2019年9月1日日曜日

訃報2


彼は遠慮がちに居間の椅子の横に立って、いつまでも腰かけない。
むりにも「座って下さい」とすすめて、私は洗濯物と買い物袋を玄関に放り投げた。

うかがうと、小さかったお嬢さんは、今はもう16歳だという。

お母さんが発表会で朗読するとき、花束の傍らで、はにかんで待っていたあの少女。
お父さんとおばあちゃんと来て、会が終わったあとの長い時間、物陰でもうずーっと
穏やかに待っていた。家族でなぜか寄り添って静かに話して微笑して。
私はもう、その光景しか思い出せない。
「後片付けはもういいから。はやくご家族のところに行ってちょうだい。」
そう頼んでも、彼女は悠然として動かなかった。
明るい声で、朗らかに笑って、発表会の後の2時間半ぐらいは、堂々と、
そこらの向こう側の影に、平気で家族を待たせるのだ。
「大丈夫です、いいんですよ」

大丈夫じゃないわよとハラハラして、なんだか解せない思い出である。

彼は、友子はたしかに時間の管理ができないヒトだったのですと、応えてくれた。
遠慮がちな小声で、すこしづつ思い出が、・・・不思議な糸巻きの糸ように、
テーブルの向こうの彼からゆっくり、ゆっくり私のところまで届くのである。
きけばきくほど、ただもう亡くなった人のすべてを肯定しただけの、
それができたという夫婦のありように、私はとても驚かされた。

それはたぶん自分が人間を全面的に肯定したりできない、
そういう恥ずかしいデキの者だからだろうと思った。


2019年8月31日土曜日

訃報


夕方、今夜はだれもいない日なので、夕闇迫る頃になって、
コインランドリィで乾燥させた洗濯物の山を抱え、腕にこたえる買い物袋をもち、
家に帰ってきた。すると玄関の前に男の人がいるのである。
かすんでよく見えない眼をこらすと、その人影はしゃがみこんで必死になにかしようとしている。手持ちの荷物やスマホなどをそこらに置き散らかして、メモのようなものを書こうということらしい。白いワイシャツの下の背中や首が、夜目にも汗びっしょりになっている。
暑い暑い夏の一日が、まだ終わろうとしない時刻・・・。
見覚えのない姿に、私はこわごわ声をかけてみた。
「あのう、どちらさまでしょうか?」
すると、むこうもはむこうでビックリして、はじかれたように姿勢を変え、立ち上がり、
距離を置いたまま、「あのう、久保さんでいらっしゃいますか?」ときくのである。  
この夕闇とおなじ、苦しいような湿度を感じさせる声音であり、
はらはらしてしまったような、実直で礼儀正しい物言いであった。
彼は私に、太田友子のつれあいですと名のった。

・・・なぜだか私は、階段の下で荷物を抱えたままの私には、夏の風が伝えてよこしたように、ああ、太田さんは死んだのだと、不意にわかったのだった。


   

2019年8月11日日曜日

5才


天井まで本があって、遊びあきると本棚の前に立って、
ぴょんぴょん片足で立って、わかる字をさがして読んだ。
ひらがなの本の背表紙はふたつしかなかった。
「かひしなの」それから「なすのよばなし」
かひしなのは論外だったが、なすはわかる。葉山の畑で見た。
祖母が小さい私に、眠るまでお話をしてくれたから、
ひるがあるし、もっと起きていたくても、夜も毎日くる、
夜がくると、ナスの畑にもなすの夜があるらしい。
こどもにだけ夜が毎日くる気がしてたけど。

あのナスたちが、夜になると自分で話し始めるなんて、知らなかったと思った。
枝からさがって、風にゆれながら話すのかしら、大きなはっぱの下で。
だまってする会話。
なんにも言わないナスもたくさんいる。
でもなにかいうナスもたくさんいる。
きこえない声の、ナスのおはなしが畑をわたってゆく。
みおろす淡い月の光が見えるような、印刷のうすい背表紙だった。
夏の夜で、
涼しい風が畑にふき渡り、
森のたぬきや川の近くのキツネが、家族でおはなしをするように、
ナスたちもおともだちどうしで、ひるま見たことを話しているんだ・・・。

私の思いこみは、そのまんまこどもの記憶のなかに埋もれて、
ときどき、ふーっと浮かんでは消えてしまう。
・・・ナスたちは、時々、私のあわい月の光の下にいる。
風に吹かれて、涼しい夜をみんなで楽しんで。

あのころは、夏でも夜になると、涼しい風が吹いた。
電気がそんなになかったから、夜になると地球が冷えたらしい。
あついあついと、ちいさな孫が夜でも汗をかいて、おこると、
祖母がうちわで、ずーっとあおいでいてくれた。
うちわにも、すこし涼しいのと、ぜんぜん涼しくないのとがあって、
そんなことでぐずった・・・。



炎熱をガラス戸越しに眺めて



 考えてみれば、マイケル・ムーアが「ボーリング・フォー・コロンバイン」を
製作監督しアカデミー賞に輝いたのは17年も前のことだった。
私は10年以上も前、中古になったそのビデオ・フィルムを買ったんだけれど、
今日の夕方から、今ごろどうかと思うけれど、暑いから観たのである。

 一日中、暑く、炎熱ゆらぐ日盛りがこわくて、外にも出られない。
夕方やっと、草や花がどうにも気の毒で庭に水を撒くと、網戸越しに入る風が
子ども時代の夏風めいて、それでやっとクーラーを消すことができた。
今ふう日本の、残酷きわまりない夏ではある。
年のせいかなんなのか、たぶんに鬱気味で、私はただもうぼーっとして、朝刊を読み、
一日三冊ぐらいの本をあっちこっちとばし読みし、古い映画をツタヤで借りては
連続して観たりする。あとはメールと長デンワであって、
この受け身の毎日がいかにも気に食わないし、なんとかしたい。
でもなんとしても、どうにもならないのである。

