My Mother said that I never should play with the gypsies in the wood, The wood was dark; the grass was green; In came Sally with a tambourine. I went to the sea-no ship to get across; I paid ten shillings for a blind white horse; I up on his back and was off in a crack, Sally tell my Mother I shall never come back. -Songs of Mother Goose-
2014年1月21日火曜日
音楽前夜社のライブ ②
途中で帰るつもりが楽しくて最後までいてしまった。
つくづくそうしてよかった。
GoRoGoLoのマグマのような潜在力が開放され爆発して、レコハツを締めくくったからだ。
みんな楽しそう。祝日のおわりってこれだろう!!という感じ。
今日という日の全体を通して、ここにある熱気の存在を私は見たわけだろうか。
演奏するしないにかかわらず、若い人には燃える力があるのだということを。
しかし感情だけの無内容な爆発はおもしろくても印象に残らない。そうも思った。
派手でも上手でも、電気の力を借りても、不完全燃焼は不完全燃焼。
音楽前夜社の腕力で18のバンドが登場したとなればなおさらである。
なんでそう考えることになったかというと、
一番手にシイネハルカをもってきたことが大きかったのではないか。
彼女のピアノ(即興)演奏は、聴く者を自然な精神の故郷に帰らせる。
おのおのを各自のスタートラインに立たせ、
「現在ここにいる自分よりずっといい自分」を思い出させるのだ。
とても静かなのに。
そうなると耳と目が影響をうけて、取捨選択をはじめる。
純粋と不純を見分けようとし、登場する各バンドの客観と主観の純度を、
なぜかは知らずみんなが判定しはじめる。
たいしたものとはこのことで、二番手はディエゴだったが、
ディエゴがこれほどすばらしかったのは初めてと私は思った。
ハルカさんが創った軌道がディエゴという二番手を自由にし、
会場の聴き手に影響を及ぼしたのである。
SuperDUMB、YkikiBeat、ayU-tokio、岡沢じゅん、脳性麻痺号・・・。(順不同・表記もヘン)
多彩なプログラムは以後一転、先へ先へと華々しく爆走を始める。
それはもう楽しい。みんな人気のある有名バンドだそう。
会場はわんわんの喧噪、タバコのせいで煙り箱みたいになってきた。
セキばっかりでるのだ。
なんともう4時間が過ぎて、外に出ると暗くなっている。
音楽のことだけ考えて過ぎる一日は、騒然として気を奪われたよき一日である。
「えー、もうかえるんですか」と夕闇の風のなかできかれる。
ア・ページ・オブ・パンクは6時半から。それからGoRoGoLoの出番までさらに2時間半。
外套はタバコでぶすぶすに燻っている。
頭のてっぺんから靴の先まで煙りっぽい。
冷えた夕風のなかを、またライブ会場へと私はもどる。
タバコとアルコールと各ロック・バンドがたてる高度に器用な爆音は、
東電の無責任と、政府与党の破廉恥な公約破りと、三権分立の崩壊にくらべれば、
なんのこともない。
原発不始末は国の終わり、公約破りは約束の決壊、三権分立の崩壊は権利はく奪である。
いのちの危機にあり、自分も嘘つきになりかけ、当然の人権はぼろぼろ。
その土壌の上に存在して、そこで束の間若々しく生きて、現実は断固見ないという立場で、
いつまで、なにを音楽でさけぼうというのだ。
日本列島のロック演奏は我儘な人のおもちゃなのかどうか。
ライブハウスで私がたびたび考えてしまうことである。
見たものを今は語れ、自分たちのために。
唯一絶対無二と自分を思うなら、思うことは表現するものだ。
きょうはそういうことができた日だったろうか。
思いがけずすばらしい一日だったことは確かだけれど。