2019年3月19日火曜日

花曇りなので


朝ごはんのあと、庭に出て、落ち葉を手で袋に入れながら、
月桂樹の鉢を動かし、黄色い小花と小さくなった白いヒヤシンスの場所を
動かし、紫陽花の枯れ枝の散髪?をした。あんなに暑い夏だったのに、
なんの手入れもしてやらなかった、ぼんやりガラス越しに、
諸々、反省だけして、なんにも。
くたびれてたなーと。

自分勝手なものだった。



 

2019年3月18日月曜日

車中小風景


朝がた、不意の思いつきで高崎へ。
JR湘南新宿線高崎行き、行きは出発間際に飛び乗って普通車、
最近痩せてしまったせいか固い座席に座り疲れ、帰りは新宿を通るグリーン車に。

行き。
淡いピンク色のジャンパーを来た女の子が、5才ぐらいか、お母さんと手をつないで、
車内にやってきた。女の子は私の隣りに。お母さんは向かい側の空席に。
席を替わってあげればよいのだけれど、まあどうなるのかしらと見ていると、
ちびさんはしかたなくお母さんと離れて私の隣りに腰かけ、小さい声で
わらべ唄の手遊び。
可愛い顔のほそい眼が、遊びながら横目で、私をちょっと見る。
私がだまって少し笑うと、あわてて横を向いた、
恥ずかしそうに、でもほんのちょっと自分も笑うのだ。
手遊びをつづけて、ちいさな顔の内っかわが、にこにこ元気になり、
「おかあさーん」と向こう側の母親を呼ぶのが、のどかだ。
ひとまわり、わらべ歌をおしまいまで歌いおわると、
女の子は歩いて、向かい側のお母さんの膝に無理やりのぼった。
運動靴の足が、隣席で熟睡中の若い女性の、かさばったブラックのスカートにさわる。
お母さんは気にしない。いいのかなあ。私はハラハラするが、
こういうのんびりが、あの子の自然さをつくっているのかもしれないのだし。
女の子の運動靴が圧迫するので、ブラックな彼女はねじれてごわごわ。
一度なんかパッチリ目をひらき、マスカラの濃い化粧顔で不満そうにモゾモゾ。
でも、真っ黒いパーマの、チリチリのウェーヴもそのままに、また目を閉じてしまう。
高崎の手前の駅で降りようと、車両の連結部を通りながら、
ピンクのジャンパーの小さい手が、私を気にしてひらひら、さようなら・・・を
してくれる。
ちいさなリュックサックはたびたびの洗濯で少しくたびれている。
それがまた、きちんと育てられている感じだな、みたいな。

帰り。
高埼発。グリーン車なり。らくちんだ。
ところが前の座席にビールの缶を抱えた、しあわせ男が一人で腰かけた。
小柄中年な彼は、毛糸の野球帽子をすっぽり被って、幸せそうにぬくぬく、
缶ビールをプシュッと開ける音がした。さっきチラッと見たけど、小太り。
煎餅をリュックサックから取り出して、ビリリッと、袋をやぶく音がした。
ビールにお煎餅は幸せな組み合わせ。背もたれに隠れて見えないけれど、
優秀なお煎餅というものは、おかず代わり、ご飯がわり、ご飯どきは特に
19時15分発の電車だ、たぶんそうなんだろうという音が始まる。
的確にかみ砕く、食の喜びと満足度を完璧なまでに実現させる、音。
パリポリ、パリポリ、ぽりぽり、パリポリ、ぽろぽり、パリパリ、
ぱりぱり、ぱりぱり、ぽりっ、パリッ、ぽりぽりぽりぽり・・・。
あきれるばかりの連続音が、いつまでもいつまでも続くのである。
煎餅を夢中になって噛みくだく音には、ちゃんとした強弱と説得力がある、
それは力強く、けっして終わることがない。
たぶん味が良くて、「当り」なのよね。
私がきのう池袋芸術劇場で聴いた、世界一らしいような、交響楽団さんの、
ブルックナ―の絶対音周辺を、つい連想してしまう。
それにしてもこの演奏?いやもとい、噛み砕く複雑な歯擦複数短音は、
生活力的効果をあげて、なかなか優秀、匂いさえなければ。
・・・噛砕音とでもいうのかしらん。
あっちは上品の極致、こっちはどうなのかしら。
ポリポリ、ぱりぱり、パリポリ、ぽりぽりぽりぽり・・・。パリ、パリ、
がり、ボリ、パリパリ、パリパリ、ぽりパリ、ぽりパリパリッ、パリッポリ。
その人は、もうずーっと、最後に袋を丁寧にたたむまで(音がした)、
車内販売の売り子さんに、あれこれ迷った末「ハイボール!」
その時以外は一心不乱である。
パリポリ、ポリポリ、ぽりっ ぽりっ ぽりぽり・・・。
パリパリ、パリポリ、パリリ、パリポリ。
ひるまのあの可愛い女の子にくらべると、なんてお行儀だろう。
周囲の人となんのかかわりを持たず、遠慮も会釈もなく、終始お煎餅!
エレガンスという観点からいっても、4才か5才の女の子にも劣るではないか。
よっぽどのお煎餅、・・・いやもう言うまい!



