2015年2月25日水曜日

家出


11才の時、私は家出した。
殺された川崎の子よりふたつ小さかった。
なん日も前から、ランドセルと小さな柳細工のカバンに衣類を詰めて、、
お手伝いさんが買い物に出たスキに家から逃げたのである。
相談できる人はいなかった。
3才のとき私を捨てた母のところへ逃げたのだ。
継母の精神的虐待に耐えかねて。

母は私をどう思うのだろう?
母の家に置いてもらえるだろうか?
他人も同様の母親だ、そんなことはひとつもわからなかった。
わかっていたのは母の家が新宿から二つ目の駅にあるということだけだ。
切符を買って、プラットホームに立って、見つかるかもしれないと怯えた。
電車に乗ってからは、流れていく夜の景色に目をあてて、
追い返されるだろうと、そればかり思った。その時は死ぬのだ。
なにしろ私は正札つきの「わるい子ども」だから。

当然、帰れと私は言われた。
母は困り果てていた。
ちいさな二間しかない借家で麻雀クラブをやって、
仕事が終わらなければ明け方まで寝ることもできない暮らし。
1954年だった。

私は石のように黙って、やっと「どうしても帰らない」と言った。
恐怖でほかの言葉がでてこない。
あとで聞けば、母はあの日私が迷惑をかけたお手伝いさんから、
あんまり可哀そうです引き取ってあげたら という手紙を受けとっていたという。
そんなことはぜんぜん知らない。
子どもにわかっているのは自分が「わるい子ども」だということだけなのである。
産んだ母親でさえ自分を拒否するということだけなのだ。

父が継母と一緒にその晩やってきて、それから他人が説得にきて、叔父がきて。
誰がなんと言おうと、私は母の安っぽい麻雀屋にしがみついて帰らなかった。
一年を、とうとう貧しい母の家で、じゃまにされながら過ごした。
母の家にいるあいだ、父の家にいるよりもずっと、ずっとひどい目にあったと思う。
貧乏だからと、母に言われて自分の養育費を取りに行かされもした。
自分が裏切って逃げ出した家に。

いまも逃げて行ったことに後悔はない。
11才で、自分の運命を父と継母と生母から、少し取りもどせたと思うから。 
ただ辱められて、軽蔑されて、締め上げられて生きるよりは、たとえなんでも。

父親の家に連れ戻されてからも、私は逃げた。
一度など、もう高校生になっていたが、本格的に行方をくらまそうとした。
お金がなくなって逃避行の途中、静岡県の伯父の家に寄って泊めてもらった。
夕方になると伯父は通りに面した手すりに、紙の月をぶら下げる。
浜松からバイクでもどる若い教師が、ボール紙の黄色い月を見上げて、
用事があるんだなと 寄ってくれるのである。
そんな伯父・・・。 継母の姉の養子だったお婿さん。

私は5年生で家から逃げた。あのころから政府は今の自民党、
自由党だか民主党だか知らないが、日本はその政権下にあった。
それでもあのころは、
恐怖に凍りついた子どもが逃げる場所は、今よりはまだあったのだ。


2015年2月24日火曜日

川崎/中1殺害に思う。


「子どもを喰う世界」という本があった。「子どものいない世界」という本も。

子どもが生きていられない世界。
世界がそうなった時、現実的手当てがあるだろうか。
ある、と私は思う。すくなくとも我が国にはある、と考える。
世界経済ランキング(USドル)の世界第3位なんだから、今でも。
潤沢な予算を投入して、政府直営の「こどものための駆け込みやど」をつくればいい。
学校のせいにしない政府。親のせいにしない政府。 子どものせいにしない政府。
やくざの支配から子どもの命と人権をまもろう、と思えば、
もう政府が直接乗り出すしかない。

なぜ、歴代政府は、これこそ与党の責任だと直ちに考えないのだろう?
こんなに子どもたちが不自然に死んでしまうなんて。
家にもいられない、
学校にも行けない、
だれもその子の行方を知らない、
探したくても、こわくて探すこともできない 、
今にも死にそうな子どもが、死にたくなくて自分独りで走っていける場所はない。
そんな世界をつくったのは、おとなだ。
こどもになんの責任があるだろう?

