My Mother said that I never should play with the gypsies in the wood, The wood was dark; the grass was green; In came Sally with a tambourine. I went to the sea-no ship to get across; I paid ten shillings for a blind white horse; I up on his back and was off in a crack, Sally tell my Mother I shall never come back. -Songs of Mother Goose-
2013年9月15日日曜日
彼はなにを思ったのだろう?
彼は何を思ったのだろう
マンモスな団地の、公団住宅の意地悪な12階のマドから
彼は何を見たのだろう
たったひとりで
体が破壊するにまかせ
食べるものを調理できず、掃除もできず
だれにもかまわれず
どうすることもできず
死んだ母親の
ぼろぼろになった布団を敷いた
ベッドに寝て
コンクリートのヴェランダの外は、
ひろびろとした空の下にひろがる横浜の大空間
空虚で涼やかな秋が
灼熱の大気にまぎれこんで
地平線のぎざぎざのかなたには
港らしいものが見えると娘が私に言う・・・
彼があの港をだれかに見せたくても
だれかにこの無意味な美景をおしえたくても
そういう用意はしたのだろうに
こだまひとつもかえらなかった何百日か
12階のヴェランダはあまりにも高く
飛び降りて死のうにも
びゅうびゅう風がゆくのだし
こんな光景がまばゆくどこまでも広がるばかりだから
倒れた壁画のような美しくもおぞましい地上めがけて
ニンゲンの人生によく似たそこに
そこに身を投げるなんて
とてもできなかったろう
彼はいったい
なにを、どう
考えたのだろう
まだ元気な日、歩けなくなった日、起きられなくなってから、
こんな
地獄によく似た景色を売り物にする
一年契約の公団刑務所住宅をわれにもあらず選んだあとで
2013年9月14日土曜日
あした「ガゼルのダンス」で
あしたは「ガゼルのダンス」でタケシがひとりライブをする。
池の上の帽子屋さんの薄明かりのなかで。
店主の秋山さんがつくったフライヤー(ちらし)は、ロマンティックなものだ。
彼女の帽子のどれかをかぶって演奏と息子がいうから、
それもおもしろくて・・・。
岩崎菜摘子ちゃんが暁子さん(お母さん)と来てくれる。
智人くんもお母さんのみっちゃんと来る。
遥も九月末まで日本にいるから、
「ガゼルのダンス」に行って秋山さんたちに会えるのだ。
息子が働いた先で年上の友人になってくれた森さんにも
また会えるだろう。
はじめて出会う人にとっても、
みょうに居心地がいい「ガゼルのダンス」は、
むかし床屋さんだった。
なぜかは知らず床屋ってのは昔から洒落た感覚のものだが、
この変形の床屋っぽい店を女の子が不思議につくりかえたのである。
帽子をつくる器用な、芸術的な手でもって。
菜摘子ちゃんの作品は雑誌の表紙を飾るようになったし、
みっちゃんは家族新聞「すいとんの日」を閉じる。
「すいとんの日」最終号はおどろいたことに300号。
家族と友人たちがその作業の終了を惜しみ、新しい出発を祝っている。
反核家族と宣言し、新聞を手書きで300号だなんて・・・。
なんてまあ、みっちゃんは努力したことだろう。
私のところでは、今朝、長男が父親を病院から自立型老人ホームへと引越しさせた。
以前崩壊した家族なりの、それぞれの努力がとりあえず実る日。
ああ、それでも、だれの人生だって、
悲劇を抱えたまま、そのままずっと続いてしまうのだろう。
しかし、そこに小さいスキマを見つけ、工夫してこじ開け、
苦しいくらしを自分たちらしく、笑いながら過ごしてみよう。
へんてこりんにちがいないけど、人間的な日常をカラカラとつくりだそう。
二男はひとりでライブをする時・ライフイズウォーター・と表示する。
してみると、彼にとって人生は水なのかしら。
そんなこと言うなよと、私は時々思うんだけれど。
ライフイズウォーターの連絡先・電話だと090・8518・3724
2013年9月8日日曜日
遥の帰国
遥に一時帰国するよう頼んだ。
オランダに住んでいるので、めったに会えない娘だ。
