2012年10月26日金曜日

佐渡へ  書斎


「ご覧になりますか」
きいていただいて宮司さんの書斎を拝見することがかなう。
人の故郷というもの。魂の原風景を見る感激。
当主正人氏が引き継いだ書きもの調べものの部屋である。

大きな和机の上にも部屋のどこにも、種々文房具と印刷物やら資料やらが置かれ、
りっぱな床の間も紙類の置き場にされ、しかし流麗な文字の短歌の額が掛けられてあり、
本棚の中は斉藤茂吉全集とか、文学博士折口信夫の本、佐渡が島関係の書籍・・・。
それに欄間の上の、洋風の額に入った暗い油絵のなんという存在感。
淑人さん達の亡くなった「お母さん」が描いた「お父さん」が、
白絣であったろうか、ふだん着を着崩したすがたで横に痩躯をのばしている。
見れば壮年の、まことに凄みのある芥川龍之介のような風貌の人である。
「この絵はほんとうにおじいちゃんに似ている、そっくりだよね」
家族の人たち、お嫁さんのみッちゃんや孫の智人くんまでが口々に話してくれるけれど、
しかし「そっくり」の、魂までも油絵に写し取った、この腕前はなんなのだろう。

    りんご二つ画ける油絵を壁にかけ さびさびとして人は居ませり

私は改めて考える、・・・みっちゃんの配偶者である淑人さんのことを。
父親が、妻である人をこんなふうにうたった宮司にして歌人だったのであり、
女子美術大学の前身である学校に行き、画家の道をめざしたかったろう「お母さん」は、
年譜によれば昭和19年台湾で連れた子のいる本間文人氏と結婚。
淑人さんを生み、敗戦後、佐渡に帰還。12年後に他界。
母親はというと、こんなにもまざまざと夫の姿を画布に残した人だったのであり、
・・・淑人さんは、それでああいうようなこういうような人になったのだなあ、と思うのである。

昭和20年。敗戦・国家神道廃止、「お父さん」は39歳。失職。22年ふたたび奉職。
戦後の貧しく苦しい暮らし。
文人(ふみと)歌集に残された魂とおもかげは強烈で、
「無法者」というくくりの短歌などは(護国神社支持者に与ふ)という但し書きがつき、

    明治記念堂を修復すると募りたる 浄財は勝手に他に流用す
    明治記念堂の財を掠めて建てしといふ 護国神社の祭終りぬ

フクシマを修復すると募りたる 浄財は勝手に他に流用す・・・現在ならこういうことか。
「侵入者」というくくりでは、軍国主義者に神社を犯されまいという裂帛の気合。

    ばりばりと柵破る音間を置きて 聞こへ来るなり夜の一時頃
    柵破る音にすばやく走り出で 声あげて追へり無法者らを    
    英霊という名を嵩に境内に、侵入(いり)こまんとする輩を憎む
    立入禁止の立札はいづこしらじらと 明けゆく境内に怒りこみあぐ
    境内に無法に侵入(いり)こみ荒くれし 奴らに寸土も許してなるか

この熊野神社にめずらしく樹木が多いのは、右翼の侵略に抗してお父さんが次々植えたから。
淑人さんは、「こどものときヤクザとなぐりあう親父を見たけど怖かった」と。   
書斎を拝見したことも、御一緒させていただいたお墓参りも、そして神社参拝の儀式も、
私なんかよく考えたことも無い世界、
日本のながく続いた平和が、こういう父祖の魂の在り様にも支えられてあったのかと、
落ち葉のカサカサ乾いた音で鳴る土を踏みしめての、魅入られるような体験だった。
    
    いはけなき吾にしあれど心やすし 祖母のもとにはぐくまる思へば

昭和22年「吾娘を養女に」と嘆きの中で詠んだお父さんは、後になって、
二男淑人さんの嫁であるみっちゃんの出産をこう歌った。

    さやかとはよき名なるかもさつき空 微風にそよぐ若葉と云わむ
    まごさやかの誕生祝の記念にと 日光ヒバの苗を植えたり

私がみっちゃんの家族にくっついて佐渡の本間家にうかがった明るい日、
庭の奥のほうの松の木を指さして、正人氏の奥様がこう言われた。
笑顔のすばらしく美しい方であった。
「あの松はね、智人くん誕生の記念の樹ですよ。
台風で上のほうがボッキリ折れてしまったから、もうダメかと思ったけど。
見てごらんなさい、ほらほら、驚いたことにそこからまた枝があんなに伸びたでしょ。
ほらあんなに大きく生き生きと立派になったんですよ。
智くん、あなたは大丈夫、これからきっと良いことがありますよ。」

佐渡はここに、
この庭やこの書斎に残されてあるというふうに、
陽も風もかたっているような気のする一日だと、私は思った。