2012年7月31日火曜日

幸福とは


私は親にかかわりのない人生を、考えてみれば演劇から出発させた。
ある夜、家から遠くない都立松沢病院のガタピシする講堂で、精神病院の労働組合が
クリスマス?の演芸会をひらき、その時、地域の合唱団に入っていたお手伝いさんが、
小学生の私をそこに連れて行ってくれたのである。
私の未来の種子はそこで蒔かれた。

だれだか知らないが労働組合の青年が、
(私には恐るべき破滅をまつ老人に見えたけれども)
チェーホフの 『煙草の害について』 を独りで演じたのだった。
あの狭い舞台をかこむ黒いカーテン。暗闇と埃の浮かぶ光線、
役者の身体を覆うゴワゴワとして穴のあいた灰色の外套。
悲劇的で不自然なメーキャップ。
そして、なによりも素人俳優の彼が語った言葉だ!
私は大勢のご近所の観客の中のひとりの子どもでしかなかったが、
自分がかけがえのない、そう在りたかった孤独に完全にブロックされて、
わけのわからないまま、いつまでもいつまでもそこにいたかったのを憶えている。
撃たれたような時間だった。

商業と関係なく、人生があたえる芸術を享受したのは、あの時だけだったかもしれない。
あたえられた作品をまっすぐに、その大きさに見合う素直さで、受け取ったのだ。
とにかく、私にとってはそういうことだった。
それは、言語であり、文学であり、限定された空間にうかぶ人間存在の悲哀だった。
人間というものの説明だった。

私のささやかな幸福は、
そこから、松沢病院の講堂から始められたように思う。
人生のなにかを楽しむこと、理解する楽しみを、小さくてもおぼえたのだ。
一人っ子だった私は、
そこで人が人に、なにごとかを与え、なにごとかを受けとる、
物質のやりとりとはまたべつの、そういう生き方が世界にはあると知ったのだ。
それが劇場ではなく、職業的俳優によってもたらされたのでもなく、
なんの権威ももたない仕掛けのなかで起こったことが、
私らしいことだったのだろう。
私の子どもたちが、ロックバンドであれ、演劇であれ、翻訳であれ、
彼らのなにかを表現しようとする時、親である私が彼らの表現にさがすものは、
売れるか売れないか、ということから自由だから。


2012年7月30日月曜日

温泉へ


空気のせいか気圧のせいか、どうにもこうにもならなくて、
朦朧として、こんな暑い日にまさかと思ったけれど、温泉場へ出かけた。
まさかと思うのに、温泉も、混雑している。
広間の畳の上にどたんとのびちゃって、しばらくぼーっとし、ビールをひとまず一杯飲んだ。
身体がこわばって、目がかすんで、食欲はなく、あーあお風呂か、と思う。
温泉にきたというのに。

あたりは人でいっぱい。子どもも赤ちゃんもいた。
むこうのテーブルに湯上りの、分厚い金髪の中年男性がふたり。
ひとりは内気でおじけづいたような人であり、ひとりは腕にタトゥーの親切そうな人である。
職場のなかよし・・・、しきりに話しをして。
おかしいなぁと、がっくりしたまま考える・・・。
昔はおじけづいたり親切だったりする中年男は金髪にならなかったんじゃないの。
まあ、でも、世の中、こういうふうになっちゃったんだなあ。

感慨にふけってきのうの電車のなかを思い出す。
浴衣全盛。どこかがやる各所花火大会のせいか。
金髪茶髪の長い髪の毛で、浴衣がえんじ色で、桃色の帯にさらにリボンをつける。
まるい目にドッテリ金色と青のアイシャドウを塗って、唇にはぬらりと光るみょうな口紅。
そんな女の子がじっとり若い男に浴衣姿で抱きついて立っているのだ。
こういう流行をつくる人って、だれなんだろう?

