2012年7月31日火曜日

幸福とは


私は親にかかわりのない人生を、考えてみれば演劇から出発させた。
ある夜、家から遠くない都立松沢病院のガタピシする講堂で、精神病院の労働組合が
クリスマス?の演芸会をひらき、その時、地域の合唱団に入っていたお手伝いさんが、
小学生の私をそこに連れて行ってくれたのである。
私の未来の種子はそこで蒔かれた。

だれだか知らないが労働組合の青年が、
(私には恐るべき破滅をまつ老人に見えたけれども)
チェーホフの 『煙草の害について』 を独りで演じたのだった。
あの狭い舞台をかこむ黒いカーテン。暗闇と埃の浮かぶ光線、
役者の身体を覆うゴワゴワとして穴のあいた灰色の外套。
悲劇的で不自然なメーキャップ。
そして、なによりも素人俳優の彼が語った言葉だ!
私は大勢のご近所の観客の中のひとりの子どもでしかなかったが、
自分がかけがえのない、そう在りたかった孤独に完全にブロックされて、
わけのわからないまま、いつまでもいつまでもそこにいたかったのを憶えている。
撃たれたような時間だった。

商業と関係なく、人生があたえる芸術を享受したのは、あの時だけだったかもしれない。
あたえられた作品をまっすぐに、その大きさに見合う素直さで、受け取ったのだ。
とにかく、私にとってはそういうことだった。
それは、言語であり、文学であり、限定された空間にうかぶ人間存在の悲哀だった。
人間というものの説明だった。

私のささやかな幸福は、
そこから、松沢病院の講堂から始められたように思う。
人生のなにかを楽しむこと、理解する楽しみを、小さくてもおぼえたのだ。
一人っ子だった私は、
そこで人が人に、なにごとかを与え、なにごとかを受けとる、
物質のやりとりとはまたべつの、そういう生き方が世界にはあると知ったのだ。
それが劇場ではなく、職業的俳優によってもたらされたのでもなく、
なんの権威ももたない仕掛けのなかで起こったことが、
私らしいことだったのだろう。
私の子どもたちが、ロックバンドであれ、演劇であれ、翻訳であれ、
彼らのなにかを表現しようとする時、親である私が彼らの表現にさがすものは、
売れるか売れないか、ということから自由だから。