ピカソが少年時代に書いた絵とか、習作のあとかたを眺めると、
10才でも13才でも14才でも、15才で描いた「初聖体拝受」など特に、
生まれた時からもう画家として完成していた、
そう断定されるわけだと思う。
そう断定されるわけだと思う。
老年のピカソを写真家が写すと、私が気になるのは目玉だ。
縞のかんたんなTシャツに短パン。
カメラのレンズを、大きな目玉が、ピカソが、なんの気負いもなく眺めている。
こんなドンピシャリの強い視線を、自分は対象にむかって当てたことがない。
ピカソの目玉。思うにそれは、自信というやつ。
自分の目でそのまま世界を眺めることを、自他共に許した目玉なのだ。
いいもわるいもなく、ということである。
そういうことが、日本の子どもたちにゆるされたら、どんなにいいだろう。
いいもわるいもなく、あるがままを自分の目で見るということが。
今日みたいな空気の冷たい、枯れ枝を陽光がキラキラくるむ日、
今日みたいな空気の冷たい、枯れ枝を陽光がキラキラくるむ日、
ひとりの子どもが私の思い出のなかを出たり入ったりする。
幼稚園で働いていたころ出会った、凶暴な顔した坊やで、
4才ぐらいなのにそれはもう迫力満点。
「かぶきちょうの子やくざ」というあだ名をつけたぐらいだった。
歌舞伎町の子ヤクザ、ですよ、すごいでしょう。
生まれて4年しかたってないのに、なんでこんなけわしい顔付きになったか、
私どもは親のせいにし、親は幼稚園のせいにする。
したがっていまのところは解決不可能、お手上げなのであった。
かぶきちょうの子やくざは凶暴で暴れ放題、
私など、担任が平然と対処する姿を遠目に見ては、よく平気ねとビクビクしていた。
それなのにある日、おさだまりの手が足りない朝がきて、
「園長先生、おねがいします、ちょっと15分だけ見てていただけますかっ」
そんなことできないと思っても、立場上逃げるなんて論外で、
「あっ、ちょうどいいところに来たじゃない」
紙の長剣をにぎりしめて、今にも私をブッ叩きそうな顔にむかって、私はにっこり、
かたわらの紙の山を見せ、
「運がいいわよあなたって。見てごらん、素晴らしいと思わないこの紙?」
「運がいいわよあなたって。見てごらん、素晴らしいと思わないこの紙?」
私はゲームがきらい、保育もだめだ。
テキが長剣を持っていれば、私の話題はあわれ長剣に限定されてしまう。
ビビッているせいで気のきいたことなどなんにも思いつけない。
ビビッているせいで気のきいたことなどなんにも思いつけない。
「これでそういう剣をつくったら?」
つくってそれで刺されたらどうする、などと思いつつすすめると、
子ヤクザのほうはギロリと表紙の山を睨んで問答無用の形相、
子ヤクザのほうはギロリと表紙の山を睨んで問答無用の形相、
しかしイヤだとは言わない。
いいのかしら。
いいのかしら。
「ほら絵本のカヴァーよ。見てよピカピカでしょ、剥がしたばっかりなのよ」
幼稚園では新刊本のカヴァーは、もったいないけど全部剥がして捨てる。
彼はイヤそうに椅子にこしかけ、不満げに紙の山をながめ、
子ヤクザにふさわしいしゃがれ声でポツリと、
彼はイヤそうに椅子にこしかけ、不満げに紙の山をながめ、
子ヤクザにふさわしいしゃがれ声でポツリと、
「あスイミー」
そうか、幼稚園でせんせいが絵本を読むときは、どこかできいているのか。
「知ってるの?」
「うん、うちにある」
インテリやくざというか、たどたどしいけど4才にして字も読めてる。すばらしい。
どろだらけ凶暴という見てくれと、文化的教養のアンバランスが絶妙なのだ。
思い出した、まだ4才だった。かわいいのだ。
「どの色がいいか選びなさい、何枚でもいいわよ、あげる」
カヴァーは50冊分ぐらいあった。本屋から着いたばかりの新品である。
子やくざはぶっちょうづらのまま、だまりこくったまま、
きれいでロマンティックな青だとか黄色だとかピンクの絵本のカヴァーを、ゆびさす。
「ふーん? あなたっていう人は、色彩感覚がいいんだ?」
「しきしゃいこんかく、なんだそれ?」
彼はホントにいちばんステキな表紙を選ぶわけで、
しかも必要な分だけ受け取ると、もういらないと首をふるのだ。
よくばりじゃない。おくゆかしいところがある。
親御さんのことはウワサでしか知らなかったけれど、
これはきっと、子どもをだいじにしている人たちなんだろう、とまあ想像した。
そうか、幼稚園でせんせいが絵本を読むときは、どこかできいているのか。
「知ってるの?」
「うん、うちにある」
インテリやくざというか、たどたどしいけど4才にして字も読めてる。すばらしい。
どろだらけ凶暴という見てくれと、文化的教養のアンバランスが絶妙なのだ。
思い出した、まだ4才だった。かわいいのだ。
「どの色がいいか選びなさい、何枚でもいいわよ、あげる」
カヴァーは50冊分ぐらいあった。本屋から着いたばかりの新品である。
子やくざはぶっちょうづらのまま、だまりこくったまま、
きれいでロマンティックな青だとか黄色だとかピンクの絵本のカヴァーを、ゆびさす。
「ふーん? あなたっていう人は、色彩感覚がいいんだ?」
「しきしゃいこんかく、なんだそれ?」
彼はホントにいちばんステキな表紙を選ぶわけで、
しかも必要な分だけ受け取ると、もういらないと首をふるのだ。
よくばりじゃない。おくゆかしいところがある。
親御さんのことはウワサでしか知らなかったけれど、
これはきっと、子どもをだいじにしている人たちなんだろう、とまあ想像した。
「じゃ、それで剣をつくればいいじゃない?」
二日後。
かぶきちょうの子やくざが、いつものごとく泣く子をしつっこく追い回し、園内騒然。
恐ろしい形相で紙の剣を振り上げ、ギャーッとなったすごい瞬間、
職員室から飛び出した私がこの子とバッタリ鉢合わせしてしまったのである。
どうなるか、双方息をのんで立ち往生、
なんてまあ恐ろしい形相だろうかと、私は仁王立ちの凶暴子やくざをながめる。
捨てるには惜しい記憶があったと残念、私だって、この子だって。
その時のことである。
子やくざは、すばやく表情をフツウにもどし、
私のあたまを長剣の先でチョンチョンと、挨拶のように、二度叩いた。
それから、猛然だんぜん凶暴やくざ顔にもどったかと思うと、
逃げだした子を追いかけ、わーっと園庭を飛んでいってしまった!!
こんなことは、こんなような変身は、子どもにしかできない。
りょうほうともが自分なんでしょ。
ハスキイな声で「えんちょうせんせい」と言ってたっけ。
私が園長だからと、加減したのだろうか。
幼い彼の文化のなかに、そういう気遣いのようなものがあると思って、
またも私は親御さんの姿をすこし想像したのである。
私たちの幼稚園とこの坊やの親御さんとはどうしても折り合えず、
申し訳なくもついに転園されてしまったけれど、
いつ思い出してもかわいらしく懐かしい。
世界の人々がピカソをそのまま認めるのは天才だからだろうか。
子どもはみんな、どこか天才ふうのものである。
なんとかして、あるがまんまのそのまんま、みとめられたらと思う・・・。
・・・だってねー、くっきり、はっきり、すごい子どもだったんだわよねー。
ピカソみたいに坊主あたまで。