いざとなったらそういうところがあるよ、と、
心ある先生が、教えてやれる最後の、
「こどものための駆け込みやど」があったらなあと思う。
ユネスコの助けを借りた日本政府100%出資の子どもの家。
そこには外国人もたくさんいて、
気がすむまで子どもがじっとかくれていられる、そんなところ。
むかしの日本人がよくいった時間薬が薬物のかわりに用意してある健康な場所。
政党助成金をぜんぶそれに充てたっていいはずだ。
国会議員はなんてったって普通の人よりお金持ちなんだから。

新聞の記事は、殺された中学1年生のことを、上村さんと表記している。
13才の男の子のことをまるで大人のように。殺されると中1でこうなるんだと、
そんなことも苦しくて、もう悲しみと恐怖でいっぱいになるのは、
私だけじゃないと思う・・・。


2015年2月22日日曜日

みっちゃんと町田で


みっちゃんと町田で会う。松元ヒロ・ライブのためである。
ゆっくりしたくて早めに会場近くへ到着。
それで上島珈琲店でジンジャーティを飲みながら作文用の資料を読んでいると、
 みっちゃんから電話。
「そこに行ってもいーい?」
おおあわてだし、こまって笑っちゃってる。
3月と2月を間違えたのだそう。
ははは。私、にっこり。
だってもう、最近、曜日や月をまちがえてばっかり、私も。
ひとがまちがえると安心するし、うれしいのである。
あー、これで二人してゆっくりできる とも思うし。

トシのわりに複雑きわまりない小集会をしたりするから、
終わったあと、間違える。
似たようなくらし、似たようなあとしまつ。
まーいいわよ、こういうのもね。
みっちゃんも、ゆっくりしたくて早く来たのね、きっと。

おかわりは、おおきなカップ、今度は無加糖ミルク珈琲 を注文。

帰りのバスだけれど、聖跡桜ヶ丘行で鶴川から永山駅へ。永山から多摩センターへ。
そこからまたバスで奈良原公園まで。バス、バス、バスを乗り継いでいくことにした。
車窓からながめると、樹木の枝先がふんわり霞んで、春のはじまりがわかる。
・・・私はぼーんやり、ただただ、外の並木道をながめる。


2015年2月20日金曜日

昨日?


まず朝、8時に飛び上った。
カレンダーを見て、今日って木曜日なのかと愕然、鶴三句会があるじゃないの!
掃除はした、洗濯物は干した。ぜんぶすんだ。 ブログも書いちゃった。
やれやれ珈琲を飲んで少し一息、という時だった。作文をするつもりの一日。
さあ、大変なことになったと思って、先月渡された俳句集を、さがすさがすさがす。
見つからないから、それは打っちゃってお菓子を手提げ袋にあれこれ入れ・・・、
私ってお菓子係りで、会費集め係りで、封筒だの集金用の缶だの。

村井さんから電話がある。すみません欠席いたします、
転んで右手を骨折、予約の病院へ参りますのでとおっしゃる。
おだいじにと、落ち着いた句会担当委員みたいな声で受話器を置いて。
で・・・なんとか俳句集(冬・新年)も見つけて、電気やガスがついていないか確かめ、
管理組合ホールへ。もう常のごとく平野さんがヤカンにお湯をわかして下さっている、
ホッとしてしまう。


句会は10時から12時まで。
今日は各人の俳句の、なんとはなし不透明な「謎」をめぐって喧々諤々。
「 けんけんがくがくですなあ 」と宇田さんが座をひやかしたりして。
木下さんの句、平野さんの句、季語はそれでいいのか、それよりいったい、
これはどういうことを語っているのだろう、イヤイヤこうなんじゃないの という・・・。
温厚、謙遜な三國先生をさしおいて、
「けっきょくのところ、作者の意図するところはこれなんじゃないのかね、ワトソンくん」
というところまで、みんなで推理するから、いよいよもっておかしいのである。
喧々諤々の句はこうだった。

