2015年1月27日火曜日

日曜日のライブ、ピンポンパンク


西荻で行われたピンポンパンクのライブは、
非常に重量感のあるものだった。
各バンドの演奏の充実ぶりときたらたいしたもので、
優れた技量、真っ当至極のヒネくれ振り、荒唐無稽、嘲笑、冗談、軽蔑、などなどなどは、
演奏者たちの狙いどおり爆発的に会場を直撃し駆けめぐって、
主催者アサくんのいわゆる「オーディエンス諸君」を、私もその一人だったが、
愉しく有頂天にした。

これは彼らの周辺が、みな20代どころか30代も半ばを過ぎ、
40代の大人に移行しつつあることと無関係ではないだろう。
魂と技量の円熟期がやってきたのだ。
ここからが黄金期、見応えのあるライブセッションの行列だと、
今日は楽しんでしまえと各種ビールなんかどんじゃか飲んでいると、
ますますそんな気になってくる、これからに期待してしまう。

それなのにみんなが岐路にいる。
人生の分か去れ道から、係長やら部長やらになりに企業に吸収合併されていくのだ。
離合集散はバンドの常で、覚えている限りの昔からこうだったとは考えるが、
2015年の二者択一の厳しさは実に深刻である。もうバブルの泡もない時代だ。

思うに音楽とはユメのような物質で、
生活の苦しさにギリギリと締め上げられれば締め上げられるほど、
音質はやわらかく純粋になり、主張は強靭になって人の心をしっかりと捉える。
ああ、苦しい。ああ、なんてばかばかしい。
美しいものが絶対的にキープできない世の中で、大事なことをあきらめて生きるなんて。
いったいそういう時はどうすればよいのだろう!

「オーディエンス諸君」の最前列にいるアサくんを、眺めるのもひとつかなと思ったりも。
彼のビジュアルランゲージとでもいいたいような、音楽的なすがたを眺めれば。
それは私たちに、思えば叶うという生き方や哲学を、思い出させる。
私たち自身を、実に自然な状態に戻し、各人の自由にもとづく自由を強化する。

日曜日のライブ、ピンポンパンク。
最後は当然エッセンシャルの演奏だった。アサくんが私をマイクの前に呼んだ。
あとで考えたことだけれど、ながいことかかってここにたどり着いたという気がした。
ライブハウスで思ってることをいくらでも言っていい、と言われるなんて。


2015年1月22日木曜日

1/18、雨宮処凛さんを招いて


日曜日に、雨宮処凛さんを招いて小集会を開いた。
主催は私、司会も私。
自分の欠点ばかりが目立って恥ずかしく、集会のデキがわるかったと苦しかったが、
しかし、翌日がイスラム国ビデオ声明の日であったから、考え直した。
参加者は、日本が陥った深刻な事態に正面から向きあったはずだ。
雨宮さんがイスラム教について、雨宮さんなりの考えを質問に答えて話したからである。

そこで私の耳には、イスラム教徒は身内が殺されたら7代あとまで復讐するという
具体的な話だけが、コーランがそれを許すのだから、という語とともに、残った。

こういう記憶の仕方は多くの人がそうで、それにも考えさせられた。
ふつう私たちは覚えやすいことだけしか記憶できない者だ。
復讐される。7代あとまで。
雨宮さんが頼んだわけでもないのに、私たちがこういう覚え方をするのは、
集団的自衛権拡大が現実のものとなり、平和憲法がこうも破壊されれば、
日本はアメリカの軍事場面での御用聞きになる、いや、もうそうなり始めた。
そうなればアメリカの敵は日本の敵、少なくとも敵はそう考えるだろうなと不安である。
アメリカの敵はいったいどれほどいるんだろうか。
話し手の言葉は、聞き手の知的土壌に落ちて、記憶となる・・・。

1月21日の東京新聞に、
日本政府と国民へのメッセージ としたビデオ声明文が全文掲載された。

これをジカに目で読んで、安倍首相の軽挙妄動にゾッとした人は多いと私は思う。
前日の1月17日、安倍首相はエジプトで演説。
イスラム国がもたらす脅威を少しでも食い止めるための二億ドル支援だと強調した。
声明文は、安倍首相の中東政策演説に対する回答 のかたちである。
かんたんな文章だ。私たち国民にあてたメッセージでもある。
読んで、国民として自分なりの解決策を考えてみてほしい。

