2020年5月24日日曜日

「すいとんのひ」復活うれしい!


みっちゃんは、子どものために「家族新聞・すいとんのひ」を300号も発行した。
7年前の2013年8月まで。

孫が描いた、4人の孫の絵と彼らのおじいちゃんとおばあちゃんの絵。
それを表紙と裏表紙にかざった小冊子が、記念の300号だった。
39年間、とも働きをしながら、被爆者とともに生きる町友会も続け、
月一回の「すいとん晩ご飯」を家族行事にし、しかも手書きの家族新聞を発行。 
3人の子どもはどの子も自立。自分はいつもにこにこ、離婚もせず。
つまり家族だってちゃんとやっていたのだ。

なにがどうしてこういう生活、こういう偉業になるのか、
小学校1年からの友達だけど、
私は離婚して3人の子どもを育てるので精一杯、 
なにをやってもバランチャンというか、みっちゃんとは大違いだから、
もうスゴイとかエライとか思うのもくたびれちゃって、
ずーっとそれで、ああでもないこうでもないと言いながら、
西暦2020年を迎えてしまったのである。

思えば2年ぐらいまえから、みっちゃんは不調だった。
ノイローゼみたいに、自分の病気のことばかり気にするようになり、
いつも通り、にこにこして温和な表情ではあるけれど、
みっちゃんは「みっちゃん」の抜け殻みたいになってきた。
私は、この人はこのまま認知症に突入するのかしらと思ったりした。
それが自然というものならば、それだっていいのかもしれない。
だって、みっちゃんは一生がんばってきたんだものね。

ところが、である。

日本はコロナの名を借りた「もしかしたら独裁?」になった。
「もしかしたら戦前とそっくり?」みたいになってきた。
「天皇独裁の代わりに自・公が支えるアベ独裁なの?」みたいになってきた。 

そうなって、やっとわかったことが私にもあった。
コロナという病気にかかる権利が自分たちには無いという、
コロナにかかると石を投げられる、通行人に怒鳴られる、張り紙をされるという、
恐るべき日本人の自縄自縛大協力、そういう報道の大洪水、そういうものに、
・・・にっちもさっちもいかないほど、自分がしばられてみたら。

コロナって、脊椎カリエスなのかという、
みっちゃんの友だちだったからこそ の思い方に私はなった。

みっちゃんが300号も家族新聞を発行したのは、
二度と自分の子どもたちをカリエスの、戦禍の犠牲にしないためだった。
疎開先が無医村だったせいで、薬もなかったせいで、
1943年生まれのみっちゃんは脊椎カリエスになり、
以後、障がい者として、残酷な差別にさらされる身体のヒトになった。
カリエスの特効薬は戦時下でもすでにあって、
障がい者にならないで済んだ人だっていたのにと、
みっちゃんは時々そう言うのだった。

4月に、みっちゃんは入院先の慶応病院呼吸器科からでてくると、
「すいとんのひ」をもう一度だすことにした。

家族が原稿を書き、みっちゃんに元気でいてほしい友だちが 協力して、
みっちゃんも手書きの文章を掲載。
7年ぶりの「すいとんのひ」再開の、たいへんな絶望的四苦八苦、
手書きはパソコン作業に取って代わられ、印刷やは戒厳令で閉店、
自分の頭のぐあいだって心配だったと思うけれど(ははは失礼)、
とうとうみなさんのお手元に届くよう、印刷して仕上げてしまった。
「すいとんのひ」「すいとんのひ」「すいとんのひ」である!

私がものすごくビックリしたのは、
みっちゃんが、認知症の一歩手前みたいにみえたのに、
眉ツバものの都市封鎖のただなかで、自分も苦しみながら文章を書き、
とにもかくにも新聞を編集して発行し、
自分とヒトの未来を切り開いたことである。

一生懸命やってきた人生だと、たぶん、最後の崖っぷちでオットットと、
人間は実力で立ち直るのかもしれない。
家族と友人たちと、自分自身の必死の努力の歴史が、
本間美智子という人を助けたんでしょうね、きっとね。