 ある日、こんな自分がどうしてもイヤで、三日ぐらい煩悶したあげく、
夕方から草取りを始めた。なにがなんでもやってやる!! 
三つのお皿に三個の蚊取り線香、長袖長ズボン、首にまくタオル、植木バサミ等々、
ヤブ蚊の軍隊と戦いつつ、草と花と小笹の根っこ、紫陽花の枝などなどを伐りまくり引っこ抜くわけである。70キロのゴミ袋がいっぱいになる頃には、あーら嬉しい、
すらりと日暮れがやって来たではないか。
水を撒いたから泥だらけでビショビショ、あっちこっち蚊にさされて、
まー、76才としてはヨイ成績で喜ばしいと思う。第一、心なしか涼しいじゃないの。
外に出たらすごくあつかったから、ちょっと涼しくなっても涼しいわけで、
もうけたと思うよこれ、よかった。
年齢不相応は、みっともなくて落ち着かないが、
こうでもしないと気持ちの厄介払いができない。
鬱うつに甘えると・・・ホントの鬱病になりそうな。

 さてそれで、「ボーリング・フォー・コロンバイン」である。
マイケル・ムーアは、この作品によってアカデミー賞受賞者となり、一躍全世界に紹介された。アメリカの「なりふり構わぬ資本主義」に対する彼の厳しい批判が、大資本を投入したエンタテインメントの派手派手作品群の中で、なぜかどうしてか、あの時ばかりはちゃんと評価され、ムーアの以後の作品群の運命を保証したのである。

「なりふり構わぬ資本主義」は、貧困層の親と子を引き裂き、生きぬよう死なぬよう低賃金で働かせ、ついには子どもが子どもを殺す殺人者になってしまう。
マイケルムーアは「銃器社会」に焦点をあて、アメリカの残酷、アメリカの不公平、
アメリカの人種差別、アメリカの傲慢、アメリカの卑怯を、アメリカの手前勝手を、
アメリカがそういう仕組みの社会になってしまった原因を、隣国カナダと対比する。
わかりやすく原因を映像化し、「暴露」する。
しかもそれだけではなく、被害者とともに、あるいは自分だけで、支配者と交渉し、資本主義に変更を加えよ、態度を改めよと迫るのである、映画の中で実際に。

こんな映画が日本にあるだろうか。
ある。私はそれを今年の多摩市平和展の催しで、観たのである。
「沖縄スパイ戦史」って、タイトルがすごいので散々迷ったけれど、誘って下さった方がよい方でしかもご近所さんだったから、それに監督がふたりの女性だったので、
-------酷暑だし、どんなお誘いも有り難いと思わないとボケてしまう。
それで出かけたら、もう本当に女性ならではの素晴らしい映画だった!
しかしながら、この日本映画はなかなか観られない。
どこで上映されているのやら、観ようと思っても探すのがタイヘンである。

 私のおすすめは、この夏、
マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」である。
それなら、ツタヤにある。
17年というどっしりとした時の経過があって、
このドキュメンタリーは、現代日本が「まるでアメリカにソックリ」であり、
しかもどうしてそうなってしまったのかを、
驚くほどクッキリと説明してのける映画になったのである。




2019年5月17日金曜日

原っぱにトロッコが


誰にも、くらしの場面が、代わる時があるのかもしれない。

春の一日、
考えていると、あたまの中の遠いところに、
小さなトロッコがたった壱両とまって、
それが私である。
丈夫なつくりではあっても、そのトロッコは、
大草原の中央に、なぜか停車し、
地平線までつづく草花を、
陽にてらされ、風に吹かれて、
もうなんの考えもなく、
のっぽだったり、小さすぎたりする見知らぬ友を、
種々雑多な草原の花々を、いつまでもいつまでも眺める。

おひさまは、草原を照らし、私には広大な時間がある。
陽にさらされ、風に吹かれて、トロッコには奇妙にも考える時間がある。
そんな時が、きたのだ。
ゆっくり考える時がきたのだ。

奇妙な交差点は、たしかに存在して、
その日から、考えるスピードが、本当にゆっくりな私だ。






2019年4月19日金曜日

老後の幸福


最近、私の住む市は、工事の現場だらけである。
あっちでもこっちでも通行規制をしている。
やってきた車を止めてゴーサインの旗をふる人は、初老の人が多い。
時々、自信なげにヘルメットごと首をのばし、これでいいのだろうかと、
あたりをうかがっていたりする。
この人には、この現場に、相談できる人間がいるのかしら。
そういう姿を車の中から見ると、
仕事が変わるたびに、こわくてこわくてたまらなかった自分を思い出す。

灰色の髪の、背高のっぽでメガネの老人が、痛む足を隠して、
不自由を見せまいと歩いていった、なんて絶望的で不幸な様子だろうか。

なぜ、ごくろうさまと報われる権利が、老人たちに、あたえられないのか。
たとえどんな一生であれ、とにかく生き抜いて、昨日も今日も、明日も、
迫りくる病気をかくし、見知らぬ現場で、慣れない道路工事をしているではないか。
そう思う。個人の欠点をあげつらうのではなく、
余生を幸福にくらす準備金を、と思う。


2019年4月12日金曜日

多摩センターで上映


映画の上映が、突然、多摩センターで始まった。
4月12日から4月18日まで。イオンシネマで。
そうなる、とわかったのは10日まえで、ウッソォ!という感じ。
多摩市は老人が多く、活動家ともいうべき人はともかく、
日常ネットで情報を調べて、さて映画館に行こう、なんて。
そういう人は、少ないと思う。

チラシをみなさんにお願いして、450枚、配る。
団地の掲示板にも貼らせてもらい、知り合いのお宅のポストに手紙といっしょに
投函。昼間だと、ちかくの公民館で待ち合わせて、受け取ってもらう。
となりの公園に犬の散歩に来てもらい、手渡す。
速達で送る。

電話が私にかかって、映画館には伺えないとおもうけれど、
朝のラジオ体操の時、みなさんにお配りしますからと。
ー100才をすぎた母上のそばを1時間以上離れられなくなったからー
(朝のラジオ体操の時なんて、すばらしい展開、
              願ったり叶ったり、とても嬉しい!)

