて、フォルクハルト・シュトイデのコンサートへ。
シュトルデさんはウィーンフィルハーモニー管弦楽団のコンサート・マスターである。
こんなにも美しい音というものを、いったいどう考えればよいのだろうと想いながら、
福島に住み、被災した人々の中で幸福に安らかに生き、2年後事故があって死んだという、
山城くんのおもかげがたびたびよみがえる。
映像に残された彼が語っていた言葉。

いつになるかわからないけれど、福島の人たちがここにもどってきたとき、
荒れ果てた田んぼや畑を見たら、もうほんとうにイヤになってしまうだろう、
だから向日葵をずっと植えて、花が咲いていれば、すこしは元気がでるでしょう、
だからそう思って。全国から向日葵のタネを送ってもらって。
・・・ガソリン代がぼくの生活の優先順位ではいちばんですね。
ほかは無ければないであきらめるという生活です。
ガソリンがないとヨガを教えにいけなくなる。
ヨガをやったあとは、二晩ぐらいはなんとか眠れると被災した人たちが言うから。

いわば超一流のヴァイオリンとピアノが奏でる音をどう表現したらよいのやら、
私にはわからない。あんなに美しい音楽ってどういうことかしら。
その晩に読んだエリナ―・ファージョンの物語の中で、ばあやが子どもたちに語る、
リーゼルがいつも見ることができた景色と空気のようなことかしら。

森は、まるで大理石の床にクマの毛皮がおいてあるように、山のふもとに
黒々とひろがっていたんですよ。木々の梢の上からは、雪の山のいただきが見えて、
お天気のときには、それが青い空にそびえてきらきら光り、あらしのときには暗くなり、
日の入りにはバラ色になり、日の出るときには金色に見えたんです。それから、霧が山を
とりかこむと、山はちっとも見えなくなりました。

 一方ではこの形容しがたいほどの秀麗な音。
他方では草むしりをする山城くんのいのちと自己実現。
ヒトの命というものをどう考えたらよいのだろうか。


無人機で人を殺す側は「戦争」をしているのであり、戦争をする権利があるといわんばかり。
他方、自爆しながらの人殺しは「テロ」で、あたりまえのように残虐なという形容詞つく。
夕刊を見れば、シリアの政権移行でアメリカとロシアが「必要性」 一致とある。
アサド大統領の処遇をめぐっては米ロ間に溝がまだあると。
シリアのことなんでしょ?
どんな権利があって、こんなに我がもの顔なのだろう。

沖縄を思う。
福島を思う。
向日葵をうえていたという、草取をしていたというヨガジーとよばれた彼を思う。




2015年11月5日木曜日

買いすぎの野菜とたたかう


山のあたりの野菜売り場で、巨大な聖護院大根とふつうの大根と、なんのかんの、
安いし新鮮だし、ついつい買ってしまって今ごろこまる。

とりわけ聖護院大根の葉っぱがこまる。大きすぎてうちの台所におさまらない。
やわらかくておいしそうだけど、棕櫚の葉ほどもあって、これじゃ洗い物もできない。
なんでこんなの買っちゃったのか、私なんか実力ないのに。
一日たってやっと決心してよく洗い、ザクザク包丁で切ったら、
とてもすなおな柔らかい葉っぱなのに肩が凝ってしまった。
大きいボールに山盛り二杯分もあって、でっかい中華鍋でもぜんぶは炒めきれず。
中華鍋に鷹の爪とニンニクと胡麻油を放り込み、緑の山をお菜箸でぐるぐる。
そこに鳥手羽の蒸した残りがあったから、手で割いてふたつ(それしかない)放り込む。
鳥手羽を入れたんだから、チキンスープの素で味を締める、というか。
それで最後にうちのだし汁でもって味を調節。

いいけど。
味もわりにいいみたいだけど。これでやっと半分。150円だったのに。
だれが食べるわけ? うちにはふたりしかいないのに。
おすそ分けと思っても、料理の腕がイマイチなのでとてもそんな度胸がでない。
この団地もいいんだけれど、必殺料理人みたいな奥さまがおおすぎて。
夜もおそいし。明日は出掛けるし。
こんな時、みっちゃんの家が近かったらいいのにとカンシャクが起きる。
・・・インゲンにチェリートマト2袋に、ジャガイモ玉ねぎは長持ちするからいいとして、
長ネギ、春菊、ぜんぶで1260円だった。柚子なんてふたつで100円。
柚子をつかって漬物をつくるつもりだったんだなー、私はあの時。

聖護院大根には大きな葉っぱがあるけど、大根のほうが料理の中心に決まっている。
にげることもできないのである。


2015年11月3日火曜日

困難読書


おなじ内容の本を二冊、図書館で借りて、貸だしの期限が超過しても返せない。
なにしろ、「ウィキリークス」という名の本。一冊は日本人が書き、もう一冊はドイツ人が
書いている。読みやすそうな単行本だけれど、もちろん、どんなに読みやすく書いてもらっても
私の場合、じきにお手上げになる。インターネットを使っての世界大戦争の話だから、
まずもって、インターネット用語に私の頭がぜんぜん耐えられない。
もう一回、以前見てさっぱり判らなかった映画を観ることにする。
考えてみると、あの映画はこの二冊の本の、解説みたいなものだったと思う。
ご存じベネディクト・カンバーバッチ主演・・・ザ・フィフス、エステイト。
映画を観たら、二冊の本に書かれている事柄に多少とも近づくことができたような。
この世は、私が住んでいる世界とはもはや全然ちがうのかもしれず、それがおそろしい。

今朝は何十年ぶりかで、芥川龍之介の『河童』を読んだ。
問い なんでそんな本を読むのか今さら。  答え そこにその文庫本があったから。
もういやになってしまってこまる。この河童の国に行った人の話だけど。
午前中いっぱいかかって読んだあと、もしかしたら私は鬱病かもと。
ヒョロ~んとそんな気になってしまうなんて、老人にはよくない本だと痛感。

文化の日。

今日は文化の日のつぎの日の朝である。
きのうは山にいて、すがすがしかった。
風は秋風、すずしげに、さわさわと吹くのである。
たどりついた場所は休日なのになぜか人が少なく、
紅葉も終わり落葉が始まり、・・・傷んだ気持ちが落ち着いたというのでもなかったが、
温かく太陽が輝いて、音もなく夕暮れになった。

ところで今朝は『河童』を読んだのが運のつき。もうなんだかズーンと暗い気分。
午後からやっと洗濯、床にワックスがけ、絨毯を変えて、野菜をきざんで。
そして壜と缶をすてに行ったら、肩を横からつっつく人がいた。
にこにこして立ち話。笑顔によけいなものがなくてスッキリ、サッパリ、立派なひとである。
それで気分を立て直すことができた。うれしい。私にしては上出来と思う。
人脈というとあんまり良い感じがしませんが、たとえ壜と缶を捨てる場所でも、
そういう人にばったり会ったりすれば、危うく憂鬱と闘えるし助かるわけなのね。



2015年11月1日日曜日

ブルー・ポピー


電車に乗った。昼間のことだから、みんながのんびり腰かけている。
向こうの座席へと歩いて行く女の人をみるともなく見ると、
左の顎に淡い紫いろのアザがあった。右の頬にもたぶん変色がある。
病気なのか、それとも夫に殴られた跡なのか。
小さなパンジーの花のような、それでいて顔色のない人だった。
落ち着いた雰囲気の地味な身なり、黒くて光らないブーツ。
どこへ行くのかしら、寂しさのほかになんにも見えない顔をして。
一切の救いを期待しない、あきらめて乾いた姿だ。
病気でも人はさびしい。
殴られたのであれば病気のように人はさびしい。

私の隣の座席の青年を、向い側の老人が驚いたように見ている。
電車に乗ったとき、目がびっくりした気になった30代の若い人だ。
自然なのか不自然なのかぜんぜんわからない。
スマートでりっぱな体格、カジュアルな秋の身なりがきれいな若者。
アタッシュケースを抱えスマホを手に、ガムを口に入れようとさっきから苦労している。
一点異様なのが、口紅を塗っているらしい(!)ふっくら赤すぎる唇。
・・・ふしぎな人である。
これがお話のなかの電車なら、かれはモンシロチョウの王子のひとり、
王様に命じられて、キャベツ畑の国に化粧品のセールスに行くところ・・・。
それでも人間だと、いったいどんな苦し気な話になってしまうのか。

21世紀の各国は、 たとえ日本のように奇跡的に戦後70年を謳歌したとしても、
どこかイビツだし、不自然で、落ち着けない。
さあ、くよくよするのは、やめよう。
金子兜太さんの本に、命の向こうには他界があって、そこはこの世のつぎの世界で、
ふつうのこととして移行すればそれでよいだけのこと、と書いてあった。
ただの続きなのだからおそれず楽しく生きて、さようならも言わないでよい。
ということなら、この世で解決できなかったことは、むこうで解決すればよいのかしら。
金子さんの友人は死んだらこのつぎは樫の木になりたかった。
そうしたら死に顔がとても安らかで立派、あゝこの男は樫の木になったなと、
金子さんには、はっきりわかったのですって。

わたしはブルーポピーの青い色が好きだけれど、あれだと殴られてアザができそう。
そうだこれからは、なにになりたいか、一生懸命にさがして、
さがす合間に、できることをすればいいんじゃない?



2015年10月23日金曜日

やぶ蚊ぶんぶん


ゴミ収集がふたつ重なる朝は忙しい。
新聞、雑誌、段ボールは玄関先。燃えるゴミは団地のゴミ箱。
私は落葉も袋いっぱい捨てなきゃならない。
それで庭に出て、柿の葉をまたも集める。
小形の団扇ほどもある赤い葉っぱが、病気らしく、くろい点々をつけて、
たくさん散らばっている。

蚊がぶんぶん、やぶ蚊がいっぱい。
このあいだ四軒先の加賀谷さんが庭でなにかの虫にさされて大変なことになった。
放っておくと毒がまわって、もしかしたら脚を切断しなきゃいけない症候群。
医学的処置は万全。大丈夫でよかったんだけど。
詩人まど・みちおさんは、なんと言ってたっけ。

             カ


           ある ひとが
           ふと あるひ
           手にした ほんの
           とある ページを ひらくと
           ある ぎょうの 
           とある かつじを ひとつ
           うえきばちに して
           カよ
           おまえは そこで
           花 になって
           さいている

           そんなに かすかな ところで 
           しんだ じぶんを
           じぶんで とむらって・・・ 

まどさんはおうちのなかでいっぴき、でしょ、そのとき。
じょうだんじゃないわよー、ここのばあい。

     

2015年10月22日木曜日

ごみ部屋の私


強迫神経症にちかいほど、掃除をする私だが、
くたびれてきて夏冬の衣類の入れ替えの時など、
納戸から取り出したなんのかんのにどうも手がつけられず、片付けられず。
ごみなのに捨てられない、何十年も紐で縛ったきりなのに、またしまいそうになる。
そうだ!と、この春、ゴミ袋等を空き部屋にぶちこみ戸を閉めちゃったらアーラ快適。

しかし便利なやり方なんだけど、半年たったらその部屋全体がごみ箱になった。
うーん護美箱っていう字を時々どこかで見るけど。
今日こそ、本日こそ、今こそといくら思っても、疲労感がましちゃって、
もうじき死ぬのにこれはまずいと、秋を迎えたらますます憂鬱になるばかり。

きのう、今日と元気だし、予定もなくて、一部ゴミの収集日だし。
私はさっきからホコリだらけになって、雑紙を袋にいれては紐でしばっている。
亡くなった継母の仕事上の貴重な記録もいっぱいあるけれど、
捨ててしまわないと、私の子どもたちが大変だろうと思う。
彼らはどさどさ、ぶんぶん、私ほどこだわらずに捨てるにちがいない。
それを思えば、いちいち悩むのも馬鹿げていると。
と思う。

コーヒーを入れて飲む。・・・緑茶も飲む。
お昼ごはん。
ハーブティー。
かりんとうなんか。
逃避のタネもつきちゃって。


2015年10月21日水曜日

同窓の会


 文学部のクラスメイトからのメール
「 そうなのですよ、一生の財産なのです!
  たとえ喧嘩しながらも共に友達なのです(笑)
  また会いましょうね 」

私たちの大学の卒業式は、学園紛争のさなかにあって、中止されたのだった。
そのせいか、クラスメイトの幾人かは1966年以来、
毎年一回、冬が近づくと待ち合わせて酒場に行き、旧交をあたためあう習慣、
最初は大学のある高田馬場、それから新宿で、川崎や、目白だったこともある。

なにしろ専攻が教育学。私みたいな興奮型はあんまりいない。
温和でシンの強いタイプが多く、私には彼らがどんな人間なのか見当もつかない。
じぶんは異端だ、嫌われている、と終始ひがんでいたけど、
それでも私はクラス委員になって、クラスの文集を編集したり、遠足に出かけたり、
むりやりクラス討論をしたりした。1964年と1965年である。
まあ不器用な押しつけだったと、いま思い出すとゾッとしてしまう。
和光学園の中学校で生徒会長だった、そこで覚えた民主主義・のようなものを、
基本どおり大学の学級でやってしまったということなのだ。
それは当時からの、私の身についた義務感のなせるワザで、今もあまり変わらない。

全共闘派らしいクラスメイトから議論をふっかけられて、支離滅裂に対抗。
みんなから嫌がられていたのが別のセクトの私でしょ、という始末におえなさ。
卒業のあとも、もうずっと私はそういう気持ちを宿命のごとく抱えていた。

大学にクラスがあったというと、今はみんながビックリするけど、
あのころの文学部にはクラスがあったのである。
ビックリされるとこちらもビックリするほど、それは自然なことだった。

私は3年から編入した教育学専修でクッキリ浮き上がった不幸な存在であったが、
クラス活動をむりにも強行?してしまったおかげで、
何人かの同級生に、素朴ともいえる好意を抱いた。
それはハッキリした感情で、何十年たっても、今でも不思議にそのままだ。
卒業式が潰れるほどの紛争の時代だから、政治的には考え方もちがったが、
同い年のヒトの強い心の持ち方に、青春の自由さで、惹かれてもいたのである。

卒業してから一年に一度、10人ぐらいがなんとか時間をつくって逢う。
その後のみんなの人生がどうなのかも知らないで、目的もなく再会する。
私にしてみれば、自分は「ビンボー・失敗・不安定」、彼らは「順調・出世・安定感」、
もうずっと違和感がつきもので。
そう。年とともに違いは明らかになるばかり。みんなは職業を全うして、
編集者になり、学校長になり、教育委員会委員になり、会社に生きがいを見出して。
私に言わせれば予定通りというか予定調和の人たちなのだ。

私といえば卒業後劇団に入ってイヤになってやめて、結婚して3人の子どもの親になって、
万年失業のような自由業。同窓会に着ていく洋服だって貰いもの。
母親になった時には、「自分で育ててるの?! 」 とびっくり目を見張られた。
神棚にポーンと赤ちゃんを乗っけといて知らん顔、という感じだと言うのである。
離婚すると夫に会ったこともないくせに、私が我儘だから破局にいたった、と誤解な理解。
幼稚園の園長になったら複雑な顔をし、その時は賢くも沈黙していたけど、
職員と対立して辞めたというと、わが意を得たりみたいにニッコリ、
「続かないと思ってたよ、うん」
・・・まあ、そうなのよね。誤解はおたがいさまなんだろうし。
私には判らないけど、兄弟姉妹ってこういう感じなんだろうか。

今回の同窓会には個人的な事情があり私は欠席したが、二次会に来いと
疲れているだろうに、4人が20時から酒場で待っていてくれた。
早稲田のホームカミング・デイは今年が最後だそうで、その日は、
朝も早よからから思い出のセレモニー続き。
それぞれがもうトシで病気もちになって、くたびれはてているというのに。
・・・申し訳なくて、翌朝、メールでありがとうと言ったら、
しばらくたって返ってきたのが冒頭のメールだった。


政府の文学部軽視に私は反対である。
大学のクラス制を無くしてほしくない、ともしみじみ思う。
懐かしくも古風な伝統のうちにこそ、守るべきものがあると思えてならない。
人間の考えと行動は、「一生」の構えで個別にわかろうとするべきだ。
学問を人類の未来のために活かそうとすれば、忍耐のながい時間が必要だ。
それがけっきょく私たちの手元に届く英知というものである。
学問の府が、非情な政府に迎合して合理主義に終始するのでは、
まともで地味な幸福さえ、私たちみんなから奪われてしまう。

人情無くして国家の沈没はふせげないと、切実に思うのである。


2015年10月19日月曜日

ほっとファミリー


ほっとファミリーとは、養育家庭のニックネームで、
むかしふうに言うと里親制度ということになる。

体験発表会(町田市)があって、朗読サークルの仲間のひとりが今回発表した。
作文を書き、声にだして読む練習をして、もう繰り返しくりかえし・・・。
私はとっても愉しみだった。誇りだなんていうとおこがましいけれど、
ぜったい「優れた報告」をすることになる、と確信していた。
なにしろ下書きを書き直して書き直して、彼女は優等生になったみたいにがんばった。
イヤもしかしたらこの人って、もともとは優等生だったのかも。
そうとは知らなかったからオモシロサもうれしさもすごく新鮮、感動だって3倍だ。
里子の親になって9年というから、
報告の中に描かれたこの「ほっとファミリー」について、
朗読サークルの私たちにも、遠目ながらあゝあの時、と様子はわかる。
様子が少しはわかる幸運というものがあるのだと、しみじみ思った。

彼女の夫君は「里親になるのは国民の義務だ」と言い、里親になりたい人だったと
10枚におよぶ報告の最初にKさんは書いている。
世の中には偉い人がいるもんだなと、そうとしか言いようがない非力な私だけど、
彼女の素直で、あるがままの作文には、私たちそれぞれの人生と重なる感もあって、
ホールの座席できく人たちは、みんな、泣いたり笑ったりしながら聞き入っている。
本人としては初めての「演説」であるし、前代未聞の体験で、
流れる顔の汗をハンカチで拭いてもいいかどうかよくわからず、しかし気になってたまらず、
演壇に用意された水は、飲みたくてもペットボトルだけポンとおかれてコップが無いし、
もうそれどころじゃない30分間だったわけで、
「人の顔も様子もまるでわかりませんでした!」

作文をぜんぶ読みおわってお辞儀をして、わーっと笑った笑顔がよくて、
みんなもパチパチと共感し拍手し、そして笑ったのである。


2015年10月17日土曜日

努力・平和の俳句


書き物机の上に始末しかねて置きっぱなしの紙が少しある。
大きな文字が見えるから一枚を手にとると、朗読の発表会のための下書きだった。
みっちゃんが私の家におき忘れていった練習用の手書き。
朗読の発表会は6月29日・・・ああ3か月まえなんて、もうとっくの昔。
彼女はあの日、東京新聞に投稿された平和の俳句を朗読したのだ。

