2018年2月17日土曜日

日米合同演習今月6日の報道写真


今回の報道写真に注目したのは、たまたまのことで、私のような一般人には、
自衛隊員の戦闘訓練の「写真」を手にもって考え込むなどということは、
ふつう起こらない。
ところが今回は、米海兵隊指揮官の命令を待つ壮年の兵隊の、人間味をまる
ごと掴まえた写真から、気持ちが離れて行かない。

職業とはいえ、こんな場所に従順に身を横たえているからには、彼は忠実に
仕事をこなして今日に至った人物なのだろう。

この人は、と私は不意に思った。
具体的に知っているのだろうか、アメリカ海兵隊ではどんな訓練が行われているのか。
その実態を承知でOKと納得し、この砂浜に銃を構え横になっているのか。
どんな葛藤が、いかにもさりげないこの人に、あったのか無かったのか。
向き合いたくないものから目を背けて、陸自に仕えてきたのかしら。

私がそんなことを考えたのは、2,3日まえに、
講談社[子供達の未来のために]シリーズ   
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」
を読んだばかりだったせいである。



2018年2月12日月曜日

戦闘訓練の写真


今月6日の夕刊に、共同通信提供の前日5日撮影の写真が使われていた。
新聞の見出しは、
 陸自と米海兵隊 離島奪還の訓練 カルフォルニア州

キャンプ・ペンデルトンで撮られた写真前方に、壮年の陸上自衛隊員が一人、
銃を構え、迷彩服、長靴、戦闘用ヘルメット姿で、同じ構えのアメリカ兵達と、
砂浜に横たわって命令を待っている。背景は青い海と砂浜の水陸両用車「AAV」
そして米カルフォルニア州の海岸の藪である。この日本人の表情を瞬時クローズ
アップしたカメラマンはたいした感覚の持ち主である。いつのまにか戦争を始め
てしまっている日本人の、今日ただ今の表情を、活写報道したのだ。
それも陸上自衛隊と米海兵隊の、米国内における合同演習。

中年の自衛隊員はきっと家族持ちだ。年頃の男の子と女の子に学費がかかり、
家のローンもなんとか、それでパートに出ている女房がいるという顔つき。
背後で銃を構えている若いアメリカ兵とはちがい、顎にも頬にも我が日本国の
男はんの一般的生活感情が張り付いている。
あまりにもクッキリと表情がわかるので、彼が飲み屋で職業を隠して言う冗談
まできこえてきそうだ。
彼の陸上自衛隊における階級、従って給料は、企業の課長級

練習が長引いて、彼は時間がたつのを分刻みで待っていたのか。
遠景の若いアメリカの兵士も同じく待つ顔、待つ姿勢だ。


 

2018年2月11日日曜日

橋本駅で


新横浜と京都を往復するので、チケットを買いに橋本駅へ行く。

「みどりの窓口」は窓口の女性のほかに鉄道の制服を着ている補助要員がいて、
チケットの予約をするみんなの?面倒を見ている。
私があのう、こういうと注文を口にしかけるや否や、それならば自動販売機でと
彼はたちまち自動販売機の前までくっついてきて、おかしいほどの猛スピードで
なんだろうとかんだろうと、プリントアウト(というのかしら)してしまう。
機械苦手の私なんかはもうホッとする。 座席はこういう、と言ってみると、ポン
と画面を変えて、それならば6号車おっと進行方向だからその場合4号車ですね、
いいのねこれで、ほら2人座席ですからこれ。DとE。
初老のくたびれた制服の人だけど、見知らぬ乗客の私のためなんかにムキになり、
カチカチカチカチ、カチカチカチカチ・・・。身体によくないよー。
たぶんこの親切な職員さんは、退職まぎわになったら瘧(おこり)の発作を起こし、
両手が震えて苦しむんじゃないのか。
いい感じであっただけに、なぜだか心配なのでした。



2018年2月10日土曜日

1950年の私


1950年という年、私は和光小学校の1年生だった。
この年、占領軍アメリカの命令で吉田内閣が設置した警察予備隊は、
2年たつと保安隊になり、4年後に自衛隊になった。最初から武装組織だった。
私は1943年にうまれたから、
考えてみると軍隊のない国日本に、5年だけ住んだのだった。
私の高校時代のクラスメイトが、若いお母さんたちに、
「昔、私は軍隊をもたない国の少女だったのよ」と話したと今日きいて、
なんという花のような、美しいフレーズだろうかと思った。

やなせ・たかしさんに、こんな短詩がある。
               この世のさびしさを
               なぐさめるために
               いっしょうけんめい
               花はさくのか

そんなくらしを、力及ばずほそぼそ続けて生きた70年であり、
今はもう年をとってしまったけれど。あの人は、たしかにそんな風に
いっしょうけんめい生きていた、とにかくいつも。
そう思うと、人類の容量はすがたを変える。
気もとりなおせる・・・。

