My Mother said that I never should play with the gypsies in the wood, The wood was dark; the grass was green; In came Sally with a tambourine. I went to the sea-no ship to get across; I paid ten shillings for a blind white horse; I up on his back and was off in a crack, Sally tell my Mother I shall never come back. -Songs of Mother Goose-
2020年1月5日日曜日
印象
朝日新聞を東京新聞にかえた。
なぜですかと、集配所の若い人がきく。
理由をききなさいと言われているのだろう。
東京新聞から朝日に変えたのは頼まれたからだった。
最初はおもしろく読んだ。
なにやら一流どころが話したり書いたり、
それが楽しいのである。
文化的という感じが。
3か月すぎて東京新聞にもどると、なぜかスッキリ。
貧者の一灯 、というむかしの言葉を再発見して。
2020年1月4日土曜日
童話の時代
ローラ・インガルス・ワイルダーは、
父ちゃんの奏でるヴァイオリンと歌の数々、建国の英雄たちの演説、
宣教師の聖書からの引用 を、いかに多用したか。
著作「シルバー湖のほとりで」(1939年)において。
父ちゃんが奏でる音楽は自由自在、ユーモラスでダンスつきだ。
陽気な恋、開拓時代のむこうみずな魂の輝き、大自然賛美のワクワク。
ロック誕生の、ブルースとの混合を、私などついつい未開の原野に 見てしまう。
英雄の演説を女の子たちが暗誦するページから、読者に届けられるのは、
荒野の脅威に立ち向かうインガルス一家の、敗北からの感動的脱却である。
熱狂的な朗読が開拓精神に気合いを入れるのだ。
そしてある思いがけない1日には、
開拓地に向かう途中の宣教師が、彼の温和で立派な祈祷によって、
人間なるものの未熟さを、確実に主人公に意識させる。
これらは言語の魔法である。
これら四重構造の言葉の魔法にかけられて、若い読者は思だろう。
こんなふうにロマンティックな心を携えて、ヒトの世を渡り歩きたいと。
私だって小さいころ、そう思っていた。
小さいころとは、いつだろう?
私の子ども部屋に「大草原の小さな家」や「長い冬」があったのは?
ローラ・インガルス・ワイルダーは1957年に亡くなっている。
今日の新聞で1月2日、
トランプ大統領の命令で、イラン精鋭部隊司令官が殺害されたと知った。
ニューヨーク・タイムズ(電子版)によれば、
イラクの首都バグダッドの国際空港で、米軍の無人機が車列をミサイル攻撃、
少なくとも3発の精密誘導弾を2台の車に撃ち込み、7人を殺害したのである。
200年がすぎるということは、なんて無惨なことだろうか。
汽車は世界を変える、と父ちゃんはローラに言った。150年も昔のことだ。
それが今では、
アメリカの「無人機」が、ヒトの国の空港にミサイルを撃ち込むのである。
2020年 1月3日
新年という言葉を、年賀状に書くと、すこしは嬉しい。
どうしてかしら。
私が自然となんの関係もない生き方をするせいだろうか。
去年は厄年だか大殺界だか、内向的になる一方で、
足を引き摺るような、 苦しい一年だった。
家はメタセコイヤの並木の上にあり、
へんな形の柿の木にコゲラがくる、渡り鳥もときどきキイキイと情報を交換、
太陽だってちゃんと空にあり、雲も白かったり黒色だったり、
青空はかわいく澄んで、真っ青が金いろに変わりそうなほどきれい.
