2020年5月10日日曜日

メグちゃん⑴⑵⑶ その⑶


とはいえメグちゃんは会長さんなので、しょっちゅう幼稚園に来る。
私を見つけると、「園長先生、こんにちはっ」と暖かい声だ。
彼女は、ふたりの男の子の母親で、いかなる場合もわが子の味方という感じ。
それが母親として適切なのか不適切なのか、私にはサッパリわからなかった。
いろいろな意見が耳に入ってくるけど、だいたい幼い子どものありのままが、
噂なんかでパッとわかるわけもない。

私にすごくよく判ったのは、個人としてのメグちゃんの意見だった。
彼女は私を見つけるとそばにやってきて、幼稚園と自分の考え方のちがいを、
憤懣やるかたないとでもいうか、
マヤコフスキー流に、それからでるわそれからでるわ悪口雑言!とでもいうか、
暖かい声音ながら、散々に言いつのり、
「ああ、悪口しかでてこない、疲れちゃった、先生と話してもしょうがないから、
 もう時間だしクラス会に行くわ」
おじゃましましたとか言って、子どもの担任がいる父母会の方に行っちゃう。
漫画ならば、プンプンッと吹き出しがつくところだろう。
こわくはないし、もっともだと思うけど、そうそう納得もできないし。
こんな母親にむかって、園長だからって私になにができよう!?

今になって、私がメグちゃんを懐かしく思い出すのは、
存在の落差というものを彼女が、実際に見せてくれたことだと思う。
私という個人には、個人としての本音を教える。
父母会や学級会では、ヒトの都合を優先する。だから本音は殆どかくす。
そのころは、なにがどうなっているのか、理解できなかったけれど、
今になるといい人だったなと、メグちゃんがなつかしい。

このあいだ会った時、
「友だちなんか、あとでつくれる、幼稚園で友だちができなくても大丈夫よ」
と私が言ってたとメグちゃんが話してくれた。
「友だちなんか100人もいらないのよって言ってましたよ」
    小学校に入ったら友だち100人できるかな。
そういう歌が、あのころは幼稚園の定番大流行。まど・みちお作詞だし。
そうなると、友だちがデキるデキないがわが子の運命の分かれ目と、
母親がみんな、まるでその歌詞の捕虜になったみたいに、悩むのである。

若いママたちに、父母会で演説(園長の職務のひとつは演説だから)、
ただの歌を真に受けちゃだめよと、私はみんなに話した。
よく考えてごらんなさいよ。100人お友達がいるなんて、
八方美人てことじゃないの。そんな人になってもらいたいの?

ひとりひとりで、よく考えなきゃ。私が母親たちに言いたかったことだ。

ちゃんと考えて、それから自分なりに意見をまとめて。
そして子どもの親としての運命はどうなっていくのだろう?
それぞれなのだ、おんなじじゃおもしろくないし、
子どもたちの伸びしろが、気をつけないと制限されてしまう。
たぶん、そんなことも、メグちゃんという会長さんがいたから、
ああ、こういう悩みがじつは大変なんだ、と私は理解したのだろうと思う。
私はすぐ言い返すタイプだけれど、メグちゃんが私の意見に従ってくれた記憶はない。
当然である。人はゆっくり考えるものだ。

幼稚園にいる時は、幼稚園の風土にあわせて。
そこで考えたことは、次の、小学校のシステムに合わせて。
そうやって、自分に出来る限りの未来を、考えながらおちついて創りだす。

それがメグちゃんだった。