2018年12月18日火曜日

近況


驚いたことに一年がもう終わろうとしている。
一応の仕事を休んではつなげて、やっとおしまい。
そうしたら、みぞおちが痛むのも、眠れないのも、ふらふらするのも、
スーッと退いて、私の半日は雲をながめて、じーっとする連続となった。
冷蔵庫がこわれて、エアコンが二台おしまいになって、
次はたぶん、洗濯機かもしれないし、電気釜かもしれない、
自動車かもしれない。ガステーブルもヘンである。

それらの寿命の仲間にこの私も入っているのかもしれないと思うと、
余計に硝子戸の向こうにひろがる空がなつかしい。
冬の立ち木の向こうに、相模湾のような、青い海のような空があり、
さらに東上空、湧き立つ灰色の雲海が遠くの街のようだ。
空を見ながら多摩丘陵の家のソファから海を見る。
そんな日もある・・・。
今日はおおきな虎が一匹、西に流れて考える。
昨日の虎は東へ流れて行き、彼の巨大な頭の上には翼の片方ちぎれた鳥がいて
カラスだと思ったっけ、などと。




2018年10月1日月曜日

無題


2日というもの、なんにもできなくて、ちょっと家事をしては
横になり、そうすると眠ってしまう。
目を覚ますと午後になっている。
掃除と洗濯と買い物をして、
コインランドリーに行って乾かして、
やっと帰るとまた眠ってしまう。
ひとりの2日間なので、時間おかまいなし。
気がつくと21時。
そこで夕食。おそすぎる。
ソファーに読みやすい本を集め、
クッションを積み上げ、3、4冊 読み散らかし、
気がつくとまた眠っている、
眠っているのに、がっくり疲れて、
それが2日続く。
よくないと思っても、どーにもなりません。



2018年9月26日水曜日

連休・講演会と映画と


Ⅰ・講演会は東京新聞の望月衣塑子記者である。
  もうビックリした。
  あんまりステキなので、つられて本を二冊買ってしまった。
  
      最近の自分は悩みのタネが「サイン」であるから、考えてみたくて。
     それでつい、サインをお願いしますと講演後、望月さんにお願いする。
  新書版の、これから本文が始まる、その右ページが空白んあっているので、
  「すみません、ここに、サインをお願いします」
  望月さんはタテに、ご自分の名前を本文の番兵というか近衛兵のように、
  すらすらと書く。きれいな、良い字体。ピシっとしてスカッとしている。
  
  なぜサインがほしいか。
  元来、自分としては人にサインはしてもらわない。
      名前なんか書いてもらってどうする、という気持ちなのだ。
  でも、だれのサインだったら、べつ、かしら。
  ウラジーミル・マヤコフスキーだったらどうか。1930年の。
  とっくに自殺して、天才で、英雄で、進歩的。男性的な美男だし。
  革命的!! 詩だって、生活だって、なんだってかんだって。
  記念碑を見るようでしょうね、サインも。

  自分の場合、マヤコフスキーってわけにいかないから当然サインは渋る。
  
  望月さんはしかし新聞記者である。
  国の最高権力者に立ち向かい、怯むことがない人だ。
  言い訳しない、めげない、美人で小柄で勇敢、おまけに度胸満点なのである。
  講演は忖度(そんたく)なんかの真逆(まぎゃく)、ユーモラスだし。
  面白くってオモシロクッて、
  いいなーいいなー、あやかりたいなーと、当然そう思う。
  そうか、なんらか肖りたい(あやかりたい)と思う時、サインをと、
  ヒトは思ったりするんでしょうね。

  私の場合は、望月さんの「勇気」「やる気」がうらやましい。
  彼女の「頭脳明晰」がうらやましい。お守りにしたいというか。
  で、サイン・・・となるわけか。

2・文京区民センターで「スペシャリスト」を見る。
  10年ほど前にみた映画である。 
  元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの国際裁判と判決のドキュメンタリー。
  あららら・・・私の感想が、10年前とちがってしまっている。
  しかしそれがどうしてか判然としない、
  それで主催団体の打上げに、くっついて行く。
  疑問が解けるかもしれない、と思って。
  学校の先生だった人が多いが、ドキュメンタリーの製作・脚本・監督が職業と
  いう、唐辛子にラー油をぶっかけてたまにニッコリもしてみせる、というような
  白髪の紳士もいらっしゃいまして、日本という国のそもそもの構造を、原発、ダム、  政治、など切ッ先鋭く分析し説明なさる、おっかないほどの博覧強記、物凄い。
  一方には、どんなことがあっても生まれてから喧嘩はいたしませんでした、という
  ような典雅美形の初老もいらっしゃって。
  その方々は終始端正なること、イギリスに行ったこともない私であるが、
  ホント端正に徹して「英国紳士」のようである。
  楽しい打ち上げの会だった。
  「望月衣塑子さんの追っかけです」とおっしゃる方までテーブルの向こうに
  おいでになって、穏やか上品・まったくの英国紳士型タイプ、なるほどですよね。
  きのう、講演会の時に、知らずご一緒していたわけでした。




2018年9月24日月曜日

世界一まずいクッキイ


ピンポーン、とベルが鳴る。

3時半ごろだった。
玄関の扉を開けると、顔見知りの少女がたっていて、
お母さんがいないので、鍵をもってないから、家に入れません、
電話を掛けさせてください、と丁寧に言う。
ちょっと心細い可愛い顔が、どこからどこまでモハン的である。
「あがっていいですか」
「もちろん、いいわよ」
小学3年生と話ができるなんて、うれしいことだ。
女の子はお母さんに電話をかけている。
その時、
家には、なんにもなかった。

そとは小雨の降る寒い日。
うちで待っていらっしゃい、というと、
遠慮のかたまりみたいな 、おとなしい顔が、
大丈夫です、お母さんが帰ってくるまで、外でまちます、という。
そうだ、アイスキャンデイならあったと
私は、椅子にそっと腰かけた少女に、ブルーのアイスキャンデイをだす。
お皿からはみ出さないように、女の子は、行儀よくキャンデイを食べた。
なんだか、寒そう。
ええと、と私は言った。

うちって、今、なんにもないのよ。
あなたになにかおいしいものを食べてもらいたいんだけど。
あのねぇ私、昨日からさがしているものがあるの、でもそれ、見つからないの。
どうしても見つからないのよ。いまいましいけど、あなたが来てからも
探したんだけど、どっかに行っちゃったの。
「あの、いいです、だいじょうぶです」
「よくないわよぉ、だってそれ、世界一、おいしいチョコレートなのよ」
礼儀正しい女の子の極致みたいな少女と、
世界のとんでもない向こうからきたみたいな、おばあさんの私だ・・・。

「ところがね、世界一まずいクッキイならあるの、ロシアからの
おみやげなんだって。いただいたんだけど、ほんとうにまずいのよ。
世界一まずいってわかる?」
うん、と賢そうな大きな瞳で、彼女はいった。
「お父さんがドイツに行って。ドイツにはまずいおみやげしかなかったって。
そのおみやげは、ほんとうにまずかったから。」
北欧の話になった。
彼女の一家はデンマークに住んだことがあり、私はフィンランドに2週間行った
ことが あって、そこも、食べ物はいまいちだったかな、みたいな。

私はお皿にコロンとひとつ世界一まずいクッキイをおいた。
「このあいだ、食べたんだけどね、世界一まずいはずよ」
彼女は、おとなしく、たしかに世界一まずいかも、という顔で、
ゆっくりと礼儀ただしく、クッキイを食べた。
お母さんはなかなか帰らない。
でもやっぱり、そのうちちゃんと、帰ってきた。

あとできいたら、世界一まずいクッキイを食べた、とふきだして話したそうで。
まじめなまじめな顔をしていたけど、自分の家だとのびのび笑うのね。




2018年9月21日金曜日

試写を見て あの日のオルガン

 
fromМ
試写会でお会いできずに残念でした。いい映画でした。原作のつぎこさんの本をまだ
読んでいませんが、映画を見ながら、所々、つぎこさんを思い出したんですよね。メ
ルトダウンした(註・福島原発事故3・11)ということを理解できない親の私たち
に訴える堀江園長・・・とか。でも、一番感動したのは、エンドロールに流れてきた
「本間美智子」の名前です。お二人の友情を羨ましく思います。

そうねえ、幼稚園にみっちゃんは、話にきてくれた。若い母親たちに。
・・・障碍者で、働く人で、母親である自分について。

ホールの低い舞台に、深大寺の萬寿苑で買った花柄の、手縫いの 絨毯を敷いて。
ススキや買わないですむあれこれの花をみんなが採ってきてくれて飾った。
 みっちゃんと司会の私は低い舞台にこしかけ、みんなはホールの床に座った。
「母」たちは、もう文句なくみっちゃんが大好きになり、笑顔に魅せられたよう
になって、あの日の会は当然のことだけれど、大成功だった。
集会が終わるともちろん役員たちが、3階の小部屋で、ここはまたきれいな誰か
のテーブルクロスが、傷だらけの机の長い木目をかくして、みっちゃんにお礼の
お茶や手焼きのお菓子なんかを、みんなが嬉しがって、出した。
私が「みっちゃん」「みっちゃん」と呼ぶので、それじゃ自分たちには図々しす
ぎると思うらしく、「母」たちはこまった顔で「本間さん」とか「みっちゃん・
さん」とかよんで、講演のお礼を言うし、質問をして、自分たちの気持をなんと
かみっちゃんに伝えたくて、一生懸命だった。

なにしろ、みっちゃんにはオーラがあるから。



2018年9月19日水曜日

海辺で


難しいできごとが、あまりたくさんあるので、
オンボロ自動車で、息子と、城ケ島へ行き、海を見ようとした。
何年ぶりの海辺行きだろうか・・・。
私は、家事と仕事で手いっぱいのとしより。
息子は、若いけれど、日勤、夜勤、バンドの練習と演奏 の繰り返し。
そのくらしの中で、
たぶんだれにも起こるような、平凡で単純な災いが 、
自分たちを襲う。

75才と36才、それなりの二人家族、
原発事故以来、海流は全世界を回るのだろうからと思えば、それもあって、
なかなか、海辺に足がむかなかったけれど。
夜勤あけで、なんにも仕事がないという日が彼にあったので、
私も、なんの用事もない日だったので、
思いつきで遠く、遠く、城ケ島まで行くことにした。
遠くても、高速道路をつかって、
川崎をすぎ、横浜もすぎ、葉山もすぎて。

・・・とうとう城ケ島まで行ってしまった。

何年ぶりだろうか、海浜公園のその先の、巖の連なり、その向こうが海なのだ。
痛んだ気持ちが、海風と湿気と、岩にあたって猛烈に砕ける白波を見るうちに、
・・少しづつ、・・少しづつ、なおる。
でこぼこの、砕けた貝殻 ばかりの浜辺を痛い裸足で踏んで、
やっときれいな海水に脚をひたした。
小さい波が、バシャンバシャン 、・・・大きな波がときどきザブーン。

ひとりで横になって、のんびり貝殻をひろっていたら、
寂しい人がそばにきて、それは、たどたどしい日本語を話す、
長い真っ黒な髪のアジアの女の人だったけれど、
・・・ふたりで話しながら、貝を集めた。

手のひらに、淡いみどり、ピンクや白くて灰色 の貝殻をのせて、
「ほら、この貝殻を見ると、家に帰っても、きっと私はあなたを思い出すわよ、
あなたは こういう人でしょ」
黒い瞳が、ニコニコ、風に吹かれている。
イツモ、ヒトリ、ワタシハ、といった。
別れる時、手のひらいっぱいの、桜色した貝殻をぜんぶ私にくれようとする。
「ナニヲ、ウツシテイマスカ、空デスカ」

歩いてきた息子に彼女が尋ねると、
息子は空気を揺らさないように、用心深く、にこりとし、
「そうです。空を写していました」
といった。
ありがとうと彼女に貝殻のお礼を言って、別れられたのが
幸せだったかな。



2018年9月10日月曜日

思い出


ナイン・パーティーに行く。

長男がトーク。古本を売ること40分の見世物、語る芸能である。
途中、母親が好きだった画集でと話しながら、ツィルレの古本も売る。
母親とは私だろうけど、ツィルレって誰なのだろう?