それなのに、私という個体は地球から取り残され、どうしてだか字が書けない。
ヘンだヘンだヘンだ、ヘンだけれど、
そのままにして、今年になって新年3日目が今日である。
うちの岩波少年文庫は紙が劣化して、ページを繰るとホロホロこわれる。
本を読むんじゃなくて年賀状を書きはじめた。
字を手で書かないと、馬鹿になるから。
よかった。
一日中、ピカソの絵ハガキに、賀状をいただいたお礼をたくさん書けて。
2019年9月1日日曜日
訃報2
彼は遠慮がちに居間の椅子の横に立って、いつまでも腰かけない。
むりにも「座って下さい」とすすめて、私は洗濯物と買い物袋を玄関に放り投げた。
うかがうと、小さかったお嬢さんは、今はもう16歳だという。
お母さんが発表会で朗読するとき、花束の傍らで、はにかんで待っていたあの少女。
お父さんとおばあちゃんと来て、会が終わったあとの長い時間、物陰でもうずーっと
穏やかに待っていた。家族でなぜか寄り添って静かに話して微笑して。
私はもう、その光景しか思い出せない。
「後片付けはもういいから。はやくご家族のところに行ってちょうだい。」
そう頼んでも、彼女は悠然として動かなかった。
明るい声で、朗らかに笑って、発表会の後の2時間半ぐらいは、堂々と、
そこらの向こう側の影に、平気で家族を待たせるのだ。
「大丈夫です、いいんですよ」
大丈夫じゃないわよとハラハラして、なんだか解せない思い出である。
彼は、友子はたしかに時間の管理ができないヒトだったのですと、応えてくれた。
遠慮がちな小声で、すこしづつ思い出が、・・・不思議な糸巻きの糸ように、
テーブルの向こうの彼からゆっくり、ゆっくり私のところまで届くのである。
きけばきくほど、ただもう亡くなった人のすべてを肯定しただけの、
それができたという夫婦のありように、私はとても驚かされた。
それはたぶん自分が人間を全面的に肯定したりできない、
そういう恥ずかしいデキの者だからだろうと思った。
2019年8月31日土曜日
訃報
夕方、今夜はだれもいない日なので、夕闇迫る頃になって、
コインランドリィで乾燥させた洗濯物の山を抱え、腕にこたえる買い物袋をもち、
家に帰ってきた。すると玄関の前に男の人がいるのである。
かすんでよく見えない眼をこらすと、その人影はしゃがみこんで必死になにかしようとしている。手持ちの荷物やスマホなどをそこらに置き散らかして、メモのようなものを書こうということらしい。白いワイシャツの下の背中や首が、夜目にも汗びっしょりになっている。
暑い暑い夏の一日が、まだ終わろうとしない時刻・・・。
見覚えのない姿に、私はこわごわ声をかけてみた。
「あのう、どちらさまでしょうか?」
すると、むこうもはむこうでビックリして、はじかれたように姿勢を変え、立ち上がり、
距離を置いたまま、「あのう、久保さんでいらっしゃいますか?」ときくのである。
この夕闇とおなじ、苦しいような湿度を感じさせる声音であり、
はらはらしてしまったような、実直で礼儀正しい物言いであった。
彼は私に、太田友子のつれあいですと名のった。
・・・なぜだか私は、階段の下で荷物を抱えたままの私には、夏の風が伝えてよこしたように、ああ、太田さんは死んだのだと、不意にわかったのだった。
2019年8月11日日曜日
5才
天井まで本があって、遊びあきると本棚の前に立って、
ぴょんぴょん片足で立って、わかる字をさがして読んだ。
ひらがなの本の背表紙はふたつしかなかった。
「かひしなの」それから「なすのよばなし」
かひしなのは論外だったが、なすはわかる。葉山の畑で見た。
祖母が小さい私に、眠るまでお話をしてくれたから、
ひるがあるし、もっと起きていたくても、夜も毎日くる、
夜がくると、ナスの畑にもなすの夜があるらしい。
こどもにだけ夜が毎日くる気がしてたけど。
あのナスたちが、夜になると自分で話し始めるなんて、知らなかったと思った。
枝からさがって、風にゆれながら話すのかしら、大きなはっぱの下で。
だまってする会話。
なんにも言わないナスもたくさんいる。
でもなにかいうナスもたくさんいる。
きこえない声の、ナスのおはなしが畑をわたってゆく。
みおろす淡い月の光が見えるような、印刷のうすい背表紙だった。
夏の夜で、
涼しい風が畑にふき渡り、
森のたぬきや川の近くのキツネが、家族でおはなしをするように、
ナスたちもおともだちどうしで、ひるま見たことを話しているんだ・・・。
私の思いこみは、そのまんまこどもの記憶のなかに埋もれて、
ときどき、ふーっと浮かんでは消えてしまう。
・・・ナスたちは、時々、私のあわい月の光の下にいる。
