2015年9月27日日曜日

これから


安保法案がとおって以来、座標軸の根もとに立たされたような気がしている。
このさい自分の頭でシッカリ考えなきゃダメだ、と思うけれど、
急にシッカリできるわけもなく、欝々とするばかり。

東京新聞の投書欄で60才のマンガ家だという人の意見を読んだ。
「東京新聞よ もっと面白く」
この人のいわんとするところ。
新聞のどこを開いてもデモの写真に安保法反対の記事ばかり。
国民全部が安保法反対のような錯覚に陥る
読者誘導、偏向報道、一種のプロパガンダ・・・。
私のような安保法の是非を決めかねている者には親しみが持てない。
東京新聞は「面白い新聞」であってほしい。etc…

「私のような安保法の是非を決めかねている者」と言って恥じない立場って
スゴイんじゃないの。こんなに大騒ぎになっても決められない60才。
東京新聞には東京新聞の言い分があるだろう。
それが偏った読者誘導だと思うなら、図書館で読売新聞や産経新聞を読んでみて、
そっちの主張も自分で調べて。 あなたが信用するヒトの意見もきいて。
それでけっきょく、自分の考えはこうだ、と。
そういう努力をここまで来てもしない大人って、おかしいんじゃないの?

「来年の参議院選挙がラスト・ワン・チャンスだ」 と憲法学者が言っている。
          (雑誌SIGHT2015・小林 節慶応大学教授・弁護士)

あなたの生活している国ニッポンが戦争をする国になるかどうか。
あなたの国が、三権分立を失うかどうか。
ルールを守らない国会をどうしたいのか。 独裁者を許すのかどうか。
あなたは来年もまた選挙(ラスト・ワン・チャンス?)に行かないんだろうか。
あなたの立場をきめかねて?
そんな60才ってありか。そんなマンガ家ってありなのか。
損得勝ち負け、野党が次の選挙に勝ったとして、あとの始末ができるかどうか。
自分の立場を公表しようものなら雨あられと降ってくるかもの、罵詈雑言もしくは陰口。
もしくは失業。耳をすませばきこえてくる話はホントに嘘ばっかりだし?
心配、しんぱい、シンパイなのね。

日本には選挙というものがある。ありがたいことに無記名投票である。

そんなこともこんなことも、60年も生きてきたんだから自分で考えてみてくださいな。
若い人たちとちがって、あなたは成人になって40年もたった人なんですもん。
いつも「是非」を決めかねて。
気持ちがグラグラして、それがあたりまえと自分を肯定。
まわりもみんなそうなんだし、なにが悪いかと。
そういうことで今までやれたのは、戦争がなかったからなんでしょうが。



「銀の枝」・ローズマリ・サトクリフ・岩波少年文庫 を読んだ。
おもしろくて、おもしろくて3回ぐらい読んだあとで気がついたら、
あとがきのうしろに、もうひとつ、あとがきがあった。

短い文章。京都大学文学部大学院教授・南川高志先生の。
こども向けのよく考えられたすべり出し。話は映画「ハリー・ポッター」から始まる。
読んでみたら、こんなことも書いてあった。
                           *
ヨーロッパでは、最も優秀な学生は古典学を修めて大学を卒業し、社会に出て活躍した。
なぜか。エリートの条件がそれだった。
大学を出た、古典学の教養を持った人が社会を指導するにふさわしい人物という、
そういうものの見方が、19世紀の西ヨーロッパ、とくにイギリスやドイツで広まった。                                                      ー要約ー                    
                           *


それでも、世界大戦が2度。ナチスを抬頭させたでしょ。
人間は望ましい暮らしができる国を、なかなかつくれない。
どうしたらそれができるか、ほんとうにむずかしい。
しかし、そういう人類史の成果を学ぶという、古典的教養をガンコに捨てまいとする国は、
二枚腰、三枚腰で、自分の国のかつての間違いを正そうとするのではないか。


雨の中


道志の「道の駅」に行った。
そこで大根を買いたい。
大根のために崖から転落ってばかばかしいけど。
ここの野菜は大根一本にも生産者の名前がついていて、どんなものも新鮮なのだ。

健がいいよと言って、連れていってくれた。
クレソンとか、木の枝に咲く真紅の実とか、「辛味」とかいうものもある。
それから、あけびを買う。細田さんの昔の思い出の中に、あけびもきっとあると思って。
病院の木下さんはどうやって耐えているのかしら、と思う。

「道の駅」はこれなら山中湖にいってしまおう、というほど山中湖よりであった。
昔はこんな遠い道を平気で往復していたのか。
最初は道志の水をもらいにきて、ついでに道志温泉によったものだけれど、
改築後のありさまがあんまりなので、温泉の場所替えをしたのだ。

そういえば九十九里浜に古い離れ家を借りて、毎年、こどもたちを乗せて・・・。
あの道のりはもっと疲労するものだった。遠いし混むし。
首都高も、箱崎あたりも、その先の京葉道路の混雑も、まーこわくて。
一度など、九十九里から台風の中を運転して桜上水まで帰ってきたのだ。
・・・・あんな中古のオンボロ車に乗って。
子どもたちが平気な顔でいつも通り騒ぐので、いらいらして怒鳴りつけたなーと思う。
子どもだし、運転できないから、安心しきって平気でいる。
横目で窓外をみれば、ほかの自動車も大雨と突風の中をノロノロ運転して、
なにもコワイのは自分だけじゃない、落ち着こう落ち着こうと思ったっけ。

帰り道は短く感じるものだ。
「道の駅」から「いこいの湯」まで、こんどはサッサともどった。

温泉場の広間で、一日、本を読みたおす。
私はローズマリ・サトクリフの「王のしるし」上下(岩波少年文庫)
健は天童荒太の「歓喜の仔」、昨日浜松の駅の本屋さんで買ったものだ。
静かな一日。温泉は雨がひどく降るせいか貸し切りみたい。
連休の最後の日が暮れてゆく。



2015年9月24日木曜日

シュールなマヌケ旅行


小田原までロマンスカーでいく。小田原から新幹線で浜松へ。
浜松から高槻へ行ったのは、「さわやか」というチェーン店に行くためだ。
「さわやか」はいつも行列。一時間ぐらい待たされる。
駅から道をまちがえて、いつまでたっても着かない。てくてくてくてく。
けっきょくタクシーに連れて行ってもらった。

