2020年8月30日日曜日

お皿ぱりんぱりん


最近たて続けに、大皿を落っことしたり、小鉢を割ったり。
小皿なんか、なぜか一枚だけになった、6枚はあったのに。
これなんか割ったおぼえがない、小皿が自分で隠れたんだという気がする。
でも、あっちこっち、さがすけどいないのだ?・・・!
大なべ小鍋も使い方不全、ほかに気を取られて焦がしちゃって。
お鍋はステンレス製のを3つ買ったけど、こわくて並べてただ見てる。
ステンレスは熱しすぎると焦げますという説明だった。
熱くなり過ぎないうちに火を止めて下さいだって。

今日はヒマだからと駅近くの「ニトリ」によって、
大皿を2枚、お箸を1ダース、ランチョンマットを2枚。
小皿は好きなのがなくて買えなかった。
あんまり安くて、びっくり。
こんなに安くていいの?ときいたら、美人の店員さんがまちがえたのだった。
でもまちがいを訂正したところで、やっぱり安いのよね。
お箸なんかもう、かわいそうみたいに安い。
大皿だって2枚だというのに、重たいお皿が1000円しなかった。
割った大皿は、30年もまえ、上北沢の洋服やさんの店先にあった2枚だ。
あの時はお皿1枚が1000円じゃなかった?
物価って上がってるのか、下がってるのか。

帰宅後、夜になっているのに、戸棚の布類を捨てるものは捨て残すものは洗濯。
毎日毎朝、見とれるほどこわく太陽がギラギラしている。
だからいいさ、あしたの午前中には、みんなすいっと乾くはず。

・・・秋がもう其処まできている、歩けば茶色の落ち葉が地面をうずめ、
家の庭のしゅうめいぎくの葉の周りにはトンボがいる。
大柄な蝶々が、近くにきてなにかをずーっと探している。
それなのに、いつまでもいつまでも、今年はなんて暑いのだろう。


2020年8月29日土曜日

安倍首相退陣


テレビを見ないので、首相が首相職を降りたことは聞いたが、
その際、報道関係者にどう挨拶したかは、翌日の朝刊を読んで知った。
新聞のどこをどう読んでも、自分なりの感想が浮かばない。
安倍政権は首相在位最長記録を達成したそうだけれど、
辞める理由にがっかりするばかりだ。

私が子どもだったころ(とこれはエーリッヒ・ケストナーの本の題名だけど)、
親が、むかしフランスの王様がこう言ったと話してくれたことがある。
「わが亡きあとに洪水よきたれ」ルイ14世だったか。
暴君の本質をついた物言いだと、父は言ってたっけ。
思えば、むかし洪水いまコロナ禍。

ケストナーはユーモラスな童話作家でドイツの人気風刺詩人だった。
彼が活躍した時代のドイツは、王政ではなく ヒットラー独裁である。
だからエーリッヒ・ケストナーは自分の本を国会前で焼かれ、追放され、
第二次世界大戦が終わるまで、12年もドイツ国内を隠れて逃げ回った。
ヒットラーは、王族とちがい選挙民(男だけ?)が選んだ「暴君」だった。

「わが亡きあとに洪水よきたれ」は、無責任と自己中心の 捨てセリフ。
戦後ドイツ人はヒットラーを「選んだ国民」として、自らの責任を忘れまいとした。
外交でも国政でも国をあげて四苦八苦した。今でもそうだ。
私たちはどうだろう。死んだあとなら洪水だろうがコロナだろうが来るがいい 、
と日本の親がまさか言うまい、思うまい?


とんでも歩行


豊ヶ丘は大橋ご夫妻のお住まいがある場所で、近くに豊ヶ丘図書館がある。
今までそこへ歩いて行こうとして、どうしても私は、なんだか迷う。
大橋夫妻は結論として、私の脳みそがほかの人間とちがうと考えたらしく、
このあいだなんか、図書館で読書会がおわったとき、
駐車場がメとハナの先にあるのに、いいというのに私から離れてくれない。
迷うと思っている。たとえ私がなんでも、1本道なんだからわかるのに。

昨日はトラウマに挑戦。
どうしても到着できない豊ヶ丘に向かうことにした。
道がわからない、サッパリわからない。
自分じゃその理由もわからないのが、おもしろくない。

驚き桃の木山椒の木だけど、
するする行けちゃって、あっさり、左へ行けば大橋家、右に行けば図書館、
2684歩あるいたら、もう豊ヶ丘になった!
自宅近くのスーパーマーケットの前を通り過ぎて真っ直ぐとか左とか、
この際、自分の生意気身分ちがいの目標をとりさげ、
「いつもクルマではこう行く」という車道の、せまい歩道を歩いたのである。
どんぐりなんか拾っちゃって。あらもう公園なのかと思ったりして。
クルマなら迷ったことなど一度もなかった道だと気がついたりして。
そうしたら、アーラなんだこれ、もうするする・・。

大橋家に借金があって払いたいと思ったけど、夕方なのでそれはやめた。
せっかく豊ヶ丘図書館があったのだからと記念に3冊、写真型本を借りる。
こんどこそ、図書館の壁にそって樹木のきれいな脇道を、ひたすらまっすぐ、
つぎに来る時はこれを逆流すればいいわけだとか考えて帰る。
このあいだ、同じことをやったのに判らなくなったのはどういう不思議かしら。
と考えれば逆流は無理かもと反省、しかし性懲りもなく冒険だからと階段を昇る。
ああこの原っぱ! だけど石の橋があって、それを渡るとまーた原っぱだった。
くたびれたけど、やっとこさ家にたどり着いた。

6845歩も歩いて、あしたもあるくのかーと。



2020年8月27日木曜日

仙女洞 2


とにもかくにも、坂をのぼり、
やっと浅井典子先生の事務所に到着。「りんごの木」である。
浅井先生は新生多摩市に移住後、働く親たちの必要からみんなと協力して、
市政を動かした。そうやって数々創立された保育園には、
みんな可愛らしい木の名まえがついているそうで・・・。
それで此処も「りんごの木」なのだろうか。保育園じゃないけれど。 