 
               ビデオ声明文全文 

(映像で)
日本の首相へ。日本はイスラム国から8500キロも離れていながら、進んで十字軍に
参加した。われわれの女性や子どもを殺害するのに、そしてイスラム教徒の家を破壊
するのに、得意げに一億ドルを提供した。
したがって、この日本人の命には一億ドル掛かる。そしてまた、イスラム国の拡大を止
めるために、イスラム戦士と闘う背教者を養成するのに一億ドルを提供した。それで、
こっちの日本人の命には別にもう一億ドル掛かる。
 日本国民に告ぐ。おまえたちの政府はイスラム国と戦うのに二億ドル支払うという愚
かな決定をした。おまえたちには、この日本人らの命を救うのに二億ドル支払うという
賢明な判断をするよう政府に迫る時間が72時間ある。さもなければ、、このナイフが
おまえたちの悪夢となるだろう。
                                               (共同) 


私たちには私たちの国是がある。
憲法である。憲法は、憲法に服さない者には公的任務を与えないはずだ。
我が国の憲法はわが国が一切の戦争に加担することを許さない。
武器の売り買いも禁止である。

安倍首相の軽率、彼らの言葉で言うなら「得意げ」な言動が、日本をイスラムの敵にした。
責任をとって速やかに退陣する以外に、この失態をどうやって安倍さんはつぐなうのか。
そんなことじゃない非軍事支援のつもりだったと大臣たちが騒いだところで、
外国人には外国人の受け取り方や論理がある。
人質解放の方法だって、水面下では、国によってさまざまというではないか。

私たちは日本人で淡泊な民族だ。7代継続して復讐をとは考えない。
私たちは暴力を恐れる。復讐もいやだ。
だからこそ、いかにカタチばかりのものになろうと、オンボロになった憲法にもどっていくのだ。
平和憲法をいま一度新しく掲げるのだ。

安倍首相に言いたい。
憲法を守れ。
即刻退陣してこの不始末の責任をとってほしい。
  

2015年1月17日土曜日

「女の平和」ヒューマンチェーン 1/17


7000人を数えたと、女性たちの鎖が国会議事堂の周りを4度目に囲んだ3時、
集会の最後に司会の女の人が叫んだ。

集団的自衛権の拡大に反対し、憲法改悪に反対する「赤い」布切れの、赤赤、赤の人垣は
どことなくユーモラスだった、声は出さなくても高笑いが聞こえてくるような、それが赤。
赤は強靭。赤はすごい。赤は自己主張に適した色合いなのだと風の中で知った。
赤旗の色とまたちがう 、ファッションということばさえ連想してしまう自由気ままな赤赤赤、だ。
大柄な素敵なショール(赤なのだ)のエキゾチズム、赤に合わせたアンゴラの帽子の絶妙な
中間色の配合。かと思えば、どこで見つけたのか真っ赤なすごく大きな扇子なんか持って。

国会包囲網をつくるべく、たえまなく通る人に見とれ、
「男の方があんなふうに赤いものをつけているのもステキですね」
オリハラさんが気持ちのよい控えめな声でそう言った。
初老の紳士がオーバーコートの襟の両方に、赤い小さなバッジをつけていた。
すてき。オリハラさんは地下鉄の階段を上がったところで知り合った温かい若い人で、
こんな人に会えたことだって、今日という日の本当にすてきに良かったことだった。
なにもかもに気を惹かれて 、私はデモンストレーションを観察した。
思いがけない愉快な時間だった。

私たちはみんな寒くて寒くてガタガタ震えた。ビルの谷間の寒風は政府のように冷たい。
1時から 3時まで、安倍政権に対する怒りと反感と、そして新しく獲得した運動のかたちが、
自分たちが今ここにいて、どうやら呼びかけ人のアッピールに応えられたことが、
国会を囲もうとしてすごくガンコに頑張っていることが、
笑ったりもして怒りながら手をつなぐと、幸福感を出現させるのである。
あんまり寒いから、私たちが風に逆らってギュッとつないだ手には必死の力がこもった。
混じり気のない連帯感を、おかげでみんなが感じたわけである。