高槻から弁天島へ。駅前のホテル「The ОCEAN」へ。
3時にチェックイン。ベッドが大きくて楽ちんである。
しばらく本を読んでから、舞阪町の脇本陣へ。
行ってみたら終わっていた。
健も私もホテルに帰って本を読む。大浴場が結構いいけど、
弁天島は突然行ったりすると、もうなんにもないところである。
なんでこんな味気ない場所になってしまったのだろう。
クロサワの「用心棒」の宿場みたいな風情。
おっとそういえば、本陣と脇本陣のあった舞阪町あたりは、
かつて参勤交代の際の宿場町として栄え、ついに衰退・・・。

高速道路の大橋がみごとなアーチを描いているけれど所詮人工の産物、
浜名湖の向こう側にある海がおかげで見えないのである。

つぎの朝、また歩いて舞阪町の町営歴史建造物「脇本陣」を見学に。
しかたがない、ここはうちのご先祖さまの家業の跡なのである。
だれもしらないことなので、子どもの誰かに見せておかないと無縁になってしまう。
朝がきて、食事をすませ、また海辺を歩いて・・・。
ところが今日は休館日だという。やってない。

浜辺を歩きながら、もううちに帰ろうということになった。
ばかばかしいから浜松について、鰻(うなぎ)を食べましょうということになった。
なにひとつうまくいかなかったから、鰻ぐらい食べて帰らなければ華がないのだ。
いちばん高い鰻重を頼んだから、健は一生の思い出にすると私は思う。ははは。
それから新幹線に乗って、小田原から急行に乗って。

これはこれでいい旅だったんじゃないの? 楽しかったと思うから不思議である。
健は二冊小説をよんでしまい、三冊目にとりかかった。
私は、ローズマリ・サトクリフの「銀の枝」をまた最初から読んだ。
面白い少年小説なんだけど、名前がごちゃごちゃ、一回だと事情がのみこめないから、
二回読むと今度こそ本当におもしろいのである。
楽しくなかった、という考え方は、親子でしない。よかったことしかとにかく認めない。
わずかに健が、かあさん、今度の旅はシュールだったよねー、と言った。

そー言えばそうよねえ。
これをシュールと言わずしてなんとする?




2015年9月23日水曜日

「闘うバレエ」という本に



「闘うバレエ」(佐々木忠次著)にウラジーミル・マラーホフのことが書かれている。
わくわくするような本なので、読むものが見当たらないと私はこの文庫本をさがす。
マラーホフについて書いた個所がすきで、そこをよく読む。
短いエピソード。
シルヴィ・ギエムは二十世紀後半を代表するバレリーナだが、彼女に匹敵する男性はといえば
ダンスノーブルのウラジーミル・マラーホフだろうと書いてある。
シルヴィ・ギエムはたしかにものすごい。

                            *
「一九九七年、第八回世界バレエフェスのガラの最後に、恒例の余興で、マラーホフがギエムの
『グラン・パ・クラシック』の真似をしてみせた。トウの立ち方から、脚の上げ方、運び方までまった
くそっくりで、見事だった。場内は沸きに沸いた。』

「真似ることは難しい。マラーホフは天才だと思う。ほかの男性ダンサーには絶対にできないだろう。あれだけ難しいことをユーモアたっぷりにできるというのは、テクニックだけではない、プラス・
アルファの資質が必要なのだ。 しかも、マラーホフはノーブルだ。」
                             *


今日、丸善の本棚でマラーホフの伝記をみつける。
天才ソリスト。4才からバレエを始めて、10才のときボリショイ・バレエ学校に入学。
それ以来ずっと家庭ではない世界で生きて、それからロシアを離れ西側でくらす。
マラーホフの舞台をみたことがないのは本当に残念だった。
彼は少年のころから日本にきて、踊るたびに観客をうならせていたのである。


佐々木さんが書いたマラーホフのエピソードになぜだか惹かれるのは、
小さいころ、おなじようなバレエの余興を劇場で見たおぼえがあるからで、
私のユーモア好みは、そういう印象的な機会にめぐりあっていたせいかもしれない。
日ソ友好条約がむすばれてまもなくのあの頃、ガリーナ・ウラノワが〈春〉を踊るのを見た。
子ども心にも、ほかのダンサーとは格がちがうと、感銘をうけたものである。
当時、世界一のバレリーナだと父にきかされたあのウラノワが、
東京バレエ団の先生になって教えた、と佐々木さんの本にあったからおどろいた。

バレエの天才というのは、妖精にちかい。
時々、記録映画を観たりするけれど、人間とも思えないソリストがいる・・・。
などなどと思って、つい本を買ってしまった。


2015年9月21日月曜日

おさんどん


朝早く起きて、部屋にトッ散らかった紙類を無解決のまんま、もとの袋にしまう。
ごはんを仕掛け、出汁を作る。昼のおでんの用意である。
それから床を拭き掃除。ワックスもと思ったけどやめる。
赤ちゃんををつれて、カッチとイマちゃんがくるからだ。
このワックスは無添加だというけど、やっぱりよくないんじゃないの。

洗濯機がとまったからコインランドリーへ行く。
今日はうちでいちいち乾かす手間が惜しい。
ところが自動車から降りたら、乾かそうとした洗濯物がないっ?
玄関に置いたまま忘れてきちゃった! ま、いいかと引き返す。思うに私は無表情。
乾燥に32分間。洗濯物を乾かすあいだに、家に戻ってビンカンのゴミを捨てる。
自動車があってホント助かった。

国会デモと掃除と洗濯とブログを毎日書くこと、それから食事の用意。
この5点セットはけっこう、やってはいるけどコタえる。
私のデモが組織に左右されてなくてたすかった。
ひとりで行って、ひとりで帰ってくる。もちろん時々しか行けない。

一番こまるのがご飯の支度で、苦手なもんだから、うまくゆかなくなっている。
多すぎる、まずくなって、見た目もわるい。
したがって、キッチンドリンカー的。ビールを飲んで景気をつけたりして。
今日なんかも、お客さんがくるというのに自信がなくて不安である。
まずかったらどうしよう。
イマちゃんは仕事が料理人だったからなー。

ひふみクンは人見知りが激しい時期だとか。
玄関に入ってくるなり泣かれたら?
ОJが置きっぱなしにしている鳴り物をあれこれ出しておく。
鈴のおもちゃでしょ、木のおもちゃでしょ。太鼓でしょ、縦型タンバリンもあるし。
そういえば森さんの鏡もうちにある。忘れてるのかもしれないねと健にいったら、
あいまいな顔になった。そうかもしれないのかもしれない、とよく判らないんだろう。
大きくて立派な額にはめ込まれた鏡(古い)を裏返しのまま玄関に 立てかけてあるけど、
裏返しでも風格がすばらしい。忘れっぱなしもいいなと出入りのたびに思う。
来る人が、百万円もする絵を私が買ったと間違えるんじゃないかと思って 。

