7月になった。
息子が介護施設に雇用され、4月、5月、6月は試用期間だった。
シフト、シフトと追い回された3か月。
早出・遅出、徹夜、もういろいろの、おそるべき3か月。
シフトというのは辞書でちゃんと調べると「移動」と「転換」。
球技なんかで選手が位置を変えることをシフトと、いう。
シフトって、体育会系のことば、なのである。
まあ、私などのゆるやかな日本語でいえば、
介護施設で仕事の仕方を教わり、適性があるかどうかを値踏みされるんでしょ。
時間割とか、この施設ならではの仕事の現状とかね。
施設利用者のあるがままの「命の模様」を理解すること、
途方もない老いに共感し学ぶ、そのための訓練のことだと思う。
私はね、そう考える。
シフト、シフト、シフトと連呼するたび、
介護は、若いスポーツ選手の、「移動」と「転換」にきびきびと化けてしまう。
介護の職場に理念として残るのは、先輩と後輩と言う関係だけだ。
シフトの親分はスピードいのち、でしょ。
介護って、どういうことか。
厄介の介をまもるって? とまず考えちゃう。
介ってどういう日本語か?
調べたら、あいだにはさまるという日本語。
なかだちをする、たよる・・・という説明。
「介護」とは、たよるとまもるがくっついた熟語なのである。
そんなことは考えたこともなかったと最初、私はおもったけれど、
こうやって日本語でたどると、幼稚園の園長をしていた時と
はなしがまるでおんなじだ、というのが実感だ。
人間は、言語未発達の時代にもう幼稚園とか保育園に入れられる。
そして、年をとって身体が不自由になり、言葉を失うと介護施設に入れられるのだ。
わたしは78才だからまざまざと、もういろいろと思う。
息子の話をきくと、
利用者さんの感情表現は、
お礼をいいたいとか、やさしくしたいとか、わかってもらえなくて暴れるとかね、
なんとかして、自分の気持ちを息子に知らせようとするところからやってくる。
そういうことが幼稚園の子ども達と自然におんなじ。
お人形さんを抱えて寝ている人は、くちがきけないけど、
お人形さんの手を「じゃあね」と、慌ただしく離れて行く息子に振ってくれる。
そうかと思うと指を食いちぎろうとかみつく人がいて、入れ歯の処理のとき。
なんで喰いちぎられるってわかったのと息子にきいたら、
なんだかしらないけどヤバいと思ったからパッと指を引っこ抜いたんだって。
ゆびが、赤くなってる。アワやだったんだろうとわかる。
「噛みつきそこなった人はどうしたの?!」
笑ってたんだっていうから、その人どんなこと考えたのかなーと。
良いことも悪いことも、いろいろ、いろいろ、複雑よねきっと・・・。
たくさんあるはずよね。生きてきたんだものね。
幼稚園の子どもだって、そうなんだから。
人間のお世話をする仕事を、
体育会系の言語でくくることは、つまり無考えに日本語から引き離すことは、
暴力だという気がする。エイゴにするなんてとも思う。
先人たちが考えた日本の熟語は、とても人間的だから。