「西が吉」と 娘の声に 笑みこぼれ     木下さん
剪定師 腕が冴えるか 庭の梅        平野さん

 なんで笑みこぼれるのか、「西が吉」と娘が言うと?
「西が吉」とは方角のことではないかと、そこにたどりつくまでに、しばらくかかる。
平野さんの句は平野さんの生活観が見えて、とてもいいと私は思うんだけど、
剪定したのがそんなことをしちゃいけない11月だったということで、
頭がこんぐらかるような植栽談義に突入した。ははは。
剪定ということばと梅の開花の時期がどうしてもズレる、それが問題らしい。
だってそうだったんだからしょうがないじゃないの、ということじゃすまないらしい。
けっこうなるほどと思うから、きいていて退屈はしない。
それぞれの俳句や感想が、みなさんがたの過去の在りようを色濃く反映し、
それが稀有な抑制効果をあげている、ということかもしれませんよね、まあね。
かつて職人だった人は職人らしく、技術者だった人は技術者らしく。
「思ひのまま」」という名の梅の木に集まった雀(すずめ)の集会みたいな光景。

人間が、結構まーじめに生きて、ぶじ老人になった幸せ。
昨今のキナくさい日本の状況はいったいどうだろう。
私たちは世界大戦のあとの70年ばかりを、戦争なしで生活できた奇跡の世代だったのだ。
村井さんの句の境地こそが、平和であるとしみじみ感じる。

書き込みの 多き幸せ 初暦

ところで本日は最後三國さんの俳句に、私たちは文字通り止めを刺されたわけで、
師匠の傑作はみんなの誉れ、パチパチと拍手がおきて句会終了。
雰囲気だとか心もちがステキでしょう?

晩学の 一日生かさむ 小六月

小六月とは冬の小春日和のことですって。
ああ、脱帽するってこういうことなのでしょうね。
すごいな、ふーん、やっぱりすごい、さすがだねーとみんなうれしそうでした。


句会が終了して家に帰る。元気である。
それで、宿題の原稿を書き、航空券の取得方法を調べ、洗濯ものを取り込み、
床にワックスをかけ、晩御飯をあれこれつくり、文章の転送方法を電話で相談。
あしたは朗読の会だからと、夜中ちかくなって台所のステンレスの壁をみがく。
本も読む。「志ん朝の高座」とか「おじいちゃんの休暇」とか。
いいけど、いそがしい。こんなにコマコマと働いたらポンっと死ぬかもという、
私にしては鬼気迫る一日だった。

元気ということかしら。たぶん。そうなのだと思ったほうが無事らしい。


2015年2月19日木曜日

歯医者さん


私の歯医者さんが言った。
「そうだ、3年、来ていないんだな」
そして言った。
「おたがい、3年ぶん、それぞれに年をとったわけですね、ははは」
50代になったそうだ、先生の方は。

歯医者さんの治療は、一応まったくもっていやだ。
こんないい先生でも。

「どういう時、歯を噛んで、喰いしばってしまう?」
私は考え込む。3年まえだったら、一日中、という答えだったけれど。
「わかりません。・・・本 を読んでる時かなあ、気かつくとギュッと。」
うんうん、と先生は言う。
どんな姿勢で読んでいるんですかと立ったまま、にこにこ。
あのう、と私は言う。
「ソファーに大きなクッションと小さなクッションふたつを組み合わせてよっかかって」
久保さんだったら本だろうなと思った、と先生は言う。
この歯医者さんのところでは過去のデータがきちんと保管され、それが使われる、
というか先生は患者とそれを共有する。
「長椅子はラクだし、3冊かわるがわる読んだりするし」
という私に、先生はふんふんとうなづきながら、考える顔だ。

でもそれはダメですよと先生が首を振っている。
「うつむいてできる傾斜はダメ。川端康成さんの写真を見たけれど、
書き物机に板で傾斜をつけて、顎があがるように、
でないとどうしても歯に負担がかかるでしょ、そういう工夫をしているんだなと思いましたよ」

キーワードがだいじです。「ギュッと 」とか、「気が付くと」とかね。
それがいつのことかを、まずご自分で記憶してください。
それから歯ブラシをね、自分むきにハサミで改造してもいいですよ。
「えーっ、自分で?」
歯科衛生士さんから、歯の磨き方を教わり、しかるのちやりやすいように、
歯ブラシのヘッドをハサミで刈り込む、自分で・・・?

