夕方になって、駅まで歩いた。
雨が降るはずなのに、ときどき降らないこまった一日。
上着を用心して羽織ると汗をかき、
歩きながら脱いでたたんで、リュックサックにしまった。
図書館に予約の本をもらいにいくと、
「原節子伝説」という写真集が、利用者が家に持って帰ってもよい本棚にある。
開いてみれば輝くような本なのに、なんで捨てちゃうんだろう。
つい、その大型本を持って帰ろうと手にとる。
滝沢修先生・・・。
劇団民藝で私が最初にもらった役はチェーホフの「かもめ」の小間使い、
舞台裏でも、滝沢修の付き人で小間使いなのであった。
どんなに一生懸命だったか、思い出すといまでも緊張して、
思い出だって、いまでも苦しくて懐かしい。
劇団で一番えらい「御大」といわれている人の御付き・・・。
滝沢先生のお世話専門の人がいて、その人も「かもめ」に配役されていたから、
彼女をさしおいてなんで私がと、四六時中、気兼ねでならなかった。
「かもめ」は日本中のの大都市をまわった。
劇団民藝最盛期の、オールスターキャストの大公演なのだった。
人をだいじにすることは、どんなに不器用でも、どこか楽しいものだ。
慣れない私を付き人に配したのは、嫌がらせだったという噂もあって、
もしかしたらそれは本当なのかもしれなかった。
しかし、入団そこそこの私にはそんなことを本当ですかと聞く相手もいない。
公演のあいだ、ずっと滝沢先生は孤高の落ち着いた大人物だったし、
下っ端中の下っ端の私はただもう一生懸命。
小間ネズミのように働いて、不細工に失敗ばかりして、先生のお世話をした。
そのうち私は、ときどき滝沢修先生に質問したりするようになった。
そのながい旅で、別格官幣大社(べっかくかんぺいたいしゃ)ということばを
私は覚えたが、たしかに先生はそういう立場の人なんだと思うけれど、
でも、いくらなんでも淋しそうに見える時がある。
私は私で超絶最低身分の女中なんだから、知りあいも話す人もいない。
・・・・・。
「あのう、センセイは、たくさん映画や舞台に出演なさったんですよね」
老優は鏡に向かってメーキャップの最中、
とっさのことに孫に答えるような慣れない調子だ。
「うん、そうね、いろいろ・・・出たね」
「きれいな人がいっぱいいた中で、一番きれいだった女優さんはどなたですか?」
しばらく、記憶をたどるように考える姿をながめて、私がじーっと待っていると、
「やっぱり・・・原節子さんが、綺麗だった。」
「ええっほんと?! そうなんですか?」
ピンときていない小間使い(私)をもう相手にしないで、
楽屋鏡に映った滝沢先生は、
「原さんは、本当に綺麗な人だったなあ」と、ゆっくり、もう一度繰り返した。
「原節子伝説」のページをひらいてみると、よくわかることだ。
1947年/松竹「安城家の舞踏会」キネマ旬報ベストワン。
主演者の一人が滝沢修。
1947年というと、私なんかただの5才だったもーん。