やっと思い出をたぐり寄せれば、むかし私は、
その画集を、本棚に並べたままでは子どもにけっきょく届かないと思い、
素朴な、芸術そのものの画集をこわし、
すきなページを切り抜いて、トイレの壁に貼ったのだった。
子ども達の目に、いやでも入るようにと。
・・・桜上水の実家に住んでいた、あの苦しい13年間。

いつ画集を捨ててしまったのか、私の本棚にもう、その本はない。
 何年も捨てられないでいた、たしかドイツの、画家ツィルレ。
だいじなページを切り抜いてしまったから、残骸でしかなくなって。

ハインリッヒ・ツィルレという画家の名前を、自分ではもう思い出せない。
私の人生は、たぶん終わりかけているのだ。
二男が、その本を買って、見せてくれた。
ナインパーティーの帰りの小田急電車の中で。

私は忘れたのに、長男の心に私の気持ちの残像がのこっていた。
あの時は小さかった二男が、子どもの世界、という本の名に惹かれたのか、
・・・さっき、兄からそれを買った。
なんという懐かしい、繰り返しなのだろう。




2018年8月23日木曜日

山本周五郎の短編


「桑の木物語」を読んだら、感激してしまい、しくしく泣きながら、
3回も4回も読む。短いので、何度でも読めるのである。
武士道のお手本みたいな物語集だから、手放しで感動なんかしていいのかしらと、
私などつい考えてしまうが、ついつい感激する。

友情とか、激情とか。愛情とか。
そういう、むかし日本人の心に脈々と息づいていたはずの気持ちが、
じゃかすか読む者に迫って、心臓をかきまわす。
ふと時間つぶしに書店で買った何十年ぶりかの山本周五郎だけれど、
まあ、なんという凄みを帯びた筆力だろう 。

蓮田市にむかって行く電車の中で、活字から目をあげると、
窓外の田園風景が、自然と人間の営為の結果となって、迫ってくる。
沢木耕太郎編という案内にひかれて買った「将監さまの細道」は、
編集が当りだと思う。

図書館でべつの短編集を借りて読んだけれど、おなじ山本周五郎でも、
息が詰まるようだった。




2018年8月22日水曜日

バスケ4選手が買春


8/21東京新聞の朝刊を手にとって、第一面をみると左上段に概略こうある。
 日本オリンピック委員会によると、ジャカルタ・アジア大会に出場した代表選手4人が、試合後売春行為をし、代表認定取り消し、事実上選手団追放となった。
彼らは試合後、日本選手団の「JAPAN」のロゴ入り公式ウエアで選手村から外出、
食事飲酒のあと、女性を紹介されホテルへいき、9000円を支払って買春行為に
及んだのである。
 新聞の27面を見れば、帰国後の記者会見の写真、公式ウエアを着て、並んで
謝罪している。個人的買春の恥の国家的処罰にこれ以上の方法があろうか。

・・・記事をとくとくと書いた記者の態度に、だんだん腹がたってきた。

なんの配慮も加えず、よってたかって選手の恥を公表するオリンピック協会の指導者が
おそろしい。その指導者の「まずはオリンピック」というご都合主義になんの疑問もも
たず、顔写真をでかでか公表する東京新聞の紙面構成が、無残なものに思われてならない。なんという雑な上から目線だろうか。

自分がもしこういうことをやらかして、と想像する人はいないのか。
時代劇のお白州に引き出されて。買春行為で全国に顔をさらして。
当面の報道には、軽率で恥知らずで無考えな20代の4人の、これから先の人生を心配
した痕跡がひとつもないが、そんなことはどうでもいいのか。
資格剥奪も、選手団追放も、ここに至るまでの彼らの長い選手生活を考えるならば、
充分な罰である。

まともな反省には時間が要るものだ。
時間をかけてよく考える権利こそ、人権の基礎ではないか。
昨今の国会を思うに、議員ならば破廉恥行為も罰されず、若いものなら資格剥奪、全国
民に顔を見せて一律お詫びという形式。
いつかなにかの折りに、私たち国民の運命にこの不公平が割り込んでこないと、
いったいだれが言えようか。



2018年8月18日土曜日

山登敬之氏の書評



オランダの遥からメールがきて、精神科医の山登さんがフェイスブックに
レビュウを載せてくださったからと、私の携帯電話に転送してくれた。


                  *
オレの夏休みの課題図書、ちびちび読んで終戦記念日にようやく読み終わりました。
『あの日のオルガン~疎開保育園物語』(久保つぎこ著、朝日新聞出版)。映画化に
際し36年ぶりの復刊であります。
敗戦の前の年、1944年4月に幼稚園閉鎖令が施行され、同年8月からは小学3年
生から6年生までの集団疎開が始まるのだが、保育園は「戦時託児所」と名前を変え
数を増やした。就学前の幼児の「疎開保育所」が地方に開設されたのは、終戦のわず
か2か月前、東京大空襲の後であった。

そんな時節にあって、44年11月に幼児疎開を単独で決行した民間の保育所があっ
た。戸越保育所(現・品川区)と愛育隣保館(現・墨田区)である。このふたつの園
から幼児53名と職員11名(うち保母8名)が、旧国鉄桶川駅から6kmはなれた
高虫の荒れ寺を住処にするべく移住したのである。

幼くして親元を離れた幼児は3歳から5歳、親に代わって子どもたちの保育にあたる
保母は19歳から27歳。日々の激務と負わされた責任の重さからか、終戦までの約
9ヶ月間、保母たちは全員が無月経であったという。
童話作家であり新劇の女優であり3人の子を持つ母親であった久保つぎこは、丁寧な
取材と調査を重ね、3年の歳月をかけてこの本を書きあげた。登場する人物、とくに
若い保育士たちが活き活きと描かれているのは、著者の経歴と経験によるところが大
きい。インタビューの言葉ひとつひとつにリアリティがある。

内容が内容だけに反戦・非戦の想いがこめられているのは言うまでもないが、読み進
むうちに、子どもを育てること、子どもが育つこと、人が生きることの根本を問われ
ている気がしてくる。
疎開保育園の子どもたちは、終戦の日まで全員無事であった。しかし、その中には1945年3月と5月の東京大空襲で、親きょうだいをすべて失った 子どももいた。
そして、疎開せず東京の親元で暮らしていた幼児たちの、いったい何人が戦火に焼か
れたことか。
本書の原題は「君たちは忘れない」だったそうである。忘れないだろう。忘れてほし
くない。私たちも忘れない。世界に平和を。Love& Peace。

                   *


(冗談だけれども)
   この書評を読んでから、順序良く書けばよかったなーと。
 現代史の発掘調査腕っこきの、橋本進さんが、私にはついていたのですが。
 当時のあの書類と資料の山、わけても東京大空襲関連の本の大きさ重さ。
 ひりひりと、仕事が手につかない絶望感。歴史上の事実を整理分析できない
 つらさ。なんとかしてふてくされるのはやめよう、もう書いちゃったんだ、私は。



2018年7月27日金曜日

爆発の不思議


変な日で、
ヘリコプターが昼間、等間隔で、何時間も飛び続けた。
後から思えば5時間だろうか。
ずっと飛行機の轟音の連続。灰色の雲間にカーキ色の戦闘用ヘリが見える。
戦争に出掛けて行くようだった。
立川基地からいったいどこに行くのかと私は思った。
近所のスーパーマーケットに行ったのは4時頃、
すぐ前の歩道橋の手すりに作業着の男が何人かいる、空をみて、話している。
彼らは雲の合い間に見えるヘリコプターを眺めて、不思議そうだった。
やっぱり異常だと思っていると、私は思った。

ヘリコプタ―が規則正しく南の方角に飛ぶ、空には雲しか見えなかった。
関心を示している人は誰もいない。
マーケットの入り口のホールでは、
ゆっくりと大人や子どもが涼んで何かを飲んでいる。談笑している。
普通に人々が買い物をしている。買い物客は買い物のことしか考えていない。
キュウリだとか、大根や納豆や今日に限って安い鶏の胸肉だとか。
夕方なので、みんないそいでいるのだ。

もしかして戦争が始まる日も、こんなことだろうかと想像する。
ふつうの、いつもと変わらない午後、いつの間にか膨大な飛行機や戦車や
ミサイルで武装したわが国の自衛隊が、こんなふうに、都民や市民をよそに、
なんの知らせもせず、政府の命令で戦争を開始するのかと。

いやな日だと私は思ったけれど、それだけでなんにも気がつかなかった。
唐木田といえば我が家から歩いて15分の距離なのに、
一日中、家にいたのに。
尾根幹道横の工事現場で大爆発があり5人もの人が死んだなんて、
まるで知らないまま一日が過ぎた。
なんの物音もしない、
あとで見せてもらったスマホの画面の中で、巨大な泥色の噴煙が、
とぐろを巻いて辺りを覆い、尾根幹線道路の途中で、膨れてのたうち回っている、
そんなこととは、全然知らなかった。
団地の中は、暑さに参って、人影もない。たぶんみんなも知らないのだろう。
そう思った。

なんにも知らずに、私は夕方多摩ニュータウン通りから橋本に出掛け、
21時過ぎにクルマが尾根幹線を走ると、前方がキラキラと真っ赤だった。
おびただしい数の救急車、パトカー、輝く通行止めの警告灯、警察官たち。
なにがあったのだろうかと、その時になって驚いたのである。

多摩市唐木田一丁目の大型ビル建設現場が、地下3階で火事を起こした。
320人もの作業員が働いていて。


オウム真理教の死刑囚13人がまとめて死刑になった日だった。

2018年7月26日木曜日

地下鉄京王新宿線


お見舞いに代々木病院に行った。

千駄ヶ谷で降りて、帰りはまた千駄ヶ谷から電車に乗る。
くたびれたからか、熱いからか、ふらふら反対方向へ行く電車に乗った。
どうもあやしいと思いながら、ドアが閉まりそうなので、
あわてなくてもいいのにあわて、あわてるから間違える。
でも不意に、反対でもいいか、市ヶ谷で乗り換えればと思いつく、
よかったと、私は市ヶ谷で電車を地下鉄に乗り換えた。

優先席が空いていたから、座る。
隣には若い男の子が、赤いマークのラベルをリュックにつけて、
身体を折り曲げて、がっくり眠っている。
赤いラベルがポンと無防備に見えるのは障害の存在を知らせているのだろう。
その姿はどこか温かく、どこか無邪気で、私を安心させる。
男の子が、ううんと起きて目をあけたので、私が笑うと、
彼もにっこり。電車がどこにいるのかわからないらしく、きょろきょろする。
「どこだかわからないんですか?」
・・・だって疲れて眠っちゃっていたんだものね。
そうすると彼は、ぼくは障害があるのでと、ごそごそし、
僕のお父さんがこうやって行きなさいとこれを書いてくれたんです
と私に小さいノートの切れ端を見せる。
「このままで、僕、そこへいけるでしょうか?」

それは5,6行で書かれた、この少年によく似たきちんとした文字だった。
地下鉄新宿線の新宿3丁目で下車、
丸の内線に乗り換えて、そうすれば新宿御苑前に着く。
「新宿御苑に行きたいの?」
「そうなんです、いけるでしょうか?」
といっているうちに、電車は新宿3丁目の構内に入っていく。
あっ、新宿3丁目に着いたらしいわ、ここよ、降りなきゃ。
丸の内線よ。降りたら丸の内線をさがして乗る、
「新宿御苑はどの電車にのるんですかって、きいてね」というと、
彼はズック靴をはきなおし 、肩に赤いカードをつけたリュックをかけ、
ぶじプラットホームの人混みの中に立った。
ありがとうございます、といいながら。
私を見たから、手を振ると、にこりとして手をひらひら振っている、
賢いお父さんがいる家庭の17才ぐらい、それだけしか知らないけれど、
そう思うとうれしい気持ちになった。

・・・彼は、新宿御苑駅で降りて、それからどこへいくのだろうか。
考えたってしょうがないわよね、
彼のお父さんのように 、
信じて、手伝って、まかせるのが一番よいことなのだろう。

あんただって、と私も、自分のことをそう思う。
反対に行く電車にうっかり乗っちゃって、
それで、こんなふうなよい一日が、待っててくれたわけじゃない、
そういうことでOKでしょ。


2018年7月18日水曜日

神保町で



大学時代の友人に、信山社あとのカフェであう。
約束がすらすらと成立して、間違えずに会えたのは、
彼も私も、書物からはなれない人間だからで、
私たちは、50年も、この小さな街を離ればなれに彷徨っていたのである。

信山社は岩波の本を売る書店で、格調が高く、それが売りだった。
ところが岩波のブックセンター・カフェになったら信山社の雰囲気は消失。
「神保町」という名の地下鉄駅ちかく。岩波ホールのそばという幸福な立地。
それなのに、予算がないという作り方で、内装になんのセンスも感じない。
本が並んでいても、岩波の本だぞというかつての誇りは、もうない。
岩波書店側の予算の都合で店をつくるなんて。
むかしの名前で出ています、といわんばかりの残念至極な上から目線だ。

信山社の、岩波の本だぞ、という迫力を私たちは愛した。
だから神保町に行くと、必ずその主張の空気にさわるわけだった。
それから千変万華の本の街に彷徨い出る。なにも岩波の本だけが本じゃないから。

もうそういう時代じゃないとメディアは安直にニセ情報を垂れ流す。

そうかもしれないし、しかし、そうじゃないのかもしれない。
神保町は今でも、書物なしには生きていたくない人々の街だ。
書物に埋もれて落ち着きたいさまざまの人に、少し歩けばすぐあえる街、
話をしなくても、孤独なまま、孤独だということに癒やされる 、

幾多の本棚に護られて神保町は今でも、・・・そういう無言の街なのに。




2018年7月17日火曜日

本ができた。


朝日新聞出版から、本が送られてきた。
みるからに丁寧な手の入った「君たちは忘れない」の新装復刻。
映画化を期に、37年前に書いた疎開保育園物語が、
よみがえった・・・。

