2020年5月30日土曜日

コロナ禍・初登校日


昨日は息子の、学校閉鎖以来はじめての登校日だった。
(彼は職場Uターン枠で、職業専門学校に通う4,5人の中の1人である)

いいけど、40人学級で、先生も生徒も全員がマスク着用、
室内の息苦しさがナミ大抵ではなかったという。
若い同級生や中国人やヴェトナム人はみんな働き続けて、昨日を迎えた。
コロナ禍の、無限の神経疲労と緊張の中での労働、できない課題(宿題の論文)。
さらに、これから始まる国家試験を意識した専門学校の通常カリキュラム。
広いとはいえない教室での全員マスク越し連続授業。

やめるヒトが出てくるんじゃないかと息子はいう。
介護の実習を若い高校出たての子が働きながらやる、それだけだって
想像できない現場の事態に直面することだったと思うし、とぐったり憂鬱な顔だ。
「オレなんかトシだから、いいけどね。」

みんなに会えてよかったねといってみた。彼はクラスメイトが好きらしく、
私はいつも、「学校」の話をきかせてもらっては嬉しくて笑っていた。

 「緊張していて、こわばって、疲れて、そういう空気じゃないよ」
コロナについてきちんとした情報をもってるわけじゃないだろうし、
「・・・本当にみんな疲れちゃってるんだよね」 
教師が2人辞めて、校長先生は病気で交代。
 
 高卒の専門学校はこういう環境だけれど、
 小・中・高の子どもの通う学校は、
もう少しゆったりとした配慮のもとで教育が再開されているのだろうか? 
具体的にはどんなだろう?
政府や文科省に、市役所に、教育委員会に、
こんな世の中での教育現場を考える想像力があるのだろうか?
子どもの立場にたとうとする能力があるのだろうか?
日教組はなにを考えてくれているのだろうか。
親たちは?



2020年5月27日水曜日

メモ

   
                                        
まひるに二匹の蝶々がとびたって            
畑のうえで ワルツを踊った        
躍りながら 青空をまっすぐよぎると     
光のうえでとまった                      
                             
それから つれだって            いま絃に傷つきはてて
輝く海のうえをとんでいったが        ----------この寒い明けがたの鶏鳴よ
どの港についたという噂も          おぉ 霜にしみらの鶏鳴よ
きいてはいない
                               中原中也
もし遠くの小鳥がはなしたとしても
エーテルの海で
フリゲート艦や商船にであったとしても、
そのしらせは わたしには届かない

      エミリー・ディキンソン


 

5才がきた日


日曜日は晴れた。よかった。息子のバンド仲間が遊びにきたけれど、5才が1人まざっていて、
私は戦々恐々。前の日から花はかたづけ、絵もとりかえ、
むかし買ったメリーゴーランドのおもちゃだとか、小箱だとか、
小さくて音がする小鳥だとか、いっぱい棚に並べて置いた。
ひとりで面白く遊んでくれないかなーと思って。

いい子だときいていたけど、よかった、そうだった。
男の子なんだけど、用意の鳴り物古道具にすぐ引っかかり、
ソファを独占、自分の世界にたちまち没頭、独り言を言って。

だんだんクボクン(という)の鳥の仮面、クボクンの王冠などと、
クボクンの部屋へ行っては、ライブ用に遥がオランダから送ってきた各種物品で
小型猛烈鳥戦士みたいに扮装、お父さんに写真をとってもらい、
クボクンの部屋は3階だから階段を昇っては降りて、楽しむ。
クボクンは、ひふみクンに付きっきりである。
お父さんはクボクンの小学校の、お母さんは園芸高校の同級生で、
しかもバンド仲間だから、5才としては親類みたいな感覚なんじゃないの。

外あそびも、クボクンとお父さんと思う存分できてよかった。
晩ご飯がおわり、8時になると、ぷっつんと眠たくなり、
「うちに帰りたい っ」「もうぼくのうちに帰るっ」
半泣きだ。
みごとな社交生活よねー、すごい。
機嫌よく7時間くらしちゃったんだもの、5才なのに。

ほかの大人は、
お母さんとガゼルのダンス(帽子屋さん)の加奈子さんと。
気兼ねのないラクで面白い一日だった。
このふたりは料理のプロだから、たのむと、あげたり炒めたりは、
アルコール片手に、涼しい顔ですいすいやってくれちゃう。
トシは私の半分ぐらいだけれど、長い付き合いだし、
雑談自由自在だった。

クボクンですか。
そりゃやっぱり。翌日きょうは寝ているといいましたよね。



2020年5月24日日曜日

「すいとんのひ」復活うれしい!


みっちゃんは、子どものために「家族新聞・すいとんのひ」を300号も発行した。
7年前の2013年8月まで。

孫が描いた、4人の孫の絵と彼らのおじいちゃんとおばあちゃんの絵。
それを表紙と裏表紙にかざった小冊子が、記念の300号だった。
39年間、とも働きをしながら、被爆者とともに生きる町友会も続け、
月一回の「すいとん晩ご飯」を家族行事にし、しかも手書きの家族新聞を発行。 
3人の子どもはどの子も自立。自分はいつもにこにこ、離婚もせず。
つまり家族だってちゃんとやっていたのだ。

なにがどうしてこういう生活、こういう偉業になるのか、
小学校1年からの友達だけど、
私は離婚して3人の子どもを育てるので精一杯、 
なにをやってもバランチャンというか、みっちゃんとは大違いだから、
もうスゴイとかエライとか思うのもくたびれちゃって、
ずーっとそれで、ああでもないこうでもないと言いながら、
西暦2020年を迎えてしまったのである。