親の代からの歯医者さんで、このモダンな医院にくると私は、明治を感じる。
そのくせ「革命的」ということばを思いだすのである。


2015年2月16日月曜日

プライベイト・ウェイズ5/ガゼルのダンス



「ガゼルのダンス」は池ノ上の古びた詩のような帽子店で、池ノ上は下北沢の隣の駅、
昔ふうの通りがそのまま商店街になっており、街並みにそう高い建物もなく、
そんな通りをガラス越しに店内からずーっとながめていると、通行人や車が、
どの人もどの自転車も物語性を帯びて、音楽をよそに行き過ぎる・・・。
なぜ私がずっと眺めていられるかといえば、店主のアキヤマさんという女の子が、
ひとりになったタケシに、プライベイト・ウェイズという定期ライブの会場として、
彼女の店を貸してくれるからだ。
きょうアキヤマさんは赤いセーターに料理人用のくたびれたエプロン。
セーターの赤が、時々20人ばかりの客人のあいだを縫っていく。
照明はすこし暗め、帽子と造花とアンティークな古道具いろいろ、
富では集められない文化というか、滅びてほしくないものを、アキヤマさんは集める。
だれかが操作するBGMだっておだやかで気にさわらない。

タケシはずっとディエゴというバンドを組んでいた。

きょうはディエゴの時のイマちゃんが来ている。
赤ちゃんはもうすぐ3か月。
うちに見せに来てくれるとずっと前から言っていて、それが今月の28日になった。
アキヤマさんたちも来るというから私はうれしい。
「ユーロ」は、ディエゴではタケシとイマちゃんのデュエットの曲だった。
アキヤマさんがいる小さな台所の前に立っていたイマちゃんが、そのまま、
外套を着て帽子をかぶったまま、タケシに言われて歌い出す。
何年も前に、遥が外国から帰ってきた冬、姉弟でつくった「ユーロ」だ。
自虐的ユーモアが遥らしい曲。イマちゃんが歌うと絶望の分量が減って温かい。

クジ引きをして、今晩は中田真由美さん、おれ、夕子、タケシの演奏順だったが、
中田さんがシャーマン的凄みのある、実にきれいな完璧ともいえる演奏で。
二番手になった「おれ、夕子」とか名乗っているイケちゃんは大変だったろうけど、
演奏の純度がすごくよくなって、
それは聴くほうだって、とても気持ちのいい晩だった。

福田さんが今日はきてくれた。午後の講演会からずっとのおつきあい。
温かいラムとオレンジのなんとかと、冷たいハーブのワインを私たちは飲んだ。
・・・異国的下ごしらえのチキンカレーを食べる。
アキヤマさんは、なにをやっても、どこかとても上手なのである。



2015年2月14日土曜日

ネコライオン


岩合光昭さんのネコ好き写真のファンだけど、
今度の「ネコライオン」はすごい。
こんな写真、どうやって撮ったんだろう。
シャッターチャンスのモノに仕方がすばらしい。
ネコとライオンの比較だから、
片っぽうはジャングル大帝、片っぽうは家畜(?)。
・・・たのしい・・・たのしい。
凄みがあるのに、ユーモラスでかわいらしくて、うらやましく自然。
しかも編集に油断がない。
三拍子も四拍子もそろった写真集。
図書館にあるから、手にとって見てほしいなーと。
ええと、買えば1800円と消費税。

ぽーっとできるしのんびりするし。


2015年2月11日水曜日

雑記/セチュアンの善人


マキシム・ゴーリキーの文章に、こうある。
「人生というものは、きわめて複雑にできあがったものであって、
憎悪することのできないものは本当に愛することもできない。
人間を損なうべき魂の分離、憎悪を通して愛せざるを得ないということは、
人生を破壊へと導くのである。」

1940年のベルトルト・ブレヒト作「セチュアンの善人」は、
「ゴーリキーの文章を劇にすればこうなる」という模範解答ではないか。
ヒロインはまさにシェン・テとシュイ・タに人格分離。片方は施し片方は搾取 し、
まさしく憎悪を通して愛せざるを得なかったセチュアンの善人が破滅に至るという図式。

