菜ッちゃんが、一冊まるまる絵本を朗読してくれた。
私の家で、そこにいるみんなに。
リュック・ジャケとフレデリック・マンソの「きつねと私の12ヶ月」。
リュック・ジャケとフレデリック・マンソの「きつねと私の12ヶ月」。
暁子さんがずーっと眼をつぶってきいていた。
暁子さんは菜摘子ちゃんの母親で、
菜摘子ちゃんはダウン症であり、画家であり、三十五才の童女である。
暁子さんはシングルマザーだ。
学生結婚をし、はやばや離婚し、働きながら菜摘子ちゃんをひとりで育てた。
いま、ふたりは暁子さんと菜ッちゃんとで、なんというか1・5人のように見える。
そんな言い方はおかしいけれど、そう見える。
人間は1人のものだから、1・5人をやるのは苦しいだろう。
暁子さんはくたびれている。
眼をつぶっていても、眼をあけていても、
「田園交響楽」(アンドレ・ジイド)の、あの盲目の少女がけっきょく告白するところの、
・・・人間の顔がこんなにも悲しいものだとは思わなかったという、あの苦悩の顔だ。
でもなんて深みがあって人間的な、きれいな顔なのだろう。
菜っちゃんの素晴らしかった個展の、あるふうっとした時間、
暁子さんに言われて、「きつねと私の12ヶ月」を私は朗読した。
個展のあいだ、もしかしたらタイクツするのかもしれないと思い、
気持ちがわからないなりに、会場におみやげにもって行った絵本である。
菜摘子ちゃんの表情がそんなによめない私は、
朗読が彼女にどうきこえていたのか、本当にさっぱりわからなかった。
朗読が彼女にどうきこえていたのか、本当にさっぱりわからなかった。
でも、個展がおわって何日かたつと、
菜ッちゃんは「きつねと私の12ヶ月」をお母さんに読んできかせた。
暁子さんに。一冊まるごと終わりまで。ぜんぶ。
菜ッちゃんは「きつねと私の12ヶ月」をお母さんに読んできかせた。
暁子さんに。一冊まるごと終わりまで。ぜんぶ。
「菜摘子がそんなことができるようになっていたなんて、知らなかった」
お母さんは私におどろいた顔で言った。
お母さんは私におどろいた顔で言った。
そうかあ。
子どもはおとなになると、絵本を読んできかせるって、しなくなるんだっけ。
菜ッちゃんの朗読は、
10才の少女の孤独な、そして幼くわびしい理解の様相を、
ほとんどあますところなく描き出した。
愛情というものの、途方にくれてしまう様子が、
指でページを繰るために時間がかかり、物語ることばがたどたどしく途切れ、
しかし、曖昧なところのない確実な発声でもって、物語られていく・・・。
それはまことにあの絵本にぴったりの読み方であった。
理解とはなるほどこういうものではないか。
時間がかかり、たどたどしく、しかし結果として心が確実につかまえる、
そういった行為ではないか。
私は菜ッちゃんの朗読をききながら想像した。
岩崎菜摘子のこの朗読も、あの数々の美しい絵も、
岩崎暁子という母親の精神世界からくる複雑多岐にわたる洪水を、
洪水のような言語を、
ダウン症で一人娘の菜ッちゃんが毎日浴び、
洪水だから受止めかね、
それでもいくつもいくつもの言語を、菜ッちゃんの身体全体がどうしようもなく受止め、
おそらく多くは流れ去ってどこかに消えてしまい、
しかし唯一無二の母親を信じ、愛して、こだわる心が、
辛抱づよくいくつかを拾いあつめ、
ゆっくりと菜ッちゃん自身の手で再構成が行われ・・・、
そうやって作品というものは誕生するのだろうか、と。
なんてきびしい人生だろう。
それなのに菜摘子ちゃんの絵は幸福そのもので、
私たちみんなを温めるのである。
1・5人であることはどんなにかたいへんだろう。
岩崎暁子という生来孤独な、小説家になったはずだろう女性の子育てが、
そのきびしさと深みが、たくさんの人たちに影響をあたえてくれたらと私は願う。
子どもはおとなになると、絵本を読んできかせるって、しなくなるんだっけ。
菜ッちゃんの朗読は、
10才の少女の孤独な、そして幼くわびしい理解の様相を、
ほとんどあますところなく描き出した。
愛情というものの、途方にくれてしまう様子が、
指でページを繰るために時間がかかり、物語ることばがたどたどしく途切れ、
しかし、曖昧なところのない確実な発声でもって、物語られていく・・・。
それはまことにあの絵本にぴったりの読み方であった。
理解とはなるほどこういうものではないか。
時間がかかり、たどたどしく、しかし結果として心が確実につかまえる、
そういった行為ではないか。
私は菜ッちゃんの朗読をききながら想像した。
岩崎菜摘子のこの朗読も、あの数々の美しい絵も、
岩崎暁子という母親の精神世界からくる複雑多岐にわたる洪水を、
洪水のような言語を、
ダウン症で一人娘の菜ッちゃんが毎日浴び、
洪水だから受止めかね、
それでもいくつもいくつもの言語を、菜ッちゃんの身体全体がどうしようもなく受止め、
おそらく多くは流れ去ってどこかに消えてしまい、
しかし唯一無二の母親を信じ、愛して、こだわる心が、
辛抱づよくいくつかを拾いあつめ、
ゆっくりと菜ッちゃん自身の手で再構成が行われ・・・、
そうやって作品というものは誕生するのだろうか、と。
なんてきびしい人生だろう。
それなのに菜摘子ちゃんの絵は幸福そのもので、
私たちみんなを温めるのである。
1・5人であることはどんなにかたいへんだろう。
岩崎暁子という生来孤独な、小説家になったはずだろう女性の子育てが、
そのきびしさと深みが、たくさんの人たちに影響をあたえてくれたらと私は願う。