思えば2年ぐらいまえから、みっちゃんは不調だった。
ノイローゼみたいに、自分の病気のことばかり気にするようになり、
いつも通り、にこにこして温和な表情ではあるけれど、
みっちゃんは「みっちゃん」の抜け殻みたいになってきた。
私は、この人はこのまま認知症に突入するのかしらと思ったりした。
それが自然というものならば、それだっていいのかもしれない。
だって、みっちゃんは一生がんばってきたんだものね。

ところが、である。

日本はコロナの名を借りた「もしかしたら独裁?」になった。
「もしかしたら戦前とそっくり?」みたいになってきた。
「天皇独裁の代わりに自・公が支えるアベ独裁なの?」みたいになってきた。 

そうなって、やっとわかったことが私にもあった。
コロナという病気にかかる権利が自分たちには無いという、
コロナにかかると石を投げられる、通行人に怒鳴られる、張り紙をされるという、
恐るべき日本人の自縄自縛大協力、そういう報道の大洪水、そういうものに、
・・・にっちもさっちもいかないほど、自分がしばられてみたら。

コロナって、脊椎カリエスなのかという、
みっちゃんの友だちだったからこそ の思い方に私はなった。

みっちゃんが300号も家族新聞を発行したのは、
二度と自分の子どもたちをカリエスの、戦禍の犠牲にしないためだった。
疎開先が無医村だったせいで、薬もなかったせいで、
1943年生まれのみっちゃんは脊椎カリエスになり、
以後、障がい者として、残酷な差別にさらされる身体のヒトになった。
カリエスの特効薬は戦時下でもすでにあって、
障がい者にならないで済んだ人だっていたのにと、
みっちゃんは時々そう言うのだった。

4月に、みっちゃんは入院先の慶応病院呼吸器科からでてくると、
「すいとんのひ」をもう一度だすことにした。

家族が原稿を書き、みっちゃんに元気でいてほしい友だちが 協力して、
みっちゃんも手書きの文章を掲載。
7年ぶりの「すいとんのひ」再開の、たいへんな絶望的四苦八苦、
手書きはパソコン作業に取って代わられ、印刷やは戒厳令で閉店、
自分の頭のぐあいだって心配だったと思うけれど(ははは失礼)、
とうとうみなさんのお手元に届くよう、印刷して仕上げてしまった。
「すいとんのひ」「すいとんのひ」「すいとんのひ」である!

私がものすごくビックリしたのは、
みっちゃんが、認知症の一歩手前みたいにみえたのに、
眉ツバものの都市封鎖のただなかで、自分も苦しみながら文章を書き、
とにもかくにも新聞を編集して発行し、
自分とヒトの未来を切り開いたことである。

一生懸命やってきた人生だと、たぶん、最後の崖っぷちでオットットと、
人間は実力で立ち直るのかもしれない。
家族と友人たちと、自分自身の必死の努力の歴史が、
本間美智子という人を助けたんでしょうね、きっとね。



2020年5月22日金曜日

コロナWatchふんがい読み 


今朝の朝刊(東京新聞)によれば、5月22日
コロナWatch一週間 トピックス…世界の感染者数、500万人を突破。  

世界では、   
感染者総計・・・・4,789,205人
      死者総計・・・・・・・318,789人  
                  (WHOまとめ)

日本では、
感染者数累計・・・16,212人
死者総計・・・・・771人

3頁には「医療現場への風評 感染者への偏見防ぐ報道めざし」
という見出し。
医療従事者の子どもという理由で、
「おたくの子どもがいじめられても対応できない」
と施設から言われたとか、
「まさか病院勤務ではないですよね」と言われたとか。
日本人って、そういうことを言う人種なのね、今や。

人間関係が出来てないんだという歯医者の先生の憤慨を思い出す。
黒川検事長の賭け麻雀辞職だって、人間関係がなかったんでしょうよね。
赤ちゃんの時から、ベンキョーさえできればという教育。
たとえベンキョーができなくても、
お金と権力さえあればずるずる行けると、そういう価値観。

訓告処分だというけれど、訓告って訓という字はさとすという意味なのよ?
教えみちびくという意味なのよ。
森さんは法務大臣で女性ですが、
退職金7千万円を受け取るらしい黒川氏に
なんと訓告したのか発表してもらいたい。
クビにしたから訓告だと思ったら大間違いなのだ。
訓告して処分という日本語を、文字通り行うべきだと私は思う。
隗より始めよと、むかしの人は言ったものだ。

森さんは自分の耳に聞かせるためにも、黒川氏をさとしたらいいのだ。



2020年5月21日木曜日

続・子どもたちのアフガン


5月20日(水)の朝刊によれば、
昨年は、世界で最も多い、推定1900万人の子どもたちが
戦争や災害などで国内避難民(自宅を失う)となったという。

内訳はこうだ。
新たに国内避難民になった子どもは1200万人である。
うち380万人は戦争が原因。
820万人は自然災害が原因だった。

国際児童基金(ユニセフ)の発表である。
子どもの数におとなの難民や死者を加えれば、
にんげん全体の事情はどうなっているのか。

このニュースが掲載されたのは、7面で「親子で学ぶぅ(國際篇)」だった。
ソニー、三菱、シャープ、帝国データバンク、首相の一日、貨幣交換ルート
などなどの記事の片隅に豚さんのイラストつきで。