さて冒頭のゴーリキーによる文章はロシア革命の父レーニンについての記述で、
題名もたしか「ヴィ・イ ・レーニン」だった。
大作家が、ソビエト政権誕生後まもなくレーニンに会い、その人物像を描く。
時あたかも世界史上初めての社会主義革命驀進の真っ最中。
戦争と平和、労働問題、他国の干渉、殺人、犠牲、官僚主義、権力、制度改革、
それらが人間レーニンに及ぼす複雑な影響、そして不可避的魂の分離に、
作家ゴーリキーがこだわったのは当然であろう。

心理的側面からのみ人間レーニンの性格を描写するなんて不可能というものだ。
(ゴーリキーはのちにレーニンと喧嘩して、イタリアに移住)
 
世界大戦が終わり、20世紀後半にもなると、
社会主義大国と資本主義大国の「冷戦」時代。

資本主義先進国では、
 「人格分離」は、20世紀後半に「多重人格」と名を変えてゆく。

資本主義の爛熟期をむかえたアメリカでは、カウンセリングが商業化。
「人格」が、
社会科学的分析を外して、心理学の迷路から説明される傾向。
権力者にとっては反逆を招かず、都合のよい方法である。

1977年強盗殺人罪で逮捕された実在のアメリカ人ビリー・ミリガンを主人公にした
ダニエル・キースの「24人のビリー・ミリガン」の大ヒットによって、
日本でも、多重人格を扱うのが文学的流行に。たとえば辻 仁成の秀作「ピアニシモ」。
日本って、たてまえと本音のちがいがお家芸だし、土壌にピッタリかも。
果てしない内面探索の旅。



劇団PASSKEY による「セチュアンの善人」の失敗は、
戦後、西独ではなく東独で死去したという劇作家ブレヒト(1898-1954)の、
よって立つ思想を演出家が根こそぎ無視したことにあるのではないか。

ロシア革命はその当初人類の壮大な夢の始まりであり実現だった、
その具体的事情を、私たち日本人はろくに知らない。
社会主義を実現させたロシア人がリアルタイムで見たユメとはどんなものだったろう?
たとえば中国を考える時、私は纏足から女の子が解放されるには、
あの長征を伴う「革命」しかなかったのかもしれないと想像したりするのだが。

いま
私たちは、毎朝とどく新聞で90%の富を1%の人間が占有していると知る。
この経済格差がやがて貧しい人のみか国家を破滅させるだろうと、
来日したフランスの経済学者トマ・ピケティー氏が言っている。
著書「21世紀の資本」英訳本はアメリカで大ヒット、各国でも大流行中。

富裕層1%。 のこり99%を占める群衆。
その99%の中に組み込まれた私たちは、いったいどんな存在なのだろうか。
舞台上の劇化された群衆のなかに、今を生きる自分という人間がいるとしたら?

人間は「群衆」という名でかたづけられないものだ。
金曜日のデモでぞろぞろ歩いていたって、はなればなれの心と心じゃないの、けっきょく。
「強欲」も「鈍感」も「わがまま」も「色気」も「食い気」も、それだけでは人間にならない。
空虚な概念、上っ面の看板でしかない。
ピエロだって仮面の下にそのピエロ固有の苦しさを持っているはずである。

「人間、そいつは素晴らしい!」 とゴーリキーは声高らかに主張したが、
そういうものとして、個々人の「全面発達の可能性」を信じることが、
20世紀の前半には人類の見果てぬユメであり、革命の課題 だったのではないか。

ロシア革命が当初、ゴーリキーの興味と関心そして協力まで勝ち得たのは、
人間はだれもが人間であるという人間観を、革命政権が支持していたからだろう。
ー第1回ソビエト作家大会の議長はゴーリキーだったはずー
東ドイツの詩人ブレヒトが群集劇をつくる時だって、
当然その思想こそがつねに創作の根底にあったはずである。
20世紀とはそういう世紀だったのだ。


ロシア革命が官僚主義を克服できず、
それとも作家と政治家はそもそもの視点がちがうからか、
ゴーリキーとレーニンは袂を分かった。
 

劇団PASSKEYの「セチュアンの善人」は、登場人物の整理のしかたが古めかしく、
いっそ歌舞伎や文楽に似て脇役が、大物活躍中、死に体にちかい処理をされてしまう。
20世紀の洗礼を受けたあとでは、この、脇役処理はなんだかどこか観客に馴染まない。
みんなちがってみんないい、の時代には。
20世紀は、パソコンでいう「削除」ができない文化的痕跡をやっぱり私たちに残した。
革命政権が崩壊しても、人類の経験知は、人類の体内に残る。
なんとなくおかしいと私たちは感じる。

