2012年10月29日月曜日

鶴三会の俳句


団地老人会の句会! 十二人参加。よい人数ではないか。
みんながそれぞれ三句つくって、俳句を長くやっていらっしゃる三國さんにまとめていただくので
ある。あとで気がついたことであるが、この方こそ私たちにぴったりのお人柄。
上品にして温かく穏やか。
「うーん…、…、いいですなあ」と、そんなふうにおっしゃって、私たち初心者に少しばかり俳句と
いうものを教えることをふくめ、作句者に報いて二時間がたつのである。
作句した十一人のほうは、苦しかったけどもう創っちゃったんだしと、いわれのない安心感のも
と、みんな講評を待って苦労を知らず。それは楽しい。
感性の並ならず豊かな方も、その道の素養がおありの方もいらっしゃるけれど、圧倒的多数を
占めるのがド素人。とても居心地のいい俳句の会だと思う。

それで今回であるが、私の一番のお気に入りは、欠席した方が夫人に託された一句。

    花見ても 句が出ず心が 曼珠沙華
        
「あなた、こんなのお出しになるんですか? およしなさいよ!」
奥様がこう言って極力とめられたそうだけれど、「欠席が申し訳ないし出したい」とおっしゃったとか。なんて善い方なのでしょう。
……俳句を作ろうなんて思うと、曼珠沙華を見ようが秋風が吹こうが、グッとつまってしまってお
手上げだ、なにかに感ずる心がこの自分にだってあるはずなのに…。
私なんかが、そうですよねぇと深くうなづく一句である。だけど、心が曼珠沙華って。いくらなんで
もそんなのだめでしょ?! と思うけどしかし、まんじゅしゃげ…という音には、心がという主語が
つくと、進退窮まって丸まってしまうと連想しちゃう…魔法…があるんだわよねー。

    足音に 消える虫の音 月明かり

この句も好き。八十才になりそうな細田さんの句である。
…無数の虫の鳴く声が聞こえる。なかでもひときわ響く鈴のような鳴き声に惹かれて、そっと近
寄ると、鳴き声は不意にやんでしまう。そういう時は月の明るさがひときわ感じられる…、
そういう句ですよね、と三國さんが。
細田さんは、私たちの団地の管理組合で植栽を引き受けてくださって長い。いつも地下足袋、作
業着という印象。月の夜にそーっと生垣にしのびよる姿が見えるようである。

三國さんの講評で思い出すとおかしいのは、
 
    枯尾花 熱燗想う 肌寒さ

「枯尾花」は冬の季語ですって。「熱燗」も冬の季語なんですって。それでもって「肌寒さ」は秋の
季語なんだそう。だとするとこの句で季語じゃないのは「想う」だけ!!
この句について三國さんがポツリと「…季語のデパート」とおっしゃると、平野さんは「鶴三会」を
作った人で今年は管理組合理事長さんなのだけれど、「そおかあ」と思いがけなくニコニコ顔だ。
「季語のデパート」ってケッサクだとおかしがっているみんなに、「オレは呑ん兵衛だからこういう
句になるんだよ、どうしても」と。
そうよねえ、本当に一杯飲みたくなる句よねえ。

そんなこんなで、句会は、よかったなあ、この団地に住むことができて、と思う日なのである。



2012年10月26日金曜日

佐渡へ  書斎


「ご覧になりますか」
きいていただいて宮司さんの書斎を拝見することがかなう。
人の故郷というもの。魂の原風景を見る感激。
当主正人氏が引き継いだ書きもの調べものの部屋である。

大きな和机の上にも部屋のどこにも、種々文房具と印刷物やら資料やらが置かれ、
りっぱな床の間も紙類の置き場にされ、しかし流麗な文字の短歌の額が掛けられてあり、
本棚の中は斉藤茂吉全集とか、文学博士折口信夫の本、佐渡が島関係の書籍・・・。
それに欄間の上の、洋風の額に入った暗い油絵のなんという存在感。
淑人さん達の亡くなった「お母さん」が描いた「お父さん」が、
白絣であったろうか、ふだん着を着崩したすがたで横に痩躯をのばしている。
見れば壮年の、まことに凄みのある芥川龍之介のような風貌の人である。
「この絵はほんとうにおじいちゃんに似ている、そっくりだよね」
家族の人たち、お嫁さんのみッちゃんや孫の智人くんまでが口々に話してくれるけれど、
しかし「そっくり」の、魂までも油絵に写し取った、この腕前はなんなのだろう。