2020年5月20日水曜日

寒い日

小雨が降って朝から寒い。
電車の中で、風邪を引きそうだと不安になって、
手提げをかきまわしたら救急袋にホッカイロがひとつ。
いったいどれぐらい昔のホッカイロだろう。
レトロなホッカイロでも、あってよかった。
Tシャツに貼り付けるとすこし温かくなってホッとした。

歯医者さんに着いた。ひざ掛けを二枚にしてもらったので、
昨夜遅く寝たせいなんだけど、こんどはぐらっと眠りそうになった。
でも、向こうで赤ちゃんの泣き声がぎゃんぎゃん、わぁわぁ。
ぎゃあぎゃあ、ぎゃーぎゃー。きいてるうちにおかしくなっちゃって、
「あんな泣き声の赤ちゃんにも治療する歯があるのかしらね?」
看護婦さんに聞いたつもりだったのに、
「このごろの子はみんなああいう泣き方ですよ」
ふんがいした声で応えたのは私の歯医者の先生だった!?
向こうの診察室で赤ちゃんの口をこじ開けてるのかと思っていたけど、
先生はずっと、私の頭の向こうでなにかの作業中だったのだ。

いつまでも続く抗議の泣き声は、道路をへだてた豪華マンションの方から。
やっぱり赤ちゃんには歯がないから患者たりえないのね。
すごい泣き声・・・「最近の小さい子どもの泣き声はすごいんですよ、
どの子もそうだ、 みんなああいう声で泣くけど、おかしいよ」
先生は憤慨している。ふたりの大きくなった男の子のお父さんである。
「泣いてるそばで、悪くするとお母さんはスマホなんかやって知らん顔だもん。
お兄ちゃんが自転車乗り回して、それだって勝手にやらせてる。
最初から人間関係ができてないんですよ」
雨がやんだアトの、寒々しい風のなかに親子でせっかく出てきて。

治療が終わるころ友人からメール。
電車が人身事故のため、途中駅で立往生という。神奈川である。
「病気」は病(やまい)と気持ちという字からできている。
きちんとした言葉だと思う。
ウィルスを意識させるだけという日本政府の政策は本当に寒々しい。
自分がみんなにとって温かくて嬉しい存在だとよくわかることが、
私たちの命をまもる基本なのだ。
それなのに子どもたちは人生の初めからスマホに直面してしまう 。
ひとの温かさこそがひとの味方の最たるものだと思う。

うまずたゆまず、そこに努力を集めて、考えながら生きていたい。




青春


むかしのノートを見つけた。
たぶん「チボー家の人々」からの抜粋。
マルタン・デュ・ガール 。

・・・・・
写真といっては一枚もない。昔の思い出は何もないのだ。
自由で一人ぼっちで思い出なんか、よせつけていない!

そして突然地平に向かってひらかれた一つの路、大きな抜け穴。
即ちできもしないような生活から足を抜き、これを投げ捨て、
行きあたりばったりに踏み出し、生きて行くこと!

なにからなにまでやり直す! 
やり直すためには、なにからなにまで忘れてしまう、
そして人にも忘れさせる!


青春のただ中にいる時には、「チボー家の人々」というフランスの大河小説が
青春の書だといわれるわけが私にはよく判らなかった。
今ごろになって、不意に本当にそうだったと思いあたるなんて。

長男が本を読みたいけど見当がつかない、ぼくは遥とちがって10本の指だと
余りが出るぐらいしか本を読んでないから。
そう言って、なにから読み始めたらよいかと相談してくれたことがあった。
高校生だったろうか。パン職人になろうかと考え始めたころだ。

・・・「チボー家の人々」がいいんじゃないの、と考えて言ってみた。
読むのは大変だけどね、すごく長いよ。
買うのはもったいないからと、私の大学時代からの黄色い表紙の古本で、
読書を開始。 彼は2年ぐらいかけて、働きながら学校に行きながら、
主人公のジャックやアントワーヌといっしょに生きた。
うわさ話をするのがおかしかった。ジャックがとか、いまアントワーヌが、
とか話すのだ。ずーっと読んでいた。
ビックリだった。
そういう読み方をするヒトがいるのかと、物語を観ているみたいだった。

読み終わったとき、お祝いしてあげればよかったのに。
仕事、別居、離婚に病気、私の継母の介護。
おしまいまで読むなんてすごいと、ただもう喜んだことしかおぼえていない。



2020年5月17日日曜日

この子たちのアフガン


可愛い子どもの写真集があったので手にとりました。
オーロラ自由アトリエの発行。
カメラマンは川崎けい子さん、
「この子たちのアフガン」というのです。
開いてみたら、息子にあてた川崎さんのサインがあり、
5月18日と日付がしるされていました。
いったい何年の5月18日に、
息子はこういう写真展に行ったのでしょうか。
2001年に発行され、1500円だったこの本。
作者はさいしょにこう書いています。

「アフガニスタンでは20年以上も戦争が続いている。
国内のグループが、自分たちは正しいのだと言って、でも実は
自分たちだけが甘い汁を吸うために、
お互いに殺しあっているのだ。」
・・・この小さな写真集は、
戦火のなかで生きる大勢の小さな子ども達を、
だいじにだいじに写しているんですよね。

それからも内戦はずっと続いて、
中村哲医師が去年12月に殺されました。
この子たちのアフガ二スタンは今だって、
もう30年も戦争を続けているのですよね。
一生難民という子ども。
世界には戦争がいくつあるのかしら。
私は最近、考えてしまうのです。
いったい世界中で、どのくらい人が殺されているのだろうか。
戦争で殺される人類の数って、
コロナで死ぬ人より少ないんだろうか、今では?
・・・なぜコロナのことばかり
こうもわたし達は考えてしまうんだろう。