楽しい一日だった。
彼は、ふくらんだ小さな手につかんだ鈴をちゃんと鳴らすのだ。
鈴や小さな太鼓がきれいな音をたてる。
お昼にどうかとは思ったけど、おでん、ダダ茶豆、トマト、キャベツその他のサラダなど。
赤ちゃんがゆったり落ち着いていたので、私たちはみんな楽しかった。
「入ってきた時のひふみの顔ったらすごくなかった?」
あんな顔になるんだねえと健がいう。緊張ですっごい眼してたよねえと。

始めはそうでも、これならなんとかとひふみクンの方でも、状況判断をしたもよう。
めでたしめでたし。

2015年9月19日土曜日

9/18、国会デモ


こんな時、国会周辺はどんな様子か。
日本の歴史のそら恐ろしい転換点。清濁併せ呑んでいま騒然たる場所。
雨が小降りになってよかったと思いながら、国会議事堂前で地下鉄を降りる。 
早く着いたせいで、議事堂正門まで、ラクラク歩いていけた。
正門前は抗議の人でいっぱい。夜になれば前後左右に動けなくなるのだろうか。
私は議事堂から少し遠い石垣に腰かける。人々の隙間に入れてもらったのである。

あとからあとから集まってくる人を眺める。
今夜は徹夜だと覚悟した人は正門の方に行くのかしら。
私の両脇は、左が静岡から来ましたという奥さんで、右側は温厚そうな老紳士である。
4時半ごろ空が暗くなりはじめ、参加者が4万人を超えたと発表があったが、
それからも強行採決をさせまいと駆けつけてくる人は増える一方である。
ぞろぞろ、ぞろぞろ、歩いては止まり止まっては歩き、ゆっくり国会正門へ移動していく。
集会の主催は「戦争させない・9条壊すな‼ 総がかり行動実行委員会」
    「SEALDs」、「ママの会」、「学者の会」など多数の市民グループが協力。

けっこう長い時間、スピーカーから聞こえてくる声をききながら、
ここに結集したどんな人もビートルズを知っているわけかと、ふと考えたりした。
流行にうとい私がそんなことを思いつくなんて、われながらめずらしい。
それは、ここにいる老人たちが見かけより若い心の持ち主だという発見でもあった。
鏡が目の前になければ、私は私であるだけで、自分のトシのことなど考えない。
本当はひとりひとりみんながそうなのかもしれないね。

集会の司会とコールが市民団体から学生の団体「SEALDs」に代わると、
歩く人も私の周囲の人々も、中高年の誰かれがみんな、少しばかりおかしそうな顔をする。
若い子のコールは若々しく、馴染みのない発音をまぜたりの遊び心が見えるから。
ガイジンふうに 「アーベーゥワァ、ィヤメーㇽロォー」とか。
歩く人も座り込んでいる人も、なんともいえない顔になりちょっとニヤリとする。
自分としては抵抗があるけど、ま、いいよ、というほどの心の動き。
学生たちの参加をみんなが待って待って、そしてうれしがっているのだとつくづく思う。
まあいいか、なんて思う受け止め方は、1960年安保時代の大人にはなかった。
私は高校2年生だったけど、作法は上から降ってきた。

ビートルズのイギリスにおける本格的デビューは1962年ごろ。
ジョン・レノンとオノ・ヨウコの平和運動としてのベッドイン(1969年)に
その時は共感できなかったとしても、のちにジョン・レノンが殺され、
ポール・マッカートニーやボブ・デュランを後楽園ホールで見たり聴いたりし、
大ヒット曲「イマジン」が国民歌謡なみに紅白歌合戦で歌われ・・・、

あの頃学生だった抗議デモ参加者、つまり私たちは、この50年間、
かつての先輩たちとは異なる、国籍不明のユーモアを解する日本人たらんとして、
生きもし、失敗もし、その結果、少しは若者に学ぶ人間になった、ということか。
ろくでもない、金まみれのとは言っても、
私たち70代、80代の日本人は、抗議デモで見るかぎり、
断定よりは理解を尊び、若者をつぶしてなんになるという判断を身に着け 、
ふたたび戦争をする国に日本をするまいと、またここに戻ってきたのである。

歴史はなるほど、必ず前よりは進歩する。そう理解することは、すがすがしい。
すがすがしい、道理にかなった、身の丈ほどの考えを懸命に述べる人々を見れば、
元気も勇気もでるというものだ。
ぜひともデモに参加するべきだと私は思う。


2015年9月18日金曜日

雨が降る日、鶴三句会


朝は鶴三句会だった。
句会はどうも苦会であって、さる人に国会周辺であったら、
「俳句だけど、もうできた?」 ははは、大変よまったくー。

暑気払いだろうとなんだろうと、今年は猛暑だったし、
秋は秋風とともにドスンと感性にコタエて、なーんにも思いつかないんである。
でも、それでもなんだってかんだって、作らないということはないせっかくなのに。

厚顔や ポツダム知らぬ 青鬼灯         斎藤

青鬼灯はホウズキのこと、季語が必須なのでむりに使いましたとは作った人の弁。
なんとかならないかと三國さんがおっしゃり、宿題ということに。
でも、私には青鬼灯という漢字が安倍首相にピッタリという気がしますが。

夾竹桃 切り倒されし 散歩道            加賀谷

加賀谷さんは笑顔のすごくいい人である。頭もすごくいいにちがいない。
先日の団地の臨時総会で発言した時も、そうだ正しい!とついつられてしまった。
この句には抗議を込めましたよ。憤慨も口をとんがらかしてフンガイそのものであーる。

原爆忌 友を偲んで 70年             後藤(夫)

後藤さんがまわして下さった三重野さんの手書きの資料を読んだ。12才5ヶ月の命。
手記というものの、かけがえのなさ。これは三重野杜夫くんをさがしまわったお母さまの文章。
82才で亡くなるまで、押し入れにかくれていたものという。

秋が来るくる・・・夏を残して。
溽暑(じょくしょ)ということばを、はじめて知った。
三國さんご夫妻の俳句はいつだって精緻にして、美しい。

白樺に 霧立ちこめて 夏行けり            三國(妻)

風止まり 刻も止まるか 溽暑かな            三國(夫)



・・・句会からもどって、南部地域病院へ。
木下さんは「処置の最中」とかで、しばらく待合室で待っていた。
逢うことが出来てよかった、少しいてかえってきたけれど、かなしい。