    りんご二つ画ける油絵を壁にかけ さびさびとして人は居ませり

私は改めて考える、・・・みっちゃんの配偶者である淑人さんのことを。
父親が、妻である人をこんなふうにうたった宮司にして歌人だったのであり、
女子美術大学の前身である学校に行き、画家の道をめざしたかったろう「お母さん」は、
年譜によれば昭和19年台湾で連れた子のいる本間文人氏と結婚。
淑人さんを生み、敗戦後、佐渡に帰還。12年後に他界。
母親はというと、こんなにもまざまざと夫の姿を画布に残した人だったのであり、
・・・淑人さんは、それでああいうようなこういうような人になったのだなあ、と思うのである。

昭和20年。敗戦・国家神道廃止、「お父さん」は39歳。失職。22年ふたたび奉職。
戦後の貧しく苦しい暮らし。
文人(ふみと)歌集に残された魂とおもかげは強烈で、
「無法者」というくくりの短歌などは(護国神社支持者に与ふ)という但し書きがつき、

    明治記念堂を修復すると募りたる 浄財は勝手に他に流用す
    明治記念堂の財を掠めて建てしといふ 護国神社の祭終りぬ

フクシマを修復すると募りたる 浄財は勝手に他に流用す・・・現在ならこういうことか。
「侵入者」というくくりでは、軍国主義者に神社を犯されまいという裂帛の気合。

    ばりばりと柵破る音間を置きて 聞こへ来るなり夜の一時頃
    柵破る音にすばやく走り出で 声あげて追へり無法者らを    
    英霊という名を嵩に境内に、侵入(いり)こまんとする輩を憎む
    立入禁止の立札はいづこしらじらと 明けゆく境内に怒りこみあぐ
    境内に無法に侵入(いり)こみ荒くれし 奴らに寸土も許してなるか

この熊野神社にめずらしく樹木が多いのは、右翼の侵略に抗してお父さんが次々植えたから。
淑人さんは、「こどものときヤクザとなぐりあう親父を見たけど怖かった」と。   
書斎を拝見したことも、御一緒させていただいたお墓参りも、そして神社参拝の儀式も、
私なんかよく考えたことも無い世界、
日本のながく続いた平和が、こういう父祖の魂の在り様にも支えられてあったのかと、
落ち葉のカサカサ乾いた音で鳴る土を踏みしめての、魅入られるような体験だった。
    
    いはけなき吾にしあれど心やすし 祖母のもとにはぐくまる思へば

昭和22年「吾娘を養女に」と嘆きの中で詠んだお父さんは、後になって、
二男淑人さんの嫁であるみっちゃんの出産をこう歌った。

    さやかとはよき名なるかもさつき空 微風にそよぐ若葉と云わむ
    まごさやかの誕生祝の記念にと 日光ヒバの苗を植えたり

私がみっちゃんの家族にくっついて佐渡の本間家にうかがった明るい日、
庭の奥のほうの松の木を指さして、正人氏の奥様がこう言われた。
笑顔のすばらしく美しい方であった。
「あの松はね、智人くん誕生の記念の樹ですよ。
台風で上のほうがボッキリ折れてしまったから、もうダメかと思ったけど。
見てごらんなさい、ほらほら、驚いたことにそこからまた枝があんなに伸びたでしょ。
ほらあんなに大きく生き生きと立派になったんですよ。
智くん、あなたは大丈夫、これからきっと良いことがありますよ。」

佐渡はここに、
この庭やこの書斎に残されてあるというふうに、
陽も風もかたっているような気のする一日だと、私は思った。


2012年10月22日月曜日

佐渡へ 1


さそわれて、本間家の家族旅行に、ただくっついて、佐渡が島へ。
淑人さん、美智子さん、息子の智人くんと、そして私。
東京から自動車で300キロ以上も走るのである。
新潟港で大佐渡丸というフェりーに乗り換え晴天の日本海を渡る。
佐渡の港で自動車をとりもどし、淑人さんの実家をめざしてまた走って行く。
今回の彼らの旅は、美智子さん側(中島家)の葬儀に関する本間家への報告と御礼、
亡くなったお母さまを供養し新たな思い出をつくる・・・それが目的である。

そんな家族の旅に、面白いわねと、私がなんでついてきちゃったのか。
空気のような存在になれればとは思うけど、そんなの無理だ。
私はいつも空気を攪拌して大騒ぎしながら生きている。ゆうれいみたいにはなれない。
つくづくジャマだろうなーと心配がつのってきて、フェリーの上でひそかにさかうらみ。
みっちゃんはともかく、淑人さんがなんで反対しなかったのかわかんないわよ。
お墓参りだけならともかく、本間家のご実家をまずは表敬訪問という・・・。
それって淑人さんの場合でいうと、なんでも「神社」がご実家なのである?