ヒロインのシェン・テだけが人間的であるという設定や省略には無理があるのだ。
そういう演出の乱暴は舞台に荒唐無稽をよぶ。
実際、上演された作品には荒唐無稽のうらみがあって、
終演直後、「くたびれたっ」と、どこかのおじさんが言ったのは、
エネルギーには感心したけど、どうもスッキリ胸に落ちないという感想の表明 だろう。

なぜシェン・テは、「身勝手」がパイロットの制服を着ただけのバカ男に、惹かれるのか?

ヒロインの恋の理由は作劇上だいじだろうに、さっぱり見当がつかない。わからない。
「身勝手」がパイロットの制服を着たって、制服だけで女を騙せるもんじゃないでしょ。
そこを分析して説明するのが面倒ということなら、タイガースのジュリー並みの、
頽廃的で凄みのあるカリスマ的美男に登場してもらう しかないだろう。

こんなに群衆のそれぞれにいまいち感情移入できなくていいのだろうか。
語られていることばに嘘はないのに。
俳優ひとりひとりの個体に人間らしい味わいが見えない。

あれほど傍若無人、やりたい放題、野性そのものみたいだった彼らが、
なんの理由で、逃げもせず隠れもせずシュイ・タの奴隷工場にやすやすと吸収されたのか、
その説明がどうにもつかない。
いまや舞台にいる「群衆」は現代を生きる若者そのもの、だからこその公演だろうが、
なんの罠にはまって、彼ら群衆がシュイ・タの奴隷工場で働かされたのか。
それが見ているほうとしてはぜひ知りたい。

でも、これこれこうなったと、騒々しいばっかりのセリフで説明を受けるだけ。


それではやっぱり、観客はいつの間にか飽きてしまうのである。

2015年2月9日月曜日

ブレヒト劇「セチュアンの善人」


劇団PASSKEY による「セチュアンの善人」を観た。
2/6 武蔵野芸能劇場 である。

中 深乃が出ている。
彼女の娘さんが幼稚園に通っていたころからの知り合い・・・。
ブレヒト劇をよく知らないので、いったい判るのかどうか、面白いと思えるのかどうか。
そういう先入観をもつのは、新劇団に所属していたころの私が、
俳優座のブレヒト芝居を観て、よくわからない 、つまらないと思ったからだ。
この先入観に作者ベルトルト・ブレヒトは関係ないはずだけど。

難しそうだ、わかるかしらとつい構えるけど、
劇はベンキョーして観るもんでもなかろうと、準備なく三鷹駅から1分の劇場へ。

寒い夜、中さんのお母さんと娘さんが来ている。
そのことにまず心が暖かくなった。
2人の心配と愛を、変わらないものとして感じるからだ。
中年になってからの劇活動は、周りから見れば「あがいている」ということで、
本人もたいへん、家族もたいへん、
話にきく劇団の人たちの生活も、パンクなものだと思う。
パンク寸前というか。

「セチュアンの善人 」(1940年ごろの作)を観終わって、
すぐには考えも感想もまとまらなかったけれど、
はっきりわかっていることもあった。
中 深乃がいい!

どこがと聞かれたら、
人物の造形に深みがあり、実在感があった、
「洋品店の店主」は歴代儲け役らしいと、帰宅してあらためて調べたらわかったけれど、
彼女が儲け役に配役されたことも 、立派に儲けたこともうれしかった。
あの群衆劇のなかで、出番とセリフを多く与えられている主役のシェンテに対抗して
小柄でメガネを使用して地味が売り物みたいな役なのに、
中 深乃は騒々しい群衆のなかで、ひとり際立っている。

それはどうしてだろう。
彼女がお母さんゆずりの、本格的な読書人だったことと無関係ではないだろう。
少女のころからの本格的な文学へののめり込みが、
芸を助けたにちがいない。人間理解を深くしたにちがいない。

基本的にして必要不可欠な、創造上の隠れた努力。
努力が実るっていうところがまたいいわよね?