2015年9月17日木曜日

安保法案が成立した場合の恐怖


私の恐怖は、「戦争をしない国・明仁天皇メッセージ」(小学館)に書かれた、
著者矢部宏治さんのことばに尽きる。

矢部さんはこう書いている。
「海外での戦死者240万人」の半数以上は飢え死にであり、
特にニューギニアの大8軍などは、10万人いた兵隊のうち、9万人が餓死した」のだと。
70年前に終わった戦争に出かけて行った日本人たちの話である。
「そもそも旧日本軍の参謀たちには、最初から海外で戦争をする能力など、まったくなかった
といわざるをえないのです。 」

内閣総理大臣安倍晋三という人はどうか。「海外で戦争をする能力」があるのか。
日本の法律をなぜかどうしても守れない人間。
山本太郎の怒りの質問にさえ、答弁がしどろもどろになってしまう、支離滅裂なあの人。
答弁と答弁についての説明が異なっても平気なわけのわからなさ。
シビリアン・コントロール(文民統制)がどうのと新聞は書くが、
我が国の政権代表はこれでも文民なのだろうか、いったい。
ペラペラぺらぺら、平時でもコントロールを欠いている人間だ。

こんな人を内閣総理大臣に、海外で、日本人は戦争協力しようというのだろうか。


2015年9月16日水曜日

国会包囲デモ・感想


きのうは、オランダで暮らす娘はべつとして、私の家族が孫にいたるまで、
デモに参加した。私は昼間参加。息子たちは仕事がおわってから、夜の集会へ。
私の人生もこれで一区切りだ と思うほど、ホッとする。
平和国家転向沈没の危機をまえに、家族の誰かが、今、知らん顔というのはつらい。

鎌仲ひとみさんは映画監督であり、私にとっては大学の後輩であるが、
以前、彼女が試写会で聴衆にこう言ったことをよく思いだす。
「みなさんが運動を成功させようと思うなら、まず家にかえって、夫と話あってください。
サラリーマンはみんな企業戦士なんですから。けっきょく原発賛成派が多いんですよ。
その壁を越えられなければ、反原発運動に勝利するって難しいとワタシは思いますよ」
若い女性が多かった会場は、鎌仲さんからそういわれたとたん、苦笑いが充満、
・・・空気がひるんだようになったのである。

そうだホントにそうだ。でも、難しい、たぶん自分にはできない。
みんな夫を頭に思い浮かべて、ドッと疲れているんだろうなあ、と私は想像した。
だってそれは本当に大変なことだから。

私自身は特殊ともいえそうな家庭で育ち、子どもの時から家の中は本だらけ。
周囲は知識人と文化人のテンコ盛り。高学歴だし、自分の仕事も「理屈」の周辺をグルグル。
そんな私でも、わが子を相手に議論ができたかというと、そうはいかなくて。
母親になってからの目標はまさしく、子どもと議論ができる間柄になりたい、だったけど、
非力なので、ラクではなく、なさけなかった。

それが、別々に、私の家族はみんな、国会を包囲するひとりになったのだ。

今日、国会安保公聴会でSEALDsを代表して奥田愛其さんが意見陳述をした。
その全文を私はユーチューブで読んだ。
SEALDs とは、Students Emergency Action for Liberal Democracys
すなわち、自由で民主的な日本を守るための学生による緊急行動。

国会で彼が語ったことのなかには、こういう言葉があった。
   
   デモやいたるところで行われた集会こそが、「不断の努力」です。
   そうした行動の積み重ねが、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権といった、
   この国の憲法を体現するものだと私は信じています。

   私にとって、政治のことを考えるのは、仕事ではありません。
   この国に生きる個人としての不断の、そして当たり前の努力です。
   私は困難なこの4か月の中でそのことを実感することができました。
   それが私にとっての希望です。

彼はこういうことを述べた。

   私たちが独自にインターネットや新聞で調査した結果、日本全国2000か所以上、
   数千回を超える抗議が行われています。
   累計して130万人以上のヒトが路上に出て、声を上げています。
   また声を上げずとも、疑問に思っている人はその数十倍もいるでしょう。

こういうことも言った。

   政治生命を賭けた争いだとおっしゃいますが、政治生命と国民一人ひとりの命を
   比べてはなりません。

   ひとつ、仮にこの法案が強行に採決されるようなことがあれば、全国各地で
   これまで以上に声が上がるでしょう。連日、国会前は人であふれ返るでしょう。
   次の選挙にも、もちろん影響を与えるでしょう。
     
   「三連休を挟めば忘れる」だなんて、国民を馬鹿にしないで下さい。
   むしろそこからまた始まっていくのです。新しい時代はもう始まっています。
   もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっているのです。

   

2015年9月14日月曜日

伝統の不思議


もしかしたら今日の国会包囲デモで大江健三郎さんが話す。そういう噂である。
大江さんの声をじかにききたい、なにを考えているのか知りたい、そう思う人は多いと思う。

大江さんが大群衆をまえに話す、そういう時、気になるのは、引っかかるのは、
必ず大江さんの先生だった、例えば渡辺一夫先生や丸山真男先生の学問を、
引用し下敷きにして人々に訴える、その姿勢というか順序だ。
直截な話法の他の著名人とぜんぜん違う。まだるっこい、と言ったらよいだろうか。

話法そのものが、
ヒトの意見というものは人類が賢人から引き継いだ知恵の結果であり総体である、
それを丁寧になぞることによって、今日の自分が始まり、そしてここにいる。
大江さんの場合、その結論のうえに、作家大江健三郎の訴えが構築されている。
・・・というふうに感じる。
たとえば真夏のギラギラと暑い日なんかに地面に座り込んできいていると、
気になり、ひっかかるその話法が、
これは「立場 」とか「言論」のあるべき姿かもしれないと厳しく胸におちてくる・・・。
たとえそれがどんなに暑い日であろうと。

このあいだ、高知県の知人がいつものように梨を送ってくれた。
親から引き継いだ梨園の経営者である。
奥さんの話だけれど、従来の品種(たとえば新高梨)以外にも
「いろいろな梨を植えちゅう」 もう絶滅しかかっている昔の品種、あたらしい品種も。
その梨を、たいていの梨園では早く試食して結果を知りたいがために、接ぎ木してしまう。
「けれども、うちでは苗木を植えて直接育てるきに・・・。」
そうやって由緒を護って本来の育て方をすると実がなるまでに何年かかるのか。
「そうやねえ、10年はかかるねえ」
こんど新しく植えたのがなるまで、生きてるかどうかわからん。
疲れた声が、ふざけて、はははと笑う。