2020年5月16日土曜日

美人だったのかぁ


茶封筒に入って、遠くから少し哀しい手紙がとどいた。

むかし
家族といっしょに引っ越していく彼女の送別会を私の家でしたとき、
色紙にあんまり、美人だ美人だビジンだとみんなが書いているので、
「この色紙があれば、あなたもしばらく頑張れちゃうわよ」
私はあはははーっと笑っちゃったっけ。
「あなたって美人だったのかぁ、これだけの人が書いてるんだもん!」
なにいってるんですかーと大合唱がおこったからおかしい。
「すごく美人じゃないですかぁ!?」

苦労の多い人で、いつも努力。苦悩を抱えながらしっかり働いて、
愚痴とは無縁、個性的なのに控えめだ。
幼稚園で働いている時も、小さい子を追いかけて走る姿がきれいにきまって、
それでも私には、大きな瞳の下の目の隈ばかりが見えちゃって・・・。
笑うとキラキラおかしそうになるけど、
ああ、このひと遠くに行ってどうなるんだろうか。 
卒園児の母親だった。臨時職員になってもらって私にはありがたい人だった。
幼稚園の中でなにかといざこざの多かった私を、きちんと応援してくれた。
彼女は、職員室でも園庭でも、不思議なほど安定していた。穏やかだった。
考え深いのかしら、小さい時から苦労したのかしら。

そして、遠くへいってしまった。

遠くへ行って、家族を支えて、資格をもっているからまた働いて、
男の子ふたりを育て、去年あったら、やっぱり苦しそうな表情だった。
そこにコロナ国家体制だし、はたらく場所は医療の現場だろうし。

また会いにきてほしい、むかしの朗読なかまに会って笑ってほしいなと思う。


2020年5月15日金曜日

貝殻を4枚ひろった


思いついて海へ行く。
ふつうの日なので、いまはもうだれもいない海、にちがいない。
海は蒼く淡く輝く緑色で、水平線まで何色にも色を変えていた。
輝くような一日で、だれもいない。
森戸海岸で駐車場に車を入れ、すこし歩いて、海岸へ。
子どものころ、自転車ごと落っこちて大怪我をした川が、今も海に流れ込んでいて
なつかしい。海岸にはすこし遊ぶ人もいて、
泳いでいる人、キャッチボールをしている親子。赤ちゃんもいる。
テトラポットで造成されたコンクリートの先で、水平線を遠くながめる外人たち。
・・・砂浜は足の裏にビロードのような感触だった。
東京は、歩く道路がすべて舗装されて、
ふだんはそれに慣れているけれど、自然は本当に懐かしいものだ。
波も、空も、風も、小舟も、すべてが動いて一瞬もとまらない。

私は砂浜で貝殻を4枚だけひろった。
白いのと、灰色のと、淡いピンクと、それからもうひとつも白い貝だった。



2020年5月12日火曜日

CD「いつかはれたひに」PR


「いつかはれたひに」
コロナの騒動が始まって1か月たったころ、5月初旬に完成したCD。
ライフ・イズ、ウォーターバンドの製作、演奏、発売である。
ネットに流れているPR用のビデオ(PV)がすごくいい。
茫然自失、一億総自粛の日々に、予定通り集まって創ってしまったこのCDは、
若い人の複雑な心理や努力が見える聞こえる、そんな感じのものである。
あとになるとニュース映画の音響を映画館の暗闇できくような、
そういう臨場感が貴重だし懐かしいだろう、たぶん。

紹介用の短文を書いた。いつかはれたひについて(下記に記す)である。
これには、勉も応援文を書き、遥は歌詞やカットで関わっている。
うちって家族営業的。
だれかがなにかをする時、手伝えと声がかかればちょっと嬉しいけれど、
家族、とくに母親の場合、もう厄介だ。
図々しいとヒトは思うだろうし、ウソはかけない、ほめたらバカみたい。
さいしょ、長男のCDのために短文を書いたときは、偽名にしたが、
そのうちヤケクソになって、母親だと思われてもしょうがないやと。


「いつかはれたひに」2020/  5・12

信州の信濃追分で受験勉強をしていたとき17ページばかりの詩集をもらった。
・・・・・遠くからとどけられる信りはいつも軽い ここは現実の地点 
鈍重なおれの椅子 ぎらりとだんびらの痛みを引きぬいて・・・
1963年だった。手渡してくれた人はそのまま詩人になったろうか。
以来このフレーズをいつも私はもって生きた。
音楽も詩も、魂に刻みこまれ一生ものになるのは、こういう時があるからだ。
今回このCDをつくったヒトたちは、思いもよらぬ自粛の強制や都市封鎖の中で、
「ぎらりとだんびらの痛みを」引き抜いただろう。
それが現実の地点であり、否応なしのおれの椅子なんだから。
この「いつかはれたひに」は、不幸のただ中で幸福を手探りするものになった。
それは詩や音楽を手放さない人間の自然であり不自然であって、芸術の強靭性の
証明だと思わずにはいられない。
驚くばかりにタイムリーな録音であり完成と発売であったと思う。
おめでとう。よい作品ができたよね。

いつかはれたひについて

Life Is Water Band『希望』PV


べつの息子の友人


外に出ると、とても暑い。
もう5月も半ばになろうとしている。
今日は、市役所に行ったけれど、樹木がほんとに美しい。
空も青いし、風もびゅんびゅん、たえずそよそよ。