一行でもって書けてしまう俳句が20行、
A4の白い紙のおもてとうらに大きな字で書いてある。
舞台の上でよく見えないとこまると用心したのだろう、
読みやすい、シッカリとした、字だ。
ところどころ単語の下に、私がガミガミ言ったことが、鉛筆で書いてある。
    「かわいく」「70才誇らしげ」「きれいだね~」「よろこび」「「やさしく」「ニコニコ」
    「ニコニコ」「8才のこどもの句」「かなしい」・・・などなどなど。
平和よ。すごんじゃだめよ、フツウなの、演説だめ、平和、ニコニコして、にこにこ。
責任上、私がうるさいので、できないわ~と悲鳴をあげていたが、
みっちゃんのあの日の朗読は、やさしくて、きれいだと、とても評判がよかった。
いわば断固たる平和・の顔だったのであるが。

にこにこが押しつけがましくならず20句 詠むって努力がいるものだけれど、
そういうことはラクラク乗り越えたように見えるのが彼女で。
シッカリした大きな文字も、「すいとんの日」を300号も発行した手が書いたわけで。
だからこそ苦労を感じさせない、うららかで、ふんわりした朗読になるのだ。
「シャボン玉を舞台で吹いてもいいかしら?」
かならずうまくゆかないからね、その場合どうするか対策を考えて吹くならいい、と言うと、
当日、なんとか一つだけシャボン玉は空中に浮かび、と思ったらパチンと消えてしまった。
でもそのはかなさが平和っぽいと好評だったのである。ははは。

東京新聞の「平和の俳句」は二種類の投稿が大河の流れのよう、
「戦争」と「平和」である。
私たちはその中から平和の句ばかりを選んだ。

⑴ 平和ってれんげの首輪むすんだ手
⑵ 憲法や兵士とならず古稀となる
⑶ シャボン玉、平和の形かもしれぬ
⑷ あ、ひこうき、子どもに言える平和かな
⑸ 初節句、一人も殺した、ことがない
⑹ 平和とは、、明日の自分を、おもうこと
⑺ シワシワの、手からもみじの手へ九条
⑻ 乳飲み子は仕草に平和、宿してる
⑼ 虎よりも、すみれのような、国がいい
⑽ 今日もまた、子どもの布団、かけ直す

⑾ たんぽぽの、種ほど生えよ、平和の芽
⑿ へいわとは、おく万円より、いいものだ(8才のこどもの句)
⒀ 身障の、我らまたもや、非国民
⒁ たち止まり、犬と平和の風を、嗅ぐ
⒂ 日溜まりに、猫と私と、白い雲
⒃ へいわとは、ちきゅうもひとも、しなぬこと
⒄ 人の字は、平和へ歩く、姿なり
⒅ 夜勤明け、青葉芳し、ああ平和
⒆ 郵便に、赤紙はなし、春の宵
⒇ 障害の、私の体が、戦争だ

(13)の俳句は発表会のまえにほかのものと差し替えた。
みっちゃん自身がうたった当選句と内容がかぶってしまうからだった。



2015年10月16日金曜日

おすすめのDVD映画


あいもかわらず蔦屋に通って、
DVDを4枚1000円で借りて見ようとするから忙しい。

「それは星のせいじゃない」 アメリカ映画
「イミテーション・ゲーム』 イギリス映画
「ディア・ドクター 」 日本映画
「はじまりのうた」 アメリカ映画
私はよく、どーでもいいような映画を借りてしまうのですが、この4本は好き。

古いところでは「インファナル・アフェア」という中国映画。
今日借りて、あーら見たことがあると思ったが、ハラハラびくびくしながら二度目でも面白くって。


丸善で本を二冊買った。
「他界」 金子兜太
「ソクラテス以前以後」 F・M・コーンフォード
金子兜太とは俳句のひとで、東京新聞「平和の俳句」の選者である。
他界、なんてヘンだと思いながら読んだら、まー細田さんみたいなお方である。
そっくりといってもよいと思う。
ただいま95歳、まだまだ死なないはずだと本人が豪語する頼もしさ。
それで細田家へ持っていった。細田さんにその気になって長生きしてもらわなければ
うちの団地はみんなが困るし。

 
 

2015年10月15日木曜日

ギリシャからの絵葉書


遥がギリシャへ出かけたのだという。
小包が到着。
クレタ島はオランダとちがってまだ暑いほど、バカンスのような感じと、
弟にメールで言ったそうだ。
美しいところで、いつかみんなで一緒に行きたいと思っているって。

小包は少々重たくて、包み紙の裏にオリーブオイルと記述がある。
でもそこには石鹸も入っていて、絵葉書も、それから
蓄音機にとりついて音楽をきく帽子男の、オレンジ色のTシャツも入れられていた。
もちろんオリーブオイルのしゃれた小瓶もあった。
絵葉書。
木目の机の上に青い無地のマグカップ。
その向こうに小説のような茶色の表紙の本が開かれて、
手前のページを柔らかいシーツのように掛けて!女の子が眠っている・・・。

遥の手紙。
『 お母さん、健へ
 ちょっと遅くなってしまったけれど、ギリシャ(クレタ島)に行った時のお土産を
 送ります。お土産だから、たいしたものはないんだけど。
 日本では安保法案が通ったけれど、ギリシャは移民がシリアから押し寄せて
 きていて大変です。経済が破たんしてるのにね。シリア危機の原因であるア
 メリカは知らんぷりで空爆してるし、これから日本がここに手を貸すのかと思う
 と、イヤになるね。けど、ギリシャじたいはのんびりとして、良い所だったけど。
 またね         遥             』


遥へ。

あなたの絵葉書を手にして、持ってあるく・・・。
お母さんの耳の奥で、遠く小さく、
・・・わぁーわぁーと泣き声がすることに、遥の葉書を読んで気がつきました。
毎日のことで忘れたようにしているのだけれど、
にこにこしてくらしているのだけれど、
安保法案不正通過成立以来、いいえ、2011年3月の福島における原子炉爆発以来、
私は毎日泣いているのだと思いました。
私たちの胸のそこのここで。
本当はずーっと。


2015年10月13日火曜日

べつに減るもんじゃないでしょ


バスが遅れたんだか早すぎるんだかわからない時刻に到着。
今日は入口が運転手席のヨコ。
乗ったら叫び声が聞こえる。ふりむけば階段を駆け下りてくる人がいる。
「すみません、乗せてくださーい」と必死。
同じような経験をもつ人は何人もいるだろう。
バス停留所でバスを待つと、乗客同士いつもその話だ。
時間に遅れてくる割に待ってくれないという愚痴である。

私は料金箱のそばにいたから、運転手さんにお願いした。
「すみません、あの人がくるので、ちょっと待ってあげてください」
男のヒトがくるまでに10秒とかからなかった。
彼はあやまりあやまり、ステップを上った。
それなのに運転手は無表情、いかにも不満げ。にっこりしたらどうでしょう。
べつに減るもんじゃなし。
安心したので私は座席にむかって歩いて行こうとした。
乗客がみんな・・・仏頂面。
夫のため、または親戚すじの伯父さんのためにバスを待たせた、と思われたのかしら?
そんなことじゃないはずだ、いい人そうだもの、どの人もみんな。
私達ってすごく努力しないと、意味もなく無表情になってしまう。
「よかったですね、運転手さんが停まってくれて」
そういう顔をなんとかしてみせたいものじゃんか、と思う。
私に、または、せめて無事に乗れたおじさんに。

京王線に乗って桜上水で降りたら、清掃夫がおおきな機械を動かしている。
ガタイの大きい人が、世にも不機嫌そうなイヤでたまらない顔つき。
鏡の前に引っ張っていって、「自分のツラをみて考えろ」と桜上水の駅長なら言うべきだ。
私としては、のんびりした、仕事が見つかってちょっとよかった、みたいな顔を見たい。
うれしい仕事でもなく、よかったと思えるほどの賃金なんか受けとっていないにもせよ、
無関係の乗降客に八つ当たりは、その人の人間としての沽券にかかわるように思う。
低賃金で図々しく人間を働かせるな。本当にそうだ。
でも、やっぱり個人的なやりくりの部分について考えてほしい。
ヒトの表情や態度もまた、光景のうちなのである。

と書いてるうちに、
いつも憤慨するんだけど、うちにもどるとスッカリ忘れてしまうことを思い出した。
三多摩各地にばらまかれているインプラント歯科のばかデカい広告のことだ。
あんなに美観をそこなう広告って、めずらしいんじゃないか。
桃色の大きくあけっぱなされた歯なしの口腔。ニセモノっぽい術後の整然とした歯並び。
なにがイヤかって、剥き出された二枚セットの「巨大な桃色の口腔」が不快である。
あれはなんとかしてほしいと大勢の三多摩人が思っている 。
広告としても逆効果だろう。
手術を1000組だか2000組だかにほどこしたと看板で読むけど・・・、
多摩関連のたださえ不自然な景観にこれ以上のダメージを与えないでもらいたい。
掲げる場所を提供する人にも、
受け取るおカネ以外の「空間責任」についてぜひ考えてほしいと思うのである。


今日はそういえば午前中は歯医者さんに出かけたのだった。
治療の合間に、壁に掛けられた北川民次の静物画をなんとなくながめる。
本物。額がすごく上等なのがうらやましい。額ってたかいから。
・・・バナナ、林檎、柿、それから枇杷の実。
あらー、うちの庭の柿の木が元気で幸福だったころの色がぜんぶある、と思う。



満天の星


早朝4時半に目がさめて外にでると、ひさしぶりに星が輝いている。
冬が近づいて、冷たく澄んだ夜空に満天の星だ。
ふうっと、きのうの友人の面影がうかぶ。
いろいろな話・・・そう、たえまない鬱的な気持ちを、なぐさめられた・・・。

ふたりして日本舞踊の発表会へ行ったのだった。

鶴三会の永瀬さんが「 都鳥 」を踊るのを拝見。
私たちの団地の人がほかにもきている、そうじゃない人も何人もいるようで、
永瀬さんのお付き合いの広さに感心する。
さもあらんという・・・、永瀬さんって感じがよい。
懐かしいような温和さで、話ぶりが下町風だから親しみやすいしそれでいて目立たない。
ひとの重荷に決してならない佇まいが、私などには羨ましい。

夫君が亡くなって、鶴三会に入って。
鶴三俳句会も「やめたいやめたい、といつも思うんだけど」
聞くとそうおっしゃるけれど、努力を続けて、句集をみると一生懸命でかわいらしい。
私がなにかすると、お菓子をもって、だれかを誘って来てくれる。
電車でいっしょになったりすると、その日もおっとりと着物姿だったり。
なんでも銀座で「着物で逢いましょう会」があって、とはずかしそうに笑ったりして。
たまたま道で逢ったりすると、うれしくなるお人柄である。

幕が上がると、舞台中央にかがやくような水色の着物すがた。

たよりくるふねの内こそゆかしけれ・・・おうらいのひとに名のみとわれて
花のかげ・・・水にうかれておもしろや・・・
いかにも永瀬さんの風情にあった長唄であると感じ入った。


今年は、いやここ数年、我が家の柿の葉に異変が起こっている。
かつて平和だったときには、この柿の木は秋にはクリスマスツリーのようだった。
いちどきに、黄色、オレンジ色、赤、緑の色彩の美を謳歌する木であった。
今年は緑の葉と深紅と。それだけでどす黒くなって地面に落ちてしまう。
私の家のならびの人は、ここは造成した際、下層部に瓦礫を埋めたから、
何年かたつと樹木は枯れてしまうんですよ、という。
お隣の蜜柑の木、向こうの家の大きなミモザ、
そういえば私の家では桜上水から運んだ山椒の木が枯れた。
柿の木もそうなるのかしら。
むかしここに住んでいた子どもが、干し柿のタネを埋めて、
それが大木?になったというのに。


2015年10月9日金曜日

秋明菊ゆらゆら


秋明菊はキンポウゲのなかまだという

そうきいてうれしい
ちいさい時から本を読むと
本のページの野はらや主人公があるいていく道に
キンポウゲがよくゆらゆらしていたもので
きんぽうげ、キンポウゲ
キンポウゲって、黄色い花だけど、
私の頭のなかだと
しろいマーガレットの芯のところほどの大きさで、
ポンポンダリアのようなかたちの
小さい、小さい花なのだ

植物図鑑をひらけばよかったのに、
キンポウゲを私はこの年までほうりっぱなし
黄色の花とおもったのは、
作者がいろいろにそんなことを書いて描いたのだろう
ひらがなでキンポウゲはきんいろ、とか。
絵本の野はらは、淡くキンポウゲいろに黄色かったのだろう
青いそらはワスレナグサ色で、白い雲はくっきり、草はみどり
キンポウゲは麦わら帽子といっしょにいつも幸せ
さあ、それでいてワルイ魔法使いの庭にも咲いていたりして。

うちのしゅうめいぎくは
柿の木といっしょに、昔ここに住んでいた家族のうれしい置き土産
ひっこしてきて、しばらくはいじけていたけど
どうおもったのかだんだん元気をだして
右から左へ、レンガのあいだをまっすぐによこぎって
毎年、どんどん東へ東へと白い花が一列の行進
風に花がいっぱい音もなくゆれると、うちではそれが秋である


秋明菊はキクというけど菊じゃなく、アネモネの仲間でキンポウゲ科
そんな感じの、はかない色して、丈夫なおかしな花なのである・・・



2015年10月7日水曜日

辺見庸さんのブログ・考


辺見庸さんがブログで、
シールズと国会デモの在り方をムチャクチャに批判していると聞いて、
パソコンを開き、ブログを探して読んでみた。
ショックだった。尊敬していたから。

尊敬ってどういう時につかう言葉だろうか。
なにか、自分の考えだけではとても判断できないことが起こった時に、
この人ならどう考えるのか知りたい、意見をきいてみたい、そう思うことかしら。
学びたい、影響されたいという自然な思いと意思。私の場合は。

2011年3月11日。大地震と見たこともない規模の津波。そして福島の原発の爆発。
その直後のたしか日曜日、頭がマッシロ状態になった私は大船の講演会に出かけた。
大江健三郎、なだいなだ、内橋克人の三氏が「とっさにどう考えるのか」聞きたくて。
「故・井上ひさしさんをしのぶ会」が予定通り開かれたのがさいわいだった。


さて、辺見さんのブログであるが、
私が読んだ文章はしばらく掲載されて、それから削除され、今は見ることができない。
だから正確に再現して云々、ということは不可能だ。
二度と読みたくないと思ったからコピーもしなかったし。

① 辺見庸のブログがなにものかに乗っ取られたという説。
② 本人が書いたものだという説。
インターネットが「乗っ取り」「なりすまし」可能な場所だということは周知の事実だという。
すぐ削除すればいいのにと思ったけど、のっとられたら削除できないという話もある。

辺見さんという人を考えるに、
この罵詈雑言が「乗っ取った者」による行為ならば、
辺見さんは記者会見をひらき即座に否定・反撃したはずである。
それとも辺見さんは、記者会見をすることもできないほどの病気なのだろうか。

ブログの文章は、デモに参加した老若男女をやっつけ、シールズの不見識を攻撃し、
大江健三郎氏を罵り、デモ参加者の老人たち(私も勿論その中に入ってしまう)の、
身体や頭脳の欠点まであげつらって軽蔑し、 ヘイトスピーチもかくやとばかり。
この文章を読んで大喜びするのはそれこそ辺見さんが嫌悪する「安倍閣下」じゃないの。

憂鬱な時間がどんどんたって、私はいま、こう考える。
自分自身の考え方をどうしても新しくする必要がある、と。
なぜなら真実と嘘のごちゃまぜが、私たちの「国」日本のいかにも質のわるい混乱が、
来年の選挙までに、あらゆる形であふれ返るだろうから。

私自身の問題でいえば、だれが書いた文章であれ、気になってたまらなければ、
経緯(こみいったいきさつ)をまず身の回りの人たちと話あってみようと思う。
できるだけ知っている人ぜんぶと。私の友人たち、家族、息子の友達、
デマゴギ―(政治的効果をねらって流される悪宣伝)に負けまいとすればそれだと思う。

ものごとには、作られた部分と自然な部分と、ふたつの側面がある。
人間は、その両面を考えることができる。だからこれからは困ったら複数で考えたい。
私が考えたのは、、けっきょくそういうことだった。
みんなと話ているうちに浮かび上がる結論は、活字よりもずっと人間的である。

ブログを書いたのが辺見さんだとして、もしもそれが本当なら私は哀しいが・・・、
キモに銘じようとして、自分ひとりで結論を考えたことがよいことだ。
老いを避けることは誰もできない。
肉体とともに頭脳が崩壊していく自分を、叱咤激励して生きていたいとねがう。
家族と友人たちと横並びになって、素朴にゆるやかに思考の「最初の一歩」を歩くのだ。

・・・

2015年9月27日日曜日

これから


安保法案がとおって以来、座標軸の根もとに立たされたような気がしている。
このさい自分の頭でシッカリ考えなきゃダメだ、と思うけれど、
急にシッカリできるわけもなく、欝々とするばかり。

東京新聞の投書欄で60才のマンガ家だという人の意見を読んだ。
「東京新聞よ もっと面白く」
この人のいわんとするところ。
新聞のどこを開いてもデモの写真に安保法反対の記事ばかり。
国民全部が安保法反対のような錯覚に陥る
読者誘導、偏向報道、一種のプロパガンダ・・・。
私のような安保法の是非を決めかねている者には親しみが持てない。
東京新聞は「面白い新聞」であってほしい。etc…

「私のような安保法の是非を決めかねている者」と言って恥じない立場って
スゴイんじゃないの。こんなに大騒ぎになっても決められない60才。
東京新聞には東京新聞の言い分があるだろう。
それが偏った読者誘導だと思うなら、図書館で読売新聞や産経新聞を読んでみて、
そっちの主張も自分で調べて。 あなたが信用するヒトの意見もきいて。
それでけっきょく、自分の考えはこうだ、と。
そういう努力をここまで来てもしない大人って、おかしいんじゃないの?