話をきいているうちに、大江さんの話法を思い出した。
そういえば大江健三郎さんも四国の生まれだったなー、と。




2015年9月10日木曜日

山崎ナオコーラの「手」


山崎ナオコーラという若い女性の随筆を読んで、闊達自在な、奔流のような筆力に
おどろいてしまい、短編小説集「手」を図書館で借りて読んだ。
まぎれもなく文筆業で身をたてていく人なんだろうと思う。
1978年の生まれというから、いまごろは37才。

「手」を読んで、彼女の小説のヒロインたちの意地悪さに、これはこれで胸をうたれた。

時々、私は京王線の女性専用車に乗るけど、ナオコーラさんのヒロインとおぼしき人たちで
いっぱいだ。通勤時間帯だからか、幸福そうな人なんかいない。
たいていの人がスマホでゲーム、あるいは、眠って、病的で、険しい顔をして、無表情で、
ふつうの車両よりよっぽど、老人や弱々しい人がいても無関心または無視なのだ。
そして、どういうわけか美人が多いような気がする。シャンプーしたゆたかな長い髪の毛。
細い眉毛。白くて透き通った肌。首に巻かれたデリケートなチェーン。
いろいろな色のていねいしごくなマニキュア。 洋服、とはいわず今はなんというのか、
通勤用としても程がよいし、帰りに何処かによることになっても適当な素敵なドレス。
用意周到に考えられた、欠点の見当たらない武装、仕事にも、男にも。

能力がそれなりに高い、という感じの人ばかり。ばっかりでもないか。

「この人は、たぶんこの生活費に見合うほどのお金を受け取っているんだろうな」
私は女性専用車に乗るたび、つくづくそう思う。延々都市へと通う女性たちの、
人形みたいな姿かたちと向き合って。
けっきょく、気が付けば自分のものの見方だって山崎ナオコーラと変わらない。
考えていることが意地悪だ。職場での戦いに 疲れ果てているのだろう心に向き合って。

・・・でも私はこの有能な若い作家に意地悪になってもらいたくない。
言論の一端を担う人には、世界をたてなおす義務のようなものがあると思う。
小説は行きずりの人間のスケッチではない。
ただ人々の風俗を引き写すだけのものではない。

そういうことに甘んじている立場は、いま週刊誌の話題となっているサカキバラセイトを
扱う残酷そのものの手法の、さして遠くもない親類である。
・・・現実に一人の、誰かの息子や娘が堕ちてしまった地獄に対して、
もう初めから一切、責任をもたない、向き合わない立場。
文は人なり、という言葉はどんなことで[格言]になったのだろう?
なぜ私たちは、時々、その言葉を思い出してしまうのだろう?
印刷された文字には、あるいは公になる文章には、
つねに人類というものを問い直す責任と,
人間の限界を越えようという希望が、内包されてしかるべきだからではないだろうか。




2015年9月9日水曜日

ルノアール監督の「ピクニック」


映画が始まると、まず川の流れ、である。
おだやかな陽光輝く春の日に、川が膨らみながら、微笑み乍ら、滔々と流れて、
と漢字をつかって描写したいスクリーンはモノクローム(白黒)で、
しかしながら、並外れてゆたかな量感が感動的である。
家族だったからこそのルノアール調。
水の様相が、人間の運命を暗示しているのだとそろそろ観客が思うころ、
借り物の馬車に乗って、商人の一家と従兄弟?が、この川辺の自然の中に入ってくる。

印象派の巨匠ルノアールの絵にある、実り豊かなフランスが、
息子によって、同じフレームをモノクロームで再現しながら、幻想を剝ぎとられ、
芳醇で美しい光景や女たちに与えられた色や光の洪水が、
実はこういう世界を内包していたのかと思わせられる。
パリ郊外の自然と、その時代を生きる人間のさびしくも愚かな交差。
・・・40分ほどの掌編であった。

ジャン・ルノアールはヌーヴェルバーグの父と言われる大監督なのだそう。
オーギュスト・ルノアールの次男だったから、監督の家に行くと、絵のない額が
ところどころの壁に掛けてあったという。
映画の資金繰りに絵を売ったのだろうと、なにかで読んだけれど
才能がすばらしくあって、売る絵もあってとは、ホッとするいい話である。

「ピクニック」は、父と息子の仕事を、映画で融合させようという試み。
しかし完成の直前世界大戦が勃発、ナチスによってフィルムが破棄されてしまう。
(ジャン・ルノアールは、外国へ逃れ、異国を転々としながら映画を創り続ける)
ナチスの占領下、
「ピクニック」のオリジナル・ネガは映画人の手で隠され保管された。
1946年には、若干の編集を加えて(その編集のなんとセンスのよい)、
未完のままではあるが、晴れてパリで公開の運びとなったというからスゴイ。


負けっぷりというものがある、という教えを思い出した。



2015年9月8日火曜日

歯医者に行った日


治療中睡魔に襲われ、はい口をもう少しあけて下さいと
何度か言われてしまった。
治療がおわって、先生が私に「ハイッ、よくがんばりました」とおっしゃったけれど、
なんでもタイヘンな、技術的にできるかどうかみたいなことだったらしいので、
本当に頑張ったのは、先生と歯科衛生士の若い人なのだ。
水がシャーシャー、かぎ針みたいな感じのもので奥歯をガリガリ、
それなのに途中私があんまり眠りそうになるので、とうとう口がしまらないように、
木で作った小さな木枕?じゃないけど、口ざわりのよいストッパーを入れられてしまった。
あら、これは木なの、いいもんだな、助かったと思って、
それでまた眠りそうになるのだから、二人ともさぞいまいましかったにちがいない。

麻酔の始まりに痺れるようなクスリが口中に塗布されて、それから注射。
このあたりからもう、私はのんびりしちゃって、なんの心配もしない。
たいした信頼度、である。
歯医者さんに行くのが楽しい人っているものだろうか。
ところが私はここに来ると歯もよくなって、ストレスがじわじわと取り除かれるから、
帰り、元気になって桜上水から上北沢までひと駅、歩いていく。
とぎれとぎれにだけど、好ましい道が三つあるのだ。
子どものころから好きだった路地と家、・・・昔あった家はとうになくなってしまっているのに、
そこに、なぜか、ポツン、ポツンと、何度も見たいとあこがれるような一軒家が建つ。
ぜんぶとはいかないけれど、そういう「小さなお家」に会いに行く。
・・・伝い歩きの楽しみだ。

