2017年9月30日土曜日

女子会(鶴牧3)



たこ焼き!!に、ゴボウの和えもの、インゲンの胡麻よごし、林檎に梨、梅酒の梅、
切り干し大根、タマネギの酢漬け、和菓子にスナック菓子、健康茶にコーヒーに。
茗荷の酢の物もあって、あとはなんだったかしら。チョコレートもあった。

ずるずる行う、と決めて無理のないところ二ヶ月に一回の集まりになったが、
集会所における女子会のテーブルは、今回もちゃーんと美味満載 である。
白いトルコ桔梗と吾亦紅まで、強化セロファンの花瓶に活けてある。

思いがけなくもそれぞれの律儀さが楽しさをつくる。なんだか自慢、ホッとする。
それにしても、お料理の上手な人 がいるもんだと思う。
七,八人の集まり。おいしいことはホントいいことよねっ。



2017年9月29日金曜日

泥沼みたいな眠気


風に枝が踊っている、メタセコイヤも柿の木も桜だって。
でも、そんなもん見ても眠たくてねむたくてどうにもならない。
もうだめだ、寝てしまおう、そう決心するが、16時に眠ってどうする。眠れない。

きょうは晴天なのにムチャクチャ。
ふたりの人をお引き合わせするのに、、待ち合わせの時刻をまちがえた。
一方のT氏は駅から歩き、もう一方のT氏はバスで私の家に到着。

あーあ。バーカ 河馬 チンドン屋 みたいな自分が痛い。
でもね、お手上げといっても、両方のお手を上に上げる気力もないのよ。
と、この口調は、亡き長 新太さんの真似なのだ。。


2017年9月28日木曜日

雨の夜中


2階の寝台はぴったりと2階の窓に沿って置いてある
窓をあけたまま横になると、虫たちの大合唱がきこえる
ききながら、いつのまにか眠ってしまう。

目をさますと辺りが雨でけむり、大気はシーンとしている
この角度からは屋根と空がみえるばかりだ。
煙る空間のむこうから、救急車のサイレンが近づいて、また遠くなる。
 
だれも見ていない真夜中ならば
雨はエンピツみたいな流れをつくり、シタジキみたいに光るのかしら
うちの団地の石畳は古くて、もはや不定形なデコボコだから

そんな遊びが地面にあれば雨のしあわせ
べつにジャングルにいるわけじゃなくても、水の響きは大きく、
どこやらの地平線めざして、雨は遠くへさらに遠くへ。



2017年9月26日火曜日

彼方


階段の踊り場に、ありあわせの額に入れた絵がかざってある。
幼稚園の、教室にいられない子が、職員室の机で描いた絵だ。
覚えているが、その日は魚類図鑑が気に入って、色画用紙に3枚も4枚も、
図鑑のなかの魚を、いろいろ、するすると描いた。
あんまり素敵なので、むりな気がしたけれど、つい、たのんだ。
「わるいけど、この絵、私に一枚もらえないかしら、だめ?」
カナタは、そういう名前なんだけど、しばらく思案してから、
うん、いいよ、といった。どれがいいの?
あの時、なにを考えてまよったのだろうかとよく思う。
落ち着いて、考え深いあの男の子は。

手をさしだすと、素直に手をつなぐ。
ふたりで、あてもなく教室から教室へ、居場所がないとホールへ。
ホールではたったひとり、広い場所にぶちまけたおもちゃで遊んでいる。
遊んでいる彼をながめて、じっと待つばかりだった。
時間がくるまで。あるいは彼が飽きるまで。私には彼方と話す能力がなくて。

色画用紙の抹茶色のみどりに、5才児の曲がっておおきい平仮名、かなた。
ちぎれたような署名がなつかしい。
魚のほうは、魚類図鑑かららくらく写されて、俳画のように渋いのに。



2017年9月25日月曜日

故郷の村を


 こうしてわたしはふたたび、故郷の村を出たときのように、風がさししめす道をたどって
あたらしい生活に歩みだした。
                  ローズマリー・サトクリフ