「来年の参議院選挙がラスト・ワン・チャンスだ」 と憲法学者が言っている。
          (雑誌SIGHT2015・小林 節慶応大学教授・弁護士)

あなたの生活している国ニッポンが戦争をする国になるかどうか。
あなたの国が、三権分立を失うかどうか。
ルールを守らない国会をどうしたいのか。 独裁者を許すのかどうか。
あなたは来年もまた選挙(ラスト・ワン・チャンス?)に行かないんだろうか。
あなたの立場をきめかねて?
そんな60才ってありか。そんなマンガ家ってありなのか。
損得勝ち負け、野党が次の選挙に勝ったとして、あとの始末ができるかどうか。
自分の立場を公表しようものなら雨あられと降ってくるかもの、罵詈雑言もしくは陰口。
もしくは失業。耳をすませばきこえてくる話はホントに嘘ばっかりだし?
心配、しんぱい、シンパイなのね。

日本には選挙というものがある。ありがたいことに無記名投票である。

そんなこともこんなことも、60年も生きてきたんだから自分で考えてみてくださいな。
若い人たちとちがって、あなたは成人になって40年もたった人なんですもん。
いつも「是非」を決めかねて。
気持ちがグラグラして、それがあたりまえと自分を肯定。
まわりもみんなそうなんだし、なにが悪いかと。
そういうことで今までやれたのは、戦争がなかったからなんでしょうが。



「銀の枝」・ローズマリ・サトクリフ・岩波少年文庫 を読んだ。
おもしろくて、おもしろくて3回ぐらい読んだあとで気がついたら、
あとがきのうしろに、もうひとつ、あとがきがあった。

短い文章。京都大学文学部大学院教授・南川高志先生の。
こども向けのよく考えられたすべり出し。話は映画「ハリー・ポッター」から始まる。
読んでみたら、こんなことも書いてあった。
                           *
ヨーロッパでは、最も優秀な学生は古典学を修めて大学を卒業し、社会に出て活躍した。
なぜか。エリートの条件がそれだった。
大学を出た、古典学の教養を持った人が社会を指導するにふさわしい人物という、
そういうものの見方が、19世紀の西ヨーロッパ、とくにイギリスやドイツで広まった。                                                      ー要約ー                    
                           *


それでも、世界大戦が2度。ナチスを抬頭させたでしょ。
人間は望ましい暮らしができる国を、なかなかつくれない。
どうしたらそれができるか、ほんとうにむずかしい。
しかし、そういう人類史の成果を学ぶという、古典的教養をガンコに捨てまいとする国は、
二枚腰、三枚腰で、自分の国のかつての間違いを正そうとするのではないか。


雨の中


道志の「道の駅」に行った。
そこで大根を買いたい。
大根のために崖から転落ってばかばかしいけど。
ここの野菜は大根一本にも生産者の名前がついていて、どんなものも新鮮なのだ。

健がいいよと言って、連れていってくれた。
クレソンとか、木の枝に咲く真紅の実とか、「辛味」とかいうものもある。
それから、あけびを買う。細田さんの昔の思い出の中に、あけびもきっとあると思って。
病院の木下さんはどうやって耐えているのかしら、と思う。

「道の駅」はこれなら山中湖にいってしまおう、というほど山中湖よりであった。
昔はこんな遠い道を平気で往復していたのか。
最初は道志の水をもらいにきて、ついでに道志温泉によったものだけれど、
改築後のありさまがあんまりなので、温泉の場所替えをしたのだ。

そういえば九十九里浜に古い離れ家を借りて、毎年、こどもたちを乗せて・・・。
あの道のりはもっと疲労するものだった。遠いし混むし。
首都高も、箱崎あたりも、その先の京葉道路の混雑も、まーこわくて。
一度など、九十九里から台風の中を運転して桜上水まで帰ってきたのだ。
・・・・あんな中古のオンボロ車に乗って。
子どもたちが平気な顔でいつも通り騒ぐので、いらいらして怒鳴りつけたなーと思う。
子どもだし、運転できないから、安心しきって平気でいる。
横目で窓外をみれば、ほかの自動車も大雨と突風の中をノロノロ運転して、
なにもコワイのは自分だけじゃない、落ち着こう落ち着こうと思ったっけ。

帰り道は短く感じるものだ。
「道の駅」から「いこいの湯」まで、こんどはサッサともどった。

温泉場の広間で、一日、本を読みたおす。
私はローズマリ・サトクリフの「王のしるし」上下(岩波少年文庫)
健は天童荒太の「歓喜の仔」、昨日浜松の駅の本屋さんで買ったものだ。
静かな一日。温泉は雨がひどく降るせいか貸し切りみたい。
連休の最後の日が暮れてゆく。



2015年9月24日木曜日

シュールなマヌケ旅行


小田原までロマンスカーでいく。小田原から新幹線で浜松へ。
浜松から高槻へ行ったのは、「さわやか」というチェーン店に行くためだ。
「さわやか」はいつも行列。一時間ぐらい待たされる。
駅から道をまちがえて、いつまでたっても着かない。てくてくてくてく。
けっきょくタクシーに連れて行ってもらった。

高槻から弁天島へ。駅前のホテル「The ОCEAN」へ。
3時にチェックイン。ベッドが大きくて楽ちんである。
しばらく本を読んでから、舞阪町の脇本陣へ。
行ってみたら終わっていた。
健も私もホテルに帰って本を読む。大浴場が結構いいけど、
弁天島は突然行ったりすると、もうなんにもないところである。
なんでこんな味気ない場所になってしまったのだろう。
クロサワの「用心棒」の宿場みたいな風情。
おっとそういえば、本陣と脇本陣のあった舞阪町あたりは、
かつて参勤交代の際の宿場町として栄え、ついに衰退・・・。

高速道路の大橋がみごとなアーチを描いているけれど所詮人工の産物、
浜名湖の向こう側にある海がおかげで見えないのである。

つぎの朝、また歩いて舞阪町の町営歴史建造物「脇本陣」を見学に。
しかたがない、ここはうちのご先祖さまの家業の跡なのである。
だれもしらないことなので、子どもの誰かに見せておかないと無縁になってしまう。
朝がきて、食事をすませ、また海辺を歩いて・・・。
ところが今日は休館日だという。やってない。

浜辺を歩きながら、もううちに帰ろうということになった。
ばかばかしいから浜松について、鰻(うなぎ)を食べましょうということになった。
なにひとつうまくいかなかったから、鰻ぐらい食べて帰らなければ華がないのだ。
いちばん高い鰻重を頼んだから、健は一生の思い出にすると私は思う。ははは。
それから新幹線に乗って、小田原から急行に乗って。

これはこれでいい旅だったんじゃないの? 楽しかったと思うから不思議である。
健は二冊小説をよんでしまい、三冊目にとりかかった。
私は、ローズマリ・サトクリフの「銀の枝」をまた最初から読んだ。
面白い少年小説なんだけど、名前がごちゃごちゃ、一回だと事情がのみこめないから、
二回読むと今度こそ本当におもしろいのである。
楽しくなかった、という考え方は、親子でしない。よかったことしかとにかく認めない。
わずかに健が、かあさん、今度の旅はシュールだったよねー、と言った。

そー言えばそうよねえ。
これをシュールと言わずしてなんとする?




2015年9月23日水曜日

「闘うバレエ」という本に



「闘うバレエ」(佐々木忠次著)にウラジーミル・マラーホフのことが書かれている。
わくわくするような本なので、読むものが見当たらないと私はこの文庫本をさがす。
マラーホフについて書いた個所がすきで、そこをよく読む。
短いエピソード。
シルヴィ・ギエムは二十世紀後半を代表するバレリーナだが、彼女に匹敵する男性はといえば
ダンスノーブルのウラジーミル・マラーホフだろうと書いてある。
シルヴィ・ギエムはたしかにものすごい。

                            *
「一九九七年、第八回世界バレエフェスのガラの最後に、恒例の余興で、マラーホフがギエムの
『グラン・パ・クラシック』の真似をしてみせた。トウの立ち方から、脚の上げ方、運び方までまった
くそっくりで、見事だった。場内は沸きに沸いた。』

「真似ることは難しい。マラーホフは天才だと思う。ほかの男性ダンサーには絶対にできないだろう。あれだけ難しいことをユーモアたっぷりにできるというのは、テクニックだけではない、プラス・
アルファの資質が必要なのだ。 しかも、マラーホフはノーブルだ。」
                             *


今日、丸善の本棚でマラーホフの伝記をみつける。
天才ソリスト。4才からバレエを始めて、10才のときボリショイ・バレエ学校に入学。
それ以来ずっと家庭ではない世界で生きて、それからロシアを離れ西側でくらす。
マラーホフの舞台をみたことがないのは本当に残念だった。
彼は少年のころから日本にきて、踊るたびに観客をうならせていたのである。


佐々木さんが書いたマラーホフのエピソードになぜだか惹かれるのは、
小さいころ、おなじようなバレエの余興を劇場で見たおぼえがあるからで、
私のユーモア好みは、そういう印象的な機会にめぐりあっていたせいかもしれない。
日ソ友好条約がむすばれてまもなくのあの頃、ガリーナ・ウラノワが〈春〉を踊るのを見た。
子ども心にも、ほかのダンサーとは格がちがうと、感銘をうけたものである。
当時、世界一のバレリーナだと父にきかされたあのウラノワが、
東京バレエ団の先生になって教えた、と佐々木さんの本にあったからおどろいた。

バレエの天才というのは、妖精にちかい。
時々、記録映画を観たりするけれど、人間とも思えないソリストがいる・・・。
などなどと思って、つい本を買ってしまった。


2015年9月21日月曜日

おさんどん


朝早く起きて、部屋にトッ散らかった紙類を無解決のまんま、もとの袋にしまう。
ごはんを仕掛け、出汁を作る。昼のおでんの用意である。
それから床を拭き掃除。ワックスもと思ったけどやめる。
赤ちゃんををつれて、カッチとイマちゃんがくるからだ。
このワックスは無添加だというけど、やっぱりよくないんじゃないの。

洗濯機がとまったからコインランドリーへ行く。
今日はうちでいちいち乾かす手間が惜しい。
ところが自動車から降りたら、乾かそうとした洗濯物がないっ?
玄関に置いたまま忘れてきちゃった! ま、いいかと引き返す。思うに私は無表情。
乾燥に32分間。洗濯物を乾かすあいだに、家に戻ってビンカンのゴミを捨てる。
自動車があってホント助かった。

国会デモと掃除と洗濯とブログを毎日書くこと、それから食事の用意。
この5点セットはけっこう、やってはいるけどコタえる。
私のデモが組織に左右されてなくてたすかった。
ひとりで行って、ひとりで帰ってくる。もちろん時々しか行けない。

一番こまるのがご飯の支度で、苦手なもんだから、うまくゆかなくなっている。
多すぎる、まずくなって、見た目もわるい。
したがって、キッチンドリンカー的。ビールを飲んで景気をつけたりして。
今日なんかも、お客さんがくるというのに自信がなくて不安である。
まずかったらどうしよう。
イマちゃんは仕事が料理人だったからなー。

ひふみクンは人見知りが激しい時期だとか。
玄関に入ってくるなり泣かれたら?
ОJが置きっぱなしにしている鳴り物をあれこれ出しておく。
鈴のおもちゃでしょ、木のおもちゃでしょ。太鼓でしょ、縦型タンバリンもあるし。
そういえば森さんの鏡もうちにある。忘れてるのかもしれないねと健にいったら、
あいまいな顔になった。そうかもしれないのかもしれない、とよく判らないんだろう。
大きくて立派な額にはめ込まれた鏡(古い)を裏返しのまま玄関に 立てかけてあるけど、
裏返しでも風格がすばらしい。忘れっぱなしもいいなと出入りのたびに思う。
来る人が、百万円もする絵を私が買ったと間違えるんじゃないかと思って 。

楽しい一日だった。
彼は、ふくらんだ小さな手につかんだ鈴をちゃんと鳴らすのだ。
鈴や小さな太鼓がきれいな音をたてる。
お昼にどうかとは思ったけど、おでん、ダダ茶豆、トマト、キャベツその他のサラダなど。
赤ちゃんがゆったり落ち着いていたので、私たちはみんな楽しかった。
「入ってきた時のひふみの顔ったらすごくなかった?」
あんな顔になるんだねえと健がいう。緊張ですっごい眼してたよねえと。

始めはそうでも、これならなんとかとひふみクンの方でも、状況判断をしたもよう。
めでたしめでたし。

2015年9月19日土曜日

9/18、国会デモ


こんな時、国会周辺はどんな様子か。
日本の歴史のそら恐ろしい転換点。清濁併せ呑んでいま騒然たる場所。
雨が小降りになってよかったと思いながら、国会議事堂前で地下鉄を降りる。 
早く着いたせいで、議事堂正門まで、ラクラク歩いていけた。
正門前は抗議の人でいっぱい。夜になれば前後左右に動けなくなるのだろうか。
私は議事堂から少し遠い石垣に腰かける。人々の隙間に入れてもらったのである。

あとからあとから集まってくる人を眺める。
今夜は徹夜だと覚悟した人は正門の方に行くのかしら。
私の両脇は、左が静岡から来ましたという奥さんで、右側は温厚そうな老紳士である。
4時半ごろ空が暗くなりはじめ、参加者が4万人を超えたと発表があったが、
それからも強行採決をさせまいと駆けつけてくる人は増える一方である。
ぞろぞろ、ぞろぞろ、歩いては止まり止まっては歩き、ゆっくり国会正門へ移動していく。
集会の主催は「戦争させない・9条壊すな‼ 総がかり行動実行委員会」
    「SEALDs」、「ママの会」、「学者の会」など多数の市民グループが協力。

けっこう長い時間、スピーカーから聞こえてくる声をききながら、
ここに結集したどんな人もビートルズを知っているわけかと、ふと考えたりした。
流行にうとい私がそんなことを思いつくなんて、われながらめずらしい。
それは、ここにいる老人たちが見かけより若い心の持ち主だという発見でもあった。
鏡が目の前になければ、私は私であるだけで、自分のトシのことなど考えない。
本当はひとりひとりみんながそうなのかもしれないね。

集会の司会とコールが市民団体から学生の団体「SEALDs」に代わると、
歩く人も私の周囲の人々も、中高年の誰かれがみんな、少しばかりおかしそうな顔をする。
若い子のコールは若々しく、馴染みのない発音をまぜたりの遊び心が見えるから。
ガイジンふうに 「アーベーゥワァ、ィヤメーㇽロォー」とか。
歩く人も座り込んでいる人も、なんともいえない顔になりちょっとニヤリとする。
自分としては抵抗があるけど、ま、いいよ、というほどの心の動き。
学生たちの参加をみんなが待って待って、そしてうれしがっているのだとつくづく思う。
まあいいか、なんて思う受け止め方は、1960年安保時代の大人にはなかった。
私は高校2年生だったけど、作法は上から降ってきた。

ビートルズのイギリスにおける本格的デビューは1962年ごろ。
ジョン・レノンとオノ・ヨウコの平和運動としてのベッドイン(1969年)に
その時は共感できなかったとしても、のちにジョン・レノンが殺され、
ポール・マッカートニーやボブ・デュランを後楽園ホールで見たり聴いたりし、
大ヒット曲「イマジン」が国民歌謡なみに紅白歌合戦で歌われ・・・、

あの頃学生だった抗議デモ参加者、つまり私たちは、この50年間、
かつての先輩たちとは異なる、国籍不明のユーモアを解する日本人たらんとして、
生きもし、失敗もし、その結果、少しは若者に学ぶ人間になった、ということか。
ろくでもない、金まみれのとは言っても、
私たち70代、80代の日本人は、抗議デモで見るかぎり、
断定よりは理解を尊び、若者をつぶしてなんになるという判断を身に着け 、
ふたたび戦争をする国に日本をするまいと、またここに戻ってきたのである。

歴史はなるほど、必ず前よりは進歩する。そう理解することは、すがすがしい。
すがすがしい、道理にかなった、身の丈ほどの考えを懸命に述べる人々を見れば、
元気も勇気もでるというものだ。
ぜひともデモに参加するべきだと私は思う。


2015年9月18日金曜日

雨が降る日、鶴三句会


朝は鶴三句会だった。
句会はどうも苦会であって、さる人に国会周辺であったら、
「俳句だけど、もうできた?」 ははは、大変よまったくー。

暑気払いだろうとなんだろうと、今年は猛暑だったし、
秋は秋風とともにドスンと感性にコタエて、なーんにも思いつかないんである。
でも、それでもなんだってかんだって、作らないということはないせっかくなのに。

厚顔や ポツダム知らぬ 青鬼灯         斎藤

青鬼灯はホウズキのこと、季語が必須なのでむりに使いましたとは作った人の弁。
なんとかならないかと三國さんがおっしゃり、宿題ということに。
でも、私には青鬼灯という漢字が安倍首相にピッタリという気がしますが。

夾竹桃 切り倒されし 散歩道            加賀谷

加賀谷さんは笑顔のすごくいい人である。頭もすごくいいにちがいない。
先日の団地の臨時総会で発言した時も、そうだ正しい!とついつられてしまった。
この句には抗議を込めましたよ。憤慨も口をとんがらかしてフンガイそのものであーる。

原爆忌 友を偲んで 70年             後藤(夫)

後藤さんがまわして下さった三重野さんの手書きの資料を読んだ。12才5ヶ月の命。
手記というものの、かけがえのなさ。これは三重野杜夫くんをさがしまわったお母さまの文章。
82才で亡くなるまで、押し入れにかくれていたものという。

秋が来るくる・・・夏を残して。
溽暑(じょくしょ)ということばを、はじめて知った。
三國さんご夫妻の俳句はいつだって精緻にして、美しい。

白樺に 霧立ちこめて 夏行けり            三國(妻)

風止まり 刻も止まるか 溽暑かな            三國(夫)



・・・句会からもどって、南部地域病院へ。
木下さんは「処置の最中」とかで、しばらく待合室で待っていた。
逢うことが出来てよかった、少しいてかえってきたけれど、かなしい。



2015年9月17日木曜日

安保法案が成立した場合の恐怖


私の恐怖は、「戦争をしない国・明仁天皇メッセージ」(小学館)に書かれた、
著者矢部宏治さんのことばに尽きる。

矢部さんはこう書いている。
「海外での戦死者240万人」の半数以上は飢え死にであり、
特にニューギニアの大8軍などは、10万人いた兵隊のうち、9万人が餓死した」のだと。
70年前に終わった戦争に出かけて行った日本人たちの話である。
「そもそも旧日本軍の参謀たちには、最初から海外で戦争をする能力など、まったくなかった
といわざるをえないのです。 」

内閣総理大臣安倍晋三という人はどうか。「海外で戦争をする能力」があるのか。
日本の法律をなぜかどうしても守れない人間。
山本太郎の怒りの質問にさえ、答弁がしどろもどろになってしまう、支離滅裂なあの人。
答弁と答弁についての説明が異なっても平気なわけのわからなさ。
シビリアン・コントロール(文民統制)がどうのと新聞は書くが、
我が国の政権代表はこれでも文民なのだろうか、いったい。
ペラペラぺらぺら、平時でもコントロールを欠いている人間だ。

こんな人を内閣総理大臣に、海外で、日本人は戦争協力しようというのだろうか。


2015年9月16日水曜日

国会包囲デモ・感想


きのうは、オランダで暮らす娘はべつとして、私の家族が孫にいたるまで、
デモに参加した。私は昼間参加。息子たちは仕事がおわってから、夜の集会へ。
私の人生もこれで一区切りだ と思うほど、ホッとする。
平和国家転向沈没の危機をまえに、家族の誰かが、今、知らん顔というのはつらい。

鎌仲ひとみさんは映画監督であり、私にとっては大学の後輩であるが、
以前、彼女が試写会で聴衆にこう言ったことをよく思いだす。
「みなさんが運動を成功させようと思うなら、まず家にかえって、夫と話あってください。
サラリーマンはみんな企業戦士なんですから。けっきょく原発賛成派が多いんですよ。
その壁を越えられなければ、反原発運動に勝利するって難しいとワタシは思いますよ」
若い女性が多かった会場は、鎌仲さんからそういわれたとたん、苦笑いが充満、
・・・空気がひるんだようになったのである。

そうだホントにそうだ。でも、難しい、たぶん自分にはできない。
みんな夫を頭に思い浮かべて、ドッと疲れているんだろうなあ、と私は想像した。
だってそれは本当に大変なことだから。

私自身は特殊ともいえそうな家庭で育ち、子どもの時から家の中は本だらけ。
周囲は知識人と文化人のテンコ盛り。高学歴だし、自分の仕事も「理屈」の周辺をグルグル。
そんな私でも、わが子を相手に議論ができたかというと、そうはいかなくて。
母親になってからの目標はまさしく、子どもと議論ができる間柄になりたい、だったけど、
非力なので、ラクではなく、なさけなかった。