「リンゴの木」は、やっかいな坂の上にある可愛い事務所である。
世界中に出かけた保母さんたちの古典的なお土産?でいっぱい。
いいな、うらやましいなと、来るたびにそう思う。
かつては、コダーイ芸術研究所関連の保母さんってたくさんいたのだろう、
働いては外国旅行をしたのだろうし。
芸術研究所という名のつく集まりだったから、
歴代の学究肌の保母さん達のおみやげは、文化的、神秘的、民族的。
洒落たテーブルクロスの上に、異国のお人形が棚からあふれて、
その横に、読んで下さいねといわんばかりの小冊子や絵葉書が、拡げてある。

事務所の隣りは「わらべうた」サークルの合唱用のけいこ場。
すぐ右奥は厨房。
いつも、これは保育という職業柄にちがいないと考えてしまうのだが、
お訪ねすると、出される飲み物食べ物のあれこれ、
帰りに持たせて下さる、もう多種類こまごまの沢山のおみやげ、
手作りだし、家庭的だし、便利を考えてあるのが、しみじみ懐かしい。
よく気がつくお母さんの代わり、という「職業特有の能力」が印象的なのである。

今日は、浅井先生といっしょに今井さんにも会える。
今井さんは調布市の人で、私たちは子どもがおなじ第一小学校の同級生だった。
かれこれ40年も前のPTA同士。
まさかあの今井さんの職業が保育士だったなんてビックリだ。
それが70代も後半になって、思いがけなくお付き合い復活。
すぎなの会の「すぎな珍聞」という表紙の、
笑って痒くなりそうな名前の小冊子(!)を送ってもらって読んだけど、
この小柄でまじめで優等保母みたいなタイプの人が 、
現在この会の代表なんである。

「すぎなの会」とは、
コダーイ芸術教育研究所の趣旨に賛同し研究所の発展を支援する退職者の会
なんですって。
この会に招いていただいて、映画「あの日のオルガン」になった私の著書の
登場人物、戦中戦後の保母さんたちについてお話したことがある。
参加者の中には、映画に描かれた保母たちを直接知っているという人もいた 。

数日後、今井さんより電話。
「みんなで、あのあと話し合ったんですけれど・・・」
講演料金についての電話だった。それがちょっと童話みたいな。
思い出すとおかしくて笑っちゃうみたいな。
電話の今井さんは、終始一貫まじめ事務的申し訳なさそうな口調である。
「あの会のあと、あんなお話にあんな講演料はないということになりまして、
ついては貧乏団体で、こういう時には私たちとしては貯金を使うしかなく、
その貯金というのがですね、私どもがかれこれの時余ったお金を入れる壷が、
そういうものがあるんですけど、その壷の中にあって・・・そこからお金を」
はははは。今井さんもおかしくなってきたらしく吹きだしたりして、
「そこからすでにお渡しした講演料に足してという結論になりましてですね」
ついては差額をどこでどうやってお渡ししたらよいでしょうか、だって。

2人のむかし保母さんの、老いてますます磨きのかかった人間ぶりを思うと
この事務所って仙女洞なんだなあと、思ったりして嬉しいことである。



2020年8月26日水曜日

体力と相談


日曜日、とんでもなく早くから、夜遅くまで努力して、

月曜日、5000歩、歩くのを中止、1日中眠っていた。
洗濯して、干して、眠って というのを4回くりかえし、
ごはんも食べない。ブログも延期。夕方になって、
南大沢のアウトレットで買い物。おなじズボンを4本。私のじゃないけど。
帰りに冷やしラーメン。

火曜日、一日さぼるってすごいことで、いつものように歩こうと思うけど、
その気になれない。クリーニング屋さんめざしてとにかく・・・歩きだす。
リュックサックに野菜とか魚とかを買ってつめて。手にも大荷物。
帰りはバス。ブログもさぼる。夕方またアウトレット。
ズボンの修理が出来たので。またラーメン屋。
南大沢近くの冷やしラーメンが珍しく気に入っているのであーる。

水曜日、ズボンの修理にゴムが必要だと、ユザワヤまで買いに行く。
またできない努力。歩きである。
私の決まりは、歩く(5000歩)と書く(ブログ)と家事全般。
一日さぼると、決心するのに3倍ぐらい、迷いを生じるとわかった。
でも、
毎朝、この夏、起きると私っていつも気持ちが真っ暗。
昼になって椅子に腰かけガラス戸の向こうを見る、
・・・あたりがギラギラと燃えてひかって、外に出ればどうなることやら。
こんなでは、だれもが生活を憎みはじめるだろうと、想像する。
じぶんの生活を憎むのはいやだ。恨むのもダメだ。
どんなに夏が暑かろうと、友だちみんなで工夫したい。
気持ちが、いかようにも柔軟、というのが平和である。

体力がないのに、ルールを決めたからといって、がんばればどうなるか。
やすんで、たちなおる、そういうものだと常識をかえるしかない。
ちゃんと休んで、イヤだイヤだイヤだと立ち直るわけだ。
じつにかったるいけれど、
そうしないとダメなもんならそうしよう。

今日はまだ水曜日なんだけど、あるきはじめに図書館ですごく待った。
読みたい本をさがしてもらうあいだすごく待って、
ずーっと椅子に腰かけて、へたばってるから、助かったなーと・・・。
借りたい本が見つからなくて、それも、から手の方が軽いからけっこうな。



2020年8月22日土曜日

仙女洞 1


「仙女洞」とお呼びしたいような事務所が永山駅にある。

考えてみればおかしな、童話のようなことで。
まず京王線でも小田急線でもよいので電車の改札口を背中に右へ行くと。
ステレオタイプの商業店の並びの果てにパチンコ・ビルディング。
ビルディングなのだパチンコやスロットマシーンの。
そこを用心深く右に曲がるとコンクリートの橋がはじまる。
コンクリートね、ここでいいはずよね。
とにかく橋を渡って。
そうすると、土とか泥とか。小山とか坂とか。ぜんぶが土になる。
橋を渡ればすぐ公園で、
見上げれば、石やら鬱蒼とした樹木やら年季のはいった遊具やら。
公園の下に小道がついていて右は下り坂、左は上り坂。
遊びたくない人は、私がそうだけど、左に曲がって坂をのぼるようになる。
すると雰囲気が、保育園の領土のようなふうに、
公団運営仕事と、棲む人働く人の意志目的の混合といったふうな、
好ましい 神秘性をおびはじめる。
なにしろ上り坂で会う人が、なんとなく親切、
小人のような、・・・ふつうの大きさなのに。
ええと、道がわからなくなっちゃってというと、
浅井典子先生の、保育関係の、童話みたいにステキな、とかいうと、
首をかしげたり、ああわかりましたと言ったり、その人がまた人にきいたり、
それで、けっきょく到着してしまう・・・。




