2021年8月16日月曜日

物書きをやめる

私は離婚して、物書きであることをやめた。

大正育ちの職業婦人というのが、私たちの親世代だと思うけれど、
どっちを向いても、母親が独力で金持ちになると子どもが身をあやまる。
私はそういう親子をたくさん見ておとなになった。
演劇も文学も、その道で大成功なんかすると子どもが生き迷う。
どだい・・・この世代だと職業婦人ならば独身でいる人がとても多い。
優秀であればあるほど、
というよりは仕事が成功すればするほど、
うっかり本気になると母子でジゴクに落ちてしまう、そういう感じ。

私の4冊めの本は、「小説・となりのトトロ」なんだけど、
私はそれを最後の仕事にして、物書き業をから足をあらった。
小説家とか、文芸評論家とか、童話作家だとか、
なかば本気でなかば浮わついた、
子ども時代からの見果てぬユメなど捨てることにしたのだ。
私はひとりっ子で、親が6人もいたけれど、
自分の3人の子どもには、・・・私という女親ひとりしかいないわけだから。

こどもにはお金より時間を渡さなければいけないと、
それだけは経験上よく知っているような気がして、
それからは朗読の先生だとか、塾の国語の教師だとか、会社の社員教育だとか
いいのか悪いのかさっぱり判らない方角に転向した。
ふつうに働くのならバチはあたらないのではないかというヤマカンである。
子どもの学校の役員も仕事だと思ってとにかく(仕事みたいに)引き受けた。
新聞部のときできた友だちとはよかったことに一生のつきあいになったんだし、
いま思えばけっこうな時間だったけれど、
なにしろ、ボロ車を無理して15万円ぐらいで買って、
へこんだ場所はステッカーなんか貼り付けてかくし、目もくらむほど苦しんだ。
ジブリからの印税というものが入るまで、私は学校の月謝が払えず、
家賃を滞納し、学費を滞納し、
ーそれなのに月謝のかかる私立学校に子どもを入学させ、
ほかにそういうヒトがいるとも知らず(いたのに)、身も世もなかった。

それまでに書いた私の単行本は借金の支払いで即日消えてしまった。
即日消えるおかねに、なんの値打ちがあるだろう?
自分には物書きとしての才能がないとしか思えない。

だからもう「となりのトトロ」を小説に、という仕事をあたえられた時も、
宮崎駿さんのお情けにちがいないという受けとりかただった。
私が頼んだんじゃないわよ、知らないわよと思って、
やみくもに、おかねおかねと思って・・・。



物書きになりたかった

私の夢は、さいしょ、物書きになることだった。
そういう家に育ったから。
継母が有名な編集者で、父親は経済学者で一日中書斎にいる原稿書きなのだ。
家はどこからどこまでも、玄関も廊下も畳の部屋も、私の小さい子ども部屋にも
作りつけの本棚が天井まであった。

そのいわば両親の「不和の家」で、私は複雑な育ち方をした。
大勢の人が木造のこの家に出入りして、会社から疲れてもどる継母をイライラさせた。
子どもの目でみれば、父は人間が好き、継母は人間が嫌いなのだった。
父はむかし新聞記者で、母は反戦活動で投獄され拷問され沈黙のまま出獄した人である。
そういう事だと言う家だった。

私の家にはいつもお手伝いさんがいて、うちにいる父と一人っ子の私の世話をする。
このひと達が交代するたびに、亜子がわがままだからと私のせいになる。
そうかもしれないし、ちがうかもしれない。
まだ幼稚園や小学校にはいったばかりだと言われるままになってしまう。
ほんとうのことなどわからない。
意地悪で不機嫌な継母が帰宅すると家のなかの空気は一変する。
でも、じぶんもたしかにけってんだらけで、わがままなんだから、と、
幼ければそう思う。そう言われてもしょうがない、わがままだから。
気をつけても気をつけてもわるいことをしておこられる子どもなのだ。
こどもは、どんな子も、決めつけられたことに抵抗できない。
正直だし公平だからだ。

わたしは毎日、くりかえし童話を読んだ。
出版されるたび継母が手渡してくれる岩波少年文庫である。
学校に行けば行ったで、入学した和光学園にあった子どもの本をぜんぶ読む。
病的な現実逃避。
家でも学校でもかくれて泣いて、おもてむき陽気でニッコリしていた。

継母は、あなたなんかに判るはずもないという軽蔑をこめて、
せせらわらうようにして私に新しい岩波少年文庫を手渡した。
なぜだか今でもわからない。
私なら、そんなにその子を憎むなら、一生懸命つくったできたての童話を
こどもに手渡したりしないだろう。

いつの日にかその子をどこか、
自分の手の届かないものに育ててしまうようなそんな「物語」などは。

私は5年生の時、実母のいる場所に
とうとう逃げていった。ランドセルに着替えをつめて、
お手伝いさんが買い物に出たすきをねらって。
雨のふる冬の夕方で、父は講義かなにかの仕事があって不在だった。

母の家は高田馬場南口の麻雀クラブだった。
そこに私は居候したけど、本棚はおろか、書物めいたものはふたつしかなかった。
エロ本がひとつ。戦争中に母がつくった茶色に変色した家族アルバム。
アルバムには、12才?の私にかくされてきた過去が、そのまま貼られてあった。
若い父と母と、父方の大家族とテンパーという名の大きな美しい犬。
小児麻痺でしんでしまったおねえちゃんの牧子。
まるまるふとって、アクマみたいにわるい子だったという笑顔の私。
5才までの。

深夜、麻雀がおひらきになるまで、寝るところもない家だった。
小さい私は、お客さんのひざに座って毎晩、麻雀をみていた。
夜中までずーっと。


2021年8月15日日曜日

敗戦の日

 新聞の一面に俳句が掲載されている。
東京新聞の企画記事、平和の俳句に投稿された作、
71才の中林さんが詠んだものである。

裏口を開けて子を待つ敗戦忌

71才というと、もはや戦後の生まれなのに、こうもまざまざと
戦死というものを語る素養はどうして生まれたのだろうか。
中林さんが幼少期を過ごした長野県小川町に彼女の伯母さんは住んでいて、
そこに次男照次さんの遺影があったけれども、
・・・伯母さんの子を待つ思いは、その時はわからずにいた。
まだ子どもだったから。
彼女がその過去のできごとをきちんと知るようになったのは最近である。
親族が、親類たちがみんなでまとめた追想集を読んだのだ。

彼女の大きい従兄にあたる照次さんは1945年6月6日、
鹿児島県知覧の陸軍特攻基地から沖縄に出撃、そのまま21歳で戦死した。
追悼集に書かれていたのは、
戦争が終わってから何年ものあいだ伯母さんが夜も家の鍵をかけなかったことだ。
死んだ子が、万が一にも帰ってきたとき入ってこられるように。

中林さんは、伯母さんから戦争の話を聞いたことがない。
親族によって編まれた追悼集が、
息子の帰りを待ち続け、戻らないことを納得するまでの伯母さんの苦しみを
遠い年月の果てから教えたのである。
そのことが、どんなに苦しんだろうかという思いを、
今はもう71才になった人に届けた。

伯母さんはとうになくなってしまい、もうこの世にいない人だけれども。



2021年8月14日土曜日

あと5分で


あと5分で玄米ごはんが炊ける。
あと5分でそれを食べる気だ、
だんどりがおかしくて、残りものを食べていて日が暮れた。
玄米のできあがりを残して。

あと5分たったら私は買い物にいくつもりだけれど、
5分後には、きっと雨がジャーンッと降る。
たとえアメが降ってもヤリが降っても、
外を歩くつもりなんだけど、5000歩くのがギムだから。

セミが鳴く。
セミって雨がやんだから鳴くのかしら?
なるほどそうらしい。雨はやんいる。
青灰色の空がいまはもう壁みたいな色して雨を待っているのだ。

玄米が炊けて、あんまりガサゴソなデキなのにおどろいた。
私はガサゴソと空気をまわして、
お釜の中をかきまぜて思案なげくび。
いっそのことおむすびにして、一応しまったらどうかしら?

5000歩かずに日をくれさせちゃいけないという法律をどうする?
お天気の時しか鳴かないとしたら、
セミの寿命はとんでもなくみじかくなるんじゃないの?
この世のことがなんにもよくわからなくてまたも日がくれる・・・。


日が暮れるといえば、
月日は流れ 私は残る
という詩片。

・・・日も暮れよ、鐘は鳴れ、月日は流れ、私は残る、
ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ、というあのアポリネールの有名な。

私みたいなよくわからない日の暮れ方をして、
それでも組み合わせた腕のしたを "疲れた無窮の時" が流れて、
なんだかこう、生まれてから100年たっても、
私がぶじに残っっちゃってたらどうする、
こんな世の中に?




2021年8月12日木曜日

バイブル

忙しいのと視力が極端におちたのとで、
最近の私はふたつの本のあいだを行ったり来たり。
ひとつは図書館本館が捨てた本。ひとつは建築事務所が100円で売った古本。
いや、どっちも建築事務所が100円で売った本なのかしら。

わからないのは、なぜこの本を、買った人が手元から離したかだ。
  鎌田慧の「ぼくが世の中に学んだこと」(筑摩書房1992年)
  ピースウォーク京都の「中村哲さん 講演録」
    平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告

鎌田さんは私が早稲田の学生だった時、文学部の露文科にいた人だ。
すれちがったことがあっただろうか。
私もロシア語をとっていたから・・・。
でもなんて、なんてよくわかる本の書き手になった人だろうか。

中村哲さんの記録はほかにもいろいろあるとおもうけれど、
このピースウォーク京都の講演録がいちばんすばらしいのでは、と考える。
そう思わせる力がこの本にはある。
講演も素晴らしいが、会場満杯の参加者も、生き生きと正直で、
老いも若きも中学生だって横にいたかったなと思わせる人たちなのがすばらしい。
2001年12月9日の話である。
京都ノートルダム女子大学ユニゾン会館だった。

行けるはずもない。
幼稚園の園長だったし、私って中村さんのことはよく知らなくて。




3時になると

早朝3時になると、バイクの音が聞こえる。
2度きこえるのはなぜだろう?
どちらかがうちのポストに新聞を投函。
私は起きて、窓をあけ、空気を家の中に入れる。
寝るにあたって、冷房を消すことにしているから、
空気が家のなかに入ってくると、涼しいとホッとする・・・。
夜明け前のことで鳴いているのはセミばかり。

いつもこういう時グレタ・トゥエンベリという北欧の少女の
全世界 に拡まった地球温暖化防止運動を思う。
彼女の主張は、徹底的で、
うちの団地の、細田さんのいうことと基本がまったくおなじだ。
私は細田さんを並外れた天才だと思うから、
地球の急激な温暖化が、やっぱりおそろしい。
それなのに、このところ冷房なしでは一日も過ごせない。
今年、冷房なしで苦しんでいる人はとんでもなく多いだろうと思いながら、
自分はどうしても、日中、冷房にたよる。