「あの日のオルガン」

読んでみると、
書いた時と、今では、読後感がちがう。

若くて落ち着いた上坊真果さんがずーっとついて、
丁寧な仕事をしてくれたので、本は映画化の帯をまきつけて、さらに暖かい。
なぜ37年も前の本が復刻なのか、
今、ていねいに、ていねいにこの本を作りなおすということは、
本書を書いてからの、先の見えない私個人の、灰色の網目をほどいて、
いまは亡き保母さんたちの歴史に、しかるべき明るい光をあてることだったのだ。

ヒト運に恵まれて、可愛い本ができた。



2018年7月16日月曜日

泊り客


勉が5年生を二人つれて泊まりに来た。
チガシとタカだ。

まー大変だった。

少年というのはなんと、すがすがしいのだろう。
子どもなんだけど、あらゆる人間らしさが、すでに備わっていて。
黙っていても、笑っていても、おじさんとゲームをしていても、
外へ行って、暑くてすぐ引き返してきちゃっても、
かたっぽうは眠く、かたっぽうはまだまだ起きてゐたくても、
きゃあきゃあと、すみきったかん高い声で笑う声が耳に残る。

自分が親だったころ、私はなんでまた、
うるさいばっかりだっ」と思っていたのだろう。
私は怒ってばかりいて、勉などは
こんなに恐ろしい人はこの世にはいないと思ったという。
登校拒否、などと思うにつけても、その前に母さんの屍(しかばね)を
乗り越えてと思うだけで、もう恐ろしくって思考停止状態になったと、
冗談半分にしても、それほど私って怖かった。
自分の子どもほどかけがえのない者は、私にはない。
私は、だから本気だった。

孫のうちにいま私が見るものは、勉とムギの懸命の子育てが生んだ個性が、
未来に輝く萌芽のようなものとして、不意に姿を見せるときだ。
どんなに賢い子か知らないし、どんなに強い子なのかもわからないが、
おかしくて、可笑しいことが嬉しくて、そのおかしさを油断せずに測りながら
いま笑いこけているこの子に、私は自分の父親からの伝言をみる。
理解力の出発って、そんな姿かたちのものではないかと思って。

しかしまあ、男の子ふたりというのは無限の体力、
つぎこおばーさんとたけしおじさんは、どうにかボロをださずに、
5年生二人が勉に連れられて帰るまで、生き延びてまことに幸いである。


2018年7月14日土曜日

おたがいさま


思うに、後藤さんが救急車をよびたいとなると、私を指名してくださるのは、
おととし、私がもうむちゃくちゃに後藤さんのお世話になったからだと思う。
私たちは同じ団地で、おなじ鶴三会のメンバーで、私は先ごろ亡くなった奥様
がユーモラスな日本人離れした方でもう大好きだった。
でも、そんなことでは 人と人の間にある生垣は越えられないとわかったのは、     最初の救急の時だった。奥様が亡くなる前後、私は理事会の広報担当だった。
もう全然うまくやれなくて、パソコン だのコピー機だのに手をやいて、脳天に
きてしまい、後藤さんに電話をしては、パソコンを抱えてお宅に駆けて行った。
お正月だろうとなんだろうと、〆切があるからである。
どんな時も後藤さんはかならず私を招き入れて、私の難関を見捨てなかった。
クリスチャンだからか。優しい人だからか。合理主義者だから だろうか。
たぶんぜんぶなのだろう。いつだって断られたことがない。
奥様が亡くなったのは元日で、葬儀場は一週間先しか予約できなかった。

そんな時でも、後藤さんは自分だけじゃ分からないからと、建築委員の中村さん
に電話をして「もうパジャマに着替えて寝るところだと中村さんが言ってました」
とおっしゃって。でも大丈夫ですよ、と。
そのうち中村さんがやっぱり来て下さって、これは民話のようだと私は思った。
雪の降りそうなお正月の夜、奥さんを亡くしたおじいさんと、パジャマを着替えた
おじいさんと、頭の弱いおばあさんが、相談をしているのだ。
深々と冷たい紺色の夜で、それはたいしたことで、
私は亡くなった楚子さんがすぐそこの空にいて、にこにこしていると思った。

こんなに厄介を掛けてばかりだから、後藤さんは救急車をよぶとき、
私には頼みやすかったにちがいない。
だって、この団地にはほかにいくらでもシッカリした人がいるのだ。
親切な人が 多い団地なのだ。

なにしろ、知らせていただいて、私ときたら、
「はい、救急車をよんですぐお宅にうかがいますから」
と電話を切ったはいいけど、あの時は救急車の番号を知らない、わからない。
あてずっぽうに119に電話をしたら、当り、だったのである。


2018年7月13日金曜日

救急


朝、7時直前に電話がかかった。
後藤さんが熱中症だと、中村さんが。
病院をさがす。入院先がきまる。
救急車よりはと、中村さんと後藤さんと病院までクルマで行く。
てきぱきやった、と言いたいところですが、
後藤さんを病院に置いて自分たちは帰るとなったら、
とたんに私は、いつものごとくクルマのカギがみつからない。
病人は、85才なのに、熱をはかり(41・8度)、かねて用意の水を飲み、
日ごろの必需品をがっちり入れたリュックをもって、
私はさすが後藤さんだと感心したけど、
病院に到着したらかんじんの診察券がない。
私にさっき渡したと後藤さんが言ってる、と中村さんにいわれて、びっくり、
身に覚えがないけど、渡されてないという記憶もない、とうとう判らず。

ご近所、老々介護のお粗末。
でも、婦長さんがやさしくて、診察券はなくても大丈夫ですって。




2018年7月12日木曜日

税務署


いまごろ確定申告。
3月15日ごろ、日本国民たるものは、ほぼ全員が税金と取り組む。
いまは7月だからすごい。
前年度は無事に、粛々と陰気に、しかし無事に確定して申告した。
それが嬉しかったから、それらしき税金の材料を、大紙袋に入れては、
去年程度に確定申告を済ませたいとかなんとか、思っていたのである。

大紙袋を、不安だからみっちゃんの家にいき、淑人さんに点検してもらった。

それでもって、これならと日野税務署へ。クルマで家から30分の距離。
日野税務署には一年に一度しか行かないが、
行くと毎回、ここは労働組合の活発な活動が必要だと、ヘンなことを考えてしまう。
なんだか、不幸せで活気のない灰色の職場 、という空気。
でも、まあ、それはそれとして。
この一年間で彼ら役人はずいぶんと居丈高になった。
受付の女役人まで不機嫌むきだし。男は上から目線で怠惰なもんである。
気働きをまったくしないという、放置感惰がどの顔にも浮かんでいる。
去年はこんなじゃなかったのに。なにがあったのだろう。

どんなに相手が不機嫌であっても、私の欠点はどうしようもなく修正不可能、
必要書類がなかなか見つからないし、てまひまはかかり、能率ゼロだ。
役人の不機嫌と失礼と上から目線をしり目に、
私のほうも、自己嫌悪がエスカレート。
相手にも申し訳ないし、これはお手上げだという結論にいらいら、
マイナス感情が高じてくる。
むこうも不機嫌だけど、私だってこっちで勝手に不機嫌爆発、
自分にいらいらして、私の不機嫌が相手の不機嫌を上回るのだ、
不機嫌の押しくらまんじゅう、というか。

解せないことに、・・・なんの加減か、役人がふいに親切になった。
私がこの手の混乱にまったくお手上げだと、彼の判断がそこに至ったらしい。
足りない書類を決めてくれて、自分の名札を指差し、
「出直す場合、こんど来るときは私を呼んで下さい」といってくれる。
初めからやり直さなくてすみますからね、と内気な笑みまで浮かべて。
私は出直して、その人に散々お世話になって、やっと4時すぎに一件落着。

6時45分までに調布にいかなきゃならない。
「あの日のオルガン・上映実行委員会」
帰宅がまたしても1時すぎ。
気がついたら眠っちゃって、電車が終点の橋本にいるじゃないの 。

税金疲れ、だと思う。



2018年7月11日水曜日

小鳥は何時に起きるのだろう


小鳥は何時に起きるのだろう
どうも夜明けの3時半みたい
そのころきちんとおきれば、私もひと仕事できるのに

東の空に太陽の赤色が千差万別に混ざる、暗黒をおしのける

小さい団地を見つけて住んでいるので
点々と、知っているご近所さんのことを思い浮かべる、
作為もなく、わけもなく
いや、おそらくなにか、わけはあるわけでも
イメージは不意にやってきて、あてもなく消えてしまう

こんなに何年もかたまって住んでいるのに、
知らない人のほうがずっとずっと多いって、
へんだしふしぎだし、
快適でも不自然よね




2018年7月10日火曜日

ナイン・パーティーに行く


やっとのことでナイン・パーティーに参加。
憲法9条改悪に反対するロックバンドのライブ。
毎月9日、19時半ごろ。下北沢「スリー」で開催。
ゴロゴロのユウくんの企画。私にとっては少ない希望のひとつである。
少ないギムのひとつである。良心に照らしての義務というもの。
現政権下での憲法改悪に反対する有効なプロテスト。 
私は家が遠くて、終わりまでいると帰れなくなる。

23時11分の小田急電鉄にやっとこさ間に合って、家にもどって来た。
ホッとして、もう。

この1年、
疲れがひどいからと、電車が新百合ヶ丘駅に着いたというのに引き返し、
ノロノロ帰宅したことが2度ぐらい。忘れたことも何度か、ある。
下北沢のライブハウスに着いたとして、それから3時間轟音と向き合うなんて。
1日に家事+用事+ライブはもう無理で、電車に乗ってからできない相談と思い知る。
トシだからと人にも自分にもそう説明するが、そんなことでもないのかしら。

昨夜こそは素晴らしく楽しくて、優秀なパーティーだった。


2018年7月9日月曜日

スリー・ビルボード・メモ書き。


最初、このアメリカ映画がきらいだった。
身近な、凄まじいパワーハラスメントを行った会社員そっくりの下級警官。
娘をレイプされ焼き殺された母親が、なんとこの差別暴力サイコ野郎に共感、
ふたりして、軍が隠ぺいした真犯人を、ぶっ殺すかもしれないけど、
もしかしたらそれはやめるかもしれない。
とそういう結末に我慢ができなくて。不愉快で。

次の日、もう一度みる。・・・するとそんな映画じゃなかった。
世界は現在、結末もなにもふくめて、この脚本の通りではないか。
「スリー・ビルボード」は現代を寓話化、この映画は鳥獣戯画なんだ。
マキシム・ゴーリキイの「どん底」を下敷きにした理詰めの脚本。
母親による大看板(ビルボード)三つ。
「事実」と「責任者の名指し」と「告発」。
憤怒と暴力と偽善を代表する主役三人。俳優は超一流。
気がつけば現代アメリカ全体を完膚なきまでに分析、批判して秀逸。
脚本、監督、俳優にまったくスキがないから、惹き込まれてしまう。
どんなにイヤでも。
スキがないとはどういうことか。
情緒など問題外といわんばかりの人物造形がみものだ。
つまり、
徹底した憤怒は反省抜き。
警官は単純バカで人種差別暴力OK南部型マザコン。
そして警察署長の永遠なる偽善。ダブルスタンダード。
結果右も左も、世界中が偽善にホント好意的。
そういうわれらが世界 ではないかと、この映画はいう。

・・・「あの日のオルガン」の対局にある映画。

宮沢りえ主演の「お湯を沸かすほどの熱い愛」はクロサワの「生きる」が下敷き。
名優志村喬の市役所役人が、宮沢りえの場合お風呂やに変わっていた。


2018年7月8日日曜日

映画館にいく!