いままで帰ってきて、と私から頼んだことはない。
親孝行な子だが、外国は遠くて、
私にもこの娘にも、行き来の自由がそんなにはなかった。
あっちへ行ったり、こっちへ来たり、
なにか、どっちかにおカネができた時。
(そんな時はめったにない)
でも今回は言うとすぐに来てくれた。
どうやら外国に根付いて実力を発揮しだしたのだ。
ロシアは遠くて。
オランダも遠くて。
それでも、ひとりの子どもがはるかな土地に住んだので、
運命によって、私もそこに出かけ、少しのあいだそこに滞在した。
遥のおかげでよい旅ができたのである。
子どもたちの父親と離婚したときから長い時がながれた。
指折りかぞえてみると、20年ちかくにもなる勘定だ・・・。
別れた夫は、母親とのふたり暮らしがおわり、マンモス公団に入居、
あげく病気をこじらせて緊急入院。
今年の3月末のことである。
来るときがきたなあと思うことになった。
以来、入院先のケース・ワーカー、市役所、不動産屋、保健所、各老人ホーム、
友人たちに相談にのってもらいながら、
なんとか今後の彼の落ち着く先をさがそう、考えようとしてきた。
息子たちとは直接、外国にいる娘とはスカイプやケイタイ電話で相談した。
どんなに考えても、もう一度ひとり暮らしという未来に幸福はない。
ひとりで死ぬことになってしまうと思う。
かといって、同居可能な家族などいない。
誰かがなんとかしなければ、どう考えても彼は破滅するのだ。
個人的に破滅する人の多い日本である。
毎年の自殺者が3万人以上いる国。
友人が言うには、5年ごとに地方都市がひとつ消滅する勘定だという。
戦争よりひどい、となにかの本にも記述があった。
破滅。
老人になれば、ヒトは人間という種族から厄介ものという種に転落する。
入院もままならない。ひとり暮らしを受け入れるアパートは見つからない。
病院や施設を紹介してくれようという保健所も市役所も、けっきょく無いのである。
それは、ほんとうに苦しい、無残な結末だ。
オリンピック招致に約1000億円の経費をつぎ込む国で、
なんでこんなことが、と思う。
こんなことばかりまかり通るわけはない、とも思う。
それでがんばってみることにしたのである。
努力の余地が日本にはまだあるだろうと思うことにしたのである。
半年がたって、やっと彼が自立型の軽費老人ホームに入居できることになった。
針の穴をくぐりぬけるように難しいことだったけれど、本当によかった。
私が遥に帰ってきて手伝って頂戴とたのんだのは、
そうしてもらわなければ、もう、にっちもさっちもいかないからである。
それに、いま家族の努力の輪の中に入っておかなければ、
遠くにいる娘はどうなるというのだ。
遠くにいるヒトは、ますます遠のいて、存在感をなくしてしまうだろう。
こんなおそろしい世の中で、家族とは名ばかりのものと考えるに到るなんて、
それはダメだ。
留学以来、しかたなく仲間はずれを続けてしまったけれど、
それは寂しいことではないか、当の遥にとっても私たちみんなにとっても。
遥はたちまち飛行機を予約。先月27日に帰って、
集中的に父親の引越しにともなう雑事を肩代わりしはじめた。
ありがたいことに仕事の切れ目でタイミングもよかったのだ。
彼女の一ヶ月の滞在は、灰色めいた用事で埋め尽くされているけれど、
・・・私たちは、ひさしぶりに家族的生活をして、まーそれはそれ。
ケッコウ面白くて愉しいことである。
2013年9月6日金曜日
敦賀の市長さん
内橋克人さんの講演を、福島の原発が大事故をおこした直後、大船で聴いた。
それは井上ひさしさんの追悼の夕べだった。大江健三郎、なだいなだ、そして内橋さんが
話した。
つい最近、なんの気なしに内橋さんの本を手にとった。
そこに、故・高木孝一敦賀市長の「原発講演会(地元の広域商工会主催)」における
講演の記録があった。この講演は1983年に行われ、一時、ネットに流布、
有名になったものである。
当時の私はインターネットを使いこなせず、この敦賀市長の考えというものを、
ぜんぜん知らなかった。
高木さんは九十三才で心不全のため亡くなり、お葬式は2012年6月5日だったみたい。
4期16年の市長さん。大往生。
高木さんの息子さんは衆議院議員の高木 毅さんである。
いま講演記録を読むと、
選挙とか、投票の重みを、子孫に対する責任とはどんなことをいうのか、まざまざとわかる。
いったい自民党は高木さんをなんで公認したのだろう!?