2015年2月7日土曜日

ノートと思い出


18才のころのノートに大河小説からの書き抜きがあった。
生きる方法を本気でさがしていたころ。
大河小説にして青春の書「チボー家の人々」。
たしか6巻ぐらいもあるんじゃなかった?

勉がパン屋の徒弟として働きながら夜間大学に通いはじめて、
どうしても本を読まなきゃダメだと思うが、なにから読めばいいかと 私にたずねた。
昼間働いて、夜、大学に行く彼には、じっくり本を選ぶ余裕がなかった。
私が彼に、さあねえ、お母さんが学生だったころは、
マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」が学生の聖書みたいなもんだったけどね、
と言うと、その本は今でも本棚にあるんだし、買わないですむし、
「じゃ、それを読むよ」と言ったのである。
彼はこの長い小説をほんとうに読んだ。読書の習慣がなかったのに。
ジャックはこうだとか、今は兄さんのアントワーヌに肩入れしてるんだとか、
第一次世界大戦当時のフランスの社会党と日本の社会党を比較してみたり、
まるで川向うのお屋敷のうわさ話でもするように、チボー家のうわさ話をしながら、
ぽつりぽつりと2年もかけてこの長編を読み終えたのである。
・・・こういう読み方もあるのかとおどろいたものだ。
読書量だけ多い私なんかよりずっといい読み方だと思ったことがなつかしい。


ノートの書き抜きから

写真といっては1枚もない。昔の思い出は何もないのだ。
自由で一人ぼっちで思い出なんかよせつけていない!

そして突然地平に向かってひらかれた一つの路、大きな抜け穴。
即ちできもしないような生活から足を抜き、これを投げ捨て、行き当たりばったりに踏み出し
生きて行くこと!

なにからなにまでやり直す!やり直すためには、なにからなにまで忘れてしまう__
そして人にもわすれさせる!

なんら技巧を用いず、きじ のままでやっていくこと
そして自分が創造するために生まれたという自覚を持つや否や、
自分はこの世で最も重い、最も美しい使命を負わされ、完成すべきおおきな任務を
負わされているのだと考えること、
そうだ! 誠実であること! あらゆることに、あらゆる時に 、いつも誠実であること。

 しかし、そういう僕にしたところで、彼らを愛していたのだった!



山内義雄の翻訳が今ノート越しに読んでもすばらしいと思う。


2015年2月5日木曜日

1/18反省など


もうみんな忙しいから悪あがきをやめて、アクセル、ピット夫婦と反省会。
新宿は歌舞伎町手前の沖縄食堂にて。

彼女は調理をどこどこまでも境界なしに考案していく生き方、
洋服がまたいい色、森を歩けば見つかるような自然派模様がしゃれていて、
会うたび毛糸の帽子やカーディガンなどをつい見てしまう。
ハデじゃないのがまた良くて。
料理人といっしょの会食は安くておいしいものを間違いなく食べられるからうれしい。
1月18日の討論会には、サンドイッチ、ジュースなどをつくって、運んで来てくれたが、
素材の選び方から値段設定まで、人の生活の程合いに合わせる彼女と調理の関係に
胸をうたれた。思いやりが作品(サンドイッチとかの)の基盤にあって、
それが食べる人に伝わる、実においしい、と評判である。

細かいところからきちんと約束ごとを守る。当日の集まりを支えてたいしたものだと思う。

私は彼をよくよく眺める。10年まえと変わらない若い顔、知的な人である。
初めて会ったころは、今ふうにいえばビッグイッシュウを売っていそうな。
2月に会えば寒そうだなあと思う、そんな風情の若者だった。
たしかバイクが事故で故障したのに悲鳴をあげていて、健康保険をちゃんと払おうとか、
みょうに生活感のある彼の歌詞が、ありそうでいてめったにないものに思えた。
東京人として生活圏に思い入れがあることも、家族関係の現実をラップで語るのも、
変わってるなーと。もっとも私は戦後一世を風靡した歌声運動をまったく経験せず。
それでいきなりパンクロックのライブハウスへ通いだしたのだから、
お父さんを通じて音楽をはじめたような彼を逆に目新しく感じたのだろう。