 
どうして「!」をつけたかというと、ひとつもマトモに進行しなかったので。
まず本を読んじゃって東中野で降りなかった。
まさか、新宿の、次の次の駅が東中野だなんて。
気がついて降りると、中野駅って、
どうも東中野に止まる電車のプラットフォームが一つじゃないらしい。
普通には電車はこない、でもそのうち来る、というプラットフォームがあるのだ。
階段を降りて昇って、そのばかばかしいプラットフォームに着いてしまった。
一つ隣の各駅停車の駅なのに、東中野は。
電車が来ないから行けない。映画の開始時刻に間に合わない。

新宿にもどってお昼ご飯を食べてから映画、と考える。
時間がありすぎるので、新宿の地下道をずーっと中村屋まで歩く。
食べるのに時間がかかりそうなセット・ランチを注文。
「コールマン・カレーってどういうものですか?」
ボーイさんが、ヨーグルトとクルミのスープでなんとかと言う。
鶏肉がいやだったので、お肉はと質問すると、
「牛肉でございます」
忙しい時でイライラしたのだろう、ボーイの目の色が冷たくなって、
失礼だし不愉快だった。私をばかだと思っている、それが私に伝わらないと
なぜ思うのか、不思議だ。
しばらく待つと注文のセットが別のボーイによって運ばれてきた。
どう見てもカレーに浮かんでいるのは、ジャガイモと鶏肉の塊なので、
これはコールマンカレーですか、ときくと
「さようでございます」
客とは気の弱いもので、鶏肉みたいな牛肉なのかもしれないと、思う。

コールマンカレーは殆ど残した。腹が立ってきて、
ウェイトレスにきてもらい、説明がまちがっていたと申告する。
気の毒そうに平謝りしただけで、彼女は向こうに消えてしまう。
中村屋ってなんなのだ。
そう思いながら食べていると、しばらくして、
私にこれはコールマンカレーだと答えたほうの人が来た。
少し年配だから、ボーイ長なのだろう。
謝ってこれからきちんと教育をいたしますので、という。
悪気もなんにも彼にはないが、それだけである。

こういう場合は料金を取るべきではない。
それが老舗の立場である。高価な設定はいい加減をゆるさない。
料金を支払うかどうかは、間違えられた客が決めることだ。
もちろん些細なことだから、客は当然、料金は支払うのである。
払いたくなければ、料理が運ばれた時点で、抗議しなければならなかった。

私の扱いにこまって、お飲み物をサービスいたしますと、
衆人環視のなかで彼は言ったが、私はサービスを追加しろと言ったのではない。
なにもかもセットしてあるランチを注文したのだから、
お飲み物はもういらないのだ。

また東中野に行く。
映画館のカフェで、まーだ時間があるので「お飲み物」を注文。
腹が立つけど、そういう日なのだ、きっと。なんかかんかが掛け違う。
ちょっと、可笑しいというか。
前の回なら講演つきだったのに、それだってダメになった。
ロクなことがないけど、そういう日もあって、それでなんとか、日常の均衡が
保てているのかもしれないのですよね。

映画は、ドキュメンタリーではなく、劇映画だった。
「返還交渉人」である。こういう企画。俳優たちの努力。
「あの日のオルガン」も、こんなふうによかったと思ってもらえたらと願う。


2018年7月6日金曜日

朝から晩まで右往左往


早朝から、もうずーっといそがしい。
ハナウタまじりにやればいいかもしれないけど。
お弁当を作り、朝ごはんを作り、ついでにメールに「スリー・ビルボード」という
コーエン兄弟系統の映画の感想文を入れたら、
朝だというのに終末間隔、もとい感覚。
7時が8時になり9時になり、
朗読の自主サークルたんぽぽの人たちが11時に到着するのに、
朝ごはんが半分のこって、テーブルの上にある。
洗濯だって半分しかできていない。曇りだし、雨だし。
台所がすごい。

なんとか頑張る。お湯を沸かしておこうと思ったところで、7人が到着。
1年に1回のサークルの5回目、いつのまにか5年・・・。
こういうのを定点観測というのかしら。

今回は「ないた赤鬼」の、青鬼さんと赤鬼さんの物語り、輪読である。

練習が終わると、中西さんが打ってきてくれたお蕎麦をみんなで食べる。
不思議にも中西さんはこのサークルの、たった一人の男性だ。
いつもお蕎麦にいろいろ乗せるように準備してくれる。
かつお節、おろし大根、ワカメ、ジャコ、鶏肉、紅ショウガ、
だれかが運んでくれた青い小茄子の浅漬けまで、お蕎麦にのせて、
私たちは中西さん特製のだし汁をぶっかけて食べ始める。
自分じゃできないことだし、すごくおいしい。
お茶も飲むし、お菓子も食べるし、果物もあって。

老境の5年は、過ごし様によっては、豊かな内面をはぐくむものらしい。
府中の多摩市民塾から派生した小さな独立小グループ。
時がたてばたつほど、こだわりが姿を消し、
不器用だったり、難しかったり、神経質な人もいるはずなのに、
どんな心遣いでこの人たちは5年をもちこたえたのだろう、
一人一人がいかにものお人柄そのまま、にこにこと落ち着いて、
めずらしいことだと会うたびに思う。
うれしいし、こうなると見たり聞いたりもラクチン。
朗読の練習も私は気がねなく、くったくもなく、ぽんすかぽんすか。
まー、まぁ、さいわい私はコーチで、上から目線。
みんなの方はドッキリしちゃって、1年に1度の「教師」相手の朗読だし、
おもしろくもおかしくもないのかもね、私ほどには。

夕方、洗濯を乾かしにコインランドリーに。
乾かすあいだに、生協で食材を買う、お米とか、お醤油とか、ゴボウとか。
雨が降って、クルマもびしょぬれ。
乾いた洗濯物を 袋詰めにし、ジャンジャン雨がふる中を
帰宅。

よせばいいのに、「やかまし村の春夏秋冬」をDVDで見る。
あんまり自然で、子どもらしいので、笑いながら泣きながら見て、
映画の中の子どもが笑うと笑ってしまい、あんまり幸福そうだから泣いたりして。

今日はいくらなんでも一冊も本を読まなかった。


2018年6月25日月曜日

温泉場の一日


温泉場にふつうの日に行った。
くたびれちゃったからだし、息子が休みの日だった。
ほとんど人がいない。
受付で手続きをしたら、このごろ来ないねと話してました、と言われたとか。
はははと笑ってしまった。
いつもグリーンの毛布をもって入館し、私と息子は一日中、大広間のどっかで、ご飯だとかウドンだとか、地場野菜のいろいろを食べては、持ってきた本を読む、お風呂に入って、眠くなると寝てしまう、それからまた本を読んで、それぞれ勝手に食べて・・・を繰り返す。夜おそくまでいる。
存在としては地味だと思うけれど、なにしろワンパターンだし、バカのひとつ覚えみたいに春も夏も秋も、1時間40分ぐらいかけてなんとなく通うから、受付の人だって覚えてしまうだろう。ほら、あの毛布もってくる人、とか。

すごく空いている日だったが、うるさい日で、大広間のこっちの隅から、あっちの隅に
引っ越したりした。大声で会話する3人組がうしろにいて、1人がえらそうに指図している、その指図の内容がまったくほんと気に入らない、・・・こういうのは困る。
それから小さい子どもが、たびたび金切り声をあげる。自分の子どもだったら外に連れ出して、ほかの人たちに悪いと、どんなに小さくても説教する。外に連れ出すのは子どもの面目をつぶしてはいけないからである。

温泉に入ろうかと思う。のんびりしに来たので。
息子は本を読んでいる。しばらくして戻ったら、ボーゼンとした表情だ。
どうしたのかきいたら、壮絶な親子喧嘩があったという、
ものすごい怒鳴り合いで。初めおばあさんが息子を怒鳴りつけ、息子も暴力団みたいに怒鳴り返し、それから外に飛び出していき、そのあとお嫁さんもけっこう大声でハッキリ、おばあさんにこういう事はやめろと、それでまた、、。
受付の人も厨房のおばさんたちも、みんな、強烈、壮絶な怒鳴り合いにただ呆然とするばっかりだったとか。
最初にキレたのはおばあさんで、聞いたこともないほどの罵り声だったそう。
なんて言ったのと聞くと、この穀つぶし、厄介者、出来損ない、もっと凄かったけどよく思い出せない、凄すぎてあんまりで。
「この穀つぶし? ずいぶんクラシックな人だね。民話みたいじゃない?」
それでも、そのおばあさんは私なんかよりずっと、ずっと若かったそうだった。
見たかったなあと思うけれど、見ないですんでよかった。
なんだか、不愉快をもらって、のんびりした一日がやっぱり壊れたろうと 。

みんないなくなって、夕方がきて、そして夜になった。




2018年6月20日水曜日

仕事が一段落


なにがあろうと、ブログを続けて文章の鍛錬をと思っていたのに、病気になったり仕事の〆切をまもれそうもなかったり。やっと「君たちは忘れない」復刻版の作業が終わり、前書きと後書きを編集者に渡してしまったので、このページにもどれる。前書きも後書きもすらすらとは書けず、考えてはウロウロするうちに、自分は文章の書き方に気をとられているけれど、ほんとうは新しくご縁ができた人々をどう考えたり思ったりするのか、それが書ければいいのではないか、と思うようになった。

大阪の地震がすごく心配。大学時代のクラスメートがいる・・・。
彼はずっと、私にとってはだいじな友だちのひとりで、ふるさとは遠きにありて思ふものとでもいうような。私たちは一年に一回、数人で再会しては、むかしのままの変わらぬ風情をそのままだと確認して、分かれていく。各自同窓の枠組みの外で、自分なりに努力して生きたにもかかわらず。今日だけはと素朴に昔にかえり、束の間の平安を得て。

震災の土地にいるなんて。・・・無事だろうか?


2018年4月7日土曜日

電車の中で。


京王線は空いていた。お昼ごろだ。
がらがらの電車に親子がのってきて、どしんとお母さんが腰かける。
ふつうの人なら遠慮するべき席だ。
中学生の息子はだぶだぶの上着、だぶだぶのズボン、
制服にリュック、入り口に立ったままでいる。
空気を揺らさないように、むなしい努力をしている、
自分を透明にしたいのだ。
どうせ。
彼は次の成り行きを承知している。
母親がどうでるかぜんぶわかっているのだ。
案の定、お母さんが息子の名前を呼んだ。
何回も呼ぶ・・・声が大きくなっていく。
座席のシートをパンとたたく。
息子は母親の思い通りになるのである。
皮膚のあれ寂びた、すべてを受け入れているおとなしい顔。
お母さんはずっとバッグから取り出した書類を点検している。
いらいら、いらいらと非難でいっぱいになって。
彼の身長は142センチなのか147センチなのか、151センチなのか、
柔らかい心がなんでもないことに混乱する。
バカッ、という母親の彼に対する絶望 と断定がみえる。
・・・ああ、バカはどっちだ。
書類は学校に提出するもので、
体重、身長、住所、電話番号を彼女は息子に尋問する。
本人が書きこみ、これから提出するものだろうに、
息子の手には絶対、書類は渡らない。
返してと、彼が柔らかい辺りをはばかる低い声で頼んでも、
声高に非難でいっぱいになった尋問をこの母親はやめない。
バッグに書類を得意満面ピシャリとまたかたづけてしまうのである。
電車が調布駅に着くと、彼女はカツカツカツと足音も高く、
ドアに向かい、苦笑いしながら、降りていき、

あとから息子がおとなしく付いてくることを疑いもしなかった。





2018年4月5日木曜日

パーティ


とりあえず撮影が終わったので、打ち上げの会をすると電話があり、
ご参加くださいといわれて、オウムがえしに「はい」と言ってしまった。
電話を切ってから後悔、パーティ・・・行きたくない。

「あの日のオルガンー疎開保育園物語」
というタイトルになった私の36年も前の著作の映画化、
突然、幼稚園の園長にと言われた時もおそろしかったが、
むりにもがんばってこらえたけれど、
どんな時も、
新しい分野での門戸開放に応えれば、孤立して苦しいことが多い。

映画、だなんて。
年をとってから急に実現した新開地。
ミラクル。

原作者という立場は映画というチームワークの埒外にいる。
 プロデューサーがふたり、寛容な方々だったので、
だんだんに落ち着いたけれど、
なんてまあ、無理で、ド派手な成り行き。
だれだってビックリする、誰だってついていけない、
 臆病なのはおまえだけじゃない、
そう自分に言い聞かせて、今までなんとかきたが、
なんだって・・・クランク・アップのパーティかあ、と。


2018年4月4日水曜日

やなせたかしさんの歌


アンパンマンの主題歌は傑作、人間賛歌だと思って胸がいっぱい。
歌なのに聞いたことがなく、文字を目と心で追いかけるだけなのだが。
やなせさんの作品群には、こういう、
黙っているといつまでもいつまでも、追いかけてくる詩が、ある。

しあわせよ
あんまり早くくるな
しあわせよ
いそがずに
カタツムリにのって
ひるねしながら
やってこい

しあわせがきらいなわけじゃないよ
しあわせにあいたいが
いまはまだまだ
つめたい風の中にいよう
熱い涙を
こらえていよう

しあわせよ
あんまり早くくるな
しあわせよ
いそがずに
カタツムリにのって
ひるねしながら
やってこい

やなせさんは、どんなことを考えたのだろう?
兵隊になって? そのあとの人生を生きて?
ながいこと、幸せの到来をすごい勢いで掴まえた人々のただ中にいて? 
漫画家なのに、なかなかそう思われなくて?