それが、別々に、私の家族はみんな、国会を包囲するひとりになったのだ。

今日、国会安保公聴会でSEALDsを代表して奥田愛其さんが意見陳述をした。
その全文を私はユーチューブで読んだ。
SEALDs とは、Students Emergency Action for Liberal Democracys
すなわち、自由で民主的な日本を守るための学生による緊急行動。

国会で彼が語ったことのなかには、こういう言葉があった。
   
   デモやいたるところで行われた集会こそが、「不断の努力」です。
   そうした行動の積み重ねが、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権といった、
   この国の憲法を体現するものだと私は信じています。

   私にとって、政治のことを考えるのは、仕事ではありません。
   この国に生きる個人としての不断の、そして当たり前の努力です。
   私は困難なこの4か月の中でそのことを実感することができました。
   それが私にとっての希望です。

彼はこういうことを述べた。

   私たちが独自にインターネットや新聞で調査した結果、日本全国2000か所以上、
   数千回を超える抗議が行われています。
   累計して130万人以上のヒトが路上に出て、声を上げています。
   また声を上げずとも、疑問に思っている人はその数十倍もいるでしょう。

こういうことも言った。

   政治生命を賭けた争いだとおっしゃいますが、政治生命と国民一人ひとりの命を
   比べてはなりません。

   ひとつ、仮にこの法案が強行に採決されるようなことがあれば、全国各地で
   これまで以上に声が上がるでしょう。連日、国会前は人であふれ返るでしょう。
   次の選挙にも、もちろん影響を与えるでしょう。
     
   「三連休を挟めば忘れる」だなんて、国民を馬鹿にしないで下さい。
   むしろそこからまた始まっていくのです。新しい時代はもう始まっています。
   もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっているのです。

   

2015年9月14日月曜日

伝統の不思議


もしかしたら今日の国会包囲デモで大江健三郎さんが話す。そういう噂である。
大江さんの声をじかにききたい、なにを考えているのか知りたい、そう思う人は多いと思う。

大江さんが大群衆をまえに話す、そういう時、気になるのは、引っかかるのは、
必ず大江さんの先生だった、例えば渡辺一夫先生や丸山真男先生の学問を、
引用し下敷きにして人々に訴える、その姿勢というか順序だ。
直截な話法の他の著名人とぜんぜん違う。まだるっこい、と言ったらよいだろうか。

話法そのものが、
ヒトの意見というものは人類が賢人から引き継いだ知恵の結果であり総体である、
それを丁寧になぞることによって、今日の自分が始まり、そしてここにいる。
大江さんの場合、その結論のうえに、作家大江健三郎の訴えが構築されている。
・・・というふうに感じる。
たとえば真夏のギラギラと暑い日なんかに地面に座り込んできいていると、
気になり、ひっかかるその話法が、
これは「立場 」とか「言論」のあるべき姿かもしれないと厳しく胸におちてくる・・・。
たとえそれがどんなに暑い日であろうと。

このあいだ、高知県の知人がいつものように梨を送ってくれた。
親から引き継いだ梨園の経営者である。
奥さんの話だけれど、従来の品種(たとえば新高梨)以外にも
「いろいろな梨を植えちゅう」 もう絶滅しかかっている昔の品種、あたらしい品種も。
その梨を、たいていの梨園では早く試食して結果を知りたいがために、接ぎ木してしまう。
「けれども、うちでは苗木を植えて直接育てるきに・・・。」
そうやって由緒を護って本来の育て方をすると実がなるまでに何年かかるのか。
「そうやねえ、10年はかかるねえ」
こんど新しく植えたのがなるまで、生きてるかどうかわからん。
疲れた声が、ふざけて、はははと笑う。

話をきいているうちに、大江さんの話法を思い出した。
そういえば大江健三郎さんも四国の生まれだったなー、と。




2015年9月10日木曜日

山崎ナオコーラの「手」


山崎ナオコーラという若い女性の随筆を読んで、闊達自在な、奔流のような筆力に
おどろいてしまい、短編小説集「手」を図書館で借りて読んだ。
まぎれもなく文筆業で身をたてていく人なんだろうと思う。
1978年の生まれというから、いまごろは37才。

「手」を読んで、彼女の小説のヒロインたちの意地悪さに、これはこれで胸をうたれた。

時々、私は京王線の女性専用車に乗るけど、ナオコーラさんのヒロインとおぼしき人たちで
いっぱいだ。通勤時間帯だからか、幸福そうな人なんかいない。
たいていの人がスマホでゲーム、あるいは、眠って、病的で、険しい顔をして、無表情で、
ふつうの車両よりよっぽど、老人や弱々しい人がいても無関心または無視なのだ。
そして、どういうわけか美人が多いような気がする。シャンプーしたゆたかな長い髪の毛。
細い眉毛。白くて透き通った肌。首に巻かれたデリケートなチェーン。
いろいろな色のていねいしごくなマニキュア。 洋服、とはいわず今はなんというのか、
通勤用としても程がよいし、帰りに何処かによることになっても適当な素敵なドレス。
用意周到に考えられた、欠点の見当たらない武装、仕事にも、男にも。

能力がそれなりに高い、という感じの人ばかり。ばっかりでもないか。

「この人は、たぶんこの生活費に見合うほどのお金を受け取っているんだろうな」
私は女性専用車に乗るたび、つくづくそう思う。延々都市へと通う女性たちの、
人形みたいな姿かたちと向き合って。
けっきょく、気が付けば自分のものの見方だって山崎ナオコーラと変わらない。
考えていることが意地悪だ。職場での戦いに 疲れ果てているのだろう心に向き合って。

・・・でも私はこの有能な若い作家に意地悪になってもらいたくない。
言論の一端を担う人には、世界をたてなおす義務のようなものがあると思う。
小説は行きずりの人間のスケッチではない。
ただ人々の風俗を引き写すだけのものではない。

そういうことに甘んじている立場は、いま週刊誌の話題となっているサカキバラセイトを
扱う残酷そのものの手法の、さして遠くもない親類である。
・・・現実に一人の、誰かの息子や娘が堕ちてしまった地獄に対して、
もう初めから一切、責任をもたない、向き合わない立場。
文は人なり、という言葉はどんなことで[格言]になったのだろう?
なぜ私たちは、時々、その言葉を思い出してしまうのだろう?
印刷された文字には、あるいは公になる文章には、
つねに人類というものを問い直す責任と,
人間の限界を越えようという希望が、内包されてしかるべきだからではないだろうか。




2015年9月9日水曜日

ルノアール監督の「ピクニック」


映画が始まると、まず川の流れ、である。
おだやかな陽光輝く春の日に、川が膨らみながら、微笑み乍ら、滔々と流れて、
と漢字をつかって描写したいスクリーンはモノクローム(白黒)で、
しかしながら、並外れてゆたかな量感が感動的である。
家族だったからこそのルノアール調。
水の様相が、人間の運命を暗示しているのだとそろそろ観客が思うころ、
借り物の馬車に乗って、商人の一家と従兄弟?が、この川辺の自然の中に入ってくる。

印象派の巨匠ルノアールの絵にある、実り豊かなフランスが、
息子によって、同じフレームをモノクロームで再現しながら、幻想を剝ぎとられ、
芳醇で美しい光景や女たちに与えられた色や光の洪水が、
実はこういう世界を内包していたのかと思わせられる。
パリ郊外の自然と、その時代を生きる人間のさびしくも愚かな交差。
・・・40分ほどの掌編であった。

ジャン・ルノアールはヌーヴェルバーグの父と言われる大監督なのだそう。
オーギュスト・ルノアールの次男だったから、監督の家に行くと、絵のない額が
ところどころの壁に掛けてあったという。
映画の資金繰りに絵を売ったのだろうと、なにかで読んだけれど
才能がすばらしくあって、売る絵もあってとは、ホッとするいい話である。

「ピクニック」は、父と息子の仕事を、映画で融合させようという試み。
しかし完成の直前世界大戦が勃発、ナチスによってフィルムが破棄されてしまう。
(ジャン・ルノアールは、外国へ逃れ、異国を転々としながら映画を創り続ける)
ナチスの占領下、
「ピクニック」のオリジナル・ネガは映画人の手で隠され保管された。
1946年には、若干の編集を加えて(その編集のなんとセンスのよい)、
未完のままではあるが、晴れてパリで公開の運びとなったというからスゴイ。


負けっぷりというものがある、という教えを思い出した。



2015年9月8日火曜日

歯医者に行った日


治療中睡魔に襲われ、はい口をもう少しあけて下さいと
何度か言われてしまった。
治療がおわって、先生が私に「ハイッ、よくがんばりました」とおっしゃったけれど、
なんでもタイヘンな、技術的にできるかどうかみたいなことだったらしいので、
本当に頑張ったのは、先生と歯科衛生士の若い人なのだ。
水がシャーシャー、かぎ針みたいな感じのもので奥歯をガリガリ、
それなのに途中私があんまり眠りそうになるので、とうとう口がしまらないように、
木で作った小さな木枕?じゃないけど、口ざわりのよいストッパーを入れられてしまった。
あら、これは木なの、いいもんだな、助かったと思って、
それでまた眠りそうになるのだから、二人ともさぞいまいましかったにちがいない。

麻酔の始まりに痺れるようなクスリが口中に塗布されて、それから注射。
このあたりからもう、私はのんびりしちゃって、なんの心配もしない。
たいした信頼度、である。
歯医者さんに行くのが楽しい人っているものだろうか。
ところが私はここに来ると歯もよくなって、ストレスがじわじわと取り除かれるから、
帰り、元気になって桜上水から上北沢までひと駅、歩いていく。
とぎれとぎれにだけど、好ましい道が三つあるのだ。
子どものころから好きだった路地と家、・・・昔あった家はとうになくなってしまっているのに、
そこに、なぜか、ポツン、ポツンと、何度も見たいとあこがれるような一軒家が建つ。
ぜんぶとはいかないけれど、そういう「小さなお家」に会いに行く。
・・・伝い歩きの楽しみだ。

雨が降って、勉のパン屋まで歩いたらビショビショになった。
でも、私の好きな家には、白い花や青い花が咲いて、雨に洗われているから形も色も美しい。
壁がブルーの家。淡いブルーの外国の小型車が芝生の隣りに嵌め込んである。
車庫は板敷で板はクルマの分しかなく、いったいどうやって車庫入れできたかわからない。
金網に白い芙蓉の大きなひとむらが咲く家は、松の木のせいか暗いみどり。
庭の木々を透かして私は家屋を眺める。今はもう、誰も住んでいないのかしら。
昔からこの家にはそういう話があったなーと思い出すのである。



2015年9月7日月曜日

1日というもの


朝、私はかごいっぱいのビンやカンを捨てに行った。
カンが落ちて転がって音をたて、急いでひろったけれど、人が見たからこまった。
ビンとカンを運ぶ籐のかごには小さな車輪がふたつ、取っ手がひとつ。
ぜんぶ捨てたからホッとして、かごをひっぱって帰りはゆっくり、
物語のなかのおばあさんよろしく、かごと並んで白い彼岸花を見物。
かたわらを通るたび立ち止まらずにはいられないほど美しい花である。
生成りの花冠が、少し離れてふたつ、それにまだ開花していないもうひと株かふた株。
月日のせいで黄味がかった白羽二重の色がこんなかしらと思うのだが、
花の離れ具合がまたよくて、引き立て役の雑草までがなくてはならぬ緑なのである。


深夜になって、もう眠くてふらふらしながら、DVDを見る。
「ベジャール、そしてバレエはつづく」
モーリス・ベジャール亡きあと、
バレエ団を引き継いだソリスト、ジル・ロマンとダンサーたちの映画である。
ジル・ロマンとバレエダンサーたちが美しいといったらないので、
見とれて、半分眠りながら二度も見てしまった。


一日というもの。朝と夜の間にクルマを運転してみっちゃんに会いに行き、買い物をし、
そこでは白菜とか豆腐とか豚肉とかトマトとか卵とかスイカまで買って、
みっちゃんとは話もしたし今後の打ち合わせもした。東京新聞も読んだし、
「12・12・12」というDVDまで、これはニューヨークはМ・S・Gで行われた
大洪水被災者救済のロック・フェスティバルの(ど派手な)ドキュメンタリーだが、
7時ごろそれも見たので、
私がおば~・・・~・・・さんになってしまうのも不思議はない。


2015年9月6日日曜日

秋明菊が咲きはじめ・・・


猛暑のあとにくる秋はかたい表情で、
何年かまえの秋明菊は、
儚げに秋風といっしょに、ぴょんぴょん踊ったものなのに、
今年は葉っぱも花も揺れもしない。
姫柚子の木には小さい柚子がたくさんなった。
うちの柿の木に、今年、柿の実がならない。
コゲラが飛んで来て幹をつつくけど、すぐ移動してしまう。
幹のところにいてほしいのになー。
柿の木の枝をものすごく詰めたので、シッカリはしたけど、こんなふう。

みんなこの夏を生きのびて、よかったんだけどね。


2015年9月5日土曜日

家族新聞「すいとんの日」特別号


この夏、猛暑のあいだ、みっちゃんは、
安倍内閣の憲法違反と独裁型国会運営に、終始憤慨していた。
戦争をする国にふたたび日本がなってしまうという という実感に、
心底腹を立て、悩み、なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃと言い、
あげく不眠症が深刻化、あまりの愚劣な展開に悔しさと不安で眠れないのである。
家族新聞「すいとんの日」特別号は、そんなみっちゃんの怒りの仕事である。
あの暑いさなか、手紙を書き、原稿を集め、編集し、印刷屋へ行き、そしてとうとう、
おととい昨日と、むかしからの読者の家に「すいとんの日」特別号が届きはじめた。

みっちゃん、あんたはえらい! 堂々としてさわやかよね、いつも通りに!

「特別号」には、反核家族を宣言した本間家みんなの抗議の原稿が載っている。
新聞は6ページもあり、迫力と実行力と抗議と主張とアッピールが折り重なって、
切り抜いたり貼ったりのテンコ盛り。だからなのかどうか読みやすい。
瓢箪から駒ってこう、パワフルってこうなのさ!

私は、お父さんの淑人氏の「主夫のつぶやき」がとてもすばらしいと思う。
みっちゃんの努力を考えても、それぞれ独立して暮らしている娘、息子を思っても、
本間家周辺の読者、たとえば私みたいな、に与える影響を考えても、
家族新聞からこういう文章が出てきたことを、今回の白眉だと、心から祝いたい。


主夫のつぶやきは「戦後70年を生きて」というタイトル。
(ぜひ読んでいただきたいので、ここに載せてしまうことにしました。)


戦後70年を生きて 
                                        本間淑人


 私は終戦の年に台湾で生まれ、翌年引き揚げ船で和歌山田辺に上陸し、父の故郷に
引き揚げました。家族5人で着の身着のまま、命からがらの引き揚げでした。乳飲み子だ
った私にはその時の様子は知る由もありませんが、両親や兄達の話では、故郷に帰り落
ち着くまでには筆舌に尽くしがたい苦労があったようです。
引き揚げて11年目の晩夏、母は49歳で病没しました。病弱だった母にとって、引き揚げ
船での 苦難や、その後の満足な医療もままならない窮乏生活は、耐えがたいものだった
に違いありません。私は戦争体験こそ無いものの、その傷跡を引きずって戦後を生きて
来ました。戦争は残酷の極みで人の一生を翻弄させるとの思いと、国の指導者が賢明で
ないと、人々は不幸のどん底に突き落とされるという思いは、片時も頭から離れることはあ
りません。
 終戦から70年を経て今また 、かつて国策を誤った指導者の一人の孫が宰相となり、ア
メリカに押し付けられたとして平和憲法を忌み嫌いながら、その「押し付けた」アメリカに服
従して戦争の片棒を担ぐという愚かな選択をしようと蠢いています。首相は、すり寄ってくる
チンピラ議員やヒラメ官僚や御用学者で側近を固め、有権者の3割にも満たない支持票で
政権を担いながら、世論の様々な声には耳を傾けようとはせず、立憲主義を無視して破滅
の道を突き進む・・・。こんなハチャメチャな男を指導者に抱える国民は不幸と言うほかに
言葉がありません。

 ところでこの夏、私は息子とポーランドへ慰霊の旅に出かける機会を得ました。
訪れたのは20世紀最大の負の遺産であるアウシュビッツ強制・絶滅収容所です。
 収容所の所在するオシフェンチム(アウシュビッツ)市は、ポーランド第二の都市クラクフか
ら約50キロ離れ、車で1時間余りのところにあります。ドイツ軍による爆撃を免れたためか、
古い建築現物も点在し、収容所の周辺は大量殺りくが行われた場所とは思えないほどのど
かな田園風景が広がっていました。訪問前にナチスに関する資料や、小川洋子氏の随筆
「アンネ・フランクの記憶」を読んだりして、多少の予備知識は得ていたのですが、実際に現
場に赴くと想像を絶し、耳目を覆いたくなるほど凄惨で衝撃的なことばかりでした。このナチ
スによる蛮行が、わずか70年前に生身の人間が、他の人間に対して行ったという事実に身
の毛がよだち、ナチスによる蛮行の罪深さをあらためて感じました。うず高く積まれた無辜の
人たちの旅行鞄、女性の毛髪、メガネのツル、ガス室で使用したチクロンの空き缶等々、な
かでも靴の山の中に幼児の靴が点在するのを見た時には、戦慄を覚えました。また収容所
別棟内の階段に腰をかけ、頭を抱えて泣いている遺族と思しきろうじんや、濃緑の軍服姿で
見学に来ていたイスラエル軍の若き男女兵士がとても印象的でした。

 私たちはさらにそこから数キロのところにある、ビルケナウ第二収容所に向かいました。そ
こはナチスによる究極の犯罪現場と言ってもよいでしょう。ヨーロッパ各地から貨物列車で移
送されてくる罪なき多くの人々を、強制労働かガス室送りかを仕分けた現場に立った私たち
は、30度を超える炎天下にも関わらず、しばし暑さを忘れ犠牲者に思いを寄せながら、追悼
の祈りを捧げました。
 今回の訪問では、二人の日本人の方に案内して頂きました。お一人はアウシュビッツ博物
館に勤務する唯一の日本人ガイドの中谷さん、もうお一人は、日本美術・技術博物館に在籍
し、現地で活躍するテンペラ画家宮永さんです。このお二人の丁寧なガイドにより、無事訪問
を終えることが出来ました。
慰霊を終えてホテルに戻りテレビニュースをつけると、画面は衆議院が安保法制を強行採決
したことを報じていました。
 一方地元ニュースでは、1万人を超えるユダヤ人をアウシュビッツ収容所に送り込んだ罪で
本人不在のまま死刑が言い渡され逃亡の末、晩年に捕えられた94歳のナチスの元将校に
あらためて禁固4年の刑が言い渡されたと報じていました。

 戦後70年たっても戦争犯罪人を許さず、責任を追及する国がある一方で、戦争遂行の総
括もせず、自らの責任を明らかにすることなく「1億総懺悔」とごまかしながら連綿と続く日本
の為政者たち・・・。
 戦争はいやだという若者に、利己的だと悪罵を投げつける同世代のチンピラ議員・・・。
 無謀な戦争により辛酸をなめた市井人として、平和憲法と一緒に古稀を祝う特別な1年に
したいと考えています。




