2020年3月27日金曜日

次女気質(じじょかたぎ)


ヒデコちゃんは次女だった。4人の子どもの。
長女、長男、ヒデコちゃん、末っ子の3女。
敗戦直後で食糧難の時代なのに、軍人だった父親は公職追放。
ヒデコちゃん3才。私よりすこし年上である。
「もし誰かが貰われっ子になるとすればさ、きっと自分だろうと思ってたわよ。
だってね、姉さんは初めての子どもだからだいじにされたでしょ。
兄さんは待望の長男なわけよね。末っ子はもう、なんていったって可愛いから。
貰われていくとしたら私だろうなって」
家族みんなが大人になってからの笑い話である。

私はこの話の「長男」の嫁だ。ヒデコちゃんより年下の兄嫁。

私も次女である。姉が7才で死んだから一人っ子になったけれど。
小児麻痺で寝たきりの姉が死んでまもなく、母は私を置いて出ていった。
ずっとあとになって、再会した母から、どんなにきれいで優しい子どもだったか、
私がどんなに姉とちがっていたか、たびたび聞くことになった。
マキコちゃんとツギコちゃんが入れ替わればよかったのに、と母の従妹なんか
そう言ったという。これだって笑い話できいたのだ。

次女気質というものは、こういう土壌のうえに形成される。
打たれ強い性質。まわりに注意しながらひとりで行う自己形成。
環境にさからわないがあんがい強情といわれたりする。
でも感じがよい。にこにこしている。
だってうっかりするとどっかに貰われちゃうわけだし。

次女気質だと、こういう一応の外づらに隠れて、欠落している資質は見えにくい。
我儘じゃない代わりに自己主張ができにくい、というより主張は育たない。

「佐高信の昭和史」(角川文庫)のなかに、こんな詩が引用されている。

   「祝婚歌」      長田弘

正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい


次女にこういう忠告が必要だろうか? けっこう最初からこうなのに?
次女って、用心ぶかいし、自分にだけきびしくて潔癖だ。
・・・佐高信推薦・のような人に、ついつい頼まれないのになってしまう。

さて続いて佐高さんは、ソローの名著「森の生活」からも詩を引用する。
「組織においてどうあるべきか。この一語に尽きるとおもいます」とある。


足並みの合わぬ人をとがめるな
彼はあなたが聞いているのとは別の
もっと見事なリズムの太鼓に
足並みを合わせているのかもしれないのだ


組織者としてはこういうことがとてもだいじである。
たぶん、演説するな、聴く耳をもて、ということだろう。
集団の中には、さまざまな優れものが、必ずいるからと。
しかし、
家族とか個人のトラブルとなると、この指摘はどんなものだろう。
男じゃなく、長男じゃなく、大学出の優れもんじゃなかったとしたら?
佐高さんとか、長田さんとか、ソローさんみたいじゃなくて。

健康で献身的な、ただの家族のお母さんだったとしたら?
その人が、例えば高齢になり、病気になり、長年の無理がたたって、
だれの補いもできなくなった時。身体がつらくて自由に働けなくなった場合。
ヒトの都合にふりまわされず、権利として、自分のことばで自分の身を守れたら、
日本人が、これらの詩の真逆を、落ち着いてやってのけられたら、
そうしたら、やっと日本も民主主義なんだと、私は考えるのですが。

・・・そうは言っても次女気質がジャマをして、これがなかなかの難事業。
もっとみごとなリズムの太鼓はいつもほかの人のために鳴るんだし。

こまったこまったで日が暮れる。
でも私は、自分の主張がどんなに不細工でも、
不細工なんか気にしないでがんばりたい。
笑う門には幸せやら面白いことやらが、かならずまっているはずなのだ。
それを確信している。

コロナで大騒動だけど、個人的な意見がひとつも言えなければ、国難の解決なんか
あるはずもないじゃないの。
10歩だって100歩だって、はじめの1歩があってのものだ。
はじめの一歩は、ヒトの顔いろをうかがうことじゃない。


2020年3月25日水曜日

春の一日


2日続けて、病院へ。あいまに出来ることを休まずに片づけたら、
とんでもなく疲れて気分が悪く、2日ほど立ち直れない。
今日は夜になって「サラの鍵」というフランス映画を観た。
古い映画だけれど、素晴らしかった。
見終わってしばらく胸の中が哀しみでいっぱい。
戦争が終わって2、30年のころは、文学も映画もみんなこんなふうだったと、
懐かしく、そして今という時代の不穏と無力がとても苦しい。

今日は1日なんにもしなかった。横になって本を読みながら時々、外を眺める。
庭の手入れもできないでいるのに、いつのまにか小さな花が咲いている。
多年草って有り難いものだなあと思う。
紫色のムスカリや白いヒヤシンス、クリスマス・ローズ、何年も前に植えた
黄水仙がのこって、若い雑草のあいだあいだで、ちゃんと花をつけているのだ。
小さくて不揃いな花々が、無音で風にゆれて可愛らしい。
・・・その代わり紅梅が枯れてしまった。小柄な紅梅の木は、小鳥がやってくると
花をびっしりつけた枝が、迷惑そうに揺れていたけれど、それはもうおしまい。

今は夜なので、明日はお天気かしらと、洗濯物を取り入れながら空を見る。
遠くに幻影のような雲がぽうーんぽうーんといるような気がする。
その雲のよこに星が見えて、それはさっき映画の中で観たユダヤの星のようだった。
目がちゃんと見えて、なにもかもがはっきりピントが合っていたりしたら、
世界はたぶんこんなにロマンティックなもんじゃないんだろうなーと思う。
おぼつかなくとか。こころもとなくとか。
私たちには年相応の世界というものがあって、月も星も雲もソフトフォーカスが
けっこう懐かしい見え方だったり面白かったり。そんなに不便でもないし。

