2020年4月30日木曜日

コラムの続き


師岡カリーマの「本音のコラム」のあと半分は、
コロナ無事終息後について。
思うに、
この人はたぶん孫悟空みたいに、パソコンが如意棒の代わり、
それでもって、らくらくと世界中を駆け巡るのだろう。
こんなふうな若い人が今の世界にはたくさんいるのかしら。
眼から鼻に抜けるほどの頭のよさ。後半が私にはいささかわかりにくいけど。
さて、続きである。


  *同じころ   (・・)内は私
   (・・つまりヒマラヤが冠雪の姿を見せたころ)
   国際通貨基金(IМF)のブログでは「中国経済に再稼働の兆し」。上空で
   観測される二酸化窒素濃度増加が根拠とされ「励まされる兆候」だという。
   今停止している経済も、中国同様復興できるという道標が朗報なのは分かる。
   それでも、気候変動の主犯である二酸化窒素が増えて喜ぶのは、何とも皮肉で
   アナクロな話だ。
   (・・アナクロとは時代錯誤。 では皮肉って? バカッとか?
       ヒニクって、ワザとらしい正体見えみえ、をいうのかしら)
   IМFによれば今年は世界恐慌以来の景気後退となるが、来年は高成長が期待
   できるという。今度は自然に敬意を払うクリーンな経済の飛躍による成長を。
   もうきれいごとじゃない!


私は好きな本だとか絵本ばかり読んで年をとっちゃったので、
いまごろ資本主義の動向にくっついて考えるなんて、とてもむずかしい。
気候変動の主犯である二酸化窒素増加を、うれしい道標(みちしるべ)にして、
わーい、毒素が増えてきたと、資本主義の再生をついつい喜ぶ、
それが コロナ禍まっ最中のIМFなの?

それじゃ、国際通貨基金(IМF)のブログって、
「ダディ」という、フランスの小説に出てくるナチスに、
イヤ、ドイツの銀行家ヨアヒム・ゴルツにそっくりじゃないの!

「ダディ」は1989年発行の新潮文庫の文庫本で、私は2冊もっている。
どうしてかって、あんまり面白くて何十回も読んじゃって、上下2巻を。
しまいに本がぐちゃぐちゃになったから、もう一回買い足したのである。
カミュの「ペスト」より、こっちだと思うんだけど。
ルー・デュラン作、榊原晃三訳。
翻訳がまたすばらしくて飽きない。
ここのところ毎日こればっかり読んでいる。
異色の大型サスペンス!と文庫本の帯に書いてある!


2020年4月29日水曜日

「本音のコラム」からのニュース


師岡カリ―マという若い人が東京新聞の「本音のコラム」に書いている。
   
 *新型コロナ感染拡大を防ぐため、ロックダウン中のインドからのニュース。
  北部では三十年間見えなかった冠雪のヒマラヤが姿を現した。
  経済活動停止で空気の汚染が改善されたためだ。人間が汚染をやめれば、
  自然はすごいスピードで本来の姿を取り戻そうとする。その回復力は感動的だ。
  収入源を断たれた者には災いでしかないが、この病理自体、自然軽視の結果と
  言われる。
  パリも都市封鎖開始から二日で汚染が約30%改善された。現代人の日常が環境
  にかける負担の大きさがわかる。
  度々の異常気象で脅かしても改めてくれなかった 人類を、地球はウイルスという
  劇薬に訴えて、一斉停止させることに成功した。これを機に、今までの日常の
  「当たり前」を見直す時かもしれない。
 4・25

これがコラムの半分。素敵じゃないですかねっ。
  

2020年4月28日火曜日

訪問


玄関のベルが鳴った
友人が、ご夫婦ふたりでわが家をたずねて
外から私におみやげを手渡してくれる
本や新聞の切り抜き、それから
あんまりきれいなので買ったという素朴な小松菜の束を

どうぞ、ぜひお上がりになってください
私がお願いすると、せまい玄関で、靴を脱いで
くったくなく、にこにこと
テーブルのあっちとこっちに2人は腰かけた
私たちは、3人であてもなくゆっくり話をした!

いろいろな話は、
あっちへとび、こっちへとび
まだまだ春なので、のんびりとうららか
苦難をやり過ごす知恵はなかなか見つからないけど、
私をながめて笑う顔を見るとそれだけで安らかがふえる

誰かが、だれかを訪ねることが
こんなにうれしいことだなんて、おもしろい
3人が同じところにいて、いっしょの時が流れていく
それが、駅のそばのあの小さなケーキ屋さんの
スポンジケーキみたいに、まーるくてあまいなんてね!



2020年4月27日月曜日

息子の友人


こっち側のメタセコイヤのむこうに、あっち側のメタセコイヤがある。
私の家はメタセコイヤ通りに面している。
土手の上の家だから、2階にいると大きな樹の上部と向き合うことになる。
椅子にななめに腰かけて、ぼんやりしていたら、ゴリラが見えた。
緑いろのゴリラだ。今日はじめて気がついたんだけど、
向こう側のメタセコイヤが、向こうからゴリラ模様ですごんでいるのだ。
生き生きとした、よい眺めでは、ある・・・。

桃塚怪鳥さんに電話をかけた。桃塚怪鳥は息子たちのロック友達。
彼は川崎に住んでいる。曲がりくねった信じられないような急な坂道の
てっぺんの、そのまた家の階段をのぼった2階建ての小さな家だ。
なんで知っているかというと、何年かまえ遊びに行ったのである。
よく行けたと思う。息子がいなかったら、知り合いにもなれなかった。
 桃塚怪鳥という名前! 異様なステージ衣装、冬でも赤いパンツだけで、
(ほかにも細工があったはずだけど思い出せない)ギターをもって、
その姿で演奏する、夏でも冬でも。みぞれが降る夕方にだって。
歌声はもちろんふだんの声もよい、気持ちがていねいな優しい人で。
以上ぜんぶを組み合わせると、どう考えたって変人?!
はははは。 

彼をみていると私には思い出す詩がある。

辻 征夫の「春の問題」である。
    
       また春になってしまった
       これが何回めの春であるのか
       ぼくにはわからない。
       人類出現前の春もまた
       春だったのだろうか
       原始時代には ひとは
       これが春だなんて知らずに
       (ただ要するにいまなのだと思って)
       そこらにやたらに咲く春の花を
       ぼんやり 原始的な眼つきで
       眺めていたりしたのだろうか
       微風にひらひら舞い落ちるちいさな花
       あるいはドサッと頭上に落下する巨大な花
       ああこの花々が主食だったらくらしはどんなにらくだろう
       どだいおれに恐龍なんかが
       殺せるわけがないじゃないか ちきしょう
       などと原始語でつぶやき
       石斧や 棍棒などにちらと眼をやり
       膝をかかえてかんがえこむ
       そんな男もいただろうか
       でもしかたがないやがんばらなくちゃと
       かれがまた洞窟の外の花々に眼をもどすと・・・
       おどろくべし!
       そのちょっとした瞬間に
       日はすでにどっぷりと暮れ
       鼻先まで ぶあつい闇と
       亡霊のマンモスなどが
       鬼気迫るように
       迫っていたのだ
       髯や髭の         *ひげやひげの
       原始時代の
       原始人よ
       不安や
       いろんな種類の
       おっかなさに
       よくぞ耐えてこんにちまで
       生きてきたなと誉めてやりたいが
       きみはすなわちぼくで 
       ぼくはきみなので
       自画自賛はつつしみたい