おとといはよかったな、とまた電車の中。
車内はめずらしいことにちょうどいい冷房。すずしい。
シートに腰掛けた男の子がヒザに大きな本を開きシッカと本を読んでいる。
本を読んでいるおとなが、ほかにもいて、ケイタイを読んで?いる人もいたし、
目をつむっている人もいた。
電車の中は静かで小津安二郎みたいな世界。
立っている人は数えるほどしかいなくって、不思議とちゃぶ台なんかを私は連想。
みんなが落ち着いていい顔つきだった。

横になって、本を読む。温泉に入らなきゃとも思う。
堀田善衛の「若き詩人たちの肖像」を読む。
耳もとを何人もの人が歩くけど平気。こちとらあ、いやだと思う気力もないわけで。
堀田さんがものすごい作家だということはよく判っているけど、
スゴイ人って若いとこんなに感じがわるいもんか、と怒りながらよんでいる本だ。
こうだからこうだ、と
ただその通り正直に書けばこうなる、という感じがまた凄くって、
頭がくたびれて眠たくなり、しばらく寝てしまって、
ーやっと温泉。


2012年7月27日金曜日

誕生日を祝う


今日は私の娘の誕生日。

彼女はまんなかの子で、ほとんど親の手をかりずに育った。
貧乏だったから入院助産制度の適用を受け、出産費用は公的援助のおかげで
2600円ぐらい、それだって払った時、とても苦しい気がしたのをおぼえている。
そう書くと、明治か大正の話みたいだけれど、昭和も後半のころの話である。
結婚してからずーっと、私たちはものすごく貧乏だった。

遥がまだ子どもだったころ、
あんたってこんなにビジンなのになんで足のかたちがマッスグじゃないの、
どうしてかな、まったくどうしてこんなになっちゃったのかな、と私が心配したら、
「お母さんが手抜きして2600円なんかで生むからだよ」
と言うのだ。
テレビもないしお風呂もないくらしで、娯楽といえば冗談ぐらい、
この冗談はすごくいい、すばらしく気がきいてる、
遥はとても頭がいい!
そう思っちゃってわーっと笑ったら、遥もくすくすくすくす笑ったのだ。

かみさま、この子は母親の私とはちがう遠くへ、
世界のどこか遠い彼方へ出かけて行くヒトにしてください。

先の見えない貧しさが苦しく、私は娘に遥という名まえをつけた。
本当にかなう夢だなんて思えなかったのに、なんにもしてやれなかったのに、
彼女はロシアへ行き、その後オランダで生活する人になった。
ロシアの演劇アカデミーにいたころは、きれいな人みたいにしていたけれど、
オランダで何年か生活して、そこからフィンランドに私と健に会いにきた時は、
厚着したインディアンみたいな女の人が空港にあらわれたというかんじ。
あー遥、なるほどねーと。
オランダは質実剛健のお国柄、それにああやっぱりこの子は演劇は捨てたのか、と。
弟が、遥はよくなった、こっちの遥のほうがずっといいよ、と言っていた。

遥というといつも私が思い出すのは、自転車の荷台から落っことしたことで、
なんのかげんか、ちいさな身体がうしろにグルンとでんぐり返って地面に転落したから、
私も幼い遥も、ふたりとも、ものすごくビックリした。
怪我もしないで、でんぐり返って着地したのが奇想天外にして意外、
ホッとした反動かなんか、急におかしくてなっちゃって。
「ごめんね、遥ちゃん、あーおどろいた、ケガしなくてよかったあ。
死ぬほどビックリしたよ、お母さんは。
でもさあ遥、でも、どうしてあんたって大丈夫なの? サーカスじゃないの、まるで!」
地面に落ちた遥のほうは、固まって私を見上げていたけど、
まだ赤ん坊にちかいから、ああのこうのとは言えない。
ビックリしたまんま、かわいい声で、やっぱり私といっしょにげらげら笑ったのだ。