自分はいつもなんだか親切じゃないのに、親切にしてもらう。
気が退ける、気が重い、気に病む、つい恥ずかしくなってしまうけれど、
あーあ、現状の私としては、そういう屈託はおさえこんで、
とにもかくにも宣伝おねがいの一日である。


2019年4月6日土曜日

読書


図書館で、ヘンな本を、というと申し訳ないが、借りてきた。
春風亭柳昇著「与太郎戦記ああ戦友」 ちくま文庫。
読みやすそう、と借りて、読みやすいものだから、一日で読んでしまった。
戦争と貧乏を、落語家が語ると、こんなふうになるのかと、
自分の生まれや視野の狭さが、恥ずかしくて、無念であった。

解説を読むと、本書について、
「戦時中の生活が熱っぽく、最近の出来事のように語られ、落語家生活は遠く静かに語られる。」とある。
解説者は昭和46年生まれなので、40代のひとである。
徴兵制のあった時代の空気を自分は実感できないと、書いている。
彼は短い解説の中で、柳昇について以下のように書く。
「本書に通底しているのは、終戦までーもっと言えば、出征まで、だと思うーの
生活こそが自らの帰属すべき本来の場所であり、多くが喪失された戦後の生活は、
仮の宿に過ぎないという感覚である。柳昇の体内にあった時計は、上海沖の洋上で
アメリカ軍の銃撃を受けたとき、その動きを止めたのだろう。
柳昇は晩年までその若々しさを言われたが、その精神において、彼は幼少期から
二十代半ばまでの記憶とともに、一生を過ごしたと私は推察している。」

「与太郎戦記」「陸軍落語兵」に続く第3作から、私は読み始めたわけである。



桜祭りをする


鶴三会が例年のごとく桜祭りをする。

朝、集まって買い物。私は、いつもついて行く。
まじめなヒトばかりで、 自分はあんまり役に立たない。いるだけだ。
お酒に詳しい。おかずに意見がある。なんだってぜったい役に立とうとする。
それらのヒトが、なぜかなんだか、好ましい。
熱心な顔って気持ちがいいものだ。
買い物につきあう人も好きだけれど、つきあわない人だって好きである。
ながく一緒にいるからこその、適材適所、自然。
自分にはできないことを、その日のために、不思議にしてくれるから好きだ。

老人会のいいところだ。

トシをとってしまったなー、と思う。
みんなトシをとって、今ではあの人もこの人もいなくなって、
家族じゃないのに、家族のように残されて、淋しい。

桜も今年は今日こそ満開、それなのに、心なしか後方に霞んで影が薄い・・・。
なぜかなぜなのか、あの人がいないからか、あの人も死んでしまったせいなのだろうか。
それとも、地球に対して私たち日本人が行った悪業が、あまりにも酷かったせいか。
過酷な猛暑の影響で、桜も、弱っているのだと聞く。

私は一日中、なんだか、ふらふらしていた。
見ればみんなも、ふらふら、そんなにラクでもない様子。
楽しい桜祭りをあつまって祝うのも、
当然のことながら、けっこう努力しなければならないのが、老年で、
みんなといっしょにいる限り、
それが老後の幸福、無病息災というものだと、考えるわけである。

 

2019年4月3日水曜日

「あの日のオルガン」の故郷


蓮田市の「桜祭り」に行く。
蓮田はかつて私が書いたルポルタージュ、「疎開保育園物語」のご当地である。
どこまでも平坦で広々とした、人影のない畑ばかりの土地を、
クルマの窓ごしにずーっと見ていると、
今も、昔も、風景がそんなに変化しない不思議について、考えてしまう。
今度、はじめて高層のビルディングが駅前に建つときいたけれど、
それが、人口の激減をとめる施策にいったいなるのだろうか。
そういうことがこの土地柄になにを招くのだろうか。

私が最近読んだ本によれば、
21世紀の終わり、日本の人口約1億2千7百万人が、5千万に減少する、と。
21世紀って、今が、21世紀なんでしょう?
これから百年間のことなんでしょう?

かつて疎開保育園のために、食料提供を引き受けてくれた土地柄というもの・・・。
戦争の末期だったのに、どこか大らかで、懐(ふところ)が深く、
現実を受け入れて、親切な。「消費班」と悪口も言いはしたが、とにもかくにも、
親から離れて生きる幼児たちを憐れんでくれた、その素直な素性のようなもの。
埼玉の、桶川の、蓮田の、高虫の、ふつうじゃない何か。

蓮田市の桜祭り。
雨模様だし寒くって、ヒトの集まりも普段の半分ぐらいだったというが、
この市の気合いというか、お祭りに賭ける元気が、地元商店街の参加ぶりが、
人々の表情が、私にはうらやましい。
「なんにもないところだから、お祭りとなるとみんな張り切る」
説明してもらうとそういうことなのよね、これが。
自然をぶっ壊して造成しなおし、コンクリートばっかりにし、
水仙だろうが、雪柳だろうが、チューリップだろうが、行列で咲かせる、
その名も多摩ニュータウンの住民の、私などにはわかりっこないなにごとか。

ダックレースとかいうお祭りの恒例目玉のひとつが好ましい。
これはお祭り会場の脇を流れる、悠々たる「もと荒川」に5千羽のダックを放ち、
市民が幾ばくかの賭け?をする、ヘンテコリンな競技。

驚くなかれ、オレンジがかった黄色のビニール製ダック、つまり人工の小アヒルが、
時間がくると5千羽、もと荒川におしあいへしあい、浮かぶ。
しかし、風がない日だと、いくら小さくても集団でもダメ、下流へ流れない行かない。
すなわちレースにならないのだ。
わぁぁぁ・・・とおかしそうに笑う見物人・・。
すると、長靴を履いて板切れのホウキみたいなものを持った男性が2人、
しょうもなさそうに、停滞したダック群を、はたりはたりと追うわけで・・・。