たとえ5年でも、その幸福な年月のあいだ、戦争で苦しんだ大人たちが、
いっしょうけんめい幼い私たちを育んでくれたのだろう。
1949年以来、常備軍を持たない憲法を守り続け工夫するコスタリカ、
私たちがそんな国の少女だったこともあったのか、という不思議。





2018年2月8日木曜日

新劇女優の家


北林さんといっしょに千歳船橋の彼女の家にもどる夜があった。
門の柵を開ければ、洒落た階段の上にノッカーつきの玄関扉がみえる。
右側に鎧戸がついた窓。左側にも両開きの木枠をしつらえた小窓がついていて、
私がたくさん読んだ童話や少女小説の挿絵が大人になったような家である。
小路から小さくはないそんな家を見上げて、
降るような星の輝く晩、北林さんは私におかしそうに言うのだった。

ここに立つとお母ちゃんは、よく働いた、あんたはたいしたもんだと、
自分で自分に言うことがあるのよ、おかしいと思うでしょうけど。
天井も、台所の皿小鉢も本棚の本も、台所のドアだってぜんぶこの自分が
働いて買ったものだと思うと、あんたはえらいって。
だーれも褒めてくれないけれども、そう言わずにいられない時があるのよ。

それは芝居の一幕四場のよう、現実とも思えない光景で、
世慣れない私は、彼女のモノローグに耳を傾けるばかりだった。
玄関脇を右にぐるりとまわって庭にでると葡萄の葉が絡んだテラス、
庭には大振りの白樺の木、草花の茂る小庭の向こうに木造の洋館。
北林さんが建てて、人に貸していた家だ。
月は空にかかり、暗闇がほんのり、風に小草がゆれている。
いつかこのテラスでチェーホフ劇を、と言うのを聞いたこともあったのだ。
1960年代のことである。




2018年2月7日水曜日

ディズニーのアリス


「不思議の国のアリス」を観た。
どの場面を見ても、天才の仕事だなと。
でも、誰が天才なんだかわからない、
作画がよく、アイデアが素晴らしく、音楽が抜群、
虫だろうと牡蠣だろうと花、兎、ドアの取っ手、あの有名な猫だって。
俳優達が奏でるセリフもまた変幻自在、まじめ冗談意地悪ピッタンコでもって、
始めから終わりまで猛烈スピーディーな展開。
集団の仕事がこんなにもうまくいくなんて、どういうことだろうか?

見終わったら、私なんか頭がクラクラしちゃって、
ディズニー調に動作がなっているような感じ、星も遠い夜空でピカピカ光るし。
ああ惜しい、子どものころに見られたらよかったんだ。
貨物船に忍び込んでアメリカに行こうと決心したはずだったのに。



2018年2月6日火曜日

Baby Driver


へんな映画をあらあらあらっ・・・・らっと見た。
ロック周辺の若者が、刹那、もとい切なく、こうありたいと思いそうな。

なにしろ主役はBabyとくりかえし呼ばれる、ひょろひょろ背の高い、
金髪、青い目、気が優しくて少し心もとない感じの男の子である。
黒人の後見人とくらし、このおじいさんが聴覚障碍者なのでBabyは手話を操る。
細くて長い腕をつかって語られる手話は、ひらひらと心もとないが、
字幕(単純な英語)によって二人の気持ちが観客に伝わるようにできているので、
この映画のモラルのありどころが儚く心もとなく、私たちにも届く。
はらはらすることに、
このきれいな男の子は、音楽依存症でDriverでギャングの手先、
文言を解体し音楽に再構成し、幼い日の事故による不安定を音楽で調律、
その結果が凄まじいdrivingーtechnicということに。
いかなるギャングも、この儚いようなBabyのバックアップを確保すれば
サーカスなみにど派手な展開でサツから逃げおおせるわけで、
ギャングの元締めは、怜悧冷血がダントツ売りだったケビン・スペイシー、
・・・・というウソ物語りなのである。

美男とか美女とかを見たかったら、近頃これかなあ、と。
主演は、「きっと星のせいじゃない」のアンセル・エルゴート。
身長191センチ。あの映画もとてもステキでしたよね。



2018年2月5日月曜日

海外定住の遥


遥のことを思わない日はない。

子どもが海外で暮らす場合、親は厳しい線引きを強いられる。
なにがあっても、たぶん助けられないだろう。
はじめてアエロフロートに乗りこむ娘を成田空港で見送ったとき、
そう思って、思考停止を自分に強いた。
考えても始まらない。
そういう広大な国へ娘は行ってしまうのだとショックだった。
モスクワへ、モスクワへ。・・・ソ連邦へ。