ベンリからゆっくり遠ざかればいいのよね。



 

2020年3月24日火曜日

週刊文春完売御礼の話


週刊文春3月26日号が完売御礼となったそうである。
「森友自殺・財務省・職員遺書全文公開」

完売御礼の話を私は病院の食堂で耳にした。
今さっき、電車の中で相澤冬樹氏の投稿記事を読んだばかりだった。
きのうツタヤ書店でからくも最後の一冊を買ったのだ。

相沢さんはもとNHK記者・現在大阪日日新聞の人である。
2年前に亡くなった近畿財務局職員赤木俊夫さんの奥さんが、
佐川(元)理財局長と国を提訴したのだった。



2020年3月23日月曜日

お見舞い


夜になって、入院中のみっちゃんに電話。個室なので退屈、憂鬱、孤立、閉塞。
明日、じぶんの治療がおわった後、彼女の病室にお見舞いに行く約束である。
こんな大騒動の最中に会えるのかしらとそれが疑問なので、
私の話は、ついついコロナ・ウィルスの悪口になる。
見えないのが問題よ、外から帰ってもさ、どうしていいかわかんないわよ。
例えばよ、手を洗ってウガイしてもさ、外套とか靴はどうするのよ。
みっちゃんは私にこう答える。
家に入る前に、外で外套をはたけばウィルスは落ちるんじゃない?
電車の中で吊革なんかにさわらない方がいいかもね、やっぱりとも言う。
彼女は最近ずっと病人なので、寂しくても移動は自動車、到着先は個室。
素手でコロナ・ウィルスに対抗している?私とは話が微妙にズレてしまう。 
えーっ、コロナ・ウィルスってはたけば落ちるの?みっちゃん ホントなの?
電車にのってさあ、なんにも掴らないでずっと立ってるなんてできないわよ。
私の返事もけっこうくだらない。

どうでもいい話はやめて、明日、とにかくみっちゃんに会ってこよう。



2020年3月21日土曜日

訃報


昨夜おそく、息子たちの音楽仲間がやっぱり急に死んだ、と聞かされた。
癌が3重にも4重にも拡がって、相談先の癌センターにも相談を断られ、
入院先にも見放され、転院先が見つからなかった若者だった。

不可能を乗り越える知恵はないかと、友人たちが集まった日、相談した。
40才になって間もないときけば、結果は決まっているように思えたが、
おなじ死ぬにしても、突破口を探して闘って寿命を延ばしてほしかった。
人生には必ず可能性があり、希望と奇跡があると若い2人に知らせたかった。
その日、うちには賢くて驚くほど柔軟な知恵者がそろっていたから、みんなで
話し合い具体的な方法を考え、メールを病人の恋人に送信してもらった。

やっぱり急に死んじゃったって、あっという間に。
玄関のドアがあいて、そう知らされた時、ドンと風に押されたような気がした。

夜中に眠ろうとして スタンドの電灯を消すと、暗闇はなにかの魂でモヤモヤと
いっぱいだった。それは壊れた家具のかたち、お化けの老人や子ども、不定形の
魑魅魍魎で、かすかに光りながら動ごめいて一向に消えてなくならない。
死んだ人達が、天井までいっぱいなのかと思うから電灯をつけると、雲のような
白いかたまりだけ残して、ほかのものは居なくなる。
ところが電灯を消せばまだそこにみんな居るので、ショウジ君は、よく知らない
私のような者にもお別れにきてくれたんだろうかと、こわくもなくて不思議だった。

ライブハウスでは大勢の若い人にあうので、私は人まちがいばかりした。
青白くて鋭角的な横顔が美しいあの青年には、と思う。小柄な恋人がいた。
すごくいい人だときいていた。
彼はよく勉たちのバンドのDJを引き受けてくれていた。
アサ君のバンドの仲間だった。
あの人はこの人の彼女なのよね、私が用もないのに確かめると、
それはたいていまるっきりの間違いで、ライブハウスの雑踏ばかりが頭に残った。
ざわざわざわ・・・、あさきゆめみし、とはこんな出会いのことだろうかと思う。


ビリから2番


高校2年生の時、私は学年でビリから2番になった。
勉強というものが、どうにもこうにもダメだったのである。
300人だか400人だか覚えていないけど、廊下に成績が貼りだされて、
私ときたら全生徒のビリから2番目になったのである。

恥ずかしいし恐ろしくて、私はとても自分1人では耐えきれず、
家に帰るとすぐ、いつも原稿を書いている書斎の父のところに行った。
「父さん、私ね、ビリから2番になったの」
父は万年筆をゆっくり原稿用紙の上に置き、私のほうを向いて、
ほう、と言った。そりゃこまったなあ、と笑ったのだ。

笑いごとじゃないよと今にも泣きそうな私に、父はなんと言ったか。
「しかしな、お前さんはおれよりはましなんだぜ、つん公」
お前さんはビリから2番目だろ? おれなんかビリから1番だったよ。
嘘だぁ。びっくりしている私に、嘘なもんか本当さ、と父は言った。
「そのとき親父が、まずいことに学校でPTAの会長だったんでなあ、
具合わるかったよ」と思い出して笑うのだ。

その話のどこがおかしいのか私にはまるで判らなかった。
いつか自分にも笑える日がくるだろうなんて全然考えられなかった。
「それで、おじいちゃまは父さんになんて言ったの?」
「まあ、どうにかならんか、とか言ってたな」
「それで父さんは、どうしたの、どうにかなったの?」
自分の父親ほど頭の良い人はいないと思っていたころだ。
「どうにもこうにもなりゃせんよ、そんなものは 」と父は言った。
しかもなあ,
その時、弟の奴がさ、忠男君が学年で先頭から1番だったんだぜ、
おれは「カッコ悪かった」よ、まったく。
カッコ悪いは、当時の流行語で私がよく連発したから使ったのだ。