 私の子どもで、こう言えるような人生を選択したのは、遥だった。
はるか彼方に行く人になるようにと思って、つけた名前だ。
 彼女は、モスクワでロシア語を習い、ペテルブルグに行ってロシア語にみがきをかけ、
オランダに渡り、ロッテルダムに住んで、そこがヨーロッパだからなのか、ベルギーに、
ドイツに、スペインに、フランスに、イタリアに、それからどこを歩いたのだろう。
 私はなんにも知らないけれど、京王電車にいっしょに乗ったりすると、彼女の立ち方が
オランダの人のようだと感じる。席はゆずるもの、という若い人の自然さ。




2017年9月24日日曜日

渋谷、セヴンスフロアーに行く


渋谷は 禍々しい。
まがまがしいという言葉に「凶」という漢字がつい浮かぶ。
凶々しく汚い街路、宣伝に煽られた禍々しい大群衆。

スマートフォンを買えというマイクごしの絶叫。
新曲売り出し巨大トラックの、辺りかまわぬ下等宣伝と空間占拠。
ビルの階段から5,6人で降りてくる不良の得意満面。

地下には今もあの本屋が残っているだろうか。
私はブンカムラしか、落ち着く場所を思いつけない。
 ライブの開始時間にはまだ1時間半もあった。

東急百貨店は美しいが、ぱらぱらとしか人はいない。
買おうと考えたこともない香水やバッグやドレスの回廊の突き当りが文化村だ。
しかしここも、ベルギーの怪奇絵画展かなにかの催しで、どっさりの行列。

・・・地下で、「笑う子規」という、とぼけた本を買っちゃって。
一句につき1頁をつかってある。
俳句。南 伸坊さんの漫画つき。天野祐吉さんの解説。

春風のとり乱したる弥生 哉
ぼんやりとほんわりと場違いの世界が手のひらにのっかる。
途方にくれたまま1時間15分がたった。

さて、セブンスフロアーは連れ込みホテル坂をあがって、セブンイレブンの上にある。
ホテル街のけばい建物に、映画館が喰いこみ。ライブハウスがまぎれ込み。
金子信雄か安倍徹?の映画特集をやっていてびっくり。

沖縄から今朝がた駆けつけたという少女ふたりのラップ?をきく。
自尊心のないただの「頽廃」だと思う。海水浴の思い出とかだって。
渋谷あたりの若者と表現がおなじなら、沖縄から彼女らを招く理由はない。

戦死した魂も敗北続きの基地反対闘争も、不滅の沖縄の王冠である。
皮肉にもそういうことに気がついてしまう。ほかならぬ沖縄にうまれたことにも、
安倍政権下の日本で投げやりになっていることにも、まるっきり関わらないラップってありか。



2017年9月23日土曜日

また雨だ


午前9時になったらへたばってしまった。

5時頃から、カレーライスの用意をした。簡単なスープも作る。
朝食の用意をしながら洗濯物を乾かしにコインランドリーにいく気だ。
毛布その他をこの際乾かしてしまいたい。

朝刊を手にもって、師岡カリーマさんの小コラムだけ、ちょっと読む。
世の中には賢い人がいるものだとホントうらやましい。
東京新聞の「本音のコラム」が好きである。
記者が書く記事だと、げっそりするしうんざりするのは、なぜだろう。
報道の根本を本音ばかりに変えたら、新聞読むのがこんなにイヤにならないかも。
風呂桶を洗い、顔も洗い、カレーがほぼ出来て、コインランドリーへ。

痩せほそった、黒縁メガネの、苦虫を噛み潰したような少年が、ベンチにいる。
中学3年生ぐらいだろうか。朝の7時半から、手にスマホだけ持って。
きれいな男の子だと思う。目が合うと彼は私をスゴイ眼で睨む。
見知らぬ私のことまで、こんなに憎むなんて。

夏休みが終わると子どもの自殺が増える、と9月始めの新聞で読んだ。
学校はどうして恥ずかしくないのだろう?
いい大人が、暮らせるだけの給料を受け取りながら、学校をそんな場所にするなんて?