昨日は息子の友人が来てくれて、
久しぶりにゆっくり彼の顔をみた。
すがすがしいむかしの絵本にありそうな童顔が 、
次の日の今ごろになってもスカッと眼に浮かぶ。
自分は働いているし、結婚はしてないし、と彼はいった。
子どもがいたらそんなわけにいかないと思うけど、
もし10万円の給付金をもらったら、
ホントだれかのために役立てたいと思いますよ。
俺は今とりあえずカネにこまってないすから。

戸外で肉体労働をする人をみて、
そこにそんな思いや考えが存在するなんて、だれが想像するだろう。
そういう労働の姿かたちが、私は心底うらやましい。
息子が職業を転々としたころ、お世話になった青年で、
ライブハウスにきて、居心地わるそうにしていた人だ。
若いのに、俺はもうトシなんで、とこまった顔だった。
いまは自然の成り行きなのかどうなのか、
労働のかたわら、彼って街の写真の展覧会をひらくのだ!



2020年5月10日日曜日

メグちゃん⑴⑵⑶ その⑶


とはいえメグちゃんは会長さんなので、しょっちゅう幼稚園に来る。
私を見つけると、「園長先生、こんにちはっ」と暖かい声だ。
彼女は、ふたりの男の子の母親で、いかなる場合もわが子の味方という感じ。
それが母親として適切なのか不適切なのか、私にはサッパリわからなかった。
いろいろな意見が耳に入ってくるけど、だいたい幼い子どものありのままが、
噂なんかでパッとわかるわけもない。

私にすごくよく判ったのは、個人としてのメグちゃんの意見だった。
彼女は私を見つけるとそばにやってきて、幼稚園と自分の考え方のちがいを、
憤懣やるかたないとでもいうか、
マヤコフスキー流に、それからでるわそれからでるわ悪口雑言!とでもいうか、
暖かい声音ながら、散々に言いつのり、
「ああ、悪口しかでてこない、疲れちゃった、先生と話してもしょうがないから、
 もう時間だしクラス会に行くわ」
おじゃましましたとか言って、子どもの担任がいる父母会の方に行っちゃう。
漫画ならば、プンプンッと吹き出しがつくところだろう。
こわくはないし、もっともだと思うけど、そうそう納得もできないし。
こんな母親にむかって、園長だからって私になにができよう!?

今になって、私がメグちゃんを懐かしく思い出すのは、
存在の落差というものを彼女が、実際に見せてくれたことだと思う。
私という個人には、個人としての本音を教える。
父母会や学級会では、ヒトの都合を優先する。だから本音は殆どかくす。
そのころは、なにがどうなっているのか、理解できなかったけれど、
今になるといい人だったなと、メグちゃんがなつかしい。

このあいだ会った時、
「友だちなんか、あとでつくれる、幼稚園で友だちができなくても大丈夫よ」
と私が言ってたとメグちゃんが話してくれた。
「友だちなんか100人もいらないのよって言ってましたよ」
    小学校に入ったら友だち100人できるかな。
そういう歌が、あのころは幼稚園の定番大流行。まど・みちお作詞だし。
そうなると、友だちがデキるデキないがわが子の運命の分かれ目と、
母親がみんな、まるでその歌詞の捕虜になったみたいに、悩むのである。

若いママたちに、父母会で演説(園長の職務のひとつは演説だから)、
ただの歌を真に受けちゃだめよと、私はみんなに話した。
よく考えてごらんなさいよ。100人お友達がいるなんて、
八方美人てことじゃないの。そんな人になってもらいたいの?

ひとりひとりで、よく考えなきゃ。私が母親たちに言いたかったことだ。

ちゃんと考えて、それから自分なりに意見をまとめて。
そして子どもの親としての運命はどうなっていくのだろう?
それぞれなのだ、おんなじじゃおもしろくないし、
子どもたちの伸びしろが、気をつけないと制限されてしまう。
たぶん、そんなことも、メグちゃんという会長さんがいたから、
ああ、こういう悩みがじつは大変なんだ、と私は理解したのだろうと思う。
私はすぐ言い返すタイプだけれど、メグちゃんが私の意見に従ってくれた記憶はない。
当然である。人はゆっくり考えるものだ。

幼稚園にいる時は、幼稚園の風土にあわせて。
そこで考えたことは、次の、小学校のシステムに合わせて。
そうやって、自分に出来る限りの未来を、考えながらおちついて創りだす。

それがメグちゃんだった。



2020年5月9日土曜日

メグちゃん⑴⑵⑶ その⑵


メグちゃんがどんな父母会の会長さんだったのか、全然、思い出せない。
園長という仕事にビックリしちゃって、それどころではなかった。

次の日、教務主任から私が言われたのは、園庭の向こうにある門のところで、
一番小さいひよこ組の子どもたちの番人を、ということだった。
「なんの目的で番をするの?」ときくと、迷子にならないようにですと言う。
自分がやればいいじゃないの。

私は人間がデキてないから命令がましい彼女の態度にカッとなったが、
やってみることにした。 そして、一か月をめどにと言われたが、
ずーっとそれを続けることになる。
毎朝、門の外に立って親たちと子どもたちを待っているって、
物語をつくる、みたいな体験だったからだ。

