2020年8月5日水曜日

メモ(相模原障害者殺人事件)


「相模原障害者殺人事件」(朝日新聞社)という本には、
日本の司法の混迷衰退と、マスコミの及び腰が
なんの細工もなしに編集されていると感じた。
それには、考えさせられた。

裁判の記録を読めば、問題意識のかたより(偏向)が私は気になる。
被告本人の意見と説明だけに、裁判する側の質問疑問が集中するのはなぜだろう。
19人もの人を殺傷した被告を育て見守ってきた人たちについての考察が
不思議なほど少ない。 

  ①両親ふたりと彼との関係をまったくと言ってよいほど問題にしていない。
   あまりにも気の毒だからだろうか?
  ②学校教育についても、彼自身の言動を問題にするだけで、
   教育者たちが彼と、どうつきあったのかをさがすことはしない。
   これも教師が気の毒だからだろうか?
  ➂政府に対する直訴。結果精神状態を疑われ、彼は措置入院となった。
   なんにもない個室。治療は投薬と医師による質問。そういう2週間だったという。
   彼の説明では、その間に、はっきり殺害の構想を深めたのだ。
   それでも、この精神病院の診療がよかったかどうかは、言及されない。
   そんなことにかまっていたら、現場が回っていかないからだろうか。

被告は、この教育する側の人達を決して決して、責めない。
この、保護者たちの立場と、被告の立場は調和している。
むかしむかし、片方は子ども。片方はおとなだったのに。

これは、理屈がすくなく読みやすい書物だと思う。
よくもわるくも、あるがままを語った物語なのだ。
被告と朝日の記者との、1回30分(しかも単独ではない)の座談に
多くのページが割かれているので、教育論とはべつもの、
読者は、いわば放り出されて、自力で沈思黙考することになる。

  ➃被告によって積極的に語られた「自己主張」の中には、
   衆議院議長に手紙で、殺害請け負いを表明をした(精神病院行きの直接の理由)
   話も、すらすらと、でてくる。
   直訴の手紙を読んでもらえれば、首相や衆議院議長が共感してくれる、
   漠然とではあるが、そう期待したらしい。
   どうしてそんなことを思ってしまったのか、
   裁判は、でもどうしてと、それを深めるギロンはしない。
   あまりにも荒唐無稽だからだろうか。

衆議院議長あてに手紙を書いた時、
彼は報酬として百億円余を受け取れるだろうと興奮状態で、考えた。
50人ぐらいの人に殺人話をきかせたらしいけれども、
彼の妄想が消えることはなかった。
冗談と受け取られることが多かったらしいが、
そんな冗談で「一応盛り上がる」若い世界って、「普通」だろうか。
自分の一生をふりかえって、なぜかひとごととは思えず、
 やり場のない痛さ、後悔で、苦しくなってしまう・・・。

一方で、
この「相模原障害者殺人事件」を読んで、
痛ましいかぎりの遺族の証言が、私にはひじょうな衝撃だった。
殺人者の、「ことばを持たない存在など無用の長物だ」という考えが一方にあり、
(それに対して)
愛というヒトが求めてやまない確かな感情がいったいどこからくるのか、
怒りと涙と。掛けがえのない存在を語る遺族のことばが、
泥沼に沈みがちな現代の私たちを、厳粛に包んでくれる。

必読の書だと思えてならなかった。
考えさせられる、という点で・・・。