2021年5月27日木曜日

人格?の付録

ある読者の方から、
なぜ人格「1」の文章が急展開して人格「2」の文章になるのかと、質問された。
気ままに自分の考えを追うという点で、私のブログは自己中心的なのだろう。
読む人の都合というか視点をつい無視してしまう。
もうなんでもかんでも判ってもらえる、と思っちゃうわけなのね。

それでもやっぱり私は、自分があのころなんだってあんなに
頭がからっぽだったのかを思いだしたい。
25才にもなって、なぜあんなに子どもっぽかったのか。
なぜあれほど陽気な振りをしていたのか。
なぜあんなにビクビクしていたのか。
北林さんと、私の父とそれから継母を、
とにかく尊敬せざるを得なかったからかしら。
この3人は、3人とも、今様に言うならば強烈なインテリだった。
北林さんは名優だし、劇団のおえらがた。
カンヌ映画祭で受賞した時マルチェロ・マストロヤンニが隣にいてと話をきいたけど、
なんだかグニャグニャしたしょうがない男でとにがい顔だった、はははは。
継母は岩波書店のレジェンド(いまや伝説のひとだと若い編集者が言ってる)。
女性はじめての編集部課長職。 それも初代社長岩波茂雄氏の人選である。
編集部長が吉野源三郎さんだった。
父は物書きで結核で糖尿病。選集と全集を青木書店と大月書店から出した。
戦後のレッドパージで東京新聞をクビになってからの仕事だった。

この3角形のど真ん中にいたら、ヒトはどうなる?
おまけに兄弟がいなくて一人っ子だったら?
ノイローゼになるしか、生きのびる可能性なんかなさそうだ。
しかも私には麻雀クラブだとか露天商だとかを男と渡り歩く実母がいたのである。
三益愛子の母物映画を観ても、フーテンの寅なんかを見ても、
苦しくてどこが笑えるのかサッパリわからんという子ども・・・。

でも子どもというものには可塑性がある。
子どもってどんなにねじ曲げられても、なぜかクルッと自分にもどるのだ。
7才まで大事にしてくれる人がついていればの話だが。
なにはともあれ、大笑いするしか差す手がなかったので、私はおかしがって笑った。
私の父は理論家になろうと経済学者になろうとユーモラスな「とうさん」だった。
私の母は、どんな困窮貧民になろうと絶対にふざけてみせる妙な不良女だった。
おかげさまで、ということだろう、きっとね。

私はこのぐちゃぐちゃの中で20才になり、25才になったのである。
今だと子どもは18才でおとなだとか言われる。
成人なんだぞ、だからなにかでおまえが死ぬとしたら、
それは自分のせいなんだぞ、ということなんだろう。
ある日、私の父は中学生の私に、おまえさんのほうが利口じゃないか、
ママ(編集者の)よりもと言った。
継母を相手に、なんでそう苦しむんだと私に聞いたのだ?!
「むりだよーとうさん!」
そういう、ひらがなで苦しむしかない女の子が私だ。
戦争時代を牢屋で拷問されながら生き延びた、生計の担い手である女性編集者に、
継母そのものみたいなひとに、あのさあ、中学生の私がどうやって勝てるのよ?

笑いごとではなかった。でも私は笑う女の子だった。
なぜか? 親からもらった性質の中で、そのころの私になんとか残されたのが、
ユーモア感覚だけだったからだ。
私は、ははは、ははは、あははあああっと笑う子だった。
(芝居の開幕と同時に、ぱぁーっと笑う役を宇野先生がつけたぐらいだった)
笑う声があんまり幸せそうに響くので、隣家の慶応医学部一番の女の子が、
本当に亜子ちゃんのあれだけはうらやましかった、といった。

私はひっくり返って笑う子だったけれど、自分を肯定していたわけじゃない。
ただの少女にすぎない生活に流されて、いつも岩波少年文庫の世界に逃げこんだ。
しかし、それが「逃げ」にすぎないことを心の奥底ではよく知っていたのだ。

北林さんに会った当時、私には「笑う」というなけなしの武器しか、なかった。
たぶん、演劇という仕事には、こういう少女が必要なのだろう。
悲劇性を内面にかかえて、しかし、この悲劇の本質はどういうことなのか、
それをどこどこまでも考えるという文学性とか、楽天主義とかが。

ジョーダンじゃないわよねー。