2020年4月6日月曜日

一億総コロナ


 一億総コロナはどうかと思う。

昨夜やけくそみたいにそう考えたけれど、なぜそう思うかを、
分解して考えてみたい。
童話みたいに、私たちの人生をわかりやすく分解して考えると、
いま、人はどういう不幸を抱えているんだろうか。
私たち日本人は、どういうことで死のうとしているんだろうか?

正体のわからないウィルスが世界中をおびやかしている。
これについては世界の国々がさまざまに反応し対応している。
ニュースを観れば、間に合わないことばっかりだ。
だから死は、国境を無視して、蔓延する。

しかし、私たちはいま風邪の蔓延だけで、死んでいるんだろうか。

私たちはなんで死ぬのだろう?
先日のニュースは、コロナの蔓延にも関わらず夜間出歩いた男が、
警備兵に射殺されたと伝えた。それはその国の対策だった。
これも、ひとつの「死体」であるのに、出歩いた男の死は、
私なら私の頭の中では、軽い死である。どうしてそうなる。
「死」というものには、うっかり軽い死と重大で重い死があるんだろうか?

死はだれにとっても人生の終わりだ。
少なくとも、絵本や童話の世界ではそうだ。
子どもは、誰に頼まれなくても、はじめからそう思っている。
私たちはそういうところから、人類を始めるのである。

でも、早く死ぬ人も、いつまでたっても大丈夫みたいな人もいる。
そうすると、死というものが、ぶよぶよに変形していく。
器用なおとなの頭のなかで。工夫でなんとか長生きしようみたいな。
料理、病院、クスリ、心療内科、なにより経済力、それには学歴。

子ども相手の理屈では、悪いことをしたり考えたりすると、
閻魔大王が舌を引っこ抜くし、あんたは地獄に落っこちるよ、
で終わるけど、コロナ蔓延の全世界ではびこっているのは、
べつの、暴力的な暴論、なにがなんだかわからない「結論」なのだ。

最近の出来事で、酷い死に方をした人は、だれだろう。
3月26日号「完売御礼」の週刊文春、見出しを引用すれば、
「森友自殺(財務省)職員遺書全文公開」 赤木俊夫さんの自殺がある。
奥さんが佐川・理財局長と国家を訴えたという記事を、私も読んだ。
不正に手を貸すことを強いられ、鬱病になり、検事に電話で何を云われたのか、
首吊り自殺した54才の彼。

鬱病の経験がある人なら、自分のことのようによく判る自殺だと思った。

ひところの死に至る病に、エイズがあった。
人はエイズでも死んでしまう。これだって死である。
ジョルジュ・ドンは20世紀バレエ団の花形ダンサーで、まさに天才だった。
1982年の秋と夏、2度日本で「ボレロ」を踊った。
私はフランス映画「愛と哀しみのボレロ」を何回、見たことだろう。
モーリス・ベジャールは1997年のドンの死を、こう書いている。
「ドンは舞台の上で死にたがっていた。だが、彼は病院で死んだ。」

そんな死とこんな死は365日あるだろう。
そのほかに、日本では子どもが親の手で殺される。母親の連れあいに殺され、
母親にも殺される。同居のおじいさんやおばあさんにも殺される。
子どもは、子どもたちの手でも、殺されている。すさまじい拷問つきで。
死は毎日のように小さな子どもや弱者に襲いかかるのだ。
子どもたちは、どんな気持ちで死ぬのだろう。
コロナで死ぬのとどっちがこわくて、どっちが無惨な処刑なのだろう。

コロナウィルスがもたらす死は、これから成人した弱者を襲うだろう。
そう思うと、気持ちが悪くなって、じっとしていられない。
私はほかにチャンスがなかったので、息子たちにたのんで、ライブハウス通いを、
20年もした。若い人たちの中に遠慮しながらすこしいたわけである。
それで、まずライブハウスに集まっていた彼らのことを考えてしまう。
働きながら、自分たちの生きる中心に音楽を置いて支えるという清貧。
大会社の庇護を受けられない、あの彼この彼女の姿が浮かんでしまう。

1億総コロナって、片手落ちじゃないだろうか。
これでいいんだろうか。
そそくさと窓を閉め、戸をしめて、手をあらい、うがいをして。
自分の命のことだけつい考えて。