まだ、ある。
保育園の帰りみち、手をつないで歩いていたら、電信柱の鉄の張り板にドカンと激突。
おでこと鼻のあたまに、張り鉄板の粒々のアトがおもいきり赤く浮き出してしまった。
あまりのことに、
「どうして、なんでよけないのよ?!」
「だって、だって、目をちゅぶってたもん」
もちろんワアワア大泣き、イタイイタイと怒っている。
「おかあちゃん、なぜ、デンチンバチラになるよって、はるかに言ってくれないの!」
「だって、まさか目つぶって歩いるなんて、知らないもん。
あのさぁ、手をつないでるからって、
目をつぶるんなら、ちゃんと教えてくれなきゃダメなのよ。」
そう言ったとたん、ふきだしちゃって、もう。
「ごめん。遥がかわいそうでたまらないけど、ごめん、おかしくってダメだこれは!」
子どもって、なんてヘンテコリンな生き物なんだろう。
手をつないで話をしながら、ごきげんで歩いているかと思えば、
目なんかつぶって、自分だけひそかに、またべつにも遊んでるのである。
そうとは知らないお母さんに引っ張られて、ちっちゃい遥さん、ドカーン。
「遥さあ、そりゃお母さんが悪いけどさあ、ムリよー、わかんないわよー」
だっこしておんぶして謝るんだけど、どうにもおかしくって。
遥はまたしても、泣きながら怒りながらげらげら笑っちゃうという、
気の毒な運命の人になったのであった。

遥へ。
お誕生日、おめでとう。うちの子どもに生れてきてくれてありがとう。


2012年7月25日水曜日

クラシックなくらし


息子からきいた彼の休日。
労働がやっとおわった金曜日は深夜まで、
音楽の友人たちと、
ろくに家具もない自分の下宿で「よばなし」。
話しがうまい人ばかりで、みんなが大笑いしどおしだったとか。
それから、つぎの日の夜はライブでひとり演奏。ライブは彼の兄の主催だった。
打ち上げがあって、電車がなくなり、こんどは友人宅でまた徹夜の「よばなし」。
はじめの友人はみんな年上、おとといは年下の知り合いだったとか。
やがて休日が終わると、またも彼らは、
息子も友人たちも、おそらくは虚しいのだろう労働にもどっていく。
それぞれの果てのない努力へと。
べつのなにかを一心になって続けるために。

あとになると、あれが詩のようなくらしというものだった、とだれかが書くのだ。

2012年7月21日土曜日

志ん生の長女


志ん生の娘というと馬生と志ん朝のお姉ちゃんである。
「三人噺」という、なにか黄昏のようなカラーの、美しい本を読んだ。
聞き書きだから流れるような、話というよりはやっぱり「噺」の、そのおもしろいこと。
見たこともない詩のような本・・・。

美濃部美津子さんは落語の名人を三人も出した家族の娘だから、
軽妙洒脱が稼業の家にまるごとざんぶり浸かっていたわけで、
彼女の生活言語であることばは、えらびぬかれた落語の噺のそれなのである。
考えてみれば当然だけれど本当にすばらしい。
しかしそれよりもっと、この物語に私たちが感動させられるのは、
けなげで、欲がなくてまっすぐな人の気持ちのありようだ。
こころねがいい。献身が自己犠牲とカンケイがないのもすっきり美しい。
この家は男三人が有名なんだけど、美津子さんは母親のおかげで、
裏方であることを、それはそういうもんだと自然に受けとって自分も生きたのである。

どうしてなのかなあ。
古今亭志ん生の家の極端な貧乏は有名だけれど、なんかこう納得のいく、
こどもがそれをスンナリ引き受けちゃうぐらいな、第一級のおかし味というものがあって、
魅力的だったんでしょうよね、きっと、考えなくても。
結婚はしたけどやっぱり戻っちゃったぐらいの、ねえ。

文庫本になったから買って読んで、と友達にすすめたら、
もうもう読んじゃって、ドライアイがいたくて苦しいのに読んじゃった、と。


2012年7月20日金曜日

確実な春のはじまり


新鮮な発見。

官邸デモに参加した、あるいは官邸デモを見に行った人たちが、
巨大ともいえる人々の群れが金曜日の仕事帰りに集まってきていると言う。
その多くが個々人で参加しているふうに見えると言う。
障害のある娘とふたり、デモの様子を見たくて国会議事堂駅で降りた友人は、
知らない人が自分の代わりに飲料水を買いに行ってくれたと驚いている。
行進なんかできないほど抗議デモの人数は多く、知らない人同士の親切が気軽に行われ、
ふつうの個人的な人たちだから、ルールを守り、ゴミは持ち帰っている、と。