一方の私はこのごろとても単純な原始的生活。
自動車を運転しないから、日中、炎天下を歩いて買い物に行くのだ。
私の一日は、とにかくこの5000歩が基本であって。
帽子が嫌いだから、木陰、木陰、木陰と道伝いになんとか歩いて、、
多摩センターの駅までいく。
過疎、かそっていう字は、すぎたるまばら、って書くのか。
私たちが住むこの街は駅とスーパーマーケットと図書館に近寄らなければ、
過疎だから、マスクは一応持っているぞと手にもって、・・・てくてく。

多摩市はよいところだと思っている。
公園が多く、公園伝いにどこへも行ける老人の街である。
まあいまのところは。

セミと虫の合唱に、ヒグラシ、が一匹・・・
小太郎(うちにくる子スズメ)は鳥目(とりめ)だからまだこない。

冷房がこわれ、ガスレンジが故障し、冷蔵庫もいかれはじめて
公団住宅も、クーラーをつけにきた人の説明では、
あっちこっち、コンクリートの壁の内部で、ふくらみとへこみができているとか。

私はもうなんだか、必死の思いで、
ひとはイシガキ、ひとはシロ、というからと思っている。
細田さんがいるし、ちょっと遠い図書館の読書会にも入会させてもらった、
私って幼稚園でつくった朗読の会のひとたちと今もいっしょにいる、
初期の住民たちが創った住宅管理組合の原則が私たちをまもっているから、
とそう思いたくて、ふたつの老人会にずーっといて、

やれやれ、
私は、それを根拠に行動してみせるぞと思っているのだ。
私の民主主義って、それだから。




2021年8月11日水曜日

空気が熱気をはらんで

一日中、いろいろな用事をかたづける。
とにかく。
健が夜勤からもどり朝8時に朝食。11時まで仮眠。
急いで所沢へ。父親の入院していた先へ事務手続きに出かける。
立川周りのルートをとったのが失敗で2時間半もかかった。

空気が熱気をはらんで、おそろしいようだ。

冷房しないで走りたいがとてもそんなことはできない。
たぶん外は37度とか38度とか。
街路を柵につかまりながら、いまにも倒れそうな老人がよろよろと歩いている。
鼻に綿をつめていたけど、と健がいう。
眼がよく見えないので私にはそこまでわからない。
立川みたいな大都市に住んでいるなら、お金はあるのだろうか。
こんな身体で病気のおじいさんが、炎天下買い物に出るなんて、
うすべったいスーパーの買い物袋、ポリの・・・。
独り暮らしなんだろうか。
それとも病気のお婆さんをかかえているんだろうか。
こんな風景が、ふつうのことになったなんて。

がっかりするほどクルマではしって、
やっと食事をする。
自然食のバイキング、一時間コース。
健お気に入りのレストランで、ランチだと安い。
病院にいく、というとここに寄る。
私が小食のきわみなので、健が1時間以内でものすごくたくさん食べる。
料金をとり返そうとして。
ろくに眠っていないのにこんなにお腹いっぱい詰め込むなんて、
あとの運転がまた長いからと思って、私は自動車事故が心配。

病院。
ここのケースワーカーと看護士さんにお世話になったけれど、
院内の空気はますます暗くまこと医療崩壊の気配。
今朝電話を入れた? 約束? 
はあ、そうでした?
・・・感じが悪いと言うのじゃない、連絡されてもなんにもしない、
できないのだ。できなくてあたりまえなぐらいひとの手が足りないのだろう。
ていねいで、そしてきっちり投げやり。
かんたんな事務上の約束も、はじめから果たす気がないというかんじ。

用事がおわって、帰宅。
途中コンビニで、書類をだして。入金。
それから、ながい、ながい、帰宅の・・・。
あやうい時間、最後にうどんやさんでばんごはん。
ふたりで1000円かからない。
もうくたびれちゃって、
うちに帰ると9時だったし、私は歯を磨いて寝てしまった。



2021年7月12日月曜日

今日はもう歩かなかった

少しの晴れ間に洗濯物を干して、
あとは考えごとだ。
外をみると、むこうの樹のまとまった葉っぱがみんな顔にみえちゃう。

えさを撒くと、かならずやってくる子雀がいて、
お米とパンをせっせ、せっせと食べる。いつもいる。
・・・親は心配だろうな、と思う。
世の中にはね、パンやお米のほかに、私たちの主食があって、
あんたの主食は土の中で生きてる蟲なのよ、
すごくおいしいのよ。
あんな人(わたしだけど)がよこすエサはおまえの食べ物じゃありませんっ。
とかいう母親雀がきっといるはずだ。
だからこたろう君は、スズメとして、毎日いっとき姿を消すんだけれど、
学校(!)からかえってくると、うちの前庭でまたもパンとお米をせっせ、せっせと。

ラクなほうがいいや、という雀なんて、ありかしら。
とか考えているうち、もう日が暮れた。

ときどき立ち上がって、きのう草刈りをした辺りを、見る。
よくやったと思ってるけど、刈りのこしの笹がまだ少し。
だからってどうなの。
急に雨がふってきたからには、ただもう、わたしは雨をながめる。
・・・それも自然よね。つかれちゃってるというのも。



草取り(きのう)

早朝、夜勤からもどってくる健の朝食をつくる。
すずめさんのごはんもつくる。
健がもどってきたから、まー新聞を読んだり話をしたり。
それから団地の草取りの日なんだから、草取りをした。
草取りは午前中、午後は大雨だという予定である。
しょうがないから朝食抜きで、むりやり炎天下もどきの庭にでる。
87才だぞー、と思ったけど、まちがいで私は78なんだ、まだ。
団地のみなさんは北側の炎天下にいるけど、みればだれもが
87才まがいの男の人で、ぐったり石の階段に腰かけてにがい顔だ。
ここじゃみんなが自民党なんかに投票したのかしら。
私の選挙区は多摩南なんだけど、自民党がふたり当選のあきれた結果。

アメリカさんの言うなりに、無観客でも強行するみっともないオリンピック。
自衛隊を、自衛どころか、アメリカさんのいうなりに戦地に派遣する無思想。
世界は広いのに、世界中の目のまえで、
おまえはどっかの国の卑屈な家来だと思われても、
自分さえぶじに長生きできればいいのかしら。
もはや80なのにこれから100才まで?

北側はここ何日か、ひとりで草取りをやっておいた。
それで「草取りの日」だけど、南側の庭の竹を刈る。
気力がなくて放っておいたから、お隣さんは迷惑至極だったにちがいない。
なにしろ、箱庭。真四角なちいさな庭だもの。

お昼がきたら、健がふらふら降りてきて。2時間ぐらいの仮眠である。
お昼に、うどんをつくってくれる。
彼は夕方から、調布でゆうくん主催のライブでソロをやる。
あしたとあさっては仕事がやすみだとか。

100円で買った中村哲さんの講演記録(ピースウォーク京都)
をくりかえし、なんとかすこしでも、1頁の半分でも読む。
それから図書館で借りた「城山三郎 命の旅」。
それから叔母に渡そうとおもって買った佐藤愛子97才の「老い力」。

今朝、起きて、ふーっとうかんだ、むかしの忘れていたなにかの記憶。
     ひとつぶの麦もし死なずば。
私がいまここにいて、友人たちみんなとあたらしく「考える」努力をするのは、
それができるのは、「いまさらなんで!」なんてゼッタイに思わないのは、
むかしからの濫読多読のおかげ、もある。きっとね・・・。



 

2021年7月10日土曜日

コロナ禍の老年


私がすこし、2400歩ぐらい歩いて行く先に、古本を売っている店舗がある。
それは建築事務所のガラス窓の外の地面で、一冊が100円。中ではたらく人たちが
読み終わった絵本や単行本を、地面に置いて通行人に提供してくれる。
そこを通るたび、ついつい本を買う。100円だから。

中村哲さんの本も、100円で買った。
「中村哲さん講演録」平和の井戸を掘る
アフガニスタンのからの報告 
       ピースウォーク京都  2002年5月19日発行

そこにこうある。
会場の質問に中村さんは、私にこれといった信念はございません、と言い、
医者としては命がだいじということだと説明しながら、「三無」が主義だと説明。
「それは無思想、無節操、無駄というものであります」

そしてこういう説明。
中村さんたちの「無思想」
我を通すために特定の考えや思想に定着しないということ。
募金にしても右翼から左翼まで。宗教も仏教、キリスト教、イスラム教、
中村さんたちの「無節操」
その他いかなる宗教も問わずいろいろな方からいただきます。
これが無節操でありましてと言い、たとえばついには、
乞食からその日の稼ぎをぜんぶカンパしてもらったエピソード・・・。
貧しい人に愛の手を、といった惨めったらしい募金だけはするまい、しかし
くださるという方ならだれからでも、たとえ乞食からでもー
そして「無駄」
思考錯誤を恐れない。
私たちの場合は積極的に過ちを認めて、ウロウロと試行錯誤を繰り返しながら
何かをやっていこう―これを常に意識において、実際の活動に取り組んでいる。


どうしてか。
アフガニスタンで活動したから。
アフガニスタンはクルマの通れない山道がほとんどだから。
何日もかけて歩いてようやくたどり着くような標高3000メートルの村々。
そういう土地。


2021年7月8日木曜日

思い出雑感

 1943年神奈川県葉山生まれ。早大文学部教育学専修卒業後、桐朋学園短大演劇専攻科
を経て劇団民藝で7年。退団後3人の子どもの母親になり執筆活動をはじめた。
著書に「7月6日晴れのちけんか」(講談社)「君たちは忘れない」(草土文化社、37年
後映画され「あの日のオルガン」として朝日新聞社から再出版)など。65才で幼稚園の園
長に。以後、朗読の会主宰、図書館の読書会に参加。
ブログも。http//xacykau.blogspot.com/


上記したのは単行本用略歴の下書きで、新しく発行される「小説・となりのトトロ」のた
めの短文ですが、当然この上に、宮崎さんの略歴がどっかーんと表示されていてものすご
い分量。ただもう編集者が略して書いた仕事の分量だというのに。
あのころ私は44才ぐらいだし、宮崎駿さんだって46才? 
「風の谷のナウシカ」がすでにあっちでもこっちでも大評判になっていたから、天才だと思うヒトは多かったはずだけれど、私はそんなこと想像もしなかった。
いきいきしてユーモラスで理解力があって、人間らしい人だったから、たちまち信じて肯定し、そんな人がいたのがうれしくって、あとはもう泣き泣き努力。書けといわれて書けないことが毎日苦しいばっかり、世間知らずだから本当にそれだけしかわからなかった。
ジブリにかよっていっしょに作業した女の子が懐かしい。その人は絵をつくる人で、人物を画面で動かすためにものすごく多量に同じような絵を描くのだった。彼女の絵と、私の字とどっちの数が多いのかなと、暗澹たる私は、毎日、涙をかくして重苦しく考えたものだ。
とにかく描きましょう、とそのか細い少女は牢屋で作業しているみたいな調子で、私をなぐさめるように言ってくれるのだった。
才能がまるで無いのにあてもない旅、というのが正真正銘の私の実感だった。