幸せは、じかに手にすれば、制御不可能。
そういうことを時々考えてしまう。

おおむかしの一時期、宮崎 駿氏のかたわらで半年間、仕事をした。
宮崎さんはチャーミングでなぜかユーモラス、
鋭くて正確、論理的でありながら公平、愉快な愉快な人だった。
どんな時も好意を持って、べつにファンでもないのに大好きだった。
この形容詞の大群?の中で、何が一番だろうかな。
ユーモラス、かしら。
ユーモラスとは、人間、を語源とするそうだけれど、そんな感じ。
もう本当に、笑い=おかしい=宮崎さん、みたいだった。
やっぱり漫画の畑の人は、こんな風に伝染の素みたいな笑い方をするのかと、
彼が、なんていうと失礼にあたるのかもしれないが、
彼がなにかを言って笑い出すと私は我が意を得たりみたいになるのだった、
別にそう伝えたことはなかったんだけれど。

あのころだって宮崎さんは、すでにしてたいした人だった。
でも、 「となりのトトロ」のあたりだから、立場というものも、台風ぐらい。
やなせさんの詩にもどれば、いかにも素朴でしあわせな。
一番は一番でも、世界を相手にミシミシ音をたてる
巨大きわまりないシン・ゴジラというふうな存在ではまだなかった。

特別という境遇は、どんなに難しい立場かしら。
平凡な普通サイズの私の立場から見れば、
やなせさんも並外れた巨人だから、と考えてみる
しあわせにむかって、こう頼むほど過剰な幸せのことを。


カタツムリにのって 
ひるねしながら やってこい




2018年4月3日火曜日

鶴三会の一日


お花見はいいものだ。
午前中の買いだしが案外にうまくいって、桜の下にまるく並んだものは、
量も質もちょうど良く落ち着いて、長いおつきあいならではという感じ。
ワインも紅く香りよく、日本酒も少しづつたくさん、つまり程よく選ばれた四合瓶
が数本、果汁もビールもふんだんに用意され、乾きもの、甘味、カットした果物、
・・・スイカやパイナップル、グレープフルーツ、イチゴの寄せ集め。
少なめに買い整えた、巻きずし、稲荷寿司。
サラダをやめてあっさりとキャベツ・キュウリの浅漬け 、
焼き鳥と、思いつきでブリやカレイやサバの煮つけを買ったのが、
けっこういい味、丁度よく無くなってよかった。

老人の会も、今となれば、知恵と落ち着きを備えた気持ちの良いものと思う。

鶴三会は、俳句の会を中にして一年をすごす成り行きで、比較的仲間うちの
表現も自由であってのびのび、 会話にほとんど気兼ねを感じない。
二重に敷いたシートに座って、話に興じて、さまざまな話の同時進行。
おおもしろがって笑う声。
花曇りの空をうかがい、桜の花びらが少し舞い散る公園を、ときどき私はながめる。
私たちみんなの心を映すように、桜は大枝をゆったりと芝土に向けて伸ばし、
葉桜を少しも見せまいと今もしているようだけれど、
どんなに咲いても満開を誇る日々は、すでに終わっているにちがいない。
灰色の空のあたたかさ。やさしさ。
淡さをまして凝固し、散るばかりの最後の緊張が、どの大木のどの桜花満開からも
伝わるようだった。

あゝ、私たちのいのちのようだ。

こういう心持ちをなんというべきか、
年を取って、わびしくも私の語彙は少なくなるばかり、
なんだろう、
寂寞 じゃくまくとでもいうのだろうか。
何げなく、あたたかい春の一日ではあるのだけれど。



2018年4月2日月曜日

おそいお花見


はらはらはらはら、お花見の日がやっときた。
突然あったかくなって、息苦しいほどソメイヨシノがあっちでもこっちでも、
咲いて咲いて、なんでこうなるのか、朝晩は底冷えの冷たさなのに。
3月の総会の日に、前倒しでお花見するかと相談もしたけれど、予定はなぜか変わらず。
葉桜と、桜吹雪と・・・、でもなんとか桜の木の下で集まれそう。
鶴三会としては、やっぱりおめでたい。


2018年4月1日日曜日

3月のおしまいの日


春が好きなのに苦手。
日常のことならなんとかできるけれど、
仕事に類することはなんとしてもできない。
とうとう昨日は、3月の31日で、書類の山を床にばらまいて
途方に暮れて半日がすぎた。
あーあとぐったり、ヒデコちゃんに電話をかける・・・。
ヒデコちゃんは私のひとつ年上の義妹、
別れた夫の妹で、ご縁が切れることになってしまった亡き姑に似て、
どんな人の苦境やさびしさにも、
春の訪れのようにうらうらと応えてくれる
めずらしいような性質のもちぬしなのだった。

夫と別れる決心をして、
それを姑に話す。
断崖からとびおりる、ということとは違うけれど、
でも、ヒデコちゃんに電話でおねがいした。
お義母さんにつぎこがお話があるけれど、
ヒデコ付きがいいか、つぎこだけがいいか、きいてもらえない?
・・・ヒデコ付きがいいと・・母が言っていると、
まもなく電話で知らせてくれた。
遠慮がちな暖かい声だった。
敬語と気持ちのいい低音の。

そんなことをいつも思い出すけれど、
今日は驚いたことに、いつになく元気な声が
「主人から知らせがあったの?」
電話の向こうでヒデコちゃんがヘンなことを言う。
「わたし、入院してるのよ、病院にいるの!」
ヒデコちゃんはもうずーっと病気で、
こちらからうかがうのも迷惑だろうかと気兼ねしてしまい、
もう何年も何年もあえずにいた。
電話で話すたび今度こそ会いに行くから、と私は言うけど 、
そんな時はこない、くるわけがないのである。

でも、今日は入院している!

病院にいるの?
じゃあ、今から行く。これからすぐ家をでる。
よかったあ、なんの約束もない日なのよ。

病院の住所をおしえて。
電話番号も教えて。
病室の番号を教えて。
お見舞いになにがほしいか教えて。
戸塚ね、とつかって、どこらへんだったっけ? 
「なんにもいらないのよ、それが」
ゆっくり、ヒデコちゃんはそういうのだった。
「急に血糖値が500になってさ、入院させられちゃったの」
血糖値? 糖尿病なの?
糖尿病であなたが入院するの?
えー、なんで、おかしいじゃない?
・・・糖尿病ならば、私がずーっと先輩なのに。

病院に5時半ごろ到着。
やっとあえて、ずーっとおしゃべり。
よかった、会えちゃった、とそればっかり。




2018年2月17日土曜日

日米合同演習今月6日の報道写真


今回の報道写真に注目したのは、たまたまのことで、私のような一般人には、
自衛隊員の戦闘訓練の「写真」を手にもって考え込むなどということは、
ふつう起こらない。
ところが今回は、米海兵隊指揮官の命令を待つ壮年の兵隊の、人間味をまる
ごと掴まえた写真から、気持ちが離れて行かない。

職業とはいえ、こんな場所に従順に身を横たえているからには、彼は忠実に
仕事をこなして今日に至った人物なのだろう。

この人は、と私は不意に思った。
具体的に知っているのだろうか、アメリカ海兵隊ではどんな訓練が行われているのか。
その実態を承知でOKと納得し、この砂浜に銃を構え横になっているのか。
どんな葛藤が、いかにもさりげないこの人に、あったのか無かったのか。
向き合いたくないものから目を背けて、陸自に仕えてきたのかしら。

私がそんなことを考えたのは、2,3日まえに、
講談社[子供達の未来のために]シリーズ   
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」
を読んだばかりだったせいである。



2018年2月12日月曜日

戦闘訓練の写真


今月6日の夕刊に、共同通信提供の前日5日撮影の写真が使われていた。
新聞の見出しは、
 陸自と米海兵隊 離島奪還の訓練 カルフォルニア州

キャンプ・ペンデルトンで撮られた写真前方に、壮年の陸上自衛隊員が一人、
銃を構え、迷彩服、長靴、戦闘用ヘルメット姿で、同じ構えのアメリカ兵達と、
砂浜に横たわって命令を待っている。背景は青い海と砂浜の水陸両用車「AAV」
そして米カルフォルニア州の海岸の藪である。この日本人の表情を瞬時クローズ
アップしたカメラマンはたいした感覚の持ち主である。いつのまにか戦争を始め
てしまっている日本人の、今日ただ今の表情を、活写報道したのだ。
それも陸上自衛隊と米海兵隊の、米国内における合同演習。

中年の自衛隊員はきっと家族持ちだ。年頃の男の子と女の子に学費がかかり、
家のローンもなんとか、それでパートに出ている女房がいるという顔つき。
背後で銃を構えている若いアメリカ兵とはちがい、顎にも頬にも我が日本国の
男はんの一般的生活感情が張り付いている。
あまりにもクッキリと表情がわかるので、彼が飲み屋で職業を隠して言う冗談
まできこえてきそうだ。
彼の陸上自衛隊における階級、従って給料は、企業の課長級

練習が長引いて、彼は時間がたつのを分刻みで待っていたのか。
遠景の若いアメリカの兵士も同じく待つ顔、待つ姿勢だ。


 

2018年2月11日日曜日

橋本駅で


新横浜と京都を往復するので、チケットを買いに橋本駅へ行く。

「みどりの窓口」は窓口の女性のほかに鉄道の制服を着ている補助要員がいて、
チケットの予約をするみんなの?面倒を見ている。
私があのう、こういうと注文を口にしかけるや否や、それならば自動販売機でと
彼はたちまち自動販売機の前までくっついてきて、おかしいほどの猛スピードで
なんだろうとかんだろうと、プリントアウト(というのかしら)してしまう。
機械苦手の私なんかはもうホッとする。 座席はこういう、と言ってみると、ポン
と画面を変えて、それならば6号車おっと進行方向だからその場合4号車ですね、
いいのねこれで、ほら2人座席ですからこれ。DとE。
初老のくたびれた制服の人だけど、見知らぬ乗客の私のためなんかにムキになり、
カチカチカチカチ、カチカチカチカチ・・・。身体によくないよー。
たぶんこの親切な職員さんは、退職まぎわになったら瘧(おこり)の発作を起こし、
両手が震えて苦しむんじゃないのか。
いい感じであっただけに、なぜだか心配なのでした。



2018年2月10日土曜日

1950年の私


1950年という年、私は和光小学校の1年生だった。
この年、占領軍アメリカの命令で吉田内閣が設置した警察予備隊は、
2年たつと保安隊になり、4年後に自衛隊になった。最初から武装組織だった。
私は1943年にうまれたから、
考えてみると軍隊のない国日本に、5年だけ住んだのだった。
私の高校時代のクラスメイトが、若いお母さんたちに、
「昔、私は軍隊をもたない国の少女だったのよ」と話したと今日きいて、
なんという花のような、美しいフレーズだろうかと思った。

やなせ・たかしさんに、こんな短詩がある。
               この世のさびしさを
               なぐさめるために
               いっしょうけんめい
               花はさくのか

そんなくらしを、力及ばずほそぼそ続けて生きた70年であり、
今はもう年をとってしまったけれど。あの人は、たしかにそんな風に
いっしょうけんめい生きていた、とにかくいつも。
そう思うと、人類の容量はすがたを変える。
気もとりなおせる・・・。

たとえ5年でも、その幸福な年月のあいだ、戦争で苦しんだ大人たちが、
いっしょうけんめい幼い私たちを育んでくれたのだろう。
1949年以来、常備軍を持たない憲法を守り続け工夫するコスタリカ、
私たちがそんな国の少女だったこともあったのか、という不思議。





2018年2月8日木曜日

新劇女優の家


北林さんといっしょに千歳船橋の彼女の家にもどる夜があった。
門の柵を開ければ、洒落た階段の上にノッカーつきの玄関扉がみえる。
右側に鎧戸がついた窓。左側にも両開きの木枠をしつらえた小窓がついていて、
私がたくさん読んだ童話や少女小説の挿絵が大人になったような家である。
小路から小さくはないそんな家を見上げて、
降るような星の輝く晩、北林さんは私におかしそうに言うのだった。

ここに立つとお母ちゃんは、よく働いた、あんたはたいしたもんだと、
自分で自分に言うことがあるのよ、おかしいと思うでしょうけど。
天井も、台所の皿小鉢も本棚の本も、台所のドアだってぜんぶこの自分が
働いて買ったものだと思うと、あんたはえらいって。
だーれも褒めてくれないけれども、そう言わずにいられない時があるのよ。

それは芝居の一幕四場のよう、現実とも思えない光景で、
世慣れない私は、彼女のモノローグに耳を傾けるばかりだった。
玄関脇を右にぐるりとまわって庭にでると葡萄の葉が絡んだテラス、
庭には大振りの白樺の木、草花の茂る小庭の向こうに木造の洋館。
北林さんが建てて、人に貸していた家だ。
月は空にかかり、暗闇がほんのり、風に小草がゆれている。
いつかこのテラスでチェーホフ劇を、と言うのを聞いたこともあったのだ。
1960年代のことである。




2018年2月7日水曜日

ディズニーのアリス


「不思議の国のアリス」を観た。
どの場面を見ても、天才の仕事だなと。
でも、誰が天才なんだかわからない、
作画がよく、アイデアが素晴らしく、音楽が抜群、
虫だろうと牡蠣だろうと花、兎、ドアの取っ手、あの有名な猫だって。
俳優達が奏でるセリフもまた変幻自在、まじめ冗談意地悪ピッタンコでもって、
始めから終わりまで猛烈スピーディーな展開。
集団の仕事がこんなにもうまくいくなんて、どういうことだろうか?