7月16日、17万人が集まったという代々木公園でも雰囲気は、ほぼ同じだった。

4、5年ほど前、フィンランドに私は出かけた。
個人的な見学の旅で、ヘルシンキに10日間滞在。
・・・むかし日本もこういう国だったと、行ってみて思い出すことがたくさんあった。
おだやかで、スジが通っていて、カフェやレストランで話し合う姿が落ち着いていて。
それは懐かしくて、好ましい光景だった。
ああ、日本がこうだった時代を私は知っている、と少なからぬ感慨があった。

ノスタルジー。

むかしと言っても、1960年安保前後のころの話である。
貧しくてもあのころ私たちの国は学力世界一のフィンランドによく似ていたのだ。
たとえば、
フィンランドのバスは、時間内であれば、同じチケットで何回も乗りなおしができる。
私はかつての日本の地下鉄を思った。
学校が青山にあって高校へは定期で通ったんだけれど、
地下鉄は定期さえ買えばどこまで乗ってもよかった、フィンランドみたいに!
銀座に行くのも、学校がおわって国会議事堂へデモに行くのも、学校の定期で行ける。
こういう市民本位のべんりさが、日本が世界に冠たる金持ちになるにつれ、
制限されていったのがヘンである。

忘れていたけど、あの時代は案外イロイロよかったのだろう。
そんなふうな生活や気持ちを私たちは再びとりもどせるだろうか?

いま巨大なデモのありようを聞いたり見たりすると、
ここから春が少しは始まるのかもしれない、と信じる気持ちが起こってくる。
巨大な抗議デモのなかには、
社会的な意見をもつ人も多くいて、不信の壁をこえて見知らぬ人に優しい人も多い。
そこへ出かけて行って、たくさんの人々を見て、自分を自分なりに変えるのだ。
自分が変わらなければ、家庭はかわらず、学校もかわらず、
イジメの構造も変わりはしないのだ。
社会は自分からはじまるという真理に、たぶんいま私たちは接近し始めているのだ。


2012年7月18日水曜日

17万人の抗議デモ


7月16日、新宿でみんなで待ち合わせて代々木公園へ行った。
何日も前から、自分なりの意見表明をしたいと思っていたけど、
身軽く出かけられずもどかしい思いだった。だから願いがかなってうれしい。
今、デモに行かないでいつ?! と私は思うのである。 

このあいだパーティをやって印象的だったことのひとつに、
息子と息子の友人と私の、三人の夜中までのギロンがあった。
「デモはいま流行のファッションだ、そういう軽薄なやつらがイヤで行く気にならない」
「なんでむかしの人は安保の時はすごかったと自慢するんだ、負けたくせに」
などなどと、けっこう本質をついた感想。
私も思うことを言ったり、言いかえしたりしたんだけど。
あれからずっと、16日の代々木公園でも、この二人の意見が私についてまわった。
頭から離れないのだ。それがギロンのよさだ。
ギロンというものは勝ち負けではなくて、論理の精査にある。
自分ひとりで、あとあとまでこだわって考える、そのためのものだ。
あの真夜中のギロンをパーティに来てくれたみんなとできたらよかったのに。

17万人のデモというけれど、本当はもっともっと多いはずである。
参加したかったのに身体の具合で思うようにならない、という人は多い。
老齢で、選挙権の持ち主で。デモに参加したいけど行かれない・・・・。
第一会場にいる私の携帯電話に長男が電話をよこした。
こどもと来たけど、なにしろ人が多すぎて私たちがいるところまで行けないと言う。
いま「赤い疑惑」の演奏を聴いたよ、と言っている。
彼らは「第3案内カー」の上で11時から演奏している。
ということは長男は道路がいっぱいで公園に入れないでいるのだろう。
こどもは4才。熱中症になりませんようにと祈るしかなかった。