いまになって見ると宮崎さんって。
こんなにたくさんある大ヒット作品・・・。略歴でもこうだなんて。





2021年7月7日水曜日

選挙ってむずかしい

投票日は雨で、会場に向かう人は見るからに、まばら。
選挙が終わると、
スキャンダルまみれの候補者 を新聞記事でながめてガックリしてしまう。
言論というものの品格が
これほど堕ちた国に、自分の住む国がなったことに
茫然としてしまう。
恋愛沙汰なら個人の自由だと思うけれど、
おとこ議員の、こどもとおんなに対する仕打ち、そのむき出しの強姦肯定が
私たち国民の選挙に対する意欲を、本当に減退させる。
なにを言ってもむだ、ということだ。
記事の書き方も書き方だ。

投票に参加する国民が7割以下なら、
たとえ何でも選挙をやりなおしてもらいたいと、普通だれでも思うんじゃないの。
選挙は、私たちの義務だ。
しらない、とほうり投げてはいけないのだ。

生きとし生けるものは、性的だと思う。
そうでなければ、種の保存ができない。
滅びてしまう。人間だって自然にそうだ。
幼くして性にめざめれば、そこからいろいろな経験がはじまる。
だから幸福なひとも、不幸なひとも、いるだろう。
人間は、動物とちがって、いろいろだから。

私は、未熟だったり早熟だったりする女の子が、
いろいろな経験をするだろうけれど、幸福なおとなになってくれるように、
自然な母親になってくれるように、経験によってかしこいおばあさんになるように、
気をつけて保護するのが、政治の大目標のひとつだと思う。
男の子にそんなふうな立場を教えるのだって、だいじなポイントだと思う。

ヒトは一生変化するものだ!
未熟や早熟は、ゆたかな人生にむかって、すがたかたちを変えていく。
政治は、まちがいを許さないものではなく、
人間の多彩さの保護がそもそもの始まりである、
というふうに考えるのは、ものすごく難しいわけだったんだ・・・

と思う。








2021年7月3日土曜日

雨が降る日に

びっくりしたことに、スズメってミカンを食べない。
半分にしたミカンをパンくずの周りにおいたら、
警戒して、こわごわ、横にあるパンをつっついて、もうビクビク。
あんまり居心地がわるそうなので、
ミカンはかたづけたけれど、むかしはヒヨドリがりんごやミカンを、
たしかちょんちょんと食べたものだ。
だから、私はこの柿の木に林檎なんかつるしていた。

いまうちの四角いちいさな庭は、スズメが占領して、
それはそれで制空権ができ、ほかの強そうな鳥は寄ってこない。
息子がいうには、こんな雨の日には、柿の木の葉っぱの裏にかくれて
雨をよけているんだとか。
そういえば、葉がちらちらと光りみたいに揺れている。
不規則だ。
文字も小鳥もよく見えない。

手術をしよう。
なんとかして。

午後になってブックオフに行く。
さがしている本は見つからない。
脚立(きゃたつ、懐かしい単語)に腰かけて、
別の本を読み、・・・その本を買う。
「子ども達へ、今こそ伝える 戦争 子どもの本の作家たち19人の真実」

19人・・・長新太と、山下明生、の本は持ってる。
とくに長新太はホンモノの変人なので、
私なんかよくわからないのに、
なんだかもう完全にこれこそ「ヒト」だという気がして、
つい、見ると買ってしまう。なんさつも持ってる。
愛読なんかできもしないのに。
この本のトップバッターはその長新太さん、まず読んだけど脚立の上で。
よくわかる、でもやっぱりわかったわけじゃない、という書きっぷり。
プロってこういうことなんだろうかしら。

と、つい買ってしまった。
1800円が891円になっていた。


2021年7月1日木曜日

雀のお宿

このあいだ、朗読の日にみんなが家にきてくれた時、
なんでこの家の庭ってこんなに雀がいるの?! 
ときいてくれた人がいて、もう気をよくしちゃったのでした。
どうしてかって私はこの3か月、
息子の朝ごはんと晩ご飯をつくることにかかりっきり。
買い物と洗濯と掃除しかできない。ブログなんか眠れないからもう放ってある。

で、どうしたかって?、スズメを呼んだのだよワトソン君。

パンの耳と開拓農民米を混ぜたエサを庭に蒔いて3か月。
このあいだ、やっと嬉しいことがあった。
買い物に行こうとしたら、庭の反対側の道路のわきに雀がいる。
うちのスズメだと思って、チュッ、チュッと合図したら、
なんと、むこう向きで虫さがしをしていた子雀が、私の方に向き直って
首をかしげて、逃げなかった!
返事こそしなかったけど、子雀はそのまま、地面で虫さがしを続行・・・。
さいしょ、あんまりこわがって逃げるので、
私の舌が鳴らす音はすずめ語でいうと「ぶっころすぞ」になるのかなーと、
息子にきいたぐらいだったのに。

そんなこと考えてないで、ピーマンなんか蒔けばいいと思うけど、
生産的なことって、奴隷労働の真っ最中だと、やる気がおこらない。
なりゆきに任せて、自然観察、というか眼がみえないからもうなにしろ、
こわがりやのスズメをボヤーッとなんとなく傍観。
まーいいよ。なんでいまさらせかせか見なくちゃいけないんだか、とそう思う。
神様ってけっこうこんな人かも、と自分の事をそう思う、
はははは。そういう、変形な、
図々しい毎日でしかなくなっちゃったって、愉快かも。



7月になった

7月になった。
息子が介護施設に雇用され、4月、5月、6月は試用期間だった。
シフト、シフトと追い回された3か月。
早出・遅出、徹夜、もういろいろの、おそるべき3か月。

シフトというのは辞書でちゃんと調べると「移動」と「転換」。
球技なんかで選手が位置を変えることをシフトと、いう。
シフトって、体育会系のことば、なのである。
まあ、私などのゆるやかな日本語でいえば、
介護施設で仕事の仕方を教わり、適性があるかどうかを値踏みされるんでしょ。
時間割とか、この施設ならではの仕事の現状とかね。
施設利用者のあるがままの「命の模様」を理解すること、
途方もない老いに共感し学ぶ、そのための訓練のことだと思う。
私はね、そう考える。

シフト、シフト、シフトと連呼するたび、
介護は、若いスポーツ選手の、「移動」と「転換」にきびきびと化けてしまう。
介護の職場に理念として残るのは、先輩と後輩と言う関係だけだ。
シフトの親分はスピードいのち、でしょ。

介護って、どういうことか。
厄介の介をまもるって? とまず考えちゃう。
介ってどういう日本語か?
調べたら、あいだにはさまるという日本語。
なかだちをする、たよる・・・という説明。
「介護」とは、たよるとまもるがくっついた熟語なのである。

そんなことは考えたこともなかったと最初、私はおもったけれど、
こうやって日本語でたどると、幼稚園の園長をしていた時と
はなしがまるでおんなじだ、というのが実感だ。
人間は、言語未発達の時代にもう幼稚園とか保育園に入れられる。
そして、年をとって身体が不自由になり、言葉を失うと介護施設に入れられるのだ。
わたしは78才だからまざまざと、もういろいろと思う。
息子の話をきくと、
利用者さんの感情表現は、
お礼をいいたいとか、やさしくしたいとか、わかってもらえなくて暴れるとかね、
なんとかして、自分の気持ちを息子に知らせようとするところからやってくる。
そういうことが幼稚園の子ども達と自然におんなじ。
お人形さんを抱えて寝ている人は、くちがきけないけど、
お人形さんの手を「じゃあね」と、慌ただしく離れて行く息子に振ってくれる。
そうかと思うと指を食いちぎろうとかみつく人がいて、入れ歯の処理のとき。
なんで喰いちぎられるってわかったのと息子にきいたら、
なんだかしらないけどヤバいと思ったからパッと指を引っこ抜いたんだって。
ゆびが、赤くなってる。アワやだったんだろうとわかる。
「噛みつきそこなった人はどうしたの?!」
笑ってたんだっていうから、その人どんなこと考えたのかなーと。
良いことも悪いことも、いろいろ、いろいろ、複雑よねきっと・・・。
たくさんあるはずよね。生きてきたんだものね。
幼稚園の子どもだって、そうなんだから。

人間のお世話をする仕事を、
体育会系の言語でくくることは、つまり無考えに日本語から引き離すことは、
暴力だという気がする。エイゴにするなんてとも思う。
先人たちが考えた日本の熟語は、とても人間的だから。



2021年6月13日日曜日

ユネスコ実験学校の子ども➋

ギム教育って有り難い。字を読む。字を書く。人間関係を作れる。
9年の勉強が子ども時代の、日本の子どもの義務である。
東京という大都会で、しかも母親が経済の中心であれば、
子どもを絶対に野放しになんかできない。不良少年になるだろう。
私は子どもたちのそばにいたかったが、学校に頼むのがベンリだった。

しかしギムとはなんだろう?
その時はよく考える時間も能力もなかったけれど、
私は自分の義務教育時代を思い出し、自分を「子ども観」の基準にした。
若い親ってそうだ。 なんとなく自分の経験知のなかで考える。
だからうちは、ユネスコ実験学校の基準でということになった。

日本の、15年も続いた戦争の時代が終わって、
私の親が一人っ子の私を連れて行った先は、私立の和光学園である。
ぼろぼろガタガタの学校だけど、そのうちユネスコ実験学校になった。
いいんだかわるいんだか児童中心主義。先生は全然いばらないし、いばれない。
子どもがしたいようにする、そんな感じのオンボロ小学校である。

なんだかタガが外れたような、時間割も子どもがきめるみたいな。
ヘンだと思って「世田谷区立」みたいな普通の学校に通いたかった。
でも中学校ができたから中学も和光、私はとうとう9年間を和光ですごした。
ちいさな学校で、中学が出来ても高校が出来ても、みんないっしょ。
運動会も学芸会も、卒業式だって、家族みんなと集まっていっしょにやる・・・。

子どもは誰でも、自分に与えられたカンキョウが嫌いなんじゃない?
どこをどう振り返っても、苦しい夏で、苦しい冬で、
私は不幸という不幸が自分めがけて殺到してくるような気がしていた。
意地悪な閻魔大王が自分をつけ狙って離れてくれないという、思いこみ。
となりの席には、小さかったみっちゃんが腰かけていたというのに。