2017年9月22日金曜日

サトクリフより



「おれは」オウェインが口をひらいた。「おれにもなにか創れたらな、と思っていたんです。
道具のことじゃありません。おれは手先が器用だから、農場の道具なら作ったり直したり
できます。そうではなくって、なにか命を持つもののことです。もしそういうものができるなら、
おれの首にはまった、この奴隷の首輪も、それほどきつく感じなくてすむかもしれない。」

                               ローズマリー・サトクリフ


2017年9月20日水曜日

多摩市役所で


市民税と都民税をどうするかという手紙がきて、
市役所に助けてもらいに行く。
少額だからと確定申告もしなかった。
苦手だし、憂鬱だし、放ってあったのである。

怠惰を克服、弱気を圧殺、関係書類と自分をひきずって、
私は、やっと二階22番受付の椅子に腰かける。
今日こそ義務をはたしたい。

すこし話のメハナがついてきた時、右を見た。

さっき老夫婦がいた場所に、いまは小さいおばあさんがいる。
おばあさんは、私を見て、いたいたしく微笑んだ。
おばあさんも困っているし、私というおばあさんもこまっている。
ねえ? と彼女は、侘しい小声で、椅子ごしにいう。
こういうところに来ると、わからないからこわくて。
心配でどきどきするんですよ、もうね・・・・。

薄い長袖のブラウス。急に寒くなった日だけれど薄着なのだ。
さむそう。

華奢な喉に白い包帯が見える。
心臓の手術をしたので、と包帯にそっとさわって、
やっと今日は来たんですけど。ほら、どきどきすると手が冷たくなっちゃうんですよ。

こわいのは私もおなじ。手が冷たいのも。

手は、本当にひえびえと冷たい。
少しのあいだ、私のやっぱり冷えた手で、おばあさんの手をにぎる。
 彼女よりもっと書類というものがわからない自分がいまいましい。
手伝えないし、自分こそ、まだごたごたしている。
この人は利口そうだから、今まで各種手続きも、ひとりで出来ていたのだろう。
それなのに、こういう日がきた、悲しくなって涙ぐんでいる。
「なんでこんなに難しいんでしょう、・・・もう、・・・長くかかって」

このせっぱつまった非難のささやきが、公務員にとどくことはない。
涙ぐんでいるおばあさんをしりめに、お昼だからお弁当を食べているのだ。、

それでもやっとおばあさんの担当の人が戻ってきてくれる、手続きを再開する。
おばあさんは、影のように立ちあがり、その人についてどこかへ行ってしまった。

喉に包帯。疲労と苦しさでいっぱい。・・・耳はきこえるのにあんな大声の説明。

私は、戻ってきた自分の担当者に、謝った。
あなたのお昼ご飯の時間にくいこんでしまって、本当にごめんなさい。
もう私ときたらマイナンバーの手続きでおそくなり、市民票の発行で手間取り、
市民課にきてからだって、手持ちの書類はごたごた、ごく簡単な名称がとっさに出てこない。
 あーあ、もう。
私みたいな者は、こういう大変な場所に、のこのこ出掛けて来てはいけないのだ。


土台が失礼なんだから私は謝って当然だ。
けれど、瀕死のおばあさんには、注意ぶかくしてもらいたい。






酒場


むかしのクラスメイトに逢う。
新宿駅。

昼間から酒場をさがす。飲み助で、悠然としている。
昼間からやっている酒場ってないものだと思うけれど、ビルの上のほうにあるんだと言う。
見上げれば、なるほどたくさんありそう。
何年ぶりかしら。
狭いようなところはもうイヤで、ちょっとおいしくて、安い所がいいと、笑顔である。
決定はみんな飲み助がする、ゆずらない。考えなくていいからラクだ。