見終わったら、私なんか頭がクラクラしちゃって、
ディズニー調に動作がなっているような感じ、星も遠い夜空でピカピカ光るし。
ああ惜しい、子どものころに見られたらよかったんだ。
貨物船に忍び込んでアメリカに行こうと決心したはずだったのに。



2018年2月6日火曜日

Baby Driver


へんな映画をあらあらあらっ・・・・らっと見た。
ロック周辺の若者が、刹那、もとい切なく、こうありたいと思いそうな。

なにしろ主役はBabyとくりかえし呼ばれる、ひょろひょろ背の高い、
金髪、青い目、気が優しくて少し心もとない感じの男の子である。
黒人の後見人とくらし、このおじいさんが聴覚障碍者なのでBabyは手話を操る。
細くて長い腕をつかって語られる手話は、ひらひらと心もとないが、
字幕(単純な英語)によって二人の気持ちが観客に伝わるようにできているので、
この映画のモラルのありどころが儚く心もとなく、私たちにも届く。
はらはらすることに、
このきれいな男の子は、音楽依存症でDriverでギャングの手先、
文言を解体し音楽に再構成し、幼い日の事故による不安定を音楽で調律、
その結果が凄まじいdrivingーtechnicということに。
いかなるギャングも、この儚いようなBabyのバックアップを確保すれば
サーカスなみにど派手な展開でサツから逃げおおせるわけで、
ギャングの元締めは、怜悧冷血がダントツ売りだったケビン・スペイシー、
・・・・というウソ物語りなのである。

美男とか美女とかを見たかったら、近頃これかなあ、と。
主演は、「きっと星のせいじゃない」のアンセル・エルゴート。
身長191センチ。あの映画もとてもステキでしたよね。



2018年2月5日月曜日

海外定住の遥


遥のことを思わない日はない。

子どもが海外で暮らす場合、親は厳しい線引きを強いられる。
なにがあっても、たぶん助けられないだろう。
はじめてアエロフロートに乗りこむ娘を成田空港で見送ったとき、
そう思って、思考停止を自分に強いた。
考えても始まらない。
そういう広大な国へ娘は行ってしまうのだとショックだった。
モスクワへ、モスクワへ。・・・ソ連邦へ。

心配してももうダメだ。

それ以前に勉がヨーロッパへ出発した時など、見送れもしなかった。
乞食旅行で、職業(パン)の師匠が、費用から旅全体の骨子をお膳立て、
ヨーロッパのどこへ、いつ頃到着するのかも、よく判らない旅なのだった。
出発の朝、勉はおじさん(と私達は呼んでいた)に、
「おまえは遊びにいくんだから、働いてから行け」と言われたそうだった。
後藤雄一さんという人は、勉にとってかけがえのない父親だったと思う。

その一か月、死に物狂いで考えたことは、ひとつだけだった。
勉にたとえ何があってもパン屋の後藤さんのせいには絶対するまい 。

その旅で勉は人格が変わり、遥は、人柄はそのままに、人生が変容した。
彼らの暮らしぶりや困難な人生が、私は有り難いとも思うし、
どう考えなおしても、やはり好きである。



2018年2月4日日曜日

日曜あちこち

朝、小山田緑地の入り口階段をさがして歩く。
むかし、後藤楚子さんが私を連れて歩いて下さった場所だ。
難なく見つけたけれど、階段は今日は雪で昇れない。

家に引き返して、車で道志温泉へ。

温泉場の広間で本を読んでいると、しきりに牛の仔の鳴き声?がする。
べえべえーべえ、べえべー、ぶっ・・・。
それがひっきりなしなので見回すと、高校生ぐらいの男の子の声だった。
スマホかなにかを手にもって、おじいちゃんがご飯の相手をして。
顔をみるとご機嫌らしいのがわかって、ちょっと微笑ましくてよかった。
こんな雪の日に暖かい温泉場にきて、広いし丁度よく人もいるから、
彼も嬉しいのだろう。

わけがわかれば牛の仔みたいな声も温泉場の和音、
その家族が気がねそうに数人で立ちあがり帰ろうとすると、
どこまでお帰りになるのですか、晴れてよかったですねと、
そばのテーブルの人がひきとめたいような笑顔で話しかけている。



2018年2月3日土曜日

思い出す言葉


朝日が東の空で輝いているのがわかる。
空はもう明るく、木は枯れて、どこかで鳥がなにかを知らせている。
以前はよく、裏の小山にでかけて、日の出を待ち、
しばらく太陽が私を照らしてくれるまで石の腰掛けで待っていた。
いろいろなことを風が吹けば風に吹かれて思ったものだ。

幼稚園の園長になる少し前のことだった。
なにが起こるのか、なんにもわからない、
漠然とした災難の予感を太陽の光がゆっくりと大きく照らしてくれる。
早朝の散歩の人が、ふたりづれだったり、ひとりだったり。
初老のおんなの人がふたりで私を見て笑う。

「世にも幸せそうな顔をしていらっしゃいますねえ」
太陽の、あのおおらかな光の感触と、
親切な見知らぬ人の言葉を、ふいに思い出して、なつかしい。
「あなたさまは太陽がお好きなんですね」
光と影が交差すれば、光のほうが人さまには見えるわけかしら?


2018年2月2日金曜日

雪が降って


雪が降って、それから止んだ。
あんまり寒いので、床を雑巾がけし、
テーブルの前の椅子の数をふやす。
少しのことで居間が温かみを帯びるような気がする。
ソファに座って百回目の小説を読む、
すぐ、うとうとしてしまう。
買い物袋を手に、食料も買いそびれているから、しばらく焦る。
荷物が重いと頸椎の痛みがぶり返す。冷えるのも危ない。
かといってクルマだとこんな日は危険だろうし。
けっきょく歩いて、バスに乗って。
停留所へ降りる階段の雪かきをして下さっている人がいる。
小柄な見知らぬ女性・・・。
お礼をいってお手伝いできないと謝って。
こういうことをなんでもしたほうが、
けっきょく元気に滞りなく暮らせるというのが、
「ふたりからひとり」という本で教わったことだったのに。
でもさっそく、雪かきができないわけである。

灰色の一日、なんにも進行しない。
きのうチラシを各お宅に配っておいて、助かったと思う。




2018年2月1日木曜日

さむい、ひとりの朝


シジミのお味噌汁をうすめて、そこに冷やご飯をいれ、ことこと温め、
小鍋の火をとめてから、みじん切りの長ネギと生姜と青シソをちらす。
緑茶をのみながら、コーヒーも飲みながら、庭に来る小鳥達のために、
カンパンみたいな風味の、非の打ちどころなしの、もてあまし気味の
クッキーをくだいて、まいてやって、自分も朝ごはん。
いくらか多いサラダ、ハチミツ漬けのナッツ。

とても自分だとは思えない。
最近読んだ、「ふたりからひとり」という本の影響で、
ばたばた駆け回るまい、というところ。
・・・女子会のお知らせを封筒に入れて、宛名を書いて。
10時までに一応のことがすんだ。
洗濯も掃除も、きのうやってしまったので、
あとはそれぞれのお宅のポストにお知らせを運んで入れるだけ。




2018年1月31日水曜日

否定的日暮れ


1月最後の日である。
どんなに頑張っても、年賀状が一枚も書けなかった。
ブログは休まない。と決心している。書きなれない状態をなんとかしたくて。
でもそれだとブログ、掃除、洗濯で、一日が終わってしまう。
もう老女なんだしいいよと思いながら、毎日がっかりしている。
亜鉛が足りないせいと聞くけど舌がおかしい、作るご飯が まずい。
分量だって作りすぎで不適当。

今日は意地になって、女子会のチラシをとにかく完成させる。
泊り客があると健がいうから、ゴミ部屋を泊まれるように整理して・・・。
水道やさんが夕方来る。
気合いで晩御飯の用意にとりかかる。もう日が暮れたのだ。
しじみの味噌汁。シャケの塩焼き。レタスとモヤシとニラ。砂肝。
塩分過多である。

よかったことはないのかしら。
チラシができたことかな。
コピー作業も失敗しなかった。
これはホントにめずらしい。



2018年1月30日火曜日

朗読サークルの集まり


さながら対話のパーティ、談論風発、
大橋さんのお宅がとても素敵なので、目は楽しいし。
長いことやってきたけど、
ああ、やっぱりこういう心やすらかな日もあるわけか。
今年11月の朗読発表会 も、
こんな感じで来場のみなさんに楽しんでいただければいいなあと思う。

閉ざされた空間ならば日本人は対話上手かしら。
そんなことはない。ただの話は観客の批評眼に負けてしまう。
今日のように、意見の内側に社会的立場の違いというか反映が必要で。
そういう技術は、真剣な修練ぬきには実現しないものである。

いつも無理やり構成を考えるけれど、
焦燥感なしに、すらすらとやれちゃったら、どんなに良いでしょうね。
今日みたいな自然さで。


2018年1月28日日曜日

小人がいると


どうしてこうも、探しているものが見つからないのか。
名優北林谷栄さんは、八十才を超えたころ、しょっちゅう、
「家の中にいじわるな小人がいて」と、
チェーン・スモーキングの合い間にカンシャク玉を破裂させていた。
そいつがなんでもかんでも隠してしまうと言うのである。
女優さんらしいし、いささか西洋の童話みたい、
アンデルセンかグリムか、グリムっぽいなあ、などと思ったものだった。

それが今となると冗談じゃなくて、他人事じゃなくて。
北林さんの小人が毎日・・・。
最近の私は、探している物が絶対に見つからない。
階段を上がったり下がったりしながら、焦ってイライラし、
北林さんの家にいた小人の気配をなぜか感じて、
女優さんとはちがうから、声にだしたりはしないけれど、
「隠すの、やめなさいよっ」
隠し稼業に専念しているらしい小人を探して天井などをにらむ。
いらいら、はらはら、がっかり、もう煙草でも吸いたいなと沈思黙考。

煙草もねえ、買ってはあるけど ・・・そんなもの。
あんな北林さんのようなドスのきいた洒落た声はでないのですし。



2018年1月27日土曜日

水道管の凍結事故


 ピンポーンとベルが鳴る。

顔見知りの方が二人。水道管が大変なことになっていますよ、と教えられた。
外に出ると大量の水が水道管から噴出、雪の上にすごい勢いで落ちている。
早く水道局に電話した方がと言われたが、なんど電話してもダメ。
窓口の録音が、水道管凍結事故が続出しているので、という説明を繰り返すのみ。
時間はどんどん経つ、水は噴出するばかり、進退極まってがまんができず、
またしても細田さんに電話してしまった。
こんなに寒い日に。細田さんは八十才を越えているのに。
「うわあ、ありゃ、ありゃ、ありゃ!」
これは俺じゃだめだ、水道屋でないと直せないよ、と言いながら、
「家に行って、道具を取ってくるから」
水道の元栓をまず閉めて下さって、細田さんはお宅にもどる。
・・・もう水をかぶってずぶ濡なのである。

私は水道屋さんを電話帳でさがしたが、思いついて管理事務所に電話で相談。
「ええと」と彼女が考えてみてくれる。「JSに問い合わせてみてください」
去年理事をやった時、私はこの人にもう散々お世話になったのである。
水はジャブジャブあふれ続けている。玄関に駆けて行くけど、細田さんはまだ。
思いがけず公団に電話が繋がり、JS所属の水道屋さんを手配してもらう。
有り難くてビックリした。
応対が的確、わかりやすい上に、思いやりの深い声音の男の人なのである。
「公団の人は親切ですよ、いつも、あの人達はね」
乾いた作業着に着替えた細田さんが、道具を手に、にこりとしてそう言った。
管の入り口を閉めるフタだったり、ビニールテープだったりの、
細田さんの七つ道具の私物でもって、着々と応急手当が行われていく。
水は一応止まった。地面から滲み出るだけになった。

寒い日なのにとお詫び申し上げると、
「おれなんかもう、八十四だからいつ死んでもいいと思ってね、
できるだけお役にたてればいいと思ってるの、ホントだよ」
笑顔のなかの本気の顔に、ここに引っ越してきてからの長い時間が
思い出された。お願いだから死なないでね、細田さん会うといつも私は頼む。
細田さんがいなくなったら、この団地の人はみんな本当に困っちゃうから。
百まで生きていてね、と私はお願いし、そんなにはちょっと無理だなあと
いつも言われてしまうのだ。

 五時になると、世にも親切そうな年配の水道屋さんが来てくれた。
雪と氷の間で作業して、いろいろいろいろ地面を掘ったり金物を切ったり、
夕暮れのなかで、青いような紫いろのような顔になっているのに、
寒いから家の中にいて下さい、と私にはそう言ってくれる。
「帰ってから計算しますけれど、そんなに工事費も掛からないと思いますよ」

おかげさまで水が止まりました、と報告すると、
細田さんは電話の向こうで「心配していました」と笑ってそうおっしゃる。 
あーあ、不思議なくらい親切な人にばかり会った日・・・。
・・・もう本当に、どうなることかと思って。


2018年1月26日金曜日

頸椎の痛みを直すには


沖縄に電話をする。
竹内さんは私の健康上の絶対的恩人で、必ず助けてくれる。

交流磁気器をふたつタテに並べて。
背中がゴツゴツ痛いから、そこはバスタオルなどで工夫して、
背骨と頸椎に当てる。
何日か教わったようにしていたら、スーッと痛みが退いてきた。。
すごくよかったと喜んだけれど、つい、また痛みがぶり返す。