彼の生活の断片を集めると、心の中はこうなるのかな、と空想するのである。



草取り


草取り、くさとりと、考えるけど、いつもやめる。
ハンカチみたいな庭だから、がんばればよいのに。
エイッとむりに庭に出た。
もう隣接する両隣りのヒトにわるいほど、草だらけ。

家から出るなというアナウンス脅迫のもとでくらしているけれど、
私の住む団地には、ゆっくり草取りをする人がけっこういる。
沈黙の草むしり。
それなら、だれとも会わないわけなんだし。
私って、どうしても、ゆっくり草取りというふうにならず。
企業戦士だったわけでも ないのに、しょうがないものである。
せかせかしてしまう、せっかくの草取りなのに。
結果オーライの生き方の報いというか、祟り(たたり)とでもいうか。
今こそ、余計なことから解放されたのだから、
コロナならではの生き方をだいじに見つけたいのに。

せかせか、なんの草やら知ろうともせず、
じゃんじゃん草、草、草、を引っこ抜く。
このつぎこそは、もう少しゆっくり落着いて、植物図鑑でも用意して。
と、思うんだけどなー、まったく。


2020年4月25日土曜日

春はゆっくり


窓から外をながめると、赤錆びた樹木の鬼さんが、ちゃんとこっちを見ている。
メタセコイヤがもう枝から何千何万の緑の葉を、無数に噴きだしている!
寒い春が終わって、それでも春の祭典はずっと続いている。
うちの庭の柿の若葉と比べると、メタセコイヤの葉は濃緑に見えるけれど、
葉っぱの幼子なのだから、そばに行ってみれば、やわらかい春の色にちがいない。
今日、私はベネッセ(老人ホーム)にいる叔母のところに、本を届けに行くつもり。
私より10才年上の、賢くてやさしくて本をたくさん読む叔母さんだ。
息子が運転して連れて行ってくれる、というからよかった。

私たちは甲州街道から吉祥寺のほうへ、西東京街道をどこどこまでも走った。
街道は花盛りだった。玲子叔母さんのいるベネッセは住宅街にある。同じところを
ぐるぐる、ぐるぐる。やっと見つけて、本をたくさん入れた段ボール箱を、手渡す。
迎えてくれたのは看護士さんで、こっちもマスク、あっちもマスク。
あらかじめ電話でお願いしておいたので、マスク越しでも安心。
看護士さんも私も息子も、とりあえず、にこにこ。
厳戒態勢、面会謝絶。閉鎖ぎりぎり友好状態。
私たちが来たことはあとでおっしゃって下さい、とお願いする。
以前は玲子叔母の部屋へ行ったし、帰るときは、玄関の外まで見送ってもらった。

頭がよくて、それなのに春の優しい花のようないい人だ。
私より10才年長。88才になろうとしているのに、考え方の柔らかさは変わらず、
何よりも賢いまんま。

一度だけふたりで堀江のご先祖さまを訪ねる旅をした。
浜松の弁天島に、むかし脇本陣だった建物が現在町営で公開されている。
「みょうがや」というその宿を、ふたりで観に行く旅をしたのだ。
私たちだって、堀江なのよねえ一応は、とか言って。
私の短命だった父も死に、長命だった有名人の叔父も死んで、その後だった。
年長の玲子叔母さんが、パソコンでスッとホテルや汽車の予約をした。
もう70才半ばを過ぎていたのに。
早稲田の経済学部で大学院まで優等で卒業、当時経済学部長だった叔父と結婚。
それなのにと言えばおかしいが、おだやかな優しい人で、笑顔が良くて。
なんでも判ってくれるし、偉い人達がいなくなると、 いっしょがとてもラク。

叔母さんはベネッセでも友達ができたという。気の合う人もいるし、と。
そんなふうにして、けなげに自分の苦労難儀にうち克とうとしている。
私の離婚した夫のお母さんに、どうしてかよく似た人である。

そういえば、この叔母の短歌の本を、姑に送ってあげたことがあった。
お義母さんは、短歌をやっていたから、とっても喜んだ。
「生意気ですけれど、私みたいな者にも〆切があるのよね、つんこさん。
これがね、この〆切が一人前に苦しいんですよ、本当に」
なーんて自分をおかしがって笑うような姑だった。
私をおかしがらせようとして。だいじな息子と離婚してしまった嫁なのに。
私は、ははははっとひっくり返って笑ったっけ、昔風の日当たりのよい縁側で。
このお義母さんのことも、私はずっとずっと好きだった。
 
今日はよかった、やっと本を届けられた。
私の叔母さんは、本がないとそれが苦しい人なのに、
クルマの運転がおぼつかなくなると、なかなか用がたりなくて。




2020年4月23日木曜日

個別的平常心


今日は「みらいクリニック」に行く日。一か月半前の予約である。
早朝電話をすると、看護婦さんが「診療しています、どうぞ!」
やさしくて朗らかな声だ。
こっちは内向的になっている、診療停止かなと想像している。
断られるのかなと思っている。
これがもう、つくづく、本当によくない。
疫病のまっ盛りだろうと、人間はしっかり親切、落ち着いて陽気がいい。
利口だろうとウッカリ屋だろうと、この際、どんかん陰気よりずっとましだ。
そういう気の持ちようが、体内に蓄えた免疫力をさらに高めるんだぞ。
歴史学者の藤原辰史さんだってそう書いているじゃないの。
76才にもなって、と私はこのごろたびたび考えてしまう。
それぐらいの気概を持たないで「人間」がどうする。
人間は、考える葦なんだぞ。

と、いくらがんばろうと思ってもですよ?
多摩市では、だれに選ばれたのか、夕方になると陰気な女のゆっくり声が、
うらめしそうに大気を制圧するのだ。
・・・緊急事態宣言が出ています。・・・家の中にいましょう。
外出を控えてください。・・・家の中では人との距離を2メートル以上、
離しましょう・・・。

いくらなんでも、こういう押し付け、かんちがい、鈍感ここに極まれりが
毎日のように続くと、コロナ的には一理あると思いはしても、
なにが家の中でも距離をとれだ、 「連帯」ということばが私は好きだったっけ、
などと思ってしまう。
非常事態は事実だろう。家の中にいる方が安全かもしれぬ。
でも、いつから市民は、こんな指図を役人にゆるしたのだろう?
家の中のことまで?! おかしいんじゃないの?!