こんど赤い「女の平和」ヒューマンチェーンに来る時は、よし、
と私はいろいろ考えた。



2015年1月16日金曜日

こころを静かに


今日、私はなんにもしなかった
洗濯ものをとりこんで、たたんで仕舞ったほかは

朝と昼、勉が作って切ってくれたパンを食べ、ガラス戸を通して
空や冬の木をながめ、ムクドリがいそがしくしているのを見る
祖父の代からの長椅子に横になると
足に陽があたるのでとても温かい
ルーマ・ゴッデンの「アンデルセン」を読みながら
寝ては醒め、寝ては覚め

白い5鉢のヒヤシンスに水をやり
淡いピンクの シクラメンにも水をやり
桜草の小さな白い鉢をわすれていたと後悔し

夕刊がとどくころともなると
「アンデルセン」も266ページ、
ハンス・クリスチャン・アンデルセンが苦難の時期をぬけだして
デンマークの王さまの援助のもと、
遠く遠く旅に出て、童話をかきはじめて と

3・11以後をどう生きる。
日曜日の小集会がせまって、
頭がいたいし、心臓がぞわぞわ、わき腹も傷む・・・
それがどうやらおさまったような 

2015年1月15日木曜日

介護報酬の引き下げ


なんで選挙に行かなかったり、安倍内閣支持に一票を投じたりしたのか。
そんなことがよくできるとあきれてしまう。

連日のニュースは、軍事費の3年 連続増加を伝えている。
防衛予算、前年度比2・0%増しで、4兆9千8百1億円。
一方では、介護報酬の引き下げである。過去最大の下げ幅だとか。
選挙が終わるや、ケロリと国家が、
介護保険事業者に支払う価格をもっと安くと画策する。
これには心底、憤慨した。

新聞の社説によれば、制度開始時より、介護報酬すなわち賃金は2・1%下がっている。
常勤のホームヘルパー、施設職員の平均月収は全産業平均よりも約10万円低い。


火曜日、朗読の練習に木下さんのお宅にうかがうと、
いつもは入れ違いに帰るケア・サービスの人が出てきて、
「今日は、木下さん、ダメですよ」と言った。
車椅子から前倒しに落ちて転んだのだという。
救急車で病院に運ばれて、額を縫ってもらい、帰宅したところだという。
「入って来て」と呼んでくださったから木下さんのお部屋に行くと、
きれいな白髪に血のあとが残り、顔は紫いろに腫れあがって、本当にかわいそう。

でも私が言いたいのは、そのことじゃない。
倒れたとき、自由になるのは左手だけなのに、木下家にはだれもいなかった。
木下さんの闘病生活には、やむを得ない空白の時間がけっこうある。だから、
サービスの人が到着するまで、床に転がったまま、1時間半も木下さんは待った。
血液をサラサラにするクスリを何種類か飲んでいるので、血が止まらない。
おまけに床暖房で温かいから、血液はじゃんじゃん流れた。・・・血の海になった。

でも私が言いたいのはそのことじゃない。
やっと助け手が定時にきた時、床も木下さんも血まみれで介護支援の人は驚倒した。
彼女はこういう事故にまだ馴れていない人だった。
「どうしたんですか? どうしたんですか、木下さん!? どうしたんですか!」
お手上げ状態で、震えちゃってなんにもできないのである。

仕方がないから、倒れたまま木下さんがまわらない舌で指図をした。
恐怖で動転し、ただ騒ぎ立てるだけの介護士に、
ベネッセ(介護保険事業者にあたる)の事務所に電話を掛けるよう指示し、
よく知っているシッカリした人を、誰々さんを呼んでほしいと転がったまま頼んだのである。
でも、私の言いたいのはそのことじゃない。

今だって、彼女彼らは資格を懸命になって取得し、 資格内容に見合わぬ低賃金で働き、
今回のような見たとこ恐ろしい非常事態の責任まで負わされている、
そのことが理不尽に思えて思えてしかたがない。
たださえ介護士の労働条件はひどい。人数だって足りない。
病院の担うべき仕事を介護士に肩代わりさせる無情無責任もあんまりだと思うが、
現状をその上さらにひどくしようというこんな内閣に、いったい誰が投票したのか。
どういう理屈があって、税金を攻撃的武器につかってしまうのか。
介護報酬を働く人から奪うのか。