2020年8月21日金曜日

不景気な堂々巡り


あさ、眼がさめたら、涼しくて、
南と北の窓をあけて、風を部屋に入れた。
きのうの夜、おそく帰って来た息子に、食べさせちゃったので、
朝ごはんを思いつけない。
まったくおなじ物は?やっぱり出す気がしない。
そうかといって、冷蔵庫の中はごたごたしてるだけで貧弱。
扉をしめてよろけて、うんざり。

きのうのことだけど、
どういうわけかカナブンみたいな大きくてしつこい虫がブンブン、
罪もない虫をやっつけちゃったので、ゲンがわるいのかも。
歩きすぎちゃったので熱射病かな?
イリヤ・エレンブルグの読みすぎかも。
歩くのもなー、帰りが。
やめてバスに乗ろうと今さら思うのがみっともない、乗らないけど。
約束の短文は今日が〆切。
お隣りの若いご夫婦が二人でぱぱっとプリントしてくれたから、
きょうは、有り難く涼しい顔して歩いて・・・ 
でも、歩けば熱射病がはじまる。
またしても予感がカビみたいに生えてくる。

洗濯物を二回分干したら、こ、こ、こういう気分がどうにか納まった。
私ってメカニズムが、ド単純なのかも。
洗濯するとすらっと気分がなおる。
ような気になる。
洗濯機信仰?によって、熱射病から逃げてしまう。
そのうちいそがしくて、忘れるのだ。
しつこい憂鬱を。


2020年8月19日水曜日

1961年以来の借り


1961年といえば、私は18才だった。1960年安保の次の年だ。
私の高校は、国会議事堂にちかい場所にあったが、都立校だし
安保闘争の影響など受けまいという守りの人間が多かったけれど、
それでも学校にいれば、1960年は、わさわさと落ち着けなかった。
とくに、私たちの学年には、奥君とか千谷君とか、学生運動に身を投じ、
大学入学後職業革命家みたいになり、のちに自殺してしまう同級生もいて、
そういうことが忘れられない。

一方、私にとって1961年とは、
「人間・歳月・生活」という書物を、新宿の紀伊国屋で買い始めた年だ。
大学の文学部に入学すれば、とりあえず若者は語学によって文学作品を選ぶ。
仏文科ならば、例えばサルトルであり、ゾラであり、モリエールであり、
露文科だとトルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、チェーホフ等々。
私は露文科ではなかったけれど、第1外国語にロシア語を選択したから、
どういういきさつがあってそうなったか忘れたが、
イリヤ・エレンブルグの「人間・歳月・生活」という書物に行き当たり、
6巻もある本を出版されると買って、そしてとばし読みをしたのである。

私はこの本がとても好きで、どこに住みどう暮らすことになっても、
代田橋の4畳半だろうと調布の6畳一間だろうと、現在の多摩市の家にも、
この6冊を運んで、「いつか終始一貫きちんと読了する」と誓いをたて、
しかし、雑事にかまけてさっぱりそういうことができず。
この何年かなどは、ああこのまま読まずに死んじゃうのかしらと
そんなことを考えるようになっていたのである。

「ダ・ヴィンチ・コード」というとんでもなく長い小説を読んだあと、
娘に電話してきいてみた。
こんな長編のわけのわからない本が読めるんだから、ロシア文学の例えば
トルストイの「戦争と平和」とかドストエフスキーの「死の家の記録」だとかさ、
「読もうと思えば、もう一度、私にも読めるかしら」
なにがおかしいのか遥はふきだして、
「読めるよ、ダ・ヴィンチ・コードが読めたんだから」

神様というのは、ほんとうにいるみたい、と最近よく思う。
真夜中眠れずに頭上の本棚に手を伸ばし、暗闇の中で本を取り出したら、
不思議にもそれが、エレンブルグの「人間・歳月・生活」の第1巻だった。

だから今、私はやっとキッチリ借りを返している。



2020年8月16日日曜日

おひさまポカポカ


おひさまの光を、朝、あびると、とってもいいらしい。
そうね、そうね、わけのわからない細菌を消毒してくれるのでしょ。
おひさまはなんにもいわないけど、
外で遊ぶ子どもをだいじに守ってくれるヒトよね。ヒトじゃないんだけれどね。
そんな感じの絵本を、文庫連の青木さんがポストに入れておいてくれた。
「私はあいちゃんの ランドセル」という写真集。
福島原発事故の記録である。
遊行社の本。
遊行社なんて初めてきいた。
日本にはまだこんな本をつくってくれる人がいると思うとうれしい。
写真と文は、小学校の先生だった菊池和子さんで、
54才のとき、先生をやめて6年もポルトガルのリスボンでくらし、
2008年に帰国した。いま、74才ぐらい?
こんな先生だったひとも、日本にはいたんだと思うと、ほんとにうれしい。

そういえば、青木さんがきのう、午後から遊びに来てくれて、
ふたりであの本この本のはなしをしたけど、
いまでも、彼女の温かいひかえめな笑顔が、ちゃんと
私のあたまにも、耳にも、胸や肩のあたりにも、のこっている。
青木さんらしい地味でおだやかなお花のブラウス。
なんて安心な時間だったろう。
20年ものおつきあい。
多摩市に引っ越してきたとき、だれかだれかと私はさがして、
図書館協議会委員を公募していたから、
なんとかして本を読む人のそばにいたくて試験を受けた。
青木さんはそこにいてくれた人である。



2020年8月15日土曜日

まいご


「ダヴィンチ・コード」に掴まえられたみたいになってしまい、読書ざんまい。
食事も、ろくにせず、夕方買い物にでかけ、ふらふらするかもとおもいながら、
途中で、車から降ろしてもらって、自分だけになり歩いて帰宅した。