今日、病院からもどったらポストにたくさんお便りが入っていた。
みんなが、遠くから慰めてくれている。
ポストには、はや夕暮れの風が吹き始めて平和である。
始めよければ終わりよし、というのは本当だった。
おばーあさん、おばーさん、そう思わないでどうする!!
と、私は4時半ごろ、自分にしっかり言ってきかせたのでありました。


2020年4月22日水曜日

火曜日もよい日だった


前からの約束。

とうとう玄関のベルがなったので扉をあける!
青木洋子さんがにこりとして、
「マスクをした方がよろしいでしょうか」
どちらでも、と迎える私もマスクなし。
部屋にはさっきから風を入れた、床も拭き掃除をした。
布類は、洗濯をしたり、できるだけ日光にさらした。
私は元気だし熱もないし。それに今日はとてもよいお天気だ。

青木さんって私が多摩市に引っ越して初めてできた知りあい。 
図書館協議会委員の公募があって、私が(めでたく)うかったらそこにいた先輩だ。
以来何年たっても、図書館カンケイの場所というと、必ずそこに青木さんがいる。
地味で辛抱強くてどんな図書館にも行くし、どんな面倒くさそうな報告書も読む。
多摩市における「地の塩」って、こういう人かも。
何年たっても、図書館関連のお知らせを発行しているし。
地味、地道、地の塩。私にはサッパリわけがわからないタイプ。
おもしろいから、話のはじめに、図書館にそんなにこだわるワケをきいてみた。

うーん、そうね。青木さんこまった顔で首をかしげた。

人間って文字なしにはしゃべれない。意志を伝えられない。
人は文字という記号をおぼえて、それで社会で意志の伝達を、
つまりコミュニケーションをするわけよね。
会話っていうのは音よね。音だけだとその場限りで、消えちゃうけど。
でも文字は、音とちがって、あとに残すことができる。
あとに残すことで後世に、それを書いた人の意志を伝えることができる。
真実だと思う事を誰かが書くでしょ。
それを読んだ別の人が、ほかの人の人生を、別の真実を識るのよね。
だから私は伝記が好きなの、大好き。
読むことって、私は今ここにいるだけなんだけど、
本を読めば、そこでは別の誰かが、なにかを切り拓いていく。
地球の別の場所で、たとえばアイスランドで。その行動とか知恵とか。
そういう・・・書かれた事実と私の思いがけない出会いがあって。
私はそれがすごくうれしいのね。
そういう経験ってたいていの人がしてるんじゃない?
本って、どっかで読まなくちゃいけないのよね。
図書館って、歩きながらある本を、偶然、手に取るじゃない?
私は そういう真実との出会いが、とてもうれしいのよね。

私たちはそれから、それからいっぱい話をした。
私は青木さんから可愛らしい「ひと目でわかる日本国憲法MAP」を買い、
むかし書いた「小説・となりのトトロ」を、二人のお孫さん用に買ってもらった。
青木さんはほかにもいっぱい印刷物や参考書をもっていた。

以下は、彼女が友人からすすめられて、ただちにプリントした8ページのものだ。
青木さんは、すごく仕事が早い人である。

 藤原辰史:パンデミックを生きる指針 ー歴史研究のアプローチ
  表題の下に説明があった。
  この文章は岩波新書HP「B面の岩波新書」に掲載されたものです。
  著者の承諾を得て、PDF版をアップしました。
  このPDF版は自由に印刷・複製して頂いて構いません。ぜひ多くの方に、
  読んでいただけるようご協力ください。

さて、私が思うに、最近のコロナ・ウィルスについての記事は、
まるでワザとのように、 医学者や科学者のコメントばかりである。
これは意図的な、片手落ち、なのではないか。
社会科学や歴史や哲学の優秀な専門家の説明が、大騒動の今こそ必要ではないか。
「病気」という字は、病+ ニンゲンの気持ち、でしょ。
病は気からって、やっぱりそういうことじゃないのか。
気持ち無視の、人間事情無視の、病気全快ってあるのかなーと本気で疑問だ。
 
藤原さんは京都大学人文科学研究所の准教授であり、専門は農業の歴史。
著書に「給食の歴史」「分解の哲学」「トラクターの歴史」などなど。

文章は切り口もはっきり、良く整理された論理展開が、物凄い。
あんまりハッキリしているので、8ページもあるけど、しっかり読めちゃう!
ぜひぜひ、ぜひみなさんにおすすめしたい次第である。
私は今朝、歯医者さんに行ったけど、これを仲良しの(苦笑いするかな)彼に、
忌々しくも長い治療のあと紹介してから、なんとかやっと、
電車に乗って帰ってきましたが、風景が窓外を後へ後へと流れて、
風景は涙にゆすれ・・・という音楽のような表現を、思い出しました。

今は電車って、昼間は理想的にガラガラなんですね。



2020年4月20日月曜日

うれしい日曜日


目をさますと5時まえで、一羽の鳥が考え深そうに中空で鳴いている。
朝から雨降り。また目をさますと、小さい小鳥たちが、あっちとこっちで、
鳴いている。雨なのに不思議、いつ晴れるんでしょうかみたいな声だし。
あっちの声と、こっちの声は、雨に降られた木の枝のどこかから届くのだ。
その下に私たちが住んでいる団地の屋根。

昨日はお天気だったから、床を雑巾がけしたし、その前の晩には蚊取り線香で
部屋をいぶした。たくさんの洗濯物が明るい風に吹かれて、とてもよく乾く。
春になったのだからと、壁の絵も考えて取り換えた。
永井潔の、樹木にかこまれた暗い湖に白鳥が二羽浮かぶ、そういう絵である。
永井さんは劇作家永井愛さんのお父さんで、この絵はむかし私の父に贈られた。
「あの思想で、絵はこうか」と父が考えながら感想をいったほど、 
絵はまことにクラシックで重厚。
額だって質量ともに重たく、壁に飾るときすごく腕力が要る・・・。

風をたくさん部屋にいれて、朗読の練習をはじめる。
杖代さんが持ってきた「婦人の友」のエッセイの朗読。
万理さんと杖代さんと、三角形に離れてテーブルにむかってお茶を飲んだ。
ふたりの声と考えが、深くゆっくりと部屋をめぐる。
考える、ということが、とてもなつかしく自然で、
最近の憂うつから私たちを引き離してくれるのでうれしい。

「婦人の友」は大昔から続いている雑誌で、今もあるのかとびっくりしてしまう。
少女時代、毎月配達されてきて、表紙だけ見てふうん、でおしまいに。
それだから、こんな世の中になっちゃったのかなあ、と胸が痛むようだ。
杖代さんのお母さんは新劇の俳優で、私の母は編集者だった。
そんな文化分野?の職業婦人たちが、第二次世界大戦のあと、
読者になって守り育てた、素朴で野の花のように地味な本。
私の叔母さんたちもみんな読んでいた、もう60年も前の話だけれど。

その雑誌が今日はつぎの世代の私たちの真ん中にある。
いつも遠慮がちな万理さんの声をたくさんきけたのもすごくよいことだった。

追伸
    蚊取り線香の煙りってコロナ潰しにダメかしら、すごく燻るんだけど?
    やれやれ、そんなこと言ってもダメか。


2020年4月19日日曜日

雨の名前


朝から天気予報の通り雨がビシャビシャと、じゃんじゃんと降っていた。
すると、なんということか、物凄く憂鬱のどん底におちてしまい、
なにがなんでも立ち直れず。

テーブルの下の絨毯まがいの毛布をむりに取り除いてクリーナーで床掃除をした が、
がっくりくたびれただけで、右にも左にも前にも後ろにも気持ちが動かない。
杖代さんに教わった山中伸弥(ノーベル医学賞受賞者)という人のサイトを、
ひらいたけれど、おそろしくハンサムな人だなとおもっただけで、
どうにもこうにも・・・、パソコンの前で眠ってしまった。