日曜日だし、家族の団らんを優先させて投票は諦めました、という人のなんと多いこと。

あなただっていつかは病気になり、いつかは死ぬ、
想像力を働かせなくたって明日は我が身と思うのがふつうではないか。




2015年1月14日水曜日

歌にうたわれたちいさな会


ライブ二つ。早稲田ちかくと下北沢と。

早稲田ちかくのゾーンBにはヨッシーが出ていた。
この人を見ると「名もなく・貧しく・美しく」と私はつい熟語的連想をするが、
雰囲気がはかなく、京劇俳優みたいな古典的美形なのに、
胆力という今どきめずらしい美質を備えているオトコはんで、それはうれしい。


思いもよらないことであったが、この晩、彼は、
私が作ったフライヤ-(ちらし)を手に、舞台から歌った。
半年まえアクセル長尾と私が共催した会に出て、すごくよかったからと。
ヨッシーは、
「みんなで話そう、はっきりと   3・11以後をどう生きるか」 の2回目(1/18)を、
遠い早稲田のゾーンBの舞台から、バックアップしてくれたのである。

あーあ、あの会、失敗したと思ってたのに。 
私は感無量だった・・・      

small circle of talk

  輪になって話そうよ 僕らのくらしの事を
 輪になって話そうよ 僕らの未来の事を
 輪になって話そうよ  僕らの世界の事を
 輪になって話そうよ 僕らの自由な事を

⑴ 輪になって話そうよ 話さなくてもイイけどね 
   聞く事によって 新たな気持ちが芽生えてく

⑵ 輪になって話そうよ 上手く話せないけれど
   言葉に出来ずに だんまりふさぎこんでる

⑶ 輪になって話そうよ 顔を向い合わせながら
   お互いの想いとか 感じられる様に

⑷ 輪になって話そうよ ごはんを囲みながら
   色んな笑顔が みんなを包み込んでゆく

           *  リピート

 小さな輪の中だけの話じゃないんだよ
 小さな輪の中だけの話じゃないんだよ


音楽のちかくに身を置いていると、こういうことが起こるのかと、びっくりしてしまう。
私の頭の中で、プツンと苦しい束縛がとれ、くろぐろとして地味ゆたかな日本の地面が見え、
新しくて強靭な、しかもたおやかな雑草や穀物の芽が育つ、
・・・その様子がハッキリ見える、という空想。




2015年1月7日水曜日

「木曜日は遊びの日」


ここのところ、どんなにどんなに探しても、布の上履きの片方が見つからない。
あんまり見つからないので、夫婦げんかしてとうとう離婚したのかとおもう、上履きが。
ピエール・グリバリ(フランス人)にも、多分こんな時があって、だから
「むかし、一足の夫婦の靴がありました。
右側が夫で名を二コラといい、左側が妻で名をティナといいました。」
で始まるおとぎ話を思いついて書いたのかしら。

うちには、子ども時代からの童話がたくさんあるが、グリバリの「木曜日は遊びの日」は、
復刻版がでた時、大喜びして用心に二冊買ったぐらいの本だ。
 ヒトに貸すのか、自分でなくすのか、すぐどっかに行っちゃう比較的うすい岩波少年文庫。
ヘンな本で、挿絵がまたヘンだから、小さい時はあまり読まなかった。

フランスには放浪する生活にあこがれる、なんとも貧乏をきらわない物語がある。
その詩的な、青い風船のような軽さにあこがれることで自己肯定する自分というもの。
ふらふらしていたい。だからふらふらするけど、ふらふらするから、一向にまとまらない。
たいていの人って、みんなそうじゃない?
ピエールとロバンソンという映画なんかすごくグリバリ的だ、人生観が。
主人公のふたりは盗品と粗大ゴミを集めて、海辺にレストランをつくる。
引き取り手のいない老女と、こどもが生まれそうな子連れシングルマザーまでひろいながら。
砂上にできたレストランは屋根なしで・・・みはてぬユメではないか・・・。

