My Mother said that I never should play with the gypsies in the wood, The wood was dark; the grass was green; In came Sally with a tambourine. I went to the sea-no ship to get across; I paid ten shillings for a blind white horse; I up on his back and was off in a crack, Sally tell my Mother I shall never come back. -Songs of Mother Goose-
2020年1月11日土曜日
朗読新年会で
朗読が、集まって下さった親しい方々にどう共感してもらえるのか。
新年会だというのに、ひとりだけ、ついこだわる。
発表の日までは、みんなして、夢中で努力する。
終わってしまうと、私の場合いつでも悩みが残る。
なに程の事であるのかが、どうもよくわからなくて。
めんどくさいだろうけれど、この私は、
観客席からの好意的な手ごたえの正体を、知りたい教師なんである。
そんなことはどうでも良いではないかという意見もあった。
一生懸命やって、それからまた一生懸命やる、それ以上を求めてどうするのか。
その人はそう言うし、ほかの人は、戦争反対をあからさまに主張されると退いて
しまう と言う。みんな、いろいろ・・・。
朗読と黙読はちがう。
朗読とは、[詠み手」と「書き手」と「聴き手」の三角関係だから、
一辺を置き去りにしては完全体にならない。
・・・それが私という責任者の原点、主張、こだわり、である。
それはそうだとして、
去年11月23日の発表会は、本当によかった。すごくよかったのだ。
ひとまず、朗読した誰もが、違和感を招かない「日本語」を使い、
全力でその数分間を生きた。彼らはそれぞれ人間として、だれの目にも、
思いやりがあって、元気だった。しっかりと立ってもいた。
文学の力をかりて、のびのびと、ユーモラスにさえ見えたのだ。
彼女たちは、1億2千6百万人いる日本人の誰とも、微妙に似ていなかった。
ヒトの指紋がちがうように、誰もそのことに気がつきはしないけれど、
朗読者として、不思議にもきっかりと個性的だったのである。
私たちは近頃とくに、日本人のそういう姿を、いつも探している。
それが、手ごたえの正体なんだろうか、今は。