見れば彼らの長靴は、ダック群をどこまで追って川を下ろうと、沈まない。
驚くなかれ、もと荒川とはいうけれど、幅はあっても浅い川なのである、
晴天の春ならば満開の桜が川面を飾って、それは綺麗なんだそう、今日はだめだけど。
説明が、なんだかおかしくて好きだ。悠長がうらやましい。
都会育ちの私なんかには、もう絶対にない品格。

のどかだし、品がよいし、本気にならない冗談って感じがいい。
この、なんともいえない間延びこそ、だいじな気質なのではと思ってしまう。
効率主義ではない人生の、それがやっぱり親切をうむのでしょうね、きっとね。



2019年3月28日木曜日

じゅんこさんの死


「余命一か月」
お見舞いにいった長男の電話で、
じゅんこさんの入院先と病名と見通しを知らされた。

迷った挙句、一人息子のチアキくんにメールを送ってみる。
ふたりと、お母さんと彼と、話しがしたかった。
チアキはツトムのバンドのリードヴォーカルで、画家で、
彼らのCDの解説を書いてくださいと私に頼んでくれた 人である。
だけどこんな時、お見舞いにうかがいたいなんて、
迷惑かもしれないと思えてならず、追加送信・・・。
そうしたら、少したって、電話がかかった。
お母さんが死んじゃった、という。
じゅんこさんが、彼がそばを離れた短いあいだに、死んでしまったというのだ。
チアキくんが病室に戻ったら、息をしていなかったのだというのだ・・・。

昨日お見舞いにいった長男から、じゅんこさんの冗談ぽい様子をきいたのは、
ほんのさっき、だったのに。

翌朝、やっぱりじゅんこさんにお別れしたくて、下北沢のタウンホール近くへ。
ツトムが小学生の息子とふたり、自転車できて、3人でチアキの下宿へ。
寒い寒い朝だった。
チアキくんは、母親の遺体を、病院から、自分の下宿に運んだのである。

下北沢の再開発を免れたのか、それとも、此処もいずれ消滅するのか、
終戦直後のまんまみたいな建物が、細い路地を入って曲がっていくとある、
こんな所をいったいどうやって、お棺が通れたのか、
入り口の古い戸をチアキ君がガラガラと開けてくれると、
すぐそこに、じゅんこさんの遺体が、部屋いっぱいに安置されていた。
じゅんこさんは美人さんだったから、金襴緞子の、赤と金色の覆いを掛けられた
その様子は、チアキの灰色の部屋の中で、昔の映画の一場面のように静かで美しかった。

むかしはみんなこうだったなぁ、と思った。
終戦直後は、みんなこんなだったと。
チアキは画家なので、この下北沢の「終戦直後」は、
繁栄に取り残されたまま古びて、
遺体を安置するために、あれこれ取り除いたのだろうに、なぜか芸術的だった。

ビンボーはビンボーなまま、変化しないで時代の底にあるものなのだと思う。

折れ曲がって二階にいく階段、すりガラスの向こうの台所。
遺体の脇に、小さな灰色の小机。 
白檀のお線香や、蝋燭や、おりんが、載っていて、ひとりがお線香をあげると、
狭くて、うしろは誰も通れない。
しかたがないから、横から手を出して、けむりが絶えないようにした。
それは安穏で、優しく、いかにも自然な光景だった。

チアキがこんなヒトになるまで、
じゅんこさんはがんばって生きていたのかと私は思った。


2019年3月22日金曜日

どうにもこうにも


いくら、なんとかしようと思っても、決まりきったことしかできない。

平凡で無力な一日がすぎる。
庭草をむしって土を足すばかりの、幸せといえば幸せな。
洗濯、掃除、ご飯の支度。後片づけ。
雑草を 詰めた大袋をゴミ置き場にやっと運ぶ。
本当に必要なことは、そう思っていることは、ついにできない。
佐々木忠次の伝記、読了。
以前から佐々木さんの著書「闘うバレエ」が好きで、
なんにも読む本がない時は、それを本棚から取り出しては読んでいたけれど、
図書館から借りてきた「孤独な祝祭 佐々木忠次」は「戦うバレエ」を補って、
さらに素晴らしい。



平野さんを偲ぶ日


鶴三会は、いざという時の防災を考えて、平野さんがつくった、
なかなか人のふえない、ちいさな老人会である。
人格者細田さんと、事務極端優秀温和な小林さんの努力で、
いろいろな工夫と幸運にめぐまれ、懐かしいような集まりになっていった。

こういう会の辛さというものがあると、今ではみんなが思っているだろう。
老人の会というものは、亡くなる人が、時がたてばたつほど連続するのだから。

はじめは、難病を抱えて、だんだんに病状が深刻になっていった木下さんと
お別れした。なん年かにひとりという感じだった。
それから村井さんが亡くなり、後藤さんの奥様が亡くなられた。
私たちの俳句の先生の三國さんは、傾斜のある団地の歩道のかたわらで、
葬儀の車を見送って、こんな句を詠まれた。

逝く人に送る人にも月昇る

三國先生が住んでいらした私たちの団地は、なんてよい住処だったのだろう。
時節が整ったのか、それとも人はみな年を取るとヒトらしくなるものか、
私は鶴三会に入れてもらって、しあわせだといつしか思うようになった。
でもその三國さんだって、もういない。

三國さんが亡くなって、今年二月が来ると、
暑い夏のあとだから、誰の身にも、お葬式が続くことになった。
私が参列した五度目の葬儀の、逝ってしまった人は平野さんだった。
梅見吟行の日、ひるまは奥様のリハビリがあるから欠席、ときいたその深夜、
付き添いだったはずの平野さんが、病弱な奥様をのこして急逝したのだ・・・。

いつも私は、入り口を背にした平野さんのお隣に腰かけていたので、
時々、ああだとか、こうだとか、自由な会話もしたせいか、
なんともいえない----混乱とでもいうのか、複雑とでもいうのか、
ぼーっと悲しんでいる自分が不思議でならない。
 いつだったか、そう、
むかし三越の食料品売り場で、奥様を守護する衛兵のように、
立ちつくしていた平野さんの、一心な姿が目に浮かぶばかりで。