只今ご紹介頂きました敦賀市長、高木でございます。えー、きょうはみなさん方、広域商工会主催によります、原子力といわゆる関係地域の問題等についての勉強会をおやりになろうということで、非常に意義あることではなかろうか、というふうに存じております。……ご連絡を頂きまして、正しく原子力発電所というものを理解していただくということについては、とにもかくにも私は快くひとつ、馳せ参じさせて頂くことにいたしましょう、ということで、引き受けたわけでございます。……いわゆる防災義務と称するものは、(原子)炉の周辺から2キロないし3キロというところは、やはりそうしたところの(防災)体制を固めなさいと。こういうふうなことでございます。あるいは住民は避難道路をつくろう、とか。あるいはまた避難場所をつくろうとか、こういうふうなことで、私どもに対しましても、強くいろいろ申し出があるわけでございます。けれども、抗議もくるわけでございますけれども、ま、私は防災訓練もやらない、と……。もうそんな原子力発電所は事故があったら逃げまどわなければならない。あるいは避難しなければならない、とういうことになったら、もうそれで終わりなんだ。そんなことはゼッタイあり得んのだ、というふうに、自分も、私どものいわゆる住民も、あるいは私も、そういうふうに思っておるわけでございます。一昨年もちょうど4月でございましたが敦賀1号炉からコバルト60がその前の排出口のところのホンダワラに付着したというふうなことで、世界中が大騒ぎをいたしたわけでございます。私は、その4月18日にそうしたことが報道されましてから、20日の日にフランスへ行った。いかにも、そんなことは新聞報道、マスコミは騒ぐけれど、コバルト60がホンダワラに付いたといって、私は何か(なぜ騒ぐのか)、さっぱりもうわからない。そのホンダワラを1年食ったって、規制量の量(放射線被曝のこと)にはならない。そういうふうなことでございまして、4月20日にフランスへまいりました。事故が起きたのを聞きながら、その確認しながらフランスへ行ったわけです。ところがそのフランスでも、送られてくる日本の新聞に敦賀の一件が写真入りで「毎日、毎朝、今にも世の中ひっくり返りそうな」勢いで報じられる。やむなく帰国すると、こんどは大阪空港に30人近い新聞記者が待ち構えていた。悪びれた様子もなく、敦賀市長帰る。こういうふうに明くる日の新聞でございまして、じつはビックリ。ところが敦賀の人は何喰わぬ顔をしておる。ここで何が起こったのかなあ、という顔をしておりますけれど、まあ、しかしながら、魚はやっぱり依然として売れない。その当時売れない、まあ魚問屋さんも非常に困りました。あるいは北海道で採れた昆布までが……。敦賀は日本全国の食用の昆布の7割ないし8割を作っておるんです。が、その昆布まで、ですね、敦賀にある昆布なら、いうようなことで全く売れなくなってしまった。ちょうど4月でございますので、ワカメの最中であったのですが、ワカメも全く売れなかった。まあ、困ったことだ、嬉しいことだちゅう……。売れないのには困ったけれども、まあそれぞれワカメの採取業者とか、あるいは魚屋さんにいたしましても、これはシメタ! とこういうことなんですね。売れなきゃあ、シメタと。これはいいアンバイだ、と。まあとにもかくにも倉庫に入れようと、こういうようなことになりまして、それからがいよいよ原電に対するところの(補償)交渉でございます。そこで私は、まあ魚屋さんでも、あるいは民宿でも、100円損したと思うものは150円もらいなさいというのが、いわゆる私の趣旨であったんです。100円損して200円もらうことはならんぞ、と。本当にワカメが売れなくて、100円損したんなら、精神的慰謝料50円を含んで150円もらいなさい、正々堂々と貰いなさいと言ったんですが、そうしたら出てくるわ出てくるわ、100円損して500円欲しいという連中がどんどん出てきたわけです(会場に大笑い、そしてなんと大拍手?!)