こういう時、いっしょにいる息子がありがたい。
パソコンの前にいる私を見て、なにもかもお手上げだと思ったらしく、
残りご飯をああしようとかこうしようとか言い、自分でも面倒くさいと
思ったらしく、外に連れ出してくれた。
私たちは回転寿司やに行った。食堂があっちもこっちも休んでいたからだ。
雨もやんで、灰色のトカゲのような雲が、夕焼けの空に浮かんでいた。

夜明けにコロナ・ノイローゼだと思って、目を覚ます。
風邪薬を飲んで、水を飲んで、なんとかいうアンプルも飲む。
そうしたら、いいことを思いついた。
雨の名まえをさがそう。まるで取りえがない私だけれど、
本だらけの家に住んで、ふだん読みもしないのに、本棚に「雨の名前」もある。

木の芽雨(このめあめ)
春、木の芽どきに降る雨で、その成長を助ける雨だとか。
文章は高橋享子さんが書き、写真は佐藤秀明さんが撮っている。

むかしから木の芽がやわらかくふくらむことを
「木の芽ばる」といったりするが、これに掛けてさらに「木の芽春雨」
このめはるさめ といったりもするという説明。
なんてよい説明だろう。藤原定家のうたで説明が閉じられている。
    
   霞たち木の芽はる雨きのうまでふる野の若菜けさは摘みてん
 
時計をみれば、今はあけがた、4時という時間。
あしたがきている。栄養剤のアンプルのせいかどうか元気になって、
木の芽がやわらかくふくらむ、なんて思い方をしてなかったなーと。  



2020年4月17日金曜日

草取りおよび韓国映画。


虫がぶんぶん、でも、まだ少ししか飛んでいない。
草取りをしなくちゃと思う毎日だけれど、目がよく見えないので、
植木鉢の向こう側の、いろいろある雑草が、みどり色にふかふか。
見るたび、ふんわり霞んでみえて、それはそれでとてもキレイなような。

今日は韓国の怪獣映画を観た。
TSUTAYAの会員制度を利用して、いくら借りても旧作なら1000円払うと
無料である。今日は「グエムル」という世にも気持ちの悪い映画で、もちろん
私が借りたんじゃないけど、こわくても途中で観るのをやめられない。
副題は・漢江の怪物・・・なるほど文字通りの怪物で気持ちが悪いのなんの。
口が五方?に裂けたグロテスクなトカゲふうの魚の化け物で、なんだかゴジラより
怖い。そんなに大きくないんだけどグ・・そうだ、いかにも「グエムル」なのだ。

よせばいいのに、最後まで気持ち悪くても怖くても観てしまったのは、
この映画のもう一つの大テーマ、韓国的家族制度愛、のせいだ。
家族がみんなバラバラ、べつべつ、激しく軽蔑しあい喧嘩しながら、もうとにかく
一番小さい子のために、どこどこまでも怪獣をぶっ殺そうとする、そのブレのなさ、
徹底した目的意識、弱さ実力勝手身勝手されど家族、当然だろ!!!みたいな。

でも、面白いからって誰かにすすめても、私の場合、いつも断られてしまう。
こんなめちゃくちゃな怪獣映画じゃなくて、美しい永遠の名作でもダメだ。
みんな、目が見えないのでと言う。私なんか、よく見えなくてもみるのに。

というわけで、韓国映画のせいでまたも草取りができない一日となったのでした。




2020年4月16日木曜日

幸福だった11月


去年の11月、朗読サークルの発表会を、駅から近い小ホールで開催した。
居心地のよい50席ばかりの部屋を飾って、椅子も10脚は追加に持ち込んで。
みんな病後だし、どうしようかと躊躇した末の決心が、今はとても懐かしい。
やりましょうと決めてからの練習は、仕事のあいまに駆けてきてやるのだから、
みんな一生懸命、顔色がかわっていたと、それだって思い出すと楽しい。

プログラムを、大橋Mr.が、思いがけなくもサッと作って、
それをある日、私は大橋家のステキな食堂で渡してもらったんだけど、
葉書大の白地に文字だけのこれが、もう気に入っちゃって本当に幸福だった。
黒い文字の、会場のみなさんにお配りしたご案内は こうである。

               プログラム  
                     
         へんな子がいっぱい    灰谷健次郎
         小さな駅の待合室     石川栄一
         虫の話・イモムシ    
            ハンドブック    ブックトーク
         ぐりとぐらのえんそく   中川李枝子
         ラン・パン・パン     インド民話
                 休憩
         字のない葉書        向田邦子
         憲法と若者
         くらかけ山の雪       宮沢賢治
         「町角のジム」「生命は」   吉野弘


私たちはなんて一生懸命だったんだろう!
みんなは私の家でも、病後すぐで出演できない萱野さんの家でも、
たまたま萱野家にお見舞いにきてくれた人の前でも練習した。

コロナのコの字もない11月だった。

あんなふうにこれからも生きられたら、と思う。
どんな時も、みんなで、幸福とはどんなことを指すのかをわすれずに。


          

あこがれ


私のもっているどの詩集のなかにも、丸山薫という詩人の名はなかった。
こんな世の中になって、思いつくままに、おそろしい未来を考える時、
鶴部(つるべ)という名の、 
「いっさう高い山ふところに在る」村についての描写になぜかあこがれる。


星夜には十里彼方の盆地に瞬く       
山形市の灯が見えるといふ
天童町の灯も望めるといふ         瞬く(またたく)
吹雪はここよりさらに激しく
雪はここよりもはるかに深くつもる


都会に育って、本に埋もれて現実感のない生活をした。
激しい吹雪にも深くつもる雪にも、ほとんど縁がなかった。
劇団で旅公演に明け暮れていたころ、山形市にも立ち寄ったのだろうに。
ひとところに居て、純粋にただもう孤独でいるという経験が、
自分にまったくなかったのが今となっては残念である。



2020年4月14日火曜日

ごはん・ごはん・ごはん


お天気なので、洗濯物はすごくよくかわく。

朝ご飯はでたらめ豚汁・鶏肉も少しいれちゃって。
ゴボウに人参、白菜の切れっぱし、大根と長ネギ、豆腐2きれ、白滝少し。
名まえを忘れたけど青菜と油揚げも少し。
どうです健康的でしょうと頭の中でひとりそう思う。
息子がご飯いらない食べられないと言うぐらいのてんこ盛りである。
まっいいか。出汁は昆布とかつお節と煮干しだし。
と変な割り切り方をして・・・。

午前中、歩いて多摩センターへ行き、身体にいかにも悪そうな美味しいパンを
8個も9個も買ってしまい、またもテクテク、テクテク、歩いて戻った。
風がものすごく吹いていた。5422歩なり。
帰宅後。
お店の人が一つ一つ包んでくれたパンの袋をテーブルにぽんぽんと置き、
コーヒーを飲むかと息子にきき、ドリップ式でコーヒーを用意する。
そうやってDVDの映画を観はじめた。「デビル」という。娯楽巨編・・・。