雨が降って、勉のパン屋まで歩いたらビショビショになった。
でも、私の好きな家には、白い花や青い花が咲いて、雨に洗われているから形も色も美しい。
壁がブルーの家。淡いブルーの外国の小型車が芝生の隣りに嵌め込んである。
車庫は板敷で板はクルマの分しかなく、いったいどうやって車庫入れできたかわからない。
金網に白い芙蓉の大きなひとむらが咲く家は、松の木のせいか暗いみどり。
庭の木々を透かして私は家屋を眺める。今はもう、誰も住んでいないのかしら。
昔からこの家にはそういう話があったなーと思い出すのである。



2015年9月7日月曜日

1日というもの


朝、私はかごいっぱいのビンやカンを捨てに行った。
カンが落ちて転がって音をたて、急いでひろったけれど、人が見たからこまった。
ビンとカンを運ぶ籐のかごには小さな車輪がふたつ、取っ手がひとつ。
ぜんぶ捨てたからホッとして、かごをひっぱって帰りはゆっくり、
物語のなかのおばあさんよろしく、かごと並んで白い彼岸花を見物。
かたわらを通るたび立ち止まらずにはいられないほど美しい花である。
生成りの花冠が、少し離れてふたつ、それにまだ開花していないもうひと株かふた株。
月日のせいで黄味がかった白羽二重の色がこんなかしらと思うのだが、
花の離れ具合がまたよくて、引き立て役の雑草までがなくてはならぬ緑なのである。


深夜になって、もう眠くてふらふらしながら、DVDを見る。
「ベジャール、そしてバレエはつづく」
モーリス・ベジャール亡きあと、
バレエ団を引き継いだソリスト、ジル・ロマンとダンサーたちの映画である。
ジル・ロマンとバレエダンサーたちが美しいといったらないので、
見とれて、半分眠りながら二度も見てしまった。


一日というもの。朝と夜の間にクルマを運転してみっちゃんに会いに行き、買い物をし、
そこでは白菜とか豆腐とか豚肉とかトマトとか卵とかスイカまで買って、
みっちゃんとは話もしたし今後の打ち合わせもした。東京新聞も読んだし、
「12・12・12」というDVDまで、これはニューヨークはМ・S・Gで行われた
大洪水被災者救済のロック・フェスティバルの(ど派手な)ドキュメンタリーだが、
7時ごろそれも見たので、
私がおば~・・・~・・・さんになってしまうのも不思議はない。


2015年9月6日日曜日

秋明菊が咲きはじめ・・・


猛暑のあとにくる秋はかたい表情で、
何年かまえの秋明菊は、
儚げに秋風といっしょに、ぴょんぴょん踊ったものなのに、
今年は葉っぱも花も揺れもしない。
姫柚子の木には小さい柚子がたくさんなった。
うちの柿の木に、今年、柿の実がならない。
コゲラが飛んで来て幹をつつくけど、すぐ移動してしまう。
幹のところにいてほしいのになー。
柿の木の枝をものすごく詰めたので、シッカリはしたけど、こんなふう。

みんなこの夏を生きのびて、よかったんだけどね。


2015年9月5日土曜日

家族新聞「すいとんの日」特別号


この夏、猛暑のあいだ、みっちゃんは、
安倍内閣の憲法違反と独裁型国会運営に、終始憤慨していた。
戦争をする国にふたたび日本がなってしまうという という実感に、
心底腹を立て、悩み、なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃと言い、
あげく不眠症が深刻化、あまりの愚劣な展開に悔しさと不安で眠れないのである。
家族新聞「すいとんの日」特別号は、そんなみっちゃんの怒りの仕事である。
あの暑いさなか、手紙を書き、原稿を集め、編集し、印刷屋へ行き、そしてとうとう、
おととい昨日と、むかしからの読者の家に「すいとんの日」特別号が届きはじめた。

みっちゃん、あんたはえらい! 堂々としてさわやかよね、いつも通りに!

「特別号」には、反核家族を宣言した本間家みんなの抗議の原稿が載っている。
新聞は6ページもあり、迫力と実行力と抗議と主張とアッピールが折り重なって、
切り抜いたり貼ったりのテンコ盛り。だからなのかどうか読みやすい。
瓢箪から駒ってこう、パワフルってこうなのさ!

私は、お父さんの淑人氏の「主夫のつぶやき」がとてもすばらしいと思う。
みっちゃんの努力を考えても、それぞれ独立して暮らしている娘、息子を思っても、
本間家周辺の読者、たとえば私みたいな、に与える影響を考えても、
家族新聞からこういう文章が出てきたことを、今回の白眉だと、心から祝いたい。


主夫のつぶやきは「戦後70年を生きて」というタイトル。
(ぜひ読んでいただきたいので、ここに載せてしまうことにしました。)


戦後70年を生きて 
                                        本間淑人


 私は終戦の年に台湾で生まれ、翌年引き揚げ船で和歌山田辺に上陸し、父の故郷に
引き揚げました。家族5人で着の身着のまま、命からがらの引き揚げでした。乳飲み子だ
った私にはその時の様子は知る由もありませんが、両親や兄達の話では、故郷に帰り落
ち着くまでには筆舌に尽くしがたい苦労があったようです。
引き揚げて11年目の晩夏、母は49歳で病没しました。病弱だった母にとって、引き揚げ
船での 苦難や、その後の満足な医療もままならない窮乏生活は、耐えがたいものだった
に違いありません。私は戦争体験こそ無いものの、その傷跡を引きずって戦後を生きて
来ました。戦争は残酷の極みで人の一生を翻弄させるとの思いと、国の指導者が賢明で
ないと、人々は不幸のどん底に突き落とされるという思いは、片時も頭から離れることはあ
りません。
 終戦から70年を経て今また 、かつて国策を誤った指導者の一人の孫が宰相となり、ア
メリカに押し付けられたとして平和憲法を忌み嫌いながら、その「押し付けた」アメリカに服
従して戦争の片棒を担ぐという愚かな選択をしようと蠢いています。首相は、すり寄ってくる
チンピラ議員やヒラメ官僚や御用学者で側近を固め、有権者の3割にも満たない支持票で
政権を担いながら、世論の様々な声には耳を傾けようとはせず、立憲主義を無視して破滅
の道を突き進む・・・。こんなハチャメチャな男を指導者に抱える国民は不幸と言うほかに
言葉がありません。