それから父はすごくおかしそうに私の顔を見て言った。
マヤコフスキーの詩をもじって、ビリから2番に、こう言った。
「だけどビリから1番でもさ、ははは、今じゃ、おいらもちっとは学者だぜ?」
それは ハイネ風の唄という短い詩の中の1行だった。


稲妻を、女は投げた、二つの目で。
「見たわよ、
ほかの女を連れてたでしょ。
あんたほんとにいやらしい
ほんとにあんた卑怯なひと・・・」
それから出るわ
それから出るわ
それから出るわ、悪口雑言。
おいらもちっとは学者だぜ、
ごろごろいうのはやめときな。
電気にうたれて死ななけりゃ、
かみなりなんて
へいちゃらさ。
               (ウラジーミル・マヤコフスキー)

中学生の時、父が読んできかせてくれた詩だった、
乱暴なことばをつかっているけど、それなのに汚くないだろうと言って。
つきあいで笑いはしたけど、でも私は、苦しいばっかりだった。
電気にうたれて死んだ方がよっぽどいいような気がして。



2020年3月20日金曜日

シリアの希望


「戦場の秘密図書館」を読んでいる。
シリア内戦下の、反体制ダラヤの物語りである。
アサド政権下、政府軍に完全封鎖され、絶え間ない空爆にさらされ、
あらゆる物資が封鎖で届かなくなったダラヤの街の、
危険な瓦礫の下に、密かに創られた図書館と書物と、
少年といってもよいような若者たちの物語だ。

「読書を通して、過去の歴史を学ぶと、『前進し続けよう』という気持ちになります。
たとえば国家にさからってまで何かを成しえた人物の話を読めば、『ぼくたちにだって
出来る』と力がわいてきます。ぼくたちが目指しているのは、アサド大統領を権力の座
から引きずりおろすことだけじゃないんです。それ以上のもの、つまり、自由な国家が
ほしいんです。だからぼくたちは、アサド大統領がいなくなった後の、新しい国作りに
備えなきゃいけない。読書によってしか、それはできない。いや、読書することで、ぼ
くらはそれを成しとげられると信じているのです。」 ウマル

「ぼくは思うんです。本は雨のようなものじゃないかなって。雨はすべてのものに分け
へだてなく降りそそぎます。そして、雨の降りそそぐ土地に草木が育つように、本を読
むことで人間の知恵は花開くんです。」 バーシト

 2016年 ダラヤ陥落。ダラヤ市民は4年近く抵抗を続けた街を追われた。
秘密図書館は政府軍に荒らされ、本は略奪され、時々市場で売物になった。
もとの所有者の名まえと住所が記録されているために、略奪が判明するのだ。

本は雨のような存在だとダラヤを追われた別の若者も言っている。
雨が降れば、草木も花もいろいろなものが育ちますとインタヴューにこたえて。
「秘密図書館の本も、たどりついたそれぞれの場所で、誰かに読んでもらい、読んだ人
が知識を得て、その人の心が育つことを願っています。それが巡り巡って人類の成長を
助けるのです。ぼくたちはいつまでも秘密図書館を誇りに思い、秘密図書館が良いもの
の源(みなもと)でありつづけることを信じています。」 アナス



2020年3月18日水曜日

夜更かしの翌日


歯医者さんに行って、治療の途中で一瞬?眠ってしまった。
自分でも眠ったなと判った。藁ぶき屋根の大きなお寺のような民家。
重々しいその家が、音のない霧雨に濡れてじっとり灰色に見える。
ああ、灰色の夢を見ていると思って、自分で眠るのをやめたから、おかしい。
私、眠っていましたかと、あとできく。ええ眠っていましたね、と言われた。
帰りの電車はがらがらで、そこでまた、「ペスト」を片手に眠ってしまった。
いろんな人が眠っていた。乗客はマスクをしている。
マスクなしの人のほうが少ない。

やっとバスを降り、やっと石の階段を昇り、やっと家にもどった。

テーブルに向かって、ごはんの横に佃煮と沢庵を並べ、
これじゃ栄養が、なんて思いながら、緑茶でお茶漬け。
赤黄緑色野菜症候群。野菜がないと落ち着けない。
ふん、しゃらくさい。ちゃんちゃらおかしい。
昔ならば、こういうお昼ご飯が嬉しくて、もう心底ホッとしたものだ。
なんだか母と祖母が 食事を作っていたころがなつかしい。



遥と彼方


むかし私は、乱暴なその日暮らしの母親だった。

子どもの生活の跡をていねいに辿ることもしなかったし、思い出も少ない。
写真も整理してない。貧乏なので仕方がなかったし、それについては
嘆きようもなかった。私は自分も、子ども時代の記念品のようなものとは
ほとんど縁がなかった。
ゆとりというものがあったら、少しはちがっていたろうか。

それでも、大人の絵のあいだに飾る子どもの絵が、うちにも2枚だけ、ある。
はるか4才、お母さんのつまり私の絵だ。その絵のお母さんはすごく怒っている。
無理もない、私はいつも怒ってばかりいたから。
緊張感のあるとても良い絵だと画家の津田櫓冬さんが言ったので、
そうかもしれないと額に入れて、危うく保存できた子どもの絵である。

