My Mother said that I never should play with the gypsies in the wood, The wood was dark; the grass was green; In came Sally with a tambourine. I went to the sea-no ship to get across; I paid ten shillings for a blind white horse; I up on his back and was off in a crack, Sally tell my Mother I shall never come back. -Songs of Mother Goose-
2018年4月3日火曜日
鶴三会の一日
お花見はいいものだ。
午前中の買いだしが案外にうまくいって、桜の下にまるく並んだものは、
量も質もちょうど良く落ち着いて、長いおつきあいならではという感じ。
ワインも紅く香りよく、日本酒も少しづつたくさん、つまり程よく選ばれた四合瓶
が数本、果汁もビールもふんだんに用意され、乾きもの、甘味、カットした果物、
・・・スイカやパイナップル、グレープフルーツ、イチゴの寄せ集め。
少なめに買い整えた、巻きずし、稲荷寿司。
サラダをやめてあっさりとキャベツ・キュウリの浅漬け 、
焼き鳥と、思いつきでブリやカレイやサバの煮つけを買ったのが、
けっこういい味、丁度よく無くなってよかった。
老人の会も、今となれば、知恵と落ち着きを備えた気持ちの良いものと思う。
鶴三会は、俳句の会を中にして一年をすごす成り行きで、比較的仲間うちの
表現も自由であってのびのび、 会話にほとんど気兼ねを感じない。
二重に敷いたシートに座って、話に興じて、さまざまな話の同時進行。
おおもしろがって笑う声。
花曇りの空をうかがい、桜の花びらが少し舞い散る公園を、ときどき私はながめる。
私たちみんなの心を映すように、桜は大枝をゆったりと芝土に向けて伸ばし、
葉桜を少しも見せまいと今もしているようだけれど、
どんなに咲いても満開を誇る日々は、すでに終わっているにちがいない。
灰色の空のあたたかさ。やさしさ。
淡さをまして凝固し、散るばかりの最後の緊張が、どの大木のどの桜花満開からも
伝わるようだった。
あゝ、私たちのいのちのようだ。
こういう心持ちをなんというべきか、
年を取って、わびしくも私の語彙は少なくなるばかり、
なんだろう、
寂寞 じゃくまくとでもいうのだろうか。
何げなく、あたたかい春の一日ではあるのだけれど。