素敵な場所でランチ


朗読の同人に仲間に入れてもらい、花木のみえるカフェでお昼を食べる。
おどろいた、そこは生活クラブ生協の帰り道、トミちゃんに案内してもらった場所で、
その時はカフェ定休日で、がっかりしたのだ。
花木が売られ、鯉の売り場もひろく、雑貨売り場と、食品、たとえば野菜にパン、
つい手が出そうな調味料とかに加えて、昔なじみの和洋玩具や家具まであって、
青山、六本木、原宿の田舎の遠い親戚というか、多摩ふうである。
雑多、ごたごた、大小中の鯉が水の中で騒然と?泳いでいるから、
水の音もごぼごぼ、びしゃびしゃ、空気が冷たい、はたらく人も作業風の感じが、
ちょうどよい。

順番を待つあいだ、ちょっと歩いてみるんだけど、当然、目が楽しい。
萱野さんが、花粉症だから順番待ちをします、ご遠慮なくという。
もっとも?かなという気もして、ぶらぶらさせてもらって、ついついつい、
野菜など少したくさん買ってしまう。帰宅後ゆでて、なんにも加えずに食べたけど、
やわらかくておいしい葉っぱだった。ほうれん草と菜の花である。

話題は老人介護だった。
その道の超ど級の大家に、ちゃんと義務をはたすつもりの模範的努力家が
そろっているので、なかなか本格的。あなどり難く、興味深い話ばかりである。
ふーん、ふーんすごいな、と聞いていたら、
不意に「久保さんは」と話をふられて、びっくりした。
それで話してみたら、
私には舅と姑と、父と生母と継母と三人目の人と。
自分一人に六人の親だったから、経験としては、けっこうものすごい。
・・・のだけれども、約二〇年前の話なので、
もう、どうでもよくなってしまっていることに、自分でびっくりした。
あんなに小突き回されて怒り心頭、泣いては怒って恨んでいたのに。
たぶん失ったものは「愛」のようなもの、しかしそれだって今は霞の彼方だ。
愛情は苦難の深淵に沈みこみ、自分は情が薄かったとうんざりしながら、
与えられた時代と家と。他と比較すれば「幸運」でもあったわけだ、という感想。

・・・両方の肩に疲労感がのっていて、まあもういいかという感じ。

「へーえ、そんなふうになるもんなんですか」
と火中の栗を拾うしかない、今のみんなが言った。

2019年3月14日木曜日

老的


最近の私は失敗ばかり。まさに老後。

夕方、クルマのキーをぬき忘れ、ご近所のみなさんに多大のご心配をかけた。
うちの駐車位置は、団地入居時のくじ引きのせいで、わが家から遠い。
私は、自分ではなんにも気がつかず 、翌朝、サッサとでかけてしまった。

だから、どうも音がすると気にした近くのS氏が、翌朝になって、
差しっぱなしのキーを(扉をあけて)抜き取って下さるまで、
うちのクルマは、もう一晩中ブンブンとエンジン音をたてていたわけである。
私とおなじ11号棟ご近所のH氏が、2号棟のSさんに車の主(つまり私)を教え、
Sさんがうちの隣りの若奥さんに鍵を渡して下さって、
犯人(つまり私)留守のまま、比較的よくわかるかたちで、やっと一件落着。

若奥さんからの親切なメール(昼)、Hさんからの親切な電話(夜)。
私は、もう、どきどきどきどき、どきどき。
どうやってお詫びをしたらよいのか、被害妄想的お手上げ状態・・・。

たまたま、同じ11号棟のだいじなご近所さんが、なぜだかふたりも、
2号棟近くの路上にいてという天の配剤?が、ありがたかったなあと思う。
私はS氏とは、引っ越してきて18年にもなるのに、面識がなかった。 