2015年9月4日金曜日

うり二つの新聞投稿


鶴三会のお仲間に中村さんがいる。
老人万華鏡のような、不思議なお方である。
筒につけられた丸い小さなガラスごしにからくりの奥をのぞけば、、
色とりどりのキレイな破片が楽しく動いて、そこに見果てぬ夢がといった具合。
折り紙のキリッとしたカラーのような、中村さんの破片。
それはミャンマーにユメを賭ける老いたる中村さんの気概であったり、
民主主義というものについての実行をともなう考察であったり、水を造り出す特許であったり、
昔とった杵柄の「高砂」を謡える力量であったり。
このお方は、どういう紆余曲折のすえ、こういうお人柄になられたのであろうかと、
それで中村さんの俳句を拝見しなおし、あらためて立派だと思ったりする私である。

手術をして、心臓にペースメーカーを入れたとおっしゃるから、
ミャンマーにも、ふたたび行く日が来るはずと、私は中村さんのユメに便乗している。
いつか、いつかとわくわくすることは愉しい。

今朝の朝刊を読んだら、鶴三句会の帰り道、中村さんが私におっしゃったことが、
まるで「聞き書き」したみたいな具合に、投稿欄に掲載されていた。
39歳の板沢理恵さん・藤沢市の自営業従業員。以下は彼女の文章である。
 
                          *

 今この国は戦争のできる国になろうとしている。しかし、戦場に行きたい人は一人もいない。
 一方、日本は地震・火山の大国で、地震や噴火の研究が世界で最もすすんでいるのではな
 いか。・宗教国家でない・という世界でもまれにみる特性も日本は持っている。
 そこで自衛隊を国際救助隊に組織替えし、天災に限って、どこの国へでも飛んでいき、救助
 活動を行うようにしたらどうだろうか。軍事予算を考えれば、救助や天災の研究費を大幅に
 増やすことができるはずだ。
 結果的に丸腰になるわけだが、自らの国に駆けつけて救助してくれる国を攻撃するだろうか。
 ぜひ国民投票で全国民に問うてほしい。

                            *

見識のある起承転結、文章のまとまり具合、それに簡潔さも好ましい。
耳からはいってきたお話が、見知らぬ女性の文章になって立ち上がっていることがまた、
私としてはすごくうれしいことである。賢い人が多いほうが安心だもの。



2015年9月3日木曜日

違和感


大学時代の友人が骨髄異形成症候群だという。

・・・ながいあいだの友だち同士で、
むかし近所でよく一緒に遊んだ、というような言い方がまあ実感にちかい。
近しいようでいて遠い人、私がお世話になるばっかりの。
彼女は下町風の情緒ゆたかな大家族育ち、私は東京郊外のピリピリした一人っ子。
それはもう感覚的に当然の違和感があるはずで、
溝のようなものを克服することができず、なんというか、一生が過ぎてしまった。

むかしうちに遊びにきてくれて。
私がケーキ?を彼女にすすめたその時が違和感のハッキリした始まり。
思い出すたび滑稽で、二人して折にふれて笑った話である。
「このケーキ、すごくおいしいのよ 」
私が彼女にケーキをのせたお皿を渡そうとする。
お腹が空いてないからと遠慮したら、彼女にすればちょっと遠慮してみせただけなのに、
「そうなのお? すごくおいしいのになー、がっかり」
本気にした私がケーキ皿をすぐに引っ込めてしまった。
「ビックリしたわよ、私は食べたかったのよ、すごくおいしそうなケーキだったじゃない」
あとになって、それも悩んだ末だろうけれど、彼女が私にそう言ったのである。
放っておいたらこの人のためにならない、タイヘンだと心配してくれたのだと思う。
私も、じぶんは自他ともに認めるヘンなやつだという危機感があったから、
ふつうはどういう言いかたをするものなの、と彼女にたずねた。

「たいしたものではありませんけれど」「おいしくないとは思いますが」
ふつう、お客様にはそう言ってすすめる。
そして、すすめられた方は、食べたくても一応はお断りする。

「えー、食べたいのに断るの、なんで?」
「それがあたりまえじゃないの。礼儀、よ。ただの、つまらない礼儀だけどもね。」
可愛くて、図書館で付け文されることの多かった、遠慮がちな美少女。
私のほうは、ただもうびっくり。
「えー、だって、おいしいからこそ、すすめるんじゃないの。
おいしくないものを出すなんて、そっちのほうがずっと失礼な気がするけど」
そういうことを言ってるんじゃない、と彼女は思ったにちがいない。
私は私で、どう考えてもそんなみょうちきりんなことができるか、という感じ。
でもヘンなのは私のほうなんでしょ?

・・・ ・・・・私たちが違和感をまったくもたずに会話したのは、
65才になって、突然、私が幼稚園の園長になった時だった。
彼女の方はずっと新宿区の幼稚園の先生であり、もうすでに退職して、
研究者になった夫君を支え、母子相談業務を開始し、政治活動も続けていたころである。

ひとときでも、私たちの間にある違和感がまったく消失したことは素晴らしかった。

2011年の私は、園長であるのに職員と対立し、悩みは複雑をきわめたが、
在任中、私は常に、彼女の意見を参考にさせてもらっていたのである。
コツコツ型で誠実な彼女は、都の職員として、組合活動歴も職場での苦労も長く、
それだからだろう、気がつけば、
幼児教育の現場で起こるトラブルの推移をおどろくほどよく理解する人なのであった。
経験も豊富、人脈もたいしたもの。それでいて権威主義など一切ない。
多忙な中で幼児教育の勉強を怠らなかったせいもあり、
夫君の知的で鋭いアドバイスも、あの遠い日の美少女を成長させたのだろう。
底なしの共感力に驚かされたことが、今なつかしい。
青天井がぱーっと開けた、私にしてみればそんな感じなのだった。

私が園長をやめると、また 、私たちは疎遠になった。

大学を卒業してからずっと、私たちはいつでも平行線をつくって生きていたなと思う。
私のヨコにはどんな時も彼女が見えていて、だから特に浮き沈みの激しい私は安心だった。
今になって思えば、 私が彼女の生活のどんな圏外にいようとも、
こまれば相談ができる、なんとか時間をさいてくれる、それに私は慣れていた。

私たちは、二人とも家族のために時間をさかないわけにいかないし、
同じような考え方だから交際がとぎれなかったと思うけれども、
それでも彼女と私では、生きる方法が違う。感じ方もちがう。
たとえ似たような考え方をしていたとしても。
計画し、働き、雑用をこなし、いろいろな人々と関わり、
そうしているうちに、時はただもう、べつべつに過ぎてしまって、
・・・あげくの果てが、骨髄異形成症候群だという知らせなのである。

電話があって、彼女がはやくも身の回りの整理を始めたときいて、
これは私自身の終末の始まる合図だというような・・・。
青空に亀裂が、にぶい音を立てて拡がるのをだまって眺めるというような。
生と死は一直線に並んでいるものなのだ、という考えに私は衝たれることになった。
たとえ治るのにと私が思っても、それは私の感覚による選択であって、
またしても彼女とはちがう選択でしかないのである。


2015年9月1日火曜日

こんな日には・鶴三会


曇天。雨。憂鬱。
こんな日には、
夏のフィナーレに続いて行われた
鶴三会の暑気払いを思い出すと気が晴れるのかもしれない。
わが団地の老人会の小さな集まりである。

句会は三國さんあってのという気がしているけれど、
節目に行われる会ならばそれは平野さんの「おとこ料理力」。
平野さんのメニュー、食材選びの寛容さ、クッキングレシピは、
調理を嫌わない殿方ならこそのもの、
味覚における酒飲みのこだわりを、すんなり、ばらばらに溶解させるのである。
手の込んだ肝心の料理だが、なんと平野コックがぜんぶやって下さるから、
ほかの者は少しのお手伝いさえすめば、あとはゆったり。
考えるとこんな楽しいことってなかなかないわけで。
「ごめんなさい平野さん」
私など村井さんと永瀬さんの真ん中に腰かけ、
テーブルの上の各種アルコールを試しては楽しむばかり。

細田さんの笑い声をきくと安心である。
小林さんが新年からの句集を周到に用意。
なんでこんな手間ヒマのかかることができちゃうんだか。
みんな自分の俳句をさがして見つけると弁解しはじめる。
おかしがって笑いながら、雰囲気というものが楽しくつくられていく。

ゴーヤチャンプルー、麻婆茄子、カブのマヨネーズ山葵(わさび)あえ、
レタスをふた株も使うサラダは出汁で和えてあり、小松菜の御浸しなどは玄人はだし、
どれもこれも食べやすくよいお味である。(もっとあったけれど忘れた)
もちろんこのほかにも、チーズ、生ハム、どこぞの有名蒲鉾、特別な手製梅干し、珈琲、
ヱビスビールにコンクール一等の日本酒、バーボンウイスキー、
ハンガリーの洒落たワインは程よく甘いし・・・・、
御持たせの品々の上等ぶりも、なにやら毎回すばらしい。

会は定刻に始まり、乾杯をすませるや、平野コックがふたたび管理組合の台所へ。
料理は出来立てをだすのがいいんだよという有難いお言葉。
「俺は料理が嫌いじゃないから」
こういう人が晩年の集まりにいるって、なにかこう、人生ってうまくできてる。
見まわすと、どの人もそれぞれ思うがまま。
身を入れて話をしている。なんの衒いもなくのびのび。男の人女の人がまぜこぜ。
一家言とはその人独特の意見をもつこと、ときくが、
その一家言にそれぞれの陰影がみえるところが好きである。 


こういう日もあることが、老年の苦労や心の痛みを耐えやすくしてくれて、
なんとか私もここでやっているのだ、という気がした。
これからも、誰も欠けることなく、と細田さんが挨拶をされたが、
誰かがここから消えてしまったらどんなに寂しいことだろう。

・・・寂しいにちがいないと思えることは幸福だ。
団地の敷地のなかでこんなふうに思う、それは幸運な話である。


2015年8月31日月曜日

国会デモ、怒りと悲しみの日本人


地下鉄・国会議事堂前・4番出口。
外に出たら、なんと30日は車道にまでデモ用通路がひろがっていた!
歩道の真ん中を柵で区切って半分にし、安全のためだとアナウンスしてた警察が、
そんな命令を引っ込めざるを得ない何かが起きたらしい。

新たに車道に設置された柵に寄りかるようにして、
年配の人たちが、辛抱強く傘をさし、シュプレヒコールを繰り返している。
小雨に濡れるのもかまわず、生垣や道路の縁石に腰かけてあるいは立って。
そんな年寄りは多い。おだやかで悲しそうで、悩んだ笑顔の。

たぶんシールズが代表する若い人たちの怒りのデモは、国会議事堂の正面につめかけ、
そこまで行けない人間が大勢立ち尽くす首相官邸側の国会周辺道路・・・。
国会正門へ、抗議集会が行われているところまで、なんとか行きたい。
しかし混雑でどうにもならないし危険だと集会側のヒトも言い、警官も言う。
信号も渡れはするけれど、すぐ歩道を警察が分断閉鎖しているから遠回りの連続。
どうにもならぬ。

メールで尋ねてみると、国会図書館近くにいた友人から、
「酸欠と蒸し暑さと足が痛いのとで、新橋行きのバスにやっと乗って」
と返信があった。彼女は骨髄異形成症候群なのに憲法を守れと抗議に来たのである。
もう一人の友人は永田町の議員会館前の歩道にいると知らせてくれたけれど、
たどり着けそうもないから合流をあきらめる。

創価学会を名乗る人たちが、公明党の戦争協力に抗議している。
怒りもあらわに署名活動をしている。
山口・公明党参議院国会対策委員長を反戦の側に引き寄せましょうと叫んでいる。

坂本龍一さんが群衆に向かって話す。
この人は咽頭ガンのため療養中だから、それはもう有名なことだから、
みんなが、彼はどんな話をするのだろうかと、スピーカーに耳をかたむけるのである。
スピーカーから聞こえる遠い声は枯れて低い。
たぶん、顔色も悪いのだろう。
群衆と病気の音楽家が、このままならぬ人生を、共有している・・・。
政治家とちがい、アーティストの言葉には、彼の人生の真実が見え隠れする。
それが彼らの仕事の根幹なのだから。
老いた私たちの後悔の多いくらしが、坂本さんのイメージに伴走して、
ひととき、人間的ななにか、
ともに苦しんだ思い出のような、それが降る雨にからむのだ。

国会議事堂は国会議事堂だけど、ここは無機質な裏切りでいっぱいの空間だけど。

1960年安保の時代には、こういうことは考えられなかった。
55年前に日本人をつき動かしたものは、真っ直ぐな怒りであった。
戦争が終わって15年。反戦。占領軍への嫌悪。天皇制軍国主義者に対する憎悪。
若い国家だったということもある。
戦争が終わった時、男の平均年齢は23・7歳、女性の平均寿命は34歳だった。

当時、
日本をそんな国にしてしまった後悔は、
死んだ兵士や二度の原爆投下による被爆者たち、国土に加えられた大空襲で死んだ
大勢の弱い者が、引き受けてくれたのだろう。
私など高校2年生。怒っているだけの、見通しも何もないニンゲンだった。

戦後70年の現在。過去の犠牲の上になんとか生きてきたと思いながら、
なぜ自分たちは日本をこんな国にしてしまったのだろう、という個人的な気持ちが、
老いた人々を2015年の石畳に座り込ませている。
動かないぞという気持ちのなんという多さ、悲しさ。
一億総中流なんぞと思わされて。

子ども6人に1人が貧困児童という国。
新学期には子どもの自殺が増えるという残酷な私たちの国家、日本。
三権分立の崩壊、
原発再稼働、独裁、アメリカ追随のあげくの戦争願望国家。

きょうのデモンストレーションに12万人が参加したとアナウンスがあった。
そんな規模なのかどうか、いま立っている場所ではわからない。
本当なんだろうか。しかし、ウソで戦いに勝てると誰が思うだろう?
憲法学者や弁護士や研究者や自由業者、学生と教職員が続々参入しているいま?

考えてみれば、これが今日の
老人たちの怒りと後悔から延々と続いてきたデモの
重要な一面ではないか。
ほそぼそと続けられた金曜日のデモが、3000人に満たないという日もあった。
シールズの登場をどんなに歓迎したか、続く壮年層と若年層の参加にどれほど喜んだか。

70代、80代の人たちはデモの歩道で、
「もう棺桶に片足つっこんでるから」と笑ったりして、
リューマチの、ガンの、手術の、心臓に入れたペースメーカーの話をしている。
枯れ木も山の賑わい、とにかく抗議デモに数としてカウントされたいと言っている。
長い闘いになるのだから、猛暑だから、雨だから、無理はできない、しないと思っている。
やせてもかれても1票の選挙権保持者だという誇りもある。
なんとかして自分の病気をなだめて、また国会議事堂で行われるデモに参加できるよう、
今日をやり過ごすのだ。

また、私はここに来る。
不実な国会に抗議しに、何度でも。
そう思っている。

たぶん今日の抗議参加者は12万人より大勢なのである。
2015年の抗議行動は流動型である。
自由に参加し自由に帰宅。はやく帰る人もいる、遅くやってくる人も多い。
5時を過ぎても国会議事堂前4番出口に、個人参加の人が階段を上って現れる。
あとからあとから。しかも階段はここだけじゃない。階段の数は多い。



2015年8月30日日曜日

猫のブローチつけて


朝からくたびれて、しびれたような感じ。
昨日は自動車を運転、夜の12時半に池ノ上から帰ってきた。
それからご飯を炊いて、午前2時に寝る。
今朝はタケシが10時半までに結婚式場に到着してないといけない。
アサくんがヒトミちゃんと結婚するのだ。飯田橋で。

ロマンチックに見えるかも、とわきによけておいた健の衣類にアイロンをかけ、
でっかいギター・ケースを下げた息子を駅まで送る。
見送って、ハンドルをぐるりとまわし、ああ家にかえるの、もうめんどくさいっ。
今日は8月30日。安倍内閣の「ウソいい加減」に抗議するため、
午後から国会議事堂へ友人と行くつもり。、私は戦争反対だから。

雨が降ってる。
くたびれ果てた。
もうトシだほんとにと、ビショビショ曇天の空をにらむ。
なんでこんなだいじな統一行動の日に降るのか、雨よきみは。
このごろいつもこうじゃない? それもじゃんじゃん降るなんてさあ。

私は、なにがなんでもケーキとコーヒーをどっかで飲んでやると、
多摩市から八王子市のカフェまで行き、手持ちの文庫本などそこで飛ばし読み、
それから家に戻って、ガゼルのダンスのkanako帽子をかぶってみる、雨よけになるかと。
緑の帽子はぶかぶかだけど、国会に行く気だもんね、私は。
そうだ!!、健が昨日買った礼美ちゃんのネコのブローチがあるじゃないの!

これはすごいと私は思って、黒猫の布製ブローチで、
チクタクtikutaku、帽子を縫い詰めて、あおい眼の黒猫を帽子にくっつけ、
昨夜会ったみんなの顔など散々思い浮かべ、
国会議事堂に抗議に行く人は、背後に大勢の友達がいる人だと、
元気をだすことにした、疲労は無視すればいいやと。

緑の帽子は暖かく、ずっしりと、しかし優しげに軽い。


2015年8月27日木曜日

ミッションインポッシブル/ローグネイション


ご存じトム・クルーズ製作・主演のシリーズ最新作を映画館で観た。
息子がチケットを買ってくれて。

映画ですけど。
座席に張り付いたほどビックリしてしまって、うわっ凄いこわいよとそればっかり。
どうしてトムが、いやもといイーサン・ハントが、あっちともこっちとも戦うのか、
そのあっちがアメリカでこっちがイギリスでしょ、そうだけど悪人善人入り乱れて、
どっちの国のだれを信用していいのかさっぱり。
なにゆえトムがどこぞの美人スパイの裏切りを許すのか、
美人がまたトムを一度は裏切ったくせにその都度ヘルプ(という感じ)しちゃうのか、
おたがい恋愛になりそうな気配が全然ないせいか、 どうも解せない。
そのわけを私なんかが考えてもムダだと結論したが、
さっぱり分からないから、凄まじいアクションと壮大な仕掛けに見入っているうち、
眠りそうになってしまった。努力は買うけど強弱がほとんどないもの、
テンポ単調のゆえか、緊張の果ての疲れゆえか、見ててぼんやりしてしまう。
だけど見てしまうのよ、退屈どころの騒ぎじゃないから!