なんとか距離を節約しようと、右へ曲がり坂を上り、かならず迷子にな ると確信し、
道路に出て、考えなおして、次に見たこともない階段を上がると、
公園の入り口に出た。
「あの公園だ、一度なかをよく見たかった!」
そう思って通り抜けたら、カン違いだったのが不思議でしょうがないけど、
私がぜひいちど通ってみたかった公園じゃなかったんだけど、
それでも、出たところがよく知っている通りで、それも不思議だった。

こんな頭じゃ、「ダヴィンチ・コード」なんか無理だと思った。
ぶっ飛ばして、先を知りたくて、斜め読みに終始するから、
なんにも、心にのこらない。
なににつけても、自分はまちがえたという喪失感。
これも、どうにかしてヘンだと思いたい。



2020年8月13日木曜日

ダヴィンチコードという読書


コロナ、と言うまい。
といまいましく考えながら暮らすうち、
こんどは、暑い暑いと言わないぞ、みたいな。

「ダヴィンチ・コード」を読む。
冬、読んだら、凍っちゃいそうな本である。
登場人物だって死体だって、本格的に気味が悪い。
それだけど、人物の案配がよいせいか?やめられない。

「私っていい加減だけど、一応クリスチャンだからさ」
電話のむこうできこちゃんは、かん高いしゃがれた声で、
「聖書も少しだけわかるから、うん、おもしろいわよ」と。

なんか聖書を読んだことがないし、
ペテルブルグのエルミタージュ美術館とか、
オランダの美術館にまぎれこんだ時など、
宗教画がこわくて見るのがイヤになっちゃって。
それなのに、読書継続中である。

「ダヴィンチ・コード」がいくら大ベストセラ―だといっても、
知識人の仲間入りができるような錯覚がうまれ、つい釣り込まれて、
華麗な宗教美術史みたいな推理小説を、もうずーっと読んでいる。
重たくて2巻もある小説。
作者は、ダン・ブラウン。1961年生まれ。
42才で「ダヴィンチ・コード」刊行。

よくわかってなくても、おもしろいけど。
自分は世界をしらないまんまトシをとり、
そのまんま死ぬのだと、いまさらながらガッカリだけど。



2020年8月12日水曜日

夜中のケガ


夜中に目がさめて、水を飲みたくて台所に行くと、
お風呂上がりでキレイな息子が階段を降りてきたからびっくり。
もう2時よと言うと、 転んでケガをしたんだと言う。
夕食後、ビデオでディズニーの?「エラゴン」とかいう、
オズの魔法使い変化版、いささか長いファンタジー映画を観て、
くたびれたから私は寝てしまったけれど、

彼はそれから(夜中だ)走りに出かけ、戻ってきて、
気持ちよく酔っぱらっていたんだか、
今度はなぜか自転車に乗って、豊ヶ丘のあたりを走りまわって、
急に自転車がパンクして自転車ごとひっくり返り、
でもうまく転んだので(!)、少々の負傷と両手のひらにキズだけ。

「あの豊ヶ丘の図書館のあたりからさあ、
自転車抱えてずーっと歩いて家まで帰って来たんだよ、母さん。
だいじょうぶ、大丈夫、朝になればこの傷も治ってると思うよ。
ただ、あーもうっメンドくせーなー。
あしたは自転車を修理に持ってかなくちゃならないっ」

・・・とかなんとか、
言ったのでありました。



2020年8月11日火曜日

熱風の日


今日は日中、気温が37度になるってきいた。

私の平熱は35度2分、歩いたらお湯の中に漕ぎ出す感じかしら。
家の中から外をながめると、木の枝が斜めにゆれて炎みたいだ。
洗濯物をとりこみにいけば、クーラーの排気の熱風?がガラス戸にあたって
こわいみたい、火事にでもなったらと不安な夏である。

中空で、風がずーっと 音をたてている。
雲がひとつも見えない日。
なぜだか久保のお姑さんの話す声を不意に想い出す。
私がまだ髪の毛を三つ編みにして、旅公演に出かけ、
銀河鉄道を渡る舟に乗り、被爆して死んだ女の子をやっていたころのことだ。

「ここに引っ越してきたばかりの夏にね、家の前はまだ畑だったですけど」
庭に水を撒き終わったお舅さんが、畑に水を遣っているお百姓さんに、
どうぞ家の水道をお使いなさいと 声をかけたのだという。
お百姓さんはとても良い人で、結構ですからとしきりに断ったけれど、
しまいにはお舅さんの勧めにまけて、水をもらって撒き始めたそうである。
「そうしたら、もうね、ああいう人たちが水を撒くっていうことは」
お姑さんはそのびっくりした時のまんま、すこし声を潜めて言うのだった。
「もうね、ジャージャー、ジャージャーと、いつまでもいつまでも、
やめないんですよね?! 始めたら最後ずっと夕方になるまで撒くんですね。
やめないのよ、ツンコさん。 ああ、お百姓さんって私たちなんかとはぜんぜん、
基準がちがうんだなーってあの時は思いましたよね。」

お姑さんの話はどこかおかしく出来ていて、私はしょっちゅう笑ってた。
お姑さんていい人だった、お話がいつも楽しかったなあと思う。
ツンコさん、といえば。私はお舅さんもけっこう好きだった。
佐分利信みたいな、演出家の菅原卓先生みたいな美しい白髪、風格。
「かあさん、ところでツンコさんはなんという名前だったかね?」
お父さんたらね、このあいだ、お母さんにそんなこと聞いてるのよ。
3人姉妹たちがドッと笑って話してくれたっけ、
「いいえ冗談じゃなくて本気なのよ、あの方、冗談なんか言わない人ですもん」
いかにもの感じだからおかしくて笑っちゃったけど。
結婚して子どもたちもいた頃だった。