まーとにかく、こうも上履きが片方見つからないって、ワケがわかんないわよ。



2015年1月6日火曜日

謹賀新年


やっと、去年鳩居堂へいって用意した年賀状を手にとった。謹賀新年 と書く。
でも、よれよれの文字が書けてしまう。しかも書くにつれて、つい漢字を書きまちがえる。
年賀状としては間にあわないし、老化が目立つと思うし、進捗度だって我にもあらずノロい。
ユーツな劣等感を抱えた状態で書けば、字も、まとまりのないオカシな字になってしまう。
パソコンをかかえて、ラクして生きているからこうなるんだ、と思う。
 
ところが今どきパソコンは、機能を承知して使える人にとってはたいしたもので、
いただいたお年賀状は色彩もすぐれてカラフル(といういいかたはないか)、
それぞれ印刷屋に頼んだよりもスマートなデザインだし、文面も個性的であって、
むかしあった町の印刷屋さんなんか、軽くぶっ殺されてしまったわけなのだろう、と思う。
あのカウンターごしに見えた大小多種類の紙いっぱいの作業場とか、印刷業のおじさんとかは、
いかにもそれらしくって、私なんか子ども心にも好意をもったものなのに。

・・・とにかく、年賀状を書いて書いて、一年に一度の旧交をあたためるうち、
時間が懐かしい人たちの顔とともに私の周りをへめぐる・・・。
忘れないでいてくれたのだと思うと、それがとても不思議。
ああもう、前倒しにつんのめって生きるのは止めたいなーと、つくづく。
いそがしいいそがしいと、あっちに行きこっちに行きして、ご無沙汰ばかりして。

クルマをやめて、歩く。ワードとか言わずに文字は、日本人としては手書きで 。
外食をしない、台所で作る。クスリは飲まない。ぼーんやり読書。

ああ、それでも
去年スタートさせた企画がせまってきているので、気が気じゃな くて。
1月18日(日曜日)1:30開j場  2時から5時まで。
多摩センター三越5階のキャリアマムホール。会費 1000円
「3・11以後をどう生きるか」

私は討論の練習?のため、小集会をしようとしている。
去年6月の試みの続きである。
そのために今回はあの有名な雨宮処凛さんに参加をお願いしたのだ。

オランダの遥に電話したら、雨宮さんはいま才能の絶頂期にある人だといい、
お母さん、そんな人にどうやって頼めたの、ときかれた。
そうよねー、自分でもわかんないわ、と私。
・・・まず本を読んで感心したのよ。 それからさあ、勉と健に意見をきいて。
長尾くんにメールアドレスを調べてもらった。
雨宮さんを直接見ようと、長尾くんに付き合ってもらって高円寺へ行って。
雨宮さんが主宰する会だったの、それはね。
それからやっと度胸をだしてちゃんと頼んだ、すごいでしょ。

うん、すごいけど。よく承知してくれたね雨宮さんが。それってすごいことよ、お母さん。
えー、・・・そんな人なの?!

もう心臓に悪い新年なのである。

 

2015年1月4日日曜日

サンザンオールクローズ


野田さんが一日だけもどってきた。

あけましておめでとうございます、とにこにこして。
鍛えられていますからね、いま、だから元気です、とか言ってる。
気持ちのやさしさが顔にあらわれている人だ。
できるだけのことを、みんなにやってあげようという、すがすがしい笑顔。
いま野田さんは、離婚後のサンザンオールクローズの真っ最中だけど、
(こんな事態をどうさばいていくのかと、私はぞわぞわ・・・ )
ひとつひとつよく考えて、論理的に、逃げずにかたづけようという気配である。
クールが取り柄というか、外科医的判断力のおんな一人、ということになりつつある。
あのねー、すごい。

私がこの人より年少で、この人のあとから歩く者であったらよかったのに、と思う。
野田さんのあとから歩く人は、私みたいな「ムダな努力 」をしないですむだろう。

まあ、あのう、野田さんがぜんぶ、ぶじに、くぐり抜けたらの話ですけども。



2015年1月3日土曜日

中国人のたまり場 1/1


自由になったら人はどこかさびしい。
船にのって横浜港から川崎が見えるあたりを巡航する。
むこうのテーブルにたったひとりで豪華な食事をしている老女がいる。
1時間半の、元旦海の夕暮れ。