それからもう1枚、幼稚園の園児が描いた魚の絵がある。
彼方(かなた)という子どもが幼稚園で魚類図鑑を観ながら無心に描いた絵だ。
教室にいるのがどうしてもイヤで、暴れては職員室に連れてこられる男の子。
ホールが空いていればその子と私は、そこに30分とか1時間とか隔離されて、
私は見張りで彼方くんは囚人なんだろうけど、いったいどっちがなんなのか。
子どもってこういう時どういうことを考えているのか、ずっとだまりこくって。
「あっちでママたちが御釜でご飯を炊いているわよ、見に行く?」
間がもたなくなってそう言うと、素直な小さな手が私の手につかまる。
私は彼と手をつないで、子どもの足がこまらないように幼稚園の廊下を歩いた。
なんで私をこの坊やがゆるすのか、なんだか全然わからずに。
この子は、べつの日には、職員室で何枚も何枚も絵を描いた。
魚類図鑑をみながら、色画用紙にクレヨンで魚、魚、魚ばかり描くのだ。
あんまり上手に描けているので、どうしても手に入れたくなってしまい、
非合法に?5才の彼にたのんで、1枚だけやっと分けてもらった・・・。

そういうわけで、私の家にも、子どもの絵が2枚ある。
このふたりの画家たちの名まえが、 遥と彼方なのがなんだか不思議。
4才と5才のふたりは逢ったこともないのに、時空のどこかしらですれちがい、
そして絵が、わが家の壁にとまっているわけである。2羽の小鳥みたいに。



2020年3月15日日曜日

カミュ「ペスト」


アルベール・カミュの「ペスト」が急に売れ出したと新聞に出ている。
疫病について、新聞やテレビ、パソコン以外で、よく考えてみたいわけだ。

図書館から前に借りだした本はくたくたの古本で、活字が小さいし読みにくい。
そう言うと、文庫本なら活字が少し大きいからと司書が予約させてくれた。
何人か先約の人がいるという話だし、図書館と公民館が閉鎖されてしまったから、
私は手で持てないぐらいほかの本を借りて、「ペスト」はもうあきらめた。
ところが文庫本がもどったからと、はやばや電話がかかる。
図書館は閉鎖中だけど、予約した本のみ受付で手渡してくれるという。

文庫本の「ペスト」は、先日借りた単行本よりは、たしかに活字が大きい。
しかしカミュって、気楽な本ばっかり手当たり次第に読んでいる者には難解だ。
私など、小説を読まなくなって久しいので、気が散っちゃって歯がたたない。
最近、この本を本館から借り出した多摩市民は3人?だったと思うけれど、
こんな本をよくもまあスイスイ読了したものだと、びっくりしてしまう。
頭がキレて文学的、むかし一度は読んだことがある、みたいな人かしら。
それとも仕事が出版業だったとか、であるとか。

これは奥付に昭和44年刊行とある、それって1969年、約50年まえの本。

翻訳者は宮崎嶺雄、東京帝大心理学科中退。 
バルザック、サンド、メリメ、カミュ等、多くの仏文学を翻訳紹介。
戦後創元社編集長を務めた人である。
明治の終わりに生まれた洒落た人。東京帝大だって!

うーむ、とにかくなんとかして読まなくちゃ。三分の一ぐらい読んだら、
どうやらやっと私にも読み方がわかってきたような。
 


女子学生


むかしむかし、
ニコライ・アレクサンドル・ヤロシェンコの絵葉書を上野の美術館で2枚買った。
「女子学生」という題名の絵だった。
ロシア文学のどこかの影にいそうな、アンナ・カレーニナとか、戦争と平和の
ナターシャとかのヒロインとは少しちがう、
いかにも素朴で田舎の良家の子女といった風情のおさげ髪の少女の肖像である。
チェーホフの短編に表れては消える、つかの間の女の子の原型、
都会からきた学生なんかにからかわれて置き去りにされる、無防備な美質。
それがいかにも懐かしくて、もう昔のようにロシア文学を読むということもなかった
けれど、あまりにも生き生きとした絵だったので、思わず絵葉書をさがして、
買ったのだった。
  
私はその絵葉書を一枚は朗読の会にくるKさんに渡し、一枚は自分の家の掲示板に
画鋲で止めた。そのころは、そんなに彼女と親しいわけでもなかった。私は幼稚園で
朗読を母親たちに教えて、それから自宅でも教えるようになった、その両方に彼女は
いたけれど、なんでそうなるのかあんまり判ってもいなかった。
生徒は現れては消えたし、私は今もそうだが朗読者の背後の生活に頓着しない型の、
ただ目の前にいるその人だけに興味をもつ「せんせい」だった。

美術館から帰ると、私はKさんに絵葉書を渡した。
その肖像画こそが彼女の本質そのものだと、美術館の暗い照明の下で、
なぜともなく直観したからだった、その印象はわかり易くしかも強烈だった。
いいわね、と彼女に言ったのをよく覚えている。
「忘れちゃだめよ。あなたはこれよ。こういう人なのよ、忘れちゃだめよ」
賢さの内在、内気、はにかみ、素朴、役に立ちそうな両手。確固とした可能性。
kさんはいつものようにどぎまぎして、逃げるように内気な笑顔だった。
・・・笑顔には、おみやげを教師から受けとる恐縮しか、みえない。
絵葉書一枚なのに。Kさんというのはいつも、そんなふうな人だった。

私はそれからずっと、ヤロシェンコの絵葉書を掲示板に貼っておいたけれど、
それはKさんに「おまえはこれだぞ、私はこう思っているぞ」と、
いわばヤロシェンコ越しに言いたいためだった。
絵画とは、こういう時のためにこそあると、時々、思う。
教師が口に出して言えば、それは、教師の個性にいろどられて貧相な結果しか
生みださない。でも絵画は、絵というものは無言なのだから、
そこからなにを受け取るかだって無限大、
実際の自己形成は自由の名において自分がするのだと、そういう余地が残される。
それこそが教育学の根本にあるべきだと、
私は私で学校時代に、自分の「せんせい」たちから習ったわけである。
 