悲しみは、日暮れて、だんだんやってくる。
私のような者にも。



2019年3月20日水曜日

青い花が好き


「あいかわらず、青い花がお好きなのね」
お隣の奥さんが垣根越しにそう言ってくれて。
私たちのハンカチーフほどのちいさな庭は隣り合っている。

毎年、暖かくなると、私はやっと外に出て、同じような花を買ってきて植える。
多摩市のお花屋さんでさがす、小さな花を、少しづつ鉢に植える。
青い忘れな草と青いネモフィラ、それから去年の白いヒヤシンスを庭で集める。
クリサンシマムルチコーレは 黄色い。クリスマスローズがあちこちに飛んで、
今年はちいさな、黄色、紫、灰色混合のパリみたいなビオラも植えた。

青と白と黄色といろいろ、それから改良用の土も買ってきた。
春がやってくれば、毎年のように不安な気持ちが高じてくるけれど、
みんなもそうだというけれど、
枯葉を集めて、土を撒いて、古い薬缶を手に水をまいて、
そうやって、自分の寂しさと不安と後悔から、なんとか逃れようと思うのだ。

   私のこころに不幸が起こった、
   私のこころに不幸が起こったのだ

 そういうとき、セルゲイ・エセーニン は、モクセイとニオイアラセイトウに
   ざわめけ、ざわめけとうたったんだっけ・・・


2019年3月19日火曜日

花曇りなので


朝ごはんのあと、庭に出て、落ち葉を手で袋に入れながら、
月桂樹の鉢を動かし、黄色い小花と小さくなった白いヒヤシンスの場所を
動かし、紫陽花の枯れ枝の散髪?をした。あんなに暑い夏だったのに、
なんの手入れもしてやらなかった、ぼんやりガラス越しに、
諸々、反省だけして、なんにも。
くたびれてたなーと。

自分勝手なものだった。



 

2019年3月18日月曜日

車中小風景


朝がた、不意の思いつきで高崎へ。
JR湘南新宿線高崎行き、行きは出発間際に飛び乗って普通車、
最近痩せてしまったせいか固い座席に座り疲れ、帰りは新宿を通るグリーン車に。

行き。
淡いピンク色のジャンパーを来た女の子が、5才ぐらいか、お母さんと手をつないで、
車内にやってきた。女の子は私の隣りに。お母さんは向かい側の空席に。
席を替わってあげればよいのだけれど、まあどうなるのかしらと見ていると、
ちびさんはしかたなくお母さんと離れて私の隣りに腰かけ、小さい声で
わらべ唄の手遊び。
可愛い顔のほそい眼が、遊びながら横目で、私をちょっと見る。
私がだまって少し笑うと、あわてて横を向いた、
恥ずかしそうに、でもほんのちょっと自分も笑うのだ。
手遊びをつづけて、ちいさな顔の内っかわが、にこにこ元気になり、
「おかあさーん」と向こう側の母親を呼ぶのが、のどかだ。
ひとまわり、わらべ歌をおしまいまで歌いおわると、
女の子は歩いて、向かい側のお母さんの膝に無理やりのぼった。
運動靴の足が、隣席で熟睡中の若い女性の、かさばったブラックのスカートにさわる。
お母さんは気にしない。いいのかなあ。私はハラハラするが、
こういうのんびりが、あの子の自然さをつくっているのかもしれないのだし。
女の子の運動靴が圧迫するので、ブラックな彼女はねじれてごわごわ。
一度なんかパッチリ目をひらき、マスカラの濃い化粧顔で不満そうにモゾモゾ。
でも、真っ黒いパーマの、チリチリのウェーヴもそのままに、また目を閉じてしまう。
高崎の手前の駅で降りようと、車両の連結部を通りながら、
ピンクのジャンパーの小さい手が、私を気にしてひらひら、さようなら・・・を
してくれる。
ちいさなリュックサックはたびたびの洗濯で少しくたびれている。
それがまた、きちんと育てられている感じだな、みたいな。

帰り。
高埼発。グリーン車なり。らくちんだ。
ところが前の座席にビールの缶を抱えた、しあわせ男が一人で腰かけた。
小柄中年な彼は、毛糸の野球帽子をすっぽり被って、幸せそうにぬくぬく、
缶ビールをプシュッと開ける音がした。さっきチラッと見たけど、小太り。
煎餅をリュックサックから取り出して、ビリリッと、袋をやぶく音がした。
ビールにお煎餅は幸せな組み合わせ。背もたれに隠れて見えないけれど、
優秀なお煎餅というものは、おかず代わり、ご飯がわり、ご飯どきは特に
19時15分発の電車だ、たぶんそうなんだろうという音が始まる。
的確にかみ砕く、食の喜びと満足度を完璧なまでに実現させる、音。
パリポリ、パリポリ、ぽりぽり、パリポリ、ぽろぽり、パリパリ、
ぱりぱり、ぱりぱり、ぽりっ、パリッ、ぽりぽりぽりぽり・・・。
あきれるばかりの連続音が、いつまでもいつまでも続くのである。
煎餅を夢中になって噛みくだく音には、ちゃんとした強弱と説得力がある、
それは力強く、けっして終わることがない。
たぶん味が良くて、「当り」なのよね。
私がきのう池袋芸術劇場で聴いた、世界一らしいような、交響楽団さんの、
ブルックナ―の絶対音周辺を、つい連想してしまう。
それにしてもこの演奏?いやもとい、噛み砕く複雑な歯擦複数短音は、
生活力的効果をあげて、なかなか優秀、匂いさえなければ。
・・・噛砕音とでもいうのかしらん。
あっちは上品の極致、こっちはどうなのかしら。
ポリポリ、ぱりぱり、パリポリ、ぽりぽりぽりぽり・・・。パリ、パリ、
がり、ボリ、パリパリ、パリパリ、ぽりパリ、ぽりパリパリッ、パリッポリ。
その人は、もうずーっと、最後に袋を丁寧にたたむまで(音がした)、
車内販売の売り子さんに、あれこれ迷った末「ハイボール!」
その時以外は一心不乱である。
パリポリ、ポリポリ、ぽりっ ぽりっ ぽりぽり・・・。
パリパリ、パリポリ、パリリ、パリポリ。
ひるまのあの可愛い女の子にくらべると、なんてお行儀だろう。
周囲の人となんのかかわりを持たず、遠慮も会釈もなく、終始お煎餅!
エレガンスという観点からいっても、4才か5才の女の子にも劣るではないか。
よっぽどのお煎餅、・・・いやもう言うまい!