佐渡が島は東京23区の1・5倍の面積。
電力も食料も島内自力でまかなえているはずときいてびっくり、
ホントなの?とうらやましくて、思わず、
「それなら佐渡が島独立共和国にすればよかったのに!」
引っ越したい。東京電力のない国へ行きたいのだ。
「・・・むかし、そういう話もあったみたいだよ」
ハンドルをにぎる淑人さんが言う。
国分一太郎さんがおなじようなことを言っていたのだっけ、と父の笑い声を思い出した。
「とうほぐ ずぅんみん きょうわごぐ(東北人民共和国)・・・」
東北人の国分先生と父・堀江正規は日教組講師団の、仕事仲間であった。
「井上ひさしの吉里吉里人の話もそうかしら?」
淑人さんにきいてみると、
「うん、そうかもしれない、読んではいないけれどね」
「そうよねえ、あの本、長いし重たいしさ、ふつう読めないわよねえ」
まー私はこの家族が好き、かならずやおもしろい旅になるのだろう、
畑、畑、軒の低い瓦屋根、瓦屋根、なだらかな畑と電信柱の連なりを見ながら、
ああ、佐渡かあ、佐渡にきたんだなあと、たとえ一人だけ異邦人であっても、
それはのんきなものなのだ、やっぱり。

到着したのは、農道のわきの入り口、
柿や棗や金柑、柚子の木のあるところに畑があり、
畑にはほうれん草や大根や、家族に必要な分の野菜が並んで育っている。
敷石に導かれて歩いて行くと小さなお池があり、そこには鯉もくらして、蛙もくるのだろう、
その先にひろがる庭をあたためている日の光と風のなんというのびやかさ。
むこうに五葉、三葉の松ノ木が、庭を囲んで数本まばらに立っているのも古典的、
ヤツデ、百日紅、梅の木や楓、萩の花々、昔あったあらゆる木々が無言で風に揺れていた。
・・・秋なのだ。
そういう庭先に、静かな玄関をおいた家。
私がなんにも知らずにたどり着いたのは、さかのぼれば室町までというような神社の、
淑人さんのお兄さんの正人氏があとを継がれた「実家」なのであった。

なにもかもが、私を魅了した。
ゆっくりと行われる家族同士の消息話、道を越えた先の畑の傍らのお墓での正人氏の祝詞、
熊野神社での、八百万の神様方にささげられ神道の儀式。
それらは本間家の生活と共にあって、いかにも自然であり、いかにも美しかった・・・。

2012年10月15日月曜日

 GREEN BREWFEST!西荻10/ 13


小さいライブハウスで、GREEEEEEN BREWFEST!(ビールの名まえらしい)、
タイタイ主催のライブがあった。まあビールをぶっかけられる破目になった人もいて、
大暴れ。私など紙コップを取り落としウィスキーサワーを床にまいてしまった。
今夜は外人がいっぱい。樽みたいな体型の人が多いから空間がせばまって、
めずらしいしおもしろい。本場パンクスを見ているような気分になった。
この日のスペシャルゲスト英国「THE VOX DOLOMITES」関連の人たち。
ちなみに、DOLOMITEとは白雲石のこと、苦灰石ともいって、
カルシウムとマグネシウムの炭酸塩鉱物なんだとか。
なんかそういうVOX、つまり民の声というか世論。
ブクブクあわ立つ民の声。
彼ら5人はこれから約一週間、演奏しながら東海地方を旅するのだとか。