風に吹かれて、涼しい夜をみんなで楽しんで。
あのころは、夏でも夜になると、涼しい風が吹いた。
電気がそんなになかったから、夜になると地球が冷えたらしい。
あついあついと、ちいさな孫が夜でも汗をかいて、おこると、
祖母がうちわで、ずーっとあおいでいてくれた。
うちわにも、すこし涼しいのと、ぜんぜん涼しくないのとがあって、
そんなことでぐずった・・・。
炎熱をガラス戸越しに眺めて
考えてみれば、マイケル・ムーアが「ボーリング・フォー・コロンバイン」を
製作監督しアカデミー賞に輝いたのは17年も前のことだった。
私は10年以上も前、中古になったそのビデオ・フィルムを買ったんだけれど、
今日の夕方から、今ごろどうかと思うけれど、暑いから観たのである。
一日中、暑く、炎熱ゆらぐ日盛りがこわくて、外にも出られない。
夕方やっと、草や花がどうにも気の毒で庭に水を撒くと、網戸越しに入る風が
子ども時代の夏風めいて、それでやっとクーラーを消すことができた。
今ふう日本の、残酷きわまりない夏ではある。
年のせいかなんなのか、たぶんに鬱気味で、私はただもうぼーっとして、朝刊を読み、
一日三冊ぐらいの本をあっちこっちとばし読みし、古い映画をツタヤで借りては
連続して観たりする。あとはメールと長デンワであって、
この受け身の毎日がいかにも気に食わないし、なんとかしたい。
でもなんとしても、どうにもならないのである。
ある日、こんな自分がどうしてもイヤで、三日ぐらい煩悶したあげく、
夕方から草取りを始めた。なにがなんでもやってやる!!
三つのお皿に三個の蚊取り線香、長袖長ズボン、首にまくタオル、植木バサミ等々、
ヤブ蚊の軍隊と戦いつつ、草と花と小笹の根っこ、紫陽花の枝などなどを伐りまくり引っこ抜くわけである。70キロのゴミ袋がいっぱいになる頃には、あーら嬉しい、
すらりと日暮れがやって来たではないか。
水を撒いたから泥だらけでビショビショ、あっちこっち蚊にさされて、
まー、76才としてはヨイ成績で喜ばしいと思う。第一、心なしか涼しいじゃないの。
外に出たらすごくあつかったから、ちょっと涼しくなっても涼しいわけで、
もうけたと思うよこれ、よかった。
年齢不相応は、みっともなくて落ち着かないが、
こうでもしないと気持ちの厄介払いができない。
鬱うつに甘えると・・・ホントの鬱病になりそうな。
さてそれで、「ボーリング・フォー・コロンバイン」である。
マイケル・ムーアは、この作品によってアカデミー賞受賞者となり、一躍全世界に紹介された。アメリカの「なりふり構わぬ資本主義」に対する彼の厳しい批判が、大資本を投入したエンタテインメントの派手派手作品群の中で、なぜかどうしてか、あの時ばかりはちゃんと評価され、ムーアの以後の作品群の運命を保証したのである。
「なりふり構わぬ資本主義」は、貧困層の親と子を引き裂き、生きぬよう死なぬよう低賃金で働かせ、ついには子どもが子どもを殺す殺人者になってしまう。
マイケルムーアは「銃器社会」に焦点をあて、アメリカの残酷、アメリカの不公平、
アメリカの人種差別、アメリカの傲慢、アメリカの卑怯を、アメリカの手前勝手を、
アメリカがそういう仕組みの社会になってしまった原因を、隣国カナダと対比する。
わかりやすく原因を映像化し、「暴露」する。
しかもそれだけではなく、被害者とともに、あるいは自分だけで、支配者と交渉し、資本主義に変更を加えよ、態度を改めよと迫るのである、映画の中で実際に。
こんな映画が日本にあるだろうか。
ある。私はそれを今年の多摩市平和展の催しで、観たのである。
「沖縄スパイ戦史」って、タイトルがすごいので散々迷ったけれど、誘って下さった方がよい方でしかもご近所さんだったから、それに監督がふたりの女性だったので、
-------酷暑だし、どんなお誘いも有り難いと思わないとボケてしまう。
それで出かけたら、もう本当に女性ならではの素晴らしい映画だった!
しかしながら、この日本映画はなかなか観られない。
どこで上映されているのやら、観ようと思っても探すのがタイヘンである。
私のおすすめは、この夏、
マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」である。
それなら、ツタヤにある。
17年というどっしりとした時の経過があって、
このドキュメンタリーは、現代日本が「まるでアメリカにソックリ」であり、
しかもどうしてそうなってしまったのかを、
驚くほどクッキリと説明してのける映画になったのである。
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