酒場、酒場、ひるまの。
あっちへゆっくり、向こうへのんびり歩いた。
なぜって、まさかやっぱり、12時ごろから開いている酒場なんて少ないわけで。

せっかちで、むかし走っているほうが多かった私は、
そうだ、あらためて新宿の街を見てたのしめばいいじゃないのと、
「せっかち」を胸郭からひそかにはずし、
ぽか、ぽかと、ばからしく、、ゆっくりと、歩く。

ふうん、トシをとって、私はいま、こういう人なんだ。

2017年9月18日月曜日

電話


橋本さんと電話でお話をした。
今から40年ぐらい前に、書く仕事を与えて下さった編集者である。
私はその時、幼年童話を生まれて初めてひとつ書いたばかりだった。
400字×45枚。

ルポルタージュって、おとなの本ですよね?と確かめた。
そうです、と橋本さんは言った。
大人の本って何枚書くものなんですか? と聞くと、
まあ、400字だと450枚ぐらい、ですか。
400字で?! そんなあ!

私は度胆をぬかれて、できませんと言った。
私、45枚しか書いたことがない人間ですから。
それだってマグレだし。
いやいやいや、と橋本さんはおだやかに笑うばかりで、
書ける人かどうかは、短いものを読んでも判断がつくものです、と言った。

小さい時から知っている人である。
父の知り合い。目上なのに、子どものころからでついタメ口。
たぶん有名な編集者。中央公論から移って、現代史出版会の編集長だって。
げんだいしってなんだか、読むだけでも大変そう。
私はがんばって書いたけど、3年もかかってしまった。

出版から35年の時間が流れて、橋本さんは90才になられた。
私だって75才になりそうだ。
今でも、私、質問する人、橋本さん、答える人。
向こうは大インテリなんだし、だから、その関係は変化しない。
つい、質問してしまう。

「私の友人が、たとえ自分の国が崩壊しても戦争はしない、と考えないと、
戦争は世界からなくならない、と云いましたけど、
橋本さんも、同じお考えですか」
電話の向こうから、重みのある究極の返答がもどってくる。
質問の意味を受け止める少しだけの間があって、橋本さんは私にこう答えた。

「ええ、そうです、ね。」




2017年9月17日日曜日

台風だから


夏から持ち越したままの憂鬱のタネを、スッキリ清算したい。
努力の甲斐なく、持ちこして今日に至った自分の数々の欠点が、
毎日ことさら、うっとおしい。鬱病みたいだ。

だからクヨクヨ、くよくよ、なんでもかんでも先送りにする。
本のなかに逃げ込み、一日を浪費し、ふとわれらが現実の世界にもどれば、
後悔と悩みが、ふたたび私の首根っこをつかまえる。

これはダメだ。あんたは(私のことだけど)なんとかしなきゃいけない。
年をとればなおさらだ、 自尊心や誇りや希望や意志の影がうすいと、
生きてても影になっちゃう。。


2017年9月13日水曜日

ブログ再開

 
ブログをばったり辞めてしまって、病気なのか死んだのか、心配したと言われる。
短文でもと思ったけれど、昨年は余裕がなく、書くどころではなかった。

ブログ撤退のあいだに、体重が13キロも減ってしまって、いまや私は貧困飢餓同盟の
会員みたいだ。趣味がない人間なので、文章を書かなくなったら人格も干からびて、
面白くもないオバーサンが電車に乗っているという感じかしら。

自分は不機嫌に見えても、ヒトのことはキレイに見えて、なんていいんだろうと見知らぬ
乗客に私はすごく好意的。不思議である。あんまりそういう傾向なので、
もうじき死ぬから人間がキレイに見えるのかしら、などと不安に思ったことだった。

13キロも体重を失うと、体が軽くなる。
風が吹くと、コタえるから愉快。
そんなことは、今まで全然なかった。
おかしい。おかしいような存在を、楽しみたいと思う。
痩せた、ということに慣れたのだ。