FOUR TOMORROW/A PAGE OF PUNK/DIEGO/PEIPEI
/MAKES NO SENSE

ア・ページ・オブ・パンクが一曲演奏したところで、ツトムがいつものごとくふざけて、
「いいかおまえら、いまのはオレらのパワーの20%ぐらいだから。
これが100%全開したらいったいどーなると、思う?」
私は笑ったが、反感をもった人もいた。
その人は心底ムカついたらしく、
・・・・ふざけんな。カネをとってれば一応プロなんだろう、まじめにやれ。なめるな。
プロなら本気だしてやるのが当たり前だろうが。
オレはこれからやる「ドルメッツ」をききにわざわざヨコハマからきたんだよ。
おまえらなんか聴く気はねえんだ、はやく済ませろ・・・・
(ちょっとちがうだろうけど、まあ、こんなふうな内容)
ツトムはというと、顔がすこし赤くなり、あっ、えーと、そうか、
「じゃあ僕たちは一曲ぐらいやって引っ込みますか?」
彼はけっこう長いこと、長すぎるぐらい舞台からそのヨコハマさんに応えて、
・・・・おれ等はふざけているんじゃないよ、ア・ページはずっとマジメにやってる,
NO・WAR(反戦)なんだ・・・たぶん、あなたは僕たちのことがキライなんだろうけど、
僕はあなたを好きだし、思ってることを言ってもらえてうれしいし・・・。
(もっと言ったけど、まあこんなふう)

この日、FOUR TOMORROW が演奏した。
それがとてもよかったんだけど、急におかしなことを思い出しちゃった。
連想である。

かつてFOUR TOMORROW のリーダーをツトムは短くこう唄った。
YAMAOKA  MotherFUCKER
YAMAOKA  MotherFUCKER×3
You have Nosense
何年も前のA PAGE OF PUNK である。
共同作業の小冊子がのこっているから、このへんは共同作業だったんだろう。
そこにはみょうに気のないヤマオカくんの文章も載っている。

CD録音のときヤマオカくんはツトムを手伝い、人がたりないからコーラスもやり、
しょうがない自分をくさす唄もつきあって歌い、
いっときア・ページのライブにヤマオカくんが来るとツトムはこれを演奏、
ヤマオカくんは、なんでオレがこんなもんを一緒になって・・・
とこぼしながら歌いもして、
そこに居合わせたみんなをすごくおかしがらせたんだと聞いた。
ああ惜しい、それが見られなかったなんて!

ちがうことも思い出した。
そのもっとむかし私が主催した平和集会で、お客さんは150人ぐらいか。
若い人間に助けてほしくて、むりやりツトムに司会をたのんだ。
ツトムはオンボロなスタイルでやってきて、パンクふうなタメ口で司会をはじめ、
中年と老年の多い会場をげんなりさせ凍りつかせた。
ふつうの進行になれた左翼ふうの会場にカッチーンと反感がみなぎって、
ツトムがある有力婦人の長弁舌を、
「過去の話はしない約束だから終わりにして下さい、ルールがちがう」
とさえぎると、無礼な口をきくなと会場騒然、
「司会には向かないんじゃありません? 交代なさったらいかがですか!」
活動家らしい有識者がテイネイ口調で怒りの提案。
もう前代未聞のサムイ展開になったのである。

僕はそれでもいいですよ、司会を交代しますか。みなさんはどうしたいですか。

けっきょくのところ、その時もツトムは司会を交代せず、最後まで持ちこたえた。
私が手に汗をにぎったのは当然であって、その時の彼は今よりもっと、
欠点と長所がいりまじったヘンテコな奴だったのだ。
ツトムの反省とバァァァァァァァァァカッ!!という私世代の人間どもに対する揶揄嘲笑を、
ごもっともと聴いたんだけれども、あとの電話で。
ライブがイチャモンでおかしなことになっても、多少のスリルを感じても、
なんかこう安心なのは、私の場合だと、
こんな滑稽ともいうべき佳作な?思い出の集積があるからなのだろう。


2012年10月7日日曜日

多摩市民塾ひさしぶり


5年ぶりに朗読教室にもどる。
みんなにあえて、なんだかうれしい。
といっても今年度の抽選をくぐりぬけた人たちだから、
私が知っている人は3人だけ。
昔の人が来てくれないかなーと思っていたので、
笑顔を見つけたら、やはり、ちょっとホッとしてしまいました。

月日がたったのか、今がそういう世相だからか、
病気の人が26人のクラスに幾人もいるということが不思議だけれど、
考えてみれば、クヨクヨ暗くなっていないで、外にでて、
なんとか自分の事情を改善しようという人は、
私の辞書では英雄である。
そういう気のもちようだと、ヒトは表情からして優しい、いい感じの人になる。

自己紹介をしてもらった。
それで、さしあたりみんながコロコロ笑える人になればいいのかなあ、と。

闘病はくるしい。収束しない原発はこわい。
この世はおそろしくヘンで、信じられないほどばかばかしい。
それに対抗して、さからって、はっきりと今を生きる。
じぶんらしい時間をじぶんで創る。
せめて二時間。ここで。いまのいま。
日本語をさまざまな方法でつかって、すきな文章を朗読して。
がんばるぞー。
だって社会人のクラスはそのためにあるわけでしょう?