素敵な場所でランチ


朗読の同人に仲間に入れてもらい、花木のみえるカフェでお昼を食べる。
おどろいた、そこは生活クラブ生協の帰り道、トミちゃんに案内してもらった場所で、
その時はカフェ定休日で、がっかりしたのだ。
花木が売られ、鯉の売り場もひろく、雑貨売り場と、食品、たとえば野菜にパン、
つい手が出そうな調味料とかに加えて、昔なじみの和洋玩具や家具まであって、
青山、六本木、原宿の田舎の遠い親戚というか、多摩ふうである。
雑多、ごたごた、大小中の鯉が水の中で騒然と?泳いでいるから、
水の音もごぼごぼ、びしゃびしゃ、空気が冷たい、はたらく人も作業風の感じが、
ちょうどよい。

順番を待つあいだ、ちょっと歩いてみるんだけど、当然、目が楽しい。
萱野さんが、花粉症だから順番待ちをします、ご遠慮なくという。
もっとも?かなという気もして、ぶらぶらさせてもらって、ついついつい、
野菜など少したくさん買ってしまう。帰宅後ゆでて、なんにも加えずに食べたけど、
やわらかくておいしい葉っぱだった。ほうれん草と菜の花である。

話題は老人介護だった。
その道の超ど級の大家に、ちゃんと義務をはたすつもりの模範的努力家が
そろっているので、なかなか本格的。あなどり難く、興味深い話ばかりである。
ふーん、ふーんすごいな、と聞いていたら、
不意に「久保さんは」と話をふられて、びっくりした。
それで話してみたら、
私には舅と姑と、父と生母と継母と三人目の人と。
自分一人に六人の親だったから、経験としては、けっこうものすごい。
・・・のだけれども、約二〇年前の話なので、
もう、どうでもよくなってしまっていることに、自分でびっくりした。
あんなに小突き回されて怒り心頭、泣いては怒って恨んでいたのに。
たぶん失ったものは「愛」のようなもの、しかしそれだって今は霞の彼方だ。
愛情は苦難の深淵に沈みこみ、自分は情が薄かったとうんざりしながら、
与えられた時代と家と。他と比較すれば「幸運」でもあったわけだ、という感想。

・・・両方の肩に疲労感がのっていて、まあもういいかという感じ。

「へーえ、そんなふうになるもんなんですか」
と火中の栗を拾うしかない、今のみんなが言った。

2019年3月14日木曜日

老的


最近の私は失敗ばかり。まさに老後。

夕方、クルマのキーをぬき忘れ、ご近所のみなさんに多大のご心配をかけた。
うちの駐車位置は、団地入居時のくじ引きのせいで、わが家から遠い。
私は、自分ではなんにも気がつかず 、翌朝、サッサとでかけてしまった。

だから、どうも音がすると気にした近くのS氏が、翌朝になって、
差しっぱなしのキーを(扉をあけて)抜き取って下さるまで、
うちのクルマは、もう一晩中ブンブンとエンジン音をたてていたわけである。
私とおなじ11号棟ご近所のH氏が、2号棟のSさんに車の主(つまり私)を教え、
Sさんがうちの隣りの若奥さんに鍵を渡して下さって、
犯人(つまり私)留守のまま、比較的よくわかるかたちで、やっと一件落着。

若奥さんからの親切なメール(昼)、Hさんからの親切な電話(夜)。
私は、もう、どきどきどきどき、どきどき。
どうやってお詫びをしたらよいのか、被害妄想的お手上げ状態・・・。

たまたま、同じ11号棟のだいじなご近所さんが、なぜだかふたりも、
2号棟近くの路上にいてという天の配剤?が、ありがたかったなあと思う。
私はS氏とは、引っ越してきて18年にもなるのに、面識がなかった。 

キーがかかりっぱなしのボロ車のエンジンの音はと、想像すると、
「爆音」という文字だけが、のぼせやすい脳の中で大きくなる。
それにしても、「爆音」が「比較的低いエンジン音」だとわかり、
「飼い犬が一晩中ほえて」というスケールで考えたらと教えられ、
私が相談したのは、常のごとくわが友みっちゃんの夫君なのだけれど、
おかげさまでやっと落ち着き、 おわびの準備ができたのだった。


2019年3月13日水曜日

映画を紹介する


映画を紹介しにいった。
じょうずに話せず、用意したメモ書きを読まずじまい。
残念だった。
メモは、中公選書「日本映画 隠れた名作」という良書のあとがきから。
書いた人は日本文化学科教授の筒井さんである。

「わたしがこのところ好きな映画に(一々作品名は挙げないが)、親しい人との
信頼関係を裏切らない人間を描いた情緒豊かな作品群がある。偽善やはったりなしに
これを描くことは難しく、せちがらい最近ではめっきり少なくなってしまった作品群
だ。作劇法に本当の力と誠実性がいるジャンルだと言えよう。
昭和三〇年代の映画がいいのは、一つにはそうした思いがこめられた映画が多く、
また見事につくられているからだということが近年悟られ出したのである。」

映画「あの日のオルガン」を号泣して観たという方が多い。
うれしいことであるが、ホントの「号泣」だと、ほかのひとの邪魔になる。
大勢の観客が号泣すれば、映画の音響は残念ながらきこえなくなってしまう。
実際は、涙をこらえきれず、気持ちよく泣けた みたなことだろうか。

 「あの日のオルガン」を劇場でみてくださった多くの方々が、
涙を禁じ得ないのはなぜかと、「ごうきゅう」などと言わずに、
静かな日本語をつかって、考えたいものである。