以前話に聞いたことのある有名映画だが、面白くて私なんかもう目が離せず。
パンとコーヒーだけパクパクぱくぱく、映画のトリコとなった。
ブラッド・ピットが父親を殺されたベルファストの復讐鬼。
ハリソン・フォードがニューヨークの正統派警察官。
主演二人は美男適役ここに極まれり。出てくる俳優がまたみんな素晴らしい。
子どもがとても可愛らしいし、女優さんは理知的な美女ばっかりである。

明るい昼はながく、夕方が今日はなかなか来なかったのに、
気がつけば、夜がそこにいる。
どうしよう。
意外に用事もかたづいた一日だったのに、やれやれまた晩ご飯。
春菊を・・・。さっき買って茹でておいたけれど。
胡麻かなあ、春菊だと。またもお手上げなり。
なんで春菊なんかと思うけど、ぎっしり一束100円だったからで。



2020年4月13日月曜日

癪のたね、大雨


今朝、歯医者さんに急に行かなくちゃならなくなった。
大雨。台風的突風。冷たくてすごい風。
電車はガランと空いている、不安なほどなんだか寒い。
私は窓から外を見ていた。ずーっと。
線路ぎわにはたくさんの一軒家がありアパートメントハウスがあった。
庭が見えて、バルコニーには暗いような窓が並んでいる。
政治家の命令どおり、ほんとうにまったく人影のない昼間だった。

フィンランドに出かけた時、保育についてインタヴューした。
保母さんがこんどの夏休みに日本に行くのがすごく楽しみですと言った。
日本がいちばん大好きな国です、と本気でにこにこしている。
10年以上たった今、そうかこういうことだったのかと思い当たる。
日本国憲法と世界第2位の経済力と宮崎さんのアニメーション、
それが彼女の想像をかきたてていたのだ、きっと。
おとぎ話のような3点セットだもん。

歯医者さんから、また電車に乗って帰る。
電車、待ってもなかなか到着せず。またもずぶ濡れ。
買い物に行ってもゴミを捨てに行ってもビシャビシャになってしまう。
いやだいやだ、この世によいことなんて全然ないのかな。
みっちゃんが電話くれたじゃない。元気そうな声で嬉しかったじゃない。
市役所で買った[文学フシギ帖」という古本新書が素敵だったじゃないの。
日本の文学百年を読む、という本。おもしろくて夢のように読んだじゃないの。

なんだっけなー、急には思いだせない、あの悪たれぐち。
ええと。ごろごろいうのやめとけというやつ。今の私にドンピシャリな。




2020年4月12日日曜日

読書!


おとといのことだけど、
私は多摩市役所に行った。それはともかく、
市役所には100円で本を売ってくれるコーナーがある。
どんな時でも、税金を滞納した時だって、
私はついついここを見る。
小さい本棚。誰かが寄付した古本が、
分野おかまいなしの素朴さ古さで並んでいる、
そこが好き。
壊れかけた瀬戸の招き猫にお金を入れるけど、
3冊買って300円。

山崎豊子さんの「暖簾(のれん)」を読んだ。
むかし買って読んだのに失くした小説。
山崎さんの初出版で出世作だ。

夢中で読んで、身体をこわしてしまった。
おもしろくってやめられない。
おもしろくておもしろくて。
おなじ姿勢にこりかたまっていたせいか、
今朝は手持ちのクスリを飲まなくちゃならない。
気分がわるくておかゆさんにしたぐらいだ。

「暖簾」を読んでわかることは、だれの人生も
恐ろしいほど苦しい、ということである。

大阪は船場を舞台にした一流商人の成功物語だから、
それはもうワクワクして読むけれど、
襲いかかる苦難を、吾平も孝平も除けて通れはしない。
避けては通れない道を、いかにかしこく俯瞰して、
   ふかんとは全体の中の自分をよくつかんで
   ということだろうけど、
船場商人としての彼らの意地と誇りが通っていくかの、
これはスカ―ッと気持のよい物語りである。

こんなふうに、
全世界的なコロナ騒ぎを、工夫と鋭いカンとで、
自分たちも切り抜けられたら、どんなにいいだろう。
図書館がやっていなくてホント残念。
(書店で買えば、新潮文庫430円です)



2020年4月10日金曜日

教育の結果は?


クルマの中で息子にきいてみた。
安倍って、麻生って、いったいどんな人間なんだろう?
このごろ、誰とあってもつい口から出るグチだ。
「どういう人かって、日本人はみんな大好きなんじゃないの。
選ばれるんだから何回でも 、どんなウソついても。」
息子は無表情にそう言う。
私のグチにウンザリしているのだ。

安倍晋三さんは、戦犯岸信介のお孫さんで左翼大嫌い。
左翼系は岸信介が戦争犯罪者だったことを忘れないから。
戦後、アメリカさんの資金援助で大金持ちの権力者《岸首相》になったのに、
なにかというと左翼は、昨日まで戦犯だったじゃないかと蒸し返すから。
岸、佐藤、安倍一族は、とにかく誰でも彼でも特に共産党大嫌いみたい。

そんなご大家って、子どもをどんなふうに育てちゃうんだろうか?
安倍首相は世界的コロナ・ウィルス騒動のなか「アベノマスク」と嘲笑されたが、
そんな嘲笑も彼にとっては、なにを左翼が、みたいなことなのかしら。
恥ずかしくもなんともないのかしら。へいちゃらなのかな。

・・・へいちゃらなのかも。

このへいちゃらだという神経は、めったにない教育環境がつくったものだろう。
目立つとすぐ萎縮する、不安になる、怖くなるというのも教育の擦りこみだけど、
今の今になっても、大金持ちと家来しか人間だと思わないという鉄面皮も、
たぶん独特の教育的成果だろう。

どういう教育をすればこういう人ができあがるのか、
人任せにしないでしっかり考えてみましょう一度ぐらいは、と私は言いたい。
こうだと思ったら、当りじゃなくてもいいから、知らせてほしい。
私だって考えていることが一つや二つあるけれど、
それって「うーむなるほど!」という鮮やかさに・・・どうも欠けるので。



2020年4月9日木曜日

今日という1日


2階から見ると、むこうに今朝は赤錆びた色の鬼がいて。
公園の樹が盛り上がって、真ん中が顔のように見えるのだ。

頭のてっぺんがちゃんと鬼らしくギザギザ、両眼まがいのスキマがふたつ。
まえに大きな鼻、でっかい鬼づらの横に働きものらしい肩が盛り上がり、
両腕は長くどっしり、もちろんぜんぶ黄緑や赤さび色の木の葉っぱ。
今日は鬼になって、老眼白内障の私をたぶらかしているのだろう。
雲もいないし、風もないあたたかい日。
鬼の眼が、左目はこっちのメタセコイヤの枯れ枝を、右目は私を見ているのよね。