その人の事情はその人の権利である。
声がよく出なくても、舌がもつれても、心が硬直していても、
そういう人が多いければ、そこからみんなで出発、と私は思う。
笑う門には福来たる、なのだ。

2012年10月5日金曜日

いそがしい!


掃除、掃除、そればっかり。
掃除が好きでたすかった。
タンスを移動したら、祖母の箪笥と生き別れた母の箪笥がキーキー、ミシミシ鳴った。
両方とも桐のタンスだけど、たいしたもので今でも使える。
祖母の箪笥なんか120年はたってるというのに。
なんだかボロい箪笥だけど、私が生まれた時もうこれは古かったと思うとすばらしい。
自分で買った家具は、折々捨ててしまって、本箱がひとつぐらいしかない。
ペラペラぱらぱらした家具しか買えなかったから、
どっちを選ぶかとなると、自分の買った物のほうを手放すのだ。
本もどさどさ移動する。売るとか捨てるとか。・・・できない。
着るものも捨てる。もうなんでもかんでもあふれている。
ゴミがすごい。ホコリと紙が。書き損じまで捨ててない。

昨日は医者に行き、クスリをサボって飲まないのはいけませんと言われ、
今日は午後から多摩市民塾。朗読教室の講師をしにでかける。
明日は美容院の行きなおし。娘と同い年のサイト―さんが、
ヘンだったらやり直しますね、とめずらしいことを言ったので、
ヘンとヘンじゃないの中間だと思うけど、やりなおすのかもしれない。
洗濯をし、図書館に本を返し、ビデオ屋に韓流ドラマを返し、おかしくて笑う。
私は今や韓流ドラマの中毒で、これのおかげで楽しいけど時間がない。

あさっては佐渡島。
みっちゃん一家に連れられて。
アノーちょっと、じゃまじゃないのかしら。

私って掃除している。掃除、洗濯、ブログ、食事の用意。
映画「ニッポンの嘘」の福島菊次郎さんは九十才のひとりぐらし。
日常茶飯事を、すがすがしくこなして、それがすごかった。
すがすがしく。
すがすがしく。
まあ、やってみましょうじゃないの。
一日がそうやって暮れる。
ここのところずっと。
ゴミゴミと。

2012年10月4日木曜日

映画「ニッポンの嘘」×松元ヒロ


新宿ケイズシネマって84席。
新宿駅東南口を御苑方向に階段を降り、側道を御苑方向に進む。
大塚家具があるから、そのビルに沿って手前横を左に曲がる。
ビルの切れ目を3階にのぼると映画館です。
ミニシアター。すわり心地のいい座席。
椅子は大塚家具が用意したのかしら。
そこで「ニッポンの嘘」を観ました。

松元ヒロ・ライブで、ヒロさんがこの映画を実演?したので、
そんなに素晴らしいならホンモノをと思ったわけです。
複眼で見る。
ヒロさんの「案内」プラス自分なりの「見る」。
映画を二度観たというのともちがうけれどおもしろい体験です。

カメラマン福島菊次郎90年の足跡を追うドキュメンタリー映画。
DVDがあったら買って、生きることが苦しくなったらとりだして、
友だちみんなといっしょに観たい。きっと精神がシャンとするだろう。
長生きすれば納得できることも起きる、自分を律してズルイことをしなければ。
見ればそのたびそう思うことだろう。
私もがんばろうという気持ちになるだろう。
監督 長谷川三郎。スタッフがいい。朗読が大杉漣。
脚本もいい。朗読も、生活の描写も、数々の写真も、ピシッとおさまって
素晴らしい。

・・・松元ヒロのソロライブに考えをもどすのですが、
福島菊次郎の数々の写真が語る、たとえば「東大安田講堂」を、
松元ヒロが舞台で再現して見せたとき、
私の頭に不意に浮かんだのは、こんなことでした。

自分はまちがっていたのかもしれない。
真実を見過ごしたのかもしれない、
あの闘争の意味は、本来違うところにあったのかもしれない、
何千人もの無名の若者が国家と闘う現場にいたというその事実にこそ、
希望も意味も、見つけるべきだったのかもしれない。
私は数人の指導的人物だけを目で耳で追い、マスコミの誘導にスンナリのって、
ゼンキョウトウは暴力的とただそれだけ考えて、
真実とはちがうものに行き当たり今日まで来たのかも。
そういうものの見方、考え方は、まったくもっていいかげんだったのかも。