このシリーズを最初に観たのは健がまだ小学生の時だった。
歌舞伎町、たしか? あの時は、私なんか、もっとよくわからなかった。
子どもたちみんなと暮らしていたころ。勉と遥とみんなで映画館に行ったのだ。
親の自分より、小さい健が「ミッション」とやらを理解しているらしい、と茫然としたっけ。

・・・そう、トム・クルーズもトシをとったのだ、とヘンところで嘆息。

だって。全事件が無事終息、収まったとき、くだんの美女がこう言うんだけど、
「探せるでしょ、私を」と色っぽく。
しかし、トム、もといイーサン・ハントは、この美女を探さないだろうなと。
なんかこう、もうアクションで精一杯、くたびれ果てたって顔。
ロマンスまで手がまわらんよ、という気持ちが大画面の中年トムのアップにありあり。
あんなにきれいな優れものの色っぽいスパイなのに・・・。

健に映画館の外に出てからきいてみたら、
なにがどうしてこうなったのか、もう観ている間中、わからなかったと言った。
かあさん、眠くならなかった? ときくので、ついふきだす。
「眠くはなったけど、私はこらえた」
「オレもまあ、なんとか居眠りとまではいかなかったけど」
図らずも、眠ってはだめだと、二人とも思ったわけである。
お金を払って映画館で眠るなんて分不相応だ、ということもあるけど。
一方、あんなにありとあらゆる努力をするトム・クルーズになんだかほだされちゃって。

いいじゃないか、まあ。
それでトムが大金持ちでいられるなら。
べつにファンでもないのにそう思っちゃって。

2015年8月24日月曜日

エンマコウロギが鳴く


明け方の暗い庭で、コウロギかキリギリスが、鳴いている。
まだ心もとない鳴き方で、ソロである。
饗場(えんば)コウロギがなまって、閻魔(えんま)コウロギ、日本でいちばん多い種だそう。
パソコンで「コオロギ」と検索すると、鳴き声まで入っている。

パソコンの再生音声がガラス戸越しに響きわたる。
・・・・ひとわたり機械のコオロギが鳴く。本物にソックリである。
でも、そうしたら、庭のどこかにいるほんもののコウロギが鳴かなくなってしまった。
機械音は短い間でしかなかったのに。

コウロギは気を悪くしたのだろうか?
それとも饗場コオロギは大きな閻魔コウロギにいばられて、
おそれいって逃亡したのかしら。
多摩市の交通取り締まりの警官にわけもなく脅される普通の人みたいに?

つまらないことをしたものだと思う。
キリギリスなのかコオロギなのか知りたかっただけなんだけれど、
パソコンみたいなもので饗場コウロギを圧迫してなんになる?
学校の宿題じゃあるまいし、名まえなんか放っておけばよかったと思うなー。

 

2015年8月23日日曜日

夏のフィナーレ、走り書き


土曜日は団地の夏まつり。
暑いのに都合により11時開始の4時終了。
朝もはよから準備して。

でも楽しくてとてもいい日だった。
ふつうの日には、通りがかりにどなたかと親しく話すってなかなかできないものだ。
でも自主管理組合主催のお祭りならば、
何人かの方と、別にたいした話というわけでもないけどお話ができる。
それはとても楽しい。
食べるモノは豊富にある、飲み物にも不自由しない。
いまさらながら、ありがたいことである。
そう、食料が豊富にあるということ。楽しみながら自由に自分で食べている現在。
お祭りにサンダルを履いて歩いてきて、少しは手伝いもでき、からくも健康!
お酒を飲みながらかき氷、鉄板の上で焼いたイロイロをとっかえひっかえ食べる。
キャベツ、茄子、椎茸、イカ、鶏肉、豚肉、焼きそば、その他その他、である。

まー暑いのにだんだん人がふえてくる。成人して独立し結婚し子どもがうまれ。
娘や息子の家族がこんな暑い日なのに実家のお祭りに参加してくれて。

私がてんこ盛りになった自分のお皿とビールのコップをそこらの台の上にドンと置いたら、
「いやあ、あなたは100才まで生きますよ」
食べ方を見ればわかる、と言われてしまった。いやになっちゃったなー、もう。
そんなに食べられませんと言ったのに、山ほどお皿にのっけられた野菜と焼き肉なのよ。
老紳士たちが生ビールをじゃんじゃん、もう何杯もお代わりしている。
あの人も、あの人も100才まで生きる人だ、女性は長生きするんだからと言っている。
めでたいことです、とか言いながら笑っては飲み、笑っては飲んでいる、開放的である。
30年も続いた「夏のフィナーレ」、
このお祭りを子どもたちのために考えた初代住人たちは、
壮年をすぎ、退職という節目を各人が迎え、老年に至り、いま日常を作り直している。
亡き花松さんが「夏のフィナーレ」というモダンな名まえを自慢してたなあと不意に思う。
ここに引っ越してきて当番理事になったとき、とてもお世話になった方だった。

壮年期働き盛りのパパたちが、鉄板の前でがんばって働いてくれている。
寡黙で、親切で、ものやさしい、かしこそうな人たち。

今年、焼きそばの係りを私は引き受けたんだけど、猛暑に勝てず、
とうとう息子に手伝いを頼んだ。そうしたらタケシがОJくんにも頼んでくれた。
ふたりは10時半からやってきて、団地の焼きそばの「大師匠」にコーチされ、
焼きそば、焼きそば、焼きそば、焼きそば、を作るという一日。
私たちの管理組合はもともと男性主導のめずらしいような集まりで、
参加者も全体としたら男性が多いのではないか。
仕事以外のノンキな集まりで、年配の男の人たちの中に入る一日って、
若者ふたりにとっては、けっこうめずらしい体験だったのではないか。

あーあ、お天気がものすごい。
テントの中とはいえ、鉄板の前に腰かけて、もう半日もたったかと思う。
いま何時ですかときいたらなんとまだ午前中、11時55分でしかなかった。
うわー、これで4時までどうやって頑張るんだろうか、とびっくりした。
鶴三句会の俳句の先生、三國さんが終始、生ビールの係りをされた。ずーっとである。
明日になったらノビてしまうのでは。供給する人と供給される人の両方が心配。
でもまっ、いいか。70、80ともなれば。楽しき自己責任、みんなも私だって。
運営責任をになった理事の方々、本当にお疲れさまでした。
ありがとうございました。



帰宅してから夕刊を見たら、
「世界の平均気温最高」の見出し。
アメリカ海洋大気局の、1~7月までの、分析結果である。
インドやパキスタンではこの夏、熱波による死者が計3千人を超え、エジプトでは今月、
百人以上が熱中症などで死亡したという記事。


2015年8月21日金曜日

武藤貴也衆議院議員 自民離党


私がこの人にまつわる話題の中で、一番腑に落ちないのは、
「値上がり確実な新規公開株を国会議員枠で買える」という彼の発言とお誘いである。

この発言は嘘じゃなくて本当ですか。国会議員は、与党に所属すると、
絶対に損しない未公開株を、国会議員枠で先に買えるんですか?
 

2015年8月20日木曜日

殺人


テレビを見ないので、私はいわゆるニュースに弱い。
今朝は女の人が男性を蹴り殺した、という話をきいた。
「女の人が?!」

女の子の死体が見つかって、一緒にいた男の子は一週間たっても行方不明。
大阪。中一。朝刊の記事を読んでいて、その話の続きだった。

「蹴り殺した女の人って若いの?」
ところが40代の、会社の女社長であるという。
・・・クルマの中で男性を蹴り続けているうちに、相手が心臓の発作を起こして死亡。

「女社長が蹴り殺すの? 殺されたのは若い男? 社員なんだろうね、きっと?」

なんて凄惨きわまりない話だろう。
会社という仕組みのなんという恐ろしさ。
調べてみたら、女社長は47才。死んだのはアルバイト社員で23才。

この話のオゾマシイところは、
23才が、社長に、生殺与奪の権利を、何から何まで握られていることだ。
自公民政権であれ、民主党政権であれ、今日の社会では、
運よく会社に雇われたら最後、ほとんどの人間が失業を恐れ、男であれ女であれ
精神と肉体に加えられる暴力に、抗議もできない、反抗もできない。

47才の女社長が若い男を死ぬまで蹴り続けることができたのは、
会社の経営者や上司の横暴を、断固として許さない社会的装置が基本ゼロだからだ。
文科省の施行する人権教育が根っから劣悪だからだ。
日本が、労働基準法なんかクスリにもしたくない、経営者優先の社会だからだ。
労働組合は、会社が雇った者を蹴り殺す、そんな理不尽を払いのける防波堤である。
でも労働組合なんて、御用組合しか見たこともない人が多いと思う。

あんまりだ。

女社長の人格の欠損というだけの話にしてしまわないでほしい。
鬼畜、というこれから彼女に被せられるであろうベンリな文字が浮かぶ。
死んでしまった23才は、殺されてもしょうがないほど人間存在としては弱かったのだと、
そういう報道をされるのだろうか、それが気持ち悪い。


2015年8月19日水曜日

夜と女と毛沢東


 
高崎で朗読の練習がはじまる寸前、小沢清子さんがポンと文庫本を手渡してくれた。
「読んでる最中じゃないの?」ときいても「いいから」という。

辺見庸と吉本隆明・・・
なんだって。よれよれの文字がいたずら書きではなくて、タイトルなんだ。
なんだって? 夜と 女と 毛沢東?
きこちゃんって、こういう本読むの?

夜と女と毛沢東。それとも、毛沢東 女と 夜と。そう読むのかしら?

はじめから終わりまで対談、という本だ。
たとえば。
辺見庸は吉本氏にこう言っている。
1997年のことである。

84ページ。
  そんな風景(タイの国境近く)を見て、ポッと東京へ戻ってきますでしょう。
山手線などに乗るとカンボジアで戦争してる奴よりよっぽど病的な目をしてるんです
目がですね、ドロリとしてるんですね。何をしたいのかわからない。
せいぜい会社へ行くだけ。会社へ行きたいというだけなんです。
行くようにさだめられているといいますかね。
日本の朝と昼の病理というのは凄いなと思いますね。

 名状し難いほど深い病理が正常、健全として認識されるわけだ、というふうに思うんですよ。
だから、何か突出したような物言いをしたときの叩き方は本当にすごいなと。

85ページ。
 朝、ものすごく早く起きて散歩したり、ジョギングしたりして、もう夜の九時ぐらいに寝るんじゃ
ないですか(笑)

 僕は最近、こう思うんですよ。
ファシズムというのは一般的な常識から言えば、一握りの軍国主義者たちが思想、言論、
何から何まで統制して軍国主義化してゆく現象だということになる。
だけど僕は案外、民主的な手続きを踏んで、円滑に進むファシズムもありうるなと思う。
これは僕の造語なんですが、「メディア・ファシズム」

 
・・・一見健全な昼の偽善のほうが、夜の病より病理としては深いということですかね、
といって始まる「夜」の項、辺見庸氏の発言である。


やだなあ、もう。かんべんしてほしいよ。
           朝ものすごく早く起きて散歩したりって、今の私じゃないの。
           うっかりすると夜の9時に眠っちゃったりさー。




2015年8月18日火曜日

高崎へ


高崎へ行く方法はいろいろあると思うけど、
私は一番安くて故障が少なさそうなJR湘南新宿線の鈍行で。
鈍どん…2時間。いちいち停まる。

きのうは初めてグリーン車、昔でいう2等車に乗った。
1000円で20円がお釣り。プラットフォームでスマホをつかって新宿-高崎間の料金を払う。
座席が上等だから、損じゃないと思う。
どこの駅だったか、枝ぶりのよい、柿のあおい実のすぐ横に列車が停まった。
青い実は青い葉影に、柿らしく、いくつもいくつも枝にくっついていた。
まだ子どもの柿である。
列車の二階席にのぼって腰かけたからこそ、柿の実と私は、隣同士ならんだわけだ。

それから、私はぐっすり寝てしまい、高崎にほどなく到着。
新宿から中野に行くほどもたいへんじゃなかった。

高崎駅で作家小沢清子さん(きこちゃん)と待ち合わせ。
きこちゃんが遅れてなかなか来ないとき、いつも私ってちょっとうれしい。
駅構内のひろい物産展と、その奥にある本屋が好きだからだ。
清潔だし、大げさじゃないし、それでいて近代的。
私は高崎に来ると、そこでいつも帰りの列車で読む本を買う。
時間によっては、買ったばかりの本を読みながら小さいカップの珈琲を一杯。

・・・昨日は二冊。
「戦争をしない国-明仁天皇メッセージ」と「山崎豊子先生の素顔」を買った。

「戦争をしない国-明仁天皇メッセージ」」はきこちゃんに渡す。
私はこの本の出版を、近来まれにみる言論人の快挙だと思っている。
読みやすいし、安倍政権に対する強烈なカウンターパンチだし。
ぜひ読んでほしい! 小学館。1200円。
買って、読んで、天皇家のファンのだれかに貸してあげてほしい。
野上秘書の回想録は、おととい出版されたばかりの、文芸春秋読者賞受賞作。
帰りの列車で読み始め、京王線に新宿で乗ってからも読み、寝てからも読み、
明け方に読み、朝食の前に読み、本日午前中に読了。おもしろいっ。

群馬県高崎市では、民話の会が8/22の土曜日、反戦童話「デイゴの花」を朗読する、
そのお手伝いをしたくて私は来たのだが、
さすが暗記して語ることが原則の集まり、お手伝いはこれで3回目だけれど、
その都度、ぐいぐいと技量を上げるみなさんの底力がやっぱりすごくたのもしい。

自分勝手な感想なんだけど、きこちゃんのお手伝いをさせてもらえて光栄だし、
そういうことがなんとかできる自分になったことにホッとしている。


2015年8月16日日曜日

8月15日・高円寺ドムスタ



パンクの長男の主催で、あきらかにパンクとはちがう系の次男も参加、
高円寺の音楽スタジオ、通称ドムスタで合計6ピースが、5時半からライブである。
それは、ヨースケくんの細君クミちゃんの一周忌に行われたライブだった。
彼女が亡くなって、あとにヨースケと子どものオースケくんが残った。
そのライブの会場に私などが参加できている、ということが不思議。

・・・しかし病気のクミちゃんとヨースケくんを励ますライブの時も、私はいたのだ。
こまったことに、 どっちの息子からもよく説明してもらってないから、
あの日会場で、ヨースケくんがクミちゃんとあいさつしに来てくれたのに、初対面だし、
誰なのかも、なんで有難とうなのかも、私はさっぱりわかっていなかった。

そうだ、あの時、彼女をひきとめて私は言ったっけ。
「あなたのダンナさんってたいした人だと思ったわよ、私。
演奏に人格というものがちゃんと見えてる、将来どういう人になるにしてもよ、
私、ほんとうに楽しみに待ってるから」
人混みの中、彼女を引きとめてでもそう言いたい何かが、あの日のヨースケくんの
グラグラした(?)演奏やもの言いにはあった。

・・・いま考えると、当然のことだった。

彼女は、ハスキーな笑い方をして、こたえた。
「ええっホントですか。うれしいです。そう言っていただけるなんて本当によかった。」
戸惑う笑顔が、雑多で騒然としたあの日の空間に、浮かんでいる。
進行しつつある事態をまったく認識しないままだった私の記憶の中に。

そのライブがあって、しばらくして、葬儀が行われた。

                            *

2015年8月15日のドムスタ。5時半。

どこの扉を押せばよいのか、私なんかにはわからない雑居ビルの三階である。
ワイワイぎゃんぎゃん、物凄い音量が厚い扉や天井のどこかから漏れ出て、すごい。
残暑なのか、蒸し暑い秋なのか、空気が毒々しい。高円寺って物語ふうの都会だ。
屋上に行けばと誰かに言ってもらって、そこで演奏をする何人かとスタートまで待った。
知ってる人も知らない人もいた。そよ風が時々なまぬるく吹く。どうしようもない。
やけくそで買って飲むんだけど、自動販売機の缶ビールだってぬるい。
太陽は西の空で、雲の下敷きになったまま動かない。

ライブが始まるとそれは楽しい日だった。
もうちょっとで40歳だとヨースケが演奏の合間に話す。
ヨースケとオースケとふたりで暮らす、その暮らしが細いねじ花のように、
彼の風情に浮かんでは消える。こどもオースケってきっと不幸じゃなく育っていくのだろう。
子どもの彼が会場にいないということもいい。
オースケは子どもらしい生活をして、クミちゃんがいないならいないなりに、
たくさんのことをヨースケと経験しながら男の子らしく大きくなるんだろう。

若さが国家政策の大失敗のもと進退窮まって、今や曲想にもみんなの表情にも
生活のかかったのっぴきならない切迫感がある。
しかし、こういう時にこそ音楽はドンチャン騒ぎをしながら逢魔が辻に迷い込み、
詩の領域に手をかける。
胸に迫る哀愁。我にもあらず浮上しはじめる音楽にこだわる人たちの哲学。

オースケは息子ごしに私もよく知っているマキタくんと一緒に作曲演奏した。
生活苦の反映だか、3曲で品切れなんだって。いかにもで笑える。ははは。
ドラマーがたいした腕だと私は思ったが、彼の参加は亡くなったクミちゃんに頼まれたから。
そこに陽気そのものみたいな闘い方のナガサワくんがこれから参加するときいた。
いいニュース、だれにとっても・・・。
私ってナガサワ氏とは、アページオブパンクの、解説仲間なんである。

時よ止まれ、おまえは本当に美しい、と言いたいような集まりだと思ったなー、私は。
陽気で、それでいて少しの遠慮があって。ざっくばらんなんだけどセンスがよくて。

・・・もういなくなってしまった人、クミちゃんの思い出のおかげをこうむって。
 

                      (ねじばなはねぢれて咲いて素直なり・・・・青柳志解樹)

2015年8月15日土曜日

金曜日のデモ


私はいつも思っていた。
どうしてこうも知り合いにばったり会う、ということがないのだろう?