。100円損して500円もらおうなんてのは、これはもう認めるもんじゃない。原電の方は、少々多くても、もう面倒臭いから出して解決しますわ、と言いますけれど、それはダメだと。正直者がバカをみるという世の中をつくってはいけないので、100円損した者には150円出してやってほしいけど、もう面倒くさいから500円あげる、というんでは、到底これは慎んでもらいたい。まあ、こういうことだ、ピシャリとおさまった。いまだに一昨年の事故で大きな損をしたとか、事故が起きて困ったとかいう人はまったくひとりもおりません。まあ、いうなれば、率直にいうなれば、一年に一回ぐらいは、あんなことがあればいいがなあ、そういうふうなのが敦賀の町の現状なんです。笑い話のようですが、もうそんなんでホクホクなんですよ。ワカメなんかも、もう全部、原電が時価で買(こ)うてしもうた。全部買いましょうとね。そんなことで、ワカメはタダでもらって、おまけにワカメの代金ももらった。そういうような首尾になったんです。(原発ができると電源三法交付金がもらえるが)そのほかにもらうおカネはおたがいに詮索せずにおこう。キミんとこはいくらもらったんだ、ボクんとこはこれだけもらったよ、裏金ですね、裏金! まあ原子力発電所が来る、それなら三法のカネは、三法のカネとしてもらうけれども、そのほかにやはり地域の振興に対しての裏金をよこせ、協力金をよこせ、というのが、それぞれの地域であるわけでございます。それをどれだけもらっているか、をいい出すと、これはもう、あそこはこれだけもらった、ここはこれだけだ、ということでエキサイトする。そうなると原子力発電所にしろ、電力会社にしろ、対応しきれんだろうから、これはおたがいにもう口外せず、自分は自分なりに、ひとつやっていこうじゃないか、というふうなことでございまして、たとえば敦賀の場合、敦賀2号機のカネが7年間で42億入ってくる。三法のカネが7年間でそれだけ入ってくる。それに「もんじゅ」がございますと、出力は低いですが、 その危険性……、うん、いやまあ、建設費はかかりますので、建設費と比較検討しますと入ってくるカネが60数億円になろうかと思っておるわけでございますが……(会場に感嘆の声と溜息がもれる)。で、じつは敦賀に金ケ崎宮というお宮さんがございまして(建ってから)随分と年数が経ちまして、屋根がポトポト落ちておった。この冬、雪が降ったら、これはもう社殿はもたんわい、と。今年ひとつやってやろうか、と。そう思いまして、まあたいしたカネじゃございませんが、6千万円でしたけれど、もうやっぱり原電、動燃へ、ポッポッと走って行った(会場にドッと笑い)。あッ、わかりました、ということで、すぐカネが出ましてね。それに調子づきまして、今度は北陸一の宮、これもひとつ6億円で修復したいと、市長という立場ではなくて、高木孝一個人が奉賛会会長になりまして、6億の修復をやろうと。今日はここまで(講演に)来ましたんで、新年会をひとつ、金沢でやって、明日はまた、富山の北電(北陸電力)へ行きましてね、火力発電所をつくらせたる、1億円寄付してくれ(会場にドッと笑い)。これで皆さん、3億円すでにできた。こんなのつくるの、わけないなあ、こういうふうに思っとる(再び会場に笑い)。まあそんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、50億円で運動公園はできるわねえ。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これも今、あのカネで計画しておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の町づくりができるんじゃなかろうか、と、そういうことで私は皆さんに(原発を)おすすめしたい。