離婚なんて久保家では前代未聞だし、
それがお舅さんの亡くなったあとで助かったなあと思う。




お墓の掃除


暑い日。
お墓のある狭山湖霊園に着いたのが2時すぎ。
暑いのもあたりまえだ。
植木バサミで、柘植の木を伐り、ツツジの枝を刈るというか、切り落とす。
散々のび放題で手に負えない。
霊園で貸してもらった大きな鋏を使うが、手を痛めそうなので、
なるべくそれを使わず。うちから持ってきた植木バサミでひたすら伐って伐って
よそのお宅の墓地まで伸びた木をつかんで伐り払い、落ちた枝を投げ、
息子がそれをどこかへと運んで行って捨てる、もうおたがい無言で何回も何回も。
やっと片付いて大理石の墓石を束子で水洗い、持ってきたタオルで拭いた。
・・・2時間以上。

お線香を焚いて、手をあわせるけれど、
ここに眠っている私の父と継母に、けっきょくのところなにを祈ればよいのか。
いつのころからか、生きている者のことは考えず、自分としては不思議にも
2人ともやすらかに幸せにしていてください、と死者を想うばかりになった。

健も私も、着ているものが絞れるほど汗でびしょぬれ。
片づけて、がっくり荷物をもって歩き出したが、じゃぶじゃぶ音がしそうだった。
すぐ近くに小菅家のお墓がある。先ごろ純子ちゃんから、
お盆だし植木を伐ってきれいにしたと聞いたのに、お参りもできなかった。
彼女も「お宅のお墓に寄れなかった」と言ってたけど、暑いは疲れるはで、
すぐそこなのにどうしようもない、そこの角を曲がって歩けない。
純子ちゃんとは、それぞれお墓を掃除することで待ち合わせしたものなのに。

どこのお墓も太陽の圧迫に熱で荒れて、たいへんなかんじだけれど、
大きな墓石の両側に小さな石の像が並んでいる区画がいいなあと思う。
石像って荒れ寂びてもどこか可憐で、小さければ小さいほど、
お花がなくても風情が目に楽しい。

びしょぬれで車の座席に寄りかかかることもできない。
霊園で教えてもらって、15分ばかりの東村山「かたくりの湯」へ行った。
食事もして、着替えて、気がやすまって、8時すぎ自宅に到着。
大変にはちがいなかったけれど、気もすんで楽しい一日だった。

墓苑の事務所にいる時、ぼんやり考えたことだけれど、
ああこんなふうにして、私がつねに考えていることを ぜんぶ捨てたらと。
お墓と、それから木と風と虫や動物のことを考えて。
そんなふうに生きる人もいるのだろうから。
まあ…死者がそうなんでしょうね、きっと。




2020年8月10日月曜日

シールズの消息


8月9日は長崎の、被爆75年の日。
東京新聞の朝刊に、本当にうれしいニュースが載った。
2ページ、そらいろの核心という文字。
「被ばく100年を 戦後100年に」の大見出し。
林田光弘さんについての記事だった。
シールズの消息なのである。

  彼についての紹介
   1992年、長崎市出身。爆心地に近い同市浦上地区で育ち、
   高校生に1万人署名や高校生平和大使の活動に参加する。明治
   学院大に在学中、SEALDs(シールズ、自由と民主主義の
   ための学生緊急行動)の創設に参加し、中心メンバーとして活
   動。現在は会社勤めの傍ら、被爆者の証言会などを続けている。

2015年のころは、私も安保関連法に抗議するために、国会へ出かけた。
5年前である。以来、シールズはシールズはと時々、考えた。
彼らは無事に就職できたのだろうか、と思ったりした。

林田さんの記事を読んで、彼が就職していたことを知りホッとして。
働きながら、ヒバクシャ国際署名ののキャンペーンリーダーを務める彼は、
被爆3世で、いま28才なのである。

新型コロナによって大幅に制限された被爆者の活動について、
彼はこんなふうに話している。

(従来の活動のかわりに、オンラインでの証言会をやったことに言及)
「一つは若い人の参加のハードルが下がったこと。高校生や大学生が三十人から
 五十人ほど 参加してくれた。通常の証言会ではなかったことだ。
 もう一つは、活発な質疑応答ができた点だ。北海道から沖縄までの若者が、被爆の
 話を聞いて議論することは、貴重な学びの場になったと感じた。」

こうも語っている。
「私は最近、被爆百年をどう迎えるのかということを考えている。
  これからの二十五年を日本は戦争をせずに過ごし、被爆百年を戦後百年で迎える
 ということが、被爆者に贈れる最大の感謝ではないか。被爆者がいなくなる戦後
 百年を考えたときに、当事者意識を持って活動する人を全国に何人つくれるのかが
 すごく大事なことだと思う。」

素晴らしい記事だった。

燎原の火ということをおもった。
いつか朗読の会で、みんなで絵本を読み、学んだことばである。
燎原の火というものは、大地を猛烈に染めて拡がって、
いつかは人々の祈りを現実に変えるのだけれど。
その松明のひとつひとつは、彼の話にあるように、
やっぱり30人ぐらいの、なかなか大きくならない松明(たいまつ)なのだ。

落ち着いて人々の心をつかむ 松明こそはだいじなものだ。
被爆百年を戦後百年に。

シールズの林田さんが、今日そこにいるということを、
ほんとうに喜ばずにはいられない。



2020年8月9日日曜日

旧作「リトルダンサー」をみる


今日は、どんな日だったのだろう?
家で映画を観て。
「リトルダンサー」は、アイルランドは労働争議中の炭鉱が舞台である。
殺伐とした男支配の家族。母親がいない11歳の男の子が、
廃坑寸前の炭鉱住宅で育ち、なんとバレエを職業にしたいと望む。
女の子ばかりのバレエのレッスン。不可能で哀しい映画である。
彼にバレエを教える女教師が、私のよく知ってるトミちゃんにそっくり、
クールというか、パンクというか、心底親切、堂々とあるがまんま。
少年の家族がまた、粗暴、不器用、非妥協的。いかにもの秀逸リアル。
俳優が、どの人もみごとで素晴らしい。
映画は、人間がそんなふうなのに、風景も人もなにもかもが美しくて、
・・・・つい泣きながら見た。

なんの義務もない日だけど、4時すぎてから歩く。
せっかく買ったリュックサックといっしょである。
図書館。それから、工事をよけて山道みたいなところをデパートまで。
山道はともかく、デパートを、2階、5階、8階と歩くと、
たちまち4千歩を超えるのはなぜなのかしら。
きょろきょろするので、歩いていることを忘れてしまうのかしら。