いま日本人の魂の底のここには、抹殺されかけた希望があるのかもしれない。
親しい人との信頼関係を裏切らないヒトが好き、ということだ。
そういうヒトは当然、意地悪ではなく、情緒がゆたかであり、
偽善やはったりなしに、まっすぐに、素直に、生活するのだ。

作劇における「本当の力」とはそういう「誠実性」にあると、
筒井さんのあとがきは、昔ながらの落ち着いた日本語で分析して、素敵である。
なつかしい。


2019年3月12日火曜日

あめ という詩



あめ あめ あめ あめ
あめ あめ あめ あめ
あめはぼくらを ざんざか たたく
ざんざか ざんざか 
ざんざか ざんざか
あめは ざんざか  ざんざか ざんざか
ほったてごやを ねらって たたく
ぼくらの くらしを びしびし たたく
さびが ざりざり はげてる やねを
やすむ ことなく しきりに たたく
ふる ふる ふる ふる
ふる ふる ふる ふる 
あめは ざんざん ざかざん ざかざん
ざかざん ざかざん 
ざかざん ざかざん
つぎから つぎへと ざかざか ざかざか 
みみにも むねにも しみこむ ほどに
ぼくらの くらしを かこんで たたく

(1947年ごろの山田今次の詩。京浜の労働者の)

今日、私は初めて、生活クラブ生協の八王子多摩境駅近くの総会に出席した。
年次総会はどこも似たり寄ったり、はじめての参加で、内容もよくわからず
第一から第五号議案まで、議長さんの司会進行に、ついていくばかりだったが、
そのくせ、会場を埋めた47人の参加者の表情、容貌に惹かれて、
また参加者が着ている思い思いの洋服にうれしく安心と共感をおぼえて、
さほど退屈にならずに腰かけていたわけだった。

女の人ばかりの各代表参加者は(男性は一人だけ)、
なんといえばよいのだろう、
個性的で、上記の詩のオノマトペのように、めずらしく自然なのだった。
この人たちは、なが年の食をめぐる粘り強い活動によって、
従来の日本人の無個性から、
しっかりと自然で、立派な個性を獲得したらしいと感じた。
集団として、である。

あめは ざんざか ざんざか ざんざか
ざかざん ざかざん 
つぎから つぎへと ざかざか ざかざか

こんな引用はおかしいけれど、
彼女たちの意見と質問と答弁と議事進行のありようには、
この詩が一番かもしれないと、
思い出してはそう思う。

・・・くらしをかこんでたたく言葉だったからだろう、きっと。

 

2019年3月9日土曜日

重たい本


図書館で予約しておいた本をうけとる。

「神秘の島」またしても上・下巻。ジュール・ヴェルヌである。
重たくてついよろけてしまい、図書館の人に両方おもちになりますかというような
身振りをされた。すごく面白いにきまっているのだ、持って行くことにする。
私はとにかく家までの坂道を歩いた、でも大変だった。
小さい物入れは肩からさげて、右手に従来の大型バッグを持ち、
大型バッグの中に借りた本を3冊いれたんだけど、右手がちぎれそうというべきか、
75才にはムリというべきか・・・一冊をとにかくバッグからだして、
左手に持つことにした。そうしたら、やっと、花の終わったタンポポの濃い緑の葉が
眼に入るようになった。

ジュール・ヴェルヌ って、なんでまた、こんなに重い本ばかり書けたのかな!!


2019年3月8日金曜日

海底二万海里


ここ数日、「海底二万海里」上・下巻を、読もう読もうとして、
上巻を読むかと思えば、下巻に移動し、どうにもならず、
あとがきを読めば読む気も起こるかと、「あとがき」に取り掛かり、
がしかし、翻訳者によるここもつい飛ばして読む。こまって3日間ずっとこの調子。

ジュール・ヴェルヌ作世界海底旅行冒険談、二冊(上・下)びっしり魚類貝類海藻で、
深層海水大嵐孤島大陸潜水艦、百科事典を読む感覚。博物誌にとりつく感じ。
私には、まったくダメな分野だが、どこを読んでもどうせ海なんだからと、
本の内容をあっちこっちしているうちに、おぼろげながら、慣れてきた・・・。

そしてすごく憂鬱になってきた。

なぜ自分はこれまで地球に住んでいたのに、万物に無関心なまま生きたのだ。
貧弱な読解力で切れぎれにやっとこさ「海底二万海里」を拾い読みして。
壮麗豪華絢爛そのたそのたの深海大海原に、いまさら惹かれてどうなるか。


2019年3月7日木曜日

愉快な書評


書評を朝日新聞出版の編集者の上坊さんに送ってもらって、
編集作業はとっくに終わっているのにと、親切がうれしい。

ふわりと届いた その書評が気にいっちゃって、陽気になった。
やっとロードショーが始まった映画「あの日のオルガン」の原作。
書評の小見出しはこうである。

園児たちの命を 
守り抜いた 
普通の20代の 
保育士たちの 
不思議な戦中記録

書き出しはこう。

「なんだか不思議な本である。」

読むとおかしい。
まず「出版社による説明文の要約」を紹介したあと、書き手はこういう。
山田裕宇、30代かな40代かな、その人の文章がはじまるんだけど。
  
  いかがだろう。ここまででちょっと読んでみようかな、と思ったあなたは書店へ
  GO。まだムムムなあなたのために、この書評は続く。

書店へGOってと私はあきれたが、今どきはこれが近代的マンガ型、抵抗なく
読めちゃうのかしらと、次の行へ進んだら、もっとおかしい。
  
  戦時中を描くノンフィクションではあるが、誰もが知る名著「火垂るの墓」
  がごとく心がギュッとなり、ついで胃袋もギャッとなって、普段は旺盛な食欲
  もさすがに肩を落とし、図らずもダイエットに成功。なんていう副作用は本書
  にはない。私たちが想像もできないほど過酷な疎開保育の実情をなんともさわ
  やかに描き切る、不思議な戦中記録なのだ。