これは(私は)信念をもっとる、信念!えー、その代わりに100年たって片輪が生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部、片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、いまの段階では(原発を)おやりになったほうがよいのではなかろうか...。こういうふうに思っております。どうもありがとうございました(会場に大拍手)。
私が読んだ本は
「日本の原発、どこで間違えたのか」 朝日新聞出版、2011年である。
224ページから234ページにこの講演は載っている。
2013年8月14日水曜日
あらかじめ寄せられた野呂記者への質問
原発についての講演会なんて、うまくできるとはとても思えない。
でも参加者に、忙しい時間を割いたけどその甲斐あったと、なんとか喜んでほしい。
小さくてもほのかにでも、心に灯りをともして会場から家に帰ってほしい。
それには野呂記者にマル投げしないで、工夫しよう。
参議院議員選挙の真っ最中で忙しいはずの記者(こちら特報部デスク!)に、
こわいけど悪いけど、メールを送り、
私たちの側からの質問にまず答える「講演」を、とお願いした。
あらかじめみなさんから集めた質問に答える講演を一時間。
そのあと会場との質疑応答一時間半。
聞きたいことをきかせてもらう、そういう組み立て。
いままで私が参加した講演会では、
まず有識者の講演。それから残り時間があれば質問を受け付ける。
これもいいけど上意下達というか、なんかこう気持ちがよりそわないところが気になって。
以下は、当日会場で参加者に配った「質問集」の写しである。
この質問に野呂さんが全部こたえられたわけではない。
なにしろぜんぶで二時間半の集会である。
でも、私たち一般の人間の心もとない必死の質問はだいじなものだ。
だれかがどこかで参考にしてくれるかもしれないし、
質問してみようと勇気がでるかもしれないし。
質問集
Hさん(団地住人)
①原子炉格納容器内のメルトダウンした放射能物質は、
今後どのような方法で 処理されるのでしょうか。
②ストロンチューム90や、プルトニューム238の報道は
非常に少なかったような気がしましたが、その理由はなぜでしょうか。
Kさん(学校の先生でした。団地の人)
①温暖化への影響
原子炉を冷やすのに大量の水が必要。一基あたり中規模の川の水の量を7℃あげて、
海に流していることになります。これが原子炉の数ぶん・・・。
②メルトダウンしたウランははたして取り出して管理することは可能なのか。
その間中「汚染」し続けるのか。
その「オセン」の状態をある程度把握できるようにはなりそうか。
Aさん(図書館活動)
①2011年以降、なにが起こっていたのか本当のことが知りたい。
アメリカ留学中の友人の息子が「メルトダウンが起きている」と言い張り、
日本にいる母親は政府の発表から「心配しすぎ」となだめたとか。
②福島第一原発の現状を知りたい。このごろ報道していない。
汚染水。根本的な解決はありうるのか。
③子どもが受ける影響
再稼動が始まると日常的な被爆と、事故が心配。どうしたらよいのでしょうか。
④どのくらいの放射能がほんとうのところ放出されたんだろうか。
わかりやすく示してほしい。
Yさん(私立校勤務だった)
①自然界に存在する各種放射性物質と、
原発事故等によって生ずる放射性物質はまったく同じものか?
②原発事故で発生した放射性物質は何種類あって、そのすべてが人体に有害か?
③原発事故発生時、東電は廃炉をおそれて海水注入をためらったと承知している。
今度、管首相(当時)が安倍首相を名誉毀損で提訴したが、真実は如何?