そこは面白い場所で、左右が上がり坂と下り坂。
いろんな人たちが通る。秋は樹木が色彩を変えるし、冬は雪が降るし。
「おーいっ?」
私が手を振ってさけぶと、子どもがピョーンと飛び上がって駆けてくる!
母親たちがにこにこする。短い会話ができる。それがとても嬉しくって、
気がつけば一日の中で一番楽しい時間なのである。
よその母子や散歩のお年寄りや、ここを通る人みんなと話をしよう、と決めた。
ある朝は、ぜんぜん返事をしてくれなかった老紳士が、
「花が咲きましたなあ、みごとですな」
と言ったし、ほかの保育園に行く子が「おはよーっ」と叫んでくれたりしたし。
園庭に一歩入れば難問の山なので、
わかったわよ、とここでシンプルにがんばったのである。

メグちゃんとは、別の入り口から幼稚園に来るらしく、なかなか会えなかった。
私は恩にきているから、いつも彼女の姿を探した。
なにしろ父母の役員会を引き受けてくれた人である。
親しみをこめた声でいつも笑顔。親切だと思ってるから会うとホッとする。
たまに、例えば「新しい園長を歓迎する会」みたいな小集会があって。
彼女が副会長といっしょに、その会をセッティングしたのだろう。
歓迎されるつもりでのんびり、嬉しくて出席したら、
その会は、私に対する過酷な猛口撃に終始した。
そういう人が1人いたので、パプリカと赤唐辛子と黒胡椒 を、
まとめて一度にぶっ掛けられたような具合だった。
メグちゃんはというと、
なんというか、透明人間みたいになって、
だいたい、どこらへんに座っているのかも、よくわからない。
それに彼女がどういう人かも私はほんとうのところまだ知らないわけで。
またしても私は、わかったわよと。
「うーんと・・・」
ニッコリして、私は考えながら言った。
「・・・すごいな、」



2020年5月8日金曜日

メグちゃん⑴⑵⑶ その⑴


メグちゃんは、私にはありがたい人である。
こまると、やってきていつも助けてくれる。親切なのだ。
たとえば、パソコンでブログをひらきたいけど、お手上げだという時。
忙しい人なのに、はらはらするほど長い時間をかけて、
自分も分からなくなると、夫君に電話して、なんとか解決してしまう。

一番有り難い思い出は、私が幼稚園の園長になった直後のものである。
父母会の会長になってくれたのだ。
毎年のことだそうで、いつまで待っても会長が決まらない。
催促してくださいと教務主任にいわれて、
役員を引き受けたママたちが集まっている部屋に行くと、ションボリみんなが、
お弁当をつっついている。下を向いている。
私は65才になっていたから、みんながすごく若く見えた。
「なんで会長さんがきまらないの?」ときくと、
だってえ、と比較的勇気のある人が小さい声で、「責任がぁ・・」という。
私は、責任っていうけど、私と比べてごらんなさいよ、と言った。
朗読を教えていたので、そこに知り合いが何人かいたのだ。
「私なんか、急に園長になったのよ。園長より会長のほうがマシじゃないの」
だってえ、とママたちは小声になってまたしょんぼり。
「ここの幼稚園は理屈がむずかしいから」
「理屈かあ。幼児教育とか発達とか、そうよねー。」
でも、それに共感したから、みんなはここに子どもを入れたんでしょ。
なんて言ったらもっと怖がらせちゃうだろう。
私は若い顔にむかって言ってみた。
「だけど、とりあえず役員会に出席する幼稚園側の代表は私なのよ。
園長って職員代表にして父母会の役員なんでしょ。
理屈はとりあえず私が引き受けるから。
みんなの意見は、私が職員会議で先生たちにちゃんと伝えるし。
それなら怖くないでしょ。」
冗談のつもり、本音はんぶん、
「どっちかっていうと、怖いのはみんなより私のほうよ」
みたところ、みんなはもっと怖くなったみたい。
無理もない、新米の園長がなんと言おうが、いやだー、としか思わないトシだ。
子どもの親になって5年ぐらい。みんなだってまだ女の子みたいなのだ。

その時、
「今日うちを出る時、ぜったい会長なんかになるなよと主人に釘をさされて、
大丈夫よと言ってきたんですけど 」
にこにこ、あかくなった困り顔で発言したのがメグちゃんだった。
よく知らない、たぶんはじめて会う人である。
「だめだ君は絶対引き受けちゃうと主人に言われて、朝、幼稚園に来たんですけど」
けっきょくのところ 、
見ていられなくて、めぐちゃんは会長になってくれた。
会長がきまるとほーっと空気がゆるんで、父母会の人事は以後すらすらと決まった。

私は、園長としての最初の仕事を乗り越えたのである。
ほんとうにうれしかった。
とりあえずの難題を、この日は、涼しい顔で?のりこえたのである。
メグちゃんのおかげだった。



2020年5月7日木曜日

ひっかかる読書


急に、おかしいぞ、今日は6日じゃなくて7日だと気がついた。
そうだとすると歯医者さんに行かなくちゃならない。あと1時間ちょっとで。
なんとか、間に合ったのはよかったんだけど、診察券も保険証も忘れ、
電車の中で読む本もない。
上着を座席に置き忘れたら、乗り換えの時、トントンと肩を叩いて
教えてくれた人がいる。マスクなしの優しそうな人だった。