私はどうしてかこの「ギュッとなり」「ついでギャッとなり」のくだり?が 好きで、
野坂先生すみませんと思いつつ、何度も、読むたび笑うのだが、この山田さんの
書きっぷりのなかで、感心させられたについては、別のこともあった。
鮮やかにふざけながらこの書評人は、私の文章の「戦中記録」の「不思議」を、
以下のようにスカッと説明する。
   
   経歴を見てみると、著述家になる前は劇団で俳優を7年間していたという。
   劇団生活で身についた自分ではない誰かになり切る技術が、当事者視点の
   一人語り形式を多く取り入れた、ノンフィクションとして一風変わった印象を
   を受ける本書の秘密かもしれない。

劇団で7年、その前の演劇大学で2年、あの俳優修業の年月を、私は挫折でくくるしか
ないと考えていたが、文章の「技術」をはぐくんでいたのだと、
書評が教えてくれたのである。
最後に、
    
   勇気が湧いてくる。

と彼または彼女?は書いてくれているが、ページのくくりがまたヘンで、字数の
都合なんだろうか、おわりはこうである。
   
   何はともあれ、戦争ダメ、ゼッタイ。

自由な書体というべきか。
なかなか「保育通信」を読むに至らないだろう保育士さんを相手の苦戦が、
とてもステキである。
ホントにありがとう、山田裕宇さん。

 

2019年3月6日水曜日

現状認識


かしこくて若い編集者に恵まれたことで、旧作を復刻する仕事は興味深いものに
なった。   
朝日新聞社って複雑で大きな組織だと思う。
ある日は右翼の街宣車が、正面玄関に向かって大音響で抗議を繰り返し、
ああ、これだから制服を着た警備員が何人もいるのかと、気がついたりした。
新聞社は小さな街ぐらいもあって、喫茶店や本屋、レストラン、その他その他が
巨大で頑丈そうなビルディングにのみこまれている。それがとても面白い。
なにしろ、自分は遠い多摩市から「築地市場」駅まで行くのである。

私は老眼のはじまった弱い視力で、手にあまるわが国の現状を見よう、判ろう
としている、そんなことを意識する・・・。

mass communicationとはよくいうマスコミのことだけれど、
大量の情報を流す新聞とかテレビとか。
朝日新聞社に行くと、いわば故郷見学のようで、自分は楽しくてほっとするけれど、
一方で昔ながらのマスコミが、今はスマホに取って代わられて、その凄まじさが
どうにもこうにもおそろしいという気持ちにもなる。
スマホトリビアフォン、スマートでかしこいでんわ。
メールもできて、でんわもできて、ゲームも。
ニュースもわかる、あらゆることを電話の小さな画面で閲覧する。
銀行や税金の操作だってできるらしい。

電車に乗れば向かいの座席の人は全員スマホに取りこまれている。
老いも若きも、働き盛りの中年も、赤ちゃんを連れた母親まで。
魂をうばわれて。

魂。人間からそれが奪われて。
たしかに少し、義務みたいなものを、忘れられるはずのゲームだ。
都市の真ん中は遠い。
私鉄に乗って新宿を歩いて、都営地下鉄に乗って。
旅とも言えない旅の時間が、無表情にかこまれて終わるなんて。



2019年3月5日火曜日

どういうわけか


どういうわけか、私は何日か前から、「海底二万海里」を読んでいる。
その前はドラ・ド・ヨングの「あらしの前・あらしの後」を読んでいた。
私を育ててくれた母が岩波書店の編集者だったので、この私は岩波少年文庫育ち、
読書好きの私の娘は、たぶん私の子ども時代の本を読みながら、彼女の読書選択の幅を
母親の私より更に広げて、私とは傾向のちがう読書家になっていったのだろうと思う。
それはともかく、・・・。

「海底二万海里」は天才の作品だ。
ビリビリと電気が脳に躍り込んでくるように、すべての描写に興奮させられ、
いまだ経験したことのない作者ジューヌ・ヴェルヌの博学と筆力に、心が躍る。

でも、私は「あらしの前・あらしの後」もすきなのだ。
なぜかといえば、それは日本が「あらしの前」だから。
私が「あらしの」終焉期に生まれ、「あらしの後」に少女時代をすごし、
ふたたび日本が「あらしの」つまり戦(いくさ)の直前にいるらしいと感じるからだ。



 

2019年3月4日月曜日

簡単とたたかうって

世界は「簡単化」と
たたかうことが、もうできない。
小さいころからの習慣で、私は活字を愛し、今でも読書三昧なくらし、
それはほんとうに、古びた木枠に入ってしまった人生だ。
流行らない。あともどりもできない。

驚いたことに自分のむかしの仕事が突然、今の世の中に通用するものになって、
その本が、映画という最先端事業とかかわることになった。
「昔」と「今」が私の目の前で、一年半まえから急激な勢いで、同時展開した。
戦前の歴史の一部を再現した「君たちは忘れない」が「あの日のオルガン」になり、
命運をかけてのロードショーが2月22日から始まっている。

「むかし」といったってたかだか80年前。
書き手の私はむろんのこと、疎開保育園の園児たちだって、げんきな人はげんき。


2019年3月3日日曜日

3月3日

一年半ばかり、「君たちは忘れない」の映画化と復刻版発行に関わっていて、ブログをどうにも再開できなかった。ブログになにかを書きとめようとしてもぼんやりしてしまう。ふつうの生活が映画会社を相手のとんでもないものに変わったからだ、きっと。

そういう生活が苦しくて、ついつい簡単なメールをやりとりしてしまう。短文である。そうすると、文章力みたいなものが、おそらくメールに、・・・メールという名まえの見知らぬものに吸い取られてしまうわけだ。おそろしいほどさりげなく、もう本当に確実に。

むかし、子どもが3人いた時、私はテレビをブン投げて捨ててしまった。
子どもたちはどんなに私を恨んだことだろうか。
恨んでもダメだと私はゆずらなかった。
それは、「ことば」に対して私が純粋であり、信念をもっていたからだ。
うちは文章の家だと私は説明していた。
そこはゆずらないで不便をしのいだ。

こんどは、自分がメール通信というものを捨てるべきだと、思う。