2016年2月17日水曜日

ある文章


なぜかわからずル・クレジオという人の文庫本を手にしている。
「海を見たことがなかった少年」集英社文庫。
読みにくい本で、遠近法の逆転と解説にある。
子どもの感覚のみを追って書かれた文章。

現実社会の約束事からは遠くにいる(解説)。

買ったおぼえがないけれど、昨夜うちの使わない本棚で見つけた。
なんとなく読みはじめたら気分が悪くなった。
夜読んで、明け方読んで、早朝に読んで、ざわざわと、おかしな気分。
遠近法の逆転とかにみょうに耐えられない。読みにくい。
たぶん、いつのことかそれで、読み始めたけど、放り出してしまったのだろう。

私がこの文体になじめないのは、
子どもの感覚のみ、で書かれたりしたらダメな人間だからだろう。
早くから子どもの感覚とやらから離れてしまった、
そんな私だから、
そういう文章が不快なのだ、きっと。

なつかしいような小説の、その懐かしさに耐えられない。。


2016年2月15日月曜日

ひとりっきりで


DVDを借りて何度も見る。元気がでる。がんばろうと思える。
「ディオールと私」
「ナオトひとりっきり」

偶然手にとった、両極端のドキュメンタリー映画。
クリスチャン・ディオールの後継者ベルギー人「ラフ」のディオール・デビューを追うフィルムと、
福島の原発事故のあと、広大な富岡町に放っておかれた牛やダチョウや猫、犬、イノブタを
ひとりっきりで養おうとする当時55才の「ナオトさん」を追いかけるフィルムと。
なんでこんなにも違うモノを借りたのか、
落としたカード再発行手続きに行った蔦屋で。

フランスの極限までの華麗な贅沢。
荒廃の極にある富岡町の自然。
ディオールの画面はなにもかもが洗練され、美しくてため息がでてしまう。
ナオトさんの表情を見れば、その無表情や無口、微苦笑、作業着や長靴までが自然だ。
ああ、あんなふうに自分も一つの道を歩きたいと、心から思う。 
人間は広大な地球にからくも摑まって、運命に沿ってだれもが苦闘するらしい。
贅沢も、荒廃も、生き方によってヒトはそれをなにか人間的と言いたいものにに変えるのだ。
クリスチャン・ディオールの工房のお針子たちも、富岡町のナオトさんも、
それぞれが選択した部分を請け負って、そこで最大限の努力を繰り返すという一点が、
非常に印象的である。

友達が自宅にもどっている。台所は破壊されたままで、食事の支度も難しい。
自分の部屋にカギをかけこもっているのだろう姿を思えば、はらはらして怖くてたまらない。
うちに来たら、泊まればと私はいうけれど、彼女はこない。
「まあ、・・・慣れているから」という。
住んでいる場所で、どうしても今日明日でやらなければならないことがある、という。
それは必要な姿勢であって、こわいけれど尊敬にあたいすると思う・・・。
自己選択ぬきには、なにごとも決まらない。



2016年2月14日日曜日

生きるという心地


久しぶりの大降り。
風が雨をガラス戸に吹きつけ、小粒の真珠のような雨のあとに私は見とれる。
硝子・・・ガラス越しに向こうの景色が雪の朝のようだ。
公園の常緑樹・・・
道路のむこうの公団住宅は絵に描かれた雪道そっくりのよごれたホワイト、
空は微かなピンクと淡い紫を帯びてどこまでも灰色・・・、私の部屋の側では、
通りのメタセコイヤも庭の柿の木も落葉して、
しかし枝は風と雨がうれしいのだろう、たえずもくもく揺れている。

生きた心地がしないような気がする。
友人家族の長男の孤独死。それから。
おとといはご主人の自己破壊的なDVから逃げて来た古くからの友。

メールが真夜中ちかくに届く。
私が本当にお世話になった女の子(まあ私とくらべると女の子)から。
彼女の長男が中学に無事合格したというとってもよい知らせである。
おめでたい話のあとに続く、不可思議なメール。


(途中から)・・・・
《 ところで!
最近、私は、つぎこさんは魔女だかシャーマンだか、とにかくご本人が気付いていないだけで、
ものすごい力を持っているのではないかと妄想してるんですよ。
お薦めの「ソロモンの偽証」をブックオフで2巻まで買って、受験会場での待ち時間を過ごそうと
持ち歩いていました。すると受験日初日。こどもの隣のクラスの男の子が、不慮の事故で亡くなったという訃報が入ったのです。

緊急保護者会が開かれたり、バタバタしていて、私がその本を開いたのは、受験の最終日でした。

その時初めて、ソロモンの偽証が、少年の死を題材にしたストーリーだと気付いたのです。
本は、事件を目撃した少年が保健室にいるところでストップしたままです。

小説と違って、彼は仲良しな友だちもいたし (後略)・・・・》


ちがうちがう。
私はなにひとつ予知なんかしてないわよ。
この世に事件が、もうのっぴきならないほど多くなって、苦しい人であふれかえって、
どうにか無事に暮らせている人の足元まで、その影響が押し寄せてきている。
そう思って私なんか生きるという心地のつけようもわからないありさまです。


2016年2月12日金曜日

オリアナ・ファラーチ著 「戦争と月と」


新しい装丁の単行本を手にとり、昔からもっている文庫本と同じものかと思う。
文庫本のタイトルは「愛と死の戦場」。
女性記者による激戦地ヴェトナムのレポート1967年。