2021年6月12日土曜日

ユネスコ実験学校の子ども❶

息子といっしょに、所沢市の病院へ。
なぜかといえば、離婚したもと夫が緊急入院したと、彼の入居施設から、
長男と二男に知らせがあったからだった。
5万円を直ちに病院窓口に届けよということだった。
( 現在の私は二男とくらしている。)

同行して、自己紹介をして、
主治医の女センセイと息子の面談に自分も同席。
❔ これってなんでかなーと。
30年ぐらいまえにさんざん苦労して離別。
別れてから一度も会わないできたというのに。

長男はパン屋。
長女はオランダで仕事
次男は私と同居で就職後2か月半の介護職。
いまのところ私以外に病院と普通に連絡できる者がいない。
そういう事情だからだ。

病院からもどる長い時間、
運転席にいる二男について考えた。
それぞれの子にはそれぞれの運命と気質と仕事がある。
父親のその後と母親のその後が、末っ子の背負う荷物になるのは、
なぜだろうということだってある。

いまや私たちはみんな、平等におとな、なので。

ずーっと過去をたぐりよせて考えてみると、
二男の運命を決めたのは、彼が小学生の時だったなという気がする。
その時、この子は皆勤賞の、欠席ナシの坊やだった。
それなのに、この私は大地震がくるという風評予言にのって、
学校を休ませ、友人一家と長野県に逃げたのだった、半分は冗談で。

その体験が彼にとって辛かったかどうかよく知らない。
ぽくぽくと、無表情な彼は、年長の私達みんなと歩いたり遊んだりした。
この母親といるかぎり、学校の規則は,ときどき無視される、
学校なんてその程度のものだと、小さかったこの子が思ったのかどうか、
それはよくわからない。

私はそのころ成績の良し悪しで顔色をかえて怒る自分がおぞましく、
いっそ成績表なんか見ないと決めてしまった。
行動の記録、みたいなところだけに一応反応し、
親からのコメントを先生あてに書いた。
子どもの頭の良し悪しは、私が自分で考えるし責任を持つつもりだった。

でも学校には絶対に通ってもらうわよ、と私は子どもをにらみつけた。
学校に行かないで、歌舞伎町をふらふらするなんてことは認めない、
お母さんにはあなた達をさがす時間がない。
あなた達にもしなにかあったら、私は死ぬから。
そんなことを言うなんて、私たちは母子家庭になっていたのだ、きっと。




家賃を払う

家賃とつい言ってしまうが、税金のことだ。
固定資産税と都市計画税を、ずっと払ってきた。
途中で払えなくなったらどうしようという恐怖感があるので、
請求書がくると、とりあえず一年分を一度に払う。
不定期収入の自分が、分割払いに耐えられる気がしないのだ。

あーあ、それにしてもやっと時間ができて、今日、私は税金を払う。

てくてくと歩いて、坂を上り坂を下って、公園の脇道を抜け、
花をながめたり樹木をながめたり、
ウグイスはこっちにきていたのかと思ったり。
夏日突入なのかしらと、そよ風に吹かれながら考える。
夏になったからウグイスはうちの前の土手の樹木を見捨てたのかしら。

てくてくてくてく。
ほかになんの用事もないのがばかばかしい。
コンビニエンスストアで預金をおろし、コンビニエンスストアで
税金をはらう。
あじけないってこれだ。
交番のヨコの郵便局だと税金を払う時、すこしは風情がちがうかしら。
いやいや、ここには木で鼻をくくったような、
局長さんもお手上げのいばった男の人が窓口にいたっけ。

駅前のケーキ屋さんで200円のケーキを5個かう。
そうでもしないと、あんまり殺風景な3240歩・・・。
またてくてくてくてく。
税金投入と、200円のケーキ5個。
ばっかみたいだけど、
いささかの、とてつもない平和・・・。

 

2021年6月10日木曜日

その後

 
「風をみる」とタイトルをうったっきり、
いままでなにをしていたろう?
おかしなことに、風を見ていることが、多かった。

時間が行ってしまう、過ぎてしまう
(介護施設の勤務時間の上下にふりまわされて)
明けがたはごはんの支度 洗濯は洗濯機がするけれど、
階段をのぼっておりて、のぼっておりて、
干して、取り込んで、たたんで、しまって、
ときどき、椅子に座って、木々をゆらす風を見るのだ。
もう毎日、毎日、
そんな毎日の腫れ上がったような痛い時間。

そういう日々には、
格子戸の牢屋にかこまれたような、「奇妙な時」が流れる。
樹木の小枝がつくるスキマは、巨人の大目玉のようだ、
あっちの木と、こっちの木に、それからむこうにも、
目玉は二か所か三か所できて、濃緑の葉の隙間から 
空の、蒼い青い冷淡なまなざしの色して、
ただもう狙っている、睨んでいる。
茫然と座っている、おかしな、奇妙な、熱っぽくて、干からびた、
今では家事しかできなくなったヘンてこりんな、私、を。

私は、風が吹くのを見てゐる。

それから立ち上がって、
ばかにしたように、すこし笑う。
そのひとりぼっちで笑う顔がやさしいように、
にがわらいでいいから、どこか優しい気質のものであるようにと
それもやっぱり苦が笑いをしながら考える。
これから掃除、これから買い物、それからごはんの支度、
「家事」かんけいの言葉しか一日の計画の中に入れられないので、
どうしても私は、
なんだか自分が立ち直れない古い丸パンみたいな気になって、
よし、と私をにらむ樹の目玉を置き去りに、
・・・時刻表めがけて突入するばかりなのである。

合言葉?
「みんなそうよね!」っていうんじゃない?




2021年5月27日木曜日

人格?の付録

ある読者の方から、
なぜ人格「1」の文章が急展開して人格「2」の文章になるのかと、質問された。
気ままに自分の考えを追うという点で、私のブログは自己中心的なのだろう。
読む人の都合というか視点をつい無視してしまう。
もうなんでもかんでも判ってもらえる、と思っちゃうわけなのね。

それでもやっぱり私は、自分があのころなんだってあんなに
頭がからっぽだったのかを思いだしたい。
25才にもなって、なぜあんなに子どもっぽかったのか。
なぜあれほど陽気な振りをしていたのか。
なぜあんなにビクビクしていたのか。
北林さんと、私の父とそれから継母を、
とにかく尊敬せざるを得なかったからかしら。
この3人は、3人とも、今様に言うならば強烈なインテリだった。
北林さんは名優だし、劇団のおえらがた。
カンヌ映画祭で受賞した時マルチェロ・マストロヤンニが隣にいてと話をきいたけど、
なんだかグニャグニャしたしょうがない男でとにがい顔だった、はははは。
継母は岩波書店のレジェンド(いまや伝説のひとだと若い編集者が言ってる)。
女性はじめての編集部課長職。 それも初代社長岩波茂雄氏の人選である。
編集部長が吉野源三郎さんだった。
父は物書きで結核で糖尿病。選集と全集を青木書店と大月書店から出した。
戦後のレッドパージで東京新聞をクビになってからの仕事だった。

この3角形のど真ん中にいたら、ヒトはどうなる?
おまけに兄弟がいなくて一人っ子だったら?
ノイローゼになるしか、生きのびる可能性なんかなさそうだ。
しかも私には麻雀クラブだとか露天商だとかを男と渡り歩く実母がいたのである。
三益愛子の母物映画を観ても、フーテンの寅なんかを見ても、
苦しくてどこが笑えるのかサッパリわからんという子ども・・・。

でも子どもというものには可塑性がある。
子どもってどんなにねじ曲げられても、なぜかクルッと自分にもどるのだ。
7才まで大事にしてくれる人がついていればの話だが。
なにはともあれ、大笑いするしか差す手がなかったので、私はおかしがって笑った。
私の父は理論家になろうと経済学者になろうとユーモラスな「とうさん」だった。
私の母は、どんな困窮貧民になろうと絶対にふざけてみせる妙な不良女だった。
おかげさまで、ということだろう、きっとね。

私はこのぐちゃぐちゃの中で20才になり、25才になったのである。
今だと子どもは18才でおとなだとか言われる。
成人なんだぞ、だからなにかでおまえが死ぬとしたら、
それは自分のせいなんだぞ、ということなんだろう。
ある日、私の父は中学生の私に、おまえさんのほうが利口じゃないか、
ママ(編集者の)よりもと言った。
継母を相手に、なんでそう苦しむんだと私に聞いたのだ?!
「むりだよーとうさん!」
そういう、ひらがなで苦しむしかない女の子が私だ。
戦争時代を牢屋で拷問されながら生き延びた、生計の担い手である女性編集者に、
継母そのものみたいなひとに、あのさあ、中学生の私がどうやって勝てるのよ?

笑いごとではなかった。でも私は笑う女の子だった。
なぜか? 親からもらった性質の中で、そのころの私になんとか残されたのが、
ユーモア感覚だけだったからだ。
私は、ははは、ははは、あははあああっと笑う子だった。
(芝居の開幕と同時に、ぱぁーっと笑う役を宇野先生がつけたぐらいだった)
笑う声があんまり幸せそうに響くので、隣家の慶応医学部一番の女の子が、
本当に亜子ちゃんのあれだけはうらやましかった、といった。

私はひっくり返って笑う子だったけれど、自分を肯定していたわけじゃない。
ただの少女にすぎない生活に流されて、いつも岩波少年文庫の世界に逃げこんだ。
しかし、それが「逃げ」にすぎないことを心の奥底ではよく知っていたのだ。

北林さんに会った当時、私には「笑う」というなけなしの武器しか、なかった。
たぶん、演劇という仕事には、こういう少女が必要なのだろう。
悲劇性を内面にかかえて、しかし、この悲劇の本質はどういうことなのか、
それをどこどこまでも考えるという文学性とか、楽天主義とかが。

ジョーダンじゃないわよねー。

 

2021年5月25日火曜日

人格?の2

北林谷栄さんとどんなに印象的な時間を過ごそうと、
当時の私はケーハクで、言われたことなど全然わからなかった。
わかっていないことがわからない、というレヴェルだった。
それが「人格」に関係する話だったらしいと理解したのは30年もあとである。

千橿(ちがし)が生まれて、
産後4週間、ムギちゃんの代わりに私がパン屋の店番をした時のことだった。
パン屋の店番というと、なにからなにまで、
菓子パンにしろ食パンにしろ、クッキーにだって名まえと値段がある。
みんな、コマコマしてるくせに、生意気に値段がちがっている。
一応知ってるというのは誤解で錯覚、私なんか呆然自失、パニック状態だ。
なんておっかないことになったんだろう?!
第一、小さい店だから入って来たお客さんがジャマで、値段なんか全然みえない。
どうすればここから逃げられるんだろう、私って! 
でも「帰る」とも「出来ない」とも言えない、息子が厨房でパンをつくってる。
お客さんが入ってくる。
トレーになんだかんだといっぱい乗っけて、私がそれを袋に入れて、
合計いくらですとスラスラ言うのを待ってる!
怖い思いは散々してきたけれど、あんなに怖かった昼間はなかった。
「えーとどだい食パンって、いったい全体いくらでしたっけ」の世界。

