2019年9月1日日曜日

訃報2


彼は遠慮がちに居間の椅子の横に立って、いつまでも腰かけない。
むりにも「座って下さい」とすすめて、私は洗濯物と買い物袋を玄関に放り投げた。

うかがうと、小さかったお嬢さんは、今はもう16歳だという。

お母さんが発表会で朗読するとき、花束の傍らで、はにかんで待っていたあの少女。
お父さんとおばあちゃんと来て、会が終わったあとの長い時間、物陰でもうずーっと
穏やかに待っていた。家族でなぜか寄り添って静かに話して微笑して。
私はもう、その光景しか思い出せない。
「後片付けはもういいから。はやくご家族のところに行ってちょうだい。」
そう頼んでも、彼女は悠然として動かなかった。
明るい声で、朗らかに笑って、発表会の後の2時間半ぐらいは、堂々と、
そこらの向こう側の影に、平気で家族を待たせるのだ。
「大丈夫です、いいんですよ」

大丈夫じゃないわよとハラハラして、なんだか解せない思い出である。

彼は、友子はたしかに時間の管理ができないヒトだったのですと、応えてくれた。
遠慮がちな小声で、すこしづつ思い出が、・・・不思議な糸巻きの糸ように、
テーブルの向こうの彼からゆっくり、ゆっくり私のところまで届くのである。
きけばきくほど、ただもう亡くなった人のすべてを肯定しただけの、
それができたという夫婦のありように、私はとても驚かされた。

それはたぶん自分が人間を全面的に肯定したりできない、
そういう恥ずかしいデキの者だからだろうと思った。