2012年7月14日土曜日

首相ピリピリ


いまは、新聞を読むべき時だと思う。
できれば毎日読んでみてほしいけど、図書館に行ったとき読むのでもいい。

政党に無関係で宗教がらみじゃない新聞がいい、という人には東京新聞をすすめたい。
理由は簡単。
東京新聞は早くから、脱原発、反原発情報を掲載していた。
ふだんから紙面が意欲的である。
たとえば13日の金曜日には、日本外国特派員協会での記者会見の記事を載せた。
大江健三郎、内橋克人、鎌田 慧の「さよなら原発10万人集会」への呼びかけ。
ー7・16 代々木公園、12時半開始である。ー
鎌田さんはこう言っている。
「七百五十万筆は極めて重く、(政府は)民衆の意思を踏みつぶした」
一千万署名市民の会が、七百五十万人分の脱原発署名を政府に出した翌日、
政府は再稼動を決定したのである。

今日14日(土曜日)一面の見出しはこうだ。
官邸前デモ「首相ピリピリ」

べつにウソじゃないでしょ。
毎週金曜日に十万人以上のフツウの人たちにデモをかけられたら怖がって当然だ。
しかもそれが増える一方だというではないか。
政府首脳の不誠実、ウソ、厚顔無恥、不公平に対しての反政府デモである。
それなのにテレビも大新聞も、歯がゆいほど、そこを知らん顔して通る。
私たちは、原発に反対する動きや運動についてろくに知ることができないのだ。

新聞というものは読みにくい。
そう思う。
なんとか読もうとして四苦八苦。
字が多くって、言い回しが難しくって、いやになる。
ぜんぶ読めたことは自慢じゃないけど一度もない、私なんか活字中毒なのに。
もう私は新聞のぜんぶを読もうとは思わない。
そのことをどう考えたらよいのか、今でもちっともわからない。
私が新聞の存在をみとめるわけは、
読みたくないニュースが大見出しで毎日とどく、からだろうか。
受身な話でもうしわけないが、
新聞をとると、
読みたくないから読まないという行為が負債のようになってしまう。
自分を叱咤激励しないと、その借りが少しも返せない。
新聞は、おまえには返すべき借りがヤマのようにあると、私に迫るのである。

その私の負債とは、
「アンタの社会にたいする借りだ」と、やっぱり私は思う。
学校に行かせてもらい健康に育ててもらい自分自身の家族も持った、そういうごく普通の、
しかし大人としてこども達に なんとか返済するところを見てもらいたい、借り。
自分たちが平和にくらせた幸運は、いまとなっては負債である。
完済なんかできないけど、借りっぱなしが恥ずかしい。
なんでこんな世の中にしたのか、私にはやっぱり責任があると思わざるを得ない。

専門学校生のかわいい18才が囲み記事の中で言っている。
夏休みになってやっとここに来れたと言い、15万人の渦のなかでインタヴューされて、
「選挙権がないのがもどかしい、選挙に行かない大人は私に譲ってほしい」と話している。
もっともである。
首相ピリピリも、この女の子の発言も、もっともではないか。
こういうもっともは、こんな世の中でも、私たちが思っている以上にたくさんある。
それが否応もなく目にとびこんでくる点が新聞の力というものだ、と私は思うのである。