会場を見わたす。それこそ安保の頃とはとても様子がちがう。
政党はもはや見る影もないし、労働組合の旗もすくない。
旗や幟(のぼり)を立てている人に、うしろからしつっこい抗議の声がかかる。
舞台が見えないから旗を降ろしてください、というのである。
10万人もいるところで、舞台の上の顔を見ようなんて無理でしょと、
私なんかそう思うが、とにかく旗指物の存在をゆるそうとしないのである。

広辞苑でしらべると、ハタサシとは軍陣において主人の旗をもつ従者をいう。
なるほど60年安保の時、私も、主人をさがすようにまず旗指物をさがしたっけ。
社会党か共産党か。全学連の主流派か反主流派か。総評か、それとも・・・。
とにかく所属団体をきめたい、どこかに所属したい、という心の動きだ。
とこんなことを考えるのも、あの夜、息子たちとしたギロンのおかげである。
私は自分なりの考えをもって安保反対のデモに参加していたのかしらん。
高校二年生で授業が終わると毎日国会に走って行ってたけど。

そうですね、おっしゃるとおり、流行のナミに乗っていただけかもしれません。

そう考えるにつけても、安保反対はすごいデモンストレーションだったと感心する。
国家と国家の条約に反対してよくあれだけの抗議行動をしたものだ。
条約や法律に反対するって観念的で難しい。法律言語の洪水を泳いで渡るような。
読んではみても、頭がクラクラしてわかった気がしない。学者やインテリの天下というか。
戦争が終わって15年の1960年。
アメリカ軍に占領支配された国民としての屈辱的な経験が、まだ生きていた頃だ。
他国の支配がどれほど暴力的であるか日本人がよく知っていた頃だったのだ。
いくらアメリカ文化にあこがれても、支配は友好とはまったくちがう。

原発反対は安保条約反対より悲しいかなもっと直接的だ。
ランキンタクシーの歌のとおりである。
放射能・差別しない・区別しない。
安保条約賛成の人の上にも反対の人の上にも放射能は降りつもる。
利権のバケモノの上にも、赤ちゃんの上にも、
「原発どうだっていい」と思う人の上にも、「原発心底反対」の人の上にも、
実は内部被爆の恐怖が迫っているのである。
安保条約締結の結果の成れの果てが今日の日本だといま私は思うが、
そんなことをこうなるまでロクに考えもしなかったのが悔やまれる・・・・。

だらしないイジメの流行より、自殺の流行より、政治的無関心の流行より、
人間不信や鬱病の流行より、ゲームづけより、官僚主義の奴隷でいるより、
軽薄だろうとファッションだろうと、原発反対、抗議デモの流行のほうがずっとマシだ。
この流行は少なくとも私たちを暖かくむすびつける、見知らぬ者同士を。
代々木公園に集まった群集は、組織された人たちというより、
日当をもらって参加する従来の労組の人たちというより、
まずは個人であり友達どうしという感じがする。
私も大学の同級生と、アメリカ人の演出家と、おなじ団地の住人と参加したが、
私たちだってデモに参加したいがための、急ごしらえの個人グループだ。
解散もそれぞれの都合にしたがって、まちまちである。

やっとここまできた、という見方もある。やっと自分の実感で、と。
それはそうだ。それはいいけど。
自由意志が民主主義の基本であってほしいけれど。

旗指物のことだ。
ハタサシモノを否定して、本当にいいのかしら。
なにかのハタのもとに集まって戦うことなんかもういやだと思うことが
そんなに好ましくて当然だろうか。
信頼できる政党がなく、安心できる宗教をもたず、指導力のある組合組織をもたず、
それでいったいどうするのか。
現代史のいったいなにを反省すれば未来が見えるのだろうか。
これは今や深刻な課題である。

自民党は原発問題の主犯であり、民主党は同一従犯である。
政党政治はもうウンザリ。御用組合ひっこめ。官僚よ首を洗って待ってろ。

そうだけれど代わりにどうすればいいのだろう?