 ところでこの夏、私は息子とポーランドへ慰霊の旅に出かける機会を得ました。
訪れたのは20世紀最大の負の遺産であるアウシュビッツ強制・絶滅収容所です。
 収容所の所在するオシフェンチム(アウシュビッツ)市は、ポーランド第二の都市クラクフか
ら約50キロ離れ、車で1時間余りのところにあります。ドイツ軍による爆撃を免れたためか、
古い建築現物も点在し、収容所の周辺は大量殺りくが行われた場所とは思えないほどのど
かな田園風景が広がっていました。訪問前にナチスに関する資料や、小川洋子氏の随筆
「アンネ・フランクの記憶」を読んだりして、多少の予備知識は得ていたのですが、実際に現
場に赴くと想像を絶し、耳目を覆いたくなるほど凄惨で衝撃的なことばかりでした。このナチ
スによる蛮行が、わずか70年前に生身の人間が、他の人間に対して行ったという事実に身
の毛がよだち、ナチスによる蛮行の罪深さをあらためて感じました。うず高く積まれた無辜の
人たちの旅行鞄、女性の毛髪、メガネのツル、ガス室で使用したチクロンの空き缶等々、な
かでも靴の山の中に幼児の靴が点在するのを見た時には、戦慄を覚えました。また収容所
別棟内の階段に腰をかけ、頭を抱えて泣いている遺族と思しきろうじんや、濃緑の軍服姿で
見学に来ていたイスラエル軍の若き男女兵士がとても印象的でした。

 私たちはさらにそこから数キロのところにある、ビルケナウ第二収容所に向かいました。そ
こはナチスによる究極の犯罪現場と言ってもよいでしょう。ヨーロッパ各地から貨物列車で移
送されてくる罪なき多くの人々を、強制労働かガス室送りかを仕分けた現場に立った私たち
は、30度を超える炎天下にも関わらず、しばし暑さを忘れ犠牲者に思いを寄せながら、追悼
の祈りを捧げました。
 今回の訪問では、二人の日本人の方に案内して頂きました。お一人はアウシュビッツ博物
館に勤務する唯一の日本人ガイドの中谷さん、もうお一人は、日本美術・技術博物館に在籍
し、現地で活躍するテンペラ画家宮永さんです。このお二人の丁寧なガイドにより、無事訪問
を終えることが出来ました。
慰霊を終えてホテルに戻りテレビニュースをつけると、画面は衆議院が安保法制を強行採決
したことを報じていました。
 一方地元ニュースでは、1万人を超えるユダヤ人をアウシュビッツ収容所に送り込んだ罪で
本人不在のまま死刑が言い渡され逃亡の末、晩年に捕えられた94歳のナチスの元将校に
あらためて禁固4年の刑が言い渡されたと報じていました。

 戦後70年たっても戦争犯罪人を許さず、責任を追及する国がある一方で、戦争遂行の総
括もせず、自らの責任を明らかにすることなく「1億総懺悔」とごまかしながら連綿と続く日本
の為政者たち・・・。
 戦争はいやだという若者に、利己的だと悪罵を投げつける同世代のチンピラ議員・・・。
 無謀な戦争により辛酸をなめた市井人として、平和憲法と一緒に古稀を祝う特別な1年に
したいと考えています。




2015年9月4日金曜日

うり二つの新聞投稿


鶴三会のお仲間に中村さんがいる。
老人万華鏡のような、不思議なお方である。
筒につけられた丸い小さなガラスごしにからくりの奥をのぞけば、、
色とりどりのキレイな破片が楽しく動いて、そこに見果てぬ夢がといった具合。
折り紙のキリッとしたカラーのような、中村さんの破片。
それはミャンマーにユメを賭ける老いたる中村さんの気概であったり、
民主主義というものについての実行をともなう考察であったり、水を造り出す特許であったり、
昔とった杵柄の「高砂」を謡える力量であったり。
このお方は、どういう紆余曲折のすえ、こういうお人柄になられたのであろうかと、
それで中村さんの俳句を拝見しなおし、あらためて立派だと思ったりする私である。

手術をして、心臓にペースメーカーを入れたとおっしゃるから、
ミャンマーにも、ふたたび行く日が来るはずと、私は中村さんのユメに便乗している。
いつか、いつかとわくわくすることは愉しい。

今朝の朝刊を読んだら、鶴三句会の帰り道、中村さんが私におっしゃったことが、
まるで「聞き書き」したみたいな具合に、投稿欄に掲載されていた。
39歳の板沢理恵さん・藤沢市の自営業従業員。以下は彼女の文章である。
 
                          *

 今この国は戦争のできる国になろうとしている。しかし、戦場に行きたい人は一人もいない。
 一方、日本は地震・火山の大国で、地震や噴火の研究が世界で最もすすんでいるのではな
 いか。・宗教国家でない・という世界でもまれにみる特性も日本は持っている。
 そこで自衛隊を国際救助隊に組織替えし、天災に限って、どこの国へでも飛んでいき、救助
 活動を行うようにしたらどうだろうか。軍事予算を考えれば、救助や天災の研究費を大幅に
 増やすことができるはずだ。
 結果的に丸腰になるわけだが、自らの国に駆けつけて救助してくれる国を攻撃するだろうか。
 ぜひ国民投票で全国民に問うてほしい。

                            *

見識のある起承転結、文章のまとまり具合、それに簡潔さも好ましい。
耳からはいってきたお話が、見知らぬ女性の文章になって立ち上がっていることがまた、
私としてはすごくうれしいことである。賢い人が多いほうが安心だもの。



2015年9月3日木曜日

違和感


大学時代の友人が骨髄異形成症候群だという。

・・・ながいあいだの友だち同士で、
むかし近所でよく一緒に遊んだ、というような言い方がまあ実感にちかい。
近しいようでいて遠い人、私がお世話になるばっかりの。
彼女は下町風の情緒ゆたかな大家族育ち、私は東京郊外のピリピリした一人っ子。
それはもう感覚的に当然の違和感があるはずで、
溝のようなものを克服することができず、なんというか、一生が過ぎてしまった。

むかしうちに遊びにきてくれて。
私がケーキ?を彼女にすすめたその時が違和感のハッキリした始まり。
思い出すたび滑稽で、二人して折にふれて笑った話である。
「このケーキ、すごくおいしいのよ 」
私が彼女にケーキをのせたお皿を渡そうとする。
お腹が空いてないからと遠慮したら、彼女にすればちょっと遠慮してみせただけなのに、
「そうなのお? すごくおいしいのになー、がっかり」
本気にした私がケーキ皿をすぐに引っ込めてしまった。
「ビックリしたわよ、私は食べたかったのよ、すごくおいしそうなケーキだったじゃない」
あとになって、それも悩んだ末だろうけれど、彼女が私にそう言ったのである。
放っておいたらこの人のためにならない、タイヘンだと心配してくれたのだと思う。
私も、じぶんは自他ともに認めるヘンなやつだという危機感があったから、
ふつうはどういう言いかたをするものなの、と彼女にたずねた。