キーがかかりっぱなしのボロ車のエンジンの音はと、想像すると、
「爆音」という文字だけが、のぼせやすい脳の中で大きくなる。
それにしても、「爆音」が「比較的低いエンジン音」だとわかり、
「飼い犬が一晩中ほえて」というスケールで考えたらと教えられ、
私が相談したのは、常のごとくわが友みっちゃんの夫君なのだけれど、
おかげさまでやっと落ち着き、 おわびの準備ができたのだった。


2019年3月13日水曜日

映画を紹介する


映画を紹介しにいった。
じょうずに話せず、用意したメモ書きを読まずじまい。
残念だった。
メモは、中公選書「日本映画 隠れた名作」という良書のあとがきから。
書いた人は日本文化学科教授の筒井さんである。

「わたしがこのところ好きな映画に(一々作品名は挙げないが)、親しい人との
信頼関係を裏切らない人間を描いた情緒豊かな作品群がある。偽善やはったりなしに
これを描くことは難しく、せちがらい最近ではめっきり少なくなってしまった作品群
だ。作劇法に本当の力と誠実性がいるジャンルだと言えよう。
昭和三〇年代の映画がいいのは、一つにはそうした思いがこめられた映画が多く、
また見事につくられているからだということが近年悟られ出したのである。」

映画「あの日のオルガン」を号泣して観たという方が多い。
うれしいことであるが、ホントの「号泣」だと、ほかのひとの邪魔になる。
大勢の観客が号泣すれば、映画の音響は残念ながらきこえなくなってしまう。
実際は、涙をこらえきれず、気持ちよく泣けた みたなことだろうか。

 「あの日のオルガン」を劇場でみてくださった多くの方々が、
涙を禁じ得ないのはなぜかと、「ごうきゅう」などと言わずに、
静かな日本語をつかって、考えたいものである。

いま日本人の魂の底のここには、抹殺されかけた希望があるのかもしれない。
親しい人との信頼関係を裏切らないヒトが好き、ということだ。
そういうヒトは当然、意地悪ではなく、情緒がゆたかであり、
偽善やはったりなしに、まっすぐに、素直に、生活するのだ。

作劇における「本当の力」とはそういう「誠実性」にあると、
筒井さんのあとがきは、昔ながらの落ち着いた日本語で分析して、素敵である。
なつかしい。


2019年3月12日火曜日

あめ という詩



あめ あめ あめ あめ
あめ あめ あめ あめ
あめはぼくらを ざんざか たたく
ざんざか ざんざか 
ざんざか ざんざか
あめは ざんざか  ざんざか ざんざか
ほったてごやを ねらって たたく
ぼくらの くらしを びしびし たたく
さびが ざりざり はげてる やねを
やすむ ことなく しきりに たたく
ふる ふる ふる ふる
ふる ふる ふる ふる 
あめは ざんざん ざかざん ざかざん
ざかざん ざかざん 
ざかざん ざかざん
つぎから つぎへと ざかざか ざかざか 
みみにも むねにも しみこむ ほどに
ぼくらの くらしを かこんで たたく

(1947年ごろの山田今次の詩。京浜の労働者の)

今日、私は初めて、生活クラブ生協の八王子多摩境駅近くの総会に出席した。
年次総会はどこも似たり寄ったり、はじめての参加で、内容もよくわからず
第一から第五号議案まで、議長さんの司会進行に、ついていくばかりだったが、
そのくせ、会場を埋めた47人の参加者の表情、容貌に惹かれて、
また参加者が着ている思い思いの洋服にうれしく安心と共感をおぼえて、
さほど退屈にならずに腰かけていたわけだった。

女の人ばかりの各代表参加者は(男性は一人だけ)、
なんといえばよいのだろう、
個性的で、上記の詩のオノマトペのように、めずらしく自然なのだった。
この人たちは、なが年の食をめぐる粘り強い活動によって、
従来の日本人の無個性から、
しっかりと自然で、立派な個性を獲得したらしいと感じた。
集団として、である。

あめは ざんざか ざんざか ざんざか
ざかざん ざかざん 
つぎから つぎへと ざかざか ざかざか

こんな引用はおかしいけれど、
彼女たちの意見と質問と答弁と議事進行のありようには、
この詩が一番かもしれないと、
思い出してはそう思う。

・・・くらしをかこんでたたく言葉だったからだろう、きっと。