2012年7月18日水曜日

17万人の抗議デモ


7月16日、新宿でみんなで待ち合わせて代々木公園へ行った。
何日も前から、自分なりの意見表明をしたいと思っていたけど、
身軽く出かけられずもどかしい思いだった。だから願いがかなってうれしい。
今、デモに行かないでいつ?! と私は思うのである。 

このあいだパーティをやって印象的だったことのひとつに、
息子と息子の友人と私の、三人の夜中までのギロンがあった。
「デモはいま流行のファッションだ、そういう軽薄なやつらがイヤで行く気にならない」
「なんでむかしの人は安保の時はすごかったと自慢するんだ、負けたくせに」
などなどと、けっこう本質をついた感想。
私も思うことを言ったり、言いかえしたりしたんだけど。
あれからずっと、16日の代々木公園でも、この二人の意見が私についてまわった。
頭から離れないのだ。それがギロンのよさだ。
ギロンというものは勝ち負けではなくて、論理の精査にある。
自分ひとりで、あとあとまでこだわって考える、そのためのものだ。
あの真夜中のギロンをパーティに来てくれたみんなとできたらよかったのに。

17万人のデモというけれど、本当はもっともっと多いはずである。
参加したかったのに身体の具合で思うようにならない、という人は多い。
老齢で、選挙権の持ち主で。デモに参加したいけど行かれない・・・・。
第一会場にいる私の携帯電話に長男が電話をよこした。
こどもと来たけど、なにしろ人が多すぎて私たちがいるところまで行けないと言う。
いま「赤い疑惑」の演奏を聴いたよ、と言っている。
彼らは「第3案内カー」の上で11時から演奏している。
ということは長男は道路がいっぱいで公園に入れないでいるのだろう。
こどもは4才。熱中症になりませんようにと祈るしかなかった。

会場を見わたす。それこそ安保の頃とはとても様子がちがう。
政党はもはや見る影もないし、労働組合の旗もすくない。
旗や幟(のぼり)を立てている人に、うしろからしつっこい抗議の声がかかる。
舞台が見えないから旗を降ろしてください、というのである。
10万人もいるところで、舞台の上の顔を見ようなんて無理でしょと、
私なんかそう思うが、とにかく旗指物の存在をゆるそうとしないのである。

広辞苑でしらべると、ハタサシとは軍陣において主人の旗をもつ従者をいう。
なるほど60年安保の時、私も、主人をさがすようにまず旗指物をさがしたっけ。
社会党か共産党か。全学連の主流派か反主流派か。総評か、それとも・・・。
とにかく所属団体をきめたい、どこかに所属したい、という心の動きだ。
とこんなことを考えるのも、あの夜、息子たちとしたギロンのおかげである。
私は自分なりの考えをもって安保反対のデモに参加していたのかしらん。
高校二年生で授業が終わると毎日国会に走って行ってたけど。

そうですね、おっしゃるとおり、流行のナミに乗っていただけかもしれません。

そう考えるにつけても、安保反対はすごいデモンストレーションだったと感心する。
国家と国家の条約に反対してよくあれだけの抗議行動をしたものだ。
条約や法律に反対するって観念的で難しい。法律言語の洪水を泳いで渡るような。
読んではみても、頭がクラクラしてわかった気がしない。学者やインテリの天下というか。
戦争が終わって15年の1960年。
アメリカ軍に占領支配された国民としての屈辱的な経験が、まだ生きていた頃だ。
他国の支配がどれほど暴力的であるか日本人がよく知っていた頃だったのだ。
いくらアメリカ文化にあこがれても、支配は友好とはまったくちがう。

原発反対は安保条約反対より悲しいかなもっと直接的だ。
ランキンタクシーの歌のとおりである。
放射能・差別しない・区別しない。
安保条約賛成の人の上にも反対の人の上にも放射能は降りつもる。
利権のバケモノの上にも、赤ちゃんの上にも、
「原発どうだっていい」と思う人の上にも、「原発心底反対」の人の上にも、
実は内部被爆の恐怖が迫っているのである。
安保条約締結の結果の成れの果てが今日の日本だといま私は思うが、
そんなことをこうなるまでロクに考えもしなかったのが悔やまれる・・・・。

だらしないイジメの流行より、自殺の流行より、政治的無関心の流行より、
人間不信や鬱病の流行より、ゲームづけより、官僚主義の奴隷でいるより、
軽薄だろうとファッションだろうと、原発反対、抗議デモの流行のほうがずっとマシだ。
この流行は少なくとも私たちを暖かくむすびつける、見知らぬ者同士を。
代々木公園に集まった群集は、組織された人たちというより、
日当をもらって参加する従来の労組の人たちというより、
まずは個人であり友達どうしという感じがする。
私も大学の同級生と、アメリカ人の演出家と、おなじ団地の住人と参加したが、
私たちだってデモに参加したいがための、急ごしらえの個人グループだ。
解散もそれぞれの都合にしたがって、まちまちである。

やっとここまできた、という見方もある。やっと自分の実感で、と。
それはそうだ。それはいいけど。
自由意志が民主主義の基本であってほしいけれど。

旗指物のことだ。
ハタサシモノを否定して、本当にいいのかしら。
なにかのハタのもとに集まって戦うことなんかもういやだと思うことが
そんなに好ましくて当然だろうか。
信頼できる政党がなく、安心できる宗教をもたず、指導力のある組合組織をもたず、
それでいったいどうするのか。
現代史のいったいなにを反省すれば未来が見えるのだろうか。
これは今や深刻な課題である。

自民党は原発問題の主犯であり、民主党は同一従犯である。
政党政治はもうウンザリ。御用組合ひっこめ。官僚よ首を洗って待ってろ。

そうだけれど代わりにどうすればいいのだろう?

この戦いも「どうせ負ける」のか、安保反対闘争のように。
イヤ今回はその抗議デモの巨大さによって革命的変化が始まるのか。
たとえ権力にうわべは負けても、抗議の結果、健康な精神風土が少しでももどって、
国家の濁りを浄化してくれるのか。それをなんとかしてみんなで考えたいものである。
政党にも、各組織にもこの際、厳しく考えてもらいたいものである。