世代を超えて討論しようという場合、彼の言葉は中高年の共感を得る。
一方、70代の私は中高年よりむしろ若い人の興味の対象になったりする。
同世代から相手にされないはぐれモノなのかも、と浮き沈みに頭がいたい。
しかし、おなじ年回りで無難な話に終始するばかりの日常の言論風景を思えば、
彼の落ち着いた個性は好ましく、こんな時代にこそ有用だと私には思えてならない。
相談ができて安心だし。


1月18日の小集会は、「よかった」「面白かった」という感想もいただいているので、
評判が悪かったわけではないが、私にはいわく言い難い後味がのこった。
企画した側の意図とはまったく別なところで、すごく興味深い進展をした4時間。
自分自身は、これはもう退き時ではないかと、己の軟弱な判断力に疑問をもったし、
集会の方法についても、限界がみえて、構成進行など考えなおしたいと思った。 


このあいだ私にこんなメールが届いた。それを若いふたりに話す。
図書館の先生だった人からのメッセージである。

いつかのあなたの家の討論会で、
フリーターの話題が出たことを、今も時々思い出します。
私の理解は浅く、甘かったなと思います。自分が発言したことの責任を感じます。
これこそ大事なことではないでしょうか。
「発言する」ということによって、その話題と自分が深く結び合わされるのです。
だから、続けてほしいです。

ざっと10年も前のことだ。あの時の彼女の発言は・・・。
「労働」は働く人間を成長させる、そういう側面を持つものだ、という主旨のものだった。
集まりに参加した若者の発言が労働否定論にまで傾いた際の発言である。
同席した私たちの同世代人は、体験に基づく実感があるから深くうなづいたけれど、
若い人たちは無表情無言にちかい反応だった。
あのころからすでに、労働は奴隷労働に、職場は人間性を叩き潰すだけのものに
成り下がってしまっていたことを思えば、無反応という反応も無理はなかった。
それを、時々思い出して、今も彼女は悔いるのだろう。

・・・たしかいきいきとした若いころのアクセルがそこにいて。


2015年2月4日水曜日

このところ手にとる童話


はじめは図書館に行って、なんの気なしに「大草原の小さな家」を手にした。

この本を持っているのだけれど、60年ぐらいも前の岩波少年文庫だから、
ページを繰ると、パラパラ茶色くなった紙が壊れてしまう、それで借りて読むことにした。
ご存じ、ローラ・インガルス・ワイルダーによって書かれた開拓時代のアメリカの物語である。
面白いとはもちろん知っていたけど、どんどん読んで、続きを借りて読んで、またまた続きを
読んで、読んで読みまくって、誰もがそうなるように家族の原点について考えることになった。
自然から離れた都会生活者としての自分についても、いまさら手遅れの感があるけれど、
どこならば、やりなおせるのかなどと考えた・・・。

そうねー。けっきょく、掃除、洗濯、食事の支度をきっちりやることかなー。

そのうち私は図書館の本棚に、ローラ・インガルスのお母さんのキャロラインのついての
大草原の小さな家みたいなシリーズがあるのに気が付いた。永山図書館にハードカバーの
本が7巻まである。ローラ・インガルスの書いたモノと比べるとどうか。
なーんて思ったけど、たちまちこっちも3日ぐらいで読んでしまった。1日2冊 の割合である。
しなきゃいけないことはわんさかある、これじゃダメだこれじゃダメだと思いながらの、3日間。

掃除も洗濯も食事の支度も、やるにはやったけれど、
ぶっ壊れてきた車の修理に行って、一時間以上お待たせしますが、などと言われると
大喜びだ。
「ええ、ゆっくりどうぞ。本を読みながら待っていますから!」
だれも家にいない時の食事も、本のページに錘(おもり)なんか乗っけて、すごく楽しい時間。
もっとも、クワイナーさんの家でも、インガルスさんの家でも、こんなことは許されない行為、
考えるだに恐ろしいマナーだろうけれど。

むかし「大草原の小さな家」を読んだころは、
ローラ・インガルスの暮らしが素晴らしくは思えても、身近ではなかった。
この50年のあいだに、日本はとても変わった。
いま私には、開拓時代のアメリカ人、イギリスの干渉に抵抗しつつ誇らかに日々の暮らしを
労働で贖いながら築いた人々が、どうしてかとても身近に感じられる。