心配してももうダメだ。

それ以前に勉がヨーロッパへ出発した時など、見送れもしなかった。
乞食旅行で、職業(パン)の師匠が、費用から旅全体の骨子をお膳立て、
ヨーロッパのどこへ、いつ頃到着するのかも、よく判らない旅なのだった。
出発の朝、勉はおじさん(と私達は呼んでいた)に、
「おまえは遊びにいくんだから、働いてから行け」と言われたそうだった。
後藤雄一さんという人は、勉にとってかけがえのない父親だったと思う。

その一か月、死に物狂いで考えたことは、ひとつだけだった。
勉にたとえ何があってもパン屋の後藤さんのせいには絶対するまい 。

その旅で勉は人格が変わり、遥は、人柄はそのままに、人生が変容した。
彼らの暮らしぶりや困難な人生が、私は有り難いとも思うし、
どう考えなおしても、やはり好きである。



2018年2月4日日曜日

日曜あちこち

朝、小山田緑地の入り口階段をさがして歩く。
むかし、後藤楚子さんが私を連れて歩いて下さった場所だ。
難なく見つけたけれど、階段は今日は雪で昇れない。

家に引き返して、車で道志温泉へ。

温泉場の広間で本を読んでいると、しきりに牛の仔の鳴き声?がする。
べえべえーべえ、べえべー、ぶっ・・・。
それがひっきりなしなので見回すと、高校生ぐらいの男の子の声だった。
スマホかなにかを手にもって、おじいちゃんがご飯の相手をして。
顔をみるとご機嫌らしいのがわかって、ちょっと微笑ましくてよかった。
こんな雪の日に暖かい温泉場にきて、広いし丁度よく人もいるから、
彼も嬉しいのだろう。

わけがわかれば牛の仔みたいな声も温泉場の和音、
その家族が気がねそうに数人で立ちあがり帰ろうとすると、
どこまでお帰りになるのですか、晴れてよかったですねと、
そばのテーブルの人がひきとめたいような笑顔で話しかけている。



2018年2月3日土曜日

思い出す言葉


朝日が東の空で輝いているのがわかる。
空はもう明るく、木は枯れて、どこかで鳥がなにかを知らせている。
以前はよく、裏の小山にでかけて、日の出を待ち、
しばらく太陽が私を照らしてくれるまで石の腰掛けで待っていた。
いろいろなことを風が吹けば風に吹かれて思ったものだ。

幼稚園の園長になる少し前のことだった。
なにが起こるのか、なんにもわからない、
漠然とした災難の予感を太陽の光がゆっくりと大きく照らしてくれる。
早朝の散歩の人が、ふたりづれだったり、ひとりだったり。
初老のおんなの人がふたりで私を見て笑う。

「世にも幸せそうな顔をしていらっしゃいますねえ」
太陽の、あのおおらかな光の感触と、
親切な見知らぬ人の言葉を、ふいに思い出して、なつかしい。
「あなたさまは太陽がお好きなんですね」
光と影が交差すれば、光のほうが人さまには見えるわけかしら?


2018年2月2日金曜日

雪が降って


雪が降って、それから止んだ。
あんまり寒いので、床を雑巾がけし、
テーブルの前の椅子の数をふやす。
少しのことで居間が温かみを帯びるような気がする。
ソファに座って百回目の小説を読む、
すぐ、うとうとしてしまう。
買い物袋を手に、食料も買いそびれているから、しばらく焦る。
荷物が重いと頸椎の痛みがぶり返す。冷えるのも危ない。
かといってクルマだとこんな日は危険だろうし。
けっきょく歩いて、バスに乗って。
停留所へ降りる階段の雪かきをして下さっている人がいる。
小柄な見知らぬ女性・・・。
お礼をいってお手伝いできないと謝って。
こういうことをなんでもしたほうが、
けっきょく元気に滞りなく暮らせるというのが、
「ふたりからひとり」という本で教わったことだったのに。
でもさっそく、雪かきができないわけである。

灰色の一日、なんにも進行しない。
きのうチラシを各お宅に配っておいて、助かったと思う。




2018年2月1日木曜日

さむい、ひとりの朝


シジミのお味噌汁をうすめて、そこに冷やご飯をいれ、ことこと温め、
小鍋の火をとめてから、みじん切りの長ネギと生姜と青シソをちらす。
緑茶をのみながら、コーヒーも飲みながら、庭に来る小鳥達のために、
カンパンみたいな風味の、非の打ちどころなしの、もてあまし気味の
クッキーをくだいて、まいてやって、自分も朝ごはん。
いくらか多いサラダ、ハチミツ漬けのナッツ。

とても自分だとは思えない。
最近読んだ、「ふたりからひとり」という本の影響で、
ばたばた駆け回るまい、というところ。
・・・女子会のお知らせを封筒に入れて、宛名を書いて。
10時までに一応のことがすんだ。
洗濯も掃除も、きのうやってしまったので、
あとはそれぞれのお宅のポストにお知らせを運んで入れるだけ。