(管さんが海水注入を止めた、というのが安倍発言)
Hさん(町田、被爆者とともに生きる会)
①原発不必要を一般市民にわかってもらうもっとも説得力があり効果的な方法は?
電気料金の使われ方がおかしい。その暴露が効果的だと思いますが。
わかりやすく説明してほしいです。
②原発関係では、どんな訴訟が起きているのでしょうか。
訴訟の実態が知りたいです。
③日本の小さな街で、自然エネルギーを採用、原発に頼らない努力をし、
成功している自治体がありますか。町田で運動をするとしたらどういう糸口で?
④東京は実際のところ、どんな状態ですか。
現在、日本には被爆地域差が、今でもありますか。フクシマと大阪と九州と?
⑤除染の意味はあるのか。
Tさん(母親・高校生と大学生の)
①原発=プルトニウムを持っているということで、
北朝鮮や中国の日本の侵略の抑止力になる?
②高校や大学で遠泳授業があるが、千葉の海で海水浴は大丈夫なのか?
③原発を日本から廃止する方法は?
そして、私たちにできる事は、やるべき事は?
④これからの日本は?
Nさん(会社役員:団地内)
①原発がまったくない社会はありうるんですか? それがききたい。
なんでこんなにウソがはびこるのか。おかしな隠蔽工作ばかりが目立つのか。
それが僕の知りたいことです。
Yさん(小5女児母親)
①原発事故から2年半経ちました。今でも、福島の農産物・海産物・加工食品などの線量は、
他の地域のものと比べて高いのですか。
福島産のものを購入するのをためらってしまいます。
風評被害という言葉に罪悪感を感じます。
②原発がなくても電力はまかなえると良く聞きますが、本当でしょうか。
再稼動は必要なのですか。再稼動しない原発はどうなっていくのでしょうか。
③洗濯物をいまだに外に干せない友人がいます。
東京の線量の状態はどうなのでしょうか。
2013年8月12日月曜日
海に行く一日
葉山は一色海岸。
4才の時ここから離れた。よく出かけて行く。
昨日梅が丘へ行き、用事が終わってふらふらと環八沿いの神戸屋へ。
朝食けん昼食のサラダバー・ランチ。
うちに帰るか、予定がない日だからどこかに行くか。
私は具合が悪くなっちゃって気分がわるく、決心がつかない。
それでもせっかく環八にいるのだし、踏ん切りわるく第三京浜へ。
この際だからやっぱり葉山へ行こうと。
着いたら葉山は渋滞、「満車」「満車」の表示ばかりだし人だらけだった。。
夏だから当然かもしれない。
「そうか、夏は来ちゃいけないんだね、日曜なんて特に」
息子が運転しながら感心している。
森戸海岸がことに混雑、そこを抜けても混みあって、どうするわけにもいかない。
それじゃあと、道なりにまっすぐ城ヶ島をめざしてクルマで走ると、
対抗車線がそら恐ろしいような帰宅渋滞だ。なんでまだ二時半ぐらいなのに帰るの?