デパートではモロヘイヤと空芯菜を買い、リュックに入れた。
図書館で借りた本3冊も、ちゃんとリュックの中だ。
年寄半日。あっという間に夜がきて、明日がきてしまう。
げんきなのか、正気なのか、これでいいのか、
私にはどうもよくわかんないのよねー、自分のことなのに。



本間家訪問


みっちゃんの家に行った。
みっちゃんは家族新聞「すいとんの日」を発行しようと格闘している。
この格闘を始めてからのみっちゃんは、
健康を取り戻してむかしのまんま。憂鬱がとれて元気である。
不思議なことだし、とっても安心、やっぱり嬉しい。

新聞づくりって、メンド―でしょうよねえ。
記事をあつめて、短くしたり長くしたり。
みっちゃんは手書きの人だから、編集作業も大変なことだろうし。
自分も書き、ヒトにも「書いてください」と頼む。
それにつけても、なんだかもう、気を遣わなくちゃならない。
家族新聞発行、とかいっても。
そんなこんなの雑然とした手続きをまえに、彼女はもうノーミソがいっぱい。
とりかかるまでの、この取り組みというか、「予想」が重荷なのにちがいない。
この「バケモノお団子」みたいなみっちゃんの編集直前の空想の重み!
いつ電話しても、お手上げらしく、
うー・・・ん、とうなるから、おかしい。
はははは。だって、それやらないと、ボケちゃうのよ、みっちゃん。

みっちゃんは淑人さんのバックアップを得て、生気を取り戻している。
やっぱり溌剌として、ステキで綺麗な笑顔だ。
トシをとったら、どんなにくたびれても、どうしても、
なにかと格闘しなくちゃダメなのね、イヤでも。

みっちゃんは格闘している!

淑人さんに、石原慎太郎をインタヴューしたテレビ録画を、見せてもらった。
石原氏は、現安倍政権のアメリカとの関係を問われて、吐き捨てるように
「卑屈だ」と。・・・ホント、よく言ってくれた、みたいな。
そうやって、そうね、そうかもねと、
彼の談話を聴き手といっしょに拝聴するうち、
石原慎太郎って立派な人だったのねと思いそうになってきた。

都合のわるいことは一切避けてしまうインタヴュア―の弱腰のせいだ。
石原慎太郎は、自分の言動にまったく責任を持たない。
権力者として人気者?として、栄耀栄華を極めた過去のその時、なにをしたか。
現在の日本と東京都の荒廃の基礎固めをしたくせに、
恫喝顔して、批判的な質問なんかさせないのである。

無責任が弱腰によって、どこどこまでもまかり通っていく



2020年8月8日土曜日

あのこはだあれ


あのこはだあれ
だれでしょね
なん、なん、なつめのはなのした
おにんぎょさんと あそんでる
となりのみよちゃんじゃ ないでしょか

 これって、だれがつくった童謡だろうか。

相模原障害者殺人事件の記録を読んでから、時間が少したって、
学校教育の過酷、長期自民党支配の弊害、官僚の自己陶酔などと、
私も「漢字」をつかって考えるわけだけれど、
けっきょく、この「ひらがな」の、
むかし、だれでもが知っていた単純な歌に思いがもどってしまう。

私は、自分だったらこんなふうに考えて、朗読し歌いたいと思う。

おばあちゃんが、隣りにちょこんとこしかけている孫をあやしながらきく。
  あのこはだあれ?
すると、となりのまだ3才にもならない孫が、老いたゆびの先を見るのだ。
  だれでしょね ?
あのこがよく知っている人だったから、
小さい孫はなぞなぞがあたったように、にこにこするのかもしれない。
涙のあとなんかがほっぺたにまだあれば、遠くの「あのこ」を、
たとえばもう大きい「カンちゃん」を、 ただふくれて見ているだけかもしれない。 
あっちのほうの、とおく、
  なん なん なつめのはなのした

なつめの花は、香るんだろうか、どんな影をつくってくれているんだろうか。
あの子のために。 50才になっても口がきけず意志疎通のままならない、
「カンちゃん」のために。
カンちゃんはおにんぎょうさんを、だいじにだいじにしている。
お人形さんが好きだし、だれにでもやさしい、
ときどき、あばれてすごくこわいんだけれども。
  おにんぎょさんとあそんでる、
あのおにんぎょうさんは汚れていて、足や手がもげたのを、またくっつけて、
おばあちゃんに縫い付けてもらって、カンちゃんにはかけがえのないものだ。
 
あの子はだあれ、誰でしょね。
 かわいい「カンちゃん」じゃないでしょか。

おばあちゃんの歌は孫のためにやさしいし、カンちゃんのためには母親らしい。
おばあちゃんはどんなヒトだろうか。
日本の母親というものは、そもそも、どんなヒトなんだろうか。


 

2020年8月7日金曜日

リュックサックを買いに。


今日は、お客さんがあって、午前中は2階の書斎なんかも大掃除。
やっとおわって、午後、図書館に向けて出発。
ところが、まちがえて、
図書館だと思ったところは、ただの中学校だった。
関係のないものは入るなという校長の警告が門扉に貼り付けてある
あーあ、なんて人を受け付けない殺伐とした中学校なんだろう。
暑いし図書館をさがすのはやめて、返却しようとした本は家に持って帰った。

夕方、南大沢のアウトレットへ。
青いリュックサックとオレンジ色の帽子を買う。
両方で1万円。
もうがっかり。
私が買おうとしたのは、半分の値段のペラペラした製品だったんだけど、
息子が「そんなの買ったらあとで後悔する」と言ってきかない。
しっかりものらしい店員さんが、このリュックサックはといろいろ言う。 
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないじゃないの。
エヴェレストに登ろうというわけじゃない、そこいら辺を歩くだけだ。
でも私は、そんなに高くはないが高価なリュックサックを買うことになり、
もうどうでもいいやと、オレンジ色の帽子まで買ってしまった。
どういうわけか、モンベルは帽子が安いのである。