2020年3月14日土曜日

空漠たる


ふと目を上げると牡丹雪が降っている。
手がすいたので、雪をさがして庭を眺めると、雪は雨にかわっていた。
それからこの雨も、いつのまにやら雪にとってかわられて、
ひとひらひとひら鷹揚な、牡丹みたいな御餅みたいな雪になって、
もう一度白く風に追われて行く。
雨と雪と風と、こんな灰色の日も、きれいなものだ。
それから夕方がはじまり夜がやってきたのだけれど、
灰色の雲はいまでは蒼みがかって、屏風のように空漠たる天にいる。

このあいだ、籠浦さんがきた時、うちの玄関で菜の花を見て、
「あ、菜の花だ」と笑った。食べるために買ったんだけどねと私がいうと、
わかりますわかります、と楽しそうにまた笑って、
「安いんですよね、そういうのって」
そうよ100円だったのよ。それでもって、明日食べようと思って飾ったけど、
「うんうん、お花がね、すぐ咲いちゃってね」
身に覚えがあるわけねと笑ったが、こうやってだれかの笑顔が見られるって
嬉しいことだ。第一、共通の話題でしょ。



2020年3月13日金曜日

読書疲れ


とても面白かったので、せっせと、朝も昼も夜中までも読んだ。
「レバノンから来た能楽師の妻」という岩波新書。

取り付く島もなかった中東のレバノンだとか、ベイルートだとか、キプロスを
少しだけ具体的に考えることができて、借りがすこし返せたような気がした。
昨日は夜中の3時まで起きていて、眠くないまだ読めるなんて思っていたのだ。
だからくたびれちゃって、読み終わったら、今日はもうなんにもできない。
午後になっても、からだ全体がむくんでいるような。
買い物に出かける。胡瓜とか豆腐とかを買って、ぐずぐず。
夢遊病者みたいに2時間もかかって、ぼんやりと埒もないおかずをつくる。

夜は夜で2階の本棚をあてもなく眺め、なんとなく雑誌を一冊とりだした。
鬼が島通信。ふうん、なんだろう、これ。
それでなんとなくパラパラとめくったら、私がそこに童話を書いていた。
びっくりして読んでみたけど、感心しないよなもうまーったく。
松谷みよ子さんが、「その時にしか書けないものってあるのよ」とおっしゃって、
よく励まして下さったけど、
世間様にご迷惑をかけなくてよかったと思うばかりだ・・・ホントーにもう。



一角獣たち


本棚の奥に隠してあった3頭の一角獣をテーブルの上に置く。
むかし、1頭の角を折ってしまい、首飾りのガラスの葉っぱで
傷あとを隠した。ウルグアイから来た置きもので、
鎌倉に行くたび、同じ横丁の舶来風土産店で買ったのがなつかしい。

私には高価すぎて、1回にひとつ買うのが、度胸の限界だったっけ。
・・・なぜ3頭で買うのをやめたのかしら。
そんなロバみたいなもん、4頭も5頭も 集まったらうるさいからか。
行ってみたけれど、たのみのその店がもうなかったからか。

彼らの角は額の真ん中へんにあって、うっかり家でケガをさせたのだけ、
なんだか器量が悪い。河馬みたいな顔だちで、目をつぶって太り気味。
初めは3頭いっしょに、あっちに動かしこっちに動かすのだが、
1頭だけつい本箱のガラス扉の中に戻して、また出すのである。

そんな不公平をするものじゃないと思うのだっておかしいけれど、
こうなると魂のようなものが、宿っている感じがして落ち着けない。
こういうなりゆきは、面白いけど、もうすごくめんどくさい。
それで青いクリスタルガラスのオウムに、私は彼らを見張らせている。




2020年3月11日水曜日

図書館とはなにか 3


作家稼業の友人が1人いると、それが先輩ではなく友人の場合けっこう面白い。
いろいろ難題でいつも頭がいっぱい、しかもわかりやすいことこの上もない。
よくわからない時でも、ふーんふーんと聞いているとそのうち何かスッキリと
明らかになる。ああとかこうとか言いながら、ものごとの心髄に彼女の表現が
しのびよってゆく、作家だからである。

あの時もそうで、なにを失っても惜しいと思わないけど本だけはと繰り返し、
ダメにして捨てた書類の中に一生かけて集めた民話の資料もあった、
二度と手に入らないものもあって、出版社と約束もできていた。
そういう資料を使っていつか民話の歴史を書くという約束もしていた。
でもねよしんば今回それが残ったとしてもよ、と彼女は私に言った。
「もうトシを取っちゃったし、あたしは書かないまま死ぬんだろうけど」

そうよねえ。がっかりするのも無理もないわ、と私は考えながら言った。
「資料がそこにあるということは、あなたの可能性の留保だったんだものね」
相槌を打ったとたんに、私は自分について急に理解した。
私の家にあるあのたくさんの読まない本。買う時は考えて選んで買ったのに、
とうとう読まないままの。あれって私の可能性の留保だったんだ・・・。

ほかのことも、私にはわかった。
図書館とはなにか。
多摩市の図書館は、多摩市民の可能性の留保だったのだ。
本が好きな人もいるし嫌いな人もいるだろう。
でもいつか、市民のだれかに、あるいは国語ぎらいの子どもに、
真実を手段に人の世と向き合いたい時がくるとしよう。

図書館とは、その可能性を期待し、留保しておく場所なのである。




2020年3月10日火曜日

図書館とはなにか 2


ただの習慣にすぎないと思って、それが幸福というただそんな感じで、
それなりに大事にして、過ぎた暮らし。
彼女も私も、思い出すかぎり書籍のまわりをずっとくるくるまわって、
活字と紙質、装丁。本棚、ノートその他 、その他。
まーとにかくどんな時も本から離れたことがなかった。

地下の書庫にしまった大量の本が泥水につかって、高崎市のトラックが、
彼女から掛け替えのないなにかを運び去ってしまったのだ。
言葉にするなら、いったいそれは、なんだろう?
なぜ、自分にはその話の正体がよくわからないのだろう?
いくら話をきいても、なにがそんなに苦しいのだろうかと想像しても、