そうしたら夕方になって、息子が、
がっくりきている私をなぐさめて、こう言った。
「かあさんはすごいよ。ふつうの人と全然ちがうんだね。
ふつうだとね、アルバイトで雇われてさ、
みんな一人残らずシロウトだからねー今日のかあさんみたいにさ。
僕のところにききにくるよ。このパンいくらですかとか、ドーナッツがとか。
でもそれなら、僕が自分で売ればいいわけさ。
売ってる時間が僕に無いから人を雇うわけだからさ。」

・・・なにがちがうの? 私だってまるでわかってないわよ、と私・・・。

「かあさんは絶対にぼくに聞きにこない、そこがちがう。
かあさんは、わかんないとにこにこ笑ったりムギの代わりですと自己紹介したり、
値段を自分で見に行ったり、それでもわかんないと、
お客さんにこのパンって幾らなんですかってきいたりする。
しまいにはお客さんに見に行ってもらったりするんだ。
とにかくヘンでもなんでも、ぜったいに、自分でやるんだ。
そこが人とかあさんのちがいだよ」

まるで魔法のように、ぶーんとアラジンが絨毯にのってやって来たような。
北林さんの批評?というか冗談が、あの時はまだ生まれていなかった息子によって、
もう一回、配達されたような具合、なんだなあと私は思った。

で、次の日からスムーズにことが進んだかというと、何日たってもダメだった。



人格?

北林谷栄さんは、私のセンセイだった新劇の女優さんで、
名優のほまれ高い人だったけれど、
思い出をどういう抽斗からとりだしたらよいのか、私にはさっぱりわからない。
演技というものは、人々の記憶から、あっけなく消えてしまうものだと思う。
舞台俳優の宿命で、北林谷栄なんていっても、たいがいの人は、
ああ、宮崎駿さんの「となりのトトロ」のおばあちゃんの声をやった人ね、
と言うだろう。
北林さんがきいたらどんなに怒るだろうともう当時から私はお手上げだった。

したがって、
私の個人的な思い出は、なんとなく偏って私自身に関するものである。
「オカーサン」の友だちっていうと誰なの?と、私がきくと、
友だちというにはいささか物足りないが、まあ無理にも言えばアンタかな、
と考えてから彼女は答えた。
私は25才ぐらいだったけれど、ひっくり返って笑ってしまった。
北林さんってまったく、ホントにそうなんだろうなと思わせる人だったのだ。
おっかなそう。友だちなんかいなさそう。
ほかの時にはこう言った。
アンタは父さま(私の父)と本当にそっくりな人ね、
父さまから脳みそをまるごと引っこ抜くと、アンタになるんだわな。
私は、おかしくておかしくて、またもひっくり返って笑った。
云い得て妙というか、当り!だと思って。
北林さんっていう人は、なにを言っても見たこともないほどユーモラスだった。
スリル満点、魔物みたいにおっかないのに、ユーモラスなのだ。

ほめてくれたことだって、あったけどそれだって。
いつのことか思い出せないが、
もしかしたら私の初めて書いた童話の出版記念会で、だったのかもしれない。
このひとは、あらゆる方法でたたかう、と彼女は言った。
北林さんらしい表現がおかしかったらしくクスクスとみんなが笑ったけれど、
それはこういうことだった。
この子は手錠を嵌められれば口で、口が猿ぐつわで使えなくなれば足で、
足に鉄の玉みたいな重たくてゴロゴロいう足枷をつけられれば、
のこった眼玉だけでもつかって、とにかくなんとかかんとか工夫して、
さいごまで自分で戦う、そういう人間なんだと思うと。

そうやって思い出してみると、常に北林さんの批評は客観的感想であって、
「教育的」ではまったくなかったと思う。
北林さんは、どんな人に対しても人格を変えろなんて言わなかったのではないか。

芝居となると、話はまったく違うけれども。

したがって、影響は受けたけれど、私は私のまんまだった。
人格を否定されたなんて思わなかったし、バカにされたらされたで、
洒落てるからおかしいばっかり、笑っちゃってぜんぜんこまらなかった。
だからバカのまんまだった、ということも言える。
一生、何をやっても低空飛行だったし。

まあ、よかったんじゃないか、自力で苦難と戦えて。
あんまり賢いと孤独だろうし。



2021年5月24日月曜日

とにかくの1日

とにかく、毎日が、ただもう努力ばっかりですぎる。
そのほとんどが、睡眠の確保であって、
眠れているのだか、全然体力回復にならない仮寝の5,6時間なのか、
もうさっぱり自分じゃわからない。

まーいいか。
これが運命なのだとあきらめて。
今日は一大決心をして、5時間眠ればいいと、わりきることにした。
いいじゃないの。
77才の不幸な人生の(!)平均睡眠時間は、5時間なんでしょうよ。

午前中に、掃除と洗濯と雀くんにエサをまくのと、
庭にゆったり居座ろうとするどこぞのふとった猫とのにらみ合いをすませる。
ネコはこまる。私の都合じゃなくて雀くんの都合で。
朝ごはんも食べたくないけど、食べる。
これだって私の都合じゃない、できれば飲みたくないクスリの都合だ。
さてそれで。運動だからと、
悲壮な決心をして、図書館まで予約の本を受け取りに歩きだし、
また歩いて元三越でパンを買い、元三越の丸善に本を注文したかったのに忘れ、
こんどは郵便局(本局)までヘトヘトになって歩き、そこで郵便物を発送、
天をのろいながら、もうくたびれちゃって、坂をずーっとのぼって、
やっとのこと家にもどった・・・。
ああもう、私の家は、遠くに、あって、ほんと冗談じゃなかった。
きょうはヘンな具合に、歩けない。
たぶん6月でもないのに、紫陽花が咲いたり、薔薇の花が散ったりするせいだろう、
とか、思う。

むりにもこんなに努力したのは、植木やさんに庭の柿の木を、
本日正午すぎに、なんとか見られるように伐ってもらう約束だったからだった。
植木やさんは2代目の若い大将で、すごくいい人だ。
彼はもうバサバサと、バサバサとバサバサと枝を、親切な説明つきで伐った。
ポカーンと向こうの空が見えて、
涼しくなったのか・・・影がなくなって今年の夏が熱くなったのか、
私はきめかねたけど、それはシロウトの無知のなせる判断だとよくわかる。

なるほど樹木には樹木の側のきっぱりとした都合があるんだわよね。

彼は私の息子たちと同世代、ずっとロックバンドをやっていて(!?)
親父のことがもう俺は大きらい、気が合わないんで、と言う。
えーそうなの。とても考え深そうな人だったのに。
しかしである。
職人の世界にはガンコな人間関係のガンコな人間味があって、
今、彼は吹く風の中、親子仲は変わらず悪かろうとも、ちゃんと植木屋だ。
(あなたがよく見るとハンサムなのは、親父さんゆずりだからよ)
でも、
「いま、親父は眼がみえなくて仕事を休んでいるから」
柿の木をバンバンとドサドサと伐りながら、息子は憎ったらしそうに言った。
「手術を受けて、仕事ができるようにしないと。
仕事しかない人だから、クルマの運転ができないと。」

・・・・・・・「人間・歳月・生活」とは、イリヤ・エレンブルグの本の題名だ。
コロナ騒動と地球温暖化の中にいると、すこし幸せなら幸せで、私は思い出す。
アントン・p・チェーホフを描いた芝居のタイトル・・・
・・・「嘲るようなわが幸せ」




2021年5月6日木曜日

あの女は

一日、少女の頃作り始めた、書物からの抜き書きノートのことを考える。
出先のことで、そのとき思いだしたかった文章の断片は、
マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」からの抜粋だったが、
家にかえって、オンボロのノートをさがすと、それはやすやすと見つかった。

もうひとつこういう詩を見つけた。私って悪態をつきたかったのかしら?
・・・作者の名まえがないけど、もしかしたらミュッセかも。

あの女はくたくたになるほど
わしらの悪口を言った
あの女はわしらが汗をかくほど
わしらの悪口を言った
あの女は口には言えないほど
わしらの悪口を言った
あの女はわしらが笑い出すほど
わしらの悪口を言った
あの女はまる一日と半
わしらの悪口を言った
あの女は頭がからっぽになるまで
わしらの悪口を言った
だがとうとう帆をあげて行ってしまった

これをノートに書きうつした1960年ごろは、
こういう戯れ歌がいかにもピッタリという人に逢ったことは無かった。
でもなんだか最近になって、こういう人がいるんだとわかってきた。
それも大勢・・・満員電車に乗って。
こういう人って今では会社に勤めているんだ、男でも、女でも・・・。

*
私が思い出したかった文章とは、以下のような断片だった。
マルタン・デュ・ガールである。

写真といっては一枚もない。昔の思い出は何もないのだ。
自由で一人ぼっちで思い出なんかよせつけていない!
     そして突然地平に向かってひらかれた一つの路、大きな抜け穴。
     即ちできもしないような生活から足を抜き、これを投げ捨て、
     行き当たりばったりに踏み出し生きて行くこと!

なにからなにまでやり直す! やり直すためには何から何まで忘れてしまう!
----そして人にも忘れさせる!

     なんら技巧を用いず、生地のままでやっていくこと。
     そして自分が創造するために生まれたという自覚を持つや否や
     自分はこの世で最も重い、最も美しい使命を負わされ、
     完成すべき大きな任務を負わされているのだと考えること。
 
そうだ! 誠実であること!あらゆることに、あらゆる時に、いつも誠実であること。
しかし、そういう僕にしたところで 彼らを愛していたのだった!