なんでだか私はふうっとそう考え始めたのです。
べつだんヒロさんが、ことばにしてそう言ったわけじゃなかったのですが。
「だいじなものは目には見えないんだ」
星の王子さまはそう言ってたかなあ、と思う。
砂漠が美しいのは、砂漠がどこかに井戸を隠しているからなんだって。
あの時の、無名の若者たちこそ、砂漠の井戸だった、
そういう考え方をしたほうが、日本人としては、私としてはよかったのかしら。

「ニッポンの嘘」は、真実を哲学的に考える映画になっている。
あいまいな私に、写真が直接応えている。
報道写真家福島菊次郎さんの90年と写真は渾身の回答なのでした。


2012年10月2日火曜日

ジャズフェスティバル・鶴牧東公園


NEW GLORIA SWING ORCHESTRA の演奏はそれはステキでした。
ジャズって人のくらしの、どんな風景もすくいあげて、それをあたたかく懐かしく、
すべてを肯定して奏でてくれるものなのだなと思いました。
ね、故郷を離れることも、こどもが生まれたことも、飛行機に乗ったことも、
向日葵畑を見たことも、私をはなれてくれない悲哀感すら、
それも幸せ、あっていいことだという感じ。
47年目を迎える社会人のジャズバンドだそうです。

公園の芝生にすわってききましたが、秋になったなあ、と思って。
スズムシやマツムシがトランペットといっしょにずーっと鳴いているし、
月が黒々とした大木の上で淡く光っています。いったい財政は大丈夫なんでしょうか、
スピーカーで拡大される音がとても美しいのですね。 
演奏はもちろんのこと、
機材もすばらしくよいものでしょうが、いったいどこの、だれの、なのでしょう。
市の持ち物だとよいのですが。
入場料はカンパでまかなっているのだし、
何十人ものジャズプレーヤーの出演料は?
鶴牧東公園はうちのとなりの、そんなに大きくはない公園です。


Basie Straight Ahead
Put It Right here
Ⅰ Can’t Stop Loving You 
Sophisticated Lady
Caravan
When I Falin Love
Backrow Politics

この人たちが演奏した曲です。スタンダードナンバーばかり。
私なんかにはぴったり。たのしくて。
backrow politics ? 政治の逆流かしら。政治に逆らうと訳すのかしら。
47年目をむかえるJazzバンドですから、お年を召したプレイヤーがいるはず。
さがしたら、ベースにギターとドラムの人がそうでした。
それで、この創始者たち?のセンス、考え方、プレーヤーもみんなそうですが、
自然でヒトの音のじゃまをしない、このオーケストラの思うところがわかるような。

When Ⅰ fallen love  ぼくが恋におちたとき。

これなんか若いトランペットプレイヤーのソロが素敵だと思いましたが、
彼、なんでも俵屋さんみたいな苗字の人、がヒナ壇から舞台前方へと歩きはじめると、
他のトランペット奏者たちがなにかこう微笑む、おかしがるふうなのです。
だってそうでしょう、彼の When I Fallen Love  、
トランペットが奏でる彼の永遠は、少年の恋そのもの、
もう練習のときからとても独特で、すばらしく美しかったのでしょう。

ぼくが、ぼくなんかが、恋におちた、
そんなすごいことが、こんなぼくに起こっていいのかしら。

フィンランドに行ったとき、川沿いのカフェが気に入って、夕暮れにまた出かけました。
冬のことで、出窓のむこうには凍った運河に凍りついた汽船、
雪の街路を月と街燈があわく照らしているのです。
テーブルにはロウソク、お茶をのんでもよいし、かんたんな食事をしてもよいのです。
すこしだけ値段の高い、若々しいけれど落ち着いたカフェレストランでした。
夕闇が暗い夜になりました。
外がよく見える席に、16才ぐらいの金髪の少年がいてだれかを待っていました。
空色のシャツに網目模様の灰色のセーター、紺色の冬のパーカ、
出窓のガラスにロウソクの灯がうつっても、待っているだれかさんは、
もしかしたら少年より年上なのかもしれないその少女は、
少年がなんど腕の時計を見ても、夜がすこしづつ深けても、
・・・待ってもまっても、来ない、のですよねえ。

時がすぎていく、時間がみえるようでした。