よく判った。
首を無防備に冷やすとよくない。
重い物を運搬すると、痛みが再発する。
しつっこく治療に専念する方がいい。

ほかによかったことも。
いただいたマフラーがいつのまにか増えていたのに、
とても綺麗な布地の模様なのに、苦手で使わなかった。
なーんだマフラーって首を温めるものだったの、という新?発見。
お洒落ができて愉しい、スカーフはだから廃れないのねー。



2018年1月25日木曜日

重たい日


失礼のお詫びに行く。
プロデューサーは映画製作の立場から。
私は著作復刻版を別会社から出版すると決めたので。

こういうことがあると、過去を振り返る。
自分を人格的に優れた者だとはまるで思えないできたが、
それでも相手の方が怒ると、
ぐちゃぐちゃな人生にふわりと網がかかるというか。
74年の月日が幾何学模様になって整理がつくから不思議だ。
たぶん、怒る側に理があって、
私がその人に共感するからだろう。

資本主義に負けたのかと彼はいう。
何日も前、自分でも悩んだことだ。
小さい出版社から大会社に鞍替えして。
人の一生は簡単で、決断の数も私などはふつうよりか少ない。
けっこう単純ビンボーに生きてきた。
裏切ることも裏切られることも少なくてすんだわけかと、
出版社の長椅子に腰かけていて急に考える。

私の人生は有り難い人生だったのだ。

帰りぎわにやっと、虎屋の羊羹。
いかにも私という個人の「卑怯」のお詫びという感じ。
重たくて。ずっしり。その存在感に頼る皮肉。
私は滑稽な気がして自分でも少し笑っちゃって。
「すみません、虎屋の羊羹なんて。お詫びの場合ってこれかなあと。」




2018年1月24日水曜日

起床について


早朝4時ごろ目がさめる。まだ外は夜中のつづき・・・。
はんぱな時間なので、本を読んでみたりする。
眠れないのに、そのうちウトウト、
「これがいけない」となんとか今朝は考える。
 二度寝しないのが一番と長男が言ってたけ。
彼はパン屋で明けがたから仕事なのである。

今日は本郷三丁目でプロデューサーと10時15分に会う。
昨夜のメール。雪雪の盛岡から と。
彼がまにあわなかったらどうしよう?
今どき夜行列車なんてものはないのかしら。
新幹線、飛行機。
日本中飛び回る職業のひとがいるわけだ。

劇団民芸にいたころは、夜行列車だとか、青函連絡船だとか。
行ったり来たり、などということは想像もしなかった。
旅公演に出れば、一か月はもどってこない。
そういう鉄砲玉みたいな、でもゆっくりな生活。ちょっと宿命的な色合いで。
若い私は、苦しみながら、人知れずおもしろいと思っていたのだろうか。
薄幸の群像になって地方の舞台に乗って。



2018年1月23日火曜日

こわい長靴


その長靴を買ってからもう何年もたってしまった。
デボラさんがくるたび、
「コーノ長靴、素敵デスネー、ホントヨ」とほめたゴムの安物。緑色の。
あんまり雪が積もったので、遠くまでいくからと履くことにした。
とっくに古びてしまった、おろし立て。
靴の裏が、ガビガビと凸凹で、いかにも滑り止めになってくれそう。
しかしこの強面のゴム長ときたら実はとんでもない代物であって、
雪のない平らな道路を歩くとつるつる滑る、恐ろしいったらない。
氷をひっかいてガリガリ怖い音を立てる割に、
いつ滑ってひっくり返ってしまうかわからないという感じでこわい。

こわいから最初はばかばかしいけど積雪の上を歩く。
けっきょく雪から降りることにした。だって長靴をはいているんだから。
そうしたら、こわい長靴がこんどは雪がなくても滑らない。
辻褄があわない。
歩調にあわせて深呼吸を始めたのがよかったのかしら・・・。

半日ギシギシうるさい音をたて、このゴム長は4974歩ほど私を運んだ。




2018年1月22日月曜日

雪の日


大雪になるというので、10時を待って、買い物にでかける。
虎屋の羊羹を探しに聖跡桜が丘のデパートまで。
明後日、さる会社にお詫びにいくのだけれど 、申し訳ないので虎屋の羊羹。
迫力じゃないでしょうか、虎屋だなんて。昔からの竹の皮に羊羹だし重たいし。
虎屋はかつてどこのデパートにもあったけれど、今はない。
あの権高さがこうなると懐かしいようだ。
希少物品ウィンドウみたいなショーケースの中にやっと見つけてホッとする。
高校生になっても、うっかり「やらと」と立派な看板をぎゃくに読んだっけ。
なさけないじゃないの、こんな端っこにいるなんて。
母屋から追い出されたご大家の総領娘さんみたいじゃないですか。

虎屋かあ。
一生のうち自分は何度、食べたりしたのか?
三回、か二回か。
大金持ちの俗物が食べるものだとつい馬鹿にして。




2018年1月21日日曜日

キュウリの状態と値段


近くのスーパーマーケットに行くとキュウリが一本53円で、売り場に
あと5,6本しかない。手に取ってみるが、どれも萎びてヒドイものだ。
憤慨してほかの店へ。いくら野菜高騰の冬でも、
キュウリ一本に高い値段をつけて、萎びようがどうしようが、
そのまま平気で売るなんて横着じゃないの。


2018年1月20日土曜日

ギクシャクする本


「死の海を泳いで」を図書館から借りる。
71才で闘病の末に亡くなった批評家にして作家スーザン・ソンダクの死。
少し読んでは時々、本を閉じて表紙の写真をながめる。
世の中にこんな綺麗な女の人がいるのかとビックリして、
そのたび私は本文にもどろうと努力する。
読んではすぐイヤになる不自然で高尚で複雑そうな、
息子(ジャーナリスト)が書いた、母親の死に至るまでの九か月。

T・S・エリオットの詩
   私は時がつねに時であることを知っている
   場所がつねに場所であり、場所にすぎないことも
   現実のことはただ一度だけの現実であり
   そして一つの場所においてのみ現実であることも
   だから私は、物事がありのままの姿であることを喜び、
   その祝福された顔をあきらめる

私など、このエリオットの詩句の引用からして、ブッくたびれちゃう。
そんなことを言われると、読むまえから無呼吸症候群のようになる。
物事がありのままの姿でそこにあることを喜んだことなんてないので、
広大な敷地たる現実をたとえはすかいにでも認識したくはないと感じるので。

もっとすごい引用もある。
18世紀のフランスの作家が友人にたずねる。
「僕はこんなに生を憎んでいるのに、どうしてこんなに死を恐れているのだろう?」

知らないし、知ってても言いたくないよ。

子どもの時だったら、父にこういう時は「相談」した。
自由自在に、愚かな子どもの質問・感想にこたえて、文学や評論の世界を
無理なく拡げてくれる人だった。
よく笑ったものだった。
私の父の返答はなんとなく諧謔的で、かいぎゃくなんて字はしらなかったけれど、
おかしくって、人間が好きになってしまうというオマケがついていた。



2018年1月19日金曜日

天国モノレール


立川北へ行こうとしてモノレールに乗ると、
昼下がりのせいか乗客はまばら、陽光はうららか、
アナウンスが、
座席をつめあって座れというけれど、
わたしのいる車両は空席ばかりなのよね。

前の車両はどうかと見ると、腰をかけている人たちは、
天国にいるみたいなふうに思い思いに
十人掛けに五人が腰掛けて、オーヴァーを着たりして、
素朴に四人までが黙読中、メガネの似合う紳士もいて、
・・・小説や、手帳、なにかの資料など。

どの顔も考え深く、老いも若きもゆっくりしている。
それは信じられない光景で、
なんの不思議か、車両全体をみまわしても、
スマホの虜(とりこ)は三人しかいなかった。
立川北につくのだって心もちゆっくりだったんじゃない?


2018年1月18日木曜日

霧の朝


今日は西大宮へ行かなくちゃいけない。
そう思って起きて硝子戸の外を見ると、霧がたちこめている。
メタセコイヤ通りは霧にまかれて、アスファルトの車道を走る自動車だけが、
姿を見せながら、シューシューと土手下の道を走り去るのだ。
大木が、魚の骨みたいに霧に浮かんでいる。
通りを隔てた向こうの団地が、淡いももいろの霧に隠れている。
庭木が四方八方に小枝をつきだし、粗雑なさまが、ひどい。
人の手が及ばなければ、大小の樹木はみんな魚の骨みたいに見えるはずかしら。
いや、でっかいタケボウキみたいな木も・あるはずね。



2018年1月17日水曜日

カシミヤのオンボロ


こんな冬にはカシミヤのセーターがいい。

いちばん気に入っている黒いセーター がおんぼろになって、
洗濯のしすぎなのか、あっちこっちに穴がある。でも一番だ。
ネックが少し持ち上がっているので、軽々とほんとうに暖かい。
これがカシミヤだけど、
着ようとするたび「襤褸」という文字がピッタリだと思う。
新しいのは買えないほど高いにちがいないから、
セーターの下に黒いものを着る。
最近は肘のところにもどかんと穴があき、ピエロ的。
自分がオンボロだと思うと、ちゃんちゃらおかしくって。
カモフラージュの Tシャツは出がけだと半袖しか見つからない。
頭もボロになってるわけよねー。
でも。
着る。
カシミヤってゆっくりと暖かいし、たとえボロだって。
黒いぶっ壊れそうなセーターを着て、その上に胴衣(ベスト)、
その上に別のセーターまたは厚手のカーディガン。
ものによってはオーバーなんかいらないぐらい暖かい。

修理ぐらいしなさいよと自分に言うが、そんなこと言ったって忙しい。


2018年1月16日火曜日

衝動買い


外套と藍色木綿のワンピースの間に
襤褸をかくせそうな大きい胴衣のようなものがあって、
売れなくてインド製だから少し壊れて、という。
高価なものが三分の一の値段なので着てみたら、ボタンがバラッと取れた、
「すみません、ほかのボタンにも後日おなじようなことが起こります、
ボタンが黑い糸で巻いてあるだけなので、」
そういう予言?とともに店主がまたも千円値下げ。
ついつい、買ってしまう。
この町にむかし住んでいて、ー私は30年以上前からのお客さんで、
いい買い物客ではなく、年月ばかりが過ぎた客なのー
それでたいていはよそ行きのためにふらっと藍色の服を買うわけで。
食器とか布類とか便箋もここでさがす、なんだか安心。

いつの頃からかそうなって、店主も自分も年とって。
ささやかで目立たない贅沢。



2018年1月15日月曜日

東京新聞・本音のコラム・1/14


本音のコラムのおとといの小見出しは「反逆の意義」だった。

小学館発行の雑誌APIO最新号で、反日的と批判された山口二郎先生の反論。
 「特定の政権を国家そのものと同一視し、
  政権批判を行う者を反逆者と攻撃するのは、
  独裁国家に共通した論法である。」
と書いてある。
 「権力に尻尾を振って、権力のなすことをすべて正当化する人間こそ
  国を誤った方向に導く元凶であるという
  歴史の教訓を学ばなければならない。」

山口さんは法政大学の先生だ。
オーソドックスとは、うちのガタガタの古い広辞苑をひくと、
伝統的な教養・学説・方法論を受けつぐもの、とある。
ものごころついて以来の親の代からの自分の常識にてらして、
山口二郎先生のお話は素人にもよくわかるものだ。
オーソドックスで、つい頼りにしてしまう。

先生は、コラム9行目にスカッとお書きになっている。
「けんかを売りたいなら買ってやる。」
言論の自由に照らして、
どうすればこういう臨機応変の勇気が身につくのだろうかと悩ましいが、
こういうカンカンに怒るという生き方を、見習いたいものである。



2018年1月14日日曜日

仁義なき戦い


俳句の締め切りを連日意識しているのに、頭はからっぽ。
小林さんが催促してくださって、申し訳なくもやっとこさ投稿。
このごろ、一日に五千歩はきれいな冬景色の中を歩いて通るのに、
電車から窓外の景色を、俳句、俳句とながく見て考えようとするのに、
いつのまにか意識が横にすべってどうしようもない。


夜になって、深作欣二監督の映画(DVD)を初めて観た。
なんて乱暴・雑多混乱粗暴殺人過多な日本だろう。
あのころは俳優さんたちもシノギをけずって毎日楽しかったにちがいない。
悪役、灰汁役、ただもうひたすら強烈な存在たらんがために、
なにがなんでもワンサカギラギラの大努力、
東映、日活、松竹、新劇入り乱れて、物凄い混成俳優部隊が、ギラギラギラギラ。
「仁義なき戦い」第一弾! 第二弾をつい臆病になって借りなかったのが残念 。
この作品は続編がたくさんあると聞くが、二作目までがいいんだとか。

後記。
2作目、べつに良くはなかった。




2018年1月13日土曜日

パソコン


しょっちゅう使い勝手が変わる。
頼んでもいないのに、ややこしくなり、不便になってしまう。
スピードアップしてくれと頼んでいないのに、
私個人のパソコンに、いつのまにか他者が、技術の暴君みたいなものが
「もっと便利に」と手を加える。
しかもパソコンは起動すると、アルファベットから。