「たいしたものではありませんけれど」「おいしくないとは思いますが」
ふつう、お客様にはそう言ってすすめる。
そして、すすめられた方は、食べたくても一応はお断りする。

「えー、食べたいのに断るの、なんで?」
「それがあたりまえじゃないの。礼儀、よ。ただの、つまらない礼儀だけどもね。」
可愛くて、図書館で付け文されることの多かった、遠慮がちな美少女。
私のほうは、ただもうびっくり。
「えー、だって、おいしいからこそ、すすめるんじゃないの。
おいしくないものを出すなんて、そっちのほうがずっと失礼な気がするけど」
そういうことを言ってるんじゃない、と彼女は思ったにちがいない。
私は私で、どう考えてもそんなみょうちきりんなことができるか、という感じ。
でもヘンなのは私のほうなんでしょ?

・・・ ・・・・私たちが違和感をまったくもたずに会話したのは、
65才になって、突然、私が幼稚園の園長になった時だった。
彼女の方はずっと新宿区の幼稚園の先生であり、もうすでに退職して、
研究者になった夫君を支え、母子相談業務を開始し、政治活動も続けていたころである。

ひとときでも、私たちの間にある違和感がまったく消失したことは素晴らしかった。

2011年の私は、園長であるのに職員と対立し、悩みは複雑をきわめたが、
在任中、私は常に、彼女の意見を参考にさせてもらっていたのである。
コツコツ型で誠実な彼女は、都の職員として、組合活動歴も職場での苦労も長く、
それだからだろう、気がつけば、
幼児教育の現場で起こるトラブルの推移をおどろくほどよく理解する人なのであった。
経験も豊富、人脈もたいしたもの。それでいて権威主義など一切ない。
多忙な中で幼児教育の勉強を怠らなかったせいもあり、
夫君の知的で鋭いアドバイスも、あの遠い日の美少女を成長させたのだろう。
底なしの共感力に驚かされたことが、今なつかしい。
青天井がぱーっと開けた、私にしてみればそんな感じなのだった。

私が園長をやめると、また 、私たちは疎遠になった。

大学を卒業してからずっと、私たちはいつでも平行線をつくって生きていたなと思う。
私のヨコにはどんな時も彼女が見えていて、だから特に浮き沈みの激しい私は安心だった。
今になって思えば、 私が彼女の生活のどんな圏外にいようとも、
こまれば相談ができる、なんとか時間をさいてくれる、それに私は慣れていた。

私たちは、二人とも家族のために時間をさかないわけにいかないし、
同じような考え方だから交際がとぎれなかったと思うけれども、
それでも彼女と私では、生きる方法が違う。感じ方もちがう。
たとえ似たような考え方をしていたとしても。
計画し、働き、雑用をこなし、いろいろな人々と関わり、
そうしているうちに、時はただもう、べつべつに過ぎてしまって、
・・・あげくの果てが、骨髄異形成症候群だという知らせなのである。

電話があって、彼女がはやくも身の回りの整理を始めたときいて、
これは私自身の終末の始まる合図だというような・・・。
青空に亀裂が、にぶい音を立てて拡がるのをだまって眺めるというような。
生と死は一直線に並んでいるものなのだ、という考えに私は衝たれることになった。
たとえ治るのにと私が思っても、それは私の感覚による選択であって、
またしても彼女とはちがう選択でしかないのである。


2015年9月1日火曜日

こんな日には・鶴三会


曇天。雨。憂鬱。
こんな日には、
夏のフィナーレに続いて行われた
鶴三会の暑気払いを思い出すと気が晴れるのかもしれない。
わが団地の老人会の小さな集まりである。

句会は三國さんあってのという気がしているけれど、
節目に行われる会ならばそれは平野さんの「おとこ料理力」。
平野さんのメニュー、食材選びの寛容さ、クッキングレシピは、
調理を嫌わない殿方ならこそのもの、
味覚における酒飲みのこだわりを、すんなり、ばらばらに溶解させるのである。
手の込んだ肝心の料理だが、なんと平野コックがぜんぶやって下さるから、
ほかの者は少しのお手伝いさえすめば、あとはゆったり。
考えるとこんな楽しいことってなかなかないわけで。
「ごめんなさい平野さん」
私など村井さんと永瀬さんの真ん中に腰かけ、
テーブルの上の各種アルコールを試しては楽しむばかり。

細田さんの笑い声をきくと安心である。
小林さんが新年からの句集を周到に用意。
なんでこんな手間ヒマのかかることができちゃうんだか。
みんな自分の俳句をさがして見つけると弁解しはじめる。
おかしがって笑いながら、雰囲気というものが楽しくつくられていく。

ゴーヤチャンプルー、麻婆茄子、カブのマヨネーズ山葵(わさび)あえ、
レタスをふた株も使うサラダは出汁で和えてあり、小松菜の御浸しなどは玄人はだし、
どれもこれも食べやすくよいお味である。(もっとあったけれど忘れた)
もちろんこのほかにも、チーズ、生ハム、どこぞの有名蒲鉾、特別な手製梅干し、珈琲、
ヱビスビールにコンクール一等の日本酒、バーボンウイスキー、
ハンガリーの洒落たワインは程よく甘いし・・・・、
御持たせの品々の上等ぶりも、なにやら毎回すばらしい。

会は定刻に始まり、乾杯をすませるや、平野コックがふたたび管理組合の台所へ。
料理は出来立てをだすのがいいんだよという有難いお言葉。
「俺は料理が嫌いじゃないから」
こういう人が晩年の集まりにいるって、なにかこう、人生ってうまくできてる。
見まわすと、どの人もそれぞれ思うがまま。
身を入れて話をしている。なんの衒いもなくのびのび。男の人女の人がまぜこぜ。
一家言とはその人独特の意見をもつこと、ときくが、
その一家言にそれぞれの陰影がみえるところが好きである。 


こういう日もあることが、老年の苦労や心の痛みを耐えやすくしてくれて、
なんとか私もここでやっているのだ、という気がした。
これからも、誰も欠けることなく、と細田さんが挨拶をされたが、
誰かがここから消えてしまったらどんなに寂しいことだろう。

・・・寂しいにちがいないと思えることは幸福だ。
団地の敷地のなかでこんなふうに思う、それは幸運な話である。