この戦いも「どうせ負ける」のか、安保反対闘争のように。
イヤ今回はその抗議デモの巨大さによって革命的変化が始まるのか。
たとえ権力にうわべは負けても、抗議の結果、健康な精神風土が少しでももどって、
国家の濁りを浄化してくれるのか。それをなんとかしてみんなで考えたいものである。
政党にも、各組織にもこの際、厳しく考えてもらいたいものである。

2012年7月14日土曜日

首相ピリピリ


いまは、新聞を読むべき時だと思う。
できれば毎日読んでみてほしいけど、図書館に行ったとき読むのでもいい。

政党に無関係で宗教がらみじゃない新聞がいい、という人には東京新聞をすすめたい。
理由は簡単。
東京新聞は早くから、脱原発、反原発情報を掲載していた。
ふだんから紙面が意欲的である。
たとえば13日の金曜日には、日本外国特派員協会での記者会見の記事を載せた。
大江健三郎、内橋克人、鎌田 慧の「さよなら原発10万人集会」への呼びかけ。
ー7・16 代々木公園、12時半開始である。ー
鎌田さんはこう言っている。
「七百五十万筆は極めて重く、(政府は)民衆の意思を踏みつぶした」
一千万署名市民の会が、七百五十万人分の脱原発署名を政府に出した翌日、
政府は再稼動を決定したのである。

今日14日(土曜日)一面の見出しはこうだ。
官邸前デモ「首相ピリピリ」

べつにウソじゃないでしょ。
毎週金曜日に十万人以上のフツウの人たちにデモをかけられたら怖がって当然だ。
しかもそれが増える一方だというではないか。
政府首脳の不誠実、ウソ、厚顔無恥、不公平に対しての反政府デモである。
それなのにテレビも大新聞も、歯がゆいほど、そこを知らん顔して通る。
私たちは、原発に反対する動きや運動についてろくに知ることができないのだ。

新聞というものは読みにくい。
そう思う。
なんとか読もうとして四苦八苦。
字が多くって、言い回しが難しくって、いやになる。
ぜんぶ読めたことは自慢じゃないけど一度もない、私なんか活字中毒なのに。
もう私は新聞のぜんぶを読もうとは思わない。
そのことをどう考えたらよいのか、今でもちっともわからない。
私が新聞の存在をみとめるわけは、
読みたくないニュースが大見出しで毎日とどく、からだろうか。
受身な話でもうしわけないが、
新聞をとると、
読みたくないから読まないという行為が負債のようになってしまう。
自分を叱咤激励しないと、その借りが少しも返せない。
新聞は、おまえには返すべき借りがヤマのようにあると、私に迫るのである。

その私の負債とは、
「アンタの社会にたいする借りだ」と、やっぱり私は思う。
学校に行かせてもらい健康に育ててもらい自分自身の家族も持った、そういうごく普通の、
しかし大人としてこども達に なんとか返済するところを見てもらいたい、借り。
自分たちが平和にくらせた幸運は、いまとなっては負債である。
完済なんかできないけど、借りっぱなしが恥ずかしい。
なんでこんな世の中にしたのか、私にはやっぱり責任があると思わざるを得ない。

専門学校生のかわいい18才が囲み記事の中で言っている。
夏休みになってやっとここに来れたと言い、15万人の渦のなかでインタヴューされて、
「選挙権がないのがもどかしい、選挙に行かない大人は私に譲ってほしい」と話している。
もっともである。
首相ピリピリも、この女の子の発言も、もっともではないか。
こういうもっともは、こんな世の中でも、私たちが思っている以上にたくさんある。
それが否応もなく目にとびこんでくる点が新聞の力というものだ、と私は思うのである。




2012年7月12日木曜日

パーティーをひらいて



小沢昭一がめぐる「寄席の世界」という本のあとがきは、小沢さんの俳句一首のみ。
帰り花夕風わたる帰り道    変哲        
ー朝日新聞社ー

パーティをひらいて終わったあとの私の気持ちって、この句のようだった。
しみじみ、みんなのよい話がきけて、たのしいゆたかな時があって、
そこにはじぶんの人生をかけたそれとない精進もあるわけで、
だからぜんぶが終わっての感想は、贅沢なような質素なような、
気持ちのよい夕風にあたってこれで帰る、という気分だったのである。