ところが昨夜はエリちゃんに会った。
娘の学校友達が、一家総出でデモに参加したのだ。
別々の働き場所から、今日は金曜日だから国会議事堂前で待ち合わせしよう、と。
T家の父親の掲げ続けた論理の旗のもとに、である。
娘の中学時代からの、親同士の交際なので、
奥さんも参加、3人の青年になった子ども達も家族としてそこにいるということが、
私には本当にたいした、たいしたことに思われた。

家族でここに居るなんて。
そんなことは、今の日本人には不可能にちかいのではないか。

家族。
言葉というものは約束と私は思ってきたけど、ここに、
国会議事堂の「総理官邸前」という信号の下に、生きる約束がいま存在している。
これはもう、本当にたいしたことだと思わずにはいられない。
私は奥さんのガンコなセツコさんがむかしから好きだけど、ついつい叫んでしまう。
「いやあ、なに、あなたまでいるの!?」
 彼女は今夜がデモ初参加だそう。地味で静かな参加者だけど、一家総出の迫力って
すごいものだと思う。生活の歴史が確実に見えるたいへんな行為の連なり・・・。
だっていがみあわない家族なんてないでしょ。民主主義なんだから。


比べて安倍首相の「反省・おわび」の70年談話をいったい誰が信じられよう?
反省もお詫びもその場逃れの、嘘方便。
安倍の言葉と行為のうらはら無反省ここに極まれり。
ペラペラ、ぺらぺらともう。



2015年8月14日金曜日

うれしいことに、


うれしいことに、早朝4時半に目がさめる。

空を見れば灰色。秋かもしれない、もしかもしか。 これなら歩きやすいと、あたまがさっさと動く。
あたまが、まぐれでもさっさと動いたことがうれしい。たすかるなー。老人としてはよい成績じゃないの。しまってあった靴をだすと、すんなり履けた。よかった、これで今までの運動靴をブン投げて捨てられる。むかしの冬、河口湖畔で買ったスニーカーは、履きやすくてありがたい運動靴だったけれど、今やふくらんでしまってがたがたである。
外にでると、まるごと眠っているような家々。野性のユリが灰色の風にゆれていつか見たかったユメのよう・・・。タネが飛んでふえる幽霊みたいなユリの、白くて音がしない明け方ならではの風情。 
 風、風、風がふいている。
歩いて、坂をのぼり、そうして坂をくだり、むかしからそこにある遊動円木を歩いて渡る。

家にもどって、やおら朝食の用意をするなんて、うれしい朝だと思う。

きょうは金曜日。
なんとかして国会デモに参加するつもり。


2015年8月12日水曜日

元首相たちの安保法案反対


空気が毒々しくよどんでいる。
でも。

朝刊を読んだら、元首相たちが、5人も安保法案に反対である。
おや、民主党の野田元首相の名前がないのね。
野田元首相は無回答で、中曽根、海部、森、福田、麻生さん達とそろい踏み。
えーと小泉純一郎氏は「回答しない」という回答。

・・・「歴代首相に安倍首相への提言を要請するマスコミОBの会」の発表である。

回答したのは、非自民でもって政権代表となった人たちで、今も国会議員なのは
管直人さんだけ。


 

2015年8月6日木曜日

こんな日に原爆は落ちたのか


こんな日に原爆は落とされたのか。
こんなに暑い夏の朝。



 

草取り


草取りなんかできるはずがない、と自分は思うけれど、
通りに出れば、いやでも炎天下で働く人たちが目につく。
どうしてかといえば、息子も、かれのだいじな友達もこの熱気の下で働いているんだと
あの顔、この顔を思い浮かべるのである。
自由に基づくなにかを手放すまいとする若者に今年の夏はいっそう苦しいだろう。

年配の、老人がヘルメットを被って、工事現場の交通整理をしている。
今年の東京は沖縄よりもっと気温が高いそうで、遠目にも作業着の人は苦悶の表情だ。
東京都の都議会議員の政務活動費は都議ひとりあたり月額60万円だというではないか。
公布総額約9億1千万円。
議員さんって、このほかに各自月給が出るのですか?


にがい平和。
草取りをした。
小さな庭なのに雑草でごたごた。
まてよ。夕方だと蚊がブンブン私にまとわりつくんじゃないの?
私は目をすがめ庭を調べる。12時少し前なんだけど、柿の木の下には影がある。
柿の葉やアジサイの葉っぱが風に凪いでいる。

ああ、なんて鬱陶しくて暑っ苦しい庭になったのだろう!
涼しかった時もあったのに、私ときたらそのころは無気力どん底。
がんばって武装して、しいねはるかちゃんがくれたハーブの虫除けをぬりたくって、
帽子をかぶり、長ズボンにくつした、長そでシャツ、クビにはタオル。
熱気がたしかにすごいけど、虫除けと思って準備をするうち、だんだんヤル気になってきた。

カタキのように小笹を伐り、つる草を引っこ抜き、雑草諸君を引っぱって抜いて、
ごろごろしている植木鉢をならべ替えて、土を撒く。
庭仕事をしながら、ゆっくり思索にふけろうと空想したのであるが、
私は気が短くて生来単純だしドーンと暑い。思索なんかまるで出来なかった。
はびこる草がじゃまでじゃまで、それをビニール袋に突っ込むのにまー忙しくって。


2015年8月5日水曜日

現天皇の思想信条について語る本


ある日、約束の時間の一時間以上も前に目的の場所に着いたので、
それはそれでゆっくりできるから嬉しいと、新装の洒落た駅ビルの中にまよいこみ、
エスカレーターで登ったり降りたり、本屋さんにも行って、
とうとう一冊の本を手に取って買った。
120ページ、写真入り、1000円。
どこかでコーヒーを一杯飲もう。
そうしているうちに半分ぐらいは読んでしまえそうである。
「戦争をしない国」。おどろいたことに、明仁天皇メッセージという副題がついていた。

何年か前、オランダの遥のところに行った時、ハーグという街を見聞、
立憲君主制って、わが国の自由・民主党連続たらいまわし固定政権よりずっといい、
という感想を私はもった。
オランダ王家のベアトリックス女王がはためにも断固としてリベラルなのだ。
ナチスにオランダを占領され英国に亡命を余儀なくされた王家の人である。
資本家のなれの果てよりずっといい。ずっとマシ。

日本の天皇制はだれにとってもよくない息苦しく残酷な制度と思うが、
現・明仁天皇は、ヒットラー的自公政権より断固たる平和主義者である。
それはこの本を読めば、よくわかる。
「憲法遵守」「戦争反対」をいかに皇居に幽閉された「象徴」であるのにつらぬき通したか。

「戦争をしない国」ー明仁天皇メッセージ は、驚くべき一冊である。
「なぜ日本は基地と原発をやめられないか」の著者がまとめたというのも素晴らしい。
大々的に売ってほしい、買ってほしい、読みやすいし。
思うにやっぱり、このままでは安保法案は参議院を暴力的に通過してしまうだろう。

それでも本書は安倍晋三に対するカウンターパンチである。
時節柄、秀逸!

2015年8月4日火曜日

一週間ほど前の虹


夜明け、目をさまして、ごくごく水を飲んだ
東の地平にまだお陽さまがいるはずのない時間

コップをもったまま
ガラス戸のところへ行って空を見上げる

空は灰色のはず
小鳥も眠っているはず、まだ鳴かないはず

・・・ところが南の空が少し青くて
春の花のようにかわいい桃いろ

なぜかそこに大きな虹がいる!
どうしてかどうしてか、わからない天変?!

私がびっくりすると
少しの小鳥も気がついておどろいたらしい

囀る声もふだんとはちがう
どうやら小鳥ながらガイジン同士で意見交換

私は急いで外に出たけど、ああ虹はどこかに行ってしまい
東に赤い太陽がのぼり始め

今朝の空にそんなふうにもかわいい桃いろを見たという
幸福ばかりがまあるく心に残った

きっといいことがあると思ってうれしいと
虹を見た人が話しているのも素直がとてもうれしい朝だったのだ




2015年8月3日月曜日

傑作な体験


彼女は私より先にバス停にいた。日蔭に立って、汗だく。
私がバス停に行くと、むこうは銅像のように緊張。
ふとった女のヒトに悪い人はいないとなんだか思って、
「あついですね」
または、
「バスは(定刻に)来ないんでしょうか」
ふたりっきりなのに黙ったままだと息苦しい。
私がバスの悪口のほうを選ぶことにすると、たちまち 相手はいい感じにせせら笑って、
「遅れてくるんだわね、こっちが間に合わないと知らん顔で行っちゃうけど」
女ながらに渋い声である。
「そうそう」
それから私たちはうちとけて猛暑の品評に話題を移し、カユイ、ということになった。
毎日がなんだかカユイ。
うちにダニがいるのかもと私が自分の疑問をカミングアウトすると、
「ほんと!?」
彼女は本気になって、じぶんの家もそうかしらと考える顔になった。
そしてダニコロリみたいな薬品をまいてるけど効かないわよ、あれはねと言った。
ダニ用の殺虫剤が薬局に行っても見つからないと私が言うと、
「そうでしょう、見つからないでしょう?!」
私は笑いそうになっちゃって、
ダニはでも、噛まれた跡が二つ並んでいるからスグわかるじゃない、と言った。

おかしいのはそれからだった。
「それなら、いま、噛まれた跡があるんだけど」 と彼女が言う。
見せようかしら。おっぱいの下なのよ。
べつにへんな話じゃないしと、わさわさ、手荷物を持ち替えたりしている。
暑いのと、汗だくなのと、世間話なのと、バス停という公共広場なのと。
ヘンな話じゃないのかどうか、 ヘンだとしても断るのも水をさすようだし。
まあいいか。はははは。それで私は言った。
「そうね、見てみようかな。」
ふかふかしたギャザーのブラウスの下にふとった白いきれいな胴体・・・。
 じろじろ見たけど、バスがきたから、ダニの噛み跡までは見つからなかった。

なんだか最近はいい人が増えた、と思える午後だった。
武蔵小杉まで行くと私がいうと、彼女はすごくにこにこした。
いいところで懐かしいわ、と言ってくれたのである。


ブログ復活


朗読発表会のあと、ばったり文字を自分であやつることができなくなった。
パソコンに向かうこともできない。
早朝、私の場合5時ごろだけど目をさまして、今日こそは、と考える。
たとえばブログ。お世話になった人への手紙。
ところが次の瞬間、どうしてもできない、しないだろう、と思っちゃう。
脳みそにそういうスウィッチが設置してあるみたいだ。
計画をたてると、反射的にやりたくないかどうか、自分で自分に尋ねてしまう。

厄介じゃないの、まったくっ!
しかし、もがいても、あがいてもそうなるのだ。
いつからそうなったのか。
これは私だけの脳内パンクなのか?
ヒトにきくと、みんなが自分もおなじだという。

でもさあー。このくだらない自問自答をやめたら?

必死で思い出せば、最近の私には、いいところだってあった。
なによりも、朗読発表会をみんなで(二か月がかり)敢行したのである。
70人余の参加者、椅子がたりないほどの盛況。
人間関係の確認、幸福な思い出・・・。

いま私は、
掃除とか洗濯とかアイロンとか、それからご飯の支度とか。
買い物、各種支払、病人お見舞い、自動車の修理手配、などなどなどは、
無造作にやれる。会合にも行く。いつのまにか体調をとりもどしたのだ。
国会包囲デモにだって出かけた。戦争反対だからだ。独裁反対だからだ。
これがなんともできにくい時がもうずーっと続いていたのはなぜだろう。

ひところは、アイロンを掛けようとアイロン台までいくのに、
なんだか西公園の小山を登って降りて周囲をグルリと廻って歩こうというほどの、
それほどの決心がいったのである。
こういうことは、医師の診断によって服用していたクスリを飲まなくなったら、解決した。
クスリをやめたら、しだいに脳内のストップ機能が消失したのである。

まー、どんな雑誌にも本にも、新聞の健康相談にも、勝手にクスリをやめると死ぬぞと、
そんなふうに書いてあるから、いいのかわるいのか、こんな方法は。

運動は私ってすぐ挫折するから、ちょっとだけ、始めた。
運動はどうでもいい、とはどこにも書いてないし。
パソコンを二階から食堂に移して、やれやれ、ブログ再開。

 こないだの夕方、
あーあ、私はこれからどうしたらいいの?と聞いたらば、息子が私にこう言ったのだ。
カアサンとみっちゃんはいま人生の一番いい時にいると思うよ、ふたりともね。
そう、自分らしい人たちだよね。だから疲れてるんだろうけど、その気持ちは僕にもわかるけど、
生きてる限り、がんばって書かなきゃダメだよ。


2015年6月20日土曜日

鶴三句会(6/18)


とてもよかったことに、句会の日、常連全員が出席。
力量試しの気配なく、そうかといっていい加減な感じは全然ない、それも愉快のひとつ。
故・小沢昭一さん参加の「やなぎ句会」は二十何年も続いたというが、
「といってもこの句会は、実は俳句づくりは二の次で、ただ雑談に笑い転げるばかりの、
まぁ老人クラブのようなお楽しみ会です」 ー話にさく花 小沢昭一著ー
むかしは句会ってどこが楽しいのかと思っていたけれど、小沢さんの伝えたかったことが、
いまではわかるような気がする。

私たちの句会は、まさに言うところの「老人クラブのようなお楽しみ会」なのだけど、
それでも、ちょっと、ちょっとまって、といいたいような。
鶴三句会では俳句づくりは「二の次」じゃなく、俳句をめぐっての質問感想などで進行、
芸達者がいるわけもないけど、あるがままにそれぞれがのびのびと思うことを言う。
参加している人々の苦闘?の人生と、なんとかそこをくぐり抜けてホッと一息といった、
いかにもの温かさと謙遜が基底にあって、句会は危うく雑談に流れそうでいて流れない。
なんといったらよいのだろう、私は不思議に安定した句会という気がしている。
私たちはみんな運がよいのだろう。
俳句を通して、おなじ場所にくらすヒトを今までよりずっと理解するようになったのである。

今回は三國さんが、だれそれの俳句のたび、急に私たちに質問。
「いまの句をどう思いますか?」
冗談はやめてほしいなー、もう。
ドッキリしちゃって、私なんか当たりませんようにと祈るような気持ちだった。
俳句は自分たちの作である、いいのもあれば、そんなでもないのもある。
しかし批判がましいことを言うにはなんといいますか百年早いでしょ。
私なんか、もともとピントが狂っているから、

春の日や サンデー毎日 多忙なり          平野

これなんか意見をきかれなくって本当によかったあ。
退職後は毎日が日曜日、それはそれで多忙な日々であるという句なんだと、
説明を聞いてやっと理解したけど、 自由業でずっときたもんだから実感が乏しい。
なるほど、いっときそんな流行語もあったっけ。
ひと目みた最初は、「週刊誌」がなんでここに、と内心トンデモないことを思っていたのである。

八重桜 月の明かりに 影深む            三國
八重桜 もの憂く咲いて もの思い          川上

ヒトはたとえばソメイヨシノよりも、八重の桜を物憂いと思うのだろうか。
八重桜よりたとえ満開でも桜のほうが私には寂しいのだが。

なお今回の傑作は自作をアッサリ忘れてしまった後藤婦人で、
覚えてない! ぜんぜん知らないわ! と断言。
「たしかにあなたの句ですよ」と先生に言われて、みんながニヤニヤしている。
後藤さんならばご自分の俳句を忘れたってなんの心配もいらない。
ほかのことは人一倍バリバリとできるのだから、記憶がすっ飛んでもОKなのである。
今日だって後藤さんのたてた珈琲で、緑茶のあと、私たちはうれしく落ち着いている。

母の日の 香りひろがる 甘き菓子           後藤

「思い出したっ!」
後藤さんは、カンラカラカラ、自分で自分を笑っちゃって、
「ケーキじゃなくて羊羹だったんですよ!」
母の日にお嫁さんがプレゼントしてくれた甘いお菓子ごしに記憶がもどったらしい。
それがおかしくて、みんな、ヤレヤレよかったとまた笑った。

今回は、季語の説明は省略するほうがよい、と教わる。

梅花藻や 清流の上に 花咲かせ             木下

梅花藻(ばいかも)は本来、清流に咲く花である。したがって、清流の上にという説明は不要で、
できることならほかの言葉をもちいたほうがよい。
「清流の上に」は、たとえば「わが思い出に」とか「わが追憶に」とかいうふうに・・・・。


    

2015年6月13日土曜日

閑話休題


毎朝5時まえに目がさめてしまう。
小鳥が、いつまでもくりかえして楽しげな声で鳴く夜明けだ。
耳をすませば、ほかにも鳴いている鳥がいる。
地上は小鳥の声でいっぱいなのかもしれない。
そんなふうに感じたことのない暮らしだったと思う。

そんなふうな・・・なつかしい思い出はひとつだけ。
月のきれいな晩だった。
家に帰ろうとして先生のお宅をでた。
路地を出たところがそのころは畑で、黒い土ばかりが畝になって広がっていた。
そこにガマガエルが一匹いるのがわかった。
住宅地のなかの畑は、坂道のとちゅうにあったので、コンクリートで土留めしてあり、
ガマガエルと私は目が合いそうだった。
私は目をこらしてガマガエルを一心に見たが、
ガマガエルのほうは私に見られているだけのつもりらしかった。
おそらくは、かの生き物も、月を見物するのかもしれない。
そういう考えがとりとめなく浮かぶ深夜の、

あの大きなカエルと空の月とのあいだの長い素晴らしいほどの距離!

都会育ちとは仕方のないもので、
そんなこんなをだいじにせず、ひたすら本の世界に逃げ込んで、
今日の日が来たのだと、
私は思う。






2015年6月9日火曜日

6月28日/ 朗読発表会開催



お知らせ

朗読発表会を6月28日(日曜日)にいたします。
ご参加いただけると、うれしいです。

日時     6月28日(日曜日)
        午後1時半オープン  2時スタート 5時まで
場所     多摩センター駅(徒歩5分)ココリア多摩センター三越5階
        おしごとカフェ・キャリアマムホール
            ー電話042・389・0220ー     ユザワヤ右奥、HIS隣り 

参加費             500円(飲み物・お菓子つき

連絡・問い合わせ             -電話 042・371・2286- 久保

朗読とバザー、それから物々交換も(不用品と不用品の交換・一品ご持参ください)。
絵の展示、ワークショップ、ОJくんのすごく笑えるヘンテコリンな歌も。



                                                  ********



何か月も前に朗読発表会の日取りを決め、場所も決定したのに、準備がなかなか。
私がとんでもなく立ち上がれなかったせいである。
仮にも主催・久保つぎこサークル、だというのに。
考えてみると、毎年、私は春になると体調が後退する。頭も働かない。
今年も、新聞を読むたび凶悪な世相に平気じゃいられなくって、
自己嫌悪だ、もうトシだ、ブログも始められないと、みっともなくも絵にかいたようなスランプ。
春だからかなんなのか、ふわふわ、くらくらして、目もまわっちゃって。

「いっそ朗読発表会を延期しましょうか」とみんなに相談したら、
決めたことはやりましょうとみんなが言う。すごい。
フライヤー(チラシ)だけは、相談した日にできてしまった。簡単だった。
パソコンの使い手が2人いて、おっそろしく優秀なのだ。
そうこうするうち、誕生日がきて私は72才になった。72才ってどういうトシなんだろう?
まー、いいや。やるか、がんばって!
それで、集まってはじゃんじゃん稽古をする。
朗読する作品も、バランスというものがあるからとちゅうで変更してしまう。
変えないですんだ人は、けっきょくひとりしかいない。
お客さんを退屈させたらこまる、明るくて楽しくておかしな発表会がいい。


バザー用品も洒落たものが集まってきて、眺めるうち単純にも元気になってきた。
絵を描く人もいる、絵も展示し(売るし)、ポストカードも売ろう。おーい礼美ちゃん手伝って?!
福島出身のハルカさんとピョンちゃんの歌声はあたたかくって、のんびりしている。
私は若い彼らをライブの会場で知ったのである。

そこで朗読発表会のプログラムはざっと、こうである。           


  

                      *********

   
     まず開場すると、ハルカさんとピョンちゃんがのんびり歌っていて。


               プログラム     

 ⑴ 内田百閒「王様の背中」        ・・・・・中 深乃   
  ん、ん? 百閒先生の童話。幼い王様の背中が痒くて痒くて、かゆいカユイッというお話。

 ⑵ コロッケ 「母さんのあおいくま」    ・・・・・太田友子
  ご存じ物真似の天才コロッケの自伝の序文(プロローグ)、さすがの文章。

 ⑶ AKI 「ぼくのライオン緑いろ」    ・・・・・久保田万里
   知的障害者で画家のAKIの本から。娘と息子が一緒に出演。いい風景です。

 ⑷ まどみちおの詩「こっちとむこう」「タンポポ」   ・・・・・木下満子
   木下さんは、今では右手しか自由に動かせない。気概とユーモアと勇気の82才。

 ⑸トミー・アンゲラー  「すてきな3にんぐみ」   ・・・・・野田恵子
   今回はオランダ語版大型絵本を久保 遥訳で。これってボランティアの元祖本?