治療はながくかかり、先生はすごく疲れているみたい。
途中でのどがカラカラになって、咳がでそうになった時、それがよく判った。
先生はサッと私をよけたし、咳はしないでと看護婦さんに言われたし、
そんなことを言われても咳をとめられないし。
やっと、治療を中断してもらって、水をすこし飲んだ。
私はコロナじゃないはずだが、誰にも、自分にだってよくわからない。
そういうことが歯医者さんにはすごいストレスにちがいないと、よく判った。
一般的に、コロナの発熱は自宅で始まり、自宅で感染を自覚するはずと、
どうして自分の都合に合わせて、粗雑な予想をしたのかと思った。

帰宅の途中、いままで休業していた本やさんが開店していた。
そこで「ケーキを切れない非行少年たち」という評判の本を買う。
なんだか、受験用のワークブックを読むような。
語り口がどうにもこうにも、釈然としない。

このごろ、「ピカソの美術館めぐり」という案内書を、毎日ぱらぱらと
読むんだけれど、誰が書いたのかしらないが、その案内の文章の的確さが
本当にすばらしい。人間と人類史についての考察がどれだけ深いのかと、
びっくりするような文章・・・。
新潮社が出したトンボの本のなかの一冊なんだけど。
気がつけば、それは堀田善衛さんの文章だった。

堀田さんの文章は、ピカソという天才について語っている。
「ケーキの切れない非行少年」の著者は非行少年について語っている。
天才も、非行少年も、理解しがたい存在だからこそ、案内の本ができるのだろう。
私は幼稚園児の教育にいっときかかわっていたが、
言語が未発達な幼児だって、小さいなりに、理解しがたい存在なのである。
人間に生まれた人の運命を侮ってはいけない。
存在するものは、だれだって、神秘的で理解しがたい。
書き手の全存在をかけても、つねに適確な説明が難しい。

非行少年の著者の紹介文の短文のひとつは
「1日5分で日本を変える方法 」だ。毎日5分のワークでよいと。
理解という行為は、もともと時間を要求するものなのに。



2020年5月6日水曜日

ゆっくり考える


ワーッとあっちに行き、ワーッとこっちに戻ってくる。

自分が本当はなにをどう考えるべきなのか、それが、ぜんぜん判らない。
コロナだコロナだとなってから、これにはこまった。
いいトシをして、と、私は、なんだか自分のそこにひっかかる。
大人って、そういうもんじゃないだろう、と自分に言う。
私には親が通算6人いたと勘定しているが、そこに祖母を加えて、
たぶん7人の冥界にいるひとたちが、なんとなくそういう信号を私におくって
いるにちがいないと思う。むかし日本はそういう国だったのだ。
 
百家争鳴という熟語は、1956年ごろ、革命中国のスローガンだった。
それが中国でどうイメージを変えたんだかわからないけど、
私自身は、心のなかで、みんながそれぞれに考えた意見を持てることが、
一番よい型の平和なんじゃないの、と思っている。
民主主義の基本は百家争鳴にあると思う。
だからコロナについても、原則として自分なりの見解を持ちたい。
自分の立場から、政治家のいうことやニュースというものを判断してみたい。
鵜呑みはダメよ、という考えである。

ところが、コロナともなると「死ぬぞ、死ぬぞ死ぬぞ」の大合唱なんだから、
しばらくはもう怖くって右往左往するばかりだ。
考えてみれば、私だってみんなだって、いつかは死ぬのに。

コロナのことだって、自然科学のことだって、
頭がすごくよい人は、あっという間に意見をもてる。
ふつうはどうだろうか。
そうはいかない。
私たちの考えは、ゆっくりとしか、やってこない。
ゆっくりって。
具体的にわかりやすくいうと、こんな風にゆっくりだ。

「自粛警察」という言葉が、世上横行しはじめる。
だれかが夜中に張り紙をしたと新聞で読んだ。
「店をしめろ」とか。「やめないと殺す」とか。
そうすると、反射的にあわてふためいてしまう。
もう自分が牢屋に入って看守に見張られているような。
牢屋はわが国、看守は世間一般、ということになるのだ。
ただのニュースなのに、無責任な伝聞なのに。
情けないことだ。

こういう伝聞にすぐただ乗りするって、子どもの親としては最低である。
私は3人の子の親だったので、かならず、そこに行きつく。
脅しに屈してどうする、とまず考えちゃう。親をやらせてもらったからだ。
私は子どもたちに、「脅迫されたらすぐ尻尾を巻いて逃げる人になってね」
とは言わなかった。
それは日本が国家として幸福だった時代の、幸運な親だったからだ。
自分はとんでもなく不幸だと思っていたが、生意気だった。

私は物悲しく、ゆっくり考える。
ニュースをきいてから、何日も何日もかかるけど、自分なりの結論を
作ろうとする。長いこと働いてきた大人じゃないの、と自分に言う。

張り紙を、夜中に起きだして、目的の家に貼りに行く自分を想像する。
目当ての店舗まで歩く私。シャッターにそれを手持ちの接着剤で貼る私。
誰かが通るかもしれないと思ってる私。風に微かな音を立てる夜中のシャッター。
まざまざと思い浮かべる。想像力というやつで。
才能がなくてやめたけど、俳優だったから、
脅し目的で、夜間、外に出て行くニンゲンになってみようとする。

そうやってゆっくり考えてみるとすぐわかる。

怖くって自分じゃそんなことは出来ないのだ。夢にみることだって、こわい。
たいがいの人はそんな夢を見ようものなら「悪夢」と言うだろう。
たぶん、こういう嫌がらせをやるって、特殊な少数者で、
よくわからないけど、それがお金になる人だろうか。
ふつう、人はそんなことはしない、度胸がないからできない。
特殊な少数者と、普通人と。どっちが多いか。
と、そこまで考えると、どうやら人心地がついて、
ワーッとあっちに行き、ワーッとこっちに戻ってくるみたいな、
幼児性から、なんとか抜けだせる。
素朴でも、自分なりの実感に基づいた、畑のニンジンとかトマトのように、
自然で、あるべき意見が持てる。
それが親になったニンゲンの最低の義務だし権利だと思うのですが。




2020年5月5日火曜日

みっちゃんが来た!