これで明日からは、苦労せず歩ける。
古着的夏服、10年も前の藍色のブラウスなんぞの上に青いリュックサック。
頭にはオレンジ色のヴェトナムから来た帽子。
たとえば帰りに買い物をしたとして、
私はもう大根もカボチャもリュックに入れちゃうわ。
するとこのリュックサックなんだから、重みはきれいに左右に分かれるだろう。
明日から私は「苦力」的労苦に耐える必要はもうないはずである。
たとえ77才のおばあさんでも、
嬉しくてのんきで合理的な?歩行が?できるはずなんであーる。




2020年8月5日水曜日

メモ(相模原障害者殺人事件)


「相模原障害者殺人事件」(朝日新聞社)という本には、
日本の司法の混迷衰退と、マスコミの及び腰が
なんの細工もなしに編集されていると感じた。
それには、考えさせられた。

裁判の記録を読めば、問題意識のかたより(偏向)が私は気になる。
被告本人の意見と説明だけに、裁判する側の質問疑問が集中するのはなぜだろう。
19人もの人を殺傷した被告を育て見守ってきた人たちについての考察が
不思議なほど少ない。 

  ①両親ふたりと彼との関係をまったくと言ってよいほど問題にしていない。
   あまりにも気の毒だからだろうか?
  ②学校教育についても、彼自身の言動を問題にするだけで、
   教育者たちが彼と、どうつきあったのかをさがすことはしない。
   これも教師が気の毒だからだろうか?
  ➂政府に対する直訴。結果精神状態を疑われ、彼は措置入院となった。
   なんにもない個室。治療は投薬と医師による質問。そういう2週間だったという。
   彼の説明では、その間に、はっきり殺害の構想を深めたのだ。
   それでも、この精神病院の診療がよかったかどうかは、言及されない。
   そんなことにかまっていたら、現場が回っていかないからだろうか。

被告は、この教育する側の人達を決して決して、責めない。
この、保護者たちの立場と、被告の立場は調和している。
むかしむかし、片方は子ども。片方はおとなだったのに。

これは、理屈がすくなく読みやすい書物だと思う。
よくもわるくも、あるがままを語った物語なのだ。
被告と朝日の記者との、1回30分(しかも単独ではない)の座談に
多くのページが割かれているので、教育論とはべつもの、
読者は、いわば放り出されて、自力で沈思黙考することになる。

  ➃被告によって積極的に語られた「自己主張」の中には、
   衆議院議長に手紙で、殺害請け負いを表明をした(精神病院行きの直接の理由)
   話も、すらすらと、でてくる。
   直訴の手紙を読んでもらえれば、首相や衆議院議長が共感してくれる、
   漠然とではあるが、そう期待したらしい。
   どうしてそんなことを思ってしまったのか、
   裁判は、でもどうしてと、それを深めるギロンはしない。
   あまりにも荒唐無稽だからだろうか。

衆議院議長あてに手紙を書いた時、
彼は報酬として百億円余を受け取れるだろうと興奮状態で、考えた。
50人ぐらいの人に殺人話をきかせたらしいけれども、
彼の妄想が消えることはなかった。
冗談と受け取られることが多かったらしいが、
そんな冗談で「一応盛り上がる」若い世界って、「普通」だろうか。
自分の一生をふりかえって、なぜかひとごととは思えず、
 やり場のない痛さ、後悔で、苦しくなってしまう・・・。

一方で、
この「相模原障害者殺人事件」を読んで、
痛ましいかぎりの遺族の証言が、私にはひじょうな衝撃だった。
殺人者の、「ことばを持たない存在など無用の長物だ」という考えが一方にあり、
(それに対して)
愛というヒトが求めてやまない確かな感情がいったいどこからくるのか、
怒りと涙と。掛けがえのない存在を語る遺族のことばが、
泥沼に沈みがちな現代の私たちを、厳粛に包んでくれる。

必読の書だと思えてならなかった。
考えさせられる、という点で・・・。



2020年8月2日日曜日

相模原障害者殺傷事件メモ


「相模原障害者殺傷事件」(朝日文庫)を読んでいる。
居心地のわるい本だ。杜撰な、読みやすいけれど、きみょうなルポ。

雨宮処凛氏が週刊金曜日7/24 「らんきりゅう」に書いた文章だと、
こういうこともある。
  
  「最近の若いものは」などと言い出したら「雨宮処凛も老けたな」と言われ
  ることを承知で書きたい。
  この10年ほど、私は下の世代に対して、謎に思っていることがある。それ
  は、「なぜ、彼ら彼女らの多くには、”経営者マインド”が搭載されているの
  かという疑問だ。
  例えば「最低賃金を1500円に」という運動がある。時給が上がれば働く
  者にはいいことづくめだ。しかし、これに対し「中小企業が潰れる」「バイ
  トがそれだけの働きをするのか」と口にする若い世代は多い。 自らが時給
  1000円程度でバイトしているのに、である。
  彼ら彼女らは決して「労働者目線」では語らない。経営者の視点で物事を見、
  また統治者の視点で社会を語る。そのようなマインドの背景にあるのは「常
  に上を目指していない奴はクズ」というようなメッセージを浴びるように受
  けてきたことがあるのだろう。「一生自分が労働者だと思っているような人間
  はダメ」という刷り込みは、いつか成功して経営者になるのだから、自給千円
  でバイトしているのは仮の姿なのだ、という言い分を若者たちに与える。
  だから非正規労働者やフリーターの運動は、なかなか主流にはならない。なぜ
  なら多くが「自分は非正規なんてすぐやめる」と思っているからだ。
           

 (前文略)相模原の障害者施設で19人を殺害した植松聖の裁判。法廷で植松は
  「日本は借金だらけ」と強調し「障碍者はお金と時間を奪っている」と事件を
  正当化し続けた。
  財政難を看過できないと憂い、なんとかしなければと焦る気持ちはわかるには
  わかる。一方で、なぜ、総理大臣でも官僚でもないのに、これほど財政問題に
  こだわり、苦悩するのかという疑問が湧く。福祉職の彼は、そもそも財政問題
  など考えなくてもいいのだ。
  1975年生まれの私には搭載されていない「経営者マインド」は、90年生
  まれの彼には自然に搭載されている。植松聖は、奥田知志氏がいうように「時
  代の子」だ。

*相模原事件裁判傍聴記
「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだを出版したそうである。

   