なんて横浜と川崎は風景がちがうのだろう。
陽が落ちてしまってさえも横浜は西洋みたい、川崎はアジア的とでもいおうか。

私の背後のテーブルはレズビアンの二人連れだったそうだ。
どうしてわかるの、ときくと
「ひとりが完全に男の格好で、ヒゲをはやしていた」
にせヒゲで遊んでいるのね。ふだんは女の人を演じて有能なんでしょうね。

4時が5時になってゆく。外国船が暗い海に幾隻も碇泊して、
強烈なライトが周囲を睥睨している。海がどんなに油断がならない世界か教えてくれる。

夕食は船を降りてから関内馬車道の中国飯店へ。
初めて入る店であるが、びっくりしたことに中国人がもうじゃんじゃん集まってくる。
若い人ばっかりがじゃんじゃん、飛び交う中国語の喧騒が温かい。
日本人は冷えこんでいるなーと思う。気質が穏やかっていうこともあるのだろうけれど。

へべれけのお爺さんがなんとか入店しようとする。常連らしいけど、お金を見せてもダメ、
筋肉を強調するためかТシャツの若者が、寡黙な笑顔ですっと連れ出してしまうのである。

オランダではこういう店も、もう少し国際的な気安さがあって、らくだった。
オランダ人やドイツ人の友人同士、私たち日本人。中国人も大勢いたと懐かしい。
馬車道のここは、見慣れぬ中華鍋がとてもおいしそうだ。しかしあれも、隣のテーブルで、
日本人のマッチョな彼が、赤唐辛子のスープに手をやいて、ふーふー言ってる。


馬車道の夜が深けててゆく。帰り道にはベンチに腰かけたホームレスのわきを通った。
「寒いからひとりでもずーっと喋っているんだね」

2015年1月2日金曜日

2015年1月1日


あけましておめでとうございます。

マリーン・ルージュという船に乗るためホテル・ニューグランドでコーヒーを飲んで
待機中、山下公園わきのチケット売場の発券時間が3時半からなのです。
時間つぶしもこういう場所だとゴージャズなもの、真正面に発券所も船も見えるし。
雪がちらちら降っていて、下の歩道を2,3の人が影のように歩いて行く・・・。

2015年1月1日。
ニューグランドほど由緒あるホテルともなると、新年のお客さんは富裕層ばかり。
ななめ向かいのテーブルの、椅子の背に掛けられたコートのミンクみたいな毛皮、
長い髪をブラウンに染めた赤いスカートの彼女が立ち上がりながら外套をはおると、
それはさりげない皮のコートで、光沢のある実に美しい毛皮は裏側だったのでした。
そんなデザインってあるわけかと私はびっくり。
手前のテーブルに腰かけた老紳士はゆったりとした羊毛の軽そうなカーディガンを着て、
メガネのフレームは琥珀なのか水牛の角なのか、灰色めいた黄土色がきれいです。
同じ色(アイヴォリー)のセーターの紳士は、別のテーブルにも。
いま家族連れで席に着いた子どもだって、全身これ発表会の日のバレリーナみたいな 。
それでこっちの少女は小さいのに英国調の一分の隙もない端正な一揃い。
あっちのテーブルの5人家族はお父さんが高名な音楽家らしく、
お母さんと子どもが身振り手振りで、たのしそうに音階のあれこれについて話しています。
それで、みんなにこにこしている。
お父さんは黒いビロウドがいかにもの上着。お母さんはラフな横縞のセーター。
子どもは3人いるけど、どの子も普段着なのにどこかきちんとして、清潔そうなのです。

そこに獅子舞の連がやってきて、コーヒーを飲んでいる人たちの間を練り歩くのですよ。
先導は女の鉦叩き。恵比寿さん(だと思う)もつれて。福の神ですよね。
せっかくのお正月だしご祝儀という習慣が消えたのもなんだか。
そうだ、縁起ものなんだしご祝儀を渡そう。
鉦叩きの合図で向こうへ行きかけたお獅子が 私達のテーブルにもどって、
畳んだお札を大きな木の歯にくわえるや、なんとガクガク,、ガクと呑み込んでしまいました。
どういう仕掛けになっているのか、わっと賑やかになってお正月らしい雰囲気。