 

2021年5月5日水曜日

閑話休題

きのうは、淑人さんとみっちゃんが来て、
私がつくる巨大サンドイッチをふたりが食べた。
この二人ってうまれつき上品、何十年たっても礼儀ただしい。
でも、いくらなんでもコロナさわぎで退屈しちゃってるから、
うちのムチャクチャなサンドイッチを、
私がドカーンとサンドイッチにすると、
にこにこしちゃって、ばりばり、食べた。
野菜がパンからお皿に落っこちるとそれをひろって詰めなおして、
手づかみしかしょうがないから、手づかみ。
はははは、と。
来てくれたのがうれしくて、
ほかにも用意したというのに、私はそれを出し忘れた。

みっちゃんは、このあいだ整理しなおした二階の本棚を見て、
面白そうな本がいっぱいねと褒めてくれた。
私の本棚はいまや地震対策でスキマなくぎっしり。
しかし必読と考えて自分で買ってくる本って、どうも読みにくい。
敬遠して、良書だけど案外読んでいませんというのが、
私の欠点だからねー。
ついつい図書館で読みやすい本を借りてしのぐ。
意志薄弱多読型。

あーあ。

今日は、すごく一日がながい。
洗濯もしたし、乾かしたし。
買い物にも出かけ、ブログもなんとか。
嵐にそなえて慌てふためく雀さんたちの世話もして、
晩ご飯のお米も研いだ。
新聞だって本だって読んだ・・・。

閑話休題。
いま、うちではアメリカで大ヒットしたとかいう
怪奇televisionビデオを毎晩観ている。続きものである。
一回分一時間(九時間労働に励む健くんの限界)。
もう延々と作られたのだし、延々とヒットしたのだから、
面白いのかもとついついTSUTAYAで借りたのである。

かあさん、面白かったらひとりで観ていいよ。
そう言ってもらったけど、そんなことできるわけがない。
おっかなくて私なんか一人じゃとても観られない。
きのうなんか、怖いぞ怖いぞと、こけ脅しだけの一時間。
なによねー、これ! とは言ったけど、
脅かされているその時は、ただポカンと・・・、
免疫力がない私としてはやはり非常におっかながってだけ、いるわけである。



地震と個性

地震が始まった時、大橋さんのお宅で、私は豆茶を飲んでいた。
いかにも健康を守ってくれそうなおいしいお茶の3杯目。
杖代さんとMr.は立派で大きな天井までの戸棚を背に並んでいて、
戸棚の中は本とかお孫ちゃんたちの写真とかいろいろとそれからスキマ。
私のに比べればなんの地震手当もしてしていない本箱だ。
あ、でも言われて気がついたら手当はしてあった。
戸棚のふたつの取っ手に蒲鉾の板が(四隅を美しく削られて)挟んであった。
これなら地震になっても、ガラス扉は絶対開かない・・・。

そこに地震である。おんなじようなコンクリートなので、
うちが地震の時揺れるように、大橋家もグニャグニャと揺れた。
長い地震だったし、この家は間取りが複雑だから曲がりくねって揺れている。

私はMr.の泰然自若ぶりにすごく気を惹かれた!

いかにコンクリートの家屋がグニャグニャしようと、Mr.はそこに、
ご自分の居場所にただ、ふんわりと浮かんでいた。
そうとしか見えない。こんなおかしなことってあるかしら。
動じないという言葉には考えてみると突っ張り感がある。
大橋Mr.ってそういう感じがまるでないお方で。
笑顔は笑顔のまま、おだやかな声音もおだやかなまんま・・・
話すスピードも、テーマも、姿勢も、カップを持つ手も、どこもなにも、
ひとつも変化しないので、これってどういう生き物なのかなあと。
大橋Mr.って幻燈?
まさかですよね。

よく考えてみると、このヒトはアメリカに移住すること3代目の日本人。
それで、ローラ・インガルスの「大草原の小さな家」の父ちゃんみたいな、
おそらくそういう気構えの人なのだろうと、想像する。
あの地震の日、考えたことは、私が感じたことは、
家の構造とか可能性とかまたは限界について、
この人は「正確に見当がついている」「こんなもんだろう」とわかっている、
「できる手当はすんでいる」という認識なのだということだった。
大橋Mr.とは、
自分の個体としての運命を自分で選ぶ人。
運命の結果としての大きさを引き受けて四の五のいわない人なんだろう。

でもさぁ。
そういう人ってですよ、長生きした場合、あんなふうに浮かぶの?


2021年4月30日金曜日

ノーテンキな一日

風が飛びまわって、お天気がよくて。
串のお団子みたいな雲がむこうに浮かんでいる。
朝から、洗濯、洗濯、また洗濯。
3冊の本を、読んではやめ、読んではやめ、
途中、思いつきで番茶を飲んだりした。なんだか不味い。
鯖ずしというのを買ってひとつ食べたけれど、
あこがれてたのに、不味い。
舌がオカシイのかも。

「不幸な国の幸福論」と「ムギと王様」とNHKのこだわり人物伝「城山三郎」を
かわるがわる読んじゃ置き読んじゃ置きして、はかどらず。
雀くん用のパンのところに、今日はトカゲがいる。
もうじーっとパンを観察しているように見えるけれど、レンガの上によじ登って
またパンを・・・と思うけれど、ちがうのかも。
だいたいトカゲの目ってどこにあるのよ?
安易だと思うけど、手持ちの?専門家にメール。

返事がきた。親切でしょう? 新井薫さんなのだ。
・トカゲの目は顔の両横ですが、頭頂部に第3、第4の目をもつものいるそうです。
 (機能的には今は退化しているよう)
・視線の先とは?(私がトカゲってどこ見てるのかときいた)
 視線の先は分からないのですが、視力は大変良いそうで、人間より優れているそうです。

つまりトカゲは顔の両横に目があるんだから、あっちもこっちも観るわけね。
目の前のパン屑は見てないし興味もないわけね。
視力というとすごくて、さぞ透徹っぽいマナザシなんでしょうね?
人間は前しか見られないし、私なんか白内障が進行中だから、
視力とか眼差しなんていうものはもう滅茶苦茶だ。

みっちゃんに、私は左の目のまぶたが腫れちゃってたぶん手術よと言ったら、
全然気がつかなかったと慰めてくれたけれど、
あっちも老眼こっちも老眼、私たちは同い年の天然五里霧中、
真実とは別のところをけっこうノンキにさまよっているだけなのだ。
まーいいわよ。トカゲとは寿命がちがうんだし。


2021年4月29日木曜日

短編『春になったら」「子どもの物語にあらず」

深夜、ふと棚で見つけたビデオをみた。むかしのものだ。
「春になったら」9分と「子どもの物語にあらず」29分。
第二次チェチェン戦争で難民になった子どもを映している、
見るのに40分もかからない小品・・・。

「春になったら」は18歳のむすこティムールの作品。
「子どもの物語にあらず」はお母さんのザーラ・イマーエヴァの制作である。
ふたりはアムネスティ・インターナショナルの招きで2003年の秋、来日。
小さい、ちいさい子どもの目がみた、チェチェン崩壊のありさまである。

それは私が団地の細田さんからきくお話にそっくりだった。
細田さんは88才の喜寿をむかえたばかり。
いまこそ、もう一度、細田さんの記憶を私たちの頭にうつしたいと思う。
私たちは、なぜこんなにみんなで戦争を忘れてしまうのだろう。

細田さんは類まれな老人である。
きのうは生垣のなかに生えてきたシュロをどうにかしようとし、
おとといは藤棚の藤の枝を花が生きやすいように刈り取っていた。
藤の花が夢に出てきて俺を呼ぶんだよなーと山形なまりで言うけれど。

私には、細田さんにどうしても話してほしいことがある。
友だちみんなに細田さんから伝えておいてほしい話がある。
早くそういう機会をつくりたいと焦りながら、
トシをとるばかりの自分がほんとっにまったくなさけない!



のんびり志向

地震がこわくて、二階の本棚をきっちり整理。
この本棚は壁いっぱいの作り付けだから倒れてはこないはず。
そこに隙間なく本を詰め込んだので、
どんな本だって飛び出して来られないんじゃないか、
と思うけれど、どんなものでしょう。
一応そうやって備えて、あとはまあ、なりゆきまかせで、のんびりしたい。

のんびりってむずかしい。
私としては空をみて風をさがして庭にやってくる雀を待ったり。
うちに来る雀はキャッチボールのミットにおさまるボールみたいに、
生垣(隣家の)めがけて吹っ飛んできて、毎回すぽっとそこに着地。
粋でカッコつけてる様子がどことなくチープサイドふう。
チープサイドはロンドンは下町の雀であって、ドリトル先生の秘書格だ。
うちの?雀はみんなして、急降下し垣根のミットにおさまるとスグ向きをかえる。
私はドリトル先生じゃないから会話ができなくてホント残念だ。
見ればみんな終始びくびく、大きな鳥も中くらいの鳥もいないと判ると、
なんだかもうやっとこさ、
私が蒔いておくパン屑を食べるのだ。毎日のことなのに。

ペテルブルグにいた雀たちは、ガリガリにやせちゃっていて、
私の手からパンくずを受け取って食べた。
前代未聞の雀だと思って、遥にきいたら、
食のチャンスがないから、ペテルブルグじゃ雀はえり好みしないのよと言った。
そうかぁ、考えてみればここがスターリングラードという名前だったとき、
ドイツ軍の包囲下で、飢餓と戦い壊滅を防ぎ大勢が死んで・・・だから今だって、
なんとなく雀なんかにかまっていられない気風なのかも。

そういえば、うちの庭にやってくる日本の雀さん達も、
ひところの雀よりうらぶれて見える。
なぜだろう、春なのに今じゃ食のチャンスが少ないのかしら。



2021年4月28日水曜日

手塚治虫の不屈

だんだん時間がたくさんになってきました。
みなさん、おげんきですか?
私もどうやら、巨大サンドイッチづくりに慣れて、
まあ1時間半もあれば、ブラックコーヒーといっしょに、
たとえそれが6時だろうが、8時だろうが、午後のなん時でもかん時でも、
にこにことテーブルに用意するようになりました。
これってボケ防止だっていうけど、しかしホントかなー。

それがいまいち信じられないので(こんなの単調ですもんね) 
いつ買ったのやら全然わからない本を読む。
手塚治虫著「ぼくのマンガ人生」1997年。
手塚さんの死は1989年2月9日。
この岩波新書は、最後の著書、晩年の手塚さんの講演をまとめたものである。
小学校時代の友人と、妹さんと、苦境を引き受けた友人葛西健三氏の談話が、
読者に「読み甲斐」というものを与えている。

生きるということ、仕事、家族、実にわかりやすい手塚治虫の思想。

思い出せば。
手塚治虫が死んだ時、私は桜上水の家でくらしていました。
この新書版が発行された時、この本は同居の継母に届けられて、
当時は読む人もいなかったのでした。

私が多摩市の今の家に引越したのは、忘れもしない2001年9月11日。
ニューヨークで世界貿易センタービルが崩壊した日でした。
引っ越し荷物をほどいていなくて、実況中継を観そこなった私ってマヌケの見本。

おととい、
手持ちのビデオで「12・12・12」というドキュメンタリーを観た。
2012年12月12日、マディソンスクエアーガーデンで決行された、
大津波に襲われたニューヨーク市民救済のための、
ポール・マッカートニー以下、英米ロックミュージシャン参加の大イベント。
アメリカ、2001年から11年後の不屈である。

いま見るとこの津波は、なんと福島を襲撃した津波にソックリであることか。
2010年福島の津波と原発の爆発。2012年のニューヨーク市の津波による崩壊。
あのころ、これこそが地球の同時多発的な運命だとは、
人間にむけて大海原(地球)が示した応答そのものだとは、私は思わなかった。