電話がかかって、籠浦さんが、
萱野さんをさそってお茶をのみに来てくれた。
籠浦さんがタケノコの茹でたのを分けてくれる。
ふたりの にこにこ顔をながめたら、悪いことはとりあえずみんな忘れた。

夕方うろ覚えでタケノコご飯をつくる。
その前に、午後ずーっと自分のゴミ部屋を片付けたら、がっくり疲れた。
こまって自転車に乗って、コロッケとイワシバーグを買いに 。
タケノコご飯に、ほうれん草の茹でたのに、コロッケおよびイワシバーグ。
このあいだ、トミちゃんが来てくれた時は、2枚のコロッケを4つに切って、
3人で分けたっけ。

そのほかに午後は、ロマン・ポランスキーの(インタヴュー構成) 自伝映画を
茫然とひとりで観る。二度目だというのに初めて観るような気がした。
共感する感受性も力量も、コロナ爆発以前の自分にはまるで無かったと思った。
ポランスキーはナチスの時代のユダヤ人。世界はいま資本家支配下でコロナ大流行。
不幸だと感受性や力量は増すということだ、たとえトシはとっても。

洗濯物を干そうとしたら雨がぽつぽつ。
暖かい日だと思って一日暮らしたけれど、天気予報だったわけね。
今はもう夜なので、ビルディング半分ぐらいの鬼さんもなんにも見えません。



2020年4月8日水曜日

銭湯2大体験


きのう、調布は深大寺の「千代の湯」という銭湯に行きました。
びっくりしたことが二つ。

一つは背中いっぱい、もうなんか恐いシャツを着たみたいな、
腕も足もびっしり刺青のオネエサンがすらりと立っていたことです。
すみっこのサウナから水風呂へ。ザーッと水飛沫のすごい音がしたので見たら、
モデルみたいな威勢のいい美人がしぶきの中から出てきました。
女の人であれば刺青御免でいいのかなー。
あんな藤純子だとか高倉健みたいな、全身刺青クラシック。
あっけにとられるばっかりで、怖くないんですけど、広い天井の下が、
やっぱりシーンと、空気が固まったみたいになりました。
感想って・・・タトゥー、なんてもんじゃまるでないし。

もう一つは、ふたりのお婆ちゃんで、ご近所さん同士なのかなんなのか。
露天風呂にまず一人がじゃぶじゃぶ入ってきて。
コロナを警戒してひっそり入浴中の奥さんがいるというのに、
もうおかまい無し。「月がここなら見えるよ」と後から来たお婆ちゃんを誘い、
湯船をなんなく独占。
そうなるとコロナ警戒中の奥さんはじーっとお風呂につかって動けず、
誘われたおばあちゃんは、固い顔の奥さんのすぐ横まで進出し、
「ホント、ここならよく見えるわー」と、笑ってにっこり。
相手の顔が温かいお湯のすぐヨコにあるからスリル満点です。

誘ったほうのおばあちゃんは、私みたいに目がよく見えなくて、
月が 二つにも三つにも見えて、輪郭がはっきりしないと盛んに言う。
それなら人を誘うなよ、と言いたいところだけれど、
でもねー、私はこっちのお湯の中で、ちょっと本気で考えてしまいました。
このおばあちゃんは、コロナのこと、もしかしたら全然知らないな、と。
新聞読まない、ニュースは見ない、みんなが騒いでるから単語は知ってるさ。
でもまるっきり興味ない。だから痛くも痒くもない。ぜんぜん平気であーる!

こっちの方が生命力があるんじゃないのか。
まるっきり、びくびくしてないし、幸福そうだもん。




夜中の奮闘努力


真夜中。台所の向こうの小部屋が、ゴミ箱まがいになって、ホコリとゴミと、
何がなんだかわからない資料の積み重ねのやま崩れで、もうがまんができなくなった。
なぜってそこが私の眠る部屋だからだ。すぐ頭の上に電気スタンドと本棚。
ずっと、そのいまいましい場所で強引に寝ていたけど、いくらなんでも限界で。
よせばいいのに、出先からもどって、夜の9時から片づけ始める。
そうすると元気になるからおかしいが、お掃除は私の園芸?みたいなもの、
夜中だから掃除機はかけられないけれど、ホコリと泥?とゴミと戦い、本を移動し。
・・・どんどん夜が更けて、・・朝食の支度が向こうから、近づいてくる。

ひるま大橋杖代さんに電話したら、ご夫婦で外を歩いているところだった。
途中、Mr.が受話器を彼女から渡されて、これから帰って本の整理をとおっしゃる。
杖代さんも必ずそうだけれど、明るくて楽しそうな・高度親切安定音。
笑顔が見えるようだし、365日もう絶対にうたがいもなく好意的な声音だから、
大橋家に電話する人は、たぶんみんなうれしくて安心だ。
それはとにかく、帰ってから本を整理する、というMr.の声が引き金になって、
いまの私の夜中がある。
じょうだんじゃないわよー、どうしようまったく。


2020年4月6日月曜日

一億総コロナ


 一億総コロナはどうかと思う。

昨夜やけくそみたいにそう考えたけれど、なぜそう思うかを、
分解して考えてみたい。
童話みたいに、私たちの人生をわかりやすく分解して考えると、
いま、人はどういう不幸を抱えているんだろうか。
私たち日本人は、どういうことで死のうとしているんだろうか?

正体のわからないウィルスが世界中をおびやかしている。
これについては世界の国々がさまざまに反応し対応している。
ニュースを観れば、間に合わないことばっかりだ。
だから死は、国境を無視して、蔓延する。

しかし、私たちはいま風邪の蔓延だけで、死んでいるんだろうか。

私たちはなんで死ぬのだろう?
先日のニュースは、コロナの蔓延にも関わらず夜間出歩いた男が、
警備兵に射殺されたと伝えた。それはその国の対策だった。
これも、ひとつの「死体」であるのに、出歩いた男の死は、
私なら私の頭の中では、軽い死である。どうしてそうなる。
「死」というものには、うっかり軽い死と重大で重い死があるんだろうか?

死はだれにとっても人生の終わりだ。
少なくとも、絵本や童話の世界ではそうだ。
子どもは、誰に頼まれなくても、はじめからそう思っている。
私たちはそういうところから、人類を始めるのである。

でも、早く死ぬ人も、いつまでたっても大丈夫みたいな人もいる。
そうすると、死というものが、ぶよぶよに変形していく。
器用なおとなの頭のなかで。工夫でなんとか長生きしようみたいな。
料理、病院、クスリ、心療内科、なにより経済力、それには学歴。

子ども相手の理屈では、悪いことをしたり考えたりすると、
閻魔大王が舌を引っこ抜くし、あんたは地獄に落っこちるよ、
で終わるけど、コロナ蔓延の全世界ではびこっているのは、
べつの、暴力的な暴論、なにがなんだかわからない「結論」なのだ。

最近の出来事で、酷い死に方をした人は、だれだろう。
3月26日号「完売御礼」の週刊文春、見出しを引用すれば、
「森友自殺(財務省)職員遺書全文公開」 赤木俊夫さんの自殺がある。
奥さんが佐川・理財局長と国家を訴えたという記事を、私も読んだ。
不正に手を貸すことを強いられ、鬱病になり、検事に電話で何を云われたのか、
首吊り自殺した54才の彼。