おもしろいことに、みっちゃんが急にきた。
あと20分で着くからという。
ビックリ仰天、部屋に風を入れ、テーブルをかたづけ、床を掃除し、
まーなんと3月の末に慶応病院で逢ったきりだったのが、
久しぶりに逢えてうれしいことだった。
淑人さんとみっちゃんと、それから健が途中から加わって、
けっこうのんびり話ができたけれど、あわてて、せっかくなのに、
うどんを食べさせてあげられなかったのが、今ごろ悔やまれる。
最近の私が一番すきな料理がこれなのに。

たっぷりの出し汁(こぶ、煮干し、かつお節)をつくる。
そこに、市販の出汁と粗塩、醤油を入れて、味を調える。
うどんに、たっぷりの大根おろしと子葱のみじん切りをぶっかけて、
できれば柚子もかけて、
あつあつの出し汁で食べる。

これの良いところは、あっさり、さっぱり、しかも風雅なことである。
出し汁さえ作れば、あとは息子が作る、その手順もラクチンだし。
きっとふたりが喜んだはずだと思うのに。

「えーっ、なによ今から来るの、今から20分たつと着くの?!」
みっちゃんのライフワークだった家族新聞「すいとんの日」再発行 のための原稿を
玄関でうけとったら、すぐ帰るから心配しないでと言ってる。
「みっちゃん、この電話、クルマの中から掛けてるの?」
私はおかしくなってきて笑ってしまった。
淑人さんが、みっちゃんを叱らないでくれればいいと思ったけれど、
それはほんとに大丈夫だったからよかった。
ふたりとも、のんびりしていってくれたから安心した。

まーびっくり仰天。
コーヒーをいれたっきり、お菓子も出さず、うどんも作り忘れ、
それが、いまごろ夜中になっても悔やまれる。



2020年5月2日土曜日

夢をみた


私は絵を描いていた。古い木造校舎の職員室みたいなところに、
なぜか家族親類がみんな集合している。
その人たちは大騒ぎして、
みんなが、もうおとなになった弟の世話をやいていた。
私はユメの中では6人も7人もいる兄弟姉妹の真ん中へんの妹で、
そこにいる人たちみんなを、絵に描こうと決心している。
昔の机、むかしのだるまストーブ、昔の本や書類でいっぱいの広い教室。
がたがたと木の床を歩きまわる懐かしい音。
大騒ぎしながら、記念写真みたいに、部屋にいるみんなが2列に並んだ。
とっくに死んだ人もあたりまえのように騒いでいる。
ふしぎなことに、そんな気持ちのまま、やわやわと構図がきまり、
私の描く絵は、すぐに完成した。
ユメなのにみんなが幽霊じゃなくて人間、
大騒ぎしている声は活き活きと大きく、うるさい程。
ところが、エンピツ画のように、子どもの本の挿し絵のように、
私たちみんなが動き回る姿は線画で無色透明なのだ。
そして、みんなはもはや、むかしの子どもではなかった。
兄弟姉妹も親類も、なぜかばらばらと老人になっていて。

私の描いた絵は、思い出すと、ド・ラ・ヨングの「あらしの前・あらしの後」の
挿し絵そのもの。たぶん私はルトという少女の代理だったのだ。

夢の中で私の描く絵は、さっさと出来上がった。
大騒ぎの最中も、私はよく知っているみんなのことをスケッチしていたから。
それに長方形のお弁当箱みたいな、
アルミのフタをかぶせると、なぜか絵はひっくり返って、
集合写真のように調整され、葉書大の絵はがきになった・・・。
魔法のようだった。

それでおしまい。
起きてから子どもの本棚を一生懸命さがしたけれど、
「あらしの前」も「あらしの後」も、見つからない。
傑作だったのに。



人心地


桃塚怪鳥が遊びにきてくれて、彼と息子と私と3人で、
12時まで、なんだかんだなんだかんだとたくさん話す。
ネット上のニュースを彼のスマホでいろいろ見せてもらった。

神経が安定する。来てもらって、ものすごくのびのびした。

今日は午後、「ダディ」 残りぜんぶ読んでしまう。
夕食後、DVDを2本、観る。
「点子ちゃんとアントン」「 新しい人生のはじめ方」
なつかしくて心温まるような物語。
こんな自由で自然な日がいつかふたたび、日本にも、もどるのだろうか。
気がつけば夜中である。
救急車のサイレンが鳴る。メタセコイヤ通りを通り過ぎていく。
   夕方、後藤さんからおさそいの電話があった。
   描きあげた何枚かの絵を見にきて下さいとおっしゃっていた。
    いつものように遠慮がちな温かい声。
   私は後藤さんの亡くなった奥様にとてもお世話になった。
   それでなのか、街中で、電車の中で、ふっと楚子さんの面影をかいま見る。
   ・・・痩せていて、帽子を被っていて。黒っぽい洋服のクリスチャン。

かな縛りにあったような毎日だけれど、それでもやっぱり少しづつ、
人心地がつきはじめてきたと思う。ホッとするような2日間だった。