「寄席の世界」は対談の本で、小沢さんと矢野誠一さんがこう語りあっている。
矢野
あれはなんなんでしょうね、噺家のほうにも成長過程というものがあるし、それを聞いて
いる客のほうにも成長過程というのがあるわけでしょう。その両方がうまく一緒になって
いくというのが理想なんじゃないかな。
小沢
つまり両方とも、文化的に年を重ねていくということですかね。それがピタッと合ったとき
の喜びというのはなんともいえない。


図々しい言い方かもわからないけど、このあいだはそういうふうな集まりで。
はじめて家に来てくれた人もいたし、以前、彼らの家に行って音楽をきかせてもらった
「一軒家のライブ」の人にも、やっと会えた。
若い母親たちと、彼女たちよりまだ若いアーティストたち。
いろいろな仕事、いろいろな年齢。そして生涯新劇人の今野鶏三さんの朗読。
それでみんなが疎外感なしに自由に話をした。
これが私の人生の目的だったといえば、おかしなかんじだろうけれど、
若い時から、その機会をつくろうと考えて努力したのは本当だ。
だって、なんだかむずかしいことですもんね!
議論したり話したりってね?

私たちには、じぶんより若い人間と話す場所も能力もない。
老人はもちろん、どんな若い人でもそうだ。
私たちは輪切り状態で育てられたから、ほかの世代から学ぶことができない。
そして、だからこそ日本に言論は育たず、独裁者の恫喝にすぐ負けるのである。

参加してくださったみなさん、ありがとう。


本の背を読む幼児


疎開先の葉山一色海岸を引き揚げた両親は、大邸宅の二階を借りた。
下北沢である。
敗戦後のことで、そこには持ち主の社長一家はもちろん、
私たちのほかにも、書生や、あかちゃんのいる若い夫婦が住み着いていた。
天井でネズミがかけまわっている、東京大空襲を免れたおおきな家・・・。
池があって、石灯篭が立っていて、築山のかげの防空壕は水びたし。
ふだんは開けない大玄関だとか、閉めたきりの大応接間だとか。
電話室の電話は手巻き式。
大きな柱時計の動きがとまると、横の階段の途中から扉を開け、誰かがネジを巻く。
塀はぐるりと高い黒板塀。桜と八重桜と松の木とモミジと百日紅の木がある、
そんな家でも、戦争に負けたのだから、
真冬、火鉢だけしかなかった。

二階東南の角に、屋根にとりつけた木造の物干し台があり、
廊下に、雑多な本を投げ込んだ、うちの大人用本棚が置かれてあった。
どの題名も漢字ばっかり、四才や五才には、ひらがなしか読めない。
読めるのは二冊で、私はそれを音読する。
「かひしなの」と声にだして言い、「なすの夜ばなし」と、たどたどしく読むのだ。
夜という漢字は、祖母が、私にきかれて教えたのだろう。
それを読む。物干し台にのぼり、また本棚の前にもどる。
冬、物干し台のまえは陽だまりになって暖かい。こどもは猫みたいなものだ。
私は、ふたつの背表紙を何回となく読み上げ、首をひねり、本棚からはなれ、
またもどってきては、首をひねるのである。

ナゾという言葉を知らないときのナゾは、霧のようにも深いものだ。
「かひしなの」のほうは、あっちから読みこっちから読んで、
かひ、も、かひし、も、ひしな、も、読んでも歯がたたないからあきらめたけれど、
なすはちがう。
なすのことならよく知っている、考えこんでしまう。
なすは、いったいなぜ、夜になると話をするのか、昼間はあんなに黙っているのに。
四才がまるっきりひとりで考えるとなると、そこがわからない。
なすとなすが話しをするのか、
なすはそれとも、この本を書いた人にだけ、夜になると特別に話しかけるのかしら。
真夜中の月の畑で、なすに、どんなことが起こっているのか。
いけばそれが、きっとわかる。
ー絵本の影響で、幼い私は夜の畑には月がかかっているときめていた。ー
しかし、どんなにそれを知りたかろうと、こどもだから夜中は眠らされて、
月光の下の真実については絶対に知ることができないのだ。