鬱病の経験がある人なら、自分のことのようによく判る自殺だと思った。

ひところの死に至る病に、エイズがあった。
人はエイズでも死んでしまう。これだって死である。
ジョルジュ・ドンは20世紀バレエ団の花形ダンサーで、まさに天才だった。
1982年の秋と夏、2度日本で「ボレロ」を踊った。
私はフランス映画「愛と哀しみのボレロ」を何回、見たことだろう。
モーリス・ベジャールは1997年のドンの死を、こう書いている。
「ドンは舞台の上で死にたがっていた。だが、彼は病院で死んだ。」

そんな死とこんな死は365日あるだろう。
そのほかに、日本では子どもが親の手で殺される。母親の連れあいに殺され、
母親にも殺される。同居のおじいさんやおばあさんにも殺される。
子どもは、子どもたちの手でも、殺されている。すさまじい拷問つきで。
死は毎日のように小さな子どもや弱者に襲いかかるのだ。
子どもたちは、どんな気持ちで死ぬのだろう。
コロナで死ぬのとどっちがこわくて、どっちが無惨な処刑なのだろう。

コロナウィルスがもたらす死は、これから成人した弱者を襲うだろう。
そう思うと、気持ちが悪くなって、じっとしていられない。
私はほかにチャンスがなかったので、息子たちにたのんで、ライブハウス通いを、
20年もした。若い人たちの中に遠慮しながらすこしいたわけである。
それで、まずライブハウスに集まっていた彼らのことを考えてしまう。
働きながら、自分たちの生きる中心に音楽を置いて支えるという清貧。
大会社の庇護を受けられない、あの彼この彼女の姿が浮かんでしまう。

1億総コロナって、片手落ちじゃないだろうか。
これでいいんだろうか。
そそくさと窓を閉め、戸をしめて、手をあらい、うがいをして。
自分の命のことだけつい考えて。



2020年4月5日日曜日

日曜日なのだった


買い物に出かけたら、
向こうから「親類ぜんぶ集合」みたいな人たちがやってきた。
すごく珍しいと、なんだか思った。
先頭には3才ぐらいの幼女が元気にあちこちして、
面倒をみているのはやせぎすのパパだ。地味なメガネの疲れた30代。
そのうしろに、親戚のおじさんとおばさんみたいな2人、それからパパの奥さん、
奥さんのお姉さん夫婦、みたいな人たち。
お姉さんはモノ悲しげなおばあちゃんの肩を抱いている。
みんなで歩いていく。・・・ゆっくりと、ぞろぞろと。
20センチぐらいしか離れずに、みんなでなんだか歩いて過ぎていく。
全然楽しそうじゃないので、こんにちわと言うことができず、
残念な気がしてならなかった。今どき偉いなあと思って。
コロナ厳戒粛々従うばっかり都市の、この午後なのだ。
こんなにかたまって歩いていくなんて、不思議というか個性的というか。

それからまた、私はスーパーマーケットの方へと歩いた。
すると行く手に、初老のご夫婦が、二人とも立ち止まって袋の荷物を整理中、
旦那さんは病身らしく、不機嫌だし硬直気味だけれど、
頭上の桜の花はどの枝もどの枝も華やかに満開、あの雪のあとなのに。
「まあ、なんてきれいなんでしょうね!」
私がおどろいてしまったら、白髪の身ぎれいな奥さんが優しい顔でにっこり。
「ほんとうに見事ですよねえ」
私達たちのいるこちらの並木では、桜はすべて満開、
向かい側では、すべてがもはや葉桜。

それも不思議、「親類ぜんぶ集合」の人たちもすごく不思議。
ああ、さっきの人たちはお花見をした帰りだったのか、
そうは思わなかったとあとでびっくり。今日は日曜日だったんだと。
お花見ってこうなるとやっぱりすごく大事よね。
次から私もみんなとグズグズしないでお花見をしよう。
もう「よいトシ」なんだから、にこにこして勇敢に人格をたて直そう。

1億総コロナ、はどうかと思う。



2020年4月4日土曜日

絵本「いつもだれかが」


という絵本がある。
「おじいちゃんは、よく、お話をしてくれる」 で始まる。
聖書を読まない代わりにこれをパソコンのなんと言うんだっけマウスだ、
これって鼠という意味なの? それはともかく、マウスの下敷きにしている。
いわば私のお守りである。

絵本によれば、
ふつうのおじいちゃんなんだけど、このおじいちゃんのふつうの不運は、
見えない天使がぜんぶストップさせてくれている、
それが絵でわかる。おじいちゃんはそれ知らないのよね。
挿し絵のほうに、ひらがなで、まずこう書いてある。
ぼうや、わしはなにをしても、うまくいったんだぞ、、、。
それが物語のはじまりだ。

いまになって、私もこのおじいちゃんぐらいのトシになって、
急にそんな気になってきたから、変である。
おじいちゃんは小学校に行った。
事故。地面に穴ぼこ 。ならずものの待ち伏せ。ガチョウの襲撃。
ぜんぶ天使がストップさせている絵!

私は電車で経堂駅の小学校にいったけど、
よその家の玄関ベルを鳴らしては逃げた。流行りの遊びだったのだ。
いじめっ子だった。猫でもクラスの子でもいじめた。
秋なんか高い塀の上に腰かけて、
向こうから、よく行く小児科の先生が来たから、手をふって
きゅうに塀から仰向けまっさかさまに落っこちてみせたことだってある。
サービスのつもりだったんだけど、
先生は赤いひとで、太っちょで頭もハゲだったけど、まっさおになって、
私が落っこちたお屋敷の裏にすっ飛んできた。
私はいつもやるから知ってたんだけど、
先生は、秋だといつも落ち葉がびっしり塀の後ろにヤマのように
穿き寄せてあるなんて ぜんぜん知らなかった。
なんでそんなに心臓麻痺みたいに先生がビックリしたのか、
小さいから全然わからなかった思い出だ。

ユッタ・バウワー作・絵 ドイツのハンブルグ生まれ。
私は不幸にしてふつうの悪い子だったけれど、
このおじいちゃんは、なんだかよい子、災難のほうがワルイ。
だから天使が守るのかしら。
いやいや、いまでも生きているっていうことは、私にも
なんのかんのと理屈をつけて、助けてくれる天使がいたのよね。

と思いたい。



コロナ・ウィルス・あれこれ


ブログのための時間を、どうしても取り損ねてしまう。
こんな時こそ、ブログって私にはだいじだけれど。
掃除、洗濯、買い物、電話、メール。なにしろ病気の人が多いし、
救急車が三度も通るし。
見に行くと鶴三会の(ひとり暮らしの)人じゃなかったみたい、ホッとした。
夜空を眺めながら、すぐそばに心配な人が住んでいることの幸せを思う。
みんなで年をとっていくって、私の感覚では幸せだ。
この10年来の、人数のふえない老人会仲間が好きだなんて、神様のお恵みだ。
私なんかに好きな人が増えたっていうのが、ミラクルみたいな。