21世紀となると、超弩級の天才手塚治虫はもういないけれど、
こんどこそ私は、彼がいたらどう言ったか、ということではなく、
自分としてはどう対処すべきかを、襟を正して考えたいと思う者だ。

生きるということ、仕事、家族、それから自分なりの不屈。



2021年4月16日金曜日

多事複雑いい加減な

午前中は鶴三会だった。
それを忘れてしまって、電話がかかって、すごく恥ずかしい。
このところ、私の毎日は痛みと折り合いをつけること、
それから巨大サンドイッチ と晩ご飯の用意。
3階まで階段をのぼっては降りる物干し・・・洗濯は、
洗濯機がやってくれるからいいけれど。

鶴三会に参加させてもらうようになって、約10年がすぎた。
最初は老人会だからみんなで年をとるのねと思い、
それから時がたって、いつの頃だったか秋風の吹く日、
老人会は人に死なれるのがつらいよという嘆きを、耳にした。
それは本当にそうだった・・・。
私にしたって、転んだとたんに同居の息子の世話のみの日々となる。

77才。まー痛いのは治るからいいさ。

自分もそうだし、みんなの健忘症が他人事じゃなく心配なので、
会長の細田さんに、いつ東京を襲うかもしれない大地震について質問する。
細田さん88才、私は正直者ですぐ怒り出すこの人が、もう大好き。
以前、細田さんが徹底的に多摩市の地震について調べたと知っているから、
この際、みんなして細田さんにガミガミガミガミ言われたほうが安心だと思う。
「巨大地震シュミレーション」を昨日読んだのだ、原節子だけじゃなくて。

今日あらためてハッキリさせたこと。
もしも直下型の巨大地震に襲われたら私たちは避難場所に行かない。
激震が治まり次第、鶴牧3丁目の私たちは、管理組合事務所に集合する。
そこに、老人会的には、小林さんや細田さんがいる。
加賀谷さんがいて、彼は私たちの全74所帯の安全確認を行うリーダーである。
これはうれしい。すごく嬉しい。加賀谷さんって丈夫で沈着剛腕な人だから。

さてそこで自分は。
食料を1週間分確保。水を多めに確保し、風呂桶を空っぽにしないこと。
戸棚の倒壊防止。用具でシッカリ止める。
逃げ込める空間(部屋よね)をひとつ、ぜったいに用意する。
これだけじゃないけど、これだけはやっておけと。
1週間たてば、助けがきますからと元公団職員の小林さんが言ってた。

もっと、なんだか言われたけれど、私たちの老いたる脳髄はがたがた、
できない、まにあわない、あれはあるけどこれはないと不安でいっぱい。
比較的ひろい場所にすんでいるのに、空き部屋の確保ひとつもむずかしい。
・・・・私なんかあれこれきいて、たださえ弱っている頭が
鶴三会のあとガックリくたびれてしまい、地盤が固い多摩市から、
夕方になって深大寺の奥深くの銭湯に行ってしまいました。
調布市は、多摩川のむこうだし遠いのに。



2021年4月15日木曜日

「原節子伝説」

夕方になって、駅まで歩いた。
雨が降るはずなのに、ときどき降らないこまった一日。
上着を用心して羽織ると汗をかき、
歩きながら脱いでたたんで、リュックサックにしまった。
図書館に予約の本をもらいにいくと、
「原節子伝説」という写真集が、利用者が家に持って帰ってもよい本棚にある。
開いてみれば輝くような本なのに、なんで捨てちゃうんだろう。
つい、その大型本を持って帰ろうと手にとる。

滝沢修先生・・・。
劇団民藝で私が最初にもらった役はチェーホフの「かもめ」の小間使い、
舞台裏でも、滝沢修の付き人で小間使いなのであった。
どんなに一生懸命だったか、思い出すといまでも緊張して、
思い出だって、いまでも苦しくて懐かしい。
劇団で一番えらい「御大」といわれている人の御付き・・・。
滝沢先生のお世話専門の人がいて、その人も「かもめ」に配役されていたから、
彼女をさしおいてなんで私がと、四六時中、気兼ねでならなかった。

「かもめ」は日本中のの大都市をまわった。
劇団民藝最盛期の、オールスターキャストの大公演なのだった。

人をだいじにすることは、どんなに不器用でも、どこか楽しいものだ。
慣れない私を付き人に配したのは、嫌がらせだったという噂もあって、
もしかしたらそれは本当なのかもしれなかった。
しかし、入団そこそこの私にはそんなことを本当ですかと聞く相手もいない。
公演のあいだ、ずっと滝沢先生は孤高の落ち着いた大人物だったし、
下っ端中の下っ端の私はただもう一生懸命。
小間ネズミのように働いて、不細工に失敗ばかりして、先生のお世話をした。

そのうち私は、ときどき滝沢修先生に質問したりするようになった。
そのながい旅で、別格官幣大社(べっかくかんぺいたいしゃ)ということばを
私は覚えたが、たしかに先生はそういう立場の人なんだと思うけれど、
でも、いくらなんでも淋しそうに見える時がある。
私は私で超絶最低身分の女中なんだから、知りあいも話す人もいない。
・・・・・。
「あのう、センセイは、たくさん映画や舞台に出演なさったんですよね」
老優は鏡に向かってメーキャップの最中、
とっさのことに孫に答えるような慣れない調子だ。
「うん、そうね、いろいろ・・・出たね」
「きれいな人がいっぱいいた中で、一番きれいだった女優さんはどなたですか?」
しばらく、記憶をたどるように考える姿をながめて、私がじーっと待っていると、
「やっぱり・・・原節子さんが、綺麗だった。」
「ええっほんと?! そうなんですか?」
ピンときていない小間使い(私)をもう相手にしないで、
楽屋鏡に映った滝沢先生は、
「原さんは、本当に綺麗な人だったなあ」と、ゆっくり、もう一度繰り返した。

「原節子伝説」のページをひらいてみると、よくわかることだ。
1947年/松竹「安城家の舞踏会」キネマ旬報ベストワン。
主演者の一人が滝沢修。

1947年というと、私なんかただの5才だったもーん。


                                                                                                                

2021年4月13日火曜日

さびしい一日

今朝は、
眠って起きて、それからまた眠ってサンドイッチを作る時間を待った。
仕事に行く息子の「おそ出」の日。
遅出の日には、11時までに学校(じゃなくて会社)に到着し、
それから夜の8時まで働く、そのあいだなんにも食べない。
だから朝食にとんでもなく大きなサンドイッチを作るのである。
この、用意というのが、なかなか。
時間調整がごたごたとなんだか器用にできなくて。

食パン2枚、べつべつにバターを塗っておく。

ゆでたニンジンだとか、水にさらした玉ねぎ、クレソン、キュウリ、
ロメインレタスの葉っぱ、ゆでた菜の花、セロリにキャベツ、庭の三つ葉、
などなど、などを大皿にならべ、
ハムやベーコンは炒めておいて。

テキトーな時がくると、いつがテキトーなのか判りにくいんだけど、
食パンをトースターで適度なバタパンにする。
辛子マヨネーズを塗った2枚のパンそれぞれに、上記の野菜および肉をおき、
みんなが落っこちないように、ドッカーンとサンドイッチにしてしまう。
ニンジンとか薄く切ったセロリが、無理だといわんばかりに転がり落ちるけど、
大皿の上の戦争なので、落伍者にはけっきょくまたパンのあいだに入っていただく。

おいしいかどうか疑問だと思う毎日・・・、もうずっと息子の朝食はこれだ。
かあさん、パンを焼き過ぎないでくれる? と、今朝はめずらしく言われた。
あんまり詰め込んであるので、大口を開けなければならないわけだけど、
焼き過ぎるとパンの角で口が切れちゃうんだって。
えっ、あ、うん、そりゃそうよねー。だろうなーと。
その時は笑わなかったけど、あとでおかしくなってふきだしちゃった。

ひとりになると、ほぼ午後2時までかかって、
私は大皿の残りを、少しづつ1枚のパンの上にのせ、
けっこうおいしいじゃないのと、思いながら食べる。
バターは塗らない。マヨネーズもなし、緑茶なんかで・・・・、
もう1日中ぼやーっとしている。

とにかく、転んだあとがまだ痛いので、ぼんやりしていようと思う。
ぼんやりがいい、動かないで1日すごせば・・・。

ぼんやりは、慣れないせいかもしれないが、さびしい。
そうすると私としては、玄関の本棚から見知らぬ童話をぬきだしてきて、
今日はそれが、宮川ひろ作の「おとうさんのおんぶ」だったけれど、
この本っていつ家にきたのだろう?とフシギなのが不思議。
それでも懐かしく読んだ。
なつかしいのもあたりまえ、宮川さんの童話っていつもなつかしいのだ。
よくよく見たら、図書館が放出した古本だった。
せっかくもらって家に持ってきたのに、忘れちゃったのかなあ、
若いころの伊勢英子さんの上手で可愛い挿し絵の本・・・。

雨の日だった。降るような、降らないような、灰色の誰もいない日。


 

2021年4月11日日曜日

春です、お元気ですか

春です、みなさんお元気ですか?
きのう、近くのスーパーマーケットまで歩いたら、
一本の桜の樹のみ満開、どこもかしこも葉桜になってしまい、
花が残っている傍に立ってありがとうと寂しくて。
いま、私の2階の部屋のガラス越しに見える桜の樹は、
小さい樹ですけれど、ゆっくりとまだ満開です。
それでも枝のてっぺんだけは、もはや葉桜なのでした。

先日、だいじな友人が、遠くから訪ねてきてくださって、
お迎えにでたら、つまずいて、転んでしまいました。
もちろん転んだのはこの私です。

ものすごい転びかたをしたので、
数人の職人さんが大規模修繕の片づけをしていてびっくり仰天、
道具を置いて総立ち、といっても4,5人でしたが。
運がよかったのは、その人たちが壁になって、
お客さんにひっくり返った私がそんなによく見えなかったことかなー。

「来ないで、自分で立つから!」
駆け寄ろうとする壁(職人さんたち)に向かって命令!?