 ⑹著者??だれでしょう   「日本国憲法・前文」     ・・・・・萱野宗子
   だれが書こうといいものは残る、戦後すぐの日本語は難解だけれどとてもきれいだ。

 ⑺ 東京新聞の「平和の俳句」より20句   ・・・・・本間美智子
   反戦の紙つぶて。新しいデモのかたち。なんと朗読者の句が当選したのでそれも披露。

       
休憩30分・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ バザー、お茶、などなど。   
 


 ⑻ОJの歌  「会社面接」「宗教」
   ライブで一度きいて大笑い。それで出演交渉をしました。パンクです。

 ⑼久保つぎこの朗読ワークショップ
       
   
 ⑽群読     清水崑作 絵本「ぼんやり山のぼんたろう」
   こんな子どもの出現を私たちは待っているのですよね。
   自然で欲ばりじゃなくて力持ち。子どもなのよ。名まえだってぼんたろうよ?
                                       (鳴り物入り~)  
 ⑾ おしまい 

             5時から 引き続き会場のみなさんと交流会を1時間ほど。



 以上よろしくお願いいたします。       

2015年5月27日水曜日

下級医師


私がかかっている歯医者さんは、一人でいろいろなことを考えるという。
たとえば医学の世界で歯科医師の位はどちらかというと低い。
病原菌に一番ふれやすい口中の治療であるのに、インフルエンザの予防措置が
内科医、外科医にくらべて放っておかれる。
そんなこんなでぼくは、下級武士ということばがあるけれど、
自分は下級医師ということだろうかと考えるんですよね、と。

私はせんせいから紙片をいただいて、財布のポケットにいれている。
治療後、私のなかなか治らない癖を改良しようと、先生が話しながら書いたメモ書き。

話の内容は、たとえばこんなふう。
人間には、クビから上に、目があって鼻があって、耳があるでしょ。
それから舌ね。当然口も ね。頭の近くですから「意」というか、そういうものも。
ぼくたちはそうと思ってはいて、このどこかがワルイと、つい緊張するわけですよ。
ワルイ部署だけで。
でも中国の医学書なんかを読むとね、どうも、歯をグッと噛んでしまうような時だけど、
このぼくたちが備えているそれぞれの部位にも「識」を任せろと。分かちあってもらいなさいと。
そう書いてあるようなんですよね。
ぼくはまあ、よく解っているわけじゃないですけども。
そう意識することによって「解」とかね。みょうこう、「妙好人」という境地に至るのかもしれない。

ふーん、妙好人・・・かあ。
なぜか、治癒もまもなくという気持ちになるから不思議である。

カミュの小説、「ペスト」の主人公である医師リウーは、こんな人だったのかもしれない。
治療を受けた日、歯医者さんからホッとして帰るので、
そのことにビックリしている自分に私はビックリするのである。


2015年5月26日火曜日

鶴三句会、吟行


吟行の試みがあって、少し遅い春、一本杉公園の金蘭と銀蘭を、七人でたずねた。
吟行とは、俳句をつくる遊歩であろうか。

私たちの句会は、野を歩いて俳句をつくることに向いていると思う。
列強というとおかしいが、なにしろ細田さんと宇田さんが鶴牧三の植栽の人、
金蘭銀蘭にしても、うちの団地の日蔭に小さな旗をたて、ここにあると教えて下さる。
アキニレの木と土中の菌ともうひとつ、三拍子そろわないと咲かない花である、
という説明なんかも実際的で科学的。当然私たちの頭は予備知識でいっぱいである。
ちなみに、条件が難しすぎるからこの花は盗んで持って帰っても咲かないよ、と。
そういう花が一本杉公園に咲いているのを見学して作句、という日。 

写真を撮る専門家みたいな小林さんと加賀谷さんが存在するのも、楽しいと知った。
私どもの近所周辺の住宅や小公園 の樹木や花々を、ガイドつきで見て歩くようなもの、
何十年住んでいたってそんなことしないでしょう、ふつう? 
小林さんはその日も自転車だったけれど、まーなんだってかんだってご存じだ。
トムハウスで防災マップを作成したような人だからなのかしら。

思うに吟行というものは、あとの句会がとても楽しいのである。
現像された写真を手に自分以外の人の句をきけば、
過ぎてしまった時間がイキイキとよみがえる。
ままならぬ人生の一部を、何人かで確かに生きたという実感がある。

しかしまあ、そうは言ってもですよ。
歩くことはつらい。帰りながら周辺地域を見学したころはどうなることかと思った。
後藤さんが万歩計を携帯、吟行の終わりに今日は一万歩になったとおっしゃって、
パッパッとすぐに暗算、慣れた口調で「七キロは歩いたことになりますね」と。
そうするとこういう俳句になるのもわかりますよね。

金蘭を求めて歩む一万歩     後藤

七キロも歩いたなんて。俳句はよめなかったが私としてはある種の達成感を獲得した。

私は用心して一本杉公園までは、先生にくっついて歩いたのである。
腰痛のある三國さんなら、ほかの人みたいにポンポン歩かないだろうと思って。
ところが三國さんってけっこう速足、平気な顔をしていたもののたいへんだった。
最初にお話がきけたのはトクだったかもしれない。
三國さんが三國さんの先生から教わったという吟行の心得というか初歩は、
「なにかを作ろうというのではなく、対象が向こうから語りかけてくるまで待て。」
なるほど。向こうから。・・・きんらんとぎんらんから?
でもどうせその場で作句なんかできはしないと、ネガティヴな私としては最初から悲観的。


ほーらね。
ちいさい羽虫のジージーいう鳴き声が気になるばかり。
土の色合いや小笹や、草の弦が小さな花にからまりそうなのが気になるばかり 。
思った通り、金蘭も銀蘭もただもう金蘭と銀蘭であるばかり、
俳句なんて無理だ、「沈黙」という漢字ばかりがチラチラする、ああ、やっぱりだ。

・・・あとになって句会で考える。
ところがこういうことのすべてが楽しいのかもしれないと。
お手上げだったのはなにも自分一人ではない、それも面白いし豊かな話なのじゃない?
私があとから一生懸命になって考えた俳句、否、俳句らしきものが、
同じ目的と時間をもったほかの人の描写に補われて、あの日の思い出は今も新鮮だ。
複合的といえばよいのか、吟行とは不思議である。


金蘭や宇宙の謎を寂として   黎明に光り放てよ銀の蘭
                          
                        (私って目の前の自然がいちいち苦手。)


2015年5月25日月曜日

7千円


呼び鈴が鳴ったので、玄関へ出た。
若い人が立っている。紺のスーツを来てクリーニング屋なんですという。
有名な、だれでも知っているクリーニング業界大手の、今日は出張勧誘なのだそう。
どこから来たのですかと聞いたらば、ずいぶん遠くの場所を言う。素直で感じのいい人だ。
初の出張なのでと、30パーセント割り引きしますからと、チラシを手渡される。

急なことで考えが決まらず、10分待ってください、と頼んだ。
ほかのお宅をまわって、それから来てと。

毎日のように詐欺に気をつけろ、だまされるなというアナウンスが、されるわが町。
バスに乗っても、ゴミの減量を図れ、詐欺に気をつけろと、市役所が学校の教頭みたいに
アナウンスしている。警察だかなんだかの車が、毎日、夕方になると、
「子どもを見守れ」であるとか「愉しい街をみんなでつくりましょう」などと、
ベッタリひどい声の大音響を響かせて、緑陰の道を通り過ぎる。

おまえにいわれたくない、と思ってしまう。

そんなに詐欺サギ詐欺が、この町を駆け巡っているのだろうか?
そうだとしても、それは、我が国の雇用のあり方が絶望的に不公平だからではないだろうか。
政治の不当を、国会も政府も裁判所も、どこかの小川のセセラギみたいなもんだと無視して、
気をつけろ、だまされるぞと、危機感をあおる。アナウンスの声ばかりを増やして大きくする。
そうするとごくふつうに信頼感がなくなっていく。
私たちが人生から学んだはずの庶民的な判断力を、おいそれと使うことができない。
むかしはクリーニング屋をホンモノかどうかなんて考えたこともなかった。

10分が過ぎて、冬物のオーバーやらなんやらをたくさん取りまとめ、
私は勧誘の若者を待ち、衣類を渡し、受領書を受け取った。
相当数あったのに料金はぜんぶで7千円だった。割引率がすごかったせいだ。
この7千円が、ショックだった。
一時停止を怠ったと警察につかまって、払う罰金と同額だったからである。

あのとき警官は3人ひと組で待ちかまえて、ひとりは物陰に隠れていたのである。
私は身に覚えがないと抗議したが、聞きいれられず、
わずか1分か 30秒ぐらいの「時間」ミス?に、7千円を支払うことになった。
自分で試してみるがいい。
二車線の道路に小道から出て行くとき、
ノンストップで左折し、すぐの信号に従って右折できるかどうか。
私が前を行く車に続いて止まらず「一時停止」を怠ったと警官はいうが、
そんな危ないことができるかどうか、パトカーでやってみればいい。

クリーニング屋さんは、何枚もの洋服をあつかい、何人もが働いて7千円にしかならない。

警察はなぜこんなことで7千円を稼げるのだろう?
「このお金はどこへ行くのですか」
警官にきくと、自分たちのふところには入りませんとリーダー格が断言。
ああそう。じゃらじゃらじゃらと、どこかの税金の倉庫へ行くわけでしょうね、きっと。
なんでこんな 隠れたりして卑怯なことをするのかと聞けば、危険だからという。
罰金を安くするとみなさんが注意を怠るからという。
隠れてはいませんと、身に覚えのある顔で、断言だけはする。
ほかの若いふたりはベンキョウになるらしく、だまって立っているだけだ。
  
運転しているニンゲンは、日常いのち懸けだ、罰金の高によって緊張したりしないものだ。

でも、そういう考えは鼻先でニヤニヤと無視される。
「確かに ノルマがあって、摘発する数があんまり少ないと、おまえらナニやってんだと、
そういう注意は受けますけど、べつに強制されてるわけではありませんから」
と警官は言った。

こんな理屈でカネを稼ぎ国庫を潤すなんて。



2015年5月14日木曜日

シュ、シュールな日


マーケットのレジの横で、私のバッグから、ばらばらといろいろな物が落ちた。
ひろい集めて、支払をすませ、「重いよなー」と歩く。
大根だとかビールの缶だとか。車じゃなくて歩きの日になんでこんな厄介な物を買ったのか。
やっとこさバスに乗って、のろのろ降りてうちに着いた。
そうしたらどうよ、鍵の束がない!

しょうがない、外階段に腰かけて、冷凍のエビと冷凍じゃないブリと大根を呪いながら、
尋ねた場所にケイタイでいちいち電話する。車の鍵まで落とすなんて。
ほかのものは全部あるのに家に入れずクルマの運転もできず。
けっきょく、
マーケットの守衛さんが保管してありますと言ってくれて、ゾッとしたのは治った。
よかった、たすかったと、私は次に心底親切な後藤さんの家へと駆けて行き、
お魚を預かってくださいとお願いした。もうよかった、後藤さんが在宅で。
「ちょっとあなた、はっきり言って。
冷凍庫に入れるんですか、それとも冷蔵庫に入れるんですか、どうなの!」
私はのぼせているから、
エビの方は冷凍、ブリの切り身の方は冷蔵庫です、とどなって駆けだした。
つまりバスにできるだけ早く乗りたいのである。

鍵をようやくゲットし、庭で鈴蘭の花束をつくり、後藤さんのお宅にお礼まいり。

後藤家の玄関の木製の重い扉が開く。
「はいはいはい、よかったわね」
後藤婦人はにっこり、台所へと、せかせか急ぎ、
私のエビを冷凍庫から、私のブリを冷蔵庫からとりだした。

その待っているあいだに、私は見るともなく玄関の扉と壁の間を見たのである。

後藤さんのお宅では最近ドアに凝ったインドネシア風の装飾をしたみたい。
うーんと、これヤモリかなゴムか金属製の? トカゲじゃないみたいだと思うのである。
後藤婦人がスリランカみたいなところにいらした時のおみやげでしょ、きっと。
私はその「装飾物」を、じろじろ見つめる。平べったくて緻密な完全体。すっきりして美しい。
後藤さーん、これいいですねえと今やカギもあるし、私はほがらかだ。
「でも、どうしてここに飾ろうとお考えになったんですか、わざとなの?」
ドアのヨコの厚みって場所がすごくリアルだ、危うくホンモノとまちがえそうである。
めずらしい、後藤家ってこんないたづらはしないタイプなのに。

「なになになに、どこ!」
後藤さんのほうは、私を待たせまいと誠実一直線、即反応。
冷えたエビとブリを私にサッと渡して、すぐさま、なになに、どこどこと真剣である。
こういう後藤さんが私はゼッタイ好きで、つい期待しちゃうんだけど、この日も、
「なんですって、なにがどこですって?!」
そう私を問いつめるや、
後藤さんはニコリともせず、ドアのその一点にぴったりと顔を近づけたのである。

あなた、これ!!
あらいやだ、じょっーだんじゃないわ、ぎゃー、いやだ!
ちょっと、ちょっと、これは本物よ、どうしたの、まー、どうしたんでしょ!

ーつまりヤモリがでるのこの団地?

おどろくことでもないのか。
その夕方、私がうちの車のドアをあけたら、ちいさな蜘蛛がドアとイスの背もたれのあいだに、
デリケートに巣をかけていたんだから・・・・。
蜘蛛くんともあろうものが、ばったんと扉をしめられるとはユメにも、考えなかったんだろうか?

でもさあ初夏とはいえヘンじゃない、こんなにたて続けに?

2015年5月12日火曜日

リニューアル


沖縄からもどったころ、ふらふらになった。
あたりの景色がふわふわと、ゆっくり回る。
お花見のころ、がまんができず横になってしまった。

そのあいだにも、いろいろなことがあった。
私の家での木下さんの「たったひとりの朗読の会」は、大成功だった気がしている。
わが愛する団地の人々が10人もきてくださったのだし、朗読サークルの萱野さんと中さんが、
力持ちをやりに参加してくれた。なにしろ車椅子を階段からおろし、上げるのである。
私たちみたいな年寄がそんなことをしようものなら、何日も立ち直れない。
木下さんが喜んだのは、「みんなが待っていてちゃんと運んでもらった」ということだった。
私は胸をうたれてしまった。そうなのかー。
団地って基本的に同じサイズだから、私の家も木下さんの家も、たいして変わらない。
木下さんは安心していた。それもよかったと思う。
だれにとっても安心ほどよいものはないと思う。
川上さんが手書きの「病歴」をつくって、みんなに配った。
川上さんは私なんかよりずっと前から、朗読で木下さんと、お付き合いしているのである。
後藤さんがたててくださる特別仕立ての珈琲をみんなでゆっくり飲みながら、
渡された病歴を読めば、ものすごい難病。
鶴三会で木下さんと俳句つながりの人たちが、じーっとそれを読んでいた。
心配はしていたけれど、手の出しようもない、そういうしみじみとした思いが
すこし解消できた二時間半だった。

木下さんの人並み優れた勇気と努力が輝いた日だった。
萱野さんが、私たちの朗読発表会に出演してもらえないかしらと、あれからずっと言っている。
それほど木下さんの朗読は木下さんらしいものだった。
知的でユーモラス、
ちょっとやそっとでは真似できそうもない理解力でもって、輝いていたのだ。


2015年3月12日木曜日

沖縄に行ってくる


沖縄に、友人がふたり。
ひとりは沖縄の人で、ひとりは劇団所属だったころの友人だ。
同世代で、みんな同じように基本的に「ワリくって 」くらしてしまい、
けっきょくああなんて私はバカなんだろうと思うが、
そう思ったって間に合わない、自分を変えられない、変えたくもない。
・・・みたいな。
何年も前に沖縄にもどった竹内さんと 、この2月に沖縄に引っ越した森山さんと。
沖縄にそういう友人が、別々なんだけど、ふたりになった。

考えてみると、私ってそういう「不器用人の輪っかの中」でくらしているのね。
おたがい同士はみんなべつべつ、知り合いじゃないんだけど。

だれかに会おうとか、どこかに行こうとか。
そういうことは難しい。
沖縄は私には、恥ずかしいことに遠くて。

むかし、家を売って、買うということをしたとき、
世間なみのトラブルに私も出会った。
最終的にお世話になった野村アーバンネットの若い社員が教えてくれたことがあった。
久保さんは友達とおっしゃいますが、
友達にも二種類あると考えると、ハッキリするんじゃないですか?
知人と、友人と。それを分けてみると、いろいろなことがハッキリしますよね。
特にこういう場合はね。
ははは。ほんとにそうだった。

蛍のかごの中に住んでるみたいだな、久保さんの話を聞いてると。

そう別の友人に言われた時にはサッパリ見当もつかなかったけれど、、
(主観的で頭がわるいし滑稽だと言われたような感じがしたけど)
今になると、よくわかる。
私が認めるというか好きな蛍は、
「不器用人の輪っかの中」にいる蛍だったわけである。


2015年3月7日土曜日

春・ヒヤシンス


私はヒヤシンスの香りが好きで。
毎年、お花屋さんの前に長いあいだ立ち止まって、やっと花の色を選ぶけど、
白いヒヤシンスだけひと鉢買いたいとか、高価なものだなあとか。
どの花が健康そうかしらとか、一番いいのはこの鉢かなとか、ぽかーんと考えて、
そうしているうちに、駅の構内の雑踏になんとなく気を惹かれ、
あの人は幸せだと思うとか、ああなんてつらそうな若い人なのかしらとか。

今年は二階の父の遺品の大テーブルの上に
(私はそれを白くペンキで塗っちゃったんだけど)
その上に白ばかりのヒヤシンスを鉢ごと三つ、四つならべた。
テーブルは父に言われて大工さんがつくったもので、上等なところはなんにもない。
今ではベニヤ板を張り付けた角がほんの少し壊れかけている。
父が経済学の「寺子屋」をひらき、いろいろな人たちがそこで勉強したのを思い出す。
勉強嫌いの自分、それから懐かしい父の質素だった望み、理想主義、
私は後悔してもムダな思い出と向き合って、アイロンをかけたり、なにかを書いたり。

今年の冬はヒヤシンスのおかげで二階の部屋のドアをあける時、うれしかった。

花の香りだ。
つかのまのなんとも言えない嬉しさ。
そんなことをしたのは、淑人さんとみっちゃんにコストコに連れていってもらったからで、
ふつうの花屋さんより値段がすごく安いとビックリして、思わずつられて。
一鉢買うのがせいいっぱいだったのに、三鉢、つぎに行った時また一鉢。
ははは、とんでもないことだった。

でもなんで温室ではヒヤシンスをあんな花房の大きいものにするのかしら。
その方がきれいだから? 茎と葉がいまにも花の重みで折れそうだ・・・。
花が終わると、3月ごろ庭のどこかに苦労して、球根を植える。
庭がハンカチみたいに小さいので、うっかりすると他の球根をひっかいてしまうのである。

忘れたころに、忘れた場所に、小さなヒヤシンスが7分の1ぐらいの花を咲かせる。
去年やおととしの、ピンクや紫、それからもちろん白い花。

小さな香りがやっぱりして、そうやって咲いてくれる花は可愛らしく、素朴でまたいいのである。