「私は人間を知るためにここに来ている。殺すか殺されるかという境遇にある人間が、何を考え、何を求めているのか知るために。私が信じていることを証明するためにここに来ている。
つまり、戦争は無益でばかげており、人類の愚行の中で最も野蛮なものであるという証明である。心臓を別の心臓に取り替える外科医が称賛される社会が、いかに偽善的であるかを説明するために、私はここに来ている。そして、健康な心臓を持った百万もの若者が、国旗のために、屠殺場の牛のように死にに行くことを承認している社会についても。物心ついた時から、私の心を痛めているのは、国家、祖国、というこの崇高な言葉の名において、殺し合うのは尊いことだと思わされていることである。そして、なぜ強盗が人を殺すのは罪であり、なぜ軍服を着ていれば人を殺すのが栄誉なのかを話してくれた人はいない。」



2016年2月11日木曜日

すごく小さい幸せ


なぜだかクシャミが何回もでて、おもしろいけどしまいにハナミズ、
机の上のティッシュペーパーを箱からピッと引っ張って、とる。
するとティッシュの方もめずらしく緊張状態で、ピリッと二枚いっぺんに飛び出した。
白い紙がかっこよく長三角になってスカッとした姿勢である。
なぜだろうと箱をのぞくと、カラになっていた。
キリッとフィニッシュ。オリンピックの選手みたい。
どんな工場のだれの手によって、あるいはよく出来た精密機械によって、
今日、このことが実現したのか。

こんな微細、極小の、小さな贈り物で、
たぶん一日はつながりもしているのだろう。
とっても追いかけきれない話だけれど。


2016年2月10日水曜日

ハインペルの歴史意識


阿部先生の本を読む。申し訳ないけど電車の中で。
文庫本だし、たいへんな内容のはずなのに、読みやすい。

「第一次世界大戦の敗北が伝えられたとき、ハインペルは17歳でした。彼は祖国の
敗戦に衝撃をうけたのですが、そのとき、ミュンヘンのオペラ座では『魔笛』が上演されていたのです。このことにもハインペルはたいへん強い印象をうけました。祖国が敗れたのにオペラ座では『魔笛』が上演され、立派な服を着た紳士淑女が観劇していたのです。ハインペルは共通の現在のなかに、さまざまな現在があることを感じとったのだと思います。」

「現在」というものの幅の厖大さに今どれほど私たちは悩んでいることだろう。
戦争は絶対にイヤだと確信して金曜日のデモに行く人。
テレビとメタボが当面の文化という人。
 ・・・考えても考えても、日本人はばらばら。
とまあ、電車の中で安易に読んでバチがあたったのかもしれない。
歯医者さんの受付で支払いをしようとしたら財布がない!

私はマラーホフ(世界的バレリーナ)のファンで、いやなことが起こると彼の本を読む。
天才だけど、やさしい人で、動物がすき。オウムのカーチヤのことなんかも。
そんな本を本棚からとって、財布をなくしたので読んでいたら、
おとなになった息子と多摩動物公園に行った時のことを思い出した。

途方にくれたような縞馬(シマウマ)、「現在とは空虚な空間なり」と言いたげな麒麟(きりん)、
わけもなくグウタラ親父化したライオンの王者なんかに、納得できない思いがしたあげく、
てくてく、へんな小道に迷い込んだら、そこに孔雀がいた、放し飼いである。
わわわっと健が悲鳴をあげる。ウラジーミル・マラーホフならすごく喜んだはずなのに。
ベンチがあったので、腰かけたら、
「立って、早く立って!せっかくだから記念写真を撮ろう、母さん」
孔雀が急に、いちおうという感じで絢爛たる羽をひろげたのである。

私が孔雀なんかとならびたくないのは当然として、
孔雀だって写真のつもりはなかったと広げた羽をしまいそうになっている。
すると息子は、突然どこぞのガイドみたいなものに変身、
「あのー、すいません、こっちのほうに立って、ここ、ここです。ヨロシクお願いしますっ」
カメラを手に。孔雀に。ケッコウ怖がってたのに。
孔雀に営業敬語で対応って奇抜。

あーあ、もういいや、財布のことはあきらめた。


2016年2月9日火曜日

ジャガイモたぬき


きのうカレーを急いでつくっていると、ジャガイモの一部が
人のよさそうなたぬきに見えるじゃないの。目がみっつ、鼻のアナが4個の点々、
口が曲がってついてるのんびり顔。
その皮をまるく切り抜いてとっておく。まー芸術家になったつもりで。
今朝みると泥の色したジャガイモの皮のシワが目立ってリアルなことである。

このあいだよもやま話をした日、
「あっ、あれなーに、タヌキが歩いてく、猫だと思ったらタヌキだあ!」
野田さんが小声で叫んだっけ。大声をだすとすっ飛んでにげちゃうから。
たぶんタヌキによく似たハクビシンなのだ。尻尾のながいジャコウネコ科の。
柵のむこうを東の巣にもどるところだった。


朝7時半。
よろよろしながら重たい≪燃えるゴミ≫を運ぶ。
金網のフタをあげてゴロンと落としたあと、大物すぎて脇の方へ寄せられない。
大量の紙ゴミのせいだ。
あんたはえらい!と私は帰り道、ついつい自分にいう。
こんな重たい袋を運んだのは、玄関わきの女中部屋(私の寝る部屋の名まえ)の
紙くずを破いて破いてやっと始末できたせい。
それまでは寝ようと思えば紙ゴミを踏んで歩く始末だった。

空は青く、洗濯物はきのう大量にしたから今日はなし。
これから電車に乗って桜上水の歯医者さんのところへ。
元気をだそう、元気をだそう 。
本を読むまい、風景と風をながめよう。
・・・集団自殺があろうと、安保法制のもと自公内閣が戦争に向けまっしぐらだろうと、
高校生のデモ参加届け出法案があっさり成立しようと、
気をとり直して、自分の図々しい無気力と厚顔無恥と知らん顔に抵抗するのだ。