これじゃ帰りがこわいなと思っても一本道を引き返す決心がつかない。
どうにでもなれとノロノロ。こっち側も渋滞なのだ。
のんびりは楽しい。
畑でスイカを売っていた。
買おうかしらとヒマなので考えるけど、あんな巨大スイカ。
冷蔵庫に具体的に入んないわよねー。
買ったあと、またクルマの行列に割り込むのも億劫。
できない・・・。
城ヶ島にやっと着いた。
暑い。クルマから外にでるとたちまち汗まみれになる。
私は息子をながめてふきだしてしまった。
熱気にぶん殴られたようにボロボロ・・・。
空気はすこし澄んで軽いかなー、たとえ熱気がすごくても。
公園の道をとぼとぼ歩き、思い切って展望台のわきの切り立った崖道を下る。
海は悠々広々。ゴツゴツした崖の下で、みんなが遊んでいる。
波が寄せては返す海水のきれいな場所にやっとこさ腰かけた。
私の息子は私が教育をあやまったせいか「不自然」がTシャツを着たような奴で、
崖だの海水だの努力だのがまるでダメみたい。
腰痛の後遺症でろくに歩けずグラグラしている私を、
「しっかりしろ」とか「大丈夫か」とか、励まそうなんてユメにも思わないんじゃないの。
城ヶ島に到着するや、自分の方がすぐさま暑気あたりでフラフラし、
岩場ではサンダルの足が小石ですごく痛むふう、身体もこちんとこわばって不自由そう。
私のあとから降りて来るけど、崖を滑ってごろごろ落っこって来るかと見おそろしい。
「そういえばあんたって苦手だったわよねー、こういうの?」
あきれてたずねると、
「オレ、ハッキリ言ってこういうのホント苦手だから。お、落ちるから、か、必ず・・・」
恐怖ただようワザトのウラ声に怒ることもできない。
それでいて彼はむかしから海が好きなのだ。
「・・・きれいだなあ、やっぱりいいなあ、ほんとに海は」
ヤドカリを手につかまらせ、海水を気も長くずーっと眺めていたりする。
すごく小さなヤドカリは、中にだれもいないんじゃないかと思うほど小さい。
そして澄んだ海水を貝殻の中いっぱいためている。
着替えはもってきた。
温泉に行っても平気だし、洋服のままで海水につかっても平気である。
べつにただ着替えればいい。タオルも石鹸もある。
城ヶ島公園には水道もある。
見回すと、そうやって遊んでいる人がけっこういた。
私は岩にからくもつかまって海中の砂地に立った。
波の音がいい。ジャッブーンとびしょぬれになったけれど、解放感でいっぱい。
魚もいるし、カニもいる、岩はフナ蟲だらけで繕い物のようだ。
緑や赤の海草がまるまって流れてくる、花のように浮かんで沈む。
涼しい。楽しい。海はやっぱりすごく気持ちがいい。すばらしい。
ねえ、なんでこの海に放射能の汚染水を放出しつづけたの、と心は思う。
自民党さん、なんでそんなことして平気でいるの。
小さい子が夢中になって遊んでいる・・・。お父さんがカニの採りかたを息子に教えている。
むこうのほうでは、あわいピンクの浮き輪が楽しげに波にゆれている。
帰るとき。やっぱり渋滞。やっぱりさっきのスイカを眺めて買わず。
でも往きよりは一色海岸が空いていたから、すこしさがしてパン屋のレストランで夕食。
いつかのむかし、長男がここに就職したらと見に来たこともあるパン屋だけれど、
どんな理由だったか、職人たちの顔が暗いというような。
クルマでの帰り道。
朝から長い一日だった。それが疲れたとこんどは近くの温泉へ。
行き当たりばったりの罰あたりみたいな一日を、またまた延長、さらにずるずる。
まーいいや、明日からまた忙しいんだから。
海ほどスカッとする場所はない。自然ほど気が休まるものは少ない。
人間なんてそんなもん。海を勝手に奪うな資本家。
あんたの子孫だって海水浴をすれば放射能まみれになるのよ。
2013年8月7日水曜日
7/26 野呂記者にきく
「原発問題あれやこれや」。
東京新聞の野呂法夫記者に直接質問を、と計画した会が終わった。
会にいたるいきさつも内容もたいへんだったから、
私なんか終了後に病気みたいになってしまった。坐骨神経痛で歩けない。
歩くと、暑いし空気は悪いし、ぐったりしちゃって、まー、人並みに疲労困憊。
みっともないことである。しかし、万難を排した甲斐あって、参加者50人。
みんなが集まって、直接疑問を解決しようという試みはよいものだった。
自分の耳でじかに事実をたしかめることって、勇気をもらえることだと実感した。
野呂さんに来ていただいてよかったのである。
今回の集まりはみなさんの協力で、参加者がなかなか多彩であり、
自然であり、もの優しげだったことがすばらしかったと思う。
老人もいれば子どもの親もいる。
ながいあいだ反原発運動をしてきた人もいたし、
こういう集まりは初めてというひともいた。
地元のひともいたし、町田や相模原から、八王子からきたひともいた。
男性もいたし女性もいた。宗教者もいたし、私なんかはじめて見るひとも多かった。
ふつうの金曜日の午後だったというのに。
会場の準備や、空調の不具合、わかりにくいプロジェクターの操作、
いつもなら困るのに、今回はそういうことに強い人がいて、
集まったひと達と野呂記者のために、当然のようにずっと配慮してくれている。
ホッとして、私たちの気持ちは和んだ。
私たちとはなりゆきで講演会を主催する破目になった三人である。
年寄りで孫がいて。むかしは教師で。そしておなじ団地の住人で。
その三つが主催者三人の共通点なんて、おだやかでいい感じでしょう?