・・・そう、自分だってそれはなんども、100回も200回も同じ本を読んで、
現実の苦しさから守ってもらったのに、そんなに愛読した本に飽きて、手放して、
今の自分とは異なる、子ども時代の愛を、ただ捨ててしまったのだから、・・・

でも、そういう後悔とも事情が少し違うのだろう。


 

2020年3月9日月曜日

図書館とはなにか 1


私の家は本だらけで、玄関を入ると左側は天井まで本棚だし、二階に上がると
また一つの壁が天井まで本棚、その前に古いグラグラする小型本棚が立ててあり、
向こう側にも食器戸棚を本棚にしたのが置いてある。
で、みんな読んだかと言うと、半分ぐらいしか読んでない。
自分の家にそれだけあるのに、図書館で借りては読むから、
読まない本はそのままにして、そのうち死んでしまうのだろうと想像する。
そんな暮らしが私には好ましく、自分でも変だーと思いながら時が過ぎた。

このあいだの台風の時、友人の家の地下室が浸水、そこは書庫だったから、
何千冊もの本が水浸しになった。どうにもならず捨てたのだと言う。
そのことをあまりにも彼女が嘆き悲しむので、長距離電話で、
なぜだろうかと考えながら、何度も考えながら、話を聞くことになった。
大量の本。読んだのも読まなかったのもあって、本屋さんを稼業にしていたし、
彼女は作家だから、たださえものすごい分量の本の家、そのまた地下室。
あっても二度と読むはずがない本、全集なんかもたくさんあったと言う。

こんなにも心をはげしく占領する、これほどの悲しみってなんだろうか。
もうトシだし、しばらくすると老人用の施設に行くのだし、そこには本なんか
持っていけない。そう言うそばから、なにかに執りつかれたみたいに嘆く。

なぜかよく理解できず、こんな嘆きがいったいどこからやってくるのか。
それが知りたくて私はずーっと耳をすませていた。



2020年3月8日日曜日

どんてん


どんな鳥だかなんなのか
灰色の空から飛んできて
あたりのどの樹よりも
向こうのアパートよりも背の高い
あのメタセコイヤの
レースのような枝の先の
まったく尖ったてっぺんで
ちょっとゆっくり
遠くを見張っているものがいるのです

それはしばらくいたのだけれど
思案投げ首あてもない
絵ハガキみたいな姿ですが
なぜか退屈もするようで
おかしなことに
でんぐりがえしもしてみたりして
やっぱりそこに飽きちゃって
飛んでいってしまったのです
もう決めた、とでもいうように

このどんてんがホントの曇天なのか
目がかすんでいる昨今なので
霧雨なども見えないし
窓の外をふとながめると
むこうの公園の少し遠くから
あの木もこの樹も
少しばかり乗り出して
私のことを見ている風情
私だってひとりぼっちじゃないわけです




2020年3月7日土曜日

オランダから電話。


「ねえ、お母さん、だいじょうぶ?」
遠くで遥が笑っている。
「わたし? 私は元気よ。心配しなくていいわよ」
病気だと言ったから心配しているのだ。

「ねえ、お母さんお母さん、」と遥が言った。
お母さん、日本人ておかしくない? 
お母さんの知り合いでコロナ・ウィルスにやられたっていう人いる?
いないでしょ? 知り合いのまた知り合いでもいいけど、いる?
一人もいないでしょ? おかしいよ、この騒ぎは。
私もね。いろんな友達にきいたけど、コロナにやられたなんて一人もいないわよ。
だのになんで、マスクやトイレットペーパーの買い占めに走るの?
誰か一人でもいい、知り合いにそういう人が出て来るまで信じないって、
友だちみんなで話しあってるのよ。おかしいもん。
「私は今度の騒動はなにかファンタジーだと思ってるけど」と娘が言う。

ファンタジーって、幻想ということだろうか。
「遥、遥はオランダで、東洋人だからって差別されたりしないの?」

差別? 大丈夫よお母さん、あたしずっと風邪ひいてるからね、クシャミしたり
咳したりしてイヤな顔されるけど。
はははは。そりゃ当たり前だし、会社休んだから大丈夫よ。


大丈夫じゃなくても、どうにもしてやれない、いつも。
外国暮らしの長い娘をもつと。
でも、遥は、あたたかいし楽しい。この子はがんばってきたけど、
 小さい時のまんま、思いやりがあって、愉快なまんまだ。

いつも笑う用意ができているような声。




病院での問答


病院の待合室にいると、待っている患者さんがどれほどの痛みに耐えているのかしら
と考える。そう考えることで、私自身の痛みに私は耐えようと努力しているらしい。
でも、赤信号じゃないから、みんなで痛くても、なんの解決にもならない。患者の
我慢が、 日本の医者をものすごく傲慢無礼にしているのかしらと、このごろは思う。

治療の前に看護婦?が私の右目の瞳孔を開きにくる。
次に、べつの看護婦が麻酔液を点眼する。
私は質問してみた。この質問は2回目だ。
「この麻酔は4回ですか?」
そうですという返事だったから、
「一回目の治療の時、なぜ、3回で治療が始まったのですか?」
すると、3回でも4回でもと、看護婦はなめらかに答えた。
「先生によってちがいます」
どっちでもいいんだという説明である。
「すごく痛かったのよ。どっちでもいいっておかしいでしょ。
 今日は、ちゃんと4回、麻酔薬を点眼して下さい」
看護婦はアイマイな顔になって返事をせず、向こうへ行ってしまった。
こんな納得できない問答ってあるだろうか。