私に閉塞感がないのは、住居が多摩市にあって、しかも多摩センター駅から
歩くと15分もかかるからだとわかって来た。
スーパーマーケットだってガラガラ。
車返上の70才や80才は買い貯め不能だから、商品がちゃーんと並んでいる。
経営者の立場にたたずに考えるなら、こういう時はこうあるべきなのだ。
3・11の経験から近くの三徳というスーパーマーケットは、
「一軒につきトイレットペーパー1包み(6個入り)限定」の貼り札をした。
それで、不安と焦燥感が静まったしおさまったのである。
今は人間ぜんぶが不幸なのだから、落ち着けばいいのだ。
落ち着くことは努力で、できる。経験豊かで考える人なら、できる。
バカだとできない。なんとかして落ち着きたいと思う。

きのうは駅に近いマーケットに出かけた。ここは会社帰りの人が駆け込むからか、
値段設定が高い。商売なんだなーとびっくりした。
むかし三越いまココリアの地下のほうが、いろいろ品数があって、
値段設定もまちまち。 ここが買いやすいのはどういう工夫だろうか。

私は歩いて買い物に行き、歩いて図書館に行くようになった。
歩くとたぶん、血液が生き返るはずだし、地球とカンケイができる。
コンクリートばっかりだけれど、土ってやっぱりいたるところにあるじゃないの。
図書館は厳戒態勢だが、予約本の手渡しはOKである。
多摩市のこの方針はリベラル派の市長なればこそと思う。
書物は自由や、健康保全や、現実逃避や、ユーモアや、生活上の工夫の宝庫である。

読書の習慣をまったくもたず、
日本語をカタカナまみれの英語?だらけにし、
あげくの果てが「アベノマスク」、
50億円かけてマスク2枚国民全員に配るとか言って、
世界の笑いものになった独裁者を首相にしたんだけど、
その結果を導いた選挙民の責任はホントにどうなる。

いったいどうしたら、「アベノマスク」を生む無知蒙昧や極端な主観主義から、
私たちはぬけだせるのだろうか?
子どもたちに、自由な判断で選んだ大量の読書を。
学校は義務ではなく権利でもって行くところなんですから、もともと。

どんなに長くかかっても、こういうすがすがしい基本にかえることが、
どん底であればあるだけ、日本人にはだいじなんじゃないでしょうか。




2020年4月2日木曜日

どうして悪いの!?


週刊文春4・2号「池上彰のそこからですか」って不思議な書き方、
「池上彰のどっちつかず」みたいな。
すごく面白いことが書いてあるのに、いや面白いのかやっぱり。

今回の話題はトランプ大統領の言動について。
(プラス自民党政府についつい言っちゃう池上グチ愚痴)
抜き書きするとこうだ。

トランプ曰く。
❶「ウィルスはまもなく消えてなくなる。」
 ところがご承知のように、これがとんだ見込みちがい。

するとトランプ意見を変える。 変えたほうがいいでしょ。
まちがってたんだから。
  ➋3月13日 国家非常事態宣言。
   (感染対策として連邦政府が
    資金支援・最大約5兆3500億円用意するよと。)
  ❸ウィルス検査500万件体制を徹底する。
   (民間業者と提携、グーグル全面協力、検査無料なり。
    保険なし2000万人、検査料30万円がアメリカの現状)
  ➍学費ローンの金利をすべて免除。
  ❺備蓄用石油・大量購入(石油産業救済)
  ➏3月17日 追加対策案発表。
  国民ひとりあたりに約10万7千円の小切手を支給。
   (池上ビックリ。これって国民全員買収案じゃないかと!)
 
なにしろ選挙前ですからね。
サンダースやウォーレンの政策からのイタダキだと、
池上さんは呆れてみせるのですが。そのくせ➋でこう言う。
秀逸である。
  
池上➋「国家非常事態宣言」という用語を聞きますと、
    国民の自由を束縛するなどの恐慌な手段 に道を開くイメージ
    があるけど、全然そうじゃないんですよ。
池上グチ❸いざとなったら徹底的にやる、さすがアメリカ。
     事態の悪化には、思い切った対策をとらなければならない。
     だのに日本ときたら太平洋戦争なみにまた小出し。     
池上➍「バーニーの主張いただき」が、池上コラムの小見出し。
    
まねっこ乞食はよしとくれ。子どもってそういうこと言うけど、
主義主張は専売特許じゃない、そうしない方がいいと思う。
とりわけコロナウィルス撲滅に関しては。


 

2020年4月1日水曜日

ゆっくり考える


みなさん、お元気ですか?

昨日は、図書館に電話して、本の名前を言い、口頭で予約。
本館が近いので、そこへ、歩いて取りに行きました。
そんな簡単な手続きで、すぐにも本を渡してくれるというのがとても安心です。
歩道に人影なし。のんびり ぽくぽく歩いていくと、黄色い花が咲いていました。
音もなく小雨がふりはじめ、鮮やかな葉っぱと一重の小花がきれいです。
ところが名まえを思い出せません。
おぼえているのは、この花に自分がいつも薄情だったことばかり。
昔から、どこにだって、春になれば咲いていたのに。
こんな今しか、穏やかな気持ちが自分にはできなかったんだなあと思いました。

図書館で本を受け取ったあと、買い物に行きました。
モヤシと小ネギ、片栗粉。買い足しです。それから蓬のお団子なんか。
すると黄色い小花の残像が、なぜか、とんとんノックしてくれたような。
スィーッと「ああ、山吹」! 漢字で思いだしました。
やれやれ、最近なんでもかんでも、こんな調子です。

夜になったら、また良いことが。
団地向こう三軒目の方が、銀・六餅という優雅なお菓子をもって、私の家に!
同い年だけど、30年以上もまえ私の子どもの学校の先生だった人です。
いつもお互いに、あの人は忙しくって留守らしい、と思っているのですが、
こんな時は、やっぱりトシなのだし、そうでもない。
私はこの方のおかげで、
ノーベル賞を受けたスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの3部作をよみました。
「ボタン穴から見た戦争」[戦争は女の顔をしていない」「チェルノブイリの祈り」
すばらしいルポルタージュでした。
このあいだ鶴三会の席上、彼女が私に誘われて鶴三会に参加したと言いました。
友達いないでしょこの団地に、と言われたって。
そんなこと言わなかったと思うのですが。でもやっぱり、なんだかうれしい。
きらわれなくてよかったなーと思います。

すばらしい、といえば、ここ2,3日、物凄い映画をDVDで観ました。
息子が選んで私も観たんですけれど、
「ジョーカー」はアメリカ映画。
「スラムドックミリオネア」はイギリス人が監督したインド映画。
両方とも、監督がすごい。
ジョーカーでは、ホアキン・フェニックスがすばらしいと
びっくりしてしまいました。

病気の人が多いし無事をたしかめたり、歩いたり、本を読んだり、映画を観たり。
おばあさんの一日は、あっというまに、日も暮れるし、鐘が鳴ってしまう。
月日が流れてしまう。こまったことです。

今日から、またブログ再開。
私のモットーは、戦いつつ家郷へ還れ、ですもんね。