私たちがヨコに並べば、三匹の?老女なのだ。
そこに、出席の通知のなかったお方が四人連れにて、準備も始めていないのに到着。
カン違いして早く着すぎちゃった、と笑っておっしゃったのである。
四人ともにこにこ。
「うわーい、うれしいな。これで今日一日が幸運だって決まったー!」
クヨクヨ、不景気な予想ばかりたてていた私だけど、とたんに陽気になっちゃって、
はははは、ゲンキンとはこのことである。
しかも、というとおかしいが、
講演をお願いした東京新聞の野呂記者がめったに会えないような優秀な方だった。
never give up とはこういう態度の人をいうのだろう。
午前中に印刷したから知ってるんだけど、
こんな小さな集会のために野呂さんは、多忙の真っ最中なのに(選挙と転勤!)、
私たちにあわせてレジメをつくっている様子だった。
最終訂正文が私のパソコンに送られてきたのは講演の日の午前一時すぎだった。
原発の事故は言うまでもなく全人類の生死を左右する巨大災害である。
人災である。なんだか悪いことばかりの聞き恐ろしい事故だ。
どうにかして事実と向き合おうとすればするほど、
心のなかの不気味な暗黒が巨大化して手に負えなくなってしまう。
講演会を開く場合、それがネックだし、うとまれる理由だと思う。
・・・講演がはじまって一時間ほどたったところで、野呂記者にメモを渡した。
「ここで一息いれさせてください」
失礼だと思ったけれど、アタマがつかれちゃったのである。
司会の私の眼にも、会場のみなさんの顔が、もう途方にくれてみえる・・・。
以前、わが団地の鶴三会の席上、耳にした意見。
「これ以上、原発について、いま僕が知っている以上のことはききたくない。
どうでもよいとは決して思わないが、
数字のことやシステムのことを、もうこれ以上知っても仕方がない。
原発なんていうものは、本当のことをいえば、元来あってはならないものなのだ。
いま、私が知りたいのは人間のことです。
例えば、なぜ政府や東電は本当のことを語らないのか。
あるいは、原発のない社会は真実可能なのかどうか。」
私は集会の成功って、話をスカッと整理することが重要かもしれないと思っていた。
こんな具合に。
しかし、である。
そうかといって原発事故そのものについての説明報告を避けては通れない。
今日の会の主題は「原発あれやこれや」なのだ。
いったいどうすればよいのか。
ここでケリをつけて、講演としては不十分かもしれないが、
会場にきてくださった人たちとのやりとりに移ったほうがよいのだろうか。
司会者には進行状況を判断する責任があると思うが、
いったいどうすればよいのか、なかなか決められない。
野呂さんは話しながら私のなぐり書きしたメモを読み、たちまちすーっと話をおさめた。
遠慮しいしい何度か野呂さんとメールでやりとりをし、集めたみんなの質問を送り、
さっきの発言についても、こう思うとたどたどしくお伝えしてあった。
それが野呂さんにわかってもらえていたのだということに、
もうすごくびっくりしてしまった・・・。
そこで私は、会の流れを「会場の参加者と野呂記者の一問一答」に切りかえたのである。
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