痛い治療がなんとか終わって、今度は医師と問答をする。
なにか変わったことがありますか、ときかれたから、
前回の治療のあと、両目のはしが少し痛むと言うと、
めずらしくホウと反応、彼は私に、いつから痛むかときき、
「薬をだしますか、どうしますか 」と質問する。
なにがどうなって、両目の端が痛むのか説明してくれたわけでもない。
彼には患者を気づかう機能が全くないと思う。私はフンガイしたから、
「それは私が判断することなんでしょうか?」ときいた。
彼は木でデキた人形みたいに無表情で繰り返す。
「ええ、どうしますか?」
「私には判断できません、薬が必要かどうか。自分の目の状態がわからないし」
「でもあなたが痛いと言ったから」
 炎症の程度によって投薬の是非を決める、という説明である。
こんな返事ってあるのかと私はビックリした。
「もちろん痛いんですけど、なにが原因かもどの程度の炎症なのかも、
私には判断できません。 痛い箇所が、自分には見えませんから」
それでも、彼は私の返事を待っていた。
医者なのに、患者に投薬の是非を決めさせようとして。
私は返事をしないことにした。
・・・すると喧嘩になると思ったのかどうか、苦笑いをして、
「では…薬は出さないということに」と言うのである。

微苦笑する顔をみれば悪い人でもなさそうだけれど、こんなバカな問答は
納得できない。



2020年3月6日金曜日

歩く努力


むかし大学で先生が、女中には料理型と掃除型がいるそうだよとおっしゃった。

なんでそんなことが話題になったのか、私以外にも女子学生がいたように思うが、
私は、ふうんお掃除も料理も両方だめだと思うばっかり、全然ピンとこなかった。
うちの歴代のお手伝いさんはどっち型だったかとその時、考えた覚えがあるけど、
それさえわからなかった。家事なんてカンケーなかったわけだ。
うちは編集者だった継母が働いて、父は在宅の原稿書き、連れっ子の私は父の
付属品、あたりまえみたいになんにもしなかった。
もしも生母が私を育てたならば、私は小学校の時からおさんどんをさせられ、
料理だって、家で仕事をしている父親に四苦八苦して食べさせたろう。
私の父は子どもが作るできそこないの料理を、おかしがって食べるような人だった。
でも、そうはならなかった。

理由はともあれ、こういうふざけた女には天罰が下る。

それから私は、3人の子どもの母親になり、めちゃくちゃに貧乏になって、
料理なんかダメ掃除もまるでダメ、ということがハッキリした。
人生もなかばになっていたころである。

母親なんだからと思うし、子どものために反省し努力し、紆余曲折あって、
今ともなると、自分は掃除型だともうハッキリ。

さて、ええと。なんでこんなバカげたことを言い始めたかというと、
歩く努力をしなさいと最近あんまりあっちこっちでいわれるので、
私は掃除型の女中で365日家中を歩き回っている、だから歩く努力は不要だと、
そう思い、ああ、うるさいうるさいと、まーなんとなく不満がつのるので、
やれやれ、なんだかもっと、もっともらしく書くつもりだったのですが・・・。



2020年3月4日水曜日

コロナ・ウィルスあれこれ。


東京新聞の生活・健康欄の3月3日の見出しは
「自宅で冷静に症状注視を」である。
これを翻訳すると、だまって個人でかたをつけろ、となる。

「冷静に症状注視」していて大丈夫よというこの記事の根拠、
この見出しの理屈のモトは、愛知県の女性感染専門医による説明である。
7万人を超える症例を分析した中国の論文を根拠に、
「感染者の8割が軽症で、特に治療しなくても一週間ほどで治る」
なーんなの、これは? 若いとそうだってことかしら。

記事は自宅安静が一番と続いて、市販の風邪薬を飲んでもいい、だって。
かねて取り置きの風邪薬を飲むことで防げる風邪はたしかにある。
必要と思えば、早めに服用することで、悪化させずにすませることができる。
しかしそれなら、コロナ・ウィルスに関する昨日までの、
紙面ベタ塗りの国家総動員的大騒動はなんだったのか。
これじゃいくらなんでもと、東京新聞も新聞なりに考えたのだろう。
かたわらに、軽症の場合と重症(今回の新型肺炎に至る)の場合を、分けて表示。

ふつうの風邪はおいといて。新型コロナらしい症状の場合
<急な高熱や体の痛みなど>があれば、
発症一週間は自宅で。最初は普通の風邪と変わらないから。
冷静に症状を注視、検温し様子をうかがい、
<息苦しさや強いだるさなど> があり、改善がみられなければ、
そこで初めて相談、入院を、という主旨である。

私の友人に、風邪で高熱・高齢のご主人が、という人がいる。
電話すると、熱は下がってきていると。コロナのコの字も言わない。
そんな大騒動からはるか遠くに彼女たち老夫婦はいる。
対応しない・できない病院や、国家行政各官庁、保健所その他にむかって、
なんの期待もできないのが、昨今の日本である。我が国である。

きのうの夕刊には、ドイツ・ライプチッヒのサッカー球場から、
「日本人だから新型コロナウィルスに感染してる疑いがある」として
日本人団体客が、入場後に追いだされたとあった。
セキュリティーの行き過ぎだというが、それにしても。

私自身は、朗読の会の人たちと相談した。
朗読もしたけれど、基本的な対策をみんなで考えもした。
温かい気持ちで元気よく日々を暮らすこと。それぞれ考えた意見を交換し、
病気と戦う方法を学習し、できるだけわかりやすく単純に生活する。
相談しあえることはとても良い。 病(やまい)は気からである。
この際うつ病になるのが一番の危険だ。だから孤立を避ける。
逢えれば会って、励ますし励まされよう。そう確認しあったのである。

私の団地の鶴三会は、2月第3木曜例会の日、8人で多摩動物公園に出かけた。
パンダの赤ちゃんが可愛かったそうだ。帰りは、みんなで昼食だとか。
なんてすごい! (私は病欠で残念)
老人会である。参加者は70代後半から80代であるから、病気もちばかり。
しかしにこにこキリリと立派、思想も自給自足が原則、尊敬してしまう。
経験にあわせて、みなさんそれぞれニュースを熟読、分析。
黙っていても考えているのだ、コロナなんかガンッとしてどこを吹く風邪である。
人生の大先輩なんだから、判断は自己責任できちんとする、のであって。
あの風の吹く寒い日に、動物園見学とはその意気や良し、ではないか。
だって、吟行つまり俳句を詠もうとしていたのよ!