いきあたりばったり


青空が見える。

洗濯物を干し、買い物に行き、自動車と別れる。
ぷらぷら、ぷらぷら、長靴下のピッピもかくやとばかり、
あっち見て、こっちみて、そして並木のそばの石造りのベンチに腰掛けて。
ピッピだと子どもだし童話だからベンチで休まないけれど。

携帯がチカチカ。大橋家に電話、うちは近くですよとおっしゃるが、
そんなはずはないでしょ。大橋さんご夫婦って「遊歩のプロ」みたいだ、
私にとっての100メートルは、彼らには10メートルなんじゃないの。
でも歩こう、近いと思えば近いのかも。
会えたらすごくうれしいし。

それで言われた通りの道順を、人に尋ねながらちゃんとたどり、
思いつきで横に曲がったりせず、けっこうずーっと歩く。
車道の向こうから声がして、
「このひと(私ですが)言うこときく能力に欠ける」と思ってか、
杖代さんが迎えにきてくれていた。
朝からロクなものを食べていないので、
テーブルの上のナッツも、黒豆もつい食べてしまい、
「森の珈琲」をご馳走になり、Mr.と杖代さんとたくさん話し、
それからまたも、すいすい歩く杖代さんのヨコを歩いて、今度はバスに乗って帰宅。
5000歩ちゃんと歩けた。それも嬉しかった。

5時に夕食を出かける息子が食べおわったころ、荷物が届いた。

シロクマのステキな青い帽子。青くて高価な、通信販売での買い物だ。
ところが彼には小さくて私のほうがちょっと似合う。
せっかく注文して買ったのに。
「かあさんのほうが似合うね。あげるよ」
あーあ、高い帽子なのに。
自分でお金を払うと私は言ったけど、
「いらないよ」

きょうはもう、私はなんにもしないわ。
楽しいばっかりの日曜日がこわれるとこまるから。


2020年8月1日土曜日

地味な悪夢


身体の具合がわるい。夢ばかり見る。

・・・私はボールにご飯を入れておにぎりを作っている。
作ったおにぎり二つと沢庵と海苔を、用意の清潔な布ナプキンで包む。
それを輪ゴムできちんと止めた。
丁寧に、いつもの手順通りにやる、息をつめて。
5時に起きて毎朝やっていることだ。
ところが信じられないことに、それが気がつくとユメなのだ?
時計をみると5時2分前。ノイローゼみたい・・・
綿密丁寧、面倒なたった今の全努力が、夢だなんて。
信じられないけど、でもユメだったのだ。
テーブルの上になんにも無い。
だから、
そっくりそれを、今から繰り返さなきゃいけない。

永遠のメンド―。
おにぎりの夢なんか。
シュールの範疇にゼッタイ入れないし。
酸素が頭に行ってない? 
悪夢。

夕方になって歩く。
具合がよくないのを放っておいて。
歩いて、不調を踏んづける。
読み違えでなければ、
これがきのう読みおわった三浦流の愉快。
いまのところ、全然ユカイじゃないが。

付記
楽しみがあると続く、と三浦さんは書いている。
丸善に寄り道。
マチスの絵葉書を買った。明るいきれいなハガキ。
5000歩。


いわゆる半日仕事

 
すこしばかりユメみたいな日だった。

真夜中に眼がさめる。ねむっても起きてしまう。
それで、午前中はあきらめて寝ていよう、と決めた。
今朝は気がついたら10時だった。
朝ごはんを食べて、コーヒーまで飲んだりして、本を手にとり、
それからギャッと気がついたんだけど、金曜日なんだからゴミの日だった。 
朝、8時までに出さなければ、ゴミは置いていかれる。
木曜日だと思ってたけど今日は金曜。金曜日は生ごみの日だ!
あきらめたけど、それでもゴミ置き場まで走っていってみたら、
うちの団地ゴミは、まだそのまんま!!
「なんて私って幸福なんだろう」
家にもどりながら口に出して言っちゃった。
「生ごみの始末」に「幸福」という単語はまるで合わない。
それでも、たぶん今日はいいことばっかりの日だと、ヘンでもそう思う。

きのうから私は「歩き続ける力」という本を読んでいる。
有名なスキーヤーで登山家の三浦雄一郎さんの本。
一回引退してそのあと、三浦さんは暴飲暴食、身長164センチ、体重90キロ。
65才の時に、お医者さんに捕まって、
「3年以内が危ない、なんとか手を打ちましょう」と言われてしまった、
という図書館の本だ。
この本を読んだら、急に元気が出てきて、私はただいまその影響直下にある。

三浦さんは86才で、南米最高峰の標高6961mのアコンカグアへ。
「父がモンブランで滑った(スキー)のは99歳」
それまでにはまだ9年もある、とあとがきに書いてある。
歩け、という本。無理はしなくてよいが歩け、歩けという。
この本のおかげでちょっと元気がでたから、
みっちゃんの「すいとんの日」の原稿を書いて、午後になって投函。

それから、寄付送金に銀行へ。三浦さんの本を手提げに入れて徒歩なのだ!
寄付はいいけど、銀行から出たら、肝心の税金の支払いを忘れている。
Uターンして長いことかかって入金。
それなのに、あきれたことにまだほかにも税金を払い忘れて帰った!
クリーニングに出した衣類を山ほどかかえて、帰りはバスに乗る。

バスを降りて階段を昇りかけたら、蝶々が二匹、花にからんで遊んでいた。
・・・あんまり可愛ので、石の階段に足をかけてしばらく見とれていた。
私は煙草を吸わないけれど、煙草があったらヘミングウェイになったつもりで、
おもしろそうな顔をし、それから単純なことばで風景にするのかしらなどと。
蝶々に見とれることなんて、そんなことはなかったと思うから、
やっぱり今日はよい日だったのである。

おかしなことがもうひとつ。
夕方、「必死すぎるネコ」というちいさな写真集を買った。
この「必死すぎるネコ」っておかしい。
ちょっとだれかにプレゼントしたら喜ばれるかも。
本屋の本棚からとってもうおかしくて笑い、
晩ご飯を食べてる息子に見せてまた笑っちゃって、 
「必死すぎるネコ」みたいなおかしな人に、
いやだけど、ちょっとなってみたいかなと思ったわけである。