日々、個人の家にズカズカ入り込まれたようで不愉快だ。
一人一人のささやかな生活に黙って入り込み、その人のささやかな独立を
かきまわしてしまう「技術革新」。
ワードプロセッサーはもう少し素朴でよかった気がするが、
そういうものはあっというまに市場から消えてしまうのである。

沈黙の軍隊。




2018年1月12日金曜日

復刻版


朝から気力なし。きのう仕事で遠くまで行ったからかしら。
むかし書いたルポルタージュが復刻版になるという話。
単行本にして再発行というのだから嬉しい。
私は〈虔十公園林〉という童話絵本をもって行った。

この本の挿絵画家に絵を描いてもらって下さい。
どうしてかって、虔十という頭が足りない子がかわいい。
いじめられても、なぐられても、喜んで笑っても、可愛くてリアル。
ほかのただの子ども達も、よく見ればすごく子どもらしい。
なんにもない畑ばっかりの農地の貧乏ったれぶりが、いい。
美しいけれど、寒くて、過酷な自然というもの、
戦時下の農村、疎開保育園が張り付いていた土地そのもの、
この画家の絵は、詩のようでいて厳しくリアルです。

戦後70余年、私たちは繁栄してそういう風土を失った。
37年前に書いた時は考えもしなかったことだけれど、
「ロマンティックな追憶の土台がどうしても私は必要だと思っているんです。」

そう言ったんだけれど。


2018年1月11日木曜日

公園を横切ると


急いで公園を横切る。
早朝である。行く先は築地市場、家はあっちから見れば地の果てだ。
なんてまー寒いと思う。寒い。
震えまいとするが、ガタガタ震えて私は、ううう、とよける。
後ろからガシ、ガシと自転車の車輪がたてる音がするのだ。
太めのおじさんが、すみませんとも言わずに、私を追い越す。
あったかそうなこげ茶のオーバーに軍手はめて、毛織のズボン。
後ろ姿を見送った・・・。
耳あてふうの黒白の網目の毛糸。ネックウォーマーが帽子。
ハゲの部分だけまんまるく露出、
ネックウォーマーなんだから。クビのためのものだもの。
それでもってグングン曲がって 消える。

後頭部・・・。
わっお日様みたいと、少しばかり好意をもってしまいました。



2018年1月10日水曜日

一月三分の一


お正月以来、家事の借りがいっぱい。
今日はその借りをどうにか返す。
息子の外套を繕う。
でき上がって試しに着てみたらよろけてしまった。
脱ごうと思うと重たくて、外套の捕虜というか。

ユリ根を煮る。
筍と油揚げと人参と干し椎茸の煮物をつくる。
五種類の豆も煮て、蒟蒻は胡麻油でじっくり炒めてから味をつけておく。
挽肉、ニンニク、しょうが、長ネギ、等々でハンバーグの用意。
パン粉がないからゴロゴロだ。
あーあ、全部、お正月に勉たちに食べさせたかったんだっけ。
元日はがっかりするほど疲れて、
健の豚汁、健のサラダ 、健と買いにいったケーキなどなど。

もうダメだー。
と思いつつ、昨日は急いで髪を切りに。
もう十年以上もお世話になっている可愛い顔の美容師さんで、
遥と同い年。このあいだの髪型はいやだと言ったら、
「それじゃあ思い切って右と左を違う長さにしましょうか?」
違う長さ?! 
わからないから怖いようだけど、それでお願いという。
彼女は、大丈夫ですよ、大丈夫ですよと笑ってチョキチョキ。



2018年1月9日火曜日

集中力皆無


雨が降っていた。それから晴れたので洗濯物を過剰なほどやる。
少し曇って、晴天という感じもしない。でも無理に干す。
すると風が吹いて、太陽が輝いて、けっこうなことである。
ところがなんだか曇る。待っていると晴れる。
本を、もういろいろ手にとる。
おもしろいと思った本はすぐおもしろくなくなり、
これは図書館に返してしまおうかと投げていた本が、
私には必要な本だったりして、あぶなくシッカリ捕まえる。
頸椎の治療を竹内さんに教わって始めたから、
ご飯も食べなきゃならないし、時間がもうてんでんばらばら。
ま、いいか。
そんなにヘンじゃない。そう思うことに決めた。
なんとかかんとか、まあ大丈夫。
こんな日も愉快ときめれば愉快なのよね。




2018年1月8日月曜日

アンジェイ・ワイダ監督の遺作


「残像」は素晴らしい映画である。
スターリニズムにおかされてゆくポーランド。政治と芸術と生活の運命。
劇場に出掛けて観ることができなかったのがとても残念だ。
カメラ・ワークが素晴らしく、俳優が老いも若きも壮年期の人もいい。
映画という手法によって語られる秀逸な哲学と芸術。群衆と個人。
政治権力は始めは官僚主義により大学の教育現場や美術館を侵略してみせる。
あっという間に、政治権力は生活のあらゆる場面を暴力をもって餌食にする。

すべてを切り取る語る巨匠の腕前がみごとで、
ああ、この人は 存分に生命を全うした知識人だったのだと思わせられて、
感動的である。
イリヤ・エレンブルグの「人間・歳月・生活」を思い出す。
今年はなんとかして、全巻くまなく読みなおしたい。

2018年1月7日日曜日

いいお顔


去年の暮れに彼が手術をして、本人はもちろんみっちゃんも
看病で大変だったろうに、ふたりとも私よりは元気そう、
みっちゃんが逢いに来てくれて、彼までが家に来てくれた。
3人ですごく沢山の話をした。
なんでも話して、なんでも気持ちを分け合える。
それは年月が計らってくれたことだ。
よくみっちゃんが私を家族同然と言ってくれるけれど、本当にそんなかんじ。
ふたりの顔をながめると、「いいお顔」と赤ちゃんの笑顔をみてみんなが喜んだ時を
私なんかは思う。みんなトシなんだからヘンだけど。 



2018年1月6日土曜日

新年五日目


午前中、電話があり、李 鳳宇さんからだった。

最近、思いがけなくご縁を得た映画のプロデューサー である。
去年は天地が割けて、そこから新しい運命がはじまったような年だった。
東北シネマ新社の鳥居明夫氏から連絡があり、
むかし私が書いたルポルタージュを読んだ李さんが、映画化を引き受けたとか。
ふたりプロデューサー で35年も前に書いた本が映画になる。
ビックリだ。

映画関係の本には、案外、李 鳳宇という人の名が登場する。
大物とか有名人とか、李さんはそういう人なのかもしれない。
私はこの人に時々会うようになった。・・・映画の原作者なので。
李さんは初めて会った時、私をみると自分の母親を思い出すと言った。

鳥居さんとか李さんは多忙のあまりに、
原作者なんてものは相談の圏外に奉って無視して、という映画人だと思うが、
それでも二人は、映画の進行状況を時々、私に会っては説明してくれた。
そういう関係が成立するにはもちろんある種の経緯があるが、
一年が終わったころ、私に感銘を与えたのは、李さんの場合だと
長幼の序ということだった。

李さんは映画の人だから、最初から イメージがあって、
原作は原作、映画は映画という、キッパリとした区分をもち、
確固たる見通しのもとに、膨大な仕事をこなしていたにちがいない。
ものすごい経歴は一筋縄ではいかぬ仕事内容をつくる・・・。

しかし、李さんは多忙にもかかわらず頼めば会ってくれ、
私の意見をきいてくれ、時間を惜しまず疑問に答えてくれた。
どういうわけか、李さんは、いつもウソがなく自然で好意的なのであった。

なぜかというと、
それは彼のお母さんを私が思い出させるからという、
最初からの印象に、李 鳳宇さんが忠実だったからではないか。
どことなく素朴な優しさが彼から私のほうに伝わってくる。
韓国人のお正月というと、親族集合が絶対的なものとして大変だときくが、
そういう縛りというか、韓国人の精神風土が、
李さんの私への親切になっているのかもしれない。

子どもの私が、父や母の向こうにみた日本人の心がまえというか心情が、
おかげさまで懐かしく思い出される一年だったと思う。


2018年1月5日金曜日

大きな食堂で


ふと見ると、向こうのテーブルでおかっぱ頭の茶髪がゆれた。
茶髪に白髪がまぎれこんでいる老いた顔がニコッとする。
かわいらしい、冗談めいた表情だった。
大きな夫がそばにいて、テーブルの上を片づける手伝いをしながら、
妻の半外套をもって立ち上がり、着せかけてやった。
べつに外国風というわけでもない、きっと長いあいだ仲がよかったのだ。

私は見ているだけで幸福になった。

「ねえみてごらん、私たちのとなり」
ちがうちがう、すぐ隣りよと私は言う。
息子が横目で、すぐ隣りのテーブルを見る。
そこに、老いた母親と途方に暮れたような息子が腰かけているのだ。
「私たちみたい、あの息子もきっと三番目の子だね、あっはっは」
ホントだ、うりふたつだ、と息子もあきれて笑った。

その老母だけどけっこう淡々としている、ちっとも不幸そうじゃなかった。


2018年1月4日木曜日

不幸


友人の家にいて、携帯電話が鳴る。

長いあいだの友人からだった。帰宅して夜遅かったけれど電話。
娘さんが会社の旅行でセクハラを受け、拒絶すると、
あいつは3万円で寝ると言っている、と言いふらされ、
彼女は会社に帰ってから、社長に抗議。
社長は善処すると約束、即座にセクハラ社員を呼んで彼女に謝罪させたという。
(数日後、セクハラ社員の奥さんが彼女を訪問して謝罪)
ところが謝罪したその足で、セクハラ男は彼女があらぬデマを振りまいていると
社内に言いふらし、他の上司からお前が悪いと言わんばかりの注意(あてこすり)を
彼女は受け、善処は空約束でなんの進展もなかった。

娘さんが母親に話すまでに約二ヶ月かかっている。
セクハラ社員に社内でいき会うと精神に不調をきたし、心療内科に通い・・・。

よく知っているけれど、
苦労して大きくなった胆力のある強い娘である。
結婚して鎌倉に小さな家を建て、夫婦でローンを返しながら働いている。
夫は優しい、大島の人だから彼女を大事にしている。
彼女が法的解決をしたいと言うと、賛成したそうである。

弁護士についての相談だった。

ひるま私がうかがっていた友人のお宅は、豊かでとてもスマート、
なにからなにまで理に適っているという素敵さであった。
早くから日本のシステムに見切りをつけ、ハーバード大学で研究を続け、
アメリカ国籍を取得、子ども3人はみんなアメリカで成長しアメリカで結婚生活、
数々の写真で私がまことに胸をうたれたのは、
いかにもの家族という感じ、みんなが健康で幸せそうだということだった。
家族というあの感じ、ささやか?な理想が、立派に実現していることだった。

夜中にセクハラの話をきく前から、私はみんなのことを思い、
みっちゃんを思い、自分や子供たちを思い、朗読の仲間を思った。
日本の、我が国のシステムは、どうしてこうも不安と不幸を呼ぶのだろう。




2018年1月3日水曜日

アメリカの「人の在り方」をきく


就職活動の自由について。
日本とはまるで違う。
現在の日本では就職のための面接は、屈辱的で、
辱められることの繰り返しではないかと私は想像している。
それはなぜか。
アメリカでは部門別に求人を行う。
日本では人事部が求人を行う。


2018年1月2日火曜日

やっぱり晴れた


晴れた日の朝は、行く先になにが待っているかわかりませんが、
温かい光線が、おとなしくて笑顔のいい少女のようです。
朝日をあびて、みんながじーっとしています。大きな樹も小さな木も。
私の部屋のガラス戸のむこうにみえるのはメタセコイヤの大木で、
小さな庭では柿の木が、しょうこりもなく小枝をつんつん空にむかって伸ばしています。




2018年1月1日月曜日

お正月の夕空


あけましておめでとうございます。

きょうはずーっと忙しくって、夕方、やっと外にでました。
見上げると、おどろくほどまるくて黄色い月が紺色の空にくっきりと輝いています。
今日に続いて明日もお天気。晴れる、まっ、いいか、とりあえず晴れるなら。

どういうわけか、どんどん楽天的になって、私は6月になれば75才ですが、
いまのところ兎に角のーんびりしたおばあさんになりたい。
今年の抱負はそれです。


ブログをどんなに短いものでも毎日書きたい。
宮沢賢治の童話にざしきぼっこのはなしというのがあって、
あっちやこっちに、べつべつのざしきぼっこが、・・・・出る。

いただいたお年賀状を読んで不思議になることですが、
ぜったいに会えないような気のする方からいただく賀状がいくつかあって、
そうだ、私の過去にも、ざしきぼっこがいたんだなあと。

数えてもかぞえても、やっぱりいたのだかいなかったのだか。
でもそのヒトは私の貧しい人生をきっぱりと、
一度は柔らかな足取りで横切ってくださったのでしょうね。

年の初めにあたり、みなさまのご多幸をお祈り申し上げます。