そのあと感染したという話も、もちろんありませんでしたよ。



2020年3月3日火曜日

仲代達矢2013年80才


「日本映画黄金時代」
60代以上の日本人には、ものすごく読みやすい。
私は多摩市立図書館で借りたけれど、買っても780円。
登場人物すなわち演出家、監督、俳優、すべて一流オールスターキャスト。
・・・それだから、よくよく知っていることのように、派手に読めてしまう。
なにしろ日本映画黄金時代の回想なのだ。 

本書の構成者である春日太一は1977年生まれの35才。
もし運がよかったとして、ヒトが持てる能力を全開できるって、
この年頃だとはよく聞くが、彼の道案内はすばらしい。
控えめでいながら、いまの30代が知りたい学びたい「社会科学」を、
仲代達矢ごしに、最後まで追求している。

原点にかえって。
われわれは案外そういうことを気楽に口にするけれど、
・・・自分の、原点なる感情を忘れず生きることは、
職業が要求しないかぎり、日本人がめったにしないことである。

原点の方はまだいい。原点は過去だし、一見したところ自分には責任がない。

人間としては、そのあとの日本列島内での紆余曲折が大変だ。
生活がらみで生きるっていうことが。
仲代さんだって、そうだったろうと思う。
若い時から「モヤ」というのがあだ名だったぐらいのものだ。

本書は、仲代達矢のたぐいまれな表現者としての一生を語るものだが、
同時に彼の虚無的な思考の、
戦争体験が生んだ歪みや、ひがみの原点とその行方を、
どこどこまでも追って、私たち読者を最後まで離さない。

仲代達矢の思考の原点とはなにか。
人間不信だろう。

「日本映画黄金時代」というこの一見ど派手な物語は、
人間とは不信な者であると、言っているのだ。

俳優は職人だと、それは仲代によって本書でも語られていることだが、
職人的誠実さを極めた、超一流の老優を一心に追うことで、
この本の編著者35才は、以下のように主張する。
ヒトは、人間不信の標的になるまいとすれば、究極こういう生き方になると。

彼は仲代達矢の本質ををそうとらえたわけなのだ。
この本を読む幸福は、そういうところにもあると思う。



2020年3月2日月曜日

お酒でも呑むかー。


今日は雨に降りこめられて、ぼんやり、するばかり。
寒くて、庭の向こうの濃い桜色の枝が、ピョンピョンと揺れるのを眺めるばかり、
もうなーんにもしない、できない。
鳥さんがやってきて、花にとりついているけど、その彼もどこかへ行ってしまった。

図書館から急いで借りた本の中から、童話をとりだして読む、
でもイヤになって放り出す。
現実が苦しいので本の世界に逃げ込む少女の物語り。
・・・むかしの自分そのもの、彼女が読む童話まで同じく重なっていて、
うんざりだ。

どうにもこうにも立ちあがれない。
 あー、やれやれ。お酒でも呑むか―。




公民館と図書館、休館の無謀


小・中・高を安倍首相の指示で休校にする、ときくそばから、
多摩市が、公民館と図書館を2週間閉館すると発表。
市役所はいったい誰の利益代表なのだろう。
学校のない日、生徒たちにどこにいろと、多摩市教育委員会は考えるのか。

コロナ・ウィルスに気をつけながら、
この頃の子どもはゲームが好きだから各人自分の家に引きこもり、
個人の責任で、そこはなんとか過ごして下さいとでも? 

保育園の子どもは(あるいは幼稚園児も)この枠組みから外されているが、
それもまた、本当によくわからないことだ。
働く両親をもてば、幼くても無防備でも、ウィルスに感染しようがしまいが、
幼児がこの規制から外れて、集団で一日をすごしてよいと、
あっちとこっちで結論がバラバラになるのはなぜだろう。

太平洋戦争の末期にも、これと同じことが行われた。
保育園と幼稚園は統合され、いまの言葉でいえば保幼一元化だが、
当時親たちは安心して「軍需目的のため」に、がんばって働けることになった。
小学生は集団疎開、中学・高校生は「徴用」すなわち国家命令で働かされた。
わが国の全面降伏に至る、惨憺たる敗戦の歴史は、
以前にもこういう政治からスタートしたのではなかったか。
こういう政治とはどういう政治か。
軍部独裁である。

「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」ーPHP新書843-を読んだ。
著者・春日太一が15時間にわたって聞き書きした記録の書物である。

「昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まるんですが、」
話の始まりからして、仲代達矢の回想が、凄まじい緊張をはらんで展開する。
「はじめに」で春日が、この老優の語り口のやわらかさ、記憶の正確さ、
俳優ならではのざっくばらんな表現力について書き起こしているから、つい
らくらくと読んでしまうが・・・たとえなんでも、この本はやっぱりもの凄い。
映画と演劇が中心の回想録で、それが読者を惹きつけてやまない理由だが、
(なにしろオールスターキャスト!)
結果として仲代達矢という大俳優の怪力が、話を二重構造にする。
戦後から今日に至る日本人像と、それから映画・演劇が扱うわが国の歴史が、
彼のニヒリスティックな語り口で、 見事に再現されてゆく。

仲代さんには、これまでも出版物があったが、この回想録こそ素晴らしかった。