なんとかよろよろ自分で立って、
見たら右の手のひらが破けて血がにじみ出てる。
大丈夫ですか大丈夫なのかとお客さんが心配するから、
平気へいき大丈夫なめてれば治る、平気よなんでもないわよとか言いまして、
ずうっと、夕方まで傷をなめて、ヘイキだったんですけれど。

それはともかく、おかしなことにずーっと舐めてた手のひらの傷が、
一番最初になおった。
数日後、私って犬みたいだとおもってそういうと、
ヒトはみんんな「ああ、猫みたいなんだ」とあいづちをうつのですね。
犬みたいなのねと言ってるのにっ。
犬は飼われてると傷を病院でなおすようになるのかしら。
それともみんなは猫しか飼ったことが無いのかな。

夕方が過ぎて、「転倒骨折とかくの痛み持ち頭蓋骨打撲救急車医者嫌い」
のような民間人に電話で相談。
元気だけど痛い、痛いけど骨には関係ない、と思うと相談。
いくら私でも、
だんだんすごく痛くなってきたのだし。

ひねった筋肉(右よこっ腹胸骨)全般に、
湿布をあてタオルで氷を包んで幹部に当てる。
あとはもう自然のなりゆきにまかせて我慢してれば治るという・・・、
人間味もあり納得のゆく助言にひたすら従って、ずーっと寝返りもうてずに。

これじゃ、桜を見損なう春になってと、ひとりでぼんやり。
でもおかげさまで治ってきましたよ、ちゃんと。


2021年3月20日土曜日

アイルトン・セナ


古いフィルムだ。アイルトン・セナの映画を観た。
素晴らしいドキュメンタリーだったなあという記憶がある。
何年ぶりだろうか。
F1のRacerの
事故死。

F1の会場は、世にも騒がしい「マシーン」の「レース」の、
そして熱狂した観客の「大歓声」が渦巻く桁外れな場所なのだろう。
闘うアイルトン・セナは、いつもどんな時も、カメラマンや新聞記者に、
それからファンたちに、「爆音」に囲まれていた。
レーサーだから、ライバルたちの敵意にも。

それだからなのか、
それだからこそ、なのか。
けたたましい世界のただなかで、
インタヴューされる彼は、おどろくほど単純におどろくほど正確に、
本音を語っている。
自動車業界のルール違反によって滅びて行くRacerの
生命の危険について。
その声は無力である。とどかない。
資本主義に滅ぼされる天才の物語り。

これはそれを攻撃し証明したかったヒトたちがつくった映画である。



2021年3月18日木曜日

卒業式あれこれ

卒業式 に行った。

私の子どもは(もう子どもじゃないけど)みんな3人とも、
なんとなく私に逆らえないというか、つねに気の毒なほど、ぐずぐずと、
このヒト卒業式にどうしても出たいんだな、というほどの?理解に至る。
当人にはそれがひどく迷惑でも、なんかこう母親が気の毒になっちゃって、
気の毒なのはイヤがって当たり前のそっちなのに、各自、自分をまげるのだ。

頭をチリチリ災難パーマにして、ま、いいかと仙川でハンバーグなんかたべ、
6時頃すっかり立ち直って家に帰ると、卒業式にくる? という質問。
とくに「あした卒業式」の息子がそういうヒトなのよねー。
彼が結婚したら、私は「おひとりさまの老後」とか、そういう道を選択、
そうしないとホント気の毒なことになるのだろう、おそらくみんなが・・・。

とか思って死ぬユメなんかみて眠って起きたら、今朝、本が郵便で届いていた。
朝刊の下に横たわっていたその本ときたら、
「在宅ひとり死のススメ」 上野千鶴子著 
ただもう、ドッカーンとビックリ。
・・・ ・・・あんまりグッドタイミングだったので。

おちつけば禍、いえ、かの本は、玄米用電気釜のカタログなんかがいっしょ。
「おひとりさまの老後」についての、電話なが話しをすぐ思い出し、
なーんだ、杖代さんなの~と。
彼女の走り書きによると、夫婦ふたりで同じ新書を買ってしまい、キレイな方を、
つまり新品同様の「在宅ひとり死のすすめ」を差し上げますって。

はははは  冗談じゃないよー。
卒業式のなにをかくつもりだったのか、わすれちゃったじゃないの。



2021年3月16日火曜日

パーマネント

明日は息子の卒業式で、
いまさらそんなところに見物がてら出かけたら迷惑にきまっているから、
あきらめてしまった。

迷惑を承知しながら、
以前、私はずーっと息子たちのライブ活動を見物していた。
我が国では、世代を気にせず若い人と意見交換をするなんて夢のまたユメだ。
でも私はどうしても縁のない若者と「討論」がしたかった!
思いもよらない意見を聴いてみたかった!
政治家じゃないけど、それは私の一生のテーマだったのだ。
だから20年以上もライブハウスに通い、敵意と迷惑そうな視線に耐え、
少なくともじぶんより40はトシ下の人たちのあいだに立って、
わかりもしない彼らのバクダンみたいなオンガクを聴いたのだ。
あやうく難聴になるところだった!
ウッカリばかでかい音をたてるスピーカーのまん前に立ったりしたからだ。

こんども、私は、どうしても卒業式が見たかった!
息子の通う職業専門校の同級生たちを、その何人かを見たいワケである。
20年下のクラスメイトと20年上の息子が毎日ベンキョー。
本人にとってはとんでもない苦しみだったにちがいないが、
学校(!)から帰って、今日はどんなことがあったの?と彼にきくと、
苦しいような、おかしいような、みょうにヘンテコリンな話をして、
もう私はゲラゲラ笑っちゃって、
あったこともないのに贔屓(ひいき)の子が3,4人できちゃって、
なんとかしてその実物がみたいわけである、卒業式をやるなら。
息子には毎日あってるから、卒業証書を受け取るところは見なくていい、
でもクラスメイトの、傑作中の傑作ちゃんをなんとかして見たいのである。

息子にわるいから、そういうことはキッパリあきらめたけれど、
前から予約していた美容室に、解約したけど解約をさらに解約し、
これが最後かもしれないと、以前からのざんばらチリチリ髪にしてもらった。
遥と同い年の美容師の斉藤さんは、いまは仙川の美容院にいる。
むなしい試み。でもま、いいか。
斉藤さんにも会いたいし。

できた! この頭だと、朝、手でひっかきまわせばいいし、
ドライヤーがないから、ちょうどいい。


2021年3月15日月曜日

本棚で見つけた詩


本棚から、偶然、手に触った小冊子を抜きだす・・・。
1997年の石川先生の詩集だった。
おぼえている人がいるかしら?
先生はお元気だろうか? 
痩身100歳まで、みたいな感じの方でしたが。
調布の地下の喫茶店をかしてもらって、先生の詩を脚色し、
朗読を劇団民藝の先輩にお願いしたっけ。
黒田卿子さんは、厳しくておっかない人だった。


詩集のあとがきの最初の1行にこうある。
いまはひょっとしたら「戦前」かもしれません。
38ページ
童話のようにながい一つの歌、それをここに置こう。



       一〇  一つの歌   石川逸子

     ここに
     1人の少年の篝火(かがりび)となった
     歌があります

     「埴生の宿」
     その歌の調べによって
     原爆孤児となった少年は 前へ進むことができました
  
     一九四五年夏
     先生に引率され
     広島県双三郡木村・大願寺に
     集団疎開していた 10歳の 島本幸昭
     国民学校四年生でした。

     伝わってきた広島全滅の知らせ
     さらに日本降伏のラジオ放送から
     十数日
     十歳の少年は ひたすら父母の迎えを待っていました
     だが 待てど待てど
     父 母 五つの妹
     その懐かしい顔は
     つい現れることはなかった・・・・・

      「大願寺の児らが手元に たらちね はらからより届きし
      文に、あるは狂喜し、あるは涙するも、それぞれが帰り                                       
      行く先、つまびらかになりぬ、されど、日夜待ちしが、一
      葉の文とて手になし得ぬ児、一人のみあり、ようやく憂色
      の濃さ増し、今はこれまでとて師、その児に申し渡しぬ。
      いつしか長月にも入りぬれば、彼岸花、そこかしこに燃え
      いたり」

     四カ月後 ようやく引き取りに来てくれた
     義理の叔母のところに 二年間
     六年生の秋には
     「戦災孤児五日市育成所」へ
     
     血を分けた叔父は戦死 わが子一人抱えて
     厳しい戦後を 生きていかねばならない叔母の
     やむない決断だったのです

     学校での最後の一日は
     一泊の芋掘り旅行
     夕食がすみ 賑やかに演芸会が始まる
     明日からの別れを誰にも告げていない
     十二歳の少年の耳に
     響いてきた 胸を衝く 少女たちの二重奏
 
     のちに「はにゅうの宿」と知った
     苦しい旅立ちへのはなむけに思え
     その旋律に 大きな安らぎと慰めを 与えられた

     それから いきなり投げ込まれた
     「戦災児五日市育成所」 の暮らし
     ひえきった少年の心に
     翌年春 暖かな水が注がれます
     通い出した申請中学校の音楽の時間に再び聞いた
     「はにゅうの宿」でした。

      「メロディーや詞を餓えたように貪り、感情の高ぶり押
      さえかねて、他人には判らない喜びに浸っているその時、
      先生から独唱する様に促された。彼女の弾くピアノ伴奏に
      合わせて一音一句を愛しみ陶酔して歌い終えると、一瞬、
      教室が静まりかえってしまい、怪訝な気持ちで先生の方を
      窺うと、彼女は自分の目頭を押さえてしばし無言の後、
      「とても幸せそうに歌っていたわ」と、いう言葉を聞いた
      私は、泪が自分にもこみ上げてくるのを覚えた」

    やがて 脱走 
    里子
    農家の作男として働き 自活しながらの進学
    ついに中学の音楽教師へ

    一つの歌が
    崩れかかる心を励まし
    生涯の篝火として
    少年を守りました

    その島本幸昭が
    両親と妹の終焉の地
    太田川をさかのぼった鈴張村・長覚寺を訪れ
    妹の最後の様子を知ったのは
    一九七四年九月
   
     「妹さんは、赤い模様のゆかたを来て、うつぶせになって
     亡くなっておられたそうです。
     5歳のかわいい女の子で、お父さん、お母さんは先に亡く
     なられました」

    本堂に置かれたオルガンの蓋を開け
    二十九歳の島本幸昭は 鎮魂の曲を奏でました。

    あどけない妹よ
    すがりつき甘えたい
    父母が先に息絶えて
    どんなに心細く 苦しい臨終を迎えたのか

    人類初の核兵器で
    焼け焦げた 父よ 母よ
    その手に 同じく焼け焦げた幼子を抱くこともかなわず
    どんな思いで
    あの天井 あの柱 あの御仏を眺めたのか
    あの川のせせらぎを聞いたのか

    清らかな オルガンの 調べよ
    天に昇り
    数知れぬ あどけない女の子たちの 
    苦悶の魂を静めよ


石川先生、あのころは、もしかしたらまた戦争になるのかもしれないと、
あなたの反戦の詩を、たびたび朗読したものでした。
1997年なんかというと・・・、
この国で原子炉が爆発するなんて誰がそんなことを
考えたでしょうか。

福島の3・11の日から10年。得体のしれないコロナ禍に振り回されて、
原子炉の爆発どころではないといわんばかりのふるさと日本です。