それは、いま私が知っている漢字をつかえば、懊悩、というべきほどの感情だった。

・・・自由に文字がよめるようになると私は、少女の私の読書でいそがしく、
「かひしなの」も「なすの夜ばなし」も忘れ、知らん顔の無関係でほかの本を読んだ。
読みやすい本ばっかり。
継母が少年少女用の本も出版する会社の編集者であったから、
私の部屋には子ども用の本棚が作られて、おもしろい本がヤマほどあったのだ。

なすは那須であり、かひは甲斐であり、しなのは信濃であった。
私ときたら、忘れがたい思い出のために、この二冊だけはだいじにとってあるのに、
六十年たってもまーだ読んでない。
読まないままで死んじゃうのかもしれない。
「なすの夜ばなし」なんか、小山内 薫の本なのに。
山花郁子さんにこの話をしたらふきだして、貸してくださいって言った。
お元気だろうか。

2012年7月2日月曜日

まともな論理を求めて

木曜日 朗読の会。
金曜日 若い母親たちの集まり。
土曜日 パーティー。

全部家でのことなので、ものをどけて掃除がしてあるふうにするのが大変だけれど、
そんなことより、来てもらった人に後悔させないようにって、それがなかなか。

日曜日になって、東京平和映画祭に午後から出かけてパネルディスカッションをきき、
短編映画「フクシマの嘘」 ヨハネス・ハーノ(ドイツ)レポートを観て、
上杉 隆(自由報道協会)さんの講演を聴いた。
上記三日間のあとだったので、なんだかもう雨は降っているし、
くたびれたのかなんなのか、
死んだなにかの虫みたいな気分がしていたけれど、
ヨハネス・ハーノ監督のドキュメンタリー映画が素晴らしく、
これこそさがしていた意見だ、無理しても出てきてよかったとうれしかった。

ヨハネス・ハーノ氏は、ドイツ最大のテレビ局 ZDF の東アジア総局長である。
調査報道の看板番組を担当、ベルリンの政治特派員であった。
大震災の起きた昨年3月11日、彼はちょうど東京にいて、
即刻福島第一原発に駆けつけ、内情を知る人たちに直接インタビューし、現場に潜入、
原子力むらにひそむ背後関係をたどり、さぐり、追いかけ、
「なにがどうなっているのか」「なぜなのか」を映像化した。
それがこの「フクシマの嘘」である。

29分ばかりの短い映画。

私が胸を打たれたのは・・・、この映画のまともな「論理」にだった。
私たちの国を襲った惨劇の正確な把握。
天災と人災にまみれ、嘘にひっかきまわされてワケがわからなくなり、
なんだかおそろしいほど完全に見失ってしまった私たちの人間性。
それが外国人によって発掘され、日本人の姿を軸に事態が解明されてゆく。
私たちが見たい知りたい日本人の姿が、かろうじてそこにある・・・。
ハーノ氏はたくさんの関係者にインタビュウーしたにちがいないが、
29分間の画面に選びだされて登場する日本人たちの発言の、
善と悪、真実と嘘を、疑問の余地なく整理してみせた論理的剛腕がすばらしい。

私は証言する映像のなかに管 直人前首相の姿があったこと、
また佐藤栄佐久もと福島県知事の戦いがとりあげられたことをうれしく思った。

デマや誹謗中傷の洪水の中から、故意に消された努力と苦闘をひろいあげること。
それが、ドイツ人の記者ハーノ氏がした作業のひとつである。
人間の勇気や理想主義、責任者としてのまっとうな苦闘を、
混迷の中から見つけ出し注目し味方すること、論理的にバックアップすること
いま本当に一番だいじなことはそれだと私は思うのである。


「フクシマの嘘」はYouTubeでみることができます。