富というものは伝統的家族関係を伴う。伝統がものをいう。どうもそのようです。

そういう伝統の埒外に生まれたし、自由気ままにくらしたから、
結果、私は今こうなのかと少々不安になってきて、それから少しおかしくもなって。
だってね、私のアノラックは1500円。ブックオフのそれもバーゲンで 買ったのです。
薄いカーディガンは「ガゼルのダンス」ガレージセール展示の500円。
重ね着の葡萄色のカーディガンこそ高価でしょうけど、これは幼稚園に就職した時、
心配してくれたみっちゃんからのプレゼント。
私が1年の最初に着たかった正真正銘の組み合わせはこれ。
大草原の小さな家なみに洗濯だけはしっかりやってあるのですが、
値段だけで考えると、同じ場所にこんなふうに腰かけているなんてまるで小説みたいだ。

まーこんなところでなにを考えているのだか、寒風にたえられず紛れ込んだホテルで、
コーヒーを飲んでいるだけなんですけれど。

カミサマ、今年、この物凄い格差がこれ以上広がりませんように。



2015年1月1日木曜日

子どもにとっての世界


風邪をひいて顔いっぱいマスクで隠して、リュックをしょって千橿が車に乗りこんできた。

助手席に腰かける姿が、行儀がいいというより悄然として見える。
師走のパン屋は忙しい。学校も学童クラブもない、共働きの親をもった子どもは寂しい。
よくまあ、おとなしくマスクをしてるねーと私はビックリ。
「 うん・・・かぜがうつるから・・・」
私自身も私の子どもたちも、マスクがイヤだとむしり取るタイプのチビだった。その時の
キャンキャン騒々しい泣き声をいまでも思い出すことができる。
あのころ、予防注射必須のインフルエンザって、あったっけ?
おぼえてない。のどかな時代だったと思う。

さすが小学一年生。
家について荷物を開く。こうして、ああしてと言うと、まあその通りにする。
どこか悪いのかしら、そうそう、風邪をひいているのだ。
夕食を、気色わるそうに食べて、それでもちゃんと飲み込むからえらい。
気持ちがわるいらしいから、もう食べなくてもいいわよと私が言うと、
ありがたそうに、はかない顔でうなづく!
クスリだって、表情もかえず、いわれるまま、ちゃんちゃんと飲む。
遅く到着したので、歯をみがいて、パジャマに着替えて、
布団を床に敷きつめて、熱がでてきたから、暖かくして用意したDVDを見せる。
納得してるらしいけど無表情・・・ふざけることも笑うこともない。
久しぶりにきたせいなのか、それにしても以前とはちがう。
ほとんど目があわない。
疲れているらしく早々に眠ってしまい、夜中に暑がって何度も起きるので布団を変えた。

あんなに輝くようなワルだったのになー。
ふざけてごはんを食べ散らかして、おこられても怒られても笑いこけて、
おんなじことばかりくりかえす手がつけられない幼さは、どこにある?
風邪と、それから日常無関係にちかいこの家に来たということが原因かしら。
そうだったらうれしい。
私が幼稚園で働いていたころの園児の様子を思いだす。
・・・・みんなにも、ちょっとこういうところはあったかなーと。
親ほどいいものはない。親がそばにいるって本当にたいしたことだと思う。

うちの子が小さかったころ、私がお手本にしていた中野さんのアドヴァイス。
「あなたが働くならよく選んで私立に入学させれば。学校が一応育ててくれるから。
それが無理なら、家にいて、学校から戻る子を自分で待ってるのがいいんじゃないの」
石にかじりついてもビンボーするのよ、と笑って話してくれなかったっけ?
見れば中野さんはそうしている。 言ってることは単純だけどきっと「真理」なんだろう。
しかし、いわれた通りにできなかったなあ、ちっとも。
なんとか真似しようとしたけど、できないから達成感も全然ない。
私はダメ親で五里霧中。なにを言わているのか当時は見当もつかなかった。
ただもうなにかカンみたいなものが、中野さんについていけ、と私に教えたのである。
子どもを相手の暮らしは誰にとっても「道遠し」である。
子育て中に中野さんに出会って、「こう考える」と幾度も話してもらえたのが、
私の子どもたちの幸運だったと思う。親子関係の基礎をとにかくも知ったということで。

考えてみると、記録映画「ドストエフスキーと愛に生きて」の主人公、
翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーが語ったお話の